スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:W杯

 2023年ラグビーワールドカップ、日本代表はイングランド、アルゼンチンに「善戦・健闘」したが敗戦。1次リーグで敗退して、残念ながら2大会連続してのベスト8は成らなかった。

 今後、日本ラグビーに必要なことは何か?

 「選手たちはこれ以上頑張れない.それぐらい頑張っていたので,仕組み作りを変える必要がある」(五郎丸歩氏,元ラグビー日本代表)
  • 参照:日刊スポーツ「[ラグビー]五郎丸歩氏〈仕組み作りを変える必要がある〉~強化プランの根幹の変更を提唱」(2023年10月8日)https://www.nikkansports.com/sports/rugby/wc2023/news/202310080001762.html
 では、その変えるべき「仕組み」とは何か?

 「全国大学選手権という大会のことだけでなく,大学生年代の強化の枠組みをどう見直すかを議論しています」「大学生がレベルの高い試合をできていないという認識は強く持っています.来季に向けて速やかに改善したい」(岩渕健輔・日本ラグビーフットボール協会専務理事,元ラグビー日本代表)
  • 参照:大友信彦「日本ラグビー界の大きな課題『大学生の試合の少なさ』~W杯再招致のためにも…協会には実効性のある改革を望みたい」(2023年11月9日)https://www.chunichi.co.jp/article/804115
 こういう話を聞くと「おッ! 分裂していた日本の大学ラグビー界もいよいよ統合されるのかな?」などと早合点してしまう。

 その昔、関東大学ラグビーは伝統校と新興校が「対抗戦思想」に基づいた、試合を組む/組まないというマッチメイクの問題を巡って対立し、伝統校を中心とした対抗戦グループ(慶應義塾大学,早稲田大学,明治大学など)と、新興校を中心としたリーグ戦グループ(法政大学、中央大学、日本大学など)に分裂した。
  • 参照:昔のラグビー~慶應義塾大学vs帝京大学の公式戦が無かった〈対抗戦思想への拘泥②〉(2023年10月11日)https://gazinsai.blog.jp/archives/50245564.html
 それを、日本ラグビーのレベルアップのために両グループを再度統合する(場合によっては京都産業大学,天理大学,関西学院大学などの関西の有力大学も含めて統合し全国リーグとする)となると、感情的な反発(特に早・慶・明の伝統校とそのファン)が大きく、岩渕健輔専務理事も現時点でハッキリ明言するわけにはいかない。

 しかし、今回のワールドカップで指摘された日本代表の層の薄さ=若手の成長の遅れを解消する。すなわち大学ラグビーでのレベルの高い試合を増やすとなると、必然的にそうなるしかない。

 日本にあるような「大学ラグビー」は海外の主要ラグビー国には存在しない。そうした海外のラグビー強豪国で才能ある選手は「大人」の選手に混じって二十歳そこそこで代表と国際試合にデビューし、中にはその二十歳そこそこでキャプテンまで任される選手がいる。

 だから、日本の「大学ラグビー」は、例えば、ジョン・カーワン(ニュージーランド)やエディー・ジョーンズ(オーストラリア)といった外国出身の歴代のラグビー日本代表ヘッドコーチなどから、厳しい批判にさらされてきた。

 そもそも大学ラグビーいらない論。または関東大学ラグビーの対抗戦グループとリーグ戦グループを統合しろという意見。

 そして、毎年11月23日(祝日)に行われる早慶戦(早稲田大学vs慶應義塾大学)、毎年12月第1日曜日に行われる早明戦(早稲田大学vs明治大学)の日程を前倒し、11月中にレギュラーシーズンを終わらせれば、日本ラグビーの強化にもっと時間を割けるのに……といった意見などなど。

 しかし、日本のラグビー環境は海外のラグビー国と違った固有の事情がある。多くの選手は高校に入ってからラグビーを始める。小学生のラグビースクールで多少の経験があっても、中学校にラグビー部がない学校がほとんどだから、選手の経験値に断絶ができる。

 したがって、日本の場合、少年少女のラグビーと大人のラグビーと間の中間的なカテゴリー、すなわち「大学ラグビー」には存在意義があるのだという意見が一方である。これが、今回、岩渕健輔専務理事のコメントを紹介したラグビージャーナリスト・大友信彦氏の見解である(昔の本に書いてあった.今でもそう考えているかもしれない)。

 その一方で大友信彦氏は、日本ラグビーのためにも関東大学ラグビーの対抗戦グループとリーグ戦グループは統合するべき……という意見の持ち主であった。

 一方、「対抗戦思想」の原理主義者であり、癖のあるラグビー評論家(反サッカー主義者としての悪名も高い)中尾亘孝は絶対反対するだろうし、生島淳氏も「日本ラグビーの裾野が狭くなる」という理由(統合してしまうと,ごく少数の大学しかラグビー強化に力を入れなくなるという意味)で両グループの統合には反対の立場であった。

 だが、日本ラグビーの人気が早・慶・明・同(同志社大学)の大学ラグビー中心から、日本代表の国際試合に完全に移っていることを鑑みれば、この「流れ」は変えられないのかもしれない。

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[文中敬称略]

「ブルームフォンテーンの悪夢」と平尾誠二
 1995年6月、第3回ラグビーワールドカップ(南アフリカで開催)で日本ラグビーは奈落の底に突き落とされた。

 日本代表(ジャパン)は、1次リーグのウェールズ戦(10-57)とアイルランド戦(28-50)で大敗。第3戦のニュージーランド(オールブラックス)戦では17-145(!)という前代未聞の大惨敗を喫する。

 国際試合でも100失点というのはたまにあるが、前後半80分の間にさらに45失点を重ねることは史上空前にして絶後、世界的な恥辱である。この試合は、開催都市の名を冠して「ブルームフォンテーンの悪夢」と俗称される。

ブルームフォンテーンの悪夢(RWC1995 日本vsニュージーランド)
ブルームフォンテーンの悪夢(RWC1995 日本vsニュージーランド)

 すでに低迷気味であった日本のラグビー人気の凋落は決定的になった。日本ラグビーは二度と立ち直れないかのようなダメージを受けたのである。

 そして、この大惨敗の「戦犯」のひとりとして徹底的に批判されたのが平尾誠二(伏見工業高校―同志社大学―神戸製鋼)だった。当時のジャパンは、チームのガバナンスが欠落していた。小藪修は監督としての資質が疑問視され、戦術的な完成度は低く、選手のモラルはまったく低下しており……という状況だった。

 二日酔いで嘔吐しながら練習している選手までいた。

 これを立て直すべく選手兼「事実上の監督」として、平尾誠二は大会2か月前に日本代表に電撃復帰した。「事実上の監督」の本来の役割は、こうした危機にブレーキをかけ、チームを再び戦う集団へと生まれ変わらせることだ。

 ところが、平尾誠二はチーム内の風紀紊乱を正そうとはしなかった。それどころか、ワールドカップでは練習も中途半端に他の若い選手たちと一緒にカジノやゴルフで遊興三昧。

 なぜこの時、平尾誠二はジャパンに手を下さなかったのか? 彼の「監督」責任もさることながら、ジャパンとしてラガーマンとして当事者感覚を欠いていた彼の発言、行動、体質、性格、立ち振る舞い、悲壮感のなさも大惨敗を招来した一因だとして、コアなラグビージャーナリズムからは厳しく批判されている。

ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12T


 もうひとつ、平尾誠二は「ブルームフォンテーンの悪夢」の試合には出場していない。

 最初のウェールズ戦、次のアイルランド戦には出場したが敗れ、ジャパンの1次リーグ敗退が決まると自分の役目はもう終わりとばかりに、よりによって平尾誠二は世界最強チームであるオールブラックスとの試合を回避し、高みの見物を決め込んだ。それが歴史に残る大惨敗だったわけである。

 いわば「敵前逃亡」であるが、この一件も平尾誠二が批判される理由になっている。

 こんにち、よほど盲目的なファンでもない限り、平尾誠二の評価はコアなラグビーファンの間では高くない。

今なら大炎上必至の平尾誠二
 ……にもかかわらず、朝日新聞社の週刊誌「アエラ」1996年1月22日号、同誌の連載ノンフィクション「現代の肖像」に平尾誠二が登場した(えッ!? あの「ブルームフォンテーンの悪夢」からまだ半年余り,あの大惨敗の〈戦犯〉であるはずの平尾誠二が,何でそんな企画に登場するんや?)。<1>

 記事の執筆は、ノンフィクション作家の後藤正治。平尾誠二の大学ラグビー時代の師にして、同志社大学のラグビー指導者・岡仁詩の評伝『ラグビー・ロマン』を上梓している。関西の同志社ラグビー贔屓である。

 後藤正治「現代の肖像~平尾誠二」では「ブルームフォンテーンの悪夢」への言及があるのだが、これが酷い。2023年の今なら大炎上必至のトンデモ発言である。
 1995年6月。日本ラグビーは衝撃を受けた。南アフリカで開かれた、第3回ワールドカップにおいて、敗戦は予想されたものの、ニュージーランドに145点をあげられて大敗したのだ。対アイルランド戦において、最後となるであろう桜のジャージーを着てトライをあげた平尾は、この屈辱の試合を観客席から見ていた。悔しさはなかったという。

 南アに向かう前、〔平尾誠二は〕あらゆるイメージを膨らませたが「勝てる要素がひとつもない」というのが結論だった。岡〔仁詩〕に自分の結論をぶつけた。「お前のいう通りや.しゃあないやないか」と恩師はいった。その点でさばさばしていたのである。

 いま〔1996年1月〕も、ニュージーランド、南アなどのラグビー一流国と五分に戦うことは「テーマ自体にならない」と言い切る。それは、アジア人としての「遺伝子の問題」にまで遡〔さかのぼ〕らねばならないからだ。平尾は、テーマにならないことを抱え込んだことは一度もなかった。だから仮題は、まず〈一・五流国〉に立ち向かえるための強化策だろうという。

後藤正治「現代の肖像~平尾誠二」より

後藤正治「現代の肖像~平尾誠二」アエラ1996年1月22日号56頁
平尾誠二のトンデモ発言の頁(クリックすると拡大します)
 なんじゃ、こりゃ。

 繰り返すが、これは酷い。平尾誠二も、岡仁詩も、2023年の今なら大炎上必至のトンデモ発言である。そして幾重にも間違っている。

ラグビー精神を理解していない(?)平尾誠二
 平尾誠二は南アフリカのラグビーワールドカップに際して「勝てる要素がひとつもない」と結論付けていた、本人はさばさばしていたというが……。

 まず、サッカーなどと比べても、番狂わせが起こりにくいと言われるラグビーだから(しかも対戦相手がオールブラックスだから)、勝ち負けそれ自体はひとまず措(お)く。問題はラグビー日本代表がいかに戦ったか、いかにプレーしたか……である。

 ラグビーの世界では、とても敵わない対戦相手であっても、それでも勝利を追求し、全力でプレーし、そのチームの(ワールドカップならばその国の)存在感を全面的にアピールした敗者には、ラグビーファンやラグビー関係者からそれなりの敬意が払われる。

 その姿勢を放棄した平尾誠二の「アエラ」誌での発言は、そもそものラグビー精神に悖(もと)るものだ。

 あの大惨敗に際しても「悔しさはなかった」などと、当事者感覚を欠いた他人事のような発言をしている。これが平尾誠二一流のエエカッコシイの強がりなのだとしても、テメエはオールブラックスから「敵前逃亡」したくせに何を無責任なことを言っているのか。

 早稲田大学のラグビー指導者で、ラグビー日本代表監督を務めた大西鐵之祐に「監督は評論家(批評家)であってはならない」という格言があるらしい(中尾亘孝の著作『おいしいラグビーのいただきかた』と『15人のハーフ・バックス』に出てくる)。

おいしいラグビーのいただきかた―時代はもうスポーツ・グルメ
ラグビー・ウォッチング・クラブ
徳間書店
1989-10T


 平尾誠二の冷え冷えとした発言は、当事者ではなくまさしく「評論家(批評家)」のものだ。ジャパンの選手兼「事実上の監督」の発言ではない。

「ブライトンの奇跡」と平尾誠二
 平尾誠二は、「ブルームフォンテーンの悪夢」に関して次のような発言もしている。
 今日は誰が出てもいっしょ。僕〔平尾誠二〕が出たって、スコアはこんなもんでしょ。この相手に勝とうと思ったら、4年や10年ではなく、それこそ40年はかかると思う。

 アイルランドやウェールズにしたって、僕がいくらアイルランドに勝てるかもしれないと息巻いたって、彼らはニュージーランドから100点もとられない。やっぱり実力が違いますよ。これはもう、日本ラグビーの体質そのものを変えないと太刀打ちできないね。

永田洋光『ラグビー従軍戦記』78頁

ラグビー従軍戦記
永田 洋光
双葉社
2000-06T


 「誰が出てもいっしょ」と言うのであれば、平尾誠二はあのニュージーランド戦に出場するべきであった。他の選手と痛みを分かち合うべきであった。「敵前逃亡」した平尾誠二は、あの試合に出場した梶原宏之、村田亙、吉田義人……といった有為の、そして有志の日本代表ラガーマンだけに深い心の傷を負わせた。やはり、これは酷い。

 それはともかく、平尾誠二の「予言」は外れた。ジャパンが名誉を挽回するのに40年かからなかった。あの大惨敗からちょうど半分の20年後、2015年のラグビーワールドカップ(イングランドで開催)で、オールブラックスに匹敵する世界クラスの強豪=南アフリカ(スプリングボクス)に勝ってしまったからである(ブライトンの奇跡)。

 一説によると、この時、テレビのあるラグビー番組に出演した平尾誠二は、どうにも居心地がよくなさそうな、所在なげな態度だったらしい。

 「ブライトンの奇跡」のジャパンには外国出身選手が多いという批判もあるようだ。だが、ジャパンに外国出身選手を多数起用することをそもそも始めたのは、1999年のラグビーワールドカップ(ウェールズほかで開催)に出場した平尾誠二のラグビー日本代表(平尾ジャパン)からである(その選手の中にはジェイミー・ジョセフとかがいる)。

 ……なので、この批判は当たらない。

日本ラグビー終生のテーマと平尾誠二
 後藤正治の「現代の肖像~平尾誠二」には「平尾〔誠二〕は,テーマにならないことを抱え込んだことは一度もなかった」などという文言が出てくるが、これもおかしい。

 日本でラグビーをやる以上(サッカーなどでも同様だが)、自分たちより強い敵(特に外国の列強)にいかにして勝つかというテーマは、終生ついてまわるはずだ。それを放擲(ほうてき)したラグビーは、もはやラグビーではない。

 特に、前出の大西鐵之祐なんかは、ず~~~っと死ぬまでそれを考え続けてきた。

 1987年、オールブラックスが初来日した。事前の予想通り、日本代表はじめ日本のラグビーチームはオールブラックスにさんざん蹂躙されたわけだが、その時の大西鐵之祐のコメントが、彼の評伝『知と熱』に伝わっている。
 いくらオールブラックスが強力とはいえ、使ってくる戦法は四つしかないんだ。なのに、やられすぎだ。〔日本の〕指導者はラグビーを研究してないんじゃないか。

藤島大『知と熱』プロローグよ

 『知と熱』の著者であるスポーツライター・藤島大は、同書の中で「〈この人は本気でオールブラックスに勝とうとしている〉.刹那,嘘ではなく背筋に電気が走ったのを覚えている」(同書プロローグより)と書いている。

 繰り返すが、日本でラグビーをやる以上は、これだけの気概が必要なのである。しかし、平尾誠二も、その彼に多大な影響を与えた岡仁詩も、この点に関しては全く駄目である。

 中尾亘孝は、岡仁詩のラグビー体質を「外国の目新しい方法論を取り入れることには熱心でしたが,ついに本物〔海外のラグビー強豪国〕に勝とうという発想を抱かなかった人です」(『ラグビー黒書』151頁)と酷評。

 その弟子である平尾誠二本人のラグビー体質についても「自分より弱いものには勝てても,強いものには勝てない」(同書155頁)、「平成〔1989~2019年〕の翻訳主義,鹿鳴館派は〈外国に追いつき追いこせ〉なんてきつい目標は立てません.せめて〈外国並み〉で充分満足なのです」(同書157頁)と非常に手厳しい。

中尾亘孝2
中尾亘孝(本当の学歴は早稲田大学中退らしい)

 中尾亘孝は癖の強いラグビー評論家であり、反サッカー主義者としての悪名も高いが、「ブルームフォンテーンの悪夢」を見る限り、そのような評価を下されても致し方がない。

 2023年のラグビーワールドカップ(フランスで開催)、日本代表の出身校(出身大学)は上から帝京大学の8人(中退した李承信を含む)、次いで早稲田大学の6人。対して同志社大学は0人。

 何のかんの言っても、今なお早稲田大学が日本ラグビー界でひとかどの地位を保っている一方、同志社大学の凋落は著しい。その原因は、やはり平尾誠二や岡仁詩に代表される同志社ラグビーの気風や体質にあるのではないかと考えてしまう。

実は人望が無かった(?)平尾誠二
 「平尾誠二」とは何だったのか? サッカーファン向けに説明すると……。

 1997年のサッカー日本代表、監督・加茂周のアシスタントコーチが岡田武史ではなく平尾誠二だったら、あの「ジョホールバルの歓喜」は無かった。平尾誠二のパーソナリティでは、あの崖っぷちの状態からチームび立て直しが出来ない。

勝利のチームメイク
岡田 武史
日経BPマーケティング(日本経済新聞出版
2008-03-01


 2022年のサッカー日本代表、監督が森保一ではなく平尾誠二だったら、あの「ドーハの歓喜」(ドーハの奇跡)はなかった。平尾誠二のように「カタールに向かう前,森保一は,あらゆるイメージを膨らませたが〈勝てる要素がひとつもない〉というのが結論だった」などと独り合点していたら、あの「ドーハの歓喜」(ドーハの奇跡)はなかったのである。

 岡田武史、森保一……と来て、平尾誠二には「日本人フットボーラー」としての資質や心性にどこか問題があったのだろうか(その辺の考察は,中尾亘孝の『ラグビー黒書』に詳しい)。

 平尾誠二とは被取材者と取材者を超えた関係だった、スポーツライターの玉木正之の公式サイトに意外なことが書いてあった。
 2016年10月20日、ミスター・ラグビーと呼ばれた平尾誠二さんが53歳という若さで亡くなった。死因は癌。

 多くの人が彼の死を悼んだが、その悼む声の多さに私は少々違和感を憶えた。それは彼が現役選手だった時代、あるいは日本代表チームの監督時代、彼に協力的だったラグビー関係者があまりに少なかったからだ。

玉木正之「天才ラガーマン,ミスター・ラグビー平尾誠二氏の早すぎる死を悼む~戦い続けたラグビー人生」(2017-01-25)http://www.tamakimasayuki.com/sport/bn_274.htm
 ひょっとすると日本ラグビー界で平尾誠二は人望が無かったのだろうか? その理由はやはり「ブルームフォンテーンの悪夢」にあったのだろうか? ……などと、つい意地の悪い邪推をしてしまうのであった。





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[文中敬称略]

中尾亘孝が平尾誠二に関したもどかしさ
 ラグビーワールドカップ2023フランス大会……なので、中尾亘孝(なかお・のぶたか)という何かと癖の強い(反サッカー主義者としての悪名も高い)ラグビー評論家の『おいしいラグビーのいただきかた』(1989年)、『15人のハーフ・バックス』(1991年)、『ラグビー黒書』(1995年)の3冊、過去の著作をパラパラと読み直してみた。

中尾亘孝2
中尾亘孝(本当の学歴は早稲田大学中退らしい)

おいしいラグビーのいただきかた―時代はもうスポーツ・グルメ
ラグビー・ウォッチング・クラブ
徳間書店
1989-10T


ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12T


 昔、ラグビー日本代表(ジャパン)の監督は早稲田大学OBと同志社大学OBとが交代で務めていた。学閥間のタライ回し人事である。

 関東の早稲田と関西の同志社、「接近・展開・連続」理論の早稲田と自由奔放なラグビーの同志社、悲壮感すら感じさせる早稲田とラグビーをエンジョイする同志社、大西鐵之祐(おおにし・てつのすけ)の早稲田と岡仁詩(おか・ひとし)の同志社……等々、両者のラグビーに関する気風は大きく違う。

 中尾亘孝は(中退らしいが)早稲田大学出身であり、早稲田ラグビー贔屓であり、早稲田ラグビーの指導者・大西鐵之祐の信奉者である。その中尾亘孝の、同志社ラグビーへ、同志社ラグビーの指導者・岡仁詩へ、同志社ラグビー部のOBで「ミスターラグビー」と呼ばれた平尾誠二(ひらお・せいじ)へ感じた「もどかしさ」がなかなか面白く読める。

NHK「全国大学ラグビー選手権」名勝負
同志社大学時代の平尾誠二

平尾誠二は「大西哲学」を理解したから勝てた?
 1988年-1989年シーズンに活躍した神戸製鋼(平尾誠二の所属クラブ)と大東文化大学、明治大学に代表される「自由奔放なラグビー」「楽しいラグビー」がさんざん持てはやされた。それに対して早稲田大学や慶應義塾大学の「管理ラグビー」「悲壮感あふれるラグビー」が、どことなく否定的なニュアンスで引き合いに出された。

 しかし、自分には実に安易で不当な比較対照としか考えられない……と中尾亘孝は言う。

 林敏之(はやし・としゆき)、大八木淳史(おおやぎ・あつし)、平尾誠二と、黄金期の同志社大学出身で日本代表の選手を擁した神戸製鋼ラグビー部は、「楽しいラグビー」「観て面白いラグビー」をモットーにしていた。才能ある選手を揃えた神戸製鋼は、毎回、全国社会人ラグビーフットボール大会の優勝候補だった。だが、不思議と勝てなかった。
 神鋼〔神戸製鋼〕も心得違いをしていました。だから3シーズン社会人日本一を逃したのです。そこで平尾誠二(同志社大学―神戸製鋼)キャプテンは「勝つラグビー」を第一目標にしたのです。結果はご承知の通りです〔大東文化大学を破り初の日本選手権優勝〕。

 黄金才能集団が正しい目標を持てば勝つのは当たり前です。「ゲーム自体の中ではむしろ勝利は目的というべきもの」(大西鐵之祐)という大西哲学を〔平尾誠二は〕やっと理解したようです。だから宿沢広朗〔しゅくざわ・ひろあき〕(早稲田大学―住友銀行)監督の率いるジャパン〔日本代表〕でも活躍することができたわけです。

中尾亘孝「おいしいラグビーのいただきかた」14~15頁


 当時のラグビー界やマスコミは「楽しいラグビー」と「勝つラグビー」が矛盾しているかのような雰囲気を煽っていた。しかし、早稲田ラグビーの大西哲学では両者が美しく昇華している。

 悲壮感が格好悪いなんてだれが言ったのか? また自由奔放な明るいラグビーといえども、それはあくまで国内レベルでの話である。彼らも外国チーム相手の場合は悲壮感を持って闘わざるを得ない。

同志社ラグビー=岡仁詩への懐疑
 中尾亘孝が、同じ同志社ラグビー閥でも、平尾誠二には最初から懐疑的ではなかったが、岡仁詩にはり早い時点で辛辣だった。それは『おいしいラグビーのいただきかた』の時代(1989年ごろ)には既にそうだったことが分かる。
 〔選手の〕素材では明治と肩を並べる同志社にチャンスはあるでしょうか。口当たりのいい岡理論も実績が伴わず、〔…〕あの大学選手権を三連覇した黄金時代とは、いったい何だったんだろうとまで思わせるものでした。

 一見、BKで勝負する同志社ラグビーはワセダと同系列に入るように見えます。ところが平尾、大八木淳史(伏見工業高校―同志社大学―神戸製鋼)という超大物がいなくなってみると、才能だけで勝っていた、実は弱いものイジメでしかなかったことが分ってしまったのです。

 なるほど、明治とは違い同志社には理論があり、コーチングもあります。ところがその理論は、自分より強いチームには通用しないものだったというわけです。素材で優りながら釜石〔新日鐵釜石〕に一度も勝てなかったこと。平尾、大八木がいなくなってからの戦績を見れば一目瞭然です。

 また、岡体制下の日本代表が惨敗に惨敗を重ねた歴史的事実も重要な傍証です。同志社の自由奔放も所詮、強者のおごりでしかなかったわけです。

中尾亘孝『おいしいラグビーのいただきかた』99~100頁
 ラグビー日本代表の監督人事が早稲田大学OBと同志社大学OBとが交代で務めていたことは前に書いた。だが、その中身を見てみると、相応の実績をあげた早稲田大学OBの日本代表に比べて、同志社大学OBの日本代表は大きく劣る。中尾亘孝の懐疑と批判はそこに由来する。

 何より、この同志社のラグビー理論は「自分より強いチームには通用しないものだった」という性格が、1995年(と1999年)のラグビーワールドカップにおける日本代表の戦いに響いてくるのである。

同志社ラグビーの呪縛から脱した(?)平尾誠二
 1966年から1971年まで、ラグビー日本代表監督を務めた大西鐵之祐の「大西ジャパン」。「接近・展開・連続」の大西理論で1968年のオールブラックスJr.戦、1971年のイングランドXV戦と「世界」に迫るプレーを見せてくれた。

 ところが、後代のラグビー日本代表では「接近・展開・連続」理論が継承されず、ジャパンは低迷を続けた。
 どうあがこうと、〔…〕大西理論の正当性は否定できません。だから、だれが全日本〔ラグビー日本代表〕の指導者になっても念仏のごとく「展開・接近・連続」を唱えるのです。それでも全日本は勝てませんでした。理論に誤りがないのに何故勝てなかったのか、よく考えて欲しい。

 それは指導者、プレイヤーの中に大西理論を信じていない者がいたからです。関西系の指導者が典型例ですが、恥しい話ながらワセダ閥の指導者にも大西理論を理解していない者がいたことです。

 いまや、こうした障害はすべてなくなりました。大西鐵之祐直系の宿沢広朗同志社の呪縛からやっと脱した平尾誠二主将のコンビは、何度も言うように大西理論の体現を果たしただけでなく、更にその上を行く可能性を秘めているのです。

中尾亘孝『おいしいラグビーのいただきかた』124頁
 1989年のスコットランドXV戦で歴史的金星を挙げたラグビー日本代表「宿沢ジャパン平尾組」。その監督は大西鐵之祐直系の元早稲田大学ラグビー部主将・宿沢広朗である。彼こそはジャパンにおける大西理論の継承者である。そして宿沢ジャパンの主将・平尾誠二は同志社ラグビーの好ましからざるところの「呪縛」から脱しかけている。

 中尾亘孝は、このふたりの相乗効果で日本ラグビーをより一段高いところへ導くことを期待していたのである。

平尾誠二を「大西鐵之祐信者」にする使命
 しかし、その後の「宿沢ジャパン平尾組」は、いつも会心のパフォーマンスが続いたわけではなかった。『15人のハーフ・バックス』を紐解くと、中尾亘孝はその原因を平尾誠二の心持ちにあるのではないかと考えていたようだ。
 ここで、大西ラグビーの正当後継者について考えてみましょう。

 山口良治〔やまぐち・よしはる,平尾誠二の高校ラグビーにおける師,愛称は「泣き虫先生」〕はどうでしょうか。ちょっと違うような気がします。〔略〕

 そして宿沢広朗の番ですが、彼はスコットランドXV戦で大西ラグビーの完璧な理解者、免許皆伝者だということを証明しました。しかし、その後が悪すぎます。これはおそらく、平尾誠二キャプテンが原因だと思われますが、正確なことはわかりません。

 宿沢の使命はおそらく、平尾を〈大西信者〉にすることにあるのではないでしょうか。

 それさえ果たせば、戦績は必要最低限の線をクリア(W杯出場)するだけでいいのです。回り道をしてしまった平尾を本来のライン、山口良治→大西鐵之祐に戻すことさえできれば、多少の戦績は犠牲にしてもいい。こうとでも解釈しなければ、わからないことが多すぎます。

中尾亘孝『15人のハーフ・バックス』72~75頁
 中尾亘孝は「宿沢ジャパン平尾組」停滞の理由を、同志社ラグビー出身の平尾誠二が宿沢広朗を介して早稲田ラグビーの大西哲学に染まらないことに求めていたようだ。それにしても、読み返してみると、中尾亘孝は壮大な伏線を張っていたのだなぁ~と思える。

岡仁詩の他人事のような無責任発言
 その平尾誠二のパーソナリティ形成に大きく影響した、岡仁詩への「まなざし」はやっぱり辛辣である。中尾亘孝は、日比野弘(ひびの・ひろし,早稲田大学OB)と岡仁詩には二度とラグビー日本代表の監督・コーチをやってほしくないと書いている。

 長くなるので細かい引用は割愛するが、要は同志社ラグビーの岡仁詩は早稲田ラグビーの大西理論を信じ切れずにジャパンを滅茶苦茶にしてしまったというのだ。
 そしてあげくの果てが、敵前逃亡です。第1回W杯〔1987年,ニュージーランドとオーストラリアで開催〕直前に〔日本代表〕監督を降りてしまったのです。ただし、〔…〕納得できる理由だったことが救いでした。

 問題は、W杯中継の解説席でのコメントです。蹴ってははずし蹴ってははずす日本のキッカーを評して「こういうことでは困りますね.日本はキッカーの養成をちゃんとしなければ」とのたまっていたのです。

 他人事のようにいってますが、このジャパンW杯スコッドは、何から何まで岡仁詩によって作られたものなのです。余儀なき事情で監督を降りたことは仕方ありません。しかしながら、自分で育てたチームなのです、眼前のお寒いプレイをしているのは。敗軍の将は兵を語るとは、このことをいうのです。

中尾亘孝『15人のハーフ・バックス』227頁
 少し状況を説明すると、第1回ラグビーワールドカップの初戦は日本vsアメリカ合衆国戦である。日本はトライ数が3-3とアメリカと同数ながら、トライ後のコンバージョンキックがことごとく不成功。ペナルティキックも7本中成功したのは2本のみで、18-21と競り負けた。ジャパンは勝てたはずの試合を落とした。

アメリカ合衆国戦
キッカーが外しまくって負ける(RWC1987 日本vsアメリカ合衆国)

 中尾亘孝の「蹴ってははずし蹴ってははずす日本のキッカー」という文言は、このことを指している。アメリカ合衆国戦の敗戦は、日本国内のラグビーブームに溺れて、国際試合に臨む際の日本ラグビー界の認識の甘さが露呈。特にラグビーが「フットボール」である原点を忘れて、キックの大切さを忘れていたことが敗因だと評された。

 それはともかく、自分が関わったにもかかわらず他人事のように論評する、当事者感覚を欠いた岡仁詩の感覚。この無責任な言い草や立ち振る舞いは、同じ同志社ラグビー出身の平尾誠二にも受け継がれていたようだ。

ブルームフォンテーンの悪夢とその「戦犯」
 さて、そこで、1995年ラグビーワールドカップ(南アフリカで開催)である。ラグビー日本代表はウェールズとアイルランドに大敗した後、ニュージーランド(オールブラックス)に17-145(!)という前代未聞の大惨敗を喫する。

 すでに低迷気味であった日本のラグビー人気の凋落は決定的になった。この試合は、開催都市の名を冠して「ブルームフォンテーンの悪夢」と俗称される。

ブルームフォンテーンの悪夢(RWC1995 日本vsニュージーランド)
ブルームフォンテーンの悪夢(RWC1995 日本vsニュージーランド)

 国際試合でも100失点というのはたまにあるが、前後半80分の間にさらに45失点を重ねるのは史上空前にして絶後の世界的な恥辱である。

 そして、この大惨敗の「戦犯」として指名されたのが平尾誠二った。当時のジャパンは、チームのガバナンスが欠落していた。小藪修(こやぶ・おさむ)は監督としての資質が疑問視され、戦術的な完成度は低く、選手のモラルはまったく低下しており……という状況だった。

 二日酔いで嘔吐しながら練習している選手(神戸製鋼の増保輝則=ますほ・てるのり=だと言われている)までいた。

 これを立て直すべく「選手兼事実上の監督」として、平尾誠二は大会2か月前に日本代表に電撃復帰した。「事実上の監督」の本来の役割は、こうした危機にブレーキをかけ、チームを再び戦う集団へと生まれ変わらせることだ。

 ところが、平尾誠二はチーム内の風紀紊乱を正そうとはしなかった。それどころか、南アW杯では練習も中途半端に他の若い選手たちと一緒にカジノやゴルフで遊興三昧。

 なぜこの時、平尾誠二はジャパンに手を下さなかったのか? 彼の「監督」責任もさることながら、ジャパンとしてラガーマンとして当事者感覚を欠いていた彼の発言、行動、体質、性格、立ち振る舞い、悲壮感のなさも大惨敗を招来した一因だとして、ラグビージャーナリズムからは厳しく批判されている。<1>

 岡仁詩と平尾誠二は、よく似ている。

同志社リベラリズム,岡イズムの弊害
 中尾亘孝も、平尾誠二に対する失望は大きい。
 今回のワールド・カップ・キャンペーンでは納得できないことは山のようにあります。中でも最たるものが平尾の行動です。全然理解できません。他のことはすべて解明されています(あるいは解明中)が、平尾誠二の身の処し方、言い草のすべてが分からないのです。正確には、信じられないのです。

 我々が平尾にかけた期待、希望は一体何だったのでしょう。それとも、今ここにある145点が精一杯頑張った結果だとでも強弁するのでしょうか。はたまた「ぼくは出ていないから、それは出ていた選手たちの問題」なのでしょうか。

中尾亘孝『ラグビー黒書』145頁
 平尾誠二のあのような体質を増幅したのは母校・同志社大学の指導者=岡仁詩にあると思われる。同志社リベラリズム、岡イズム……さまざまな呼び方があるが、同志社大学での4年間が平尾誠二の生き方に何らかの影響を与えているはずである。

 ラグビー指導者としての岡仁詩の功績を、才能ある選手たちを集め、努力させることの大切さを教え、活用する環境を作ったことだと一方で評価はしつつも、やはり中尾亘孝の批判は厳しい。
 岡イズムとは、よく言われるリベラリズムでも、ラグビー理論でも、ましてや何か体系的な哲学でもありません。指導者〔コーチ〕としては、凡庸とは言わないまでも普通のレヴェル程度で、外国の目新しい方法論を取り入れることには熱心でしたが、ついぞ本物〔外国の列強〕に勝とうという発想を抱かなかった人です。

中尾亘孝『ラグビー黒書』151頁
 日本でラグビーをやる以上(サッカーでもそうだが)、自分たちより強い敵(特に外国の列強)にいかにして勝つかというテーマが終生ついてまわる。早稲田ラグビーは大西鐵之祐に代表されるように常にそれを追求してきた。

 自分たちより強い敵にいかにして勝つか……を放擲(ほうてき)したラグビーは、もはやラグビーではない。中尾亘孝の岡仁詩批判にはこういった含みもある。

「世界」への挑戦から目を背けた岡仁詩と平尾誠二
 岡仁詩の同志社大学におけるラグビーの実践が、打倒関東というスローガンや関東vs関西という図式に矮小化されてしまったことと比べると、平尾誠二の神戸製鋼におけるラグビーの実践は、「世界に通用するラグビー」を掲げていることで一枚も二枚も上を行っていた。しかし……。
 神鋼のプレイヤーはどうでしょうか。彼らの〈世界に通用するラグビー〉はジャパン〔日本代表〕においてこそ生かされるべきですが、現実は違いました。

 ジャパンにそのままスライドした神鋼の黄金バックスは、セット・プレイからの一次攻撃(たとえ自陣だとはいえ)でさえ、パスミスとノックオンを繰り返し反復しただけでなく、両センターはクラッシュには強くてもタックルができないことを露呈する有様でした。

 神鋼もまた、メイジや同志社と同じく強者のラグビーでしかなかったのです。自分より弱いものには勝てても、強いものには勝てない。あたかも、平尾・同志社が松尾〔雄治〕・釜石にとうとう勝てなかったように、平尾はこの課題を解決することなく現在に至ったようです。

中尾亘孝『ラグビー黒書』155頁
 これは中尾亘孝の本には出てこない話である。一説によると、平尾誠二は、1992年に来日した英国オックスフォード大学に、神戸製鋼が(マーク・イーガン=アイルランド=やイアン・ウィリアムス=オーストラリア=といった外国人選手を擁しながら)惨敗してしまったことで「世界に通用するラグビー」への意欲を失ってしまったのだという。

 大西鐵之祐に比べれば何とも情けない話であるが、これは平尾誠二の外国コンプレックスでもある。
 平成〔1989~2019年〕の翻訳主義、鹿鳴館派〔平尾誠二〕は〈外国に追いつき追いこせ〉なんてきつい目標は立てません。せめて〈外国並み〉で充分満足なのです。練習一つとっても、本場〔ニュージーランドなど〕のいい(楽な)ところは組織一丸となって取り入れますが、それ以外のところはメンバー各個人の判断に任せます。〔略〕

 「OK、それを取り入れよう」という進取性はいいでしょう。ところが、本場に近づき、マネをすることで良しとするところが理解できません。もし、世界に眼を向けるなら。世界に勝つことをまず考えます。すると、向こうと同じ練習だけでは勝てないことはだれでも分かります。〔略〕

 〔略〕日本選手の練習時間は、まだまだ不足です。

中尾亘孝『ラグビー黒書』157~158頁
 こうして読んでみると、本当に岡仁詩と平尾誠二は似た者同士だなぁと思う。

 ちなみに、後代、エディー・ジョーンズ率いるラグビー日本代表は血を吐くような練習(もちろん理にかなった練習であるが)を繰り返して、2015年ラグビーワールドカップで南アフリカ(スプリングボクス)戦の大金星「ブライトンの奇跡」を成し遂げたのだった。

ブライトン ミラクル
マサ・ヤマグチ
2023-07-05


 もちろん、岡仁詩や平尾誠二よりもエディー・ジョーンズの方が絶対正しい。

ついに大西哲学に染まらなかった平尾誠二
 中尾亘孝のラグビー本を年代順に読んでいたら面白いことが分ってきた。

 早稲田大学出身(中退らしいが)であり、早稲田ラグビー贔屓であり、早稲田ラグビーの指導者・大西鐵之祐の信奉者であるところの中尾亘孝は、優れたラグビー選手ではあったが、早稲田ラグビーとは異なる気風である同志社大学ラグビー出身の平尾誠二に懸念を抱いていた。

 中尾亘孝は、大西鐵之祐直系の宿沢広朗のもと、平尾誠二が「本来のライン,山口良治→大西鐵之祐」のラグビー思想に染まることを期待していた。そうなることで、日本ラグビーが揚棄することを期待していた。

 ……が、しかし、ついに同志社ラグビー的な岡仁詩的な思想の外に出ることは無かった。

 その結果、1995年のラグビーワールドカップで平尾誠二は「ブルームフォンテーンの悪夢」という不幸を日本ラグビーに招き入れてしまった。

 平尾誠二が青春時代を過ごした、日本のラグビーブームの時代は「ブルームフォンテーンの悪夢」で完全に終焉した(そして,日本ラグビーは人気も実力も,2015年ワールドカップの「ブライトンの奇跡」まで,20年にもわたって低迷してしまう)。

 次の1999年のラグビーワールドカップ(ウェールズ他で開催)で、平尾誠二は今度は日本代表監督として大会に臨む。この大会も日本代表は惨敗したが、これまた平尾誠二の体質が深くかかわっている。だたし、これはまた別の物語となる。





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ラグビーブームとは何だったのか?
 1970年代に始まり、1980年代に隆盛を極め、1990年代前半まで続いた、本邦スポーツ界の「ラグビーブーム」。当時、日本でラグビーはプロ野球のオフシーズンを穴埋めする大変な人気を集めていた。
  • 参照:Sports Graphic Number Special Issue December 1983「THE RUGBY」(1983年12月16日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/582
 ラグビーはイケているスポーツだった。吉永小百合もラグビーファンだった。テレビのラグビー中継では、観戦に来ていた若くて奇麗な女性の映像がよく抜かれていた。

 一方、サッカーはまるでイケていなかった。

 意外なことに、あの頃のラグビーブームを総括した論考がなかなか見当たらない。あれは一体何だったんだろう? ふと知りたくなって、インターネット検索をいじくっていたら、玉木正之氏の公式サイトにヒットした。
玉木正之「復活できるか? ラグビー人気」(2015-10-14)
 今では知らない人も多くなったようだが、かつて日本のラグビーは、冬のスポーツの王者だった。

 日本選手権で新日鉄釜石が7連覇(1978~84年)、続いて神戸製鋼が7連覇(1988~94年)。その間隙を縫って慶応(1985年)や早稲田(1987年)が社会人を破って日本一に輝いた頃、毎年新春の国立競技場は、晴れ着姿の女子大生を含む6万人以上の大観衆で埋まった。
  • 参照:Sports Graphic Number 93号 ラグビー・熱い残像(1984年2月4日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/755
 そのとき日本のサッカーは正月の天皇杯決勝がわずかに注目される程度で、JSL(日本サッカーリーグ)の観客は平均千人をようやく超える程度。500人以下の試合もあり、ガラガラの国立競技場で、小雪が舞う寒々とした空気の中、ラモス、岡田武史……らの選手が走っていた。

 ところが、1993年Jリーグの誕生で立場は逆転。サッカー人気は急上昇。それに対して、ラグビー人気は急凋落。それはJリーグの誕生だけが原因ではなかった。

 以前私〔玉木正之〕が関西のラグビーを取材して一冊の本を出版した時、関東の名門大学出身のラグビー協会幹部に編集者が呼び出され、「くだらん本を出すな!」と怒鳴られ、本を投げつけられたことがあった。

 名門大学中心のエリート意識や学閥意識は偏狭で傲慢な体質を育み、ラグビー人気の拡大を阻んできたのだ。

 そんなナンセンスな体質も、今は消えたはず。現在のラグビー人気復活の兆しを大きく膨らませ、2019年日本でのW杯開催の成功へと、是非ともつなげてほしいものだ。

   * * *
[◎付記]
 文中で編集者が投げつけられた小生〔玉木正之〕の本を、当時ラグビー協会の名誉総裁をしておられた寛仁親王殿下(髭の殿下)が絶賛して下さり、自ら40冊程度購入して下さり、日本代表チームの合宿の時に、選手たちに「面白いから読みなさい」と、全員に手渡しして下さった。

 そのとき、本を投げつけた幹部は苦虫を噛み潰した顔をしていた、と小生の本に描かれた日本代表選手の報告を受け、小生は、溜飲を下げたのでありました(笑)。

http://www.tamakimasayuki.com/sport/bn_256.htm


玉木正之「欧州のサッカーにも応援団はない」
玉木正之氏
 引用文後半の逸話は、「関西のラグビーを取材して〔玉木正之氏が書いた〕一冊の本」と「関東の名門大学出身のラグビー協会幹部」と「寛仁親王殿下(髭の殿下)」をめぐる、玉木氏のちょっとした武勇伝みたいにも読める。

平尾誠二氏と小林忠郎氏
 玉木正之氏は「名門大学中心のエリート意識や学閥意識は偏狭で傲慢な体質を育み,ラグビー人気の拡大を阻んできた」ことが、Jリーグ以降(1993年~)ラグビー人気を凋落させ、サッカーに人気で差を付けられた理由だとしている。

 その説は、どこまで妥当なのだろうか?

 まず、この玉木正之氏が「関西のラグビーを取材して〔書いた〕一冊の本」とは、『平尾誠二 八年の闘い~神戸製鋼ラグビー部の奇蹟』(文春ネスコ,1995年)のことである。
玉木正之著『平尾誠二 八年の闘い~神戸製鋼ラグビー部の奇蹟』
 「楽しく,自由に」の旗を揚げたラガーマンの出現は、日本のラグビー界をいかに変えたのか……。最新インタビューをまじえ、V8へと神戸製鋼ラグビー部が走りつづける日々を作家・玉木正之が描く。


平尾誠二ー八年の闘い
『平尾誠二 八年の闘い~神戸製鋼ラグビー部の奇蹟』表紙
 次に、この本の主人公は書名の通り平尾誠二氏(ひらお・せいじ,伏見工業高校―同志社大学―神戸製鋼,1963年-2016年)。日本でミスターラグビーと呼ばれた人である。

NHK「全国大学ラグビー選手権」名勝負
同志社大学時代の平尾誠二氏

 平尾誠二氏は、エンジョイするラグビー、自由奔放なラグビー(楽しく,自由に)を掲げ、あるいは日本の体育会スポーツにありがちな先輩・後輩のタテ関係、勝利至上主義、悲壮感などの否定……等々、「抑圧的な日本のスポーツ」を否定するかのような言動で世間の注目を集めた。

 さらに、「関東の名門大学出身のラグビー協会幹部」とは、早稲田大学出身で日本ラグビーフットボール協会理事などを歴任した小林忠郎氏(こばやし・ただお,1916年-2008年)のことだと思われる(コバチューという渾名があったらしい)。
  • 参照:日本ラグビーフットボール協会「訃報:小林忠郎」(2008.4.19)https://www.rugby-japan.jp/news/5221
 良くも悪くも、日本におけるラグビーフットボールというスポーツの気位の高さを象徴する人物だったらしく、その不遜さを物語る逸話には事欠かない(前掲の玉木正之氏のラグビー本の逸話もそうであるが)。

 元『ラグビーマガジン』編集長でラグビージャーナリストの村上晃一氏は、ラグマガ編集部当時を回顧して「僕がラグビーマガジン編集部に入った頃は,アマチュア規定の厳しい時代で,事務局長だった小林〔忠郎〕さんに誌面作りのことなどでよく叱られた」と書いている。
  • 参照:村上晃一「JK〔ジョン・カーワンHC〕帰国 - ラグビー愛好日記」(2008年04月20日)https://news.jsports.co.jp/rugby/blog/loverugby/2008/04/jk-3.html
 1980年代前半、不人気にあえいでいたJSL(日本サッカーリーグ)のスタッフが日本ラグビーフットボール協会を訪れた。時のラグビー人気の秘訣を質(ただ)して、サッカー人気再興に役立てるためである。

 すると、日本ラグビーフットボール協会のオフィスの奥には偉そうにふんぞり返った人がいて、JSLのスタッフに「ラグビーはね,何もしなくたって客が入るんだよ」と傲慢に言い放った人がいた……という逸話が、平塚晶人著『空っぽのスタジアムからの挑戦~日本サッカーをメジャーにした男たち』(小学館,2002年)という本に登場する。

 この放言をした人物が、小林忠郎氏だと言われている。

ブルームフォンテーンの悪夢とその「戦犯」
 話を戻して、その平尾誠二氏に、これまた「抑圧的な日本のスポーツ」には批判的だった玉木正之氏が(日本のラグビー界にとっては実に不幸なことに)スリ寄っていったのである。

 玉木正之氏と平尾誠二氏、同じ京都人同士、同じスポーツ思想の持ち主同士で意気投合。「抑圧的な日本のスポーツ」の現状にあって、平尾誠二氏は(掃き溜めの鶴のように)素晴らしいラグビー文化、スポーツ文化を開花させたのである……と玉木正之氏は煽ったのだった。

 その本こそ『平尾誠二 八年の闘い~神戸製鋼ラグビー部の奇蹟』である。

 しかし……。だからこそ平尾誠二氏は日本ラグビーを奈落の底に導いてしまったのである。死屍に鞭打つことは普通はしないからメディアはあまり触れないが、平尾誠二氏はラグビーブームの象徴であると同時に、ラグビーブームを終わらせてしまった人でもある。

 1995年5月~6月、第3回ラグビーワールドカップ南アフリカ大会。ラグビー日本代表(ジャパン)はウェールズとアイルランドに大敗した後、ニュージーランド代表オールブラックスに17-145(!)という前代未聞の大惨敗を喫する。

 すでに低迷気味であった日本のラグビー人気の凋落は決定的になった。開催都市の名を冠してこの試合は「ブルームフォンテーンの悪夢」と俗称される。

ブルームフォンテーンの悪夢(RWC1995 日本vsニュージーランド)
ブルームフォンテーンの悪夢(RWC1995 日本vsニュージーランド)

 国際試合でも100失点というのはたまにあるが、前後半80分の間にさらに45失点を重ねるのは史上空前にして絶後の世界的な恥辱である。

 そして、この大惨敗の「戦犯」として指名されたのが平尾誠二氏だった。当時のジャパンは、チームのガバナンスが欠落していた。小藪修氏(こやぶ・おさむ)は監督としての資質が疑問視され、戦術的な完成度は低く、選手のモラルはまったく低下しており……という状況だった。

 二日酔いで嘔吐しながら練習している選手(神戸製鋼の増保輝則選手だと言われている)までいた。

 これを立て直すべく「選手兼事実上の監督」として、平尾誠二氏は大会2か月前に日本代表に電撃復帰した。「事実上の監督」の本来の役割は、こうした危機にブレーキをかけ、チームを再び戦う集団へと生まれ変わらせることだ。

 ところが、平尾誠二氏はチーム内の風紀紊乱を正そうとはしなかった。それどころか、南アW杯では練習も中途半端に他の若い選手たちと一緒にカジノやゴルフで遊興三昧。それがために対オールブラックス戦の歴史的な大惨敗を招来したと言われている。

 この辺の経緯については日本ラグビー狂会『ラグビー黒書~145点を忘れるな!』(双葉社,1995年)や、永田洋光『ラグビー従軍戦記』に詳しい。

ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12T


ラグビー従軍戦記
永田 洋光
双葉社
2000-06T


 なぜこの時、平尾誠二氏はジャパンに手を下さなかったのか? 彼の「監督」責任もさることながら、ジャパンとしてラガーマンとして当事者感覚を欠いていた彼の発言、行動、体質、性格、立ち振る舞いも大惨敗を招来した一因だとしてラグビージャーナリズムからは厳しく批判されている。

玉木正之氏のお花畑的スポーツ観の悪影響
 ところが……である。同じ1995年の11月(奥付の日付,「あとがき」の日付は1995年9月)に出た『平尾誠二 八年の闘い~神戸製鋼ラグビー部の奇蹟』は、「ブルームフォンテーンの悪夢」からまだ半年足らず、日本ラグビー界が茫然自失としていた時期にもかかわらず、玉木正之氏はその深刻な問題には全く触れていない。

 それどころか「悪夢」の「戦犯」であるはずの平尾誠二氏を、玉木正之氏はただただ称揚している。日本ラグビー界が負ったダメージに対してまったく危機感のない著者・玉木正之氏の鈍感さには唖然とさせられる。

 玉木正之氏は、盲目的に平尾誠二氏を礼賛するあまり、現実が見えなくなってしまったようだ。もちろん、玉木正之氏と平尾誠二氏はオトモダチ同士である。オトモダチの批判を、普通は書くことができない。

 何より厄介なのは、玉木正之氏は、野球やサッカーやラグビーなどの競技スポーツにおいて「勝ち負けを争うこと,勝利を求めること」それ自体を「勝利至上主義」として卑しめ、否定する「現代思想的スポーツ観」にどっぷり浸かった人だということである。

 まぁ、虫明亜呂無だとか、蓮實重彦だとか、今福龍太だとか、その手の浮世離れした人々がスポーツにおける「勝利至上主義」批判に耽溺している分にはまだいい。だが、スポーツライターを名乗る玉木正之氏が「勝利至上主義」批判を展開することは実害がある。

ミシェル・フーコー
ミシェル・フーコー(写真と本文とは関係ありません)

 玉木正之氏は「ブルームフォンテーンの悪夢」のような大惨敗を見ても何の痛痒も感じない、鈍感なスポーツ観の持ち主なのである。こんなお花畑のような思想が平尾誠二氏にも悪影響を与えたのではないかと推察される。<1>

 スポーツの本義は「遊び」だから、国際舞台での勝ち負けなんかはどうでもいい。地域に密着したスポーツクラブで、明るく楽しくラグビーをしていればいい……などと、玉木正之氏は本気で思っているような気がする。

 それは間違いである。

 事実、日本のラグビーブームは「ブルームフォンテーンの悪夢」で完全に終焉した。そして、日本ラグビーは人気も実力も、2015年ワールドカップの「ブライトンの奇跡」まで、20年にもわたって低迷してしまう。

ブライトン ミラクル
マサ・ヤマグチ
2023-07-05


 当時、少年ラグビーの子供たちが、少年サッカーや少年野球の子供たちと比べられて、たいへん肩身が狭い思いをしたという話も伝わっている。

 めったに番狂わせが起こらないと言われるラグビーだから(しかも対戦相手がオールブラックスだから)、勝ち負けそれ自体はひとまず措く。問題はラグビー日本代表がいかに戦ったか、いかにプレーしたか……である。

 しかし「ブルームフォンテーンの悪夢」は、その点でもとにかく酷かったのである。その「戦犯」が平尾誠二氏だったのである。

ラグビーブームの終焉に一枚噛んでいる玉木正之氏
 小林忠郎氏(?)に代表されるような「名門大学中心のエリート意識や学閥意識」が「偏狭で傲慢な体質を育み」、ついには「ラグビー人気の拡大を阻」み凋落させた……という玉木正之氏の説を、全面的に否定はしない。

 しかし、かつてのラグビーブームを終わらせることになった直接の契機は、1995年ラグビーワールドカップ南アフリカ大会における「ブルームフォンテーンの悪夢」である。

 そして、その「戦犯」が平尾誠二氏だった。

 平尾誠二氏にスリ寄り、悪い影響を与えた人物のひとりが玉木正之氏である。つまり、玉木正之氏は日本におけるラグビーブームの終焉に一枚噛んでいるのである。

 ワールドカップ南アフリカ大会での平尾誠二の行状は、多くの心あるラグビーファンの怒りを買った。だから平尾誠二氏にはアンチも多い

 『平尾誠二 八年の闘い~神戸製鋼ラグビー部の奇蹟』を指して「くだらん本を出すな!」と怒鳴りつけたくなるのは、何も小林忠郎氏(?)に限らない。

 この本にまつわる玉木正之氏と小林忠郎氏(?)と「髭の殿下」をめぐる逸話は、チンケな武勇伝にすぎない。<2>





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▼前回のおさらい「昔のラグビー~慶應義塾大学vs帝京大学の公式戦が無かった〈対抗戦思想への拘泥②〉」(2023年10月11日)https://gazinsai.blog.jp/archives/50245564.html

ラグビーブームの時代
 1970年代に始まり、1980年代に隆盛を極め、1990年代前半まで続いた、本邦スポーツ界の「ラグビーブーム」。当時、日本でラグビーはプロ野球のオフシーズンを穴埋めする大変な人気を集めていた。
  • 参照:Sports Graphic Number Special Issue December 1983「THE RUGBY」(1983年12月16日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/582
 ラグビーはイケているスポーツだった。テレビのラグビー中継では、観戦に来ていた若くて奇麗な女性の映像がよく抜かれていた。一方、サッカーはまるでイケていなかった。

 あるラグビー関係者が「ラグビーはね,何もしなくたって客が入るんだよ」とサッカー関係者に対して不遜に言い放ったという逸話まである(この話の出典は平塚晶人『空っぽのスタジアムからの挑戦~日本サッカーをメジャーにした男たち』2002年)。

 「何もしなくたって客が入った」ラグビー人気。あれはいったい何だったのだろうか?

日本のラグビーとは大学ラグビーのことである
 1990年代初めに専門誌『ラグビーマガジン』に「ラグビーフットボール大辞典」という連載があった(無署名の記事だったが,ほとんどの項目は小林深緑郎が執筆しているのではないかと思う)。この中に「観客動員記録 Attendance Record」という立項があり、なかなか興味深いことが書かれてあった。

 海外のラグビー国の歴代最多観客動員試合は、たいていはナショナルチーム=代表チーム(日本ならば日本代表)同士による国際試合(テストマッチ)となる。

 ところが、日本のラグビーの場合は日本代表の国際試合ではなく、国内シーンの、それもローカルの、しかも大学チームの試合、1981年12月6日の関東大学対抗戦「早稲田大学vs明治大学」(東京・国立霞ヶ丘競技場)だったというのだ。

 その数、6万6999人。しかし、当局への配慮で実際には7万人を軽く超えていたのではないか……とも言われている。

 つまり、日本のラグビー文化は海外のラグビー国と比べて少し特殊だ……と「ラグビーフットボール大辞典」(小林深緑郎?)は言いたかったわけである。<1>

 ひっきょう、20世紀のラグビーブームとは日本代表ではなく、東京三洋や東芝府中などの社会人ラグビー(実業団ラグビー)でもなく「大学ラグビーブーム」だった。

ON BOOKS(63)大学ラグビー勝利の歌 (ON Books 63)
末富 鞆音
音楽之友社
1998-12-10


 なかんずく、それは「早慶明同」(早稲田大学,慶應義塾大学,明治大学,同志社大学)の大学ブームだったのである。

日本ラグビーと「伝統校」
 日本のラグビーは、1899年(明治32)の慶應義塾大学に始まり、続いて1911年(明治44)に関西の同志社大学、関東では1918年(大正7)に早稲田大学、1922年(大正11)に明治大学……とラグビー部創部と続く。日本のラグビーは草創期から大学中心であった。

 関東の3大学で「早慶明」と称し、さらに関西の同志社を加えて「早慶明同」、この組み合わせを「伝統校」と呼ぶ。これらの大学は歴史も古く、大学としての社会的な格付けも高い。そのため「早慶明同」は日本のラグビーにあっては特権的な地位にあった(あるいは今でもある)。

 込み入ったルールや技術、戦術といった情報の体系があり、なおかつフルコンタクトのフットボールであるラグビーの強化は、同じスポーツでも単純な「個の力」の1+1+1+1+1+……=15にはならない。歴史ある「早慶明同」の「伝統校」はラグビーの実力も高く、歴史が新しい「新興校」の安易な追随を許さない。

 これら「伝統校」が、関東大学ラグビー対抗戦や全国大学ラグビーフットボール選手権大会で覇を競ったのが、ラグビーブームの時代であった。<2>

 「早慶明同」といった有名大学(学閥大学)が強い! ……となると、当然マスコミはラグビーを大きく好意的に報道する。マスコミには「伝統校」の、特に早稲田大学と慶應義塾大学の出身者が多いからである。これがラグビーブームに拍車をかけた。
  • 参照:Sports Graphic Number 136号 ザ・ラグビー 踊る肉体(1985年11月20日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/322
  • 参照:Sports Graphic Number 138号 冬の勇者たち(1985年12月20日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/118
  • 参照:Sports Graphic Number 140号 ラグビー新世紀(1986年1月23日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/354
  • 参照:Sports Graphic Number 160号「臙脂」と「黒黄」(1986年11月20日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/763
  • 参照:Sports Graphic Number 162号 選ばれしものたちの栄光(1986年12月20日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/164
 これが(名前を出して恐縮だが)帝京大学、関東学院大学、東海大学、京都産業大学といった「新興校」(優れた日本代表選手を何人も輩出したラグビー強豪校で,「早慶明同」の「伝統校」に対してこう呼ばれる)と呼ばれる大学ではラグビーブームは起きない。

各大学のキャラが立った「伝統校」のラグビー
 小説家・村上龍は、1990年か1991年の頃であるが、『週刊プレイボーイ』の連載コラム「龍言飛語」の中で日本のラグビーブームを指して、こんな厭味を書いている。

 たかだかアマチュアの大学スポーツ(大学ラグビー)の多くの観客が集まり、マスコミが大きく報道する現象は異様だ。大学ラグビーは有名大学(「早慶明同」の「伝統校」)が強いから、これら大学の出身者が多いマスコミ内部の人間たちは嬉しくってしょうがないんだろう……と。

龍言飛語 集英社文庫
村上 龍
集英社
1994-08-19


 学閥大学ではない武蔵野美術大学中退の村上龍のとっては、日本のラグビーブームの在り方に違和感を覚えたのかもしれない。しかし、日本のラグビー風土を考えると、ラグビーの人気が大学になびくのはある意味で仕方がないことだった。

 東京三洋や東芝府中といった社会人ラグビー(実業団ラグビー)は、「地域に根差しているとは必ずしも言えない企業チーム」であり、一般のスポーツファンが感情移入しにくいものであり、人気は出なかった。<3>

 それに比べれば、大学スポーツの方は感情移入しやすい。

 何より「早慶明同」の「伝統校」のラグビーには、各校の個性が確立されていた。いわゆるキャラが立っていた。
  • 選手の体格を活かした「重戦車フォワード」「タテ(縦)の突進」の明治大学。
  • それとは対照的な「展開ラグビー」「ヨコ(横)のゆさぶり」の早稲田大学。
  • ハイカラな校風の真逆をゆく「魂のラグビー」「タックルの慶應」の慶應義塾大学。
  • 関東のラグビーとは気風が違う「エンジョイ」「自由奔放なラグビー」の同志社大学。
 これらは一般のスポーツファンにも分かりやすい図式である。

「伝統校」「対抗戦思想」「伝統の一戦」
 ラグビー「伝統校」のうち関東の3校「早慶明」の紐帯は、総当たりのリーグ戦の発想(選手権制度)ではなく、あくまで「対抗戦思想」に基づいていた。

 「対抗戦思想」とは何か? お互いに対戦したい(尊敬できる)クラブ(大学)同士が、年に1回、定期戦を組み、試合を行う。

 関東大学ラグビー対抗戦のトリは、英国の「オックスフォード大学vsケンブリッジ大学」の定期戦(毎年12月第1火曜日開催)を範をとった「早慶戦」(早稲田大学vs慶應義塾大学,毎年11月23日祝日開催)となる。さらにその大トリは「早明戦」(早稲田大学vs明治大学,毎年12月第1日曜日開催)となる……という考え方である。

 これら「伝統の一戦」は21世紀の現在まで引き継がれている。そこには勝敗を超えた価値観すらある。

戦前のラグビー早明戦(1934年12月2日?)
戦前のラグビー早明戦(1934年12月2日?)

 特徴的なキャラクターとプレースタイル。春・秋2季、各2~3試合ある大学野球リーグとは違って、レギュラーシーズンでの対戦は1回のみ、試合そのものの希少性。母校へのロイヤリティと精神の高揚で、生死の次元にまで高められた選手たちの真剣さ(感極まって試合前から泣いている選手も多い)。対戦相手へライバル意識とリスペクト。

 こうした数々の要素が「早慶明」のラグビーの試合を特別な試合にしている。「伝統校」による大学ラグビーは、単純にスポーツとして面白い要素に満ちていた。

 だから、ラグビーは人気があったのである。

 ラグビー人気→「早慶明」が強い→マスコミやスポーツファンの注目を喚起→マスコミ露出量が多い→さらなるラグビー人気を呼ぶ……という好循環。「伝統校」の試合はラグビー協会のドル箱でもあり、その財政を支えた。

 特に「早明戦」の人気は凄まじく、その入場券はプレイガイドに1週間徹夜で並ばないと入手できない(!?)プラチナチケットであった。
  • 参照:Sports Graphic Number 258号 早明終わりなき熱闘(1990年12月20日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/652
 普段はラグビーに関心の薄い早明両校の学生たちがチケットを買い占めるために、純粋なラグビーファンが「早明戦」を観戦できなくなるという弊害すら生じたほどである。

国内シーンの人気に溺れた日本ラグビーの甘さ
 ラグビーブームの時代のラグビー日本代表はだいたい弱かったが、それでもラグビー関係者やラグビーファンはのほほんとしていられた。日本のラグビー人気は国内シーンの、それも「早慶明同」の「伝統校」による大学ラグビー中心だったからである。

 しかし、1987年に初めて行われたラグビーワールドカップ(ニュージーランド,オーストラリアで開催)は、日本のラグビー人気にも地殻変動をもたらした。日本ラグビーの価値も、ワールドカップでの日本代表の活躍度によって測られるようになったのである。

 この第1回大会は惨敗。プレースキック(トライ後のコンバージョン,ペナルティキック)を外しまくり、初戦の勝てた試合(日本vsアメリカ合衆国戦)を落とした。国内シーンの人気に溺れて、国際試合に臨む際の日本ラグビー界の認識の甘さが露呈した。

 1991年の第2回大会(英国,アイルランド,フランスで開催)では、ラグビー日本代表「宿沢ジャパン平尾組」がスコットランド、アイルランドを相手にそれなりに善戦・健闘して見せた。そして、ジンバブエには勝利した。
  • 参照:Sports Graphic Number 緊急増刊 November 1991 ワラビーズ世界を制覇!(1991年11月14日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/228
 このワールドカップが、「伝統校」の大学ラグビー人気が中心……という日本的なラグビーの在り方、牧歌的なラグビー観で対処できたの最後の大会であった。

それでも「早明戦」は面白いんだから…
 1995年の第3回ラグビーワールドカップ(南アフリカで開催)になると、国際的にもラグビーが美徳としてきた(世界のラグビー界を縛ってきた)アマチュアリズムも限界に来ており、事実、国際ラグビーフットボール評議会(IRFB)も大会後の総会で、アマチュア規定を撤廃した。

 そうした世界の流れの埒外にいたガラパゴスな日本ラグビーは、この大会、1次リーグ最終戦の日本vsニュージーランド戦で145失点(!?)の歴史的大惨敗を喫する。いわゆる「ブルームフォンテーンの惨劇」である。

ブルームフォンティーンの惨劇
ブルームフォンテーンの惨劇:RWC1995 日本vsニュージーランド

 これは日本的なラグビーの在り方の完全に否定された出来事であるとともに、日本でラグビー人気が凋落する大きなきっかけになってしまった。

 この時、日本のラグビーファンは「それでも,大学ラグビーの〈早明戦〉は面白いんだから……」という方向に逃げてしまったという(この話の出典は平塚晶人『ウェールズへ』1999年)。<4>

ウェールズへ
平塚 晶人
文藝春秋
1999-05-01


 しかし「ブルームフォンテーンの惨劇」以降、あれだけ過熱気味の人気を誇っていた「早明戦」も国立霞ヶ丘競技場を満員にできなくなり、空席が目立つようになっていく。

 「何もしなくたって客が入」っていたはずの日本のラグビーブームは、完全に終焉した。

実は今でも半分否定されている日本のラグビー?
 2023年現在、日本ラグビーの人気の中心は完全に日本代表に移っている。その人気はサッカー日本代表にも比肩している。
  • 参照:Sports Graphic Number 1082号 誇り高き死闘.〈ラグビーW杯 日本代表完全保存版〉(2023年10月12日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/859116
 一方、「早慶明」の「伝統校」を中心とした大学ラグビーも一定の人気を保っている(この点,三笘薫や伊東純也らを輩出しながら,日本の大学サッカーは見るスポーツ=人気スポーツとしては今ひとつ弱い)。

 もっとも、大学ラグビーの覇権は、伝統校から新興校へ、2000年代の早稲田大学(伝統校)と関東学院大学(新興校)の両統迭立時代から、2010年代以降の帝京大学(新興校)のほぼ一強時代へと完全に移っている。
  • 参照:SPAIA「全国大学ラグビー歴代優勝校,帝京大が連覇で11回目の頂点」(2023/1/11)https://spaia.jp/column/student/rugby/20630
 帝京大学の強さの前には、「早明戦」の「タテ(縦)の突進=明治大学vsヨコ(横)のゆさぶり=早稲田大学」という、おなじみの対決の図式も、かなり虚しく思える。
  • 参照:Sports Graphic Number 746号 大学ラグビー新時代.伝統校と新興校の未来(2010年1月21日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/849
 2016年から2023年までラグビー日本代表ヘッドコーチを務め、2019年ラグビーワールドカップ日本大会で日本をベスト8に導いたジェイミー・ジョセフ。

 その彼が日本代表を編成する際に信用した選手とは、一説に「帝京大学出身の選手」「パナソニック(ワイルドナイツ)またはサントリー(サンゴリアス)の所属選手」「外国出身の選手」であったという。

 そうでなければ国際試合、なかんずくワールドカップでは戦えない。それで2019年、2023年のラグビー日本代表の選手構成はあのようになった。

 この話を聞いたときは、えッ? それって、日本のラグビーの在り方を全部ではないけれども、半分くらいは否定されているんじゃないの? ……と思ったものだ。

 2015年、2019年、2023年のラグビーワールドカップと続いた、集中的に特定の選手を日本代表として鍛え上げる方法は既に限界にきていると言われている。だから、大学ラグビーにも重きを置いている、日本ラグビーの在り方(仕組み)自体もあらためて「批評」されるようになってきている。

 日本ラグビー界も、現在の日本代表の人気に安穏とはしていられないのである。


▼「昔のラグビー~選手はプロはNGでアマチュアでなければならなかった」(2023年10月01日)https://gazinsai.blog.jp/archives/50167186.html




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