今度は『スポーツ・ジャーナリズム』という本を玉木正之氏は出すようだ
 玉木正之氏の公式サイトの中にある日記「タマキのナンヤラカンヤラ」(http://www.tamakimasayuki.com/nanyara.shtml)を3月~4月分を読んでみると、玉木氏は現在『スポーツ・ジャーナリズム』という本を、今度は書下ろしで執筆中らしい。2021年の内に刊行されるのだろうか?
  •  2021年3月20日(土):終日デスクワーク。ボチボチ『スポーツジャーナリズム論』の書き下ろし作業を始める。スポーツ・ジャーナリストがスポーツ・スポークスマンに堕し始めてますからね。書かねば。……スポーツジャーナリズム論は構成が難しいなぁ……と思いながら過去に書いた原稿を整理。
  •  2021年3月24日(水):終日デスクワーク。『スポーツ・ジャーナリズム』の目次作りをしているとイロイロ電話。明日からの聖火リレーについて……
  •  2021年3月25日(木)つづき:終日デスクワーク『スポーツ・ジャーナリズム』の書き下ろしの構成を考える。
  •  2021年3月27日(土)『スポーツ・ジャーナリズム』の仕事に助走を開始。この一冊を書き出す助走は長かったなあ。大いなる助走(笑)。
  •  2021年3月28日(日):コツコツと『スポーツジャーナリズム論』の作業。公共財産であるスポーツをジャーナリズムを担うべきメディアが支配してることの罪を告発するのが本書の目的ですね。
  •  2021年3月29日(月):終日デスクワーク。日本のスポーツ・ジャーナリズムの歴史を纏め直す。日本のジャーナリズムは大坂夏の陣の米相場への影響を江戸に伝えたことに始まるのですね。
  •  2021年4月1日(木):終日改めてスポーツジャーナリズムについての勉強。日本にジャーナリズムが根付かないのは……
  •  2021年4月2日(金):終日『スポーツ・ジャーナリズム』の単行本についてああでもないこうでもないと悩む。これはけっこう面白い作業ですね。
  •  2021年4月6日(火):終日デスクワーク。スポーツジャーナリズムの原稿をまとめ始める。マスメディア批判の書になるのは仕方ないなぁ……なんて思っていたら某マスメディアの某氏から電話。情報交換の雑談。
 ……玉木正之ウォッチャーとして、これは純粋に楽しみですね(笑)。

史実を歪曲するスポーツライター=玉木正之氏
 スポーツ界で何かあると、マスコミが真っ先にコメントを取りに行く「識者」がスポーツライター・玉木正之氏である。玉木氏はまた、筑波大学や立教大学といったさまざまな大学で「学者」として「スポーツ学」を講じている。それではスポーツの「識者」として玉木氏の内実はどうなのか?

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【玉木正之氏】

 ラグビー史研究家の秋山陽一氏は、玉木正之氏のことを「自分にとって都合のいい結論のために史実を歪曲するスポーツライター」と辛辣に批判している。実際、玉木正之氏の著作や文献からは、疑わしいスポーツ史観やスポーツ文化論がさまざま見られる。

 まあ、玉木正之氏の著作は、『スポーツとは何か』でも、『日本人とスポーツ』でも、『スポーツ解体新書』でも、『スポーツ 体罰 東京オリンピック』でも、『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』でも、たいていそうなのだが、同じようなスポーツ史観やスポーツ文化論の定番ネタが出てくる。みんなデタラメであるが(爆)。

 その定番ネタは5つくらいある。今度の『スポーツ・ジャーナリズム』の本でも3つか4つくらいは登場するのではないだろうか? 玉木正之氏の読者は、賢いスポーツファンになるために、玉木正之説のどこがおかしいのか、間違っているのか、おさらいしてみましょう。

その1:民主主義社会が豊かなスポーツ文化を生む?
 【1】民主政治が発達した古代ギリシャや近代イギリスがそうだったように、非暴力を旨とする民主主義社会だからこそ豊かなスポーツ文化が繁栄する。

 この説のオリジナルはノルベルト・エリアス(イギリスの社会学者,哲学者)であるが、端的に間違い。なぜなら、世界史上、古代ギリシャと近代イギリスだけがスポーツが盛んだったワケではないからである。例えば、民主主義的な普通選挙ではなく非民主主義的な制限選挙の時代だった近代以前、「近世」のイギリスでも「スポーツ」が盛んだったからである。

 そして、この当時の「スポーツ」とは、素手で殴り合うボクシングや防具を付けずに棒で叩き合う棒試合など(人vs人)、闘犬や闘鶏など(動物vs動物)、人が鶏をいたぶる「鶏撃ち」など(人vs動物)。流血や殺生を伴う残酷かつ野蛮で暴力的な娯楽を「スポーツ」と呼んでいたのである(この辺の事情は松井良明著『近代スポーツの誕生』に詳しい)。

 つまり、玉木正之氏が依(よ)るノルベルト・エリアスの説は正しいとは言えない。

その2:もともと日本人はサッカーより野球を好む国民性だった?
 【2】明治初期の日本で野球(ベースボール)の人気がサッカーやラグビー(といったフットボール系の球技)の人気よりも先行した理由は、日本人が集団での戦い(フットボールのようなチームプレー)よりも1対1の対決(野球のおける投手vs打者の対決)を歴史的・文化的にも好んでいたからである。

 この説のオリジナルは宗教学者の中沢新一氏(月刊誌『現代』1988年10月号での発言)で、これを面白いと思った玉木正之氏がさかんに拡散した。しかし、これも端的に間違い。なぜなら、日本で他の球技スポーツに先んじて野球が普及し始めた頃、明治10~20年(1877~1887年)頃の野球のルールは現在のそれとは大きく違っていたからである。

「現代」(講談社)1988年10月号2
【『現代』1988年10月号より】

 当時の野球のルールでは、投手はボールを投げるのではなく、ベルトの下から下手投げで速度の遅い球を抛(ほう)らなければならず、ストライクゾーンは極端に狭く……。投手は打者が打ちやすい球をひたすら抛り続けなければならなかった。明治時代の文人・正岡子規が野球選手だった当時はこのルールでプレーされていたのである。

 とにかく、このルールでは、打者の方が圧倒的に有利で、投手が自身の技量力量で打者を抑え込むということは非常に難しい。だから野球を「投手vs打者の1対1の対決」のスポーツと見なすことも難しい。

 つまり、玉木正之氏が依る中沢新一の説は正しいとは言えない。

その3:アメリカ人にとって野球は「演劇」の代替文化である?
 【3】野球やアメリカンフットボールなどのアメリカ生まれの球技スポーツは、サッカーやラグビーなどイギリス・ヨーロッパ生まれの球技スポーツと違って「中断」が多い。その理由は、開拓時代に劇場を建てられなかったアメリカでは演劇文化に乏しく、アメリカ人が演劇やオペラの代わりにプレーの最中に観客の想像の余地を残す「ドラマ」を求めたからである。

 この説のオリジナルは作家・評論家の虫明亜呂無である(『時さえ忘れて』)。虫明亜呂無は今のなおカリスマ視されるスポーツライターでもあるのだが、彼のことを崇拝・盲信する玉木正之氏は、その考えが絶対的に正しいのだと信じ切って拡散している。しかし、これも端的に間違い。

時さえ忘れて (ちくま文庫)
虫明 亜呂無
筑摩書房
1996-06T


 なぜなら、虫明亜呂無や玉木正之氏は、アメリカ生まれの球技にばかり「中断」があると考えている。だが、イギリス生まれの球技には、イギリス本国や、オーストラリア、インドといった英連邦諸国で人気があるクリケット、すなわち野球の親戚のような球技が存在していることを忘れているからである。この球技には「中断」が頻繁にあるからである。

 また、ハリウッドの映画やブロードウェイのミュージカルなどが盛んなアメリカが、ヨーロッパと比べて演劇文化が乏しいなどとはとても信じられない。イギリス生まれの喜劇俳優・映画俳優チャールズ・チャップリンは、アメリカの演劇や映画に大きな可能性を見出して渡米したはずだ。

 つまり、玉木正之氏が依る虫明亜呂無の説は正しいとは言えない。

その4:日本野球の「応援団」は邪道である?
 【4】日本のプロ野球(NPB)の観客には騒がしく耳障りな「応援団」が存在するけれども、アメリカの大リーグ野球(MLB)の観客には存在しない。この日米の観戦流儀の違いは、アメリカの野球にはきちんとしたルールが定まる近代以前からの長い歴史がある一方で、日本は近代(明治)に入ってから野球を「輸入」したという歴史の違いである。

 この説のオリジナルはスポーツ社会学者・中村敏雄である(『メンバーチェンジの思想』,遺憾ながら当ブログ未読)。中村敏雄もまた、日本のスポーツ論壇でカリスマ視される人である。虫明亜呂無の場合と同様、中村敏雄をこれまた崇拝・盲信する玉木正之氏によると、その詳細はつぎのようなものである。

 アメリカの野球、イギリスのサッカーやラグビー、日本の相撲(大相撲)など、近代以前、近代的なルール制定以前から長い歴史があるスポーツには、見物人の「飛び入りの自由」が許された長い歴史があった。そのために見物人=観客は「応援」などという、選手がそのスポーツを競技することとは直接関係ないパフォーマンスに興じることはない。

 しかし、アメリカンフットボールやバスケットボールなど19世紀末に創られたスポーツや、日本のように近代(明治)に入ってからスポーツ(野球など)が伝来した国のスポーツ文化には、選手と見物人が最初から分かれている。そのため「見るだけの人」の欲求不満が募り、独自のパフォーマンスを行う「応援団」を生みだすのだ。<A>

 何とも不可思議な説だが、これも端的に間違い。人や物や情報の国際的な交流が盛んになって、世界各国のスポーツの観戦文化、応援文化が変容しているからだ。

 前近代、観客の「飛び入り自由」の歴史や文化があるはずのアメリカ大リーグ野球にも、「トマホークチョップ」(アトランタ・ブレーブス)や「ベイビーシャーク」(ワシントン・ナショナルズ)といった、「スポーツの試合で(集団的に)歌を歌ったり声をかけたりして味方のチーム・選手を元気づけること」すなわち「応援」の文化が存在する。

 イギリスのサッカーも、昔はアメリカ大リーグ野球と同様、観客に「応援」の文化は存在しなかったが、欧州大陸や南米のサッカー文化に影響されてサポーター(応援団)の文化が醸成された(デズモンド・モリス『サッカー人間学』)。

サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02T


The Soccer Tribe
Morris, Desmond
Rizzoli Universe Promotional Books
2019-03-26


 大相撲の観戦でも、最近では観客が「朝乃山」や「御嶽海」といった贔屓(ひいき)の力士の四股名がプリントされた手ぬぐいを掲げ、四股名をコールする場面が目立っている。これなどは、サッカーのサポーターやNPBの応援団に影響されたものだろう。

 そこに、各々スポーツ競技の「近代/前近代」の違い、または「飛び入りの自由/不自由」の違いなどというものは存在しない。

 つまり、玉木正之氏が依る中村敏雄の説は正しいとは言えない。

その5:大化の改新のキッカケは「蹴鞠」じゃない?
 【5】古代日本史上の一大事件「大化の改新」(645年)。この改革を主導した中大兄皇子と中臣鎌足が知己を得たのはボールを足で蹴る「蹴鞠」の会であるとされてきた。しかし、これは間違いであり、正しくはフィールドホッケー風の球技「打毬」である。

 この逸話を記した『日本書紀』皇極天皇紀には、中大兄皇子と中臣鎌足が邂逅した古代日本の球技は「打毱」の会と表記されている。この「打毱」は、マリ(ボール)と一緒に靴が脱げていったと記述にあることから、従来は「蹴鞠」であると思われてきた。

 ただし、これには異議があり「打毱」はスティックでボールを打つフィールドホッケー風の「打毬」または「毬杖」と呼ばれる球技ではないかと唱える人もいる。この異論の存在自体は間違いではない。この「打毱」は訓詁注釈によって解釈に違いがあり、岩波文庫版の『日本書紀』では蹴鞠、小学館版の『日本書紀』では打毬と解説している。どちらが正しいか、あくまで学問的には未決着である。

日本書紀 (4) (ワイド版岩波文庫 (233))
坂本 太郎
岩波書店
2003-10-16




 玉木正之氏が疑わしいのは、学問的には判別されていない「打毱」の正体を、彼自身の独善的な思い込みと都合のいい結論のために蹴鞠説を退け、打毬=フィールドホッケー風球技説の方が絶対的に正しいと思って拡散していることだ。

 玉木氏の知名度から彼の主張を信じてしまいそうだが、その説は正しいとは言えない。

玉木正之氏のスポーツ文化論はすべてデタラメである
 俗耳には、玉木正之流のスポーツ史観やスポーツ文化論は面白い。しかし、それは端的に言って、事実(史実)や実証という観点からほとんど疑わしい。

 玉木正之氏が問題なのは、ここであげつらってきた数々の間違った珍説が、現在の日本におけるスポーツの在り方、中でも体罰や歪な上下関係などといった好ましからざる風潮と本質主義的に結びついていると喧伝し、批判してきたことだ。<1>

 しかし、日本のスポーツ界が、さまざま問題を抱えているからと言って、間違った見解から批判しても、かえって間違ったことが起こるばかりである。実際、日本のスポーツ界はそうした混乱が何度か起こっているし、玉木正之氏はその混乱に度々かかわってきた。

 例えば、玉木正之氏と親交のあった平尾誠二氏は、玉木氏に影響されたおかげで日本ラグビーに悪い効果を及ぼしている(1995年ラグビーW杯での日本代表の大惨敗など)。

ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12T


 だから、ラグビー史研究家の秋山陽一氏は玉木正之氏のことを「自分にとって都合のいい結論のために史実を歪曲するスポーツライター」と辛辣に批判したのである。

(了)





【註】
 <1> あるいは、玉木正之氏は日本野球の「応援団」がとにかく嫌いなのであるが、その個人的な好悪を、スポーツ文化としての正否として正当化するための疑似学問的な解答を与えてくれるのが、そのスポーツ史観やスポーツ文化論である。

 *・゜゚・*:.。..。.:*・゜

 <A> 当エントリー中には、次のような記述があります……。

 スポーツには、アメリカ野球(MLB)、ラグビーフットボール、大相撲など「応援団が存在しないスポーツ」と、日本野球(NPBほか)、バスケットボール、アメリカンフットボールなど「応援団が存在するスポーツ」に大別される。

 それは、「前近代」から存在し、長い歴史を持つスポーツ、すなわちアメリカ野球(MLB)、ラグビーフットボール、大相撲などと、「近代」以後に外来文化として輸入された、あるいは人為的に作られたスポーツ、すなわち日本野球(NPBほか)、バスケットボール、アメリカンフットボールなどとの違いである。

 「前近代」から存在し、長い歴史を持つスポーツは、競技者と見物人の境目は曖昧であり、見物人(観客)には「飛び入りの自由」が許された長い歴史があった。そうしたスポーツでは、見物人が「応援」などという、競技者がそのスポーツを競技することとは直接関係ないパフォーマンスに興じることはない。

 だが、「近代」以後の歴史しかない新しいスポーツは、競技者と見物人(観客)が最初から区別されている。そのため「見るだけの人」(観客)の欲求不満が募り、独自のパフォーマンス(応援)を行う「応援団」を生み出したのだ。

 ……というものです。この説は、玉木正之氏(スポーツライター)の持説として、折に触れて主張してきたものです。

 当ブログは、この「説」のさらなるオリジナルは中村敏雄氏(スポーツ学者,教育学者,故人)の『メンバーチェンジの思想~ルールはなぜ変わるか』だと紹介してきました。

 しかし、当ブログは2024年2月になって初めて『メンバーチェンジの思想』を読みました。確認できたのは、中村敏雄氏が言及したのは「前近代のスポーツには競技者と見物人の区別が曖昧で見物人には〈飛び入りの自由〉があった.だが、スポーツが近代化されると両者は人工的に区別されるようになってしまった」というくだりだけです。

 そこから「応援団が存在しないスポーツ/応援団が存在するスポーツ」の比較文化論に発展させたのは、あくまで玉木正之氏のオリジナルです。

 結果として間違ったことを書いてしまいました。ここにお詫びし、訂正をいたします。

 まぁ、当ブログの読解力に問題があるのは当然だが、玉木正之氏も曖昧な書き方をするんですよね……。

 (2024年02月25日追記)