スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:秋山陽一

はじめに…
 ラグビーワールドカップ2019日本大会まで、あと1か月となりました。

 まず、はじめに……。当ブログの趣旨は、ラグビーフットボールというスポーツそのもの、また日本におけるラグビーフットボールそのものを貶めるものではありません。

 かつて、Jリーグ以前、1970年代初めから1990年前後にかけて、国内スポーツシーンにおける人気や日本代表の国際的な活躍の度合いについて、ラグビーがサッカーを上回っていた時代がありました。

▼THE RUGBY Sports Graphic Number Special Issue December 1983

 サッカーとラグビーは、同じ「フットボール」を祖としています。しかし、片や、サッカーはいち早いプロフェッショナル化やワールドカップ(世界選手権)の創設。こなた、ラグビーは従前のアマチュアリズムの維持や世界選手権の否定(対抗戦思想)……と、大きく思想を異にしていました。

 その当時、一部の心ないラグビー関係者が、ラグビーへの歪んだ愛情のあまり、時流に乗じて、自身たちとスポーツの在り方に関する考え方が違うサッカーに対し、悪口雑言罵詈讒謗を放つことが間々ありました(逆の例もありましたが)。


 今回のエントリーの目的は、こうした言説の一部をインターネット上に保存し、後学のための覚書とすることです。その意図を斟酌(しんしゃく)の上で、ご笑覧いただけると、幸甚であります。

ラグビー評論家・中尾亘孝(なかお・のぶたか)とは何者か?
 ラグビーフットボールに関心は薄くとも、サッカーファンがラグビー評論家・中尾亘孝の名前を憶(おぼ)えているとしたら、1998年フランスW杯の少し後、佐山一郎さんが『サッカーマガジン』誌の連載コラムの中で「ラグビーの後藤健生」だなどと評して、中尾が同年に出した著作『リヴェンジ』を推奨していたことではないだろうか(「兄弟フットボールライターからの助言」として,後に佐山一郎著『サッカー細見』に所収)。

サッカー細見―’98~’99
佐山 一郎
晶文社
1999-10-01


 この「ラグビーの後藤健生」を本気にして『リヴェンジ』を読んだら、著者・中尾の、サッカーに対する、なかんずく同年のフランスW杯で1次リーグ3戦3敗で終わったサッカー日本代表=岡田ジャパンに対する悪口雑言罵詈讒謗があまりにも酷くて著しく不快となり、当ブログ(の中の人間)に問い合わせの電話をかけてきたサッカーファンが2人いる(いずれも界隈では相応のポジションにあるサッカーファンである)。

 事ほど左様、この人物こそは、ラグビーへの歪んだ愛情のあまり、サッカーに対して悪口雑言罵詈讒謗をさんざんぱらぱら放言してきたインチキラグビー評論家であり、札付きの反サッカー主義者なのである。

 それでは「中尾亘孝」とは何者なのか? 1950年、愛知県生まれ。ラグビー評論家。早稲田大学商学部中退(らしい)。ラグビーブームの時代の最後半、1989年に『おいしいラグビーのいただきかた』でデビュー。主な著作に『15人のハーフ・バックス』『リヴェンジ』『英国・フランス楕円球聖地紀行』ほか。

中尾亘孝(プロフィール付き)
【中尾亘孝】

 1990年ごろから、反サッカー主義者にもかかわらず、鈴木良韶(すずき・りょうしょう)和尚率いる日本最古のサッカーファン・サポーター集団「日本サッカー狂会」の許しもなく、勝手に「日本ラグビー狂会」を名乗り始める。

日本サッカー狂会
国書刊行会
2007-08-01


 以後、この「狂会」を事実上「主宰」し、他の「会員」とともに、ラグビーファンから「狂会本」と言われるアンソロジーのラグビー本を、実に20冊以上刊行してきた。主な著作に『頭にやさしいラグビー』『ラグビー黒書』『ラグビー・サバイバー』『ラグビー構造改革』ほか。

ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12


ラグビー・サバイバー
日本ラグビー狂会
双葉社
2002-11


ラグビー構造改革
日本ラグビー狂会
双葉社
2001-12


 現在は、愛知県豊橋市の、東海道新幹線・東海道本線と蒲郡街道が立体交差する付近のアパート1階を「寓居」とし、ブログを中心に放言している。

中尾亘孝のブログ「楕円系萬週報」
【中尾亘孝のブログ「楕円系萬週報」】

 この辺りの情報は、中尾のブログ自身にそれとなく分かるように書いてある。ラグビーが好きな人は、直接、中尾にラグビー談義を聴きに行くのも一興であろう。

サッカーこそラグビーの矮小な傍流にすぎない?
 その中尾亘孝の反サッカー言説の代表例が、「サッカーから枝分かれしたラグビー」という世間一般のイメージを逆転させた、ラグビーこそが英国前近代のフットボールの正統なる継承者であり、サッカーはその矮小な傍流にすぎないとするフットボール正閏(せいじゅん)論「ラグビー本流/サッカー傍流」説である。

 1823年のある日、英国の名門パブリックスクール「ラグビー校」でのフットボール(サッカーと誤記されることが,間々ある)の試合中、ウィリアム・ウェッブ・エリスなる生徒が、プレーに熱中するあまりボールを抱えて走る(ランニングイン)という「反則」をしでかした……。

ウィリアム・ウェブ・エリス(肖像画)
【ウィリアム・ウェブ・エリス(肖像画)】

 ……しかし、ラグビー校ではその「反則」プレーの精神を尊重し、ゲームの骨子として受け入れ、新たな独自の球技「ラグビーフットボール」の誕生を促(うなが)した……。

 ……というのが、ラグビーの創世物語「エリス神話」である。

 対して、中尾亘孝のラグビー・サッカー正閏論では、英国のラグビー関係者の所説などを参照しつつ、「エリス神話」は事実ではなく、捏造・デッチ上げによる虚構、あるいは政治的プロバガンダ(英国エリート的なスポーツの価値観を護持するための?)にすぎないと断定した。そして、フットボールの正統をサッカーに簒奪(さんだつ)された……などと繰り返し扇動してきた。

 この当時(1989年~1990年代初め)は、ラグビーの人気や日本代表の活躍の度合い(ラグビー日本代表=宿沢ジャパン平尾組)がサッカーに優越していた時代であり、風潮に気圧されるというか、勢いに乗じた中尾亘孝の説ももっともらしく聞こえた。

日本ラグビー激闘史 2011年 2/9号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2011-01-26


 「ラグビー本流/サッカー傍流」説を読者(スポーツファン)に焚(た)き付けることで、サッカーに対して優位性を誇示しようとしてきたのである。

中尾亘孝説がラグビージャーナリズムに与えた影響
 中尾説の影響は、侮れない。2000年に出た永田洋光さんの『ラグビー従軍戦記』では、近代フットボール制定の経緯が、一般の常識とは正反対の視点、中尾のラグビー・サッカー正閏論に則って、いわばラグビー中心史観で描かれている(167~169頁)。

ラグビー従軍戦記
永田 洋光
双葉社
2000-06


 通説では、1863年、共通のフットボールルールを制定する会議で、ルールをサッカー式にするかラグビー式にするかで揉めた時、サッカー式に反対して退席していったのはラグビー側ということになっている。ところが『ラグビー従軍戦記』では、何とサッカー側が退席したことになっている(え!?)。

 しかも、新興の「サッカー」は、競技人口が劣勢であり、それを拡大する必要性に迫られて選手権大会=FA杯をスタートさせた……とか、選手のプロ化を容認した……とか。一方のラグビーは競技人口の大半を占める英国のエリート層が、厳格なアマチュアリズム規定を定め、選手権大会を否定するいわゆる対抗戦思想にこだわり……などと書かれてある。

 従来のフットボール史は、なるほどサッカー寄りだったかもしれないが、永田さんの叙述の方はラグビーに寄りすぎ……と言うよりは、完全に中尾亘孝説に「洗脳」されたものである。

 そういえば、ラグビー史研究家の秋山陽一さんにも、どことなくサッカーへの敵愾心を感じるところがある。秋山さんその「海軍兵学寮で行われたフットボールはサッカーではなくラグビーである」という問題提起もまた、中尾が仕掛けたラグビー・サッカー正閏論のバリエーションのようにも読める(秋山さん自身はそれを否定しているが)。

中尾亘孝の「ラグビー・サッカー正閏論」を疑う
 ラグビーが「サッカー」から分派したものではないこと、サッカー「だけ」が英国前近代のフットボールを「正統」に継承したものでないことは、多くのサッカー関係者も(例えば後藤健生さんも)認めている。

 しかし、中尾亘孝が主張しているのは、ラグビー「だけ」が英国前近代のフットボールを「正統」に継承したものであり、サッカーもアメフトもオーストラリア式もゲーリック式も、これすべてラグビーの傍流である……という極端なものだ。容易に納得はできない。

 しかも、中尾説にはひとつの疑問がある。

 例えば、ボールを前に投げてはいけないという「スローフォワード」という反則。ボールを手で叩いて前に進めてはならないという「ノックオン」という反則。これらはサッカーでいう「ハンドリング」の反則に相当する、その球技をその球技たらしめる重要なルールだ。

 ラグビーにとっては「オフサイドはなぜ反則か」よりも「ノックオンはなぜ反則か」や「スローフォワードはなぜ反則か」の方が重要な課題なのである。



 この2つの反則は、前近代の英国のフットボールに広範に存在したのだろうか? そこが証明されない限り、中尾説は妥当とはいえない。ところが、中尾の「ラグビー本流/サッカー傍流」説は「ノックオン」や「スローフォワード」がなぜ反則なのか……という疑問に対する解答=論証が弱い。

 もうひとつの疑問は、本当にラグビー「だけ」が英国前近代のフットボールを「正統」に継承したものであり、他のフットボールがその傍流にすぎないと言うならば、最初からラグビー関係者が、そう主張すればよいのである。

 なぜ「エリス神話」なるものが存在するのか? 中尾もあれこれ述べているが、この件に関しては歯切れがよいとは言えない。

自爆する「ラグビー本流/サッカー傍流」説
 2006年ドイツW杯を当て込んで刊行されたサッカーの蘊蓄(うんちく)本に、加納正洋(かのう・まさひろ)著『サッカーのこと知ってますか?』がある。著者・加納の正体は、まさに中尾亘孝のことで、だから、文面には中尾の反サッカー主義があちこちに滲(にじ)み出ていて、肝心の読者であるサッカーファンが読んでいてかえって不快な思いをするという、実に奇妙なサッカー本である。

 加納正洋=中尾亘孝は、『サッカーのこと知ってますか?』の中で、サッカーファンを挑発するかのように、フットボール正閏論「ラグビー本流/サッカー傍流」説で一席ぶっている(100~116頁)。

 しかし、一方で「19世紀初頭のラグビー・スクールのフットボールは、ランニングイン(ボールを持って相手ゴールに走ること)は許されていなかった」ことは認めている(103頁)。認めざるを得ない。……と言うか、それを「ラグビー」と呼ぶのである。

 『サッカーのこと知ってますか?』は、サッカー式ルールを定めたFA創設後も傘下のクラブを含めて各フットボールクラブは、独自のルールで試合をしていた……という(157~158頁)。しかし、それは全部が全部掛け値のない「ラグビー式」なのか? ノックオンとスローフォワードの反則はどうなっていたのか?

 また、英国前近代のフットボールには、例えばシェフィールド式やオーストラリア式のルールなど、「オフサイド」のないものも存在した(71頁)という。しかし、それではノックオンとスローフォワードを認めることになり、ランニングインを旨とするラグビーフットボールにはならないのではないか?

 中尾亘孝は、実は「ラグビーフットボール」のことをキチンと定義できていないのである。サッカーでなく、何らかの形で「手」を使っているフットボールがあったら、みんなラグビーの仲間に入れている感がある(ひょっとしたら、それは意図的なものかもしれない)。

 サッカーは「ラグビーとは違うフットボールだという差異を強調するあまり、手の使用禁止、厳格なオフサイド・ルールなど……が出すぎた感があった」(102頁)などと中尾(加納)は言う。

 それならば「ラグビーは、ノックオンとスローフォワードを反則とし、サッカーよりもさらに厳格なオフサイドルールを採用することで、〈ランニングインのフットボール〉として他のフットボールにはない独自性を強調している」のである。

 それで、ノックオンやスローフォワードは、いつ、どのように反則として成立したのか? 例によって中尾亘孝(加納正洋)は説明不足である。

再評価される「エリス神話」の史実性
 「エリス神話」についても、ラグビー評論界の良心、小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)さんが、独自の取材調査で、19世紀前半、ラグビー校でラグビー式のフットボールを行った最初の世代で唯一名前が判明している生徒がウィリアム・ウェッブ・エリスであるとしている(小林深緑郎『世界ラグビー基礎知識』)。つまり「エリス神話」にも一定の史実性があることを認めているのである。

世界ラグビー基礎知識
小林 深緑郎
ベースボールマガジン社
2003-10


 要するに、「サッカーからラグビーが派生した」という世間一般の認識は間違いだが、「ラグビーだけが英国前近代フットボールの正当な継承者」であるという中尾説も正しくない。「エリス神話」より、むしろ「ラグビー本流/サッカー傍流」説の方こそ、ラグビー派の反サッカー主義者(中尾亘孝)による政治的プロパガンダなのである。

 サッカーも、ラグビーも、いくつもあるフットボールのローカルルールのひとつに過ぎなかった。

 老舗和菓子の元祖・本家争いのような、唯一の正統なるフットボールとは何かを標榜する中尾亘孝のアジテーションこそ意味がない。

(了)



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「明治」をスルーした日本サッカー史?
 2021年は公益財団法人日本サッカー協会(JFA)の創立100周年である。JFAは「正史」として大型本の『JFA 100年史』(仮称)を公刊するはずだ(JFAは創立50周年の時も,75周年の時も「正史」を刊行している)。

財団法人日本サッカー協会 75年史―ありがとう。そして未来へ
財団法人日本サッカー協会75年史編集委員会
日本サッカー協会
1996-10-01



 しかし、いかに本が売れない時代とはいえ、有為な書き手による、手ごろな一冊のサイズにまとまった日本サッカー通史を、サッカーファンやスポーツファンに送り出す企てはないのだろうか。

 相撲(「大相撲」に限定されない格闘技としての相撲)や、マラソン・駅伝などには優れた通史は存在するのだから、サッカーでもそういった、いい意味での「外史・稗史・野史」を当然読みたいのである。

相撲の歴史 (講談社学術文庫)
新田 一郎
講談社
2010-07-12


相撲の歴史
新田 一郎
山川出版社
1994-07-01


マラソンと日本人 (朝日選書)
武田 薫
朝日新聞出版
2014-08-08


 果たして、その先駆けなのか、佐山一郎さんによる『日本サッカー辛航紀』が上梓された。

 もっとも、この著作は「私小説」的な性格が色濃いうえに、日本サッカー史を謳(うた)いながら、日本サッカー界は歴史を大事にしていないと批判しながら、そして蹴鞠も話題まで採り上げながら、しかし、肝心要の明治時代、草創期の日本のサッカー事情について全く触れていないという、実に不思議な一冊である。

 やっぱり、明治時代、海外から日本へのサッカーの伝来、普及、野球やラグビーなど他競技との関係等々について全く言及しないというのは、違うのではないか。

 それこそが、日本サッカーの原点だからである。日本のサッカーの文化や歴史などの総体を理解するためには、原点である「明治」を知らなければならない。書名が『日本サッカー辛航紀』であるならば、なおさら、その「辛」い「航」海の船出が明治時代だったからである。

明治最初のフットボールはサッカーか? ラグビーか?
 意地の悪いことを言うと、『日本サッカー辛航紀』はこの重苦しいテーマから逃げたのではないかと邪推する。野球に普及や人気でサッカーが先んじられたこともある。もうひとつは、そもそも日本で最初に行われたフットボールが、サッカーなのか、ラグビーなのか、最近になって論争になっているためでもある。迂闊(うかつ)なことが書けないのだ。

 今でも、JFAの公式サイトの「沿革・歴史」、1873年(明治6)の項には「イングランドサッカー協会(The FA)創設から10年後、英国海軍教官団のA・L・ダグラス少佐(中佐とも)と海軍将兵が来日。東京築地の海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)で日本人の海軍軍人に訓練の余暇としてサッカーを教えた(これが、日本でサッカーが紹介された最初というのが定説になっている)」とある。これが従来の定説というか、通説であった。

▼日本サッカー協会(JFA)沿革・歴史

 後藤健生さんも『日本サッカー史 代表編』では、特に吟味することもなく、この通説を掲載した。


秋山陽一
【秋山陽一氏】

 秋山さんの主張をまとめたのが、日本ラグビー狂会編『ラグビー・サバイバー』所収の「フットボールの憂鬱」という論考である。

ラグビー・サバイバー
日本ラグビー狂会
双葉社
2002-11


 後藤さんは、ある程度、秋山さんの批判を受け入れている。当時の海軍兵学寮の様子を調べていくうちに、なるほど、これが完全なるサッカーだったとは言い難い。もっとも、それがラグビーだったと証明することもできないのだが……。

 後藤さんの後の著作『サッカー歴史物語』では、持論が修正されてある。

 イングランドでFAルール(サッカー)が普及するのは、実は「The FA」が創設された1963年よりも少し後のことだ。また、イングランドのラグビー協会(RFU)の創設も1871年である。あの当時は、サッカーとラグビーはそれほど隔たりのある球技ではなかった。

 当ブログから加えるに、当時は、サッカー、ラグビー以外のルールのフットボールもいくつか混在していた。フットボールが両者どちらかに収斂(しゅうれん)していくのも、後々のことである。

 明治初期の海軍兵学寮では、キッチリしたルールではなく、フットボールの真似事のような遊びを英国海軍将兵と日本人学生らはやっていたのではないか。

 後藤さんといっしょに「日本サッカー史研究会」を主宰している牛木素吉郎さんも、この立場を支持している。

 牛木さんは、明治初期に日本で行われたフットボールを「サッカー」でも「ラグビー」でもなく、「フットボール」と表記しようと提案している。FAルールで行われたことが確実なものだけを「サッカー」と呼び、RFUルールで行われたことが確実なものだけを「ラグビー」と呼ぶ。

▼牛木素吉郎「明冶初期のフットボール@日本サッカー史研究会」(2007年2月19日)

 そうすることによって、無意味な論争を避けることができる。

後藤・牛木説をあくまで突っぱねる秋山陽一氏
 しかし、秋山陽一さんは、この後藤・牛木説にもあくまで異を唱える立場をとる。

 秋山さん曰く……。後藤健生氏は『サッカー歴史物語』で、当時のルールについて、相変わらず「サッカーともラグビーとも特定しがたく」という見解を披歴しているが、根拠を示していない(これは指摘どおりかもしれない)。一方、イギリスの研究者(誰?)は海軍兵学寮のフットボールについてラグビーとしている。

A_Footbll_Match_in_Japan
【A Football Match in Japan(19世紀)】

 イギリス人の特徴としてスポーツ組織を作るときにそこで行われるルールを何にするかを決めずに行動を起こさない(本当か?)。論拠となる資料はある(それが知りたい)。

 後藤健生氏と牛木素吉郎氏の説を支持するサッカーファンが理解できない。

 ……。何というか。秋山さんのスタンスからは、サッカーファンに対して「マウントを取りに行く」感じをヒシヒシと感じる。さすがに最近はそんな人も少なくなったが、どうして日本のラグビー関係者はサッカーを目の敵にするのだろうか。

 いちど「日本サッカー史研究会」の会合で後藤さんと秋山さんの「直接対決」があったというが、秋山さんの態度がかなり挑発的だった、との噂もある。

 秋山さんがいう「イギリスの研究者」が誰かは分からないが、2019年6月に英国の歴史学者、ラグビー史研究家のトニー・コリンズ(Tony Collins)による『ラグビーの世界史~楕円球をめぐる二百年』が上梓された。

 現時点で未読だが、この著作では海軍兵学寮の「フットボール」を「ラグビー」としているかもしれない。確認できれば当ブログで紹介するかもしれない。

工部大学校の「フットボール」は「サッカー」
 もうひとつ、秋山氏が批判・指摘しているのは、明治初期の海軍兵学寮とはほぼ同時期に「フットボール」が行われていた工部省工学寮(工部大学校)は、昭和初期に刊行された当時の学生の回顧談にハッキリと「アソシエーション式」(サッカー)であることだ。

 これについては、サッカー史研究ブログの「蹴球本日誌」が詳しい。『旧工部大学校史料』(1931年)、『旧工部大学校史料・同附録』(1978年復刻)を参照しながら、次のように説明する。
 古川阪次郎〔OB〕「工部大学に於ける運動其他」には、

 〈…それから上の組の頭が玉木弁太郎君及田辺朔郎君であったと記憶して居るが、玉木君は丈が高い(後には肥ったが)ので、フットボールの時分には、いつでも玉木君がゲートキーパーであった。〉(p.137)

 とあり、GKを置いた「サッカー」だったことがわかります。弱冠20代で琵琶湖疎水を完成させるという偉業をなしとげた田辺朔郎もサッカーをしていたようです。

 門野重九郎〔OB〕「工部大学に於けるスポーツ」には、

 〈四、フートボール

 此のゲームは溜池運動場にて盛なりしが今日のアッソシエーション〔FAルール=サッカー〕の前身とも云ふべく其のルールも至って簡単にして今日の如く前営〔FW〕、中堅〔HBまたはMF〕、後営〔BKまたはDF〕などと確然と定まった陣営も無く唯早く球をゴールに蹴込むに勉めたるものなり。〉(p.142)

 とあり、「サッカー」だったことを〈証言〉しています。

蹴球本日誌「『旧工部大学校史料』におけるサッカー」July 09, 2005


▼旧工部大学校史料~国立国会図書館デジタルコレクション

▼旧工部大学校史料・同附録(青史社)1978|書誌詳細|国立国会図書館
 後藤健生さんは、なぜか工部大学校の「フットボール」にしても、サッカーなのかラグビーなのか曖昧にしている。海軍兵学寮と違って、こちらは「サッカー」であることがほぼ確定しているのだから、堂々とサッカーと書いてもいいのではないかと思う。

 後藤さんは、わざと曖昧にしているのだろうか。

海軍兵学寮=ラグビー説の矛盾
 ブログ「蹴球本日誌」は、サッカーかラグビーかという論争に、別の立場から「参戦」している。「蹴球本日誌」は、秋山陽一さんと同じ史料、沢鑑之丞著『海軍兵学寮』(1942年)などを参照しながら、しかし、海軍兵学寮のフットボールは「サッカー」であるという立場をとる。

 該当するエントリー「秋山陽一『フットボールの憂鬱』を読んで」(2005年7月18日)では、秋山さんの史料の見落としや持説の矛盾点を突いている(引用文は,読みやすいように適宜編集してある)。
 秋山陽一氏の著作「フットボールの憂鬱」@『ラグビー・サバイバー』p.212に〈澤鑑之丞の別の著書「海軍兵学寮」でも、午後に毎日砲術訓練が取り入れられた当初、生徒たちは身体が大いに疲労を感じたが、後には次第に活気を増し愉快に外業を学ぶようになったと述べている。〉とあり、澤(沢)の『海軍兵学寮』(興亜日本社,1942)を読んだことが記されています。

 この本(『海軍兵学寮』)の明治7年〔1874〕の部分に〈また、「フットボール」(蹴球)もイギリス教師より教を受けて、寮内馬場に於て、甲乙両部にわかれ仕合を致しました。〉という一行があり(p.248-250のうちのどこか)、1874年当時の在籍者が〈フットボール(蹴球)〉をしていたとの「証言」があるのですが、不思議なことに(笑)秋山氏はこの部分に言及していません。

 また秋山氏は、「フットボールの憂鬱」で〈日本では、明治から大正時代にかけてア式とラ式といういい方で2つのフットボールを区別してきたが、昭和に入ると、ア式は蹴球を名乗り、一方は単にラグビーとなった。〉(『ラグビー・サバイバー』206頁)とも述べています。1942(昭和17)年に出版された『海軍兵学寮』に〈「フットボール」(蹴球)〉と記されていて、〈「フットボール」(ラグビー)〉でないのは、秋山氏の説に従えば、海軍兵学寮はサッカーをしていたことになってしまいます。これは秋山氏のオウン・ゴール……(笑)。

蹴球本日誌「秋山陽一『フットボールの憂鬱』を読んで」July 18, 2005


▼海軍兵学寮(興亜日本社):1942|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
 読んでいて、当ブログも笑ってしまった。

 秋山さんの「フットボールの憂鬱」は、私も読んだが、何というか、あれを確実にラグビーであるとするには、今ひとつ決定打に書くのではないかという気はした。

もっと活発な議論の応酬を!
 話を戻すと、秋山陽一さんは「イギリス人の特徴としてスポーツ組織を作るときにそこで行われるルールを何にするかを決めずに行動を起こしません.論拠となる資料はあります」と唱える。

 一方、後藤健生さんは「YC&AC〔横浜カントリー・アンド・アスレチック・クラブ,外国人居留地のクラブ,かつての通称「横浜外人クラブ」〕で、アソシエーション式(つまりサッカー)にするか、ラグビー式にするかという議論が行われたのは1880年代になってからのことだ」と唱える(『サッカー歴史物語』143頁)。

 これは重要な指摘だ。何がしかの根拠=資料(史料)がなければならない。

 ここでも、後藤さんと秋山さんの意見の相違は争点になる。野次馬としては、このサッカーvsラグビー論争で、もっと活発な議論の応酬を見たい。そうすることが、むしろお互いをよく知ることになり、お互いのためになる……のではないか。邪馬台国論争や、法隆寺再建論争みたいに、もっと派手にやってほしいのである。

 そのためには後藤健生さんvs秋山陽一さんのセカンドレグを、ぜひとも実現させるべきであろう。

(了)



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明治最初のフットボール…サッカーか? ラグビーか?
 日本人による日本のラグビーのルーツが慶應義塾なのは異論のないところだ。1899年(明治33)の秋、在日英国人の教師エドワード・B・クラークと、その学友・田中銀之助が学生たちにラグビーを教えたとある。
  • 日本ラグビーのルーツ~慶應義塾体育会蹴球部の歩み 2019/06/27
 それでは、日本人による日本のサッカーのルーツは? これが意外と難題である。

 一般に信じられているのは、日本サッカー協会(JFA)公式サイトの「沿革・歴史」にあるように「1873年(明治6)に英国海軍のダグラス少佐(中佐説あり)と将兵が来日し,東京・築地の海軍兵学寮で学生たちにサッカーを教えた.これが日本でサッカーが紹介された最初というのが定説になっている」というものである。
  • 日本サッカー協会(JFA)沿革・歴史
 ところが、この「通説」に物言いを付け、「海軍兵学寮で行われたフットボールは、サッカーではなくラグビーである!」と強硬に異論を唱えてきたのが、ラグビー史研究家の秋山陽一さんであった。秋山さんの主張は、日本ラグビー狂会編『ラグビー・サバイバー』所収の「フットボールの憂鬱」という論考にまとめられている。

ラグビー・サバイバー
日本ラグビー狂会
双葉社
2002-11


秋山陽一
【ラグビー評論家・秋山陽一氏】

 この論争は甲論乙駁。詳細は省くがサッカー側からも反論があって、つまり、日本人による日本における最初のフットボールが、サッカーなのか、ラグビーなのか、分からなくなってきているのである(この件は,いずれ当ブログで採り上げたい)。

 そして、サッカーにせよ、ラグビーにせよ、ここで行われたフットボールは、後が続かず途絶えている。

工部大学校で行われた「サッカー」もその後途絶えた
 もうひとつ、日本サッカーの「ルーツ」の候補として挙げられているのが、海軍兵学寮とほぼ同時期にフットボールが紹介されていた、東京大学工学部の前身「工部大学校」である。

 これに関してはOBが「アッソシエーション」式と証言しているので、アソシエーションフットボール、すなわちサッカーであることがほぼ確定している(詳しくは下記リンク先参照)。
  • 蹴球本日誌「日本におけるサッカーの伝来に関する一考察(未完)」October 02, 2010
  • 蹴球本日誌「『旧工部大学校史料』におけるサッカー」July 09, 2005
 しかし、ここに伝えられたサッカーは、後に途絶えてしまった。

 日本ラグビーのルーツは前述のとおり、慶應義塾のE・B・クラークと田中銀之助である。日本野球のルーツは、はじめ米国人教師ホーレス・ウィルソンが東京大学の学生たちに伝え、米国留学から帰国した日本人の鉄道技術者・平岡熈(ひらおか・ひろし)が、その人士を引き継いでさらに発展・拡大して全国に広まった。
  • ホーレス・ウィルソン~殿堂入りリスト|公益財団法人野球殿堂博物館
  • 平岡熈~港区ゆかりの人物データベースサイト
 平岡が活動していた時代に野球に熱中した有名人に、例えば文豪の正岡子規がいる。
  • 正岡子規~殿堂入りリスト|公益財団法人野球殿堂博物館
 これらに比べると、日本サッカーの起源譚は何となく華々しさに欠くところがある。

草創期「日本サッカー史」の曖昧さ
 前掲、日本サッカー協会(JFA)の「沿革・歴史」のページにある草創期の日本サッカー史の記述を見ても、今ひとつ明晰ではなく記述が混乱している印象がある。

日本サッカー協会(JFA)の沿革・歴史
1863 文久3 The Football Association(The FA/英国サッカー協会)設立。
1873 明治6 イングランドサッカー協会(The FA)創設から10年後、英国海軍教官団のA.L.ダグラス少佐と海軍将兵が来日。東京築地の海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)で日本人の海軍軍人に訓練の余暇としてサッカーを教えた(これが、日本でサッカーが紹介された最初というのが定説になっている)。
1878 明治11 体操伝習所(のちの東京高等師範学校体操専修科)が創設され、教科の一つにサッカーが取り入れられる。
1885 明治18 坪井玄道らが著した『戸外遊戯法―名戸外運動法』が刊行。書内第17項で「フートボール(蹴鞠の一種)」に競技のやり方が紹介。これが日本語でサッカーを紹介した最初の文献であると言われている。
1896 明治29 東京の高等師範学校(東京高師)にフートボール部が設立される。
https://www.jfa.jp/about_jfa/history/ より作成 

 例えば、上記の年表では、1878年(明治11)の項目で「体操伝習所」の教科のひとつにサッカーが取り入れられたとあり、一方で1885年(明治18)に日本語の文献で初めてサッカーが紹介されたとある。

 この辺はかなり曖昧で、それでは1885年以前の「体操伝習所」の内部では「サッカー」はどのような形で行われていたのだろうか? そして「サッカー」に関する情報はどのような形で共有されていたのだろうか?

 年表では次いで、1896年(明治29)に東京の高等師範学校(東京高師)にフートボール部(後の蹴球部=サッカー部)が設立されるとある。要するに、日本サッカーの実質的なルーツは、海軍兵学寮でもなく、工部大学校でもなく、旧制東京高等師範学校(東京高師)すなわち、現在の筑波大学である。

 前掲の通り、慶應義塾が日本ラグビーのルーツなのは自他ともに認めるところであるが、東京高師=筑波大学が日本サッカーのルーツだというのは、今ひとつ巷間に浸透していない。こういった史実は、関係者であってもひっそりと語られることが多い。
 ちなみに、慶應義塾で「蹴球部」といえばラグビー部のことで、東京高師=筑波大学で「蹴球部」といえばサッカー部のことである。この辺は、両フットボールの日本における来し方を示しているようで興味深い。

後藤健生さんによる中村覚之助の再評価
 2020年の東京オリンピックを1年後にひかえ、雑誌『東京人』は2019年8月号で「近代スポーツことはじめ」という特集を組んだ。

 この企画で、サッカージャーナリストの後藤健生さんによる「発展の陰に、〈この人〉あり」「さきがけは、〈学校〉から」という、明治時代初期~中期の日本のスポーツ事情を紹介した記事が2本掲載されている。

 当然、明治時代の日本のサッカー事情にも触れているのだが、これらの記事では、現代の日本サッカーの直接のルーツ、画期となった人物として、旧制東京高等師範学校の学生・中村覚之助(なかむら・かくのすけ)のことを再評価している。

中村覚之助(胸像)
【中村覚之助】

 中村覚之助については、これまでにも日本サッカー史に重要な役割を果たした人物として、たびたび採り上げられてはいた。
  • 和歌山県ふるさとアーカイブ「サッカー紹介者~中村覚之助(なかむら・かくのすけ)」より
  • 和歌山県那智勝浦町「八咫烏と日本サッカーの生みの親~中村覚之助について」2012年11月27日
 すなわち、洋書を翻訳して『アッソシェーション.フットボール』として刊行し、東京・大塚にあった土地を整地して蹴球部(サッカー部)の練習場とし、横浜居留地の外国人クラブ(横浜カントリー&アスレチッククラブ,YC&AC)と日本初の対外試合をの実現に尽くした人物が中村覚之助である。

 後藤健生さんは、読者(サッカーファン)にあらためて中村覚之助を紹介したのである。

中村覚之助が殿堂入りできない日本サッカー界
 ところが、これだけの功労者が、2019年7月時点で日本サッカー殿堂に掲額されていないのである。牛木素吉郎氏のように、この人を日本サッカー殿堂に入れようという声は、これまでにもあった。
  • 牛木素吉郎「中村覚之助を殿堂に」2011年08月24日
 しかし、なぜ、中村覚之助は無視されるのか?

 前述のラグビー史研究家・秋山陽一さんも指摘しているところであるが、日本サッカー協会および日本サッカー界の歴史観は、1974年に出たJFAの50年史『日本サッカーのあゆみ』に示された歴史観を乗り越えていないところがある。


 『日本サッカーのあゆみ』では、中村覚之助の功績はあまり大きく取り上げられていない。前掲JFAの「沿革・歴史」のページでも、日本サッカー殿堂の掲額者にしても、古い人の顕彰については『日本サッカーのあゆみ』に依拠している印象がある。
  • 日本サッカー殿堂│掲額者一覧(個人)|JFA|日本サッカー協会
 中村覚之助が歴史上、公的な評価を受けていないのは、どうも、こうした事情があるのではないか。

 来たる2021年には、日本サッカー協会も創設100周年を迎える。あれから日本サッカー史などに関する研究は進んでいる(はずだ)し、日本サッカー殿堂に掲額される人もそれを反映させるべきではないか。

 個人的には、この中村覚之助と、マンガ『キャプテン翼』の原作者・高橋陽一氏、ヤタガラス(八咫烏)の日本サッカー協会旗をデザインした彫刻家・日名子実三の3人は、是非とも日本サッカー殿堂で顕彰するべきである。

 違いますかね? JFAの田嶋幸三会長?

(了)



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後藤健生さんの新説への評価と疑問
 2020年の東京オリンピックを1年後にひかえ、雑誌『東京人』は2019年8月号で「近代スポーツことはじめ」という特集を組んだ。

 この企画で、サッカージャーナリストの後藤健生さんが「発展の陰に、〈この人〉あり」「さきがけは、〈学校〉から」という、明治時代初期~中期の日本のスポーツ事情を紹介した記事が2本掲載されている(うち「さきがけは…」の方は東洋経済オンラインに転載されている,下記リンク先参照)。
  • 後藤健生「明治時代にスポーツを広めた〈欧米人〉の功績~外国人に大勝したのは東大前身の一高だった」2019/07/03
 これらの記事では、東京高等師範学校の中村覚之助のことを再評価したり、なかなか重要なことが指摘されてある。しかし、一方で首を傾げたくなるような記述もある。それは前回のエントリーで書いた(下記リンク先参照)。
前回のエントリーから
明治初期のスポーツに関する後藤健生説を検証する~『東京人』2009年8月号より(1/2)

 英国人より米国人の「お雇い外国人」教師の数が多かったから、日本ではサッカーより野球の人気が先行した…という後藤健生説は、どこまで妥当なのか?
 疑問を感じるのは、実はこの件ばかりではないのである。

なぜ,日本人は欧米人のスポーツに飛び入り参加できなかったのか?
 例えば、後藤健生さんはこんなことを述べている。
 ヨーロッパや南米諸国では、英国人たちがスポーツに興じていると、現地の市民が飛び入りで参加したり、自分たちで参加したり、自分たちでクラブを作ってスポーツを始めたりしたものだ。〔幕末・明治の日本でも外国人居留地で行われた欧米人のスポーツを見物する日本人はいたが〕日本人と欧米人では、歩き方や走り方すら違ったのだから、〔日本人が欧米人と〕一緒にスポーツを楽しむことは難しかったのだろう。

後藤健生「さきがけは、〈学校〉から」@『東京人』2019年8月号


 この仮説はどこまで妥当なのだろうか? 推量形で「…だろう」と結んでいるのだから、確証には乏しいのだろう(←あ,これも推量形だ)。

 例えば、横浜カントリー&アスレチッククラブという、1968年(明治元)創設の在日外国人のためのスポーツクラブがある。略称「YC&AC」、かつての通称を「横浜外人クラブ」という。このクラブは、自尊心が高くかつ日本人に対して排他的なところがある。最近は日本人でも会員になれるらしいが、しかし、それでもハードルは高い。

 YC&ACは以前から7人制ラグビーの大会を主催しているが、最近まで「犬と黄色人は立ち入り禁止」という差別的な看板があった、大会の観客は「使用人」扱いで一般来場者は裏口・勝手口から入るようになっていた……などという話が伝わっている。インチキラグビー評論家の中尾亘孝(なかお・のぶたか)が、自身のブログで書いている。
〈第52回YC&ACセヴンズ〉
ヨコハマ・カントリー&アスレティック・クラブは、
つい最近まで「横浜外人クラブ」と呼ばれていた、
非常にプライドの高い英国系スポーツ・クラブ。

ここ数年、「犬と黄色人立ち入り禁止」なんて、
看板こそありませんが、大会の観客は使用人扱い
一般来場者は裏口・勝手口から入るようになっていた。

で、我輩〔中尾〕は、大家さん〔誰?〕のお下がりであるニコンを手に、
証拠写真を撮ろうと思っていたわけですが、
なんと今年は普通に入れます!

中尾亘孝「セヴンズ中退の言い訳」2010年04月05日
http://blog.livedoor.jp/nob_nakao/archives/51419984.html


中尾亘孝(プロフィール付き)
【中尾亘孝とそのプロフィール】
 この話の信憑性については何とも言いかねるが、しかし、「日本人と欧米人の身体の動きの違い」以前に、「人種」的な問題として日本人は欧米人のスポーツに参加することができなかったのではないか。

 外国人居留地でも、同じアジアの中国、ベトナム、インドネシアなどの事情はどうだったのか。欧米人が楽しんでいるスポーツに現地のアジア人が「飛び入り参加」できたのか、できなかったのか。仮に後者なのだとしたら、それは「アジア人と欧米人の身体の動きの違い」の問題で参加できなかったのか。「人種」的な問題として参加できなかったのか。

 これらの点からも、この問題を検討・検証するべきではなかっただろうか。

日本人の「官費留学生」はスポーツをする余裕がなかったのか?
 あるいは、後藤健生さんは……後に文豪として有名になる森鴎外や夏目漱石といった「官費留学生」は学問に追われていてスポーツをやる余裕はなかったが、平岡熈(野球)が田中銀之助(ラグビー)といった「自費(私費)留学生」はスポーツに親しむ余裕があった……と「発展の陰に、〈この人〉あり」で書いている。

 しかし、幕末期に徳川幕府の命で、維新期に明治政府の命で、二度にわたって英国に留学した数学者の菊池大麓は、留学先のケンブリッジ大学でラグビーに親しんだと伝えられている。
  • 国立国会図書館「菊池大麓│近代日本人の肖像」
 他にも、明治初年、開拓使仮学校で米国人教師をウィリアム・ベーツとともに学生たちに対して野球の指導に当たった日本人、得能通要、大山助市、服部敬次郎の3人は、開拓使から米国に留学し、帰国した学生である(大島正建『クラーク先生とその弟子』、池井優『白球太平洋を渡る』参照)。


 この人たちの留学は公的な性格のものである。つまり、官費留学だからスポーツができなかった、自費留学だからスポーツができた……という説も、一概には決め付けられず、再検証・再検討の余地があるのではないか。

2021年=JFA日本サッカー協会創設100周年のために…
 とかく日本のスポーツ評論は、日本のスポーツ史に関して何か特殊な事情があったはずだと、性急に解答を求める傾向がある。しかし、そうした安易な「答え探し」などやめて、個々の事柄に関して緻密な検証を積み重ねていくことの方が大切ではないだろうか。

 例えば、日本に野球を定着させた平岡熈はどういう条件(契約?)で工部省鉄道局の土地を利用することができたのか? 日本サッカーの発展の基を築いた中村覚之助はどうやってボールやスパイクシューズを調達したのか?

 どこかで誰かが研究しているのかもしれない。こうした話は日本のスポーツ史を理解するために非常に重要だと思うのだが、しかし、なかなか一般のスポーツファンには伝わっこない。

 そのためか、巷間にはさまざま怪しい俗説が流通している(玉木正之氏とかw)。*
  • 玉木正之の「スポーツって、なんだ?」#15 日本で野球が人気なのはなぜ?
 再来年2021年の日本サッカー協会創設100周年を控え、後藤健生さんには、むしろ、そうした通念を打破する仕事をしてほしいのである。

(この項,了)



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後藤健生さんの新説
 なぜ日本では、世界中で人気があるサッカーの人気が出なかったのか? なぜ野球の人気が先行してしまったのか? ……という難問は、日本サッカー史における最大の「謎」である。……と同時に、昔から珍説・奇説の宝庫であった。

 最近、この分野に「参戦」してきた人に、サッカージャーナリストの後藤健生さんがいる。その内容は、以下のようなものである。
 サッカーやラグビーよりも早く日本中に普及し、強化も進んだのは米国生まれのスポーツ、ベースボール(つまり野球)だった。その理由の1つは、米国人教師が数多く日本にやって来たからだ。1869年〔明治2〕にスエズ運河が開通したとはいえ、ヨーロッパから極東の島国に至るには距離的にも経費的にも負担は大きかった。一方、米国ではスエズ運河と同じ69年に大陸横断鉄道が開通しており、列車でカリフォルニア州まで来てサンフランシスコから乗船すれば、比較的容易に日本に来ることができた。そのため、全国の中学校〔大学ではなく中等学校でよいのか?〕には多くの米国人教師が赴任し、彼らはちょうど近代的なルールが確立したばかりの野球を日本に伝えたのだ。

後藤健生「さきがけは〈学校〉から」@『東京人』2019年8月号


  • 参照:
 引用部分だけでなく、全体の文脈を見ても、後藤さんの書き方が少し曖昧なこともあって、いくつか「?」と思う箇所がいくつかある*が、それはひとまず措(お)く。疑問を感じるのは、明治時代の「お雇い外国人」、特に教師の国籍の数は米国人が(圧倒的に?)他国を、なかんずく英国人より本当に多かったのか? ……ということである。

「お雇い外国人」教師の国籍
 後藤健生さんの考えは、あたかも明治時代前半の「お雇い外国人」教師の数は、欧州よりも日本と地理的に近い、野球を国技とする米国人が(圧倒的に?)多い。一方、欧州人のお雇い外国人、特にサッカーやラグビー(またはクリケット)を国技とする英国人の教師は少なかった……かのようにも読める。

 実際はどうだったのか。この件に関しては、歴史学者・故梅渓昇(うめたに・のぼる)氏の『お雇い外国人~明治日本の脇役たち』(講談社学術文庫)という優れた著作がある。この本に掲載された「お雇い外国人」に関するの統計に目を通してみた。

 詳しくは本に当たってほしいが、官費雇用の「お雇い外国人」の国籍で米国人の数が抜きんでて多かったことはない。むしろ、英国人の方が全体で圧倒的な多数を占めている。ただし、その内訳で多いのは工部省の雇いの技術者ではある。

 それでは教師の数はどうか? 梅渓氏の著作を参考にから文部省雇いの「お雇い外国人」を国籍別で表してみた(以下の表を参照)。文部省雇いの「お雇い外国人」の職務は、ほぼ「大学」の「教師」であると推定できるからである。

文部省「お雇い外国人」の国籍(単位:人)
  アメリカ イギリス フランス ドイツ その他
1872年(明治5) 6 5 4 8 1 24
1874年(明治7) 14 25 10 24 17 90
1879年(明治12) 14 7 5 12 12 50
1885年(明治18) 2 11 2 9 2 26
計(延べ人数) 36 48 21 53 32 190
梅渓昇『お雇い外国人』(講談社学術文庫)第4章より作成

 この表を見ても、米国人の数が英国人の数より多いとは言えない。参考までに出してみた「延べ人数」の合計では、米国人の数は、英国人の数よりも少なく、同じ欧州のフランスやドイツなどを加えた全体の比率では2割に満たない。**

 梅渓氏の著作にも書いているのだが、「お雇い外国人」が日本と母国を往来する際の交通費は、当然、日本側が負担している。明治政府が金をケチったために、「お雇い外国人」の国籍が、英国・ヨーロッパよりも米国が多かったという話は無い。

 いずれにせよ、「お雇い外国人」教師の数が、米国人の方が、英国人よりも多かったので、日本ではサッカーよりもラグビーの人気が出たという後藤健生氏の仮説は、成り立たないのではないか。

ベーツ先生とその弟子たち
 明治初期、米国人の「お雇い外国人」教師が日本人の学生に野球を教えても、全く定着しなかった実例がある。明治6年頃(1873)頃、北海道大学の前身に当たる開拓使仮学校で、米国人教師アルバート・G・ベーツが、日本人の学生たちに野球を教えた例である。

 この辺の事情は、後藤健生さんが大学・大学院時代に学恩のある、野球評論家でも有名な政治学者・池井優さん(いけい・まさる:慶應義塾大学教授,外交史ほか)の『白球太平洋を渡る』が紹介している。


 それは、開拓使仮学校(後の札幌農学校~北海道大学の)で学んだ伊藤一隆(中川翔子の高祖父としても知られる)の回想として、大島正建著『クラーク先生とその弟子たち』(何度も復刻されている名著,クラーク博士の「少年よ,大志を抱け」という言葉の元ネタ)に登場する逸話である。あえて孫引きなのは意図的なものである。
 明治6年(1873)頃、まだ東京にあった開拓使仮学校に、アルバート・G・ベーツという米国人の英語教師がやってきた。彼は好球家で、1本のバットと3個のボールも持参してきた。生徒たちを2チームに分け、野球の試合をさせたが、選手の〔日本人〕生徒たちは、ルールや技術の要点をなかなか理解できず、ベーツは苦心した。

 幸いにも、開拓使から米国に留学させていた開拓使仮学校の生徒3人、得能通要、大山助市、服部敬次郎が帰国して、彼らの指導によって野球の試合も少しは様になるようになった。そのうち、ボール2個が破損してしまった。代用品のボールは日本の靴工場で、バットは棒屋で作らせたが、出来ばえは不完全だった。だから、実際に野球の試合をするには苦心した。

 やがてベーツが注文した野球道具が届き、生徒たちの士気も上がった。しかし、ベーツは来日2年足らずで急死してしまい。生徒たちの野球熱も消えてしまった。

池井優『白球太平洋を渡る』5~8頁より大意・要約


 道具の調達がうまくいかなかったこと、米国人「お雇い外国人」教師ベーツの急死が、開拓使仮学校での野球普及が挫折した主な理由である。

球技スポーツが日本に定着するセオリーとは?
 とにかく、米国人の「お雇い外国人」教師が英国のそれより多かったから、日本ではサッカーより野球の人気が出た……と、いう理由ではなさそうである。

 開拓使仮学校の逸話からは、ある国(少なくとも日本で)で特定の球技スポーツを「普及」させるための仮説や経験則がいくつか導き出せる。
  •  たとえ野球であっても(むろんサッカーでも)、外国人が持ち込んで現地の人たち(日本人たち)にちょっとプレーさせてみたくらいでは、現地の人たちがその球技スポーツの面白さを理解することはない。したがってその国には「普及」しない。
  •  ボールやバットなど、そもそも道具が揃わないと、その球技スポーツ自体ができない。本物がない場合は地元で代用品を作ることになるが、出来が悪いと「普及」に支障が出る(付け足すと,その球技をプレーできる広い「土地」も必要になる)。
  •  熱心な指導者がいて継続的に活動しないと、その球技スポーツは「普及」しない。その人に任期が来て帰国したり、客死したりすると「普及」活動が後々まで続かない。
 以上の仮説は、当ブログの独創ではない。神戸市外国語大学の元教授(スポーツ学)で日本クリケット協会会長・山田誠さんの論文「ニューカレドニアンクリケットの研究-2-」に登場する話である。
  • 参照:
 山田誠さんは、野球やサッカーと同じく明治初期に紹介されながら、一度は廃れてしまった英国の球技「クリケット」(野球と同じ系統のバット・アンド・ボール・ゲーム)を、あらためて日本で普及させようという、近年まれに見る実践を行った人である。

日本国某所で行われた「クリケット」の練習風景(2019年)
【日本国某所で行われた「クリケット」の練習風景(2019年)】

 それだけに、後藤健生氏や、あるいは玉木正之氏やロバート・ホワイティング氏の「仮説」よりも強い説得力がある。

スポーツの普及は日本人自身の働きかけによるもの
 使用に耐えうる「道具」の調達と、充分な広さをもった「土地」の確保と、普及に熱心な「指導者」の存在と、3つの物理的条件が揃えて、サッカーよりもラグビーよりも先行して日本に野球を普及させたのは、米国人ではなく日本人である。すなわち、明治11年(1978)から明治20年(1887)頃にかけて、「新橋アスレチック倶楽部」を創設して野球の伝統に努めた平岡熈(ひらおか・ひろし)である。

 この件についてはいろいろ書いてきたから、ここでは繰り返さない(下記のリンク先を参照いただければ幸甚である.もっとも後藤健生氏によると平岡熈は公費留学ではなく私費留学だそうで,その辺の当ブログの思い違いは寛恕を請い願うものであります)。
  • 参照:
 野球にせよ、サッカーにせよ、ラグビーにせよ、その歴史を検証してみると、日本に定着したのは、単なる「お雇い外国人」による紹介ではなく、日本人による主体的な働きかけによるものなのは、とても興味深い。

 すなわち、サッカーにおいては東京高等師範学校(東京高師,後の筑波大学)の中村覚之助であり(下記リンク先を参照)、ラグビーにおいては慶應義塾のエドワード・B・クラークと田中銀之助。ちなみにE・B・クラークは「お雇い外国人」ではなく「在日英国人」である。
  • 参照:
 「お雇い外国人」の紹介であろうと、日本人の紹介であろうと、物理的な条件な揃わないと、その球技スポーツは普及・定着することはないと……書いた。例えば「土地」の確保についてはどうだろうか? 野球、サッカー、ラグビー、三者三様、けっこう手間暇がかかっているのである。

野球=品川,サッカー=大塚,ラグビー=麻布,それぞれの出発点
 野球に関しては、「新橋アスレチック倶楽部」の平岡熈が、奉職先の工部省鉄道局の八ツ山下(東京・品川)の車庫のそばに「保健場」と名付けられた専用グラウンドを持っていたことが知られている(池井優『白球太平洋を渡る』20頁)。

 おそらく平岡本人の私有地ではなかったであろうし、何がしかの条件で(契約で?)使用させてもらった(工部省鉄道局から?)であろう。従来の日本野球の黎明史には、こうした瑣末ではあるが、しかし重大な事情が伝えられることはない。学界のスポーツ史学やスポーツ社会学が、この辺の分野に未開拓なのだとしたら、非常に残念な話である。

 サッカーの場合、雑木雑草に埋められていた東京・大塚の新運動場の予定地を、中村覚之助と東京高師のサッカー部員たちと整地した(下記リンク先参照)。
  • 参照:
  • 参照:
 白線を引くための石灰が手に入らなかったので、フィールドに棕櫚縄(しゅろなわ)を張り、ゴールを立ててサッカーの練習を開始したとある。そして1904年(明治37)に横浜の外国人クラブと日本初の対外試合を行う。この様子が新聞で全国に紹介されたら、全国の中等学校からサッカーの指導依頼が来て、東京高師の部員が各地に指導のために出張したという話が伝わっている。

 最後にラグビーになるが、ラグビー史研究家・秋山陽一氏のWEBサイト、旧「日本フットボール考古学会」には、「E・B・クラークが慶應義塾の学生(塾生か?)にラグビーやクリケットを教え始めるが,試合ができるような体制になるのは,東京・麻布の〈仙台ヶ原〉という土地にグラウンドを移してからのこと」と紹介されていた(下記リンク先参照)。
 佐山一郎氏は、ラグビーにはサッカーにはない「相撲のぶちかましの要素」があるから、同じフットボールでもサッカーよりもラグビーの方が「日本人」の感性にかなっており、だから、長らく日本ではサッカーよりラグビーの人気が高かった……などと語っている(佐山一郎『日本サッカー辛航紀』より)。

 しかし、日本ラグビー伝来の時点で慶應義塾が「仙台ヶ原」に土地を持っていて、ラグビー部(蹴球部)に使わせなかったら、ラグビーはサッカーより普及が遅れていたかもしれない。

「なぜ…を問う」から「いかに…を問う」べきである
 明治時代の日本において、野球の人気がサッカーやラグビーに先行したことは、歴史の偶然であり、必然ではない。

 従来の所説は、明治初期にさまざまなスポーツが、ほぼ同時期に日本に紹介された。その中で、野球だけが突出した人気を得たために、それは「なぜ」なのか? そこに何か日本固有の理由があるに違いない。……という視点が多かった。

 しかし、クリケットを研究・実践する山田誠さんの仮説のように、スポーツの普及には「道具」「場所」「指導者」の3条件の充足が重要であるという仮説から、野球やサッカー、ラグビーが「いかに」日本に定着してきたのか? ……という視点で歴史を振り返ってみると、この3競技の日本への本格的な紹介は必ずしも同時期ではなかった、だいたい「野球」と「サッカー,ラグビー」で四半世紀の時代的なズレがあったことが分かる。

 「なぜ」野球だったのか? 「なぜ」サッカーではなかったのか? ……ではない。

 バットやボール、スパイクシューズを「いかに」調達したか? 野球やサッカーやラグビーを行うフィールドを「いかに」確保したか? 整地したか? 野球もサッカーもラグビーも、その知識がゼロの人たちに、どんな人は「いかに」指導をしていったのか?

 こうした、細かい事実の「いかに」を洗い出す、地道な実証的研究を積み重ねていくことで、日本のスポーツ文化の全体像が本当の意味で理解できるだろう。

 この点では、後藤健生さんの新説(仮説)もまた厳しく審査されなければならない。

(2/2につづく)



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