スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:高校野球

内野席のネットの有無~日・米間の野球の違い
 日本の野球ジャーナリズムでは、発祥国たるアメリカ合衆国(米国)の野球、なかんずく大リーグ(メジャーリーグ,MLB)の流儀と何か異なっていると、それがスポーツとして、スポーツ文化として、犯罪的に間違っていることとして否定的な評価が下される。

 例えば、日本の野球場(球場)に設けられた内野スタンド(席)の観客防護用の「ネット」(網)での有無である。国の如何を問わず、公認野球規則上、本塁(ホームベース)の裏には「バックネット」(バックストップ)を設置が義務付けられている。しかし、一塁ベースまたは三塁ベースに近い内野席にはネットの設置は義務付けられていない。

 よく知られるように、米国の野球場の内野席には総じてネットがない。またファウルゾーンが狭い(下の写真参照)。

オラクルパーク野球場(アメリカ,サンフランシスコ)
【アメリカのオラクルパーク野球場(サンフランシスコ)】

 これは、観客の臨場感をより優先しているためと言われる。

 大リーグは長年、球場の内野席に防護ネットを設置しないことを〈伝統〉としてきた。選手と観客の間に境目(ネット)を設けないことは、ファンサービス精神の表れであるとされていた。

 一方、日本の野球場の内野席にはたいていネットが設けてある。また米国と比べてファウルゾーンが広めに設定されてある(下の写真参照)。

明治神宮野球場(日本,東京)
【日本の明治神宮野球場(東京)】

 これは、内野席に飛んでくるファウルボールの打球や折れたバットの破片などから、観客を守ることを優先しているためと言われている。

内野席のネットが大嫌いな玉木正之氏の言い分
 この、日本の野球場における内野席のネット設置の慣習を、アメリカ野球、大リーグの流儀を唯一絶対の判断基準として繰り返し断罪してきたのが、スポーツライターの玉木正之氏である。その玉木氏の批判の中から、最も本音に近く、かつ先鋭的と思われる1990年刊の新潮文庫『プロ野球大事典』から引用する。
ネット【net】
  1.  かつては、ファウル・ボールから観客を守るためのものだったが、現在では、観客から選手を守るために目的が変わった邪魔者
  2.  アメリカ大リーグのように、これをなくすれば、日本の観客も、もっとプレイに注目し、野球を楽しむようになるに違いない。それは危険だ……などというひとは、遊びにはつねに危険が付き物であるということが理解できないひとか、あるいは保安係の人件費をケチっている経営者である。ケガをしたらどうするんだ……などと心配する人は球場に来なければいい。そんなことでは観客に対して責任が持てない……と経営者がいうなら、ファウル・ボールに対して責任を負いませんと切符に書いておくだけで充分だ。バックネット以外にネットのない球場で、グラヴを持って野球を見に行きたいと切望しているのは筆者〔玉木正之氏〕だけか。
  3.  ネット(金網)は絶対に取り外せないというなら、引き分けなど廃止して金網デスマッチにしてほしい。
  4.  所沢西武球場をつくるとき、西武グループの総帥〔そうすい〕といわれる堤義明は、「バックネットがあるとゲームが見にくいから,なくせないものか」といったという。こういう堤オーナーの考え方は、常識破りのユニークな発想と称賛されているが、じっさいにバックネットを強化ガラスや強化プラスチックにした球場は存在した(サンフランシスコのシールズ・スタジアムやシンシナティのクロスレー・フィールド.しかし,汚れが目立って,いまは採用されていないらしい)。誰の考えることもそう大差はなく、「すごい発想だ!」などと誉めそやすひとの勉強不足(またはゴマスリ)である場合がほとんどなのだ。
玉木正之『プロ野球大事典』(新潮文庫)435~436頁



 野球と違って、世界各国の「お国柄」の違いには寛容なサッカーの在り方が、日本の人々に知れわたる前の1990年ごろのことであるから、玉木正之氏は、アメリカ大リーグを出汁(だし)にして、思う存分、日本の野球を罵倒している。

 例えば、内野席のネットを「観客から選手を守るために目的が変わった邪魔者」とか、「アメリカ大リーグのように,これをなくすれば,日本の観客も,もっとプレイに注目し,野球を楽しむようになるに違いない」とか論じるあたりは、日本野球の風潮で、もうひとつ玉木氏が大嫌いな存在である「応援団」に対する、玉木氏の当てこすりである。

▼アメリカ民謡『テキサス・ファイト』に日本の「応援団」文化の原点を感じた(2019年08月04日)

▼日本野球の「応援団」のルーツはアメリカの大学フットボールにあった!?(2019年05月02日)

 アメリカ大リーグが大好きな人たちは、大リーグの観客は、試合も見ずに歌い踊っているだけ(?)の日本野球の「応援団」などとは違って、試合に集中しており、またグラブを持参しているので、「危険」は少ない……と主張していたと言われている。

 また「遊びにはつねに危険が付き物である」というくだりは、ファクトやエビデンスよりもロマンチシズムを重んじる、玉木氏のスポーツライターとしての過剰なまでの思い入れを表している。

「ケガが怖いならメジャーの野球場には来るな」とは言えない時代
 ところが、ここ最近になって、大リーグの試合でもファウルボールの痛烈な打球が観客に当たり、重傷を負った。しかも、被害者の中には小さな子供がいた……という痛ましい事故が頻発している。

▼菊地慶剛「MLB球場にも防護ネットは必要なのか?」(2017/9/21)

 「ケガをしたらどうするんだ……などと心配する人は球場に来なければいい」……、いやいや玉木センセイ。もうそんな悠長なことを言っていられる時代ではないのですよ。

 野球という競技全体でパワーとスピードが向上していて、観客席に飛んでいくファウルの打球とて例外ではない。昔と違って危険度も高くなっている。その分、内野席の観客も自身の感覚だけで身を守ることが難しくなっている。

 それから、米国においても野球人気が下がっていると言われる。大リーグも、もはや〈伝統〉に拘泥している場合ではない。

 過(あやま)ちては改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ……。

〈伝統〉ゆえのためらい~メジャー各球場の内野席ネットの設置
 ……2019年に入って、大リーグの球場の内野席にも観客防御用のネットを設置する例が出てきた。

▼ホワイトソックスの本拠地が内野席全体に防御ネットを設置 メジャーでは初めて[2019年7月23日]

ホワイトソックス本拠内野全席にネット設置 観客安全のため[2019年7月24日]

 報道では、大リーグ各球団は内野席にネットを設置する方向に動きつつあり、「MLB側は面目なし!?」とまである。

▼MLB側は面目なし!? 各球場が次々と防護ネットを張る[2019年7月28日]

 むろん、この件に関して日本が正しかった、米国が間違っていた……という強弁したいわけではない。しかし、アメリカ大リーグは常に正しく、大リーグは常に正しいのだから決して間違っていない……という風潮は、再考するべきではないかという意味である。

 一方、コミッショナーを筆頭とする大リーグ当局は、全球場の内野席にネットを設けることには消極的なようだ。

 この辺りは、理屈では悪いと分かっていても、なかなか変えられない。本の高校野球に似て〈伝統〉の持つ縛る力、悪い側面を感じる。

 大切なのは、観客の安全と健康である。内野席に安全用のネットを付けたくらいで、野球自体がつまらなくなることはないはずだが。

(了)



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「高校野球総選挙」の順位から見えるもの…
 今年2018年、夏の甲子園「全国高等学校野球選手権大会」は、前身の「全国中等学校優勝野球大会」から数えて第100回を数えた。これを記念して、8月5日、テレビ朝日系列では「高校野球総選挙」を放送した。最近、地上波民放テレビで流行りの「総選挙」と銘打った各ジャンルの人気投票番組のひとつである(同じテレビ朝日系の「プロレス総選挙」はなかなか面白かった)。
テレビ朝日系「高校野球総選挙」番組ホームページから
「高校野球総選挙」
夏の甲子園100回目を迎えるメモリアルイヤーの今年、
禁断の企画が解禁…!!

番組では高校野球ファン10万人にアンケートを実施!
記憶に残る、歴代のスゴい高校球児を貴重映像とともにランキング形式で発表します!
 番組で発表された人気投票の順位は以下の通り(校名は選手の在籍当時のもの)。

高校野球総選挙1位~10位
順位 P 選手 高校
1   松井秀喜 星稜
2 松坂大輔 横浜
3 江川卓 作新学院
4   清原和博 PL学園
5 田中将大 駒大苫小牧
6 大谷翔平 花巻東
7 王貞治 早稲田実業
8 桑田真澄 PL学園
9   清宮幸太郎 早稲田実業
10 ダルビッシュ有 東北

高校野球総選挙11位~20位
順位 P 選手 高校
11 斎藤佑樹 早稲田実業
12 鈴木一朗 愛工大名電
13 太田幸司 三沢
14   原辰徳 東海大相模
15 板東英二 徳島商業
16 荒木大輔 早稲田実業
17   中村奨成 広陵
18   オコエ瑠偉 関東一
19 松井裕樹 桐光学園
20 藤浪晋太郎 大阪桐蔭

高校野球総選挙21位~30位
順位 P 選手 高校
21 菊池雄星 花巻東
22 工藤公康 名古屋電機
23 尾崎行雄 浪商
24   中田翔 大阪桐蔭
25   香川伸行 浪商
26 定岡正二 鹿児島実業
27 愛甲猛 横浜
28 安樂智大 済美
29 島袋洋奨 興南
30 水野雄仁 池田

うして概観してみると、一定の傾向に気が付く。

高校野球のスターやアイドルは投高打低
 エクセルで作成した順位表に少しばかりの解説をする。「P」とある列は「ポジション」または「ピッチャー」の意味で、★印は高校野球では打者としてではなく、投手として評価されている選手である。王貞治や鈴木一朗(イチロー)は、その意味で★印(投手)として分類した。大谷翔平も同様(もっとも,甲子園で大して勝ち上がっていないイチローが,この番組にノミネートされるのは変なのだが)。
 高校野球のスター選手、アイドル選手は投手の方が多く、打者が少ない。これは(大いに不満であるが,番組の中では全く触れられなかった)大正~昭和戦前期の旧制中等学校の時代からそうであって、小川正太郎、楠本保、中田武雄、吉田正男、沢村栄治、川上哲治、野口二郎、嶋清一……みな投手である(追加:水原茂も、藤村富美男も、投手である)。打者(クリーンアップまたはスラッガー,強打者)として名前を残している山下実(和製ベーブ・ルースと呼ばれた)や宮武三郎といった選手は、少数派だ。

 現在の高校野球は、金属バットやウェイトトレーニングなどの効果でホームランや長打が増加した「打高投低」の野球になっているが、それでも選手の注目度では、やはり「投高打低」である。今年2018年の第100回大会で最も注目を浴びた選手、秋田県立金足農業高校(準優勝)の吉田輝星(よしだ・こうせい)もまた投手であった。

 余談ながら、当ブログは一応サッカーブログなのでサッカーの話も書いておくと、金足農業にはサッカー部がないそうである。

玉木正之氏「1対1の勝負説」と高校野球
 ところで、なぜ高校野球は「日本人」にこれほどまでに人気があるのだろうか? なぜ、「日本人」にはサッカー(などフットボール系の球技)ではなく、野球の人気の方が高いのだろうか? これには、スポーツライター玉木正之氏が繰り返し唱えている「1対1の勝負説」とでも呼ぶべき俗説が、半ば「天下の公論」として世間に流通している。
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【玉木正之氏】

 すなわち、欧米人は集団的戦闘(≒チームプレー)を好む。一方、「日本人」は軍記物語や講談などにあるように「やあやあ我こそは……」と武士同士が互いに名乗りを上げて戦う「1対1の勝負」を好む。この違いは、欧米と日本の歴史や文化、国民性の違いに裏付けられている(下記リンク先参照)。
 明治初期、野球(ベースボール)、サッカーなど、実にさまざまなスポーツが日本に伝来した。その中で、日本人の好みや美学に最も合致したのは、11人vs11人のチームプレー(集団的戦争)がゲームの基本となるサッカーよりも、投手vs打者の「1対1の勝負」がゲームの基本となる野球だった……というものである。。

 6月、NHKの「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!』という番組を見ていたら、明治大学(だったと思う)のスポーツ社会学の教授(名前は失念)が、日本の歴史上、サッカーより野球の人気が先行した理由として、この「1対1の勝負説」を述べていた。玉木氏の影響力の強さには恐れ入るところがある。

 しかし、である……。
  1. 明治初期(19世紀後半)、正岡子規が野球選手だった頃の野球のルールは現在のそれと根本的に異なっていること。
  2. 例えば、当時のルールは投手に非常に厳しいもので、ピッチングの技量・力量で打者を打ち取るケースが希少であったこと。
  3. つまり、当時の野球のゲームの基本は「1対1の勝負」とは見なし難いこと。
 ……これらの理由から、玉木正之氏の「1対1の勝負説」は正しくないと言えるのだ。

 当ブログは、以上のような内容で玉木氏の「1対1の勝負説」に対する反論を、繰り返し繰り返し、しつこくしつこく書いてきた(下記リンク先参照)。
 本当に投手vs打者の「1対1の勝負」が好きだから「日本人は野球が好き」なのだろうか?

高校野球が語り継いできた「物語」とは?
 この問題を考える絶好の事例が、実は高校野球なのである。「日本人」は甲子園=高校野球でどんな物語を語り継いできたのだろうか?
第1回全国中等学校優勝野球大会始球式
『朝日新聞』のウェブサイトから



【アマゾンの古書情報から】

 玉木正之氏が常々唱えてきた「1対1の勝負説」が正しいならば、甲子園=高校野球の名勝負物語は、Aチームのエース投手vsBチームのクリーンアップ打者の物語という図式が多くなりそうだが、そういう例は少ない。

 実際に、高校野球の名勝負の物語、ライバル物語として語り継がれるのは「両チームのエース投手同士の投げ合い」といったパターンが多い。ざっと例を挙げてみると(以下の例は各チームで先発したエース投手.左側が勝者)。
  • 昭和8年(1933)夏:吉田正男(中京商業)vs中田武雄(明石中):延長25回
  • 昭和33年(1958)夏:板東英二(徳島商業)vs村椿輝雄(魚津高):延長18回再試合
  • 昭和36年(1956)夏:尾崎行雄(浪商高)vs柴田勲(法政二高):前年夏から3季連続対決して尾崎の1勝2敗
  • 昭和44年(1969)夏:井上明(松山商業)vs太田幸司(三沢高):延長18回再試合
  • 昭和55年(1980)夏:愛甲猛(横浜高)vs荒木大輔(早稲田実業):不良vsエリート
  • 平成10年(1998)夏:松坂大輔(横浜高)vs上重聡(PL学園):延長17回
  • 平成18年(2006)夏:斎藤佑樹(早稲田実業)vs田中将大(駒大苫小牧):延長15回再試合
 ……と、まあ「野球から遠く離れて」の当ブログでもこれくらい思いつく。詳しい人なら、もっといろんな試合を挙げるかもしれない。

 ちなみに、2018年9月25日閲覧のウィキペディア「第88回全国高等学校野球選手権大会決勝」(2006年の斎藤佑樹=早稲田実業vs田中将大=駒大苫小牧)の項目では、斎藤・田中両エースの投げ合いをもって「一騎打ち」と表現されている。投手vs打者の物語ではないのだ。

 そうでなければ、江川卓(作新学院)の「孤高のエース」像か。これも余談だが、板東英二(夏)も、江川(春)も、甲子園の奪三振のレコードホルダーは「打てないチーム」のエース投手であった。

 いずれにせよ「日本人」は甲子園=高校野球を「投手の物語」として語り継いできた。

 つまり、玉木正之氏の「1対1の勝負説」はここでも怪しい。有り体に言えば間違っているのである。

 サッカーファンは、自身を持っていいです。

(了)



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前回「サッカー天皇杯は元日決勝から卒業するべきである(上)」をざっくり……
  • サッカー天皇杯は「元日決勝」をやめるべき。その根拠を従来論じられてきた日程問題とは別の視点から考えていく。
  • 日本のサッカーは、野球(プロ野球,高校野球ほか)と違い、国内シーン(Jリーグ,天皇杯ほか)に「伝説の名勝負」と言える試合が少ない。
  • その理由は、天皇杯が「元日決勝」に固執しているから。日本でサッカー人気がブレイクしきれない原因が「元日決勝」である。
天皇杯カップ

マスコミの露出と「元日決勝」
 サッカー天皇杯の恒例「元日決勝」を支持する人たちは、正月・元日という特別な「ハレの日」に試合が行われる……など、さまざまなメリットを強調したりする。例えば、マスコミ露出度が高いから「元日決勝」は継続されるべきという主張がある。
 しかし、当然、元日に行われるためのデメリットも存在する。実態は逆で★むしろ「元日決勝」にこだわっていることで、メディア(マスコミ)の露出は非常に少なくなってしまう。「元日決勝」はマスコミ露出度が高いから……という言い分は全く正しくない。

 なぜなら、元日ふくめ正月3が日は全てのテレビ局が特別編成に入っていて、スポーツ関連ニュースはごく短い時間でしか放送されないからである。加えて、翌日1月2日は新聞休刊日であり、元日に行われた天皇杯サッカーの報道は、新聞では1日遅れの報道となってしまうからである。

 どうしたって、年末年始のスポーツイベントの主役は、これも恒例1月2日~3日に行われる「箱根駅伝」になる。このイベントが報道される1月3日にはマスコミのスポーツ報道は、ほぼ通常に回復する。サッカー天皇杯は箱根駅伝の風下に置かれ続ける。

 これでは、どんなに素晴らしい試合を展開しても、マスコミ(テレビ,新聞など)によって増進増幅されて人々に伝えられ、記憶され、繰り返し語られることはない。

 日本人は、1936年「ベルリンの奇跡」も、1968年「メキシコ五輪銅メダル」も生の実況中継では視ていない(あるいは聴いていない)。マスコミによる2次・3次……の情報、映像・音声などでそれら知り、語り草にしている。

 つまり、スポーツの「名勝負」……この場合,単なる一競技の枠を超えた(国民的な)記憶として人々に共有され,歴史を超えて語り継がれていく試合.当ブログの場合,NHKのスポーツ名勝負モノ番組に取り上げられる試合のこと……とは、それ自体で「名勝負」になるのではない。マスコミがその試合の情報を人々に媒介することで「名勝負」が形成されていく。

 サッカーへの関心をサッカーファンでない層にも広げる力、人々に偶然の出会いからサッカーへの関心を持ってもらう力は、インターネットメディアに対する既存のマスメディア(マスコミ)の利点である。

「特別な日」と「天皇杯サッカー決勝」
 日本のサッカーの「名勝負」と言えば、もっぱら日本代表がらみの国際試合で、国内の試合(Jリーグや天皇杯)の印象に乏しい。殊に、特別な日に行われるはずの天皇杯「元日決勝」に「名勝負」がみられないのは、いったいどうしたわけか?

 ラグビーでいえば、これも特別な日=祝日1月15日(旧「成人の日」)に行われた「1985年(84年度)日本選手権 新日鉄釜石vs.同志社大学」……。

 あるいは、平日開催だったが、まだ正月の松の内1月6日に行われた「1991年(90年度)大学選手権決勝 明治大学vs.早稲田大学」……。
トライを決める明大・吉田(撮影日1991年01月06日)
 ……この2つの試合は、NHKの[
伝説の名勝負]というスポーツ名勝負モノ番組の題材として取り上げられている。翻って、日本サッカーの国内シーンで、この種の番組に取り上げられる試合がないのは、いったいどうしたわけか?

 なかんずく、メディア露出度と認知度が高い(この場合,地上波テレビの中継ということ)はずの「元日決勝」の天皇杯サッカーで、後々語り継がれる「名勝負」がないのは、いったいどうしたわけか?


 例えば、1992年(91年度)1月1日の「第71回天皇杯天皇杯決勝 日産自動車vs.読売クラブ」の試合は、その歴史的位置付けや出場選手の顔ぶれ、試合の面白さなどを鑑みると、NHKが[
伝説の名勝負]のような番組で取り上げてもいいくらいの試合なのだが、なぜか埋もれている。いったいどうしたわけか?

 「元日決勝」では、どんなに素晴らしい試合をしても、その勝負がマスコミによって広く喧伝されることはない。したがって、それが「名勝負」へと昇華することもないからだ。

 日本サッカー協会が主催するサッカー天皇杯は、全国の新聞社や放送局(テレビ,ラジオ)にニュースを配信する「共同通信社」と、コンテンツが全国津々浦々まで放送される公共放送「NHK(日本放送協会)」の共催である。

 しかし、マスコミのスポーツ報道のルーティンが機能しない「元日決勝」にこだわるあまり、共同通信やNHKとの共催のメリットを活(い)かしているとはとても言えない。

 日本でサッカーがいまひとつメジャーになり切れない、野球の人気を追い越せそうでいて追い越せないの理由のひとつが「元日決勝」である。

つづく


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サッカー天皇杯「元日決勝」問題とは?
 正月朔日(ついたち)、1月1日、あるいは元日(がんじつ)とくれば、恒例「天皇杯全日本サッカー選手権大会」決勝の日である。
天皇杯カップ
 この「元日決勝」については、すでに破綻しているともいわれる日本サッカーの過密日程の問題や、勝ち上がれば勝ち上がるほど選手のオフシーズンが短くなる罰ゲーム的日程(Jリーグの最終節は12月第1週.天皇杯のファイナリストは元日の決勝までさらに1か月近くシーズンが続く)の問題など弊害は多く、その変更を求める声は以前から多かった。
 天皇杯決勝は……1月1日……やめて欲しい。……J〔Jリーグ〕の最終節前後にすればよいのだ。理由は……天皇杯決勝を元日にしないだけで、破綻している日本サッカー界の日程を僅〔わず〕かながらも改善できるのだ。とにかく、明日から全てのJリーガ〔ママ〕が休暇に入れるのだ。私たち〔サッカーファン,スポーツファン〕に、毎週毎週歓喜と落胆と言う最高級玩具を提供してくれる戦士達〔サッカー選手たち〕に、適切な休息を提供するのがいかに重要な事か。

 元日決勝は、Jリーグ開幕前、サッカーが多くの国民の注目を集める前は意味があった。しかし、Jリーグが開幕し、多くの国民がサッカーを知るようになり、もう20年が経過した。正月に拘泥する必要はない。年末年始にサッカーを見たいならば、高校サッカーがある。元日くらいは休めばよいのだ。

 ……もう、元日決勝は終わりにしよう。

武藤文雄のサッカー講釈「宇佐美と遠藤爺と石崎氏による証明」2014年12月13日
 一方、元日決勝は、日本サッカーの「伝統」であり、正月の「風物詩」であるがゆえに、存続を求める少なからぬ声がある。その「声」にはファンばかりか、不利益をこうむるはずのサッカー選手からのものすらある。
 一般人からすれば「元日からサッカーなんて」と思いたくなる。だが、選手たちはそうではない。浦和〔レッズ〕在籍時に天皇杯を制したMF長谷部誠(30=Eフランクフルト)は「正月だから休みたい、なんてとんでもない。僕ら〔サッカー選手〕にとって元日から真剣勝負ができるなんて、選手冥利に尽きますよ。リーグ戦優勝も大事ですが、元日の天皇杯決勝は特別なんです。それに、僕らは高校時代から正月の(全国高校サッカー)選手権を目指していたんで、正月に公式戦をやっていないほうが寂しいというのがあるんです」と語っていたのを思い出す。

 当ブログは、エントリーのタイトル通り「サッカー天皇杯は元日決勝から卒業するべきである」という立場である。今回は、この問題を従来の日程問題とは別の視点から考え、あらためて主張してみる。

元日決勝の問題を「名勝負の記憶」から考える
 天皇杯全日本サッカー選手権大会の主催は公益財団法人日本サッカー協会、共催は通信社の共同通信社、もうひとつは公共放送のNHK(日本放送協会)である。

 NHKと聞いて、気が付いたことがある。

 NHKという放送局は、スポーツのドキュメンタリー番組、なかんずく過去のスポーツ名勝負モノの番組がとても多い。以下、番組名を列挙していくと……。

[NHKスペシャル(かつてのNHK特集)]
NHK特集 江夏の21球 [DVD]
ドキュメンタリー
NHKエンタープライズ
2010-10-22


[伝説の名勝負]


 その試合の録画をフルタイム観戦しながら、対戦した両チームの当事者が試合の舞台裏語り合う。ソフト化された「1985年ラグビー日本選手権 新日鉄釜石vs.同志社大学」をはじめ、「1985年サッカーメキシコW杯アジア最終予選 日本vs.韓国」「1968年メキシコ五輪サッカー3位決定戦 日本vs.メキシコ」「1964年東京オリンピック女子バレーボール決勝 日本vs.ソ連」など。

[スポーツ大陸]



[ヒーローたちの名勝負]

NHKヒーローたちの名勝負1
NHKヒーローたちの名勝負2
【ヒーローたちの名勝負「1996年アトランタ五輪サッカー最終予選」】


[VICTORY ROAD~勝利への選択]

 この番組は、上に掲げた「1989年ラグビー国際試合 日本vs.スコットランド」(TBS=東京放送=が放送)のように、NHKでは放送されなかったスポーツの試合を取り上げられることが多かったような気がする。

 ……こうした番組の数々を見ると、日本のサッカーについて、ある特徴に思い当たる。

国内スポーツで「野球>サッカー」なのは天皇杯元日決勝のせい?
 NHKが放送する、過去の名勝負モノのスポーツドキュメンタリー番組には一定の傾向がある。サッカー=フル代表(A代表)はもとより、女子(なでしこジャパン)、オリンピック代表(23歳以下)など、ほとんどが「日本代表」の国際試合や世界的規模の大会にかかわるものである。
ジョホールバルの歓喜_岡野雅行のゴールデンゴール
【1998年11月16日 サッカーW杯アジア第3代表決定戦 日本vs.イラン】

 一方、野球=プロ野球(NPB:セ・パ両リーグの公式戦や日本シリーズなど)、アマチュア野球(特に東京六大学野球や春・夏の高校野球)と、もっぱら国内の試合である。
星稜高校
【1979年8月16日 全国高等学校野球選手権大会 箕島高校vs.星稜高校】

 実は、両方満たしているのがラグビーだったりするのだが(前掲の番組・ソフト参照)、サッカーや野球に比べると少しマイナーの感は否めない(ラグビーファンの皆さんごめんなさい)。

 とにかく、サッカーと野球の2つは非常に対照的である。

 野球に関して、日本代表(侍ジャパン)による国際試合の「名勝負」……この場合,単なる一競技の枠を超えた(国民的な)記憶として人々に共有され,歴史を超えて語り継がれていく試合のこと……の印象が乏しいことの理由を求めることはたやすい。

 野球は、21世紀になるまでナショナルチーム(代表チーム)による、オーソライズされた国際試合や世界大会、すなわちサッカーでいう国際AマッチやFIFAワールドカップ(W杯)に相当するものが存在しなかった。そして「ある意味」で未だに存在しない。詳説は省くが、ワールドベースボールクラシック(WBC)やWBSCプレミア12といったイベントは、オーソライズされた国際大会ではないからである。

 だから、WBCやプレミア12における「侍ジャパン」の試合は、地上波テレビで高い視聴率を獲得することはあっても、「名勝負」として記憶されていくことは、今後ともなかなかに難しいのではないかと思われる(あくまで独断と偏見です.野球ファンの皆さんごめんなさい)。

 反面、サッカーは、代表チームと違って、国内シーン(Jリーグや天皇杯,Jリーグ杯など)の「名勝負」の印象に乏しい。

 これもスポーツ名勝負モノと言えるが、NHK-BS1に[古田敦也のプロ野球ベストゲーム]という番組があった。

 この番組で取り上げられた試合のうち、20世紀に行われた試合、例えば「悲劇のダブルヘッダー(1988年 ロッテ×近鉄)」「伝説の一〇・八決戦(1994年 中日×巨人)」「阪神打線 怒涛のバックスクリーン三連発(1985年 巨人×阪神)」あたりは、日本の一定の世代以上の平均的なスポーツファンならば(サッカー,野球の別なく)、広く記憶している試合である。

 翻って、日本のプロサッカー=Jリーグでは、こういった番組の制作は難しいのではないか? 同じ趣旨で「宮本恒靖のJリーグ ベストマッチ」などといった番組をやってみても、取り上げる各々の試合は熱心なJリーグファンの枠を超えた広い関心を呼ぶ可能性は低いだろう(Jリーグファンの皆さんごめんなさい)。

 それは、マニアだけが視る、相当にマニアックな番組になってしまう。BSどころか、CS送り、あるいはダ・ゾーンやAbemaTVのようなインターネットテレビのコンテンツになってしまうのではないか?

 現在、日本において野球の競技人口は減り続けている。今後、ますます減り続け、そう遠くない将来に野球は完全にマイナースポーツに転落する……という観測もある。

 しかし、そんな実感が今一つあまり湧(わ)かない。サッカーが野球を打倒できそうでなかなか打倒できない理由のひとつが、Jリーグや天皇杯といった国内サッカーシーンの印象の希薄さではないだろうか?

 このことは巡り巡って、サッカー日本代表のパフォーマンスにも影響してくる。

 その「希薄さ」は、日本サッカー協会が「天皇杯全日本サッカー選手権大会」の決勝期日を「元日」にこだわっていることに原因があるのではないか。

つづく


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高校野球報道における公立校・進学校びいきの風潮
 何だかんだ言って、今年の「夏の甲子園」(全国高等学校野球選手権大会)も話題に事欠かなかった。例えば、公立校の甲子園(本大会)進出はますます減少、今回はとうとう10校を切ったそうである(全49校中8校)。
 その反動で、ここ数年、高校野球報道でやたら公立公立と騒がれるようになっている。特に公立校の普通科で、それも有数の進学校だったりするとマスコミを中心に大変な話題になる。今大会でいえば、滋賀県代表、滋賀県立彦根東高等学校。あるいは福岡県代表、福岡県立東筑高等学校。いずれも、マスコミの扱いは破格であった。そうした学校の、私立の野球強豪校とは一線を画した「高校野球観」も目立って採り上げられた。
 その一方、(よくない言い方だが)いわゆる底辺校の監督が「文武両道あり得ない」という趣旨の発言をしてネットで炎上。初戦の対戦相手、香川県立三本松高等学校も公立の進学校で、しかも負けてしまったため、バツの悪い事になってしまった。
 それにしても、これだけ「格差」のあるチーム同士が「甲子園」という同じ舞台に登場し、場合によっては相見(あいま)みえるスポーツイベントというのも、なかなか興味深い。あるいは海外のサッカーとも通じるところがあるのではないかとも連想した。

英国サッカーのプロ化、高校野球の「プロ化」
 イングランド・サッカー、FAカップの初期の(19世紀の)優勝チームを見てみると、オックスフォード大学、オールドイートニアンズ(超名門パブリックスクール「イートン校」OBクラブ)、ロイヤルエンジニアズ(王立工兵連隊)といったエリート的なアマチュアのクラブが名を連ねている。だが、次第にそれらはプロフェッショナルの選手とクラブに取って代わられる。
ロイヤルエンジニアズFC
【ロイヤルエンジニアズFC(19世紀)とチームカラー】

 一方、大正時代の高校野球(当時の学制では中等学校だが)の優勝校・上位進出校を見ていると、当時は、秋田中、市岡中、愛知一中、神戸一中、和歌山中……といった、その府県のトップクラスの公立校か、慶應義塾、関西学院、早稲田実業、甲陽学院……といった、私学の名門である。
高校野球歴代優勝校
【大正時代の高校野球の歴代優勝校】

 現代の甲子園でも、こんな学校が進出すればマスコミも嬉しがるだろう。もっとも、明治・大正の当時はスポーツをやること自体が「ぜいたく品」であった。進学率が現代より極端に低い時代、スポーツは一部の上級学校の進学者のみの特権だったのである。時代が下って、そこに○○商業といった実業学校(生徒=選手をより集めやすい)が割って入り、そしてより大衆的(?)な私学が台頭、さらにスポーツの大衆化が進んで現在への私立野球強豪校の席捲へとつづく。

 松谷創一郎氏は、昨今のそうした私立野球強豪校の席捲を、高校野球を「『教育の一環』をタテマエとする“プロ部活”」だと非難じみて論じている。しかし、スポーツにおいては「プロ化」自体は、むしろごく自然な流れである(高校生年代のスポーツでそれがいいのか等々の問題は別として)。
 仮に歪んだ仕組みにあっても、そこに呼吸する者の価値は皆無ではありえない。新聞社の宣伝、学校経営の道具、高校野球の実相だろう。もとより支持したくはない。それでも、甲子園に語られるべき一投一打は存在する。

藤島大『知と熱』あとがき より



 松谷氏の発言は、英国サッカーにおいて、古典的でエリート的なアマチュア主義者がプロフェッショナルを非難している様子と似ていなくもない。しかし、英国(その他の国々)のサッカー同様、高校野球はスポーツが少数のエリートの独占物だった昔にはもう戻れない。英国サッカーと高校野球の歴史は、ある意味で似ている。

日本は歴然とした階級社会である
 欧米サッカーの熱狂、そこには欧米の階級社会が深く関わっているといわれる。例えば、英国スコットランドのレンジャーズ対セルチックのダービーマッチ、南米アルゼンチンのリバープレート対ボカジュニアーズのダービーマッチは、上流・中産階級vs労働者階級の階級対立を孕(はら)んでいる。だから、あれだけ多くの人々が熱狂するのだ。
オールドファームダービー
【レンジャーズ対セルチックのダービーマッチから】

 翻って、日本は階級社会ではない。日本は世界でもまれにみる平等社会、無階級社会、一億総中流社会である。つまり日本には階級対立が存在しない。したがって階級対立のエネルギーがスポーツに反映されることはない。日本のスポーツ文化は欧米と比べて、きわめて微温的なものである……などと、論じられてきた。

 実は、日本もずっと以前から相当な階級社会である。ロビン・ギルという日本在住のアメリカ人の著述家・翻訳家がいて、いろいろと本を出していた(アメリカに帰ってしまったらしい)。彼の著作『日本人論探検』**に、日本平等社会説、日本無階級社会説、一億総中流社会説に対する反論として、次のような話が出てくる。
日本人論探険―ユニークさ病の研究
ロビン・ギル
阪急コミュニケーションズ
1985-12

 1960年、萬成博とジェームズ・アベグレンによる日米比較調査によれば、アメリカ合衆国の政府高官やビジネスエリートの息子たちが占めている高い地位は、同年輩の全人口のに占めている彼らの割合に比べて、7~8倍も上回る出世率となっている。日本の場合、同様のアドバンテージは、アメリカよりさらに上、何と25倍になっている。

 日本における各界リーダーの3人に2人は社会の上層8分の1の家の出身である。日本は人的流動性の高い社会だとはとても言えない。この傾向は1970年、1980年の調査結果でもほぼ同じだった。

 1983年、カリフォルニア州立大学のトーマス・ローレンは1年強にわたって神戸の5つの高等学校を調査し、こう結論づけた。「神戸の一流(high status)〔灘高校〕と三流(low status)高等学校のあいだの社会的断絶は非常に大きい。その隔たりは一九世紀の階級差(日本、欧州いずれにせよ)に劣らないくらい広いのだ。それはただ単に、学問上のギャップではない」(『日本の高校~成功と代償』として邦訳、出版)。
日本の高校―成功と代償
トーマスP. ローレン
サイマル出版会
1988-03

 考えさせる観測であろうと、ロビン・ギルは次のように語る。
 もし仮に大学あるいは高校を出ていないすべての肉体労働者の皮膚を黒く染めること。またその皮膚の色を子供に遺伝させることができたなら、そういった日本人の子孫が、たとえばアメリカの黒人の場合よりも流動性が低いという驚くべき(?)状況が明るみに出るはずだ。

ロビン・ギル『日本人論探検』134頁
 「大学あるいは高校を出ていない」に加えて、現代では「格付けの低い大学を出た」も入るのだろうか。「大学」を卒業しても、非正規雇用で「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり……」という状況である。
 将来、日本の経済成長が後退するとき、政府がどんな教育革命をやってみてもやはり、遠く前に亡くなったはずの不平等の問題は再び現れるだろう、きっと。

同書136頁
 1985年に発したロビン・ギルのこの「予言」は、2017年現在、ほとんど当たっている。ちょっと怖いくらいだ。日本は階級社会なのである。

甲子園の「野郎ども」
 日本は階級社会ではないから、欧米のようなスポーツの熱狂に欠けると言われてきた。しかし、ロビン・ギルの指摘に従えば、日本もまた歴然とした階級社会である。そんな日本社会の「階級性」が、なぜ欧米諸国のようにJリーグやプロ野球に反映しないのかは、いろいろ考えてみる意味はあるかもしれない。

 日本のスポーツの場合、階級性は、一億総中流ではなくなったこの時代になって、高校野球に少しばかり現れるようになってきたのかもしれない(ただし、抽選で組み合わせが決まるから、欧米サッカーのように毎回「階級対立」的な試合があるわけではないが)。
 悲しいかな、文武両道には強い味方がいる。メディアであり、メディアによって作られた社会全般の声だ。実際強豪校と文武両道校の戦いになれば、自校の応援席以外は冷たい。

 三本松vs下関国際の試合に際してツイッター検索で、下関国際高校に関する「つぶやき」を追いかけてみた。試合前に夕刊タブロイド紙『日刊ゲンダイ』のサイトに載った監督の発言のせいもあるのだろう(取材した記者が監督の談話を誇張したという説もあるが真相不明)。ツイッターは、下関国際国際への嫌悪感やら侮蔑の念を表明した反応が多く目立った。

 これには、かえって違和感を感じた(さすがに下関国際高校野球部監督の、過剰な練習を強いる前時代的な指導方針はスポーツとして認められないけれども)。

 英国のミドルクラス(おそらくはその中でもロウアーミドル=lower middle class)の子供は、顔を洗うことと、労働者階級を馬鹿にすることを覚えるという(林信吾の本だったと思う)。一連のツイートは、そんなことをも連想させるのだ。高度成長・経済大国の時代からは日本の国力は後退していて、大衆はだんだん報われなくなっている。その分、誰かを下に見ていたいという心理の現れだろうか。

 マスコミの公立校びいき、進学校びいき。「底辺校」への嫌悪と侮蔑は、日本の階級差別……と言って悪ければ、ある種の日本の階級意識の現れなのである。
 だが一方で、知性をバカにすることによってプライドを保つ人たちが、そしてそういう人によってしか担われない領域の仕事というものがこの世には存在するのである。〔英国の〕社会学者ポール・ウィリスはその辺の事情を見事に明らかにしている〔『ハマータウンの野郎ども』〕。世の中は知的エリートによってだけ動いているのではない。知的であることによってプライドを充足できる。他方に反知性によりプライドを充足する人々がいる。人間はプライドなしには生きられないという観点からすれば、どちらも等価である。


 むしろ、下関国際高校の監督のように、公立校・進学校に注目する風潮とは反対の立場から、本音に近い感情や言い分がマスコミ(『ここもまた知的エリートの業界である)に載ったということの方が珍しいのではないか(こうした学校は、どうやって生徒たちのモチベーションを上げ、維持していくのだろうか)。

 それは、サッカーイングランド代表デビット・ベッカムを国民的ヒーローとして応援し、祭り上げておきながら、一方で、労働者階級出身であるベッカムを内心さげすんでいる英国の中産階級以上の人々の感情にも似ている。この辺は日本も同様か。

 ベッカムはベッカムで、ステータス上昇のために自身が話していたロンドン下町訛り(コックニー)の英語を矯正している。夫人のビクトリア・ベッカムは体の方々に入れたタトゥー(入れ墨)を除去しているという噂がある。

 英国は英国なりに、日本は日本なりに階級社会である。日本のスポーツにおける階級意識は、サッカー(Jリーグ)やプロ野球ではなく、高校野球に現れるのである。

(了)


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