スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

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晩年に劣化した小田嶋隆氏のサッカー観
 著名なコラムニストにして、サッカーファン、そして浦和レッズの熱烈なサポーターでもあった小田嶋隆氏(1956-2022)。

小田嶋隆(1956-2022)
【小田嶋隆(1956-2022)】

 だが、その晩年(還暦以降)のサッカー観はまったく劣化し、彼のサッカーコラムは本当につまらなくなった……。

ハリルホジッチ氏解任事件の真因とは?
 例えば……。ロシアW杯本大会を目前に控えた2018年4月、成績不振などを理由に断行された、サッカー日本代表監督 ヴァイッド・ハリルホジッチ氏解任事件。

 小田嶋隆氏は大いに憤慨している。

 そして、日経ビジネス電子版の連載コラムで、ハリルホジッチ氏を更迭した日本サッカー協会や田嶋幸三・同協会会長を口を極めて非難している。
 >>私〔小田嶋隆〕は、ハリルホジッチ監督を解任した日本サッカー協会のガバナンスを信頼していない。

 >>私〔小田嶋隆〕の見るに、彼ら〔日本サッカー協会〕は死によってのみ治癒可能なタイプの疾患をかかえている人々だ。

 >>〔日本〕サッカー協会の会長〔田嶋幸三〕は60ヅラを下げたおっさんだ。その酸いも甘いも噛み分けているはずの還暦過ぎのジジイ(すみません、書いている自分=小田嶋隆=も還暦過ぎました)が、〔ロシア〕W杯を2カ月後に控えたタイミングで代表監督を解任するにあたって持ち出してきた解任理由が、言うに事欠いて「信頼関係が多少薄れてきた」だとかいう間抜けなセリフだったというこのあきれた顛末を、われわれは断じて軽く見過ごすわけにはいかない。こんなバカな理由を、いったいどこの国際社会が失笑せずに受け止めるというのだろうか。<1>

小田嶋隆「華やかな敗北を見たがる人々~〈ア・ピース・オブ・警句〉世間に転がる意味不明」(2018.4.27)https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/174784/042600141/
 このハリルホジッチ氏解任事件では、多くのサッカーファンが動揺した。当ブログもいろいろ勘ぐったりした(後になってだんだん分かってきたこともあったが)。

 しかし、小田嶋隆氏はハリルホジッチ氏解任の真因は別のところにあると考えている。
 では、誰の責任なのかというと、元凶はつまるところ世論だと思っている。

 それが今回の主題だ。

 ハリルホジッチは、結局、われらサッカーファンが追放したのだ。

 悲しいことだが、これが現実だ。

小田嶋隆「華やかな敗北を見たがる人々~〈ア・ピース・オブ・警句〉世間に転がる意味不明」(2018.4.27)
 それにしても、小田嶋隆氏って「世論」とか「われらサッカーファン」とか、こんな〈主語の大きい〉サッカー談義をする人だったのだろうか? こんな人だったのかね?

華やかな敗北を見たがる日本人?
 話を戻して、小田嶋隆氏によるハリル氏解任事件の批判は、あらぬ方向に話が逸(そ)れていく。
 結論を述べる。

 今回の解任劇の隠れたシナリオは、サッカーにさしたる関心も愛情も抱いていない4年に一度しかゲームを見ない多数派のサッカーファン〔にわかファンやパリピなど〕が、「華麗なサッカー」を見たいと願ったところから始まる悲劇だった。〔中略〕

 繰り返すが、4年に一度W杯の時にだけサッカーを見る多数派のサッカーファンは、見栄えのするサッカーを見たいと思っている。

 彼らは、日本人選手の中から、ボール扱いの巧い順に11人の選手を並べて、テレビ画面の中に、スキルフルでテクニカルでスリリングで華麗なサッカーを展開してほしいと願っている。

 ところが、世界を知っている戦術家である外国人監督〔ハリルホジッチ氏やフィリップ・トルシエ氏など?〕は、世界の中の日本の実力に見合ったサッカーを構築しにかかる。すなわち、守備を固め、一瞬のカウンターを狙う走力と集団性を重視したサッカーで、言ってみれば、世界中のリーグの下位チームが採用している弱者の戦術だ。

 〔W杯アジア〕予選を勝ち抜いているうちは、ファンも我慢をしている。

 というよりも、アジアの格下を相手にしている間〔W杯アジア予選〕は、力関係からいって守備的なサッカーをせずに済むということでもある。

 しかしながら、本番〔W杯本大会〕が迫って、強豪チームの胸を借りる親善試合が続くうちに、当然、守備的な戦いを強いられるゲームが目立つようになる。

 で、いくつか冴えない試合が続くと、ファンはその田舎カテナチオに耐えられなくなる。

 人気選手に出資しているスポンサーも、視聴率を気にかけるメディアも、派手な見出しのほしいスポーツ新聞も同じだ。彼らは、技術に優れた中盤の選手がポゼッションを維持しつつスペクタクルなショートパスを交換するクリエイティブでビューティフルなサッカーを切望している。でもって、そのサッカーの実現のために、華麗なボールスキルを持った技巧的で創造的な選手を選出してほしいと願っている。もちろん、スポンサーもその種の華のある選手をCMに起用するわけだし、テレビ局はテレビ局でより高い視聴率のために知名度のある選手をスタメンに並べる戦い方を希望している。

 もちろん、その戦い方を採用して勝てれば文句はないわけだが、どっこいそうはいかない。

 きょうびブラジルでさえ、巧い順から11人並べるみたいなチームは作ってこない。そんなことで勝てるほど世界のサッカーが甘くないことを知っているからだ。

 W杯の本番では、世界の強豪でさえ思うままの華麗なサッカーは封印せねばならない。

 まして日本のようなW杯選出枠の最下層に属するチームは、走れる選手や身体の強い選手を揃えて守備に備えなければならない。そうでないと戦いのスタートラインにさえ立てない。

 と、その水を運ぶことの多いチームは、どうしても堅実でありながらも華のないチームになる。

 この至極単純な事実こそが、おそらくは、ハリルホジッチが私たちに伝えようとしたことだった。

 そして、彼が作ろうとしていた、地味で堅実で面白みには欠けるものの、3回戦えば1回は上位チームを食うかもしれないチームは、多数派のライトなサッカーファンには我慢のならないぞうきんがけサッカーだったということだ。

 でもって、わたくしども世界のサッカーの辺境で夢を見ている哀れな〔日本の〕サッカーファンは、どうせ勝てないのなら、せめて自分たちらしいサッカーを貫いて世界を驚かせてやろうじゃないかてなことを発想する〔?〕に至る。

 敗北に目がくらんで近視眼的になるのは、うちの国〔日本〕の民族〔日本人〕の考え方の癖みたいなもので、前回のW杯〔2014年ブラジルW杯〕でも同じだったし、さらにさかのぼれば、先の大戦〔第二次世界大戦≒アジア太平洋戦争〕でも同様だった。

 つまり、ミッドウェーで一敗地にまみれ、ガダルカナルで壊滅的な敗北を喫したのち、自分たちの戦術や戦力がまったく敵に通用していないことを思い知らされたにもかかわらず、それでもわれわれは、自分たちの「美学」だかを貫いて、美しく散ること〔≒玉砕〕を願ったわけで、つまるところ、ウクライナに敗北したあげく〔2018年ロシアW杯前の国際親善試合〕になぜなのか華麗なパスサッカーを志向するに至ったわれら極東のサッカーファンの幻視趣味は、帝国陸軍末期の大本営の机上作戦立案者のメンタリティーそっくりだということだ。

 われわれ〔日本人〕は、醜く勝つことよりも、美しく敗北することを願っている。

 ずっと昔から同じだ。われらニッポン人はそういう物語が大好きなのだ。

小田嶋隆「華やかな敗北を見たがる人々~〈ア・ピース・オブ・警句〉世間に転がる意味不明」(2018.4.27)
 ダウト! もう、この小田嶋隆氏の日本人観、日本サッカー観は完全に間違っていますね。

日本人は日本が勝つところが見たい
 実際には、サッカーにさしたる関心も愛情も抱いていない4年に一度しかゲームを見ない多数派のサッカーファンほど、つまり、にわかファンやパリピほど、「華麗なサッカー」なんかどうでもよく、日本がW杯本大会で勝つところが見たいのである。

 これには実例がある。2010年南アフリカW杯を戦った岡田ジャパン(第2次,2007年~2010年,岡田武史監督)がそうだった。

 岡田ジャパンもまたハリルホジッチ・ジャパン同様、南アW杯本大会前の国際試合では成績不振が続いていた。岡田武史監督はマスコミやインターネットから酷評され、監督解任すら噂されていた。

 元々は攻撃的なサッカーを志向しながらも切羽詰まった岡田ジャパン≒岡田武史監督は、ギリギリになって「華麗なサッカー」を捨て、「世界の中の日本の実力に見合ったサッカー」、守備的で「堅実でありながらも華のない」サッカーを選択し、南アW杯本大会に臨んだ。

 その第1戦の対カメルーン戦、岡田ジャパンは実に泥臭いサッカーで勝利をあげた。第2戦の優勝候補オランダには敗れたものの、第3戦の対デンマーク戦では2本のフリーキックから直接入るゴールなどで快勝。決勝トーナメントに進出した。

 下馬評を覆す快進撃に、日本国中が大いに盛り上がった。当然のことながら、東京・渋谷のスクランブル交差点も大騒ぎになった。

 インターネット掲示板やツイッターでは、かつて岡田武史監督に対する非難や不信感を表明していた者からの〈謝罪〉の表明が相次ぐ事態となった。

 一方、岡田ジャパンのプレースタイルを否定的に評価する声もあった。特に第1戦の日本vsカメルーンの試合内容を酷評する人がいた。しかし、それは少数派だった。
 「日本はいつからこんなチームになってしまったんだ.これまでのことを日本はすべて捨てたのか.私には理解できない」〔リカルド・セティヨン,ブラジル出身のサッカージャーナリスト〕

 私〔田村修一〕も同じだった。怒りに溢〔あふ〕れながらも、海外メディアならきっとこんな見方をするだろうと、客観的な評価のつもりで「ワールドカップ史上に残るアンチフットボール.ワールドカップの歴史を振り返った時に,アンチフットボールの典型として引き合いに出される試合」とつぶやいた私のツイッターは、しばらく後に炎上した。

田村修一『凛凛烈烈 日本サッカーの30年』8頁


 つまり〈われわれ日本人〉は「華やかな敗北を見たがる人々」ではない。「自分たちの〈美学〉だかを貫いて,美しく散ること〔≒玉砕〕を願っ」ている人々でもない。日本が〈世界勝つ〉ところ、あるいは〈世界勝つ〉ところが見たい人々なのである。

日本のサッカー論壇と「失敗の本質」
 引用文をジックリ読み直してみると、小田嶋隆氏の日本人観、日本サッカー観は随分と歪になってしまった印象がある。〈日本人のサッカー観=美しい敗北/外国人(監督)のサッカー観=醜い勝利〉という二元論は、事実を基に書いたモノというよりは、小田嶋隆氏自身の脳内で完結した結論から書いたモノである。

 東日本大震災(2011年3月11日発生)を経て、第2次安倍晋三政権が長期政権となる(2012年~2020年)に応じて、だんだん小田嶋隆氏のコラムはだんだん「左傾化」していき、その日本人観も日本人論・日本文化論の通説・通念に基づいた〈主語の大きい話〉になっていった……。

 ……同時にその日本サッカー観も、日本人論・日本文化論に応じたネガティブな「サッカー日本人論」になっていった。それこそが小田嶋隆氏自身の脳内で完結した結論の正体である。……というのが、当ブログの見立てである(次のリンク先を参照)。
  • 参照:小田嶋隆のサッカーコラムは「左の〈村上龍〉」と言えるまでに劣化していた(2023年02月03日)https://gazinsai.blog.jp/archives/48409010.html
 この一例に、小田嶋隆氏は日本サッカー界を「ミッドウェー」や「ガダルカナル」で壊滅的な敗北を喫した「帝国陸軍末期の大本営の机上作戦立案者のメンタリティーそっくりだ」と書いていた。

 実は、この手の「旧日本軍ネタ」もまた(ネガティブな)日本人論・日本文化論のバリエーションのひとつで、これに話を合わせた「サッカー日本人論」も頻々と観察される。

失敗の本質
野中 郁次郎
ダイヤモンド社
2013-08-02


 スポーツ評論の世界では、サッカー(やラグビー)の日本代表が変な負け方をした時、または変な負け方をしかけた時、あるいは変な負け方をした後に当事者の責任のとり方がいい加減だったりした時に、この「旧日本軍ネタ」が登場する。

 例えば「旧日本軍ネタ」は、サッカー日本代表(加茂―岡田ジャパン)が、1997年のフランスW杯アジア最終予選での迷走(特に第3戦の対韓国戦で痛恨の逆転負けを食らってからの日本代表)を評する際にも見られた。村上龍氏である。
 わたし〔村上龍〕は〔日本がアウェーで〕韓国に勝てないと思っていたので、日本のサッカー界は戦前の旧日本軍と似ている、みたいなことをこのエッセイで書くつもりだった。情報の軽視、非科学的な戦略、世界に対する無知とその裏返しの傲慢。旧日本陸軍にとってのノモンハンと同じような事態〔…〕が起きた。〔略〕あれはノモンハンだったんだな、とわたしは思っていた。旧日本陸軍と、〔日本〕サッカー協会・メディアはその危機感のなさにおいて今でも変わりがないと思う。〔中略〕

 〔…〕くどいようだが、サッカー協会とメディアは、無知・傲慢・危機感のなさ・情報無視・非科学的精神主義において旧日本軍と変わるところがない。

村上龍『フィジカル・インテンシティ』19~20頁


 もっとも、サッカー日本代表は旧日本軍とイコールではない。

 1997年の加茂周監督の解任の後を受けた岡田ジャパン(第1次,岡田武史監督)はフランスW杯本大会の出場権を勝ち取ったし、2018年のハリルホジッチ監督解任の後を受けた西野ジャパン(西野朗監督)はロシアW杯本大会で1次リーグ突破を勝ち取った。

小田嶋隆氏と村上龍氏とは「猿の尻笑い」の関係
 小田嶋隆氏は、かねがね村上龍氏が書いたモノには批判的だった。村上龍氏のサッカー観にも批判的だった。それが出来るところが小田嶋隆氏のいいところであった。

 しかし、小田嶋隆氏のサッカー観は村上龍氏と同じレベルに劣化してしまった。

 日本サッカーがどうであったか? ……ではなく、日本サッカーは如何に語られてきたか? ……という意味で、村上龍氏と小田嶋隆氏のサッカーコラムは同類の資料(史料)になってしまったのである。

 したがって、読者=サッカーファンは、氏の晩年のサッカーコラムを読む際には注意を要する。

(了)




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[文中敬称略]

むしろムカムカしてくる小田嶋隆のサッカーコラム
 著名なコラムニストにして、サッカーファン、そして浦和レッズの熱烈なサポーターでもあった小田嶋隆(1956-2022)。もっとも、彼の晩年(還暦以降)のサッカーコラムを読んでも、少しも痛快でなくなった。むしろムカムカしてくる。

小田嶋隆(1956-2022)
【小田嶋隆(1956-2022)】

 なぜだろう? なぜかしら? ……と思って、あらためていくつかを読み返してみて、その理由に思い当たった。小田嶋隆のサッカーコラムは、いわば「左の〈村上龍〉」<1>と言えるまでに変節・劣化していたからである。

 小田嶋隆の、何が、どう「村上龍」なのか?

小田嶋隆がはまり込んだ「サッカー日本人論」とは?
 長年、日本サッカーの精神文化やサッカー論壇を苦悩させてきた通念・言説に「サッカー日本人論」<2>がある。これは一体どういう問題なのか?

 1990年代まで日本では弱小だったサッカー。従来、日本サッカーの文脈では「日本的であること・日本人であること」はサッカーというスポーツにとって非常に不適格なことであるとされてきた。反面、サッカー的であるということは、それ自体、日本的ではないことなのである。

 これを図式化すると「日本的(日本)=非サッカー的/非日本的(外国)=サッカー的」という二元論になる。

 この二元論を「器」だとすると「内容物」に相当するのが、「日本人論・日本文化論」という、日本人のモノの考え方に多大な影響を与えてきた一連の文献群である。

 日本人が固有に持っているとされる万古不易の本質(国民性・民族性・社会・文化・伝統・精神……等々)を研究・考察した評論や著作であり、そこから生じた「日本人の国民性・民族性・社会・文化・伝統・精神……等々は外国のそれとは著しく異なっている」という通説や通念が日本人論・日本文化論である。

 特に、中根千枝(社会人類学者)の『タテ社会の人間関係』(初版1967年)、土居健郎(精神医学者)の『「甘え」の構造』(初版1971年)は、日本人論・日本文化論の超ベストセラー・超ロングセラーである。

「甘え」の構造 [増補普及版]
土居 健郎
弘文堂
2007-05-15


 「タテ社会」とか「甘え」とか、たいていの日本人はこれらの著作を直接読んだことはないにしても、その内容の一部分でも何らかの形で耳にしたり、口にしたり、意識したことがあるはずである。

 21世紀に入ってからも、鴻上尚史(劇作家)による『「空気」と「世間」』(2013年)<3>という日本人論・日本文化論がベストセラーになっている。

 「タテ社会」だろうと「甘え」だろうと「空気」だろうと「世間」だろうと、日本人論・日本文化論は、基本的には同じ概念に集約される内容を述べてきた。

 それは……。

 外国人(特に欧米人)は、自立した個人が確立し、自らの頭で考え、あつれきを恐れず互いに自己主張しあい、異質を尊重することで組織や集団・社会を有効に機能させていく「個人主義」である。

 だが一方、日本人は個人が自立できず、組織や集団に埋没し、体制の権威や決まり事または「場の〈空気〉」に服従し、同調圧力が強い「集団主義」である。

 ……というものである。

 日本の常識は世界(外国,欧米)の非常識。この外国(欧米)の「個人主義」と日本の「集団主義」との対照は、サッカーというスポーツの在り方にも関わってくる。その国のサッカーは、その国の国民性・民族性・社会・文化・伝統・精神……等々の影響を受ける(とされている)からである。

 つまり、サッカーこそは外国の欧米的な「個人主義」の神髄であり、そうした「個人主義」の価値観を持つ人のために存在するスポーツなのだ。しかし、日本人は全く異質の「集団主義」であり、だから実は本質的に「日本人はサッカーに向いていない」。世界で勝てない。世界に勝てない。

 これが「サッカー日本人論」である。サッカーファンやサッカー関係者ならば、この手の話も何度かは読んだり聞いたりしたことがあるはずだ。小田嶋隆は「サッカー日本人論」にはまり込んでしまったのである

村上龍の亜流と化した小田嶋隆
 「サッカー日本人論」は、陰鬱なサッカー観であり、日本のサッカーファンやサッカー関係者にとっては大変な劣等感となる。このような通念や言説に囚(とら)われると、人は日本のサッカーをひたすら自虐的に語るか、ひたすら腐して語るかになってしまう。

 日本のサッカー論壇における「サッカー日本人論」の語り手としては、金子達仁、湯浅健二、佐山一郎、細川周平、寺田農、ジョン・カビラ、星野智幸、中条一雄、山崎浩一……等々と数多にわたる。この中のひとりにサッカーファンの小説家・村上龍がいた。

 『週刊宝石』(廃刊)に連載し、後に単行本化された村上龍のスポーツエッセイ『フィジカル・インテンシティ』(1998年)。この本は、ほぼ全編「サッカー日本人論」であり、日本人を、日本の社会を、そして日本のサッカーを腐している。<4>

 小田嶋隆もまた、村上龍と同様、日本的「集団主義」を語っては日本人は愚かしいと嘆き、「サッカー日本人論」を語っては日本サッカーは愚かしいと腐す人になってしまっていた。
 >>わたくしども日本人は、眼前の現実を宿命として甘受する傾向を強く持っている国民だ。それゆえ、現在進行形で動いている事態には、いつも甘い点をつけてしまう。

 >>われわれ〔日本人〕は「現に目の前で動きつつある状況」や「結果として現出しつつある事態」や「理由や経緯はどうあれ,所与の現実として自分たちを巻き込んで進行している出来事」みたいなものに、あっさりと白旗をあげてしまうことの多い人々だ。で、その結果として、いつも現実に屈服させられている。

 >>われわれ〔日本人〕が暮らしているこの国〔日本〕のこの社会は、個々の人間が自分のアタマで独自に思考すること自体を事実上禁じられている場所でもあるのだ。

 >>当初は不満を持っていた人々も、時間の経過とともに、順次わだかまりを水に流しつつある。こんなふうにすべてを水に流して忘れてしまうことが、善良な日本人としてのあらまほしき上品な振る舞い方だということを、われわれ〔日本人〕は、子供の頃からやんわりと教えられ、そうやって大人になっている。

 >>われわれ〔日本人〕の多くは、不満たらたらで通っていた職場にも、そのうちに馴れてしまうタイプの人間たちだ。してみると、どんなに無茶な人事であっても、いかにデタラメな状況説明であっても、事態を掌握している側の人間が中央突破で押し通してしまえば、最終的にはどんな無茶でもまかり通ることになっている。月日のたつうちには、誰もが抵抗をあきらめてしまう。われわれが住んでいるのはそういう国〔日本〕だ。

小田嶋隆「ハリルホジッチ氏を忘れる勿れ~〈ア・ピース・オブ・警句〉世間に転がる意味不明」(2018.6.22)https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/174784/062100148/
 >>こんなことを言うと不愉快に感じる人もあるだろうが、私〔小田嶋隆〕は、日本人のチームが失敗する原因としては、チームが一丸となっていないことよりも、一丸となり過ぎた結果として瓦解するケースの方が多いと思っている。

 >>われわれ〔日本人〕は、「ムラ化」することで融通性を失い、どこまでも硬直化したあげくに頓死することになっている。

 >>日本人が監督をやっている限り、必ずそうなるのだ。

 >>私〔小田嶋隆〕がぜひ訴えたいと考えているのは、どちらかといえば、われら日本人の多数派が、おおむね善良で気が利いていて、知り合いの面目をつぶすような振る舞い方を避けたがる人々だということで、そういうふうにわれわれ〔日本人〕が互いの立場や気持ちを慮ることを第一に行動しているからこそ、サッカーのような血で血を洗う設定の競技では失敗しがちだということを申し上げているのである。

 >>われわれ〔日本人〕は、昔から忖度する民族だ。

 >>言葉を発する前に、相手の気持ちを先回りして理解する能力を日々研ぎ澄ましながら生きているテレパスみたいな人〔日本人〕たちでもある。

 >>が、サッカーというのは、1人ひとりの選手や監督や記者やファンがそうやってアタマの中にあるもやもやしたあれこれを言葉にして外に出すことで前に進んでいく競技なのだと私〔小田嶋隆〕は思っている。

小田嶋隆「我々には外側が必要だ~〈ア・ピース・オブ・警句〉世間に転がる意味不明」(2018.7.6)https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/174784/070500150/
 >>では、どうしてニッポンが団結すると、サッカーが低迷するのだろうか。サッカーは、個が個であることを何よりも大切にするチームスポーツだ。チームのメンバーが同じ方向を向いて同じ戦術を志向していると、不思議なことにチームは硬直し、戦術は停滞する。つまりストライカーがストライカーのエゴを体現し、サイドバックがサイドバックの個人戦術に固執していないと、チームは機能しないのである。

 >>〔日本〕代表監督が外国人〔フィリップ・トルシエやヴァイッド・ハリルホジッチ〕である時、日本人選手は自分のアタマで個々人のプレーを選択せねばならないし……

 >>人格円満な日本人の監督〔森保一〕がトップに座っている状況下では、選手がお互いの傷を舐め合い、右顧左眄しながらボール回しを繰り返し、監督のためにサッカーを展開するおよそサラリーマン的なニッポン社会がチームを支配してしまう。

 >>私〔小田嶋隆〕は、日本人が一丸となった時に必ずや生じるネガティブな結果を心配している。より正確に言えば、われわれは「敗北」を意識した時にはじめて一丸となる心性の持ち主なのであって、つまり、一致団結したニッポンの男たちは、必ずや「玉砕」するのである。

 >>〔日本〕代表チームの選手たちはもっと自分勝手に振る舞わなければならない。そのためには、メディアの顔色をうかがったり選手の立場を慮ったりする日本人の監督を排除して、空気を読まない、わからんちんな外国人を招聘するべきだろう。

小田嶋隆「一致団結すると日本は負ける」(2022年1月16日)https://www.gqjapan.jp/culture/article/20220116-its-all-in-the-game
 これでは文体が違うだけで、村上龍の「サッカー日本人論」とほとんど変わらない。小田嶋隆のサッカーコラムは村上龍化したのである。小田嶋隆を喝采するサッカーファンは村上龍を喝采するサッカーファンと大差がない。

日本人監督か,外国人監督か…という問題なのか?
 小田嶋隆は、ロシアW杯本大会を直前に控えた2018年4月のハリルホジッチ日本代表監督解任にはひどく立腹して、日本サッカーを批判していた。また、サッカー日本代表監督は是非とも外国人に任せるべきだというのが持論であった。なぜなら……。

 サッカー日本代表の監督を日本人にすると、(日本的「集団主義」によって)チームとその周辺は「ムラ社会」となり、監督への批判はタブーとなり、選手は現人神として扱われ、報道は大本営化し、チームは停滞、最後には惨敗する。

 ……そうならないために、サッカー日本代表には(「個人主義」の世界の人間による)「外部」が必要だ。その監督はトルシエやハリルホジッチのように外国人が務めるべきだ。

 このような主張を小田嶋隆は繰り返してきた。外国人がサッカー日本代表監督になるならば、青山か西麻布にあるワインバーのソムリエだってかまわない……などとふざけたことまで書いている。

 しかし、このような日本サッカー観は間違っている。

 例えば、前述のような〈チームとその周辺は「ムラ社会」となり,監督への批判はタブーとなり,選手は現人神として扱われ,報道は大本営化し,チームは停滞,最後には惨敗〉したサッカー日本代表なら、外国人のジーコ(元ブラジル代表)が率い、2006年ドイツW杯で惨敗した「ジーコ・ジャパン」(2002年~2006年)があるではないか。

 ジーコ・ジャパンの惨敗は、日本サッカーにとって深いダメージになった。その後を継いだイビチャ・オシムや岡田武史といった日本代表監督たちは、ジーコの尻拭いに悪戦苦闘することになる。

 日本人監督が率いたサッカー日本代表では、岡田ジャパン(第2次,2007年~2010年,監督・岡田武史)は2010年南アフリカW杯でグループステージ突破(ベスト16)、西野ジャパン(2018年,監督・西野朗)は2018年ロシアW杯でグループステージ突破(ベスト16)。

 翻って、外国人監督では、他にザック・ジャパン(2010年~2014年,監督アルベルト・ザッケローニ)があったが、こちらは2014年ブラジルW杯で惨敗している。

 小田嶋隆曰く「一致団結したニッポンの男たちは,必ずや〈玉砕〉するのである」。

 しかし、「外部」なき日本サッカーの象徴のような「人格円満な日本人の監督〔森保一〕」が率いたサッカー日本代表=森保ジャパンは「玉砕」しなかった。

 森保ジャパンは、カタールW杯アジア最終予選における当初の劣勢を挽回し、見事に本大会の出場権を獲得してみせた。

 これは、日本人監督か、外国人監督か……という問題ではない。

 小田嶋隆は、サッカーそれ自体を見ていない。日本人論・日本文化論と「サッカー日本人論」の色眼鏡でサッカーを見るようになり、サッカー観も曇ってしまったのである。

ドーハの総括と「電波ライター」
 小田嶋隆は2022年6月24日に亡くなったので、同年11月~12月に開催されたカタールW杯は見ていない。失礼を承知で言うと、小田嶋にとってある意味それは幸運だった。

 サッカー日本代表は、2022年カタールW杯本大会のグループステージでワールドカップ優勝経験のあるサッカー大国ドイツ、スペインと同組になってしまった。森保ジャパンではこの2か国にとても勝てないだろう……と、事前には思われていた。

 ところが、森保ジャパンは下馬評を覆して、ドイツ、スペインに逆転勝ちする大金星をあげ、グループステージ1位で突破するという番狂わせを演じてカタールW杯ベスト16に進出した(「ドーハの奇跡」または「ドーハの歓喜」)。

 外国人監督を推奨していた小田嶋隆にとって、この展開はバツが悪い。もうひとつ……。

 ハリルホジッチは、モロッコ代表を率いてW杯本大会(カタールW杯)の出場権を獲得した。しかし、モロッコ・サッカー界とまたもやあつれきを起こし、カタールW杯3か月前にモロッコ代表監督を解任されてしまう。

 これは4年前の日本代表と同じである。そして、モロッコ代表もカタール杯でグループステージを突破し、こちらは何と準決勝(ベスト4)まで進出した。

 日本代表監督時代のハリルホジッチ解任を批判していた小田嶋隆にとっては、この展開もまたバツが悪い。

 意地の悪い興味だが、小田嶋隆が存命だったら、この状況をどう総括しただろうか?

 あの時、あなたが言っていたことと事実は違うではないか……と、当然、彼にもツッコミが入っただろうからである。

 森保一という監督をどう思うか、個人的な好き嫌いは別として、森保ジャパンがあげた所定の成果「ドーハの奇跡」については相応の敬意を表するべきである。

 また、ハリルホジッチは有能なサッカー指導者である一方、自らの信念に合わない物事は一切受け入れない人物であるという。それゆえ、日本に限らず海外各国でもあつれきを起こし、監督を解任されたり短期間で辞任したりが多い。
  • 参照:長束恭行「ハリルホジッチがいつも〈短命政権〉に終わる理由~クロアチア人記者が語る…クロアチアのスポーツ紙『Sportske Novosti』記者に聞く」(2018/04/18)https://bunshun.jp/articles/-/7056
  • 参照:モハメド・アミン・エラムリ「キレたサポーターが絶叫〈ハリルやめろ!〉〈ベスト4〉モロッコ代表番記者が明かす,半年前の侵入事件〈なぜハリル解任というギャンブルに勝てた?〉」(2022/12/23)https://number.bunshun.jp/articles/-/855899
 つまり、ハリルホジッチ解任問題の本質は、小田嶋隆が言っていたような、日本的「集団主義」から来る、日本社会の、日本サッカーの「ムラ社会」性とは違うのではないか?

 ここで人としての器が測られる。自説に固執して事態を率直に受け入れられず、かえって日本サッカーに悪態をつくようなサッカージャーナリストやサッカー評論家のことを、最近はあまり言われなくなったが「電波ライター」と呼ばれ、日本のサッカー界隈では軽侮されていた。

 日本のサッカーを腐して評価したがるという点において、「サッカー日本人論」と「電波ライター」は親和性が高い。

 昔の小田嶋隆は「電波ライター」を批判できる側のサッカーコラムニストであった。だが、晩年のサッカーに関する言動を見るにつけ、「電波ライター」へと変節してしまったのではないか……と思わせるところがある。

 とにかく、小田嶋隆は「ドーハの奇跡」を、そしてモロッコ代表のベスト4を見る前に逝ってしまった(ある意味「炎上」せずに済んだ)。

パラドキシカルな日本批判
 本来、小田嶋隆は、後藤健生(サッカージャーナリスト)や藤島大(スポーツライター)とともに「サッカー日本人論」を批判できる人でもあった。

 2002年日韓W杯を翌年に控えた『別冊宝島Real vol.24 サッカー日本代表 斬り捨て御免!』(2001年)では、「〈評論家日本代表〉を採点する」というタイトルで、村上龍らを批判している。

 しかし、小田嶋隆は晩年になって「サッカー日本人論」に旋回してしまった。

 もともと、政治色の強いコラムニストではなかったが、東日本大震災(2011年3月11日発生)を経て、第2次安倍晋三政権が長期政権となる(2012年~2020年)に応じて、だんだん「左傾化」していった……。小田嶋隆にはこんな印象がある。

9条どうでしょう (ちくま文庫)
隆, 小田嶋
筑摩書房
2012-10-01


超・反知性主義入門
小田嶋 隆
日経BP
2015-09-15


 この「左傾化」にしたがって、小田嶋隆の世界観もまた日本人論・日本文化論に傾倒し、あわせてサッカー観も「サッカー日本人論」になっていった。

 しかし、もともと「サッカー日本人論」は1980年代初め、当時、低迷の極みにあった日本サッカーの状況を無理矢理に納得し、説明するために成立した言説である。あれから40年、日本サッカーがこれだけ伸長したことを考えれば、もはや「サッカー日本人論」のようなサッカー観は無効なのである。

 同様、「サッカー日本人論」の基である、日本人論・日本文化論のほとんどは、真っ当な心理学・社会学・文化人類学などの分野から見れば、学問的にデタラメである。

 先行研究の参照と検証、理論の構築、理論と現象との相関性の検証、学界内の議論による洗練……といった、アカデミックな「ふるい」にかけられることが日本人論・日本文化論にはない。

「集団主義」という錯覚 (新曜社)
高野 陽太郎
新曜社
2017-12-10


日本人論の危険なあやまち 文化ステレオタイプの誘惑と罠 (ディスカヴァー携書)
高野 陽太郎
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2019-10-19


日本人論の方程式 (ちくま学芸文庫 ス 1-1)
ロス・マオア
筑摩書房
1995-01-01


 日系アメリカ人の文化人類学者ハルミ・ベフ(日本名:別府春海)は、その著書『イデオロギーとしての日本文化論』の中で、日本人論・日本文化論などというものは学術性のない「大衆消費財」であると指摘している。その上でこう述べる。
 ……文化論〔日本人論・日本文化論〕というものは、日本の文化を忠実に、客観的に描写したものではなくて、ある一定の日本の特徴をとり上げ、それを強調し、都合の悪いところは無視して、一つのシステムをつくる。どうしてそういうものをつくるかといえば、それは体制の役に立つからです。

ハルミ・ベフ『増補新版 イデオロギーとしての日本文化論』24頁


イデオロギーとしての日本文化論
ハルミ ベフ
思想の科学社
1997-07T


 つまり、日本人論・日本文化論と称するものは日本の政治的な現状維持のためのイデオロギー的な機能を果たしている……というわけである。

 晩年の小田嶋隆の、モリカケ問題<5>など日本の世相と話を絡めた「サッカー日本人論」を読んでいると、ハルミ・ベフの「文化論〔日本人論・日本文化論〕もここまでくると国家体制に完全に汲〔く〕み込まれ,保守政権を支持するイデオロギーとして利用されていると見て間違いない」<6>という発言を、つい思い出してしまう。

 小田嶋隆が、日本人論・日本文化論の通説や通念に基づいて日本の世相を批判すれば批判するほど、(ハルミ・ベフの考えに従えば)実は体制の現状維持に奉仕してしまうパラドキシカルな状況に陥ってしまう……からである。

 小田嶋隆の「左傾化」が駄目だと言っているのではなく、日本人論・日本文化論にかぶれた小田嶋隆は駄目な「左傾化」をしてしまったのである。

 かくして、小田嶋隆のサッカーコラムは「左の〈村上龍〉」と言えるまでに変節・劣化した。したがって、晩年の彼のサッカーへの言及にめぼしいものは少ない。

(了)




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サッカー版「江夏の21球」(!?)こと『28年目のハーフタイム』
 書評とブックガイドの専門月刊誌『本の雑誌』、2022年4月号の特集は「スポーツ本の春!」で、その目玉が座談会「スポーツ本オールタイムベスト50が決定!」であった。
  • 参照:『本の雑誌』2022年4月号(特集 スポーツ本の春!)https://www.webdoku.jp/honshi/2022/4-220303152432.html

本の雑誌466号2022年4月号
本の雑誌社
2022-03-10


 驚いたのは、このベスト50の名著の中でも選りすぐりの「金字塔」(いわば「殿堂」入り)のカテゴリーに、山際淳司の『スローカーブを、もう一球』(「江夏の21球」所収)や、沢木耕太郎の『敗れざる者たち』と並んで、金子達仁の『28年目のハーフタイム』が選ばれていたことだ。

敗れざる者たち (文春文庫)
沢木 耕太郎
文藝春秋
2021-02-09


28年目のハーフタイム (文春文庫)
金子 達仁
文藝春秋
2012-09-20


 え゛~~~~~~~~~~ッ!

 しかも『本の雑誌』2022年4月号は、『28年目のハーフタイム』のことを「『江夏の21球』のサッカー版」とまで絶賛するのだ。

 え゛~~~~~~~~~~ッ!

 ……と、こういう反応が出てくるのは、『28年目のハーフタイム』の著者・金子達仁氏が、コアなサッカーファンから見て毀誉褒貶の激しい人だからである。いわゆる「電波ライター」だからである。

「電波ライター」とは何者か?
 WEB上にある情報によると「電波ライター」とは次のような人々である。
電波ライター【でんぱらいたあ】[名](海外サッカー板)
 一般的定義として、「取材を元にした記事を書かず、第三者からの伝聞や自分の脳内で完結した結論を、自分の好悪や感情をそのままに捏造、妄想、邪推などを盛り込んで記事を書く」ライターのことを指す言葉。主にサッカー評論家に多く、スポーツ新聞や自身のWEBサイトで日本代表等に対するネガティブキャンペーンを張り、2ちゃん(2ちゃんねる,現5ちゃんねる)をはじめとするサカヲタの反発と突っ込みを受けている。
 これを、サッカーに絞り込んでみると……。
  1.  サッカーライター・評論家として極めてバランスを欠いた発言や評価をする。
  2.  「厳しい批判」と称して、ひたすら日本のサッカーを貶める。特に日本代表が負けたらこれを過剰に貶め、勝ったら勝ったでこれを不当に貶める。
  3.  同じく「厳しい批判」と称して、フィリップ・トルシエ、加茂周、岡田武史など、日本サッカーに関わる特定の人物をひたすら否定し(正しい意味での「批判」とは言えない)、一定の成果を上げた後もこれを認めることがない。
  4.  反対に、自分と仲の良いサッカー関係者には評価が甘くなり、提灯持ちとなって、これをダシにして他を否定するところがままある。
 ……等々、こんなところだろうか。

 金子達仁はこの電波ライターの代表的人物とされてきたのである。

『28年目のハーフタイム』でも金子達仁は電波を発している
 金子達仁は、フリーになる前の「サッカーダイジェスト」記者時代、ガンバ大阪担当の頃から既に電波ライターだったという説がある。少なくとも「ドーハの悲劇」の時点では電波ライターだった。その電波ライターぶりは『金子達仁べストセレクション〈1〉 激白』に収録されている<1>

 『28年目のハーフタイム』は、まったくの悪書と言い切るのは難しい。でも、まったくの良書と言い切るのも難しい。抑制は効いているが、しかし、やっぱり金子達仁はこの著作のアチラコチラで電波を発している。

 アトランタ五輪世代とそれ以前のドーハの悲劇世代、サッカー日本代表の世代による断絶を無駄に煽った。中田英寿が増長するキッカケを作った。怪しげな日本人論・日本文化論などさまざまな謎理論で日本のサッカーを論評するようになった……

 ……等々、そうした電波ライター的発言を外して『28年目のハーフタイム』を一面的に絶賛するというのはあり得ない。

 とにかく、スポーツファン、サッカーファンの読書人は、『本の雑誌』の言うことを鵜呑みにはしない方がいいと思う(文中敬称略)。

(了)




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今福龍太氏のサッカー評論は「文学」である
 季刊『サッカー批評』は、初代編集長・半田雄一氏が退任すると、雑誌を「意識高い系」のエディターやライターに乗っ取られて『フットボール批評』として独立、分裂してしまった……という説が一部にある。

 たしかに昨今の『フットボール批評』の装丁は、ある意味「意識高い系」の最たる出版社である青土社の『ユリイカ』みたいな人文系雑誌のそれを連想させる。

フットボール批評issue25
カンゼン
2019-08-06


 しかし、よくよく考えてみれば、半田雄一編集長の季刊『サッカー批評』は、文化人類学者・今福龍太(いまふく・りゅうた)氏という、ある意味「意識高い系」の最たる人物に、「サッカー批評原論」なる「意識高い系」の最たる連載エッセイを持たせていたのである(後に『ブラジルのホモ・ルーデンス~サッカー批評原論』として単行本化)。
ブラジルのホモ・ルーデンス~サッカー批評原論 - 2008/11/1(今福龍太)
 「歴史として捏造されたにすぎない勝利や戦術といった概念に、サッカーのすべてを売り渡してしまう必要はないのだ。」

 勝敗原理の抑圧と「勝利」を自己目的化したサッカー競技のリアリティそのものを疑うことはしない「評論」に抗し、遊戯的で快楽と美に満ちたブラジル・サッカーによりそいながら試みる、スポーツ批評の戦闘的論考

〔惹句の引用は版元・月曜社のサイトから〕
 ちなみに、今福龍太氏が言う「勝敗原理」や「勝利至上主義」とは、一般的に思われている「勝つためには時にアンフェアになっても手段を選ばない」といったような意味ではない。サッカーなど競技スポーツにおいて「勝ち負けを争うこと,勝利を求めること」そのものを表す。これを徹底して否定し、嫌悪し、断罪することを、今福龍太氏は身の上としている。

 「近代」になって成立した文物であるスポーツにおける勝敗原理または勝利至上主義を「抑圧」とみなし、「近代」または現代文明(市民革命,産業革命,資本主義,平等主義,領主制・身分制廃止,個人主義,宗教の世俗化,自由主義,科学・技術,進歩,植民地主義……等々)の「抑圧」とを重ね合わせ、これを徹底して否定し、嫌悪し、断罪することを、今福龍太氏は身の上としている。

 その様は、呉智英氏(評論家)のマンガ評論書『現代マンガの全体像』に出てくる、著者が「思い入れ過剰な文学青年」と呼んだ「閉鎖的な論理をもてあそび,その論理の外にあるものを強迫的に断罪する」傾向のマンガ評論家を連想させる。

 ある時、半田雄一氏とお会いする機会があり、「どうして『サッカー批評』に今福龍太氏の連載があるのですか?」などという失礼な質問をしたことがある。すると半田雄一氏「いやぁ,アレは〈文学〉ですから……」と逃げられてしまった。どういう意味で「文学」だったのか? もっと詳しく質問しておけばよかったと少し悔やんでいる。

 とにかく、半田雄一編集長曰く、今福龍太氏のサッカー評論(否,「批評」か?)は、あくまで「文学」である。今福龍太氏は「思い入れ過剰な文学青年」である。

今福龍太著『サッカー批評原論(ブラジルのホモ・ルーデンス)』が復刊する
 さて、その「文学」であるところの今福龍太氏「サッカー批評原論」が、改訂・増補して、2020年8月25日、コトニ社から『サッカー批評原論(ブラジルのホモ・ルーデンス)』として装いも新たに復刊されることになった(当方,書店に予約しました.以下あしからず)。
サッカー批評原論(ブラジルのホモ・ルーデンス) - 2020/8/25(今福龍太)
 様々なスポーツが、中止・延期・観客数の制限に追い込まれ、私たちにとってもっとも身近だった娯楽は、いまや直接観ることが難しい、遠い日常へと変わりつつある。

 テクノロジーやメディアと接合しながら、多くの観客と資本を集め、近代以降その栄華をきわめてきたこの一大エンターテインメント〔スポーツ〕は、いま最大の危機を迎え、今後のあり方についてさまざまな場面で再考を迫られている。

 もっとも多くの競技人口をかかえ、全世界的な人気をえてきたサッカーもその危機に直面している。

 危機に直面したときこそ、その課題についての「原論」(根本的な理論)とも言うべきものに立ち返る必要がある。

 人類学者・批評家でありスポーツへの造詣も深い著者〔=今福龍太氏〕が、サッカーの起源・伝搬・本能・戦術・時間など11のテーマについて考察する。スポーツをめぐる現実的な問題について語りながら、サッカーを真に体験するための理念と美学と遊び心の原論を探る。

サッカー批評原論
今福 龍太
コトニ社
2020-08-25


 *「ブラジルサッカー」への愛を源泉につづられた『ブラジルのホモ・ルーデンス』(月曜社)の目次・書籍構成を一新、本文を改訂、新しい論考や写真・図版を多数加えた完全版。
 今回のエントリーは、該当書籍が書店に並ぶ前に書いている。本を売るための惹句だから話を盛るのは当然なのだが、これを読んで「やれやれ,またか」という苦笑したのも事実である。また、今福龍太氏のことを「批評家」というのは、まあ、間違いないが、「スポーツ〔サッカー〕への造詣も深い」などというのは止めてほしいものである。

サッカーと世界の危機を煽り続けたオオカミ少年=今福龍太氏
 なぜなら、今福龍太氏は1990年代から「サッカーの危機だ,スポーツの危機だ,そして世界の危機だ」と煽っていた唱えていたからである。

 1990年W杯イタリア大会、1994年W杯アメリカ合衆国大会、1996年ユーロ・イングランド大会と、1990年代前半、試合内容は凡庸、ロースコア、ついには双方引き分けでPK戦で何とか決着をつける……という低調な国際試合、国際大会が続いた。これを受けて、今福龍太氏は当時のサッカー情況を次のように評価している。
 魅力的な「美しいサッカー」を標榜するラテンアメリカの国々が早々と姿を消し、守備重視で粗野で凡庸なヨーロッパの、特にドイツの「負けないサッカー」が横行していた。こうした戦術の徹底の背後には、勝利至上主義の原理がはたらいていた。

 こんなサッカーを私たちは本当に見たかったのだろうか?

今福龍太『フットボールの新世紀』100~102頁から大意要約

 そうした状態は2000年前後には解消される。すると今度は、徹底したデータの集積、その詳細な分析に基づいた統率の取れた戦術を徹底的にチームに落とし込んだサッカー=「科学的サッカー」(特にドイツの)が批判の対象になる。科学的サッカーは、サッカー本来のロマンチシズムを奪っているのだと。

 前掲、コトニ社の新版『サッカー批評原論(ブラジルのホモ・ルーデンス)』のアマゾン書誌情報にある「フチボールの女神への帰依を誓うこと」は、2014年W杯ブラジル大会に際して、文芸誌『エンタクシー』第42号に掲載された「フチボルの女神への帰依を誓おう」が原文であると考えられる(この2つはほぼ同じものとして話を進める)。

 ブラジルW杯といえば、印象的なのが準決勝のドイツvsブラジル戦。ブラジルがドイツに1対7という信じられないスコアで大惨敗した試合「ミネイロンの惨劇」(または悲劇,衝撃)である。ドイツは決勝でもアルゼンチンに勝って4回目の優勝を遂げる。

ミネイロンの惨劇(ドイツ7-1ブラジル)
【ミネイロンの惨劇(ドイツ7-1ブラジル)2014年W杯】

 このブラジルの大惨敗とドイツの優勝。今福龍太氏が語るところでは、これこそブラジルサッカーの危機……のみならず、サッカーの危機、スポーツの危機、それどころか「世界の危機」の反映なのだという(詳しくは下のリンク先を参照)。
 今福龍太氏が考えている「世界の危機」を強引に要約すると、次のような感じになる。
 勝利至上主義に徹した膨大なデータの集積と科学的な分析、高度に統制された戦術、そして近現代的な「合理性」を重んじるドイツサッカー。

 一方、ラテン的な即興性や遊戯性、美しさといった数字に表れない、勝敗を超越した価値を尊(たっと)ぶ、「偶然性」にあふれたブラジルサッカー。

 2014年のブラジルW杯で、ブラジルはドイツに惨敗し、ドイツは優勝した。

 今回、顕在化したのは、この2つの価値観、「合理性」対「偶然性」の対立である。それは実際はサッカーの枠を遙かに超え、今日われわれの社会生活の至るところで衝突している価値対立と共通している。

 効率、スピード、コンビニエンス、収益性といった合理的な(ドイツ的な)価値を無批判に受け入れるあまり、私たちは、社会からも、人生からも、(ブラジル的な)偶然性や非合理性という「別の大切なもの」を消し去ってはいないか。

 それは果たして本当に私たちの生活を豊かにすることにつながっているのか。いや、そもそも豊かさとは何なのか?

 それが「世界の危機」なのだ。

 そして、前掲のように今回の2020年、新型コロナウィルス感染症「COVID-19」のパンデミック(いわゆるコロナ禍)による「サッカーの危機,スポーツの危機,そして世界の危機」を今福龍太氏は煽っている唱えている。

 今福龍太氏は、事あるごとに、サッカーやスポーツを出汁(だし)にした近代批判、現代文明批判をしつこく続けてきたのであった。

勝利至上主義=科学的サッカー批判は陳腐な定番ネタ
 ところが、今福龍太氏のスポーツ批評・サッカー批評(あくまで「批評」であって「評論」ではない)は、世の事実や実態と違っているデタラメな話が多いのである。

 2014年W杯ブラジル大会、「勝利至上主義」と科学的サッカーに徹したドイツは、美しいサッカーを重んじるブラジルから大量7得点をあげた。また、オランダは前回王者のスペインから5得点をあげて大勝した。この大会では、サッカーというゲームの意味を度外視して、手段を選ばず貪欲に得点を狙いに行く醜いサッカーが横行していた……。

 ……ブラジルではこんなことありえない、と今福龍太氏は「フチボルの女神への帰依を誓おう」で言うのだが、これはいずれも正しい指摘とは言えない。

 だいたい、昨今の高度に科学化、データ化されたサッカーというのはドイツのだけがやっているのではない。当然、ブラジルだって、スペインだって……やっている(ドイツは他国よりも優秀で精確なシステムを用いたらしいのだが)。「〈ドイツの合理性〉対〈ブラジルの偶然性〉の対立」といった単純な図式は成り立たない。

 「ミネイロンの惨劇」の試合自体も、前半早々に1~2失点する間にブラジル守備陣が完全なパニックに陥り、負のスパイラルから更なる失点を重ねたものだ。主力選手2人(ネイマールとチアゴ・シウバ)の欠場という不運はあったが、この惨劇はブラジルが自壊自滅して招いたもので、ドイツをに八つ当たりする性格のものではない。

 今福龍太氏は、ドイツの勝利至上主義の背景には勝利することによって得られる莫大な経済的利益があるとも言う。しかし、それを言うならば、サッカードイツ代表がビッグビジネスである以上に、サッカーブラジル代表の方こそ、動く金が大きいビッグビジネスである。

 ブラジル代表は貪欲に大量得点を狙いに行くようなサッカーはやらないのかというと、記録を見る限りこれも怪しい。例えば、2016年6月8日、コパアメリカ・センテナリオ(大陸選手権)でブラジルはハイチに7対1で大勝している。また、同年10月6日のロシアW杯南米予選では、ホームのブラジルはボリビアに5対0で大勝している(次のリンク先を参照)。
 後者については説明が必要であろう。当時、ブラジル代表はW杯予選の成績不振でロシア本大会出場が危うい状況にあった。そこでそれまでのドゥンガ監督を解任し、チッチ監督に交代。巻き返しに必死の状況にあり、ブラジル代表は是が非でも勝たなければならなかった。しかも、W杯予選はリーグ戦だから得失点差で1点でも上乗せが必要だった……。

 ……つまり、ブラジルはブラジルで勝利至上主義なのである。よもやブラジル代表がロシアW杯本大会の出場を逃せば、それこそ莫大な経済的損失が出る。今福龍太氏には、サッカーブラジル代表のそうした現実的側面が見えていないのだ。

 加えて「最近の〈科学的サッカー〉とやらは,冒険心に欠け,守りを固くして逃げ切るサッカーなので面白くない」という程度の話なら、実は1966年(!)のW杯イングランド大会の頃から存在している(堀江忠男『わが青春のサッカー』123~124頁)。

 つまり、今福龍太氏の持論は昔から存在する陳腐なネタなのである。

 何より、ここで紹介した氏の「デタラメ」はほんの一例にすぎない。

今福龍太氏はジャック・ラカンのような教祖になっただけ
 それでも、今福龍太氏がサッカー論壇に何かと重用されるのは、凡百なサッカーライターよりもさらに高い次元に立って、サッカーにまつわるさまざまな現象・事象を分析し、その本質を私たちの前に「批評」してくれる……と、期待されているからである(それにしてもデタラメで恣意的な話が多いが)。

 もっと重要なこと。今福龍太氏のスポーツにおける「勝利至上主義」批判が「近代」を批判する「現代思想」として読まれているからである。小谷野敦氏(評論家,比較文学者)の『哲学嫌い』を読んでいたら、その著名な「現代思想家」であるジャック・ラカン(哲学者,精神分析家)に関する記述が、今福龍太氏が教祖化していく理由と似ていたのは興味深い。
ラカンは教祖になっただけ
 〔疑似科学と批判される〕フロイトが「現代思想」的なところへはいってきたのは、フランスにジャック・ラカンが現れ「新フロイト派」を名乗ったからである。〔略〕

 「現実界」「象徴界」「想像界」といった用語や、失語症の研究におけるメタファーとミトニミーとの区分からなる理論など、ラカンは「哲学青年」を喜ばせるようなことを言った。だがその「セミネール」〔講義録〕は、きわめて難解で……しゃれや冗談、当てこすりなどがふんだんにちりばめられて、とうてい読者を寄せ付けない。

 ……あれはどう訳しても分かりやすくはなるまい。

 マルク・レザンジェ『ラカン現象』……は、ラカン主義を「はかり知れざるものへの熱狂」として批判した著作で、セミネールの参加者にとってラカンの言うことは難解でわけが分からなかったが、それを預言者、シャーマンの言葉のように受け止めて「信者」になっていったと書いている。〔略〕

 ラカンのこういう訳の分からないことを言って教祖になっていくさまは、〔日本にもいて〕折口信夫〔国文学者,民俗学者〕を思い起こさせる。〔略〕

 ラカンが「女は存在しない」と言えば、まるで意味は不明なのに、誰もその真意を問うことはなく「託宣」のように流通するのも……ある種に人々が、意味不明な、だが何やら意味ありげな言葉に熱狂する性質を持っているからだ。残念ながら私〔小谷野敦〕はそういう言葉を吐いたことがないので、信者がいない。

小谷野敦『哲学嫌い』より

哲学嫌い ポストモダンのインチキ
敦, 小谷野
秀和システム
2019-10-19


ラカン現象
マルク レザンジェ
青土社
1995-02T


 今福龍太氏の文章・文体もまた、難解・晦渋である。それゆえ深遠な雰囲気を醸し出しているけれども、その内容は「ミネイロンの惨劇」の検証でみたようにナンセンスである。しかし、だからこそ、意味ありげで読者を蠱惑(こわく)する。だからこそ、ある種の人々(文学青年,哲学青年)を熱狂させ「信者」が誕生する。アマゾンに書き込まれた高評価のレビューの書き手など、ほとんど「信者」である。

今福龍太氏が支持した対象はスポーツとして失敗している
 日本サッカー界にとって、今福龍太氏は人畜無害な存在ではない。むしろ、そのサッカー批評・スポーツ批評は有害ですらある。山形浩生氏(評論家,翻訳者)の今福龍太評はそのことを暗示している。
今福『薄墨色の文法』:思わせぶりな修辞の本。
 今福〔龍太〕の文はすべてそうだけれど、オリエンタリズム的なエキゾチズムを、青少年を堕落させる気取った修辞に包んだ本。叙情的な書きぶりは、ときにいいな~と思えることもあるんだけれど、それはむしろオカルト的な方向に流れる不健全な叙情性で、読んでるうちにだんだんうでを思いっきりのばして、あまりこの文がすり寄ってこないようにしたくなる感じ。自分でもそうなので、書評なんかして人に勧めたいとはなおさら思わない。


薄墨色の文法――物質言語の修辞学
今福 龍太
岩波書店
2011-10-05

 ありていに言えば、今福龍太氏は日本のサッカーに悪い影響を与えた。例えば氏は、「中田英寿」や「ジーコ・ジャパン」(サッカー日本代表監督としてのジーコ)といった、いかにも「抑圧的な日本のスポーツ」や「抑圧的な近現代のスポーツ」のアンチテーゼとなりそうな、現代思想的なテーマになりそうな対象を称揚した(次の写真に今福龍太氏のコメントあり)。

アエラ2004年6月7日号より
【ジーコ・ジャパンの風刺画:アエラ2004年6月7日号から】

 しかし、どちらも失敗であった。中田英寿はワールドクラスの選手にはなれなかった。なれなかったくせに、サッカー日本代表を私物化し、W杯本大会で独りよがりな引退パフォーマンスを行った。

小松成美『中田英寿 誇り』表紙
【世界から酷評された中田英寿の引退パフォーマンス】

 今福龍太氏をはじめとする、中田英寿信者ともいうべき人たちが、さんざん彼を甘やかしたせいでもある。

 ジーコ・ジャパンは、肝心の2006年W杯ドイツ大会で「惨敗」した。「勝利至上主義」を嫌悪する今福龍太氏のためにことわっておくと、これは単純な勝ち負けの問題ではない。現代思想的なスポーツ批評とは距離を置くスポーツライター・藤島大氏の指摘は重い。
ジーコのせいだ
 すべてジーコのせいだ。とりあえず、それでいいのだと思う。〔略〕

 サッカー日本代表のどこか淡いようなワールドカップ(W杯)での敗退……。

 ジーコのジャパンは「日本人のサッカー」を表現できなかった。公正に述べて「失敗」だった。ブラジルのような才気はなく、韓国のきびきびした活力もなく、つまり、輪郭がぼんやりとしていた。何者でもなかった。

 日本のサッカー界・スポーツ界がどんな悪い情況に陥ろうと、今福龍太氏は恬(てん)として恥じない。

日本サッカー界には厄介な今福龍太氏の存在
 今福龍太氏のサッカーやスポーツへの言及は「学問」ではないし「評論」でもない。あくまで「文学」としての「批評」であり、勝利至上主義(勝敗原理)を「近代」の抑圧とみなしてこれを批判する「現代思想」という「哲学」の一分野である。

 それゆえ、今福龍太氏に嵌(はま)った読者(サッカーファン,スポーツファン)は熱狂的な「信者」となるが、内容はナンセンスである(だから,日本サッカー・日本スポーツに被害をもたらすことすらある)。それは言わば、哲学者ハリー・G・フランクファートの唱えた「ウンコな議論」に似ている。

ウンコな議論 (ちくま学芸文庫)
フランクファート,ハリー・G.
筑摩書房
2016-11-09


 ウンコな議論(この場合は今福龍太氏)が、そもそも目指しているのは、読者(サッカーファン,スポーツファン)を感化することであり、自身の主張が事実や確かさ(間違いのなさ)に立脚しているかどうかは問題ではない。ひょっとしたら、日本のスポーツをより豊かなものにしようとすら考えていないのかもしれない。

 ウンコな議論は嘘を付こうとしているのではない。嘘つきは何が嘘で何が本当か知ったうえで、嘘を付いている。しかし、ウンコな議論は独りよがりで自分の意図したとおりに話を進めればよく、本当か嘘かは問題にしない。

 つまり、もっと悪質である。だから「ウンコな議論は真実にとって嘘以上に手強い敵なのである」と、フランクファートは述べる。

 日本のサッカーにとっても似たようなことが言える。

 今福龍太氏は、自分の意図した独りよがりな話を進められればよく、本当か嘘かは問題にしない。だから非常に悪質である。今福龍太氏は日本サッカーにとっての「厄介」な存在なのである。

(了)




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ポモ辛め,フェミ増し増し…な著作『ポスト・スポーツの時代』
 少し前まで、カルチュラルスタディーズ(カルスタ)がポストコロニアル(ポスコロ)やフェミニズム(フェミ)などと結託し、ポリティカルコレクトネス(ポリコレ,いわゆる政治的正しさ)の色彩を濃くした文学研究論文が学界を跋扈(ばっこ)していたという。

 そんな情況を、「〈政治的正しさ〉は文学をつまらなくする」と考えていた石原千秋氏(いしはら・ちあき,男性,近代日本文学研究,早稲田大学教授ほか)は、「カルスタ仕立てのポスコロ風味」と揶揄(やゆ)していた(『大学生の論文執筆法』)。

大学生の論文執筆法 (ちくま新書)
石原 千秋
筑摩書房
2006-06-01


 それならば、カルスタ系スポーツ社会学者・山本敦久氏(やまもと・あつひさ,成城大学教授)の著作『ポスト・スポーツの時代』は、どんな風に揶揄できるのか? さしずめ「カルスタ大盛り,ポモ辛め,フェミ増し増し,ポスコロ全部乗せ」<1>のといったところか。

ポスト・スポーツの時代
敦久, 山本
岩波書店
2020-03-28


 例えば、この本の「第5章 批判的ポスト・スポーツの系譜~抵抗するアスリートと〈ソーシャル〉の可能性」、章の前半は著者の学問的蓄積を踏まえた叙述として抑えが効いている。……のだが、ドゥルーズやガタリといった、ポモ界隈の重要人物の名前が登場する章の後半になると、ある種の政治的アジテーションへと変化していくのが分かる。

スポーツとは「筋書きのないドラマ」ではない?
 巷間、スポーツは「筋書きのないドラマ」だと言われ、私たちはそのゲームを「純粋」に「自由」に観戦して楽しんでいると信じ込んでいる。しかし、それは違う……と山本敦久氏は『ポスト・スポーツの時代』の「第4章 視覚のハビトゥス~〈黒人の身体能力神話〉と〈身体論ナショナリズム〉」で力説する。
 ……どうして黒人選手のプレーはいつも「高い身体能力」の現れとして語られるのか。サッカー日本代表のプレースタイルは、なぜいつも「組織力」として語られるのか。

 そのときスポーツを見る行為は……どれほど「自由」な解釈の余地を与えられた意味解釈の実践なのだろうか。もし、スポーツが筋書きのないドラマならば、既視感をともないながら「やっぱり黒人は~だ」「やっぱり女性は~だ」と言ってみることは「やっぱり日本代表は~だ」と言って観〔み〕ることほど、スポーツをつまらないものにしてしまうことはないではないだろうか。

 ……こうした問いによって私〔山本敦久〕が問題にしていることは、スポーツを観るという経験があらかじめどれほど既存の枠組み〔制約〕に囚われているのかという点にある。

山本敦久『ポスト・スポーツの時代』(第4章)143~144頁
 つまり、素朴で「純粋」と思われるスポーツ観戦の経験は、実は特定の既視感を確認するための行為でしかなく、そこには見えざる政治性、何より人種主義をはらんでいる。

「黒人は身体能力が高い」と考えること自体が人種差別である
 その人種主義とは、例えば「黒人選手=高い身体能力」というイメージである。
 「黒人選手」と「身体能力」が同義であるかのような関係性は、現代スポーツのなかでもはや自明のこととして神話化されている。この……現代スポーツの神話のなかで、「身体能力」という語彙は、黒人選手たちの身体運動が練習や規律によって習得された記述なのではなく「天性」の才能でもあるという意味を帯びている。

山本敦久『ポスト・スポーツの時代』(第4章)147~148頁
 具体的には、サッカー・ワールドカップの報道、例えば2002年日韓W杯の報道などを読んでみるがいい。
 ……日本のスポーツメディア環境を眺めてみれば、セネガルなどアフリカ代表チームや黒人選手のプレー、チームのプレースタイルなどに関する分析、解説、予想、賞賛、酷評などは、概ね「高い身体能力」という語彙に集約されていた。

 〔しかし,実際には〕高度に洗練された集団的な動きや組織的な戦略が目の前で展開され、その結果ゴールが生み出されているにもかかわらず、セネガル代表のプレーは高い身体能力として語られるのである。

 それはなにもサッカーに限ったことではない。多くのスポーツ競技の中で活躍する黒人選手たちは、どのようなプレーをしようとも、結果的には「身体能力」の賜物として語られる傾向が強い。

山本敦久『ポスト・スポーツの時代』(第4章)146頁
 ところが、こうしたモノの見方には忌まわしい人種主義=人種差別が潜んでいる。
 黒人とスポーツの関係を論じた研究の多くが批判的に示しているように、メディアを循環して生産され、天性の身体的才能へと還元されるステレオタイプは黒人社会全体にダメージを与え、新しい人種差別の形態を反復させる〔略〕。

 というのも、身体運動のエキスパートであることを絶賛する文脈の裏側には、知性の劣等性が配置されているからだ〔略〕。

 ステレオタイプは特定の文化的差異を繰り返し生み出し、その差異が特定の人々に本質化されるとき、そこに「人種」が生産される。「人種」は知性に対置された身体へと還元され、知性と身体の二分法に基づくヒエラルヒーの一方に配置された枠組みの中に特定の人々を押し込む。

山本敦久『ポスト・スポーツの時代』(第4章)149頁
 むろん、日本人もまた「ヒエラルヒーの一方に配置された枠組みの中に特定の人々を押し込」み、「新しい人種差別の形態を反復させる」側にいる。

 アフリカ系の黒人は身体能力が高いという通説に対して、日本人は身体能力ではるかに劣っている。それならば日本人のサッカーは組織力で対抗する(組織力で対抗するしかない)という、(自嘲的なニュアンスをも含めた)通説が日本のスポーツメディアでは繰り返し語られる。

 えてしてサッカーファンやスポーツファンは、その図式に従ってサッカーを、特に日本代表のサッカーを観る。しかし、そこには「制約」(あるいは陥穽?)がある。

 「日本人の身体能力の劣等性」や、だからこそ日本の「日本人の(優れた?)組織力で戦う(戦わなければならない)」という物語に沿って「やっぱり日本代表は~だ」、そして「やっぱり日本人は~だ」と確認してしまうこと。それは、その範疇に入らないとされる人々、例えば日本に定住する外国人や移民労働者などを他者化し、そして排除につながる(?)ナショナリズム(身体論ナショナリズム)の一形態……らしいのである。

日本サッカー界における「黒人」と「アフリカ」の「発見」
 カルスタを日本でやっている人にとっては、日本なり日本人なりを一面的に差別する側、加害者、権力者にしなければならない不文律があるのかもしれない。むろん、そのような「一面」など存在しないと言いたいのではない。それでも、山本敦久氏『ポスト・スポーツの時代』第4章の一連の叙述には、かなり違和感がある。

 なぜなら、長年、日本のサッカー言説で「日本〔人〕の組織力」と対関係にあったのは「〔アフリカ系の黒人の〕高い身体能力」ではなかったからである。あるいは、日本のサッカー論壇は「〔アフリカ系の黒人の〕高い身体能力」だけで「日本〔人〕の組織力」という対関係のステレオタイプを作ったわけではないからである。

 そのことを確認するのは、何も難しい作業ではない。1980年代前半、いち早く日本人論的な世界観に従ってネガティブな日本サッカー観をまとめて論じた近江達氏(おうみ・すすむ,サッカー指導者)の評論『日本サッカーにルネサンスは起こるか?』<2>には、「黒人」や「アフリカ」は登場しない。

近江達『日本サッカーにルネサンスは起こるか?』
【近江達『日本サッカーにルネサンスは起こるか?』】

 また、1980年代からサッカー論壇に執筆し、ありとあらゆる「日本的なるもの,日本人的なるもの」を持ち出しては、それら全てを「サッカーならざるもの」としてひたすら自虐的な日本サッカー観を述べてきた佐山一郎氏(作家,編集者)の諸論考にも、「黒人」や「アフリカ」は登場しない。
 日本のサッカー界で、黒人やアフリカが「発見」されたのは歴史的にもかなり新しい。

 その昔、大活躍したペレ(ブラジル代表)やエウゼビオ(ポルトガル代表)といった選手はアフリカ系の黒人だった。もっとも、この人たちは一個人のサッカー選手として凄すぎて「黒人選手=高い身体能力」観念の一般化にはつながらなかった……と思う。エウゼビオに関しては日本代表のストライカー・釜本邦茂が目標とした選手であり、日本人の手の届かない次元にいる選手という意識は、それほど高くはなかった……と思う。

 W杯本大会でアジア勢が停滞する反面、アフリカ勢は1982年スペインW杯や1986年メキシコW杯で着実に実績を積み上げていった(ただしアルジェリアやモロッコといった「ブラックアフリカ」でない国も含む)。そして「黒人選手=高い身体能力」のイメージ形成に強い影響を与えたのは、1990年イタリアW杯でベスト8に進出したカメルーンである。

 この大会、カメルーンは開幕戦で前回王者のディエゴ・マラドーナを擁するアルゼンチンに勝って番狂わせを起こしているが、決勝点はフランソワ・オマン=ビイクの非常に高い打点からのヘディングだった。この時の映像なども「アフリカ=黒人選手=高い身体能力」の印象を人々に刷り込ませた(下の写真参照)。

1990イタリアW杯開幕戦アルゼンチンvsカメルーン(1)
【1990年イタリアW杯開幕戦 アルゼンチンvsカメルーン(1)】

1990イタリアW杯開幕戦アルゼンチンvsカメルーン(2)
【1990年イタリアW杯開幕戦 アルゼンチンvsカメルーン(2)】

 また、同年の文春ナンバーのイタリアW杯特集、賀川浩氏、中条一雄氏、富樫洋一氏による大会総括鼎談「W杯イタリア'90を語る」でも、「アフリカ=黒人選手=高い身体能力」に言及する箇所がある。
 この中で富樫洋一氏が「普通のオーバーヘッドキック=バイシクルキック=は,後方回転して足の甲でボールをけるものだが,アフリカの黒人の中には前方回転して踵(かかと)でオーバーヘッドキックをする選手がいる」などという、真偽不明の噂を語っている。

日本人=組織力に対置されるのは「身体能力」ではなく「個人主義」
 「アフリカ=黒人=身体能力」のイメージの対関係として「日本人のサッカー=組織力で戦う(組織力で戦うしかない)」というイメージが作られたのではないとすれば、それは一体どこから来たのだろうか?
 日本のスポーツメディア環境においては、白人/黒人、ヨーロッパ/アフリカの境界線が、多くの場合、文明/野蛮、文化/自然、そして知性/身体という境界線と重なっていることが指摘できる。

山本敦久『ポスト・スポーツの時代』(第4章)149頁
 以上のようなことを山本敦久氏は述べるのであるが、それでは、これら二項対立のどちら側に日本人が入るのか? 氏は明言していない(たぶん出来ない)。むろん黒人の側ではない。それでは白人側なのかというと、全くそんなことはない。当然である。日本人が白人たちの仲間に入れていただけるはずがないのだ。

 「サッカー日本代表のプレースタイルは,なぜいつも〈組織力〉として語られるのか」。日本のサッカー論壇で以前から語られてきた「日本〔人〕の組織力」の対関係は、黒人やアフリカのフィジカルな能力(身体能力)ではない。それはメタフィジカルな能力である。具体的には「欧米人の〈個人主義〉」というある種の「知性」である。

 サッカーとは欧米人の「個人主義」の原理が貫徹したスポーツである。しかし、日本人は個人主義とは対照的で特殊独特、なおかつ著しく劣った「集団主義」であり、本質的に日本人はサッカーに向いていない。それでも日本人は「集団主義」的なサッカー、すなわち「組織力」や戦術に頼ったサッカーで挑むしかなく……。

 ……しかし、本来サッカーは欧米人の「個人主義」的な自由な想像力・創造力を必須とするスポーツだから、「日本」のサッカーは最終的には欧米人(換言すると「世界」)には敵わない。それでも日本人は「集団主義」的な「組織力」のサッカーで挑むほかなく……。

 ……こんな無限ループの論理を飽きもせずに繰り返してきたのが、日本サッカー界または日本のサッカー論壇なのである。「日本〔人〕の組織力」という観念には、まず「世界」のサッカーに対する自虐的な劣等感として意識されたのだ。

 『ポスト・スポーツの時代』のあとがきによると、同書第4章の該当論文は、初め2010年刊、橋本純一編『スポーツ観戦学~熱狂のステージの構造と意味』の第11章「スポーツ観戦のハビトゥス~人種化された視覚の場と方法論的ナショナリズム」として発表されたものだという。アマゾンの書誌情報などを観ると、該当論文の執筆は2009年ごろだろうか。

 「世界」の個人主義に対する劣等感としての「日本〔人〕の組織力」というサッカー言説は、遅くとも1980年代前半から一般的に流通していたにもかかわらず、特に日本代表が「惨敗」した1998年フランスW杯や2006年ドイツW杯の直後にはさんざん乱れ飛んでいたにもかかわらず、山本敦久氏はこうした情況を全く踏まえずに『ポスト・スポーツの時代』第4章を執筆したことになる。

 山本敦久氏による「黒人選手=高い身体能力」神話の批判は、海外のカルスタの知的流行を単に輸入し、日本の実情を吟味することもなしに当てはめたものに過ぎないのではないかとの疑念が湧(わ)いてくるのである。

「世界人類」と「日本人」の境界を見えなくする「視覚のハビトゥス」
 いずれにせよ、日本人は「白人/黒人,文明/野蛮,文化/自然,そして知性/身体」という贅沢な二項対立の図式には入れない。

 身体能力ではるかに劣り、スポーツ(特にサッカー)を遂行するためのある種の「知性」(個人主義)にもはるかに劣った、人類以下の低劣な亜人類、下等な人種=日本人……。

 日本のスポーツメディア環境、日本のサッカー論壇は、山本敦久氏が思想とは逆の方向でも、今なお「人種」概念が有効なのである。

 だから、日本には欧米とまた別の事情が存在する。日本人による黒人への偏見と、日本人による日本人自身への偏見。このふたつをセットにして考察し、批判していかないことには、日本のスポーツ界やスポーツメディアにおける問題を乗り越えることはできない。

 山本敦久氏からそれを見えなくしている理由は、価値中立から逸脱しがちなカルスタという学問分野の生来の政治志向や、そのカルスタを日本のスポーツ文化の研究に持ち込んだ際の度の過ぎたナショナリズム批判である(後者については下のリンク先参照)。
 そうした自覚には今ひとつ乏しいところがある山本敦久氏は、日本のスポーツファンやスポーツメディアのスポーツ観戦感覚を批判する説得力に欠けている。

(了)




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