スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:蹴鞠

「明治」をスルーした日本サッカー史?
 2021年は公益財団法人日本サッカー協会(JFA)の創立100周年である。JFAは「正史」として大型本の『JFA 100年史』(仮称)を公刊するはずだ(JFAは創立50周年の時も,75周年の時も「正史」を刊行している)。

財団法人日本サッカー協会 75年史―ありがとう。そして未来へ
財団法人日本サッカー協会75年史編集委員会
日本サッカー協会
1996-10-01



 しかし、いかに本が売れない時代とはいえ、有為な書き手による、手ごろな一冊のサイズにまとまった日本サッカー通史を、サッカーファンやスポーツファンに送り出す企てはないのだろうか。

 相撲(「大相撲」に限定されない格闘技としての相撲)や、マラソン・駅伝などには優れた通史は存在するのだから、サッカーでもそういった、いい意味での「外史・稗史・野史」を当然読みたいのである。

相撲の歴史 (講談社学術文庫)
新田 一郎
講談社
2010-07-12


相撲の歴史
新田 一郎
山川出版社
1994-07-01


マラソンと日本人 (朝日選書)
武田 薫
朝日新聞出版
2014-08-08


 果たして、その先駆けなのか、佐山一郎さんによる『日本サッカー辛航紀』が上梓された。

 もっとも、この著作は「私小説」的な性格が色濃いうえに、日本サッカー史を謳(うた)いながら、日本サッカー界は歴史を大事にしていないと批判しながら、そして蹴鞠も話題まで採り上げながら、しかし、肝心要の明治時代、草創期の日本のサッカー事情について全く触れていないという、実に不思議な一冊である。

 やっぱり、明治時代、海外から日本へのサッカーの伝来、普及、野球やラグビーなど他競技との関係等々について全く言及しないというのは、違うのではないか。

 それこそが、日本サッカーの原点だからである。日本のサッカーの文化や歴史などの総体を理解するためには、原点である「明治」を知らなければならない。書名が『日本サッカー辛航紀』であるならば、なおさら、その「辛」い「航」海の船出が明治時代だったからである。

明治最初のフットボールはサッカーか? ラグビーか?
 意地の悪いことを言うと、『日本サッカー辛航紀』はこの重苦しいテーマから逃げたのではないかと邪推する。野球に普及や人気でサッカーが先んじられたこともある。もうひとつは、そもそも日本で最初に行われたフットボールが、サッカーなのか、ラグビーなのか、最近になって論争になっているためでもある。迂闊(うかつ)なことが書けないのだ。

 今でも、JFAの公式サイトの「沿革・歴史」、1873年(明治6)の項には「イングランドサッカー協会(The FA)創設から10年後、英国海軍教官団のA・L・ダグラス少佐(中佐とも)と海軍将兵が来日。東京築地の海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)で日本人の海軍軍人に訓練の余暇としてサッカーを教えた(これが、日本でサッカーが紹介された最初というのが定説になっている)」とある。これが従来の定説というか、通説であった。

▼日本サッカー協会(JFA)沿革・歴史

 後藤健生さんも『日本サッカー史 代表編』では、特に吟味することもなく、この通説を掲載した。


秋山陽一
【秋山陽一氏】

 秋山さんの主張をまとめたのが、日本ラグビー狂会編『ラグビー・サバイバー』所収の「フットボールの憂鬱」という論考である。

ラグビー・サバイバー
日本ラグビー狂会
双葉社
2002-11


 後藤さんは、ある程度、秋山さんの批判を受け入れている。当時の海軍兵学寮の様子を調べていくうちに、なるほど、これが完全なるサッカーだったとは言い難い。もっとも、それがラグビーだったと証明することもできないのだが……。

 後藤さんの後の著作『サッカー歴史物語』では、持論が修正されてある。

 イングランドでFAルール(サッカー)が普及するのは、実は「The FA」が創設された1963年よりも少し後のことだ。また、イングランドのラグビー協会(RFU)の創設も1871年である。あの当時は、サッカーとラグビーはそれほど隔たりのある球技ではなかった。

 当ブログから加えるに、当時は、サッカー、ラグビー以外のルールのフットボールもいくつか混在していた。フットボールが両者どちらかに収斂(しゅうれん)していくのも、後々のことである。

 明治初期の海軍兵学寮では、キッチリしたルールではなく、フットボールの真似事のような遊びを英国海軍将兵と日本人学生らはやっていたのではないか。

 後藤さんといっしょに「日本サッカー史研究会」を主宰している牛木素吉郎さんも、この立場を支持している。

 牛木さんは、明治初期に日本で行われたフットボールを「サッカー」でも「ラグビー」でもなく、「フットボール」と表記しようと提案している。FAルールで行われたことが確実なものだけを「サッカー」と呼び、RFUルールで行われたことが確実なものだけを「ラグビー」と呼ぶ。

▼牛木素吉郎「明冶初期のフットボール@日本サッカー史研究会」(2007年2月19日)

 そうすることによって、無意味な論争を避けることができる。

後藤・牛木説をあくまで突っぱねる秋山陽一氏
 しかし、秋山陽一さんは、この後藤・牛木説にもあくまで異を唱える立場をとる。

 秋山さん曰く……。後藤健生氏は『サッカー歴史物語』で、当時のルールについて、相変わらず「サッカーともラグビーとも特定しがたく」という見解を披歴しているが、根拠を示していない(これは指摘どおりかもしれない)。一方、イギリスの研究者(誰?)は海軍兵学寮のフットボールについてラグビーとしている。

A_Footbll_Match_in_Japan
【A Football Match in Japan(19世紀)】

 イギリス人の特徴としてスポーツ組織を作るときにそこで行われるルールを何にするかを決めずに行動を起こさない(本当か?)。論拠となる資料はある(それが知りたい)。

 後藤健生氏と牛木素吉郎氏の説を支持するサッカーファンが理解できない。

 ……。何というか。秋山さんのスタンスからは、サッカーファンに対して「マウントを取りに行く」感じをヒシヒシと感じる。さすがに最近はそんな人も少なくなったが、どうして日本のラグビー関係者はサッカーを目の敵にするのだろうか。

 いちど「日本サッカー史研究会」の会合で後藤さんと秋山さんの「直接対決」があったというが、秋山さんの態度がかなり挑発的だった、との噂もある。

 秋山さんがいう「イギリスの研究者」が誰かは分からないが、2019年6月に英国の歴史学者、ラグビー史研究家のトニー・コリンズ(Tony Collins)による『ラグビーの世界史~楕円球をめぐる二百年』が上梓された。

 現時点で未読だが、この著作では海軍兵学寮の「フットボール」を「ラグビー」としているかもしれない。確認できれば当ブログで紹介するかもしれない。

工部大学校の「フットボール」は「サッカー」
 もうひとつ、秋山氏が批判・指摘しているのは、明治初期の海軍兵学寮とはほぼ同時期に「フットボール」が行われていた工部省工学寮(工部大学校)は、昭和初期に刊行された当時の学生の回顧談にハッキリと「アソシエーション式」(サッカー)であることだ。

 これについては、サッカー史研究ブログの「蹴球本日誌」が詳しい。『旧工部大学校史料』(1931年)、『旧工部大学校史料・同附録』(1978年復刻)を参照しながら、次のように説明する。
 古川阪次郎〔OB〕「工部大学に於ける運動其他」には、

 〈…それから上の組の頭が玉木弁太郎君及田辺朔郎君であったと記憶して居るが、玉木君は丈が高い(後には肥ったが)ので、フットボールの時分には、いつでも玉木君がゲートキーパーであった。〉(p.137)

 とあり、GKを置いた「サッカー」だったことがわかります。弱冠20代で琵琶湖疎水を完成させるという偉業をなしとげた田辺朔郎もサッカーをしていたようです。

 門野重九郎〔OB〕「工部大学に於けるスポーツ」には、

 〈四、フートボール

 此のゲームは溜池運動場にて盛なりしが今日のアッソシエーション〔FAルール=サッカー〕の前身とも云ふべく其のルールも至って簡単にして今日の如く前営〔FW〕、中堅〔HBまたはMF〕、後営〔BKまたはDF〕などと確然と定まった陣営も無く唯早く球をゴールに蹴込むに勉めたるものなり。〉(p.142)

 とあり、「サッカー」だったことを〈証言〉しています。

蹴球本日誌「『旧工部大学校史料』におけるサッカー」July 09, 2005


▼旧工部大学校史料~国立国会図書館デジタルコレクション

▼旧工部大学校史料・同附録(青史社)1978|書誌詳細|国立国会図書館
 後藤健生さんは、なぜか工部大学校の「フットボール」にしても、サッカーなのかラグビーなのか曖昧にしている。海軍兵学寮と違って、こちらは「サッカー」であることがほぼ確定しているのだから、堂々とサッカーと書いてもいいのではないかと思う。

 後藤さんは、わざと曖昧にしているのだろうか。

海軍兵学寮=ラグビー説の矛盾
 ブログ「蹴球本日誌」は、サッカーかラグビーかという論争に、別の立場から「参戦」している。「蹴球本日誌」は、秋山陽一さんと同じ史料、沢鑑之丞著『海軍兵学寮』(1942年)などを参照しながら、しかし、海軍兵学寮のフットボールは「サッカー」であるという立場をとる。

 該当するエントリー「秋山陽一『フットボールの憂鬱』を読んで」(2005年7月18日)では、秋山さんの史料の見落としや持説の矛盾点を突いている(引用文は,読みやすいように適宜編集してある)。
 秋山陽一氏の著作「フットボールの憂鬱」@『ラグビー・サバイバー』p.212に〈澤鑑之丞の別の著書「海軍兵学寮」でも、午後に毎日砲術訓練が取り入れられた当初、生徒たちは身体が大いに疲労を感じたが、後には次第に活気を増し愉快に外業を学ぶようになったと述べている。〉とあり、澤(沢)の『海軍兵学寮』(興亜日本社,1942)を読んだことが記されています。

 この本(『海軍兵学寮』)の明治7年〔1874〕の部分に〈また、「フットボール」(蹴球)もイギリス教師より教を受けて、寮内馬場に於て、甲乙両部にわかれ仕合を致しました。〉という一行があり(p.248-250のうちのどこか)、1874年当時の在籍者が〈フットボール(蹴球)〉をしていたとの「証言」があるのですが、不思議なことに(笑)秋山氏はこの部分に言及していません。

 また秋山氏は、「フットボールの憂鬱」で〈日本では、明治から大正時代にかけてア式とラ式といういい方で2つのフットボールを区別してきたが、昭和に入ると、ア式は蹴球を名乗り、一方は単にラグビーとなった。〉(『ラグビー・サバイバー』206頁)とも述べています。1942(昭和17)年に出版された『海軍兵学寮』に〈「フットボール」(蹴球)〉と記されていて、〈「フットボール」(ラグビー)〉でないのは、秋山氏の説に従えば、海軍兵学寮はサッカーをしていたことになってしまいます。これは秋山氏のオウン・ゴール……(笑)。

蹴球本日誌「秋山陽一『フットボールの憂鬱』を読んで」July 18, 2005


▼海軍兵学寮(興亜日本社):1942|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
 読んでいて、当ブログも笑ってしまった。

 秋山さんの「フットボールの憂鬱」は、私も読んだが、何というか、あれを確実にラグビーであるとするには、今ひとつ決定打に書くのではないかという気はした。

もっと活発な議論の応酬を!
 話を戻すと、秋山陽一さんは「イギリス人の特徴としてスポーツ組織を作るときにそこで行われるルールを何にするかを決めずに行動を起こしません.論拠となる資料はあります」と唱える。

 一方、後藤健生さんは「YC&AC〔横浜カントリー・アンド・アスレチック・クラブ,外国人居留地のクラブ,かつての通称「横浜外人クラブ」〕で、アソシエーション式(つまりサッカー)にするか、ラグビー式にするかという議論が行われたのは1880年代になってからのことだ」と唱える(『サッカー歴史物語』143頁)。

 これは重要な指摘だ。何がしかの根拠=資料(史料)がなければならない。

 ここでも、後藤さんと秋山さんの意見の相違は争点になる。野次馬としては、このサッカーvsラグビー論争で、もっと活発な議論の応酬を見たい。そうすることが、むしろお互いをよく知ることになり、お互いのためになる……のではないか。邪馬台国論争や、法隆寺再建論争みたいに、もっと派手にやってほしいのである。

 そのためには後藤健生さんvs秋山陽一さんのセカンドレグを、ぜひとも実現させるべきであろう。

(了)



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ウィキペディアより信用できない玉木正之氏の話
 玉木正之氏とは何者なのかと人問わば、「ウィキペディア程度の浅薄で信憑性の低い情報を,ウィキペディアやグーグル検索ですら確認せずに,ドヤ顔で垂れ流すスポーツライター」と答える。

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【玉木正之氏】

 最近は「スポーツライター」ではなく、「スポーツ文化評論家」を名乗っているらしい。玉木氏は、かねがね「ろくに現場で取材もしないのに,上から目線で偉そうにピント外れの能書きを垂れるスポーツライター」などと批判されていた。良くも悪くも「鈍感力」が強いのが玉木氏なのだが、そんな批判に耐えかねて「肩書」を変更したのだろうか(爆)

 とにかく、玉木氏の話は、原典や出典を確かめようともせず、いつも、うろ覚えと思い込みで物を書くから、おかしな点や間違いが多い。

 それにもかかわらず、マスコミは玉木氏を重用する。例えば、明治11年(1878)創業の名門出版社・春陽堂書店が、玉木正之氏を起用して「スポーツって、なんだ?」というコラムの連載をやっている……。
 ……が、しかし、これもなかなか怪しい。

玉木正之氏の「スポーツって、なんだ?」第3回を読む
 今回は、この「スポーツって、なんだ?」より、当ブログのメインテーマである「大化の改新と蹴鞠(けまり)問題」に絞って話をする。採り上げるのは、連載第3回である。
玉木正之「スポーツってなんだ?_#3」春陽堂書店
【玉木正之の「スポーツって、なんだ?」第3回より】

 ただし、当ブログが問題視するのは、玉木氏のくだんのコラムの主要テーマである「バスケットボールは,なぜボールを持って3歩以上歩いてはいけないのか?」ではない。リンク先に書かれてある話は、おおむね間違いはないだろうからだ(たぶん)。

 バスケットボールは、「2チーム対戦型で,両チームが向かい合い,両チームの選手が入り混じって,ボールを奪い合い,これをつないで,ゴールを狙う球技」を、すなわち古来から存在するフットボール系(玉木氏に配慮して,ホッケー等も含むこととする)の球技を、19世紀に人為的に改良して生まれたスポーツである。

 論(あげつら)うのは、このバスケ前史に関する玉木氏の言及だ。以下、引用する。

サッカー,ラグビーの元祖は「太陽の奪い合い」? 本当か?
 とにかく、おかしい、変だ……と思ったところは、片っ端から頭に数字を振り、該当部分を朱太字にして、注釈または批判する。
 【1】サッカー、ラグビー、ホッケーなど、フットボールの仲間の球戯は、すべて古代メソポタミアの太陽の奪い合いから始まった──ということを前回〔第2回〕まで書いてきた。そのメソポタミアから西へ伝わった【2】「球戯文化」は、もちろん東にも伝わり、中国で「毬門(きゅうもん)」というホッケーとサッカーを組み合わせた遊びになったり、陶器で作った丸いモノを地面に転がせて、大地に太陽の恵みを与える遊びになったりしたようだ。
 【1】まず、すべてフットボール系の球技が「古代メソポタミアの太陽の奪い合い」(に見立てた宗教儀式)に由来、収斂される……という話は、かねてより玉木氏の持説なのだが、この出典が不明である。

 例えば、さまざまな大学で教科書として用いられ、版を重ねている『体育・スポーツ史概論』(市村出版)。その「古代メソポタミア」のスポーツについて解説した部分には、そのような情報は、一切、書かれていない。

 玉木正之氏は、古代メソポタミアのプロの学者ではないし、むろん、あの楔形(くさびがた)文字の膨大なテキストを解読したわけではない。だから、どこか、誰かの研究家の成果を下敷きにしている……はずなのである。

 それを明らかにしないと、後学の者(読者)が「追試」できない。……で、ある限り、この所説は、玉木氏の思いつきか、何か中途半端な聞きかじりではないかという「疑惑」が常に付いて回る。

 この点、玉木氏は非常に不親切な著者である。事実、読者から貴方の持説の出典は何かと、読者に質問されると、資料を片付けてしまった、正確な出典は覚えていないなどと平気で宣(のたま)う「スポーツ文化評論家」が、玉木正之氏なのである。

玉木正之氏が「球技」を「球戯」と読み替えたらスポーツが堕落した
 【2】「球技」ではなく、わざわざ「球戯」と書きたがるのは、スポーツの本義は遊びであること、楽しむこと、日本の体育会が陥りがちな艱難辛苦や、陰湿な上下関係などとは違うものである……という玉木正之氏の「イデオロギー」に由来する。

 これには「勝利至上主義」にこだわった、近現代スポーツの「イデオロギー」への否定という含みもある。文化人類学者の今福龍太氏が、やたらと「勝利至上主義」を嫌悪してみせるのと同根だ。「フットボールの元祖は古代の宗教儀式である」という出典不明の見解に玉木氏こだわるのも、近現代スポーツの「勝利至上主義」批判の一環である。

 しかし、これらが何をもたらしたのかというと、むしろ、スポーツの堕落である。より具体的には、玉木正之氏と、ラグビー日本代表の選手・監督であった故平尾誠二氏との、馴れ合い関係である。

 かねがね「スポーツは遊びだ,ラグビーを楽しむ」と公言していた平尾誠二氏。ラガーマンの平尾氏と、スポーツライターの玉木氏は、同様の思想、同郷の京都人として意気投合。2人で「イデオロギー」を煽りまくった。平尾が属した神戸製鋼ラグビー部で、日本国内のラグビー大会で勝ち続けている間は、それでよかった。

 しかし、ラグビー日本代表で自ら指導的立場に立ち、海外の列強と対峙せざるを得なくなった時、平尾誠二氏のスポーツ観は、間違った方向に作用した。

 その結果が、1995年ラグビーW杯南アフリカ大会のおける日本の大惨敗である。特に日本vsニュージーランド戦での145失点! ラグビーの国際試合で100失点というのはたまにあるが、前後半80分の間にさらに45失点を重ねるのは空前にして絶後の世界的な恥辱だ。名付けて「ブルームフォンティーンの惨劇」である。

ブルームフォンティーンの惨劇
【ブルームフォンティーンの惨劇】

 平尾誠二は、この大会、この試合の「超A級戦犯」だった。そのため、日本ラグビーは20年も低迷を続けるはめになっている。そして、平尾氏とラグビー日本代表をめぐる経緯は、ラグビー評論家・ラグビーライターによって、さまざまに批判されている。

ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12


ラグビー従軍戦記
永田 洋光
双葉社
2000-06


 いずれにせよ、これは、もはやスポーツとは言えない。

 ところで、玉木正之氏が平尾誠二氏を描いた本に『平尾誠二 八年の闘い~神戸製鋼ラグビー部の奇蹟』がある。要は、玉木氏を平尾氏が称揚した文章の集成なのだが、奥付を見ると、1995年10月とある。同年5月~6月に、例の日本が大惨敗したラグビーW杯が開催されたのだが、玉木氏の著作には、何と、その件について何も触れられていない!?

 玉木氏は「球技」を「球戯」と読み替えることによって、日本のスポーツが国際舞台でがどんなに惨敗しようと、何の痛痒も感じない鈍感な「スポーツライター」になってしまった。玉木氏は、実存としてのスポーツの在り方が分からなくなってしまったのである。

 いずれにせよ、これは、もはやスポーツとは言えない。

ホッケー風球技を「蹴鞠」と紹介したマヌケな玉木正之氏
 玉木正之氏は初歩的なエラーを繰り返す人で、読んでいてウンザリさせられる。
 それ〔フットボール系の球技〕が飛鳥時代の日本にも伝わり、【3】「打毬(くゆるまり)」と呼ばれるホッケーのような遊びになったという説もある。【4】高松塚古墳の西壁北側に描かれた〔壁画の〕女子群像には、ホッケーのスティックのような先の曲がった棒を持っている飛鳥美人が描かれている。見ようによっては、フットボール文化がユーラシア大陸の全てを覆い、日本という東端まで伝わった証拠ともいえる。
 【3】上代日本の球技事情を示す史料として、『日本書紀』皇極天皇紀に、中大兄皇子と中臣鎌足が邂逅(かいこう)し、胸襟を開くきっかけとなった「打毱」の記事がある(毱は鞠,毬の意)。一般に、打毱は「蹴鞠」だと思われているが、異説があり、スティックでボールを打つホッケー風の球技(打毬)ではないかと唱える人もいる。

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【打毱】

 岩波文庫の『日本書紀』(校注:坂本太郎)では「蹴鞠」説を、小学館の『日本書紀』(校注:西宮一民)では「ホッケー風球技」説を採用している。また、『日本書紀』に脚色・潤色の類がいくつか見られることから、この逸話自体を虚構ではないかと見なす立場もある。いずれにせよ、学術上の決着はついていない。

日本書紀〈4〉 (岩波文庫)
坂本 太郎
岩波書店
1995-02-16




 ところが、玉木正之氏は、学術上の吟味もなしに、これを「ホッケー風球技」であると強硬に吹聴している。これは、玉木氏が自身の都合の良い話……すなわち、日本でサッカーより野球の人気が先行したのは、皇極天皇紀に登場する古代日本の球技が蹴鞠ではなく「ホッケー風球技」だからであるというスポーツ史観に、読者を誘導したいがためだ。

 しかし、これがデタラメだらけなのである(この点は,さんざん論じてきたのでここでは繰り返さない.以下のリンク先をじっくり読んでいただければと思う)。


 ……で、玉木氏は「打毬」に「くゆるまり」とルビをふっているが、「くゆるまり」とは、実は「蹴鞠」(けまり)の古語の訓なのである。この点は、先に紹介した岩波文庫版『日本書紀』で、校注者の坂本太郎氏が解説を書いている。つまり、打毱を「ホッケー風」球技だと主張している玉木氏は、勘違いして「蹴鞠」として紹介しているのである。

 マヌケとしか言いようがないが、そもそも玉木氏は『日本書紀』皇極天皇紀の該当部分すら、真面目に読んだことがないことがないのではないかと疑われる(後述)。

高松塚古墳の壁画の人物まで間違える玉木正之氏
 【4】高松塚古墳(7世紀末~8世紀初めに築造)の石室の壁画で「ホッケーのスティックのような先の曲がった棒を持っている」人物が描かれているのは、「西壁北側に描かれた女子群像」ではない。正しくは「西壁南側の男子群像」、その右から1番目(右端)の人物である。

高松塚古墳の石室壁画の展開図
【高松塚古墳の石室壁画の展開図】

 飛鳥美人として非常に有名な「西壁北側に描かれた女子群像」、その右から2番目の人物が持っている、耳かきが巨大化したような道具は「如意」(にょい)と言い、もともとは読経・説法・法会などの際に僧侶が手に持つ仏具である。

 これまたマヌケなことに、玉木正之氏は、この点を確認しなかったために、両者を混同しているのだ。

 「西壁南側の男子群像」の右端の人物が持っている「ホッケーのスティックのような先の曲がった棒」が「打毬の杖」であるとは、吉川弘文館『国史大辞典』の「高松塚古墳」の項目にも、たしかに書いている。

国史大辞典(全十五巻・全十七冊)
国史大辞典編集委員会
吉川弘文館
1999-01-20


 玉木氏は、これをもって『日本書紀』皇極天皇紀に出てくる打毱が「ホッケー風球技」だという「証拠」としたいようだ。話の飛躍でしかないと思うが、高松塚古墳の壁画の男子と女子を間違えるようでは、その説得力に欠けようというものである。

中臣鎌足と中大兄皇子を取り違えている玉木正之氏
 ようやく、今回の「本丸」に迫ることができた。
 【5】『日本書紀』には、中臣鎌子(なかとみのかまこ)、のちの藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が「打毬」に興じながら、それを見守る中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の近くへ沓(くつ)を飛ばし(「打毬」では棒で毬を打つと同時に足で蹴ってもよかったようだ)、【6】皇子のそばに近寄って、「近々、蘇我入鹿(そがのいるか)を伐つ」旨を相談したとも記されている。【7】「蹴鞠」=「けまり」と解説した書籍も多いが、「蹴鞠」が中国大陸から日本に伝わったのは平安時代ともいわれている。〔以下略〕
 【5】玉木正之氏の『日本書紀』の解説が間違いだらけである。まず「打毬」(打毱)に興じていたのは中臣鎌子(中臣鎌足)ではなく、中大兄皇子(後の天智天皇)。履(は)いていた鞋(くつ,『日本書紀』皇極天皇紀の表記)が脱げたのも中大兄。この鞋を拾った鎌足は、謹んで中大兄に届けたとある。

 読んでいてイライラするが、そもそも玉木正之氏は話の基本を間違えている。

 また、この時の打毱を、何としても「ホッケー風の球技」にしたい玉木氏は「〈打毬〉では棒で毬を打つと同時に足で蹴ってもよかったようだ」と書いている。しかし、古代メソポタミアの話と同様、このルールの存在も確証・出典が不明である。

 【6】通常の『日本書紀』皇極天皇紀の解釈では、中大兄と鎌足は、打毱(打毬)の場では無言で友誼(ゆうぎ)を通じて、場を改めて「〈蘇我入鹿(そがのいるか)を伐つ〉旨を相談した」ことになっている。

 一方で、打毱(打毬)に興じていたその場で、鎌足と中大兄は「蘇我入鹿打倒」を話し合ったようにも読める。この部分のように、玉木氏の記述は少し分かりにくいモノが多い。玉木氏の解釈は後者である。なぜなら別のところで、そのように述べているからである(下記引用文,リンク先参照)。
 ……稲垣正浩さんの『スポーツを読む』。これは古今東西のスポーツに関する本を選んで解説した本です。例えば、『日本書紀』のくだりでは、中大兄皇子と中臣鎌足が打くゆる鞠まりというホッケーのようなスポーツのプレー中に蘇我入鹿の暗殺を企てる、という有名な場面も出てきます。

 つまり、玉木氏のこの記述は正しくはない。繰り返すが「打くゆる鞠まり」とは「蹴鞠」の古語の訓のことであって、「ホッケーのようなスポーツ」のことではない。これは、スポーツ人類学者の故稲垣正浩氏が『スポーツを読む』の中で、『日本書紀』皇極天皇紀の内容を間違って解釈していたのを、玉木氏がそのまま鵜呑みにしたためだ。

 要するに、玉木正之氏は、小学館版でも岩波文庫版でも、原典である『日本書紀』皇極天皇紀の該当部分をまともに読んだことがないのである。

 【7】この部分の根拠・出典も不明。玉木氏は別のところで「そのことについては百科事典等にも書かれていて、明らかです」と書いているが、どの百科事典も、あるいは吉川弘文館『国史大辞典』も、小学館『日本歴史大事典』も、ハッキリとは書かれていない。この種の事典(辞典)は分からないことは、安易に明言しないものである。

 玉木氏本人が明確に出典を覚えていないから「……ようだ」とか「……ともいわれている」とか、あいまいな表現がどうしても多くなるのである。

真のスポーツにおける「知」とは? リテラシーとは?
 玉木正之氏は、春陽堂書店のサイトで「スポーツって、なんだ?」を始めるにあたって「日本のスポーツ関係者は,スポーツのことをあまりにも知らない(無知).それが昨今のスポーツ界に不祥事が続出する理由である」などと述べている。

 しかし、以上に説明してように、そもそもスポーツに関しての「無知」を曝(さら)出したのは、玉木氏の方である。そのスポーツ評論の、ほんの一部分を採り上げただけでも、たくさんの間違いや首をかしげるところが発見されるのである。

 むしろ、玉木正之氏のウソやデタラメを見抜くリテラシーを身につけることこそ、スポーツに関する真の「知」を獲得することになり、不祥事続きの日本スポーツ界の問題を乗り越える武器になるだろう。

(了)



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 神武紀元2679年(笑)2月11日「建国記念日」に寄せて……。

大化の改新のきっかけはサッカー? ホッケー?
 日本上代史に名高い「大化の改新」のクーデター「乙巳(いっし)の変」(645年)の主役、中大兄皇子と中臣鎌足の2人は、蹴鞠(けまり)の会で邂逅(かいこう)したと、巷間、信じられている。

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【神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより『中大兄皇子と中臣鎌足』作:小泉勝彌】

 ところが、その経緯を記した『日本書紀』皇極天皇紀にはハッキリ「蹴鞠」とは書かれていない。そこにあるのは「打毱」という謎の文字列である。この「打毱」をめぐっては、学者によって解釈が分かれてきた。

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【打毱】

 つまり、この古代日本の球技は、足でボールを蹴るサッカーに近い「蹴鞠」であるという説。一方、そうではなくて、スティック状の杖でボールを叩くホッケー風の球技(打毬=だきゅう=とも,毬杖=ぎっちょう=とも表記される)ではなかったかという説。ただし、両説ともに決定打を欠き、真相は現在も確定していない。

 ところが、スポーツライターの玉木正之氏は、具体的な証拠が乏しいにもかかわらず、一面的にホッケー説の方が正しいと、強硬に主張してきた。

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【玉木正之氏】

 なぜなら、玉木氏は、このことが日本のスポーツの在り方を規定しているのだと唱えているからである。なぜなら、玉木正之氏は「日本人はサッカーが苦手な民族である」という強い思想の持ち主だからである。

 日本では歴史的にサッカーより野球の方が人気があったこと、サッカー日本代表が国際舞台で「弱い」こと……等々、すべて、大化の改新のキッカケが蹴鞠ではなくホッケー風競技であった「史実」に拘束されている(!?)からなのだという。

「大化の改新のキッカケは蹴鞠ではなかった説」の間違い
 玉木正之氏は知名度の高いスポーツライターであり、スポーツ界への影響力も強い。つまり「大化の改新のキッカケは蹴鞠ではなかった説」も、玉木氏の「啓蒙」によって「天下の公論」になってしまうかもしれない。

 すると、それに付随している「日本人は日本人はサッカーが苦手な民族である」というイメージも、人々の間に常識化してしまいかねない。日本のサッカーにとっては、まったく迷惑な話である。

 一方で、玉木氏は、自分にとって都合の良い結論のために事実(史実)を歪曲する癖が強いと、これまでにも批判されてきた(ラグビー史研究家・秋山陽一氏による)。実際、よくよく吟味してみると「大化の改新のキッカケは蹴鞠ではなかった説」も同様、間違いだらけで、玉木史観のためのご都合主義の産物でしかない。

 当ブログ「スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う」本来の目的は、その玉木正之史観のデタラメさを告発し、かつ徹底的に批判することである。その成果は「大化の改新と蹴鞠(40)~玉木正之説の総括,批判,あるいは超克」(2017年10月26日)として、まとめた(下記リンク先参照)。
大化の改新と蹴鞠(40)~玉木正之説の総括,批判,あるいは超克(2017年10月26日)


 玉木正之説が妥当なものならば、私たちはこれを受け入れるしかない。しかし、玉木氏の持説は、徹頭徹尾、間違っているのである。そして、これは日本のサッカーにとって明らかに不利益なものだ。日本のサッカー関係者は、玉木正之氏のデタラメを徹底的に批判して、これを超克しなければならない。

描かれた「中大兄と鎌足の出会い」の謎
 このブログを展開するに際して、大化の改新における中大兄皇子と中臣鎌足の出会いを描いた絵画を探したが、意外に古いものが見つからなかった。当ブログが見つけたもので最も古いものは、天理図書館蔵『南都法興寺蹴鞠図』嘉永6年(1853)。この年の起きた出来事は「黒船来航」、すでに江戸時代末期「幕末」である(下記リンク先参照)。
「大化の改新と蹴鞠」問題(02)~描かれた「蹴鞠の出会い」その1(2016年10月09日)

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【天理図書館蔵『南都法興寺蹴鞠図』嘉永6年(1853)】
 このことから、ひょっとしたら、大化の改新、特に「中大兄と鎌足の出会い」のエピソードは、それまであまり注目を浴びていなかった。それが、幕末の国学や明治の皇国史観の時代に、つまり近代になって、勤皇愛国を称揚・奨励するために強調され、視覚化(絵画化)され、人々に刷り込まれたのではないか……という仮説を思いついた。

 伝統だと思われていたものが、意外にも近代の産物だったというのもよくあることだ。だから、我と思わん人文系・社会学系のスポーツ学専攻、あるいはカルスタ(?)専攻の学生・院生は、このテーマで研究して、論文を書いてみませんか? ……と煽ったこともある(下記リンク先参照)。


 当エントリー前掲の神宮徴古館所蔵『中大兄皇子と中臣鎌足』(筆:小泉勝彌)などは、その視覚化のツールだったのかもしれない……などと考えたりもする。

幕末~明治に「再発見」された大化の改新???
 以上のような仮説を漠然と考えていたところ、それを「裏付ける」……かのような記述をインターネットで見つけた。

 Wikipedia日本語版の「大化の改新」の項目である。
この大化の改新が歴史家によって評価の対象にされたのは、幕末の紀州藩重臣であった伊達千広〔だて・ちひろ,国学者〕(陸奥宗光の実父)が『大勢三転考』を著して、初めて歴史的価値を見出し、それが明治期に広まったとされている。[3]

[3]『歴史とは何か: 世界を俯瞰する力』著者: 山内昌之

Wikipedia日本語版「大化の改新」より(2019年2月11日閲覧)
 もっとも、この記述に飛びついて、仮説が「証明」されたとしてはいけない。

 Wikipediaは間違いの多い「百科事典」であり、出典になっている山内昌之氏(やまうち・まさゆき.歴史学者,中東・イスラーム地域研究,国際関係史)の著作『歴史とは何か~世界を俯瞰する力』に、何が書いてあるか確認しないといけない。

歴史とは何か (PHP文庫)
山内 昌之
PHP研究所
2014-10-03


 それを怠ると、「慶應義塾大学ではサッカー部のことを〈ア式蹴球部〉と呼んでいる」などという、トンデモない間違いを「フォーラム8」というIT企業の機関紙やWEBサイトに書いている玉木正之氏と同じになってしまう(下記リンク先参照)。


 そこで、山内昌之氏の『歴史とは何か~世界を俯瞰する力』を取り寄せて、ざっと目を通すことにした。

Wikipediaの記述の信憑性
 結論を先に言うと、山内昌之氏は前掲のWikipediaのようなことをハッキリと書いているわけではない。

 山内氏が自著で紹介する伊達千広の『大勢三転考』とは、古来(神代の昔以来?)、日本史において、日本という国の在り方(大勢)が3度大転換(三転)したという話である。その2番目が「聖徳太子による冠位十二階の制度や十七条の憲法から大化の改新にかけて」(171頁)だとあるが、今ひとつ印象に弱い。

 それとも……。
古代の氏姓制度,律令による官人(官僚)支配〔大化の改新?〕,次いで武家支配という三区分は,現在の基準では常識すぎるかもしれません.しかし,近代歴史学の成立以前に,千広が大胆に時代を三区分したことは,岡崎久彦氏〔元外交官,評論家〕が語るように,日本史学史上,画期的な意義をもつのです(『陸奥宗光』上)。この評価は筑摩書房版の注解にも共通します。

山内昌之『歴史とは何か~世界を俯瞰する力』170~171頁
 ……この部分のことだろうか?

 いずれにせよ、Wikipediaの記述とは、やはりニュアンスが違う。

 この辺は、Wikipediaの飛躍した拡大解釈ではないかと思う。とにかく、国学者・伊達千広が大化の改新の価値を「再発見」「再評価」し、明治になってこれを啓蒙したとか、山内昌之氏が自著でそのことを紹介したとかいうのは、違うのではないかと思う。

玉木正之氏のスポーツ史観には疑いがある
 残念なことだが、何事も確認である。

 大化の改新、なかんずく中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場面(蹴鞠?)が有名になったのは、皇国史観の幕末~明治以降……という裏付けは取れなかった。したがって、当ブログの仮説は保留である。

 しかし、歴史観は時代によって変わってくる。「江戸時代以前」「明治・大正・昭和戦前」「戦後」では、歴史上の事件や人物の評価が違っている。

 例えば、織田信長。明治・大正・昭和戦前の「皇国史観」の時代において、信長は、戦国の風雲児、革新的な天下人という「戦後」のイメージとは違い、戦乱で荒廃した京都御所を再建し、天皇の権威を大いに盛り上げた勤皇の人という評価で語られていた。

国史絵画『織田信長の勤皇』作:岩田正巳
【神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより『織田信長の勤皇』作:岩田正巳】

 大化の改新、あるいはその主役、中大兄皇子と中臣鎌足は「皇国史観」を大いに刺激する歴史的な事件・人物である。だから、その話は「皇国史観」によって「再発見」されたのではないかという仮説の真相については、今後の研究の成果を待ちたい。

 どうして、こんな事に拘泥しているのか。

 仮に、かつて「大化の改新」という歴史的事件が、江戸時代以前はそれほど評価されていなかったとすると、その「大化の改新」をもって、後々まで(21世紀の現代まで)の日本のスポーツの在り方を拘束している……という玉木正之氏は、かなり間抜けな議論をしていることになるからである。

 こういう話をしたかったが、ちゃんと山内昌之氏の著作で調べたら、いささか無理筋になってしまった。

 もっとも、玉木正之氏は、先に紹介した「慶応大学のサッカー部の名称の話」のように、そのちょっと調べて確認する……ということすらしない人なのだが。

(了)



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『日本サッカー辛航紀』から抜け落ちた明治日本のサッカー事情
 サッカー論壇からの引退を宣言している佐山一郎氏が、その有終と位置付けた著作『日本サッカー辛航紀~愛と憎しみの100年史』(以下,適宜『辛航紀』とも略す)は、日本サッカー史を謳(うた)いながら、日本サッカー界は歴史を大事にしていないと批判しながら、しかし、明治時代、草創期の日本のサッカー事情について全く触れていない不思議な1冊である。

 よく読めば、佐山氏もサブタイトルで逃げは打ってはいる。その副題「愛と憎しみの100年史」。今年2018年から起算すれば、1921年(大正10年)の第1回天皇杯開催&日本サッカー協会創設で、約100年前である。明治維新は150年前(1968年=明治元年)だから、明治時代の日本のサッカー事情にまで責めを負う立場にはない……???

日本サッカー史の「予備考察」に明治時代が入らないのはおかしい!?
 ……否、それは違う。なるほど『辛航紀』は、著者たる佐山一郎氏の見聞きした同時代=1964年東京オリンピック以後のサッカー史を中心に書かれてある。だが、佐山氏はその「第一章」をまるまる前史「予備考察」として、1964年以前のサッカーを、それこそ近代以前の「蹴鞠」(けまり)に至るまで採り上げて論じているからである。

サッカーボールで「蹴鞠はじめ」@下鴨神社
【サッカーボールで「蹴鞠はじめ」@下鴨神社】

 その「蹴鞠」研究の第一人者・渡辺融(わたなべ・とおる)東京大学名誉教授。だが、しかし、実は渡辺名誉教授には東大野球部の監督歴があった……。
 ……学問領域でサッカー関係者は何をしていたのかと人材難に憂いを抱いた。

 蹴鞠に限った話ではない。近代以降の日本サッカー史を掘り下げる人もごくわずかしかいなかった。一九六四(昭和三九)年の東京オリンピックや一九九三年(平成四)年のJリーグ開幕を起点にすることで葬り去られてしまう事実が多すぎる。

佐山一郎『日本サッカー辛航紀』16~17頁
 ……などと言いつつ、佐山氏の話は明治時代をワープし、いきなり1921年(大正10年)の大日本蹴球協會(日本サッカー協会=JFAの前身)創設と、ア式蹴球全國優勝大會(天皇杯の前身)の開始へと飛ぶ。佐山氏こそ何をしているのかと、読者の方が憂いを抱く。

 そして、『辛航紀』第一章のトピックとしては、イングランドのFA(フットボール協会)から寄贈され、しかし、第二次世界大戦の時に軍部に没収されたままJFAに戻ってこない「FA銀杯」の話。蹴球、サッカー、フットボールといった「アソシエーション・フットボール」の日本における呼称の変遷やら、用法の違いやらといった話。虫明亜呂無がしたためた、戦前戦後の日本サッカーの状況を描いたというエッセイの引用(今ひとつ明晰じゃないんだが)といった話……。

 ……等々、どうでもいいとまでは言わないが、瑣末といえば瑣末な話が延々と展開されている。

 とにかく、「予備考察」というからには明治時代の日本のサッカー事情……、なかんずく草創期における海外から日本への伝来、普及、野球やラグビーなど他競技との関係等々について全く触れないというのは、やっぱりおかしいんじゃないですかね?

 それこそが、日本サッカーの原点だからである。日本のサッカーの文化や歴史などの総体を理解するためには、原点である「明治」を知らなければならないからである。書名が『日本サッカー辛航紀』であるならば、なおさら、その「辛」い「航」海の「出港」が明治時代であったからである。

 この意味で『辛航紀』は片手落ちであり、読者は不満なのである。

ここでも佐山一郎氏の人種主義の影が…
 少し脱線するが、『辛航紀』第一章の終わりでは、ドイツ人のサッカーコーチで「日本サッカーの父」と呼ばれたデットマール・クラマーを、幕末・明治(ん?)の御雇い外国人のベルツ(医師,ドイツ人)や、ナウマン(地質学者,ドイツ人)になぞらえている。

 それはいいとして(否,ならば何で明治時代に言及しないのか,ますます謎だが)、佐山氏のベルツの紹介が「蒙古斑の命名者でもある,医師のエルヴィン・フォン・ベルツ」となっている。この辺の「蒙古斑の命名者」という例の出し方が、人種主義=レイシズムと言ってもいい佐山氏の「日本人」への偏見の「まなざし」を連想してしまう。

 何度も書いてきたが、佐山一郎氏は日本人は農耕民族だから、日本人は米や味噌を食べるからサッカーが弱い……式の、人種主義=レイシズム的で偏見に満ちた日本人観・日本人のサッカー観を繰り返し公表してきたからだ。

 ちなみに、コトバンクの「ベルツ」の項目には「蒙古斑の命名者」という説明はない(参照:コトバンク「ベルツ(英語表記)Balz,Erwin von」)。また、ウィキペディア日本語版の記述をそのまま信じれば(2018年12月16日閲覧)、ベルツは、佐山氏よりもずっとバランスの取れた「日本人観」の持ち主に思える。

日本サッカーにまつわる佐山一郎氏の「根源的疑念」
 話を戻して、佐山一郎氏が『日本サッカー辛航紀』の中で、明治時代の日本サッカー事情に触れたくなかった理由も分からぬでもない。ここでは、1991年刊行『サッカーハンドブック'91-'92』所収の佐山一郎氏のエッセイ「サッカーの見方が変わってきた」を読んでいく。

 前にも書いたがタイトルにある「見方」は、村松友視氏のプロレス本『私、プロレスの味方です』の「味方」のもじりである。しかし、佐山氏は村松氏から何も学んでいないこと、「サッカーの味方」とは程遠いことは、以前書いた(下記リンク先参照)。
 弱い弱いと言われながらも、1995年10月、サッカー日本代表(森孝慈監督)はメキシコW杯アジア最終予選まで進出した。その日本vs韓国戦、日本は負けたものの、普段のサッカーの試合では観客もまばらな国立競技場が、約6万人の大観衆で埋まった。会場は熱気に包まれた。

 条件がガッチリ噛み合えばではあるが、それなりに日本でもサッカーの訴求力があるのではないかという立場を佐山氏は一切合切とらない。なぜなら……。
 ……ここで言いたいのは、W杯初出場の夢破れた直後の日本リーグ〔旧JSL〕の試合に足を運んだ観客数の極端な少なさ。本当に、ひ、ふ、み、よぉ、と数えられるほどの少なさでした。あれじゃあ、わざわざ国立霞ヶ丘競技場〔旧国立競技場〕を使う必要もないうえに……〔中略〕

 ……つまり、もしかすると、心底からサッカーを見ることが好きな日本人は意外に少ないのではないかという根源的な疑念を持ち始めるに十分なシーンが、あの日の閑散とした国立競技場にはあった。

佐山一郎「サッカーの見方が変わってきた」

 佐山氏の「根源的な疑念」とは、要するに「日本人サッカー不向き論」なのだが、さらにその深層に迫ると、やっぱり佐山氏は「日本人論」または「サッカー日本人論」が暴露されてくる。証拠はいくらでもある。同じく「サッカーの見方が変わってきた」から。
 摺〔す〕り足の文化鎖国の長かった日本ではスポーツ観戦もどこか〈間〔ま〕〉を楽しむ花見酒風。つかこうへい氏〔劇作家,演出家,小説家〕が現役時代の釜本選手の凄さを確かめに初めてサッカーを見にいった際、よそ見した瞬間にゴール成って立腹したと以前面白く書いていたけれど、動作がとぎれない90分間を集中して視つづける習慣……〔日本的〕物見遊山とは正反対の伸〔の〕るか反〔そ〕るかの狩人の眼の獲得こそがサッカー観戦の醍醐味なんですけどね。これはフィールド上のプレーヤーにおいても全く同じことが言えるでしょう。

佐山一郎「サッカーの見方が変わってきた」
 さまざまな「日本人論・日本文化論」のターム(術語)を並べて(その詳しい解説と批判は最後にまとめてやります)、佐山氏は次のようにスマシ込む。
 何より皮肉なことに、サッカーそれ自体の魅力について語ろうとすればするほどサッカーの官能から遠ざかっていくことだってあると思うんです。

佐山一郎「サッカーの見方が変わってきた」
 かように自虐的な日本サッカー観の持ち主である佐山一郎氏である。とことん「日本人」と「サッカー」との相性を低く見積る佐山一郎氏である。それが証拠(?)に、日本ではフットボール(サッカー,ラグビー)よりも、野球=ベースボールの方が人気が先に人気が出てしまったのである。このことは佐山氏をさらに陰気にさせる。

 だから、そんな重苦しいテーマから佐山氏は「思想逃亡」してしまったのではないだろうか。

 何を勝手な一人合点を! ……と批判する人がいるかもしれないが、根拠のない「勝手な一人合点」は、むしろ佐山一郎氏の得意技である。

明治最初のフットボールはサッカー? ラグビー?
 例えば……。明治時代、特に初期の日本のフットボールをめぐる歴史の研究・解釈は、かなり複雑な様相を呈するようになっている。簡単に言うと、日本で最初に行われた「フットボール」が、サッカーなのか、ラグビーなのか、いまひとつ判然としなくなっており、甲論乙駁の状態になっているのだ。

1874年「横浜で行われたフットボール」
【1874年「横浜で行われたフットボール」ラグビー?】

 その詳細は割愛するが、議論の一部を紹介する(下記リンク先参照)。
 
  • 秋山陽一「フットボールの憂鬱」(『ラグビー・サバイバー』所収)
ラグビー・サバイバー
日本ラグビー狂会
双葉社
2002-11

 
 
 
 このテーマに興味がある人はどんどん深入りして、新しい成果を見せて(読ませて)ほしいところだ。

天に向かって唾(つば)を吐く佐山一郎氏の批判
 あるいは……。明治初年(1873~74年頃)、御雇い外国人によって伝えられ、海軍兵学寮や工部大学校で行われた「フットボール」の系統は早々と途絶えた。

 この辺は野球も事情は同じで、現代日本野球の直接の起源は、御雇い外国人による紹介ではなく、アメリカ留学から帰国した鉄道技師・平岡煕(ひらおか・ひろし)と、彼が主宰した「新橋アスレチック倶楽部」による熱心な普及・指導に由来する(下記リンク先参照)。
 どんなスポーツでも、その国で人気スポーツとして定着するためには、場所の確保や道具の調達、熱心な指導活動などの諸条件がそろうことが不可欠だからだ。日本において、歴史的に普及や人気の点でサッカーが野球に差を付けられたのは、その程度の違いである。日本人の国民性や文化などといった問題ではない(佐山一郎氏や玉木正之氏には受け入れ難い視点かもしれないが)。

 日本のサッカーも、おそらくは旧制東京高等師範学校(現在の筑波大学)で地道に行われていたものが、中村覚之助らの努力で、時間をかけて徐々に拡張していったものだと想像する。

 『日本サッカー辛航紀』では、こういったさまざまな要点を整理して示して「あとは後学にゆだねる」というスタンスでもよかったのではないか。どうして、佐山一郎氏が明治時代から「逃亡」したのか。やはり解せないのである。

 これまで日本のサッカージャーナリズムが歴史を軽んじてきたことを「知的怠慢」と難じた佐山氏であるが(『辛航紀』35頁)、それは天に向かって唾(つば)を吐くというものだろう。

(了)



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昔から「幻滅」していたはずの佐山一郎氏
 佐山一郎氏が自身のサッカーライティングの有終と位置付ける『日本サッカー辛航紀~愛と憎しみの100年史』(以下,適宜『辛航紀』とも略す)を執筆した動機は、英国の社会学者(日本研究)ロナルド・ドーアの著作『幻滅~外国人社会学者が見た戦後日本70年』を知ったことだという。佐山氏曰く……。
……同書〔『幻滅』〕は日本社会の変化を綴る章と、それに対する彼〔ドーア〕自身の言動・著述に表れた対応の章を並列させるニュータイプの歴史書だった。たどり直すべき精神の変遷と幻滅(脱・錯覚)があるという点でも、〔佐山氏が〕ウォッチし続けてきた日本サッカーに応用が利く。そんな直感が働いた〔からである〕。

佐山一郎『日本サッカー辛航紀』3頁


 はて? と、佐山一郎氏のサッカーライティングを長年読んできた人たちは思うだろう。佐山氏は、日本サッカーの関して昔から「幻滅」していたのではなかったかと。佐山氏は、未だ「錯覚」の中にあるのではないかと……。

現代日本サッカーを呪縛する宿痾(しゅくあ)としての「蹴鞠」
 ……なぜ、そんなことが言えるのか。『辛航紀』では、日本のサッカーの歴史を「予備考察としての蹴鞠の話から」説き起こすと、著者・佐山一郎氏からの予告があった(宇都宮徹壱氏によるインタビューより.下記リンク先参照)。
 その「蹴鞠」の言及(それは『辛航紀』本文の初っ端でもある)からは、佐山氏にとって宿痾(しゅくあ,不治の持病のこと)のごとき、日本サッカーへの「幻滅」あるいは「錯覚」を読み取ることができるからである。余談だが「宿痾」は佐山氏のサッカーライティングの愛用語のひとつだ。
 蹴鞠〔けまり〕についての原稿を何度か寄稿したことがある。〈日本人のリフティング好きは蹴鞠文化と分かちがたい。冗談抜きにシュートより好きなのではないか〉。そんな疑念が発端だった。

佐山一郎『日本サッカー辛航紀』16頁

サッカーボールで「蹴鞠はじめ」@下鴨神社
【サッカーボールで「蹴鞠はじめ」@下鴨神社】
 日本人はボール回し(パスやリフティング)に興じるあまりシュートを打たない・打てないというのである。「サッカーにおける日本人の〈決定力不足〉」というステレオタイプはここでも強調されている。しかもそれは、日本の前近代「蹴鞠」の伝統文化と分かちがたい……と、佐山一郎氏は言うのだ。

 ことほど左様に、佐山一郎氏は「日本人は,他の国民や民族・人種とは決定的に違う宿痾のごとき文化的〈本質〉を宿しており,それは〈サッカー〉というスポーツとは致命的に相いれない」という強い強い信念の持ち主であった。

 そのアイテムはといえば、皆さま毎度おなじみの「狩猟民族」たる欧米人やアフリカ系黒人に対する「日本人農耕民族説」や、きわめてポピュラーな西洋近代の「個人主義」に対する「日本的集団主義説」(西洋「個人主義」は,サッカーにおける「個の力」に通じる!?)、定番ネタ「赤信号文化論」、佐山氏とはオトモダチである細川周平氏も自著『サッカー狂い』の中で展開した「日本人すり足民族説」、西洋「社会」に対する阿部謹也の日本的「世間」論……など、キリがない。

 佐山氏は、そうしたことを繰り返し繰り返し、飽きることなく日本の読者(サッカーファン)に刷り込んできた。つまり佐山氏は、自虐的なサッカー日本人論の信奉者なのである。

 それこそが佐山氏の宿痾……すなわち「幻滅」であり「錯覚」である。

 そして、城彰二や柳沢敦といった日本代表の「ストライカー」たちは、そうした佐山氏(たち)の「幻滅」や「錯覚」の刷り込みに成就するかのように、W杯の大一番でシュートを外しまくる。

蹴鞠も古式カルチョも近代フットボールの「前史」に過ぎない
 現代日本サッカーは前近代の「蹴鞠」の影響下にあるという佐山一郎氏に対して、サッカージャーナリストの牛木素吉郎氏は「蹴鞠と現代サッカーとはつながりはない」と説く。むろん、牛木氏の方が正しい。

 ちょうど、それは、同じ「カルチョ」と呼び習わしていながら実態は大きく違う、フィレンツェに伝わっているイタリアの古式カルチョ(Calcio storico fiorentino,フィレンツェの歴史的カルチョ)と、現代イタリア・サッカーの関係と同じである。蹴鞠も、古式カルチョも、英国で確立された近代フットボールに対する「前史」であり、半ば奇跡的に現代に伝承されてきたという位置づけにすぎない。

 イタリアの古式カルチョは、殴る蹴る……と非常に暴力的である。だからといって、イタリアのサッカーが殊更(ことさら)に暴力的=ラフプレーという印象は薄い(1982年スペインW杯でマラドーナやジーコに密着マークした「手斧師」と呼ばれたディフェンダーはいたが)。

 ラフプレーの印象が強いサッカー国となると、かなり昔のアルゼンチン、(気を悪くする人がいるかもしれないが)昨今の大韓民国=韓国であろうか。

 むしろ、イタリアのサッカーといえば超守備的戦術にカウンターアタックでゴールを仕留めるスタイル「カテナチオ」である。最近はそのイメージもずいぶん様変わりしたというが、それでも、イタリア・サッカーといえば「カテナチオ」。「カテナチオ」といえばイタリア・サッカーなのである。

「カテナチオ」のルーツ,「決定力不足」のルーツ?
 そのイタリア・サッカーのスタイル「カテナチオ」の起源についても「日本サッカーの〈決定力不足〉は日本伝統の蹴鞠に由来する」式の話が横溢していた。

 例えば、サッカージャーナリストの後藤健生氏は、イタリアにおけるサッカーとは城壁(堅い守備≒カテナチオ)に囲まれた都市国家同士の中世以来の戦争の代替行為であり、カウンターアタックに身を投じるストライカー(アタカンテ)は単身敵陣に乗り込んでいく「騎士」である……という解説を自著『サッカーの世紀』で展開している。それが「カテナチオ」の源流だというのだ。

サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07


 むろん、現在の後藤氏は、こんな文化的本質主義(や近代批判主義)のスポーツ観からは半身脱しているはずである。

 一方、「カテナチオ」は、比較的最近になって、もっと切羽詰まった、必要に応じて発生したと唱える人がイタリアのサッカージャーナリストがいた。この話を紹介したのは、日本在住のイタリア人文化人類学者のファビオ・ランベッリ氏である。
……戦後イタリアのもっとも偉大なサッカー・ジャーナリストであるジャンニ・ブレーラ……によると、イタリアン・サッカー独特の技能・カテナッチョ(守備固め、文字通りには「ドアの掛け金」)は、劣性の意識から始まったものだった。〔一九〕五〇~六〇年代には、ブレーラが言うようにイタリア人選手は栄養の少ない食事をとり、背が低く、北欧や南米のチャンピオン・チームの試合では、身体的にも技術的にも劣位であった。この劣勢を乗り越えるために、カテナッチョという方法が工夫されたのである。

ファビオ・ランベッリ『イタリア的』222~223頁

 「カテナチオ」がサッカーにおけるイタリア人の劣等感から始まったというのは、実に意外であり、興味深い話でもある。イタリアのサッカーライティングは、自国のサッカーを論じるのに、日本のように日本人論や日本文化論、すなわち文化的本質主義に陥(おちい)ることはない。

 日本も、イタリアも、○○人であることのアイデンティティーがサッカーにとっては劣勢と認識している。この意味では、実は両者とも変わりがなかった。

 しかし、片や、面白くないだの、勝利至上主義だと言われながら(かつて「勝利至上主義」とは,ドイツではなく,イタリアへの罵倒であった)、「カテナチオ」というスタイルで世界に君臨したイタリア・サッカー。

 こなた、自分たちは骨の髄から「決定力不足」であると呪縛し続ける日本のサッカー。

 この差は大きい。その彼我の差は両国のサッカーライティングの質の差でもある。その中核に佐山一郎氏は位置していたのだ。

 とにかく、佐山一郎氏のサッカーライティングは、あまり本気にしないで読む(笑)ことが肝要である。

(了)



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