スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:F1

 2018年2月17日、平昌オリンピックでフィギュアスケート男子の羽生結弦(はにゅう・ゆづる)選手が金メダル(冬季五輪2連覇)を達成した同時刻。スマートフォンで第一報で知ったのだろう、日本の味の素スタジアムで試合を観戦していたFC東京のサポーターが突然に羽生選手を称えて「羽生コール」を始めた。
 この話を聞いて、どこかで聞いた話だと思ったら、少し不謹慎だが思い出した。

 ブラジル人のF1ドライバー、世界チャンピオン3回のアイルトン・セナが死んだ時のブラジルのサッカースタジアムの観客の反応である。

 もう24年も前のことになる。

 1994年5月1日、イタリア・サンマリノGP決勝レースでセナが事故死する。少し遅れて、ブラジル・サンパウロで試合中のモルンビースタジアム(サンパウロ対パルメイラス)に第一報が伝えられた。主催者は試合を止め、セナの訃報をアナウンス、黙祷を行った。その直後、モルンビースタジアムは「セナ・コール」の大音声に包まれた。

 このエピソードがサッカーとして印象的なのは、同年のサッカー・アメリカW杯で(PK戦ながら)優勝したブラジル代表が「私たちはセナといっしょに加速して4度目のワールドカップを手にした!」という意味のクサい台詞の横断幕を掲げたことであった(下の写真参照)。
1994年W杯決勝直後
 決勝の相手がイタリアだったのは何かの因縁だったのだろうか?

 いずれにせよ、今のサッカー日本代表にこんなあざといことはできないだろう。

 否、あざといことができてしまうような展開をロシアW杯では期待したいのだが。

(了)


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「日本人としてうれしい」は政治的に正しくない?
 佐藤琢磨選手が世界三大レース「インディ500」で優勝! 本当に驚いた。本当にうれしい。しかし、(私たちと同じ)日本人が勝ったからうれしい……と、表明するのは「政治的に正しくない」ことなのか?

 そんなことを問いかけるのは、日本の人というのは「日本人が世界的スポーツイベントで勝つ」ということに、いささかならず屈託があるからだ。



 むろん、先に引用したツイート主の方に当ブログは何の悪意もないし、伝えたいことは理解できる。だたし、政治性と離れたところで、このメッセージには違和感も覚える。

 なぜなら、そもそもスポーツとは、なかんずく世界的なチャンピオンシップとは「日本スゴイ」ではなく「日本ダメダメ」を語る場であったから。スポーツにおいて「日本人」は全然スゴクナイどころか全然ダメダメであり、だから佐藤琢磨選手は(のみならず日本人のレーシングドライバーは)日本人であるがゆえに世界(的なイベント)では勝てない……。そう信じられ、そう語られてきたからである。

草食民族=日本人は肉食民族=欧米人には勝てない!?
 モータースポーツ専門誌『オートスポーツ』2015年2月15日号に「特集[多角検証]日本人はF1で勝てるのか?」という特集記事があった。2017年時点で日本人はまだF1グランプリで勝ったドライバーはいないが、インディ500には勝っている。当時はどんなことを書いていたのだろうと興味を持ち、取り寄せて読んでみた。

 特集記事では、モータースポーツ関係者に「日本人はF1で勝てますか? Yes or No」と質問している。星野一義氏はYes、鈴木亜久里氏はNo、片山右京氏はYes、高橋国光氏はNo、今宮純氏はYes、川井一仁氏はYes、そして斯界の超大物ロン・デニス元会長(!)はYes……と、皆それぞれ理由を述べてあり、単純なイエスかノーかではない。ちなみに佐藤琢磨選手はこの時点ではNoだった。

 この中でひとり印象的だったのが、Noと答えたモータースポーツジャーナリストの赤井邦彦氏のコメントであった。
「No」攻撃性の欠如と日本的文化が障壁に
赤井邦彦(日本)モータースポーツジャーナリスト
「肉食人種〔欧米人〕がドライバーである限り、草食人種の日本人がF1を制することは難しい。日本人は『手先の起用さ』や『頭の回転のスピード』の優れた民族だと思うが、攻撃性が決定的に不足している。また、モータースポーツ特有の『一見、“ムダと思えてしまうカネ”を使う文化』も、日本の社会と相性が悪い。純粋に人種・民族としての能力だけでなく、日本の文化が変わらない限り、日本人がF1で勝利する日はこないように思う」
 サッカーファンなら(それ以外のスポーツファンも)この手の話を一度や二度は聞いたことがあるだろう。むしろ、大いに共感する人のほうが多いかもしれない。「肉食民族」を「狩猟民族」に、「草食民族」を「農耕民族」に置換すれば、さらに呑み込みが早いだろう。

 モータースポーツジャーナリスト林信次氏は『F1戦士デビュー伝説』の中で、欧米人はのレーシングドライバーは狩猟民族だから速いが、日本人のレーシングドライバーは農耕民族だから遅い……と、いったことを書いている(この本自体は良書である)。
F1戦士デビュー伝説
林 信次
ベストブック
1994-03

 有名無名を問わず、サッカーのみならずスポーツを語る場において、日本人はこうした俗説がを好む。





 一方、サッカージャーナリスト後藤健生氏のように「農耕民族の日本人は、狩猟民族の欧米人にスポーツではかなわない」という俗説にカウンターを試みる人もいるが、多勢に無勢、焼け石に水といった感がある。
後藤健生コラム「日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ」
【後藤健生「日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ」より】

 早い話、これらは、森田浩之氏(立教大学兼任講師=メディアスタディーズ、サイモン・クーパーの翻訳ほか)が指摘したところの文化論的なスポーツ論、すなわち「スポーツ日本人論」(サッカーの場合は「サッカー日本人論」)とでも呼ぶべき思想,言説の表出である。

 「スポーツ日本人論」の批判と克服は、まず、その論理を突き詰めて解体するという方法がある。だが、一番のいい批判と克服の方法は、日本人が(日本人では勝てそうにない)世界的なスポーツイベントで勝つこと。「実証」することである。

 赤井邦彦氏は、日本人は日本人であるがゆえにF1では勝てないとしていた。F1ではないが世界三大レースのインディ500で日本人(佐藤琢磨選手)が勝ってしまった。赤井氏の日本人観はどれだけ克服されたのか? それとも、されなかったのか?

身体能力も「個」も劣った「日本人」とかいうヒトの亜種
 日本人はスポーツの(なかんずくサッカーの)能力に先天的に大きく劣っている……という話を、日本人自身が熱心に力説したがる。これを人種差別,人種主義(レイシズム)と呼んでいいのかはひとまず置くとして、変則的な人種的偏見であることは間違いない。

 しかし、ジャーナリズム,評論,アカデミズム……日本の論壇の人たちに「スポーツ日本人論」が省みられることはほとんどなかった。この人たちの世界では「スポーツにおける人種問題」とは、主だって以下のようなものだった
 黒人はスポーツ能力,身体能力に優れている……一見、高い評価のようであるが、そこには恐るべき人種的偏見が含まれている。すなわち「黒人=身体=野蛮,未開/白人=精神,知性=文明」の二元論、さらには「黒人<白人」という優劣,序列である。スポーツあるいは身体に優れているという「黒人」は、実は内心では社会の支配的階層=「白人」に蔑視されている。

 こういった「神話」が信じられているために、黒人は学問や法律,ビジネスといった「知的」な職業を目指すことがなくなり、また機会も与えられることもなくなる。そう、まるで、英国の社会学者ポール・ウィリスが『ハマータウンの野郎ども』で描き出した、英国労働者階級の「落ちこぼれ」て「荒んでいる」不良少年たちように……。
ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)
ポール・E. ウィリス
筑摩書房
1996-09

 ……と、いったことを、いかにもインテリ風な言い回しで述べているのが先のツイートである(140字というツイッターの制約は、もったいぶった表現にはむしろ相応しい)。

 そればかりではない。スポーツの中においてすら、黒人はプレイメーカーやクオーターバックといった「知的」なポジションにはなれず、ストライカーやワイドレシーバー,ランニングバックといった「身体的」なポジションにばかり与えられる。いわんや黒人が監督(ヘッドコーチ)という「知的」な仕事に就くことはできないとされている。

 欧米の論壇で流行している、こうした議論が日本に輸入されている。

 さて、この図式の中で日本人は、黒人と白人、どちらの側に入るでしょうか?

 むろん、身体能力に優れている黒人の中には入れない。では、白人の側には……もちろん入れない。なぜなら日本人は、例えば「個の力」あるいは「個」などと称する、スポーツにとって重要な、ある種の知性なり知的能力なりが白人と比べて著しく欠落していることになっており(草食民族,農耕民族だから?)、スポーツ(なかんずくサッカー)には著しく不適格とされているからだ(中田英寿や本田圭佑は希少な例外のようだけれども)。

 黒人か白人かという対比は、実は同じホモサピエンス(ヒト)同士の微妙な差異に過ぎない。日本のスポーツ言説の世界では、どうやら日本人という、身体能力にも、スポーツにとって重要な、ある種の知的能力にも大きく劣った「ヒトの亜種」が存在するらしいのである。
 農耕民族(草食民族)たる
私たち日本人は、スポーツならざる日本人種として、私たち自身に人種主義的に、差別的に、自虐的に、ただただならざるを得ない。

 前掲の赤井邦彦氏のコメントには、こうした思想,言説の背景があるのだ。

 日本の論壇はそうした方面への洞察に欠けていた。スポーツに関する日本人への人種的に偏ったまなざし、「スポーツ日本人論」を省みることをしなかった。ヨコのものをタテに直して論じ耽っていればいい。けだし、インテリとは気楽な稼業ときたもんだ。

 日本のスポーツ社会学やカルチュラルスタディーズ(カルスタ)というのは、サッカー・ワールドカップで日本が勝利した時に東京・渋谷のスクランブル交差点で発生する大騒ぎに冷や水をぶっかけて、日本のナショナリズムを批判したつもりになっているだけだという「偏見」がある(香山リカ氏ではなく、山本敦久氏あたりを意識して書いている)。

 輸入モノだけではない。「スポーツ日本人論」の他にも、例えば中田英寿や本田圭佑をめぐるスターシステムのカラクリとその問題性など、日本の足元にも欧米にはないユニークなネタがたくさんあるのに実にもったいないと思う。

「日本人の勝利」を評価する難しさ
 先に紹介した『オートスポーツ』誌2015年2月15日号に「特集[多角検証]日本人はF1で勝てるのか?」を読むと、赤井邦彦氏のような飛躍したコメントはむしろ少数だった。才能の発掘や育成,技術,広い意味での政治力やビジネス力など、日本のモータースポーツを文字通り多角的で「科学的」に検証した、きわめてまじめな内容だった。

 あるいは、その成果が佐藤琢磨のインディ500制覇だったのかもしれない。サッカーファンからすると、日本のモータースポーツ・ジャーナリズムがうらやましい。

 サッカーがこういった特集を組むと「スポーツ日本人論」ばかりになる。

 事実。2014年のブラジルW杯で日本が非常に後味の悪い敗退をした後、テレビ東京系サッカー番組『FOOT×BRAIN』は、脳科学者を自称する中野信子のような疑似科学者を招いて、「日本人はサッカーに不適格な遺伝子を持っている」などというトンデモ話を開陳させた。


中野信子_サッカー_フットブレイン1
中野信子_サッカー_フットブレイン2
中野信子_サッカー_フットブレイン3
【FOOT×BRAIN2014年9月27日放送「目からウロコ!脳科学から見るサッカー上達法!」より。疑似科学者の中野信子に追従する聞き手の福田正博と前園真聖が本当に馬鹿に見える


 それに比べれば、『オートスポーツ』誌はずっとジャーナリスティックで素晴らしい。

 ちなみに「日本人はサッカーに向いていない」という話は、中野信子のオリジナルではない。1970年ごろから日本のサッカー論壇にたびたび表出してきた命題である。アジアですら下位に甘んじた70年代の日本サッカーと、W杯出場は当然のノルマとなった21世紀の日本サッカー。日本サッカーの国際的地位は格段に上昇したのに「日本人はサッカーに向いていない」という話がまったく変わらず出るのは、実に摩訶不思議である。

 むろん、政治的に絡めとられ、利用されることには最大限警戒しなければならない。その上で、日本人が世界の檜舞台で勝利し、日本人のスポーツにまつわるステレオタイプを打破したことを評価する「まなざし」を持つことは、なかなかに難しいのかもしれない。

(了)


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