【日本人にロックはできない】≒【日本人にサッカーはできない】
 日本のサッカー界は長らく【日本人にサッカーはできない】論(日本人サッカー不向き論)に苦悩してきた(例えば次のリンク先を参照)。
  • 参照:後藤健生「鎌田がCLで2戦連続ゴール 20年前を思うと、まさに〈隔世の感〉」(2022年10月28日)https://news.jsports.co.jp/football/article/20190310223956/
 その【日本人にサッカーはできない】論は、ちょうど日本のロック界における【日本人にロックはできない】論に似ている……。

 ……こうした意見を、初代『サッカー批評』編集長の半田雄一氏や、保守系評論家の三浦小太郎氏といった人たちが、どこかでしていた記憶がある。<1>

 コラムニストの堀井憲一郎氏が【日本人にロックはできない】論の歴史的展開について書いていた。
「リズム感」と「敗戦」
 「日本人には先天的にリズム感が欠如しているので、ロックは演奏できない」

 成毛滋(なるも しげる)というギタリストが、雑誌でそう主張しているのを読んだのが1972年の秋のことだった。

 『ニューミュージック・マガジン』という雑誌である。

 読んだ私〔堀井憲一郎〕は中学3年だった。

 強く衝撃を受けた。

 いわば西洋が主流の文化に対して、日本人はどんなことがあっても追いつけることはない、という主張である。

 1970年ごろ、よく耳にした論説のひとつだ。

 西洋と東洋は(ないしは西洋人と日本人は)根本的に違っているので、日本人がこのままどれだけ努力しても、永遠に西洋文化に追いつけない、という言説である。この当時、繰り返し主張されていた。

堀井憲一郎「〈日本人にロックはできない〉…あるギタリストの〈50年前の衝撃発言〉に込められていた思い 1/7」(2023.06.02)https://gendai.media/articles/-/111135
 これを読んで合点がいった。

 【日本人にロックはできない】≒【日本人にサッカーはできない】

 このふたつは極めて親和性の高い、ネガティブで自虐的な日本人論だ。

 引用文中の「ロック」を「サッカー」に置換すると、ここで堀井憲一郎氏が述べていることは、日本のサッカー界で過去さんざん論じられてきたこととほとんど一緒だ。

 「西洋が主流の文化に対して,日本人はどんなことがあっても追いつけることはない」。または「西洋と東洋は(ないしは西洋人と日本人は)根本的に違っているので,日本人がこのままどれだけ努力しても,永遠に西洋文化に追いつけない」

 こうしたかつての日本のロック界の主調音は、かつての日本のサッカー界の主調音とほとんど重なるのである。

日本人はもう民族的にリズム感が悪いから…
 この堀井憲一郎のコラムには、日本のサッカー界にも見覚えのある文言が登場する。
日本人はベースを弾けない?
 その流れで、〔成毛滋は〕「日本にはまともにベースを弾けるやつがいない」ということをとても問題にしていた。

 ベースはリズムを担当するパーツで、バンドのカナメになるのだが、そのことをきちんと理解している日本人がいない、というのが成毛滋の愚痴の根幹にあるようにおもう。

 おそらくいろんな人にベースを弾かせたが、誰もまともに弾けない、という経験があったのだろう。だから、この時期、「日本人はもう民族的にリズム感が悪いから、日本人であるだけでダメだ」というふうに絶望していたようだ。

堀井憲一郎「〈日本人にロックはできない〉…あるギタリストの〈50年前の衝撃発言〉に込められていた思い 4/7」(2023.06.02)https://gendai.media/articles/-/111135?page=4


 「外人〔外国人〕ってのは先天的にそういうリズム感をもってるから、あとは自分のやりたい通りにやればさ、リズムは全員あってるっていう基礎に乗っかって、音楽がドンドンできちゃうわけよ。日本人はそれがないから、各自やりたいことやってたら、デタラメのメチャクチャで、まとまりのないものになっちゃうわけよ(…)どうにもなんないんだよ、民族的な差というものはどうしようもないなと思うね」

 〔成毛滋の〕絶望の深さがうかがわれる。

堀井憲一郎「〈日本人にロックはできない〉…あるギタリストの〈50年前の衝撃発言〉に込められていた思い 5/7」(2023.06.02)https://gendai.media/articles/-/111135?page=5
 同様、日本人には西洋人のような先天的なリズム感が絶望的に欠落しているから【日本人にサッカーはできない】。

 先天的にリズム感が欠落している日本人には、サッカーに相応しい身体運動ができない。[2023年6月4日追記]

 こうした論調は、1980年代、例えば、近江達氏(おうみ すすむ)のような人が展開していた。<2>

 外国から入ってきた文物を日本人はどのように受容するのか? ……という問題において、ロックとサッカーはよく似た苦悩に苛(さいな)まれてきたのである。

キャロル以後の日本のロックの劇的な伸長
 堀井憲一郎氏の語るところでは、1972年秋、成毛滋のくだんの【日本人にロックはできない】論の少し後、矢沢永吉のキャロルが登場したあたりから一気に情況が変わり始める。

 1970年代のダウン・タウン・ブギウギバンドやサザンオールスターズの台頭を経て、1980年代には日本のロックシーンが成熟していった。消費層がきちんと形成されて、ビジネスとして成立するようにもなる。

 日本の年号が「平成」に代わる頃には(1989年~)、ロックは若者だけに限らず広く多くの日本人が聞く音楽になっていった。
その後の日本の激変
 成毛滋は2007年に亡くなっている。

 いまの日本のミュージシャンを見て、「先天的にリズム感のない日本人」についての話をあらためて聞いてみたい気がする。

堀井憲一郎「〈日本人にロックはできない〉…あるギタリストの〈50年前の衝撃発言〉に込められていた思い 7/7」(2023.06.02)https://gendai.media/articles/-/111135?page=7
 堀井憲一郎氏は、コラムをこのように〆ている(日本のポピュラー音楽には詳しくないので,堀井憲一郎氏の評価の是非は当ブログでは問わない)。

Jリーグ以後の日本のサッカーの劇的な伸長
 日本のロックから約20年遅れて、1992年の三浦知良(カズ)らを擁するオフト・ジャパンによるアジア杯制覇、1993年のプロサッカー「Jリーグ」のスタートから日本のサッカーも劇的に変わった。

 Jリーグは、今年2023年で30周年を迎えた。

 サッカー日本代表は、FIFAワールドカップ本大会の「常連国」となり、大会の実績では英国スコットランドを大きく上回っている(そうか! だからグラスゴーのセルチックFCで日本人サッカー選手が大活躍するのか!?)。

 近江達氏は2013年に亡くなっている。

 特に森保ジャパンの2022年カタール・ワールドカップを経た、今の日本のサッカーシーンを見て、【日本人にサッカーはできない】論についての話をあらためて聞いてみたい気がする。<3>






【註】
 <1> 半田雄一氏は、もうちょっとでレコードデビューできるところまで行ったロックミュージシャンだったという「噂」がある。

 <2> 故人、大阪・枚方FC創設者兼指導者、そのサッカー人としての功績については次のリンク先を参照。
  • 参照:牛木素吉郎「近江達さんを歴史に残そう」(2013年02月28日)https://blog.goo.ne.jp/s-ushiki/e/f5b42dc2fc87b37d73dda95914084250
 近江達氏の論考の主な展開の場は、『サッカージャーナル』というミニコミ・サッカー専門誌であった。アマチュア時代の後藤健生氏(サッカージャーナリスト)が編集長を務めていた。

 <3> 近江達氏でなくても、【日本人にサッカーはできない】論をさんざん煽ってきた佐山一郎氏(作家,編集者)や細川周平氏(音楽学者,フランス現代思想家)に、今の日本のサッカーシーンを見てどう思っているのか? ……と、個人的にはあらためて聞いてみたい。