スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:U-20ワールドカップ

サッカーファンの心得としてのアンチ日本人論
 少し前、サッカーファンが日本人論の通念・通説批判=アンチ日本人論の主旨を心得ておくと、日本のサッカージャーナリズム・サッカー論壇の手口や流儀・作法に関するリテラシーが身につく……と書いた(下記リンク先参照)。
 例えば、高野陽太郎氏の『「集団主義」という錯覚』、杉本良夫氏とロス・マオア氏の『日本人論の方程式』(同じくその初版本『日本人は「日本的」か』)、あるいはハルミ・ベフ(別府春海)氏の『イデオロギーとしての日本文化論』、網野善彦氏の『日本の歴史をよみなおす(全)』……などといった著作である。

イデオロギーとしての日本文化論
ハルミ ベフ
思想の科学社
1997-07


 特に高野陽太郎氏は、近年、インターネットでも日本人論への批判を積極的に発信している……。

国益を損ねる「危険思想」としての日本人論
 ……例えば「ダイヤモンド クォータリー オンライン」に掲載された高野氏へのインタビュー記事は、アンチ日本人論への平易明解で優れた「入門書」として読める(下記リンク先参照)。
 また高野氏は、「現代ビジネス」への寄稿の中で、日本人論なかんずく「日本人=集団主義説」は日本の経済と産業に深刻なダメージを与えた「危険思想」だったとまで指摘している(下記リンク先参照)。
 他人事ではなく、サッカーにとっても日本人論は「危険思想」である。2002年~06年、ジーコという、およそサッカーの監督への適性を欠いた無能なブラジル人に日本代表チームを委(ゆだ)ね、ズルズルと最後まで更迭(解任)できずに、肝心の2006年のドイツW杯で惨敗してしまった。

ジーコ(JFA)
【ジーコ「日本サッカー殿堂」掲額者より】

 無能なジーコの、まさに無能を象徴する「馬なり」な監督手法(手法?)を、ジーコ本人の与(あずか)り知らないところで正当化した論理が、日本人論なかんずく「日本人=集団主義説」というステレオタイプの俗説だった(下記リンク先参照)。
 単純な勝ち負けの問題ではない。日本代表の主力選手はドイツW杯でキャリアのピークを迎えるはずだった。しかるべき指導の下、ドイツW杯に臨んでいたら、日本代表はどんなチームになっていたか。世界の檜舞台で、世界の強豪に対してどんな戦いを挑んでいたか。そこで積むことができた経験は、将来の日本サッカーにとって大きな財産(経験値)になっただろう。

 しかし、無能ジーコと、無能ジーコを正当化する論理(日本人論)によって、その期待と可能性は砕かれてしまった。その4年間で、日本サッカーが得たものはほとんど何もない。失ったものの方がはるかに大きい。

 どんな分野であれ、日本人論は日本の「国益」を損ねる。

西部謙司氏の「日本vsエクアドル戦」の評価
 話を戻して、日本人論がサッカージャーナリズムにどんな(悪)影響を与えているかを、実例で確認する。「FIFA U-20ワールドカップ ポーランド2019」における日本代表の1次リーグ初戦(5月24日)の相手は、南米王者エクアドルだった。この試合前半の日本の出来は、ひどく悪かった。

 西部謙司氏は、この試合の前半を、U-20日本代表の影山雅永監督が、試合前に選手たちに与えた情報に、日本の選手たちが縛られ、判断力が低下し、さらには思考を放棄した結果である総括する。しかも、それはサッカーにおいては「日本チームに起こりがちな現象ではあると思う」とまで評価する。

 ……U-20ワールドカップの初戦、エクアドルとのゲーム(1-1)でも……。

 エクアドルのセンターバックはロングボールへの対応が不安定だった。この分析は事前に行われていて、〔U-20日本代表の〕選手たちにも伝えられていた。実際、ロングボール処理のもたつきを突いて日本は何度かチャンスを作り、後半の同点ゴールにもつながっている。

 ただ、前半に関しては〔日本の選手たちは〕そればかりを狙いすぎていた。影山雅永監督によると、センターバックを狙えという指示は特にしていなかったという。

 「エクアドルがいいチームだと私が強調しすぎたのが良くなかったかもしれない。前半はいつもやっていることを放棄してしまった」(影山監督)

 ……〔日本の選手たちは〕選択肢の一つとして与えた情報がすべてになってしまったわけだ。……〔U-20日本代表の〕DF菅原由勢は「見るものが少なかった」と表現している。

 「リラックスして入れていたし、集中もできていた。ただ、集中していた分、見るものが少なくなってしまっていた」

 エクアドルは前半10分あたりから、日本の様子をうかがうように後方でじっくりとパスを回している。エクアドルも日本の情報は持っていたに違いないが、まずは実物を確認していた。情報はあっても、あくまでも選択肢の一つであり、判断するのは自分たちというところだろうか。

 情報は有益だ。日本もそれを使って劣勢を盛り返せた。ただし、フィールドで判断するのはあくまでも選手。それがサッカーの鉄則で、選手が判断しなくなってしまうなら情報はむしろ〈ノイズ〉になる。自分の目より情報に頼ってしまったのは、前半の反省点である。

 ……影山監督はかなり強い口調で喝を入れたようだ。

 ボックス〔ペナルティエリア〕脇を狙うのは、このチームが継続して行ってきた攻め手にすぎない。そこにセンターバックに難があるという情報が重なったことで、判断の最優先がそれになってしまったわけだが、日本チームに起こりがちな現象ではあると思う。指摘されれば修正する力はある。ただ、できることを放棄していた前半が0-1だったのは、いくぶん幸運だったかもしれない。

 一方、上手くいかない前半を1失点で我慢できたのは良かったとも言える。長所と〔日本サッカーの〕課題が入り交じった、初戦らしいと言えば初戦らしいゲームだった。

 リテラシーがあれば、この種のロジックは、さんざん読まされ、聞かされてきたことに気が付く。

後藤健生氏の「日本vsエクアドル戦」の評価
 一方、同じ試合ではありながら、西部謙司氏とは隔たりのある評価をしているのが後藤健生氏である。

 代表チームでも、クラブチームでも、一生懸命プレーしているのに、何故かうまく行かない試合ことがある。持っている力のおよそ半分も出し切れない、もどかしい試合……。U20ワールドカップ初戦でエクアドルと戦った試合はその典型のようだ。

 日本だけではない。「うまいかない」のは、両チームともそうだったのだ。

 原因は、もちろん一つではない。どんな大会でも初戦は硬くなるもの。南米の、それもコロンビアやエクアドルのアフリカ系の選手たちのトリッキーなプレーや大きなフェイント。そして、プレーの柔軟性。「相手は南米チャンピオンである」ということから生じるリスペクトの気持ち……。さらに、ビドゴシュテュのスタジアムの硬いピッチ。日本の選手たちのプレーが委縮してしまったのは、そんなあたりが原因だろう。前半の日本の選手たちは、とにかく硬かった。

幸いなことに、相手のエクアドルもやはり慣れない環境で戸惑っていた。何しろ、エクアドルは世界大会に駒を進めることは、それほど多くない。不安を抱えながらの初戦だったのだろう。つまり、比較的インテンシティーの低い入り方だったことで日本は助かった。

 片や西部氏は、一方的に、試合前に仕込まれた「情報」のために日本の選手が「判断」や「思考」が停止してしまい、日本が前半苦戦した……と説く。

 こなた後藤氏は、日本とエクアドル両国とも、各々の理由で固くなり、結果、日本は前半苦戦したと説く。さらに後藤氏は、初戦で硬かったのは、この両国のみならず、同じグループリーグに入ったイタリアやメキシコも同じだったと解説している。


 どちらが正しい……を問うのが本稿の目的ではないではない。どうして西部氏と後藤氏でこんなに解釈が異なるのか……という問題である。

つい筆が滑ってしまった西部謙司氏
 リテラシーがあれば「はは~ん.西部謙司さんは〈日本人=集団主義説〉という日本人論の色眼鏡で日本の試合を見てしまったので,つい筆が滑っちゃったんだな」ということが分かってしまう。

 「日本人=集団主義説」の世界観においては……。

 ……日本人は、同質的で横並び志向、出る杭は打たれる没個性の「集団主義」なので、ものごとを「個人」で思考・判断することができない。常に上からの権威に頼らなければ、日本人は思考・判断することができない(!?)……。

 ……U-20日本代表が初戦で苦戦したのは、監督(上からの権威)から下された「対戦相手=U-20エクアドル代表の情報」に縛られ、選手「個人」の思考・判断が停止してしまったからである……。

 ……一方、欧米人は「個人主義」が確立しているので、上からの権威に頼ったり、横並び志向に陥ることなく「自分たちで判断」することができる。だから、エクアドル(むろんエクアドルも欧米である)も日本相手に余裕をもってプレーすることができた……。

 ……という思想的・イデオロギー的背景が、西部氏の発言にはある。

 一方の後藤氏は、こういう観点からは一応離脱している。それが両者の見解の相違の理由である。

西部謙司氏の「ジーコ=セレクター型監督論」を蒸し返す
 こうした西部謙司氏の日本サッカーへの思想・イデオロギーが、最高度で発揮されたのが、無能な日本代表監督ジーコへの批判をミスリードさせた「ジーコ=セレクター型監督論」である。

 すなわち。欧米語では、クラブチームと代表チームで「監督」を指す単語が異なる。クラブの監督を「トレーナー」(鍛える人)と呼び、代表の監督を「セレクター」(選ぶ人)と呼ぶ。それまでの日本代表監督は、前任者のフィリップ・トルシエのように「トレーナー」だった。

 しかし、日本サッカーが本当に強くなるためには、代表チーム本来の「セレクター」型監督が機能するようにならなければならない。「セレクター」は、選手を「鍛える人」ではない。出来上がった選手を「選ぶ人」である。そのためには具体的な戦術指導などむしろ不要。「フィールドで判断するのはあくまでも選手」だからだ。

 だから……、ということで、無能なジーコの、まさに無能を象徴する「馬なり」な監督手法(手法?)が肯定されてしまった。
 まさに、日本人論的な日本サッカー観である。それが、どれだけ日本サッカーにダメージを与えたか……は、前述のとおりである。

日本人論を克服する「魔法の杖」はないが…
 高野陽太郎氏は、前述のインタビュー記事の中で次のように述べている。
 残念ながら、〔日本人論の固定観念を簡単に克服できるような〕そのような魔法の杖はなく、文化ステレオタイプは偏った解釈であり、危険なものであることを理解してもらえるよう、辛抱強く繰り返し説明し、理解の輪を広げていく努力を重ねるほかないでしょう。

 一筋縄ではいかないかもしれませんが、専門家に納得してもらうことが重要です。また、権力の持ち主や権威のある人の言葉は広まりやすいですから、インフルエンサーも無視できない存在です。

 同様、サッカーにおける日本人論を簡単に克服できるような、そのような魔法の杖はない。これまた、その誤りを「辛抱強く繰り返し説明し、理解の輪を広げていく努力を重ねるほかない」のである。

 やはり、そのための「インフルエンサーも無視できない存在」で、サッカー論壇の中でしかるべき人たちには、もっと積極的に日本人論批判を発言・発信してほしいのだ。具体名を挙げれば、先の後藤健生氏や、アカデミズムでは有元健氏や森田浩之氏といった人たちである。

 何にしろ、どんな分野であれ、日本人論は日本の「国益」を損ねるのだ。

(了)



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まだまだ馴染み薄いサッカー用語「スカッド」
 Jスポーツで、サッカーのU-20ワールドカップを見ていると、実況担当のアナウンサーが、さかんに「スカッド」という耳慣れない単語を使っていた。

 日本のサッカー界にとって、この「スカッド」が新しい、なじみの薄い言葉であることは、まだ2年前、2017年9月12日付でアップされた、渡辺文重氏の「[J論]サッカーの記事で見かける〈スカッド〉の意味を調べてみた」というコラムの存在からも、分かる(下記ツイッターリンク先参照)。


 日本では、サッカーを題材にしたテレビゲーム「ウイニングイレブン」で使われてから、広まったのだろうか。

 インターネット検索をすると、もっと詳しい解説が出てくる。
 少し紛らわしいのが……「スカッド」〔Squad〕です。

 『Squad』(英語ではスクウォッド、のように発音される)ですが、これは日本語で言うところの『メンバー』が一番近いと思います。

 単に『Squad』と言えば、出場機会がほとんどない選手なども含めて、チームに登録されている全選手を指します。

 だからこそ、アーセナルファンにはおなじみですが、ベンゲル監督は頻繁に

 「我々には強力なスカッドがある」

 と口にしたわけですね。

 したがって「層の厚さ」のことを英語では「厚さ」ではなく「深さ(depth)」というのですが、当然ながら『チームの「depth」』という言い方はされず、

 『depth of the squad』

 が正しい言い方となります。

山中拓磨「チームとスカッド、英語では微妙に意味が違うって知ってた?」(2019.02.01)
https://premierleaguepub.jp/?p=7000
 Jスポーツは、サッカーもラグビーも放送するが、ラグビーも見るサッカーファン、サッカーも見るラグビーファンは、「スカッド」には別の意味で違和感を持ったかもしれない。実は「squad」は、ラグビーでは「スコッド」として、広範に使われていたからだ。

以前から使われているラグビー用語「スコッド」
 先述の渡辺文重氏は、ウィキペディア日本語版で「スカッド」を引いたら、軍事用ミサイルの「スカッド」(Scud)が出てきた……などと冗談交じりに書いていたが、ラグビー用語としての「スコッド」は、ウィキペディア日本語版にちゃんと立項されている。
スコッド
 スコッド(英語:squad)は、おもにラグビーにおいて国代表などのチームを編成する際に、これに先立って代表に選出される可能性の高い者を選抜して編成する選手集団を指す呼称。選手団、強化選手の集団、強化選手集団、候補選手集団、選手集団、候補選手グループなどとも説明される。また、文脈によっては、候補、補欠、出場登録メンバーを意味する用語とも説明される。

 代表選手の選出にあたっては、スコッドに選ばれていなかった者が選出される場合もあり、「スコッド外からの選出」などと表現する。

ウィキペディア日本語版(2019年5月27日閲覧)
 しかし、この「スコッド」は、いつから使われ始めたのだろうか?

 あれだけラグビーに思い入れがあったスポーツ総合誌、1980年代の文春ナンバーでは使ってなかったような気がする。同じく、末冨(末富)鞆音(すえとみ・ともね)氏や、佐野克郎(さの・かつお)氏も使っていなかったような気がする。


 さすがに、池口康雄氏や宮原萬壽氏まで古くなると、全く分からない。

「スコッド」を広めたのは中尾亘孝?
 記憶する限り、ラグビー論壇で「スコッド」を公に使い始めたのは、1980年代終わりから1990年代初めの頃。これを流行らせ、定着させたのは、インチキラグビー評論家(にして札付きの反サッカー主義者)として知られ、今では肝心なラグビーファンからも全くリスペクトされなくなった中尾亘孝(なかお・のぶたか:1950年生)ではなかったか。

中尾亘孝(プロフィール付き)
【中尾亘孝】

 例えば「大西鐡之祐=おおにし・てつのすけ=は,ラグビー日本代表を率いるにあたって,試合毎に選手を寄せ集めるそれまでのやり方を改めてスコッド方式を採用した」などという言い回しが、1991年刊『15人のハーフバックス』に登場する。

 ただし、『15人のハーフバックス』の情報の多くは、ラグビー評論界の重鎮にして良心の小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)さんに寄っているので、小林さん辺りではずっと前から使っていたのかもしれない。

 余談だが、自身ではほとんど取材せず、小林深緑郎さん、大友信彦さん、永田洋光さん、生島淳さん、藤島大さん、秋山陽一さんなどが取材してきた情報を基に、好き放題に放言してきたのが、中尾亘孝である。

「スカッド」は「スコッド」に統一するべきではないか
 もっとも、最近の中尾亘孝は「スコッド」のやめて「スクォッド」などと表記し始めている。正しい発音は、なるほどこれに近い(正しい,ではない)。が、中尾は、ベトナムではなく「ヴィエト・ナム」などと表記するような極端な原語読み主義者である。こういうやり方が些(いささ)かならずウンザリさせられる。それはともかく……。

 ……テレビゲームのクリエイターや、スポーツ専門チャンネル、若手のサッカージャーナリストあたりが、英語のサッカー論壇の文脈にあった「squad」を「スカッド」として使い出したら、実は既にラグビーで「スコッド」が使われていました……ということなのではなかったかと、勝手に憶測する。

 それにしても、サッカーの「スカッド」、ラグビーの「スコッド」と表記が揺れているのは、何とも居心地が悪い。


 ラグビーの「スコッド」の方が古く、日本語でも定着しているのだから、サッカーの「スカッド」も「スコッド」に表記を統一するべきではないか……などと、つい考えてしまったのであった。

(了)



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