スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:玉木正之

職業ブロガー=広尾晃氏が素人ブロガーに噛み付く
 野球ブログ有数のアフィリエイトブロガーであり、プロの野球ライターでもある広尾晃氏(誤字脱字事実誤認が多すぎるなのは全く残念であるけれども)が、当ブログのエントリー「野球ブロガー・広尾晃氏の『〈サイン盗み〉の野球史』を嗤う」に噛み付いてきた。



 一介のブロガーが、アフィリエイトのためPVの数で稼ぐ職業ブロガーの標的として選ばれてしまった。このことは、ある意味、名誉で目出度いことなのか? あるいは、単にキレやすい広尾晃氏の頭に血が上ってしまっただけなのか?

 くだんの広尾晃氏のエントリーを読んだが、当ブログは、広尾晃氏と違って体内の血液が逆流しそうなほどの強い刺激は受けなかった。広尾晃氏は、当ブログの該当エントリーの本質的な部分には、ほとんど言及していないからである。したがって、当ブログが今から内容的に付け加えることも少ない。以降は、ほとんど駄目押しである。

広尾晃氏にとっての「世界」と「日本」
 そもそも、広尾晃氏にとってのスポーツ文化の理解とは何か?

 野球の話題に絞って言うと、「世界」すなわちMLB&アメリカ野球界には豊かな「スポーツマンシップ」の精神があり、スポーツ文化を深く理解している。翻って「日本」なかんずくNPBまたは高校野球ほかの日本野球界は、スポーツ文化をまるで理解しておらず、スポーツマンシップとは真逆の、貧困なる「勝利至上主義」にドップリ浸かり、スポーツを穢(けが)している……。

 ……という極端なロジックである。これは「世界=MLB&アメリカ野球界=スポーツマンシップ/日本=NPBまたは高校野球ほか日本野球界=勝利至上主義」という、いわば二元論的な図式として表せる。きわめて硬直的で単純化された世界観である。

日米「サイン盗み」をめぐる広尾晃氏のダブルスタンダード
 そんな広尾晃氏が、再三紹介してきたのが「正しく〈スポーツマンシップ〉を理解しているアメリカ野球界と違って,日本野球界には〈サイン盗み〉が横行している.明らかに不正な〈スパイ行為〉であり,これこそ日本的な〈勝利至上主義〉の表出である」という話であった。

 ところが、2019年、そのアメリカMLBのヒューストン・アストロズの「サイン盗み」=「スパイ行為」が発覚した。日本の高校野球のサイン盗みは、二塁走者が捕手のサインを盗み見するものが主らしいが、アストロズのそれは電子機器(カメラなど)を用いた、より複雑なものであるという。

 広尾晃氏のもとに、アメリカ野球界も「サイン盗み」=「スパイ行為」をしているではないか? 広尾晃氏の言い分は矛盾しているではないか? ……という声が寄せられたようである。もっともな疑問である。

 こうした批判に、広尾晃氏が嫌々反応したのが「アストロズのサイン盗みについて」や「〈サイン盗み〉の野球史」(全5回シリーズ)であった。それらによると……。



 ……日本野球界の「サイン盗み」はスポーツマンシップが欠落した「勝利至上主義」の欠落に由来する根が深く常態化したものであり、一方、MLBアストロズの「サイン盗み」はMLBがビッグビジネス=拝金主義になっていくしたがって起こった(酌量するべき?)邪心である。

 ……あるいは、アマチュア野球まで「サイン盗み」が横行するのはアメリカにはなく、日本だけ……というものだ。
 そういうアストロズのサイン盗みと「勝ちゃいいんだ!」の日本の〔野球指導者の〕あほなおっさんの〔選手たちに強要する〕サイン盗みは、違うわけだ。日本が何周も周回遅れになっているという状況は変わらない。

広尾晃「アストロズのサイン盗みについて」より
 むろん、こんな言い草は、ご都合主義、贔屓の引き倒し、ダブルスタンダード……の詭弁にすぎない。

次々と暴かれていく広尾晃氏の虚妄
 2019年9月、韓国で「第29回WBSC U18ベースボールワールドカップ」が開催され、日本代表(高校日本代表)も出場した。2019年9月18日付の『東京スポーツ』電子版には、昨今の野球の国際大会では各国代表で「サイン盗み」が横行し、むしろ、日本代表こそが「一方的なサインの〈盗まれ損〉」になっている……という話題が紹介されている。
 ……一方で国際大会では当然のごとく横行しているサイン盗みへの対応も気になるところ。日本はどんな対策を行っているのか、代表に聞いた。〔略〕

 島田分析担当コーチは「サイン盗みは当たり前にあるもの、と思っています。すでにオープニングラウンドのアメリカ戦〔え?〕でもやられた。ダミーのサインから入ったり複数のサインを用意したり、以前から対策はしています。(捕手の)山瀬も水上もそれはよくわかってくれている」と話すなど、サインを盗まれることは〈前提条件〉として臨んでいるという。

 一方で「教育の一環」を建前とする日本では、サインを盗む行為は〈ご法度〉だ。高野連の竹中事務局長は「対策は首脳陣に一任しています。もちろん日本はやらない。そういうことをやると国際大会でバカにされますから。そういうチームはないと信じたいですけどね」と言うが、現状は一方的な〈盗まれ損〉状態となっている。

 〔日本の〕学校によっては日常的に練習もしていないサイン盗みへの対策。選手に戸惑いはないのか。山瀬(星稜=3年)は「ミスが出ないように、いろいろなパターンを組み合わせています。ベンチからのサインはなくて、基本的にキャッチャーが考えて出している。初めて組む投手とはバッテリー間で覚えることも多いですが、何とかなっています」とした上で「日本でもやってくるところはやってくる。サイン盗みはともかく、サイン盗み対策に戸惑いはないです」と話す。

 国内では大きな物議を醸したサイン盗み問題も、建前ばかりで対策をしていなければ、国際大会では勝ち切れない。それでも日本は不利を承知でスポーツマンシップを貫き、悲願の世界一を狙う。

東京スポーツ「野球【U18W杯】1次L米国戦でも…侍サイン盗まれ損?」
2019年09月05日
 広尾晃氏の説くように、国際大会でアメリカの審判に「サイン盗み」を注意されたら、日本はやらなくなった。しかし、その間にアメリカ合衆国〔え?〕ほか、外国の代表は臆面もなく「サイン盗み」が常習化(?)した。これは一体どういうことか?

 もうひとつ例を挙げる。広尾晃氏が説く日米野球の「サイン盗み」にまつわる習慣の違いは本当なのか? 不審に思ったスポーツファンが、大リーグ評論家の福島良一氏にSNS(ツイッター)で問い合わせた。すると、どうです……。

【福島良一「勝つためなら手段を選びません」】

 ……と回答が来たので大笑い。日本野球は「勝利至上主義」でアンフェアな「サイン盗み」を頻繁にやるが、アメリカ野球は「スポーツマンシップ」が徹底しているので「サイン盗み」は存在しないなどとは、単純には言えないのである。

 こうして、広尾晃氏が説いた話が虚妄であると次々に暴かれていくのである。

「二元論」的日本スポーツ批判を超えて…
 広尾晃氏は、あくまで「世界=MLB&アメリカ野球界=スポーツマンシップ/日本=NPBまたは高校野球ほか日本野球界=勝利至上主義」という図式でしか事態を解釈できず、判断も出来ないから、事実を見誤り、かつ、あんな無理のある意見を立てるのである。

 「誤解していただきたくないのだが,私は何も○○○○だと言いたいのではない」という言い回しは、サッカーファンの小説家・村上龍氏のサッカー評論の定番の決め台詞だったという説がある。……が、しかし、当ブログは1回くらいしか、それを見たことがない。

 そんな話はともかく、誤解していただきたくないのだが、当ブログは何も「日本の悪口を言うのは許さないぞ」などと言いたいのではない。日本野球は国内シーンでも国際シーンでも「サイン盗み」を積極的にしろと推奨しているのでもない。

 硬直的で単純化された「二元論」的な世界観に基づいた批判では、事の本質も理解できないし、問題の解決にもつながらない。より多元的なモノの見方・考え方をしなければ、事態をミスリードしてしまうのではないか……と言いたいだけである。

(了)




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スポーツにおける国と国との文化的な力関係
 広尾晃氏ブログの渾身のエントリー「〈サイン盗み〉の野球史」シリーズは、サラっとナナメ読みしただけだが、その第4回目にトンデモない記述を発見してしまった。
 〔明治時代,日本野球はアメリカ野球から〕技術や戦法も取り入れたが、その戦法の中に「サイン盗み」も当然含まれていた。〔略〕

 「サイン盗み」には今に至るもルールブックには「違反」とは書かれていない。

 だから高校野球でも大学野球でも、社会人でも「サイン盗み」は、普通の戦法としてずっと行われていたのだ。〔略〕

 そんな日本のアマチュア野球が、世界で大恥をかいたのが1996年夏の甲子園の出場メンバーが渡米して、アメリカの高校生と親善試合をしたときのことだ。

 日本の二塁走者が捕手のサインを打者に伝えるのを見て、アメリカの審判は注意をした。一・三塁のコーチも同様の指導を受けた。アメリカの審判は、日本の行為を「スパイ行為にも等しいアンフェア」だと指摘したのだ。

 日本高野連はこのことに大きな衝撃を受け、1998年12月、サイン盗みの禁止を日本高野連から〈マナーの向上〉の指導事項として全加盟校に通知した。


 日本のアマチュア野球が「サイン盗みはいけないことなんだ」と知ったのは、まさにこの時だったのだ。

広尾晃「〈サイン盗み〉の野球史」(4)
 これには唖然とした。

 逆のケースを考えてみよう。アメリカ野球にサイン盗みの「アンフェアプレー」(≒ゲームスマンシップ)が常態となっており、日本にそのような習慣はないとする。どの年代でもいいが、いわゆる日米野球の試合が行われたとする。そこで、日本の審判はアメリカの選手の「アンフェアプレー」(≒ゲームスマンシップ)を注意できるだろうか?

 おそらく出来ないはずだ。日本野球とアメリカ野球の間には、いわば「日<米」とでも呼ぶべき、国際的な力関係の格差が存在するからだ。そして、アメリカ野球の関係者が「日本野球はナイーブだ.〈ゲームズマンシップ〉が足りない」とか何とか言って、日本側が一方的に否定されるのである……。

 ……というあたりは、当ブログの読者なら、とっくの昔に先刻ご承知のはずである。しかし、この「スポーツにおける国と国との文化的な力関係」という単純な事柄が理解できていないのが、俺たちの埃り、広尾晃氏なのである。

ゲームスマンシップとしての不行跡~紳士のスポーツでも
 仮定の話ではなく、例えば、これはラグビーフットボール……今年2019年に日本でワールドカップが行われ、大変な盛況を博(はく)し、「紳士のスポーツ」だなど少々大袈裟に喧伝された……においても同様である。

 NHKが「BS世界のドキュメンタリー」で放送した『ラグビー 永遠のライバル史』という番組が凄い。


 その昔、TMO(ラグビーのビデオ判定)が普及する前のラグビーでは、レフェリーの見ていない(バレない)ところで、殴る・蹴る・噛み付く・指で目を突く・口に指を突っ込む・肘で打つといった行為が平然と行われていた……。

 ……などという話を、ウェイン・シェルフォード(元ニュージーランド代表)といったレジェンドクラスのラガーマンが武勇伝みたいに語るのだからたまらない。以前のジャパン(ラグビー日本代表)もさんざんやられた。そして適応に苦労した(と聞く)。

 ラグビーの競技規則では「不正なプレーまたは不行跡」が明文化されているにもかかわらず。これは一種のゲームスマンシップである。そして、日本も文句は言えないのは、ラグビーの世界では、日英(英連邦諸国含む)のラグビー文化間で「日<英」とでも呼ぶべき国際的な力関係の格差が存在するからだ。

 こんな単純な事柄が理解できていないのが、広尾晃氏なのである。

アンフェアプレーの「構造」ではなく「形態」である
 広尾晃氏の観念は、日本人の国民性・文化・精神……等々は「世界」にあってきわめて(悪い意味で)特殊独特だとする日本人論・日本文化論の世界観である。だから、アメリカ・メジャーリーグの「サイン盗み」は綺麗なサイン盗み、日本野球の「サイン盗み」は汚いサイン盗みとでも言いたげに、両者をあくまで区別(差別?)しなければならない。

 この日本人論のロングセラーに、土居健郎(どい・たけお)という精神科医が書いた『「甘え」の構造』がある。



「甘え」の構造―The anatomy of dependence
土居 健郎
講談社インターナショナル
1981-12


甘えの構造 (1980年)
土居 健郎
弘文堂
1980-11


 「甘え」という心理や情緒、精神は日本人独特のものだとして、日本の文化や社会、国民性を縦横に論じたものだ。同様、広尾晃氏は、日本人にはスポーツにおけるアンフェアプレーの独特の「構造」があるのだと、再三説いている。

 ただし、『「甘え」の構造』には賞賛とともに批判も多い。そんな批判者のひとりに、翻訳家・文筆家のロビン・ギル氏(米国人)がいる。彼は『日本人論探検』の中で、「甘え」などというものは各国の民族・部族に存在すると、豊富な事例を手がかりに指摘している……。*

日本人論探険―ユニークさ病の研究
ロビン・ギル
阪急コミュニケーションズ
1985-12


 ……その上で、日本人独特の「甘えの構造」ではなく、世界中にある「甘えの形態」の様々な在り方だと説いている。スポーツの場における選手たちの振る舞い方も同様。日本人独特のアンフェアプレー(≒ゲームスマンシップ)の「構造」ではなく、世界各国に存在するゲームスマンシップの「形態」の違いである。

男どアホウ広尾晃
 この程度のこと……フェアプレー=スポーツマンシップとアンフェアプレー=ゲームズマンシップという矛盾の内包……は、後藤健生氏の『サッカーの世紀』や『ワールドカップの世紀』、あるいはデズモンド・モリス博士の『サッカー人間学』(原題:The Soccer Tribe)を読めば一発ですぐに理解できる……。

サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02


The Soccer Tribe
Desmond Morris
Rizzoli Universe Promotional Books
2019-03-26


 ……のだが、広尾晃氏は読んだことはないのだろう(けして細川周平氏や今福龍太氏あたりの,意味不明であまり読む価値のないサッカー本ではないのだが)。

 サッカーの世界では、日本人は「マリーシア」(≒ゲームズマンシップ)がないと、さんざん言われてきた。しかし、「日本人」そのものにゲームズマンシップが無いわけではない。日本野球におけるサイン盗みやミットずらしなどは、立派なゲームズマンシップである。

 世界の常識では、例えばサッカーやラグビー、クリケットでは、こうしたゲームズマンシップの良し悪しの線引きは、(主にナショナルチーム同士による)国際試合で自ずと、あるいは権威ある国際統括機関の指導によって決まってくるものである。**

 
しかし、そもそも。広尾晃氏は「日本野球は,サイン盗みのアンフェアプレーで〈世界〉に対して恥をかいた」などと書くが、野球に「世界」と称してよい国際関係も、しかるべき国際統括機関も存在しない。あるのはアメリカ・メジャーリーグの一国主義である。

 アメリカ野球と流儀が違うからという理由で、日本野球が一面的に否定される。

 そのことが理解できないから、広尾晃氏は、アメリカ野球にも存在する「サイン盗み」に関しても、日本野球が一面的に悪いかのように、話を盛る

 この人の言い分を鵜呑みにすることは、スポーツの豊饒な世界を読み間違える。

 そうはならないために、スポーツファン=読者は、広尾晃氏の「男どアホウ」ぶりを嗤って読み味わう程度には、知性なり知識なりを持ちたいものである。

(了)




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はじめに…
 ラグビーワールドカップ2019日本大会まで、あと1か月を切りました。

 まず、はじめに……。当ブログの趣旨は、ラグビーフットボールというスポーツそのもの、また日本におけるラグビーフットボールそのものを貶めるものではありません。

 かつて、Jリーグ以前、1970年代初めから1990年前後にかけて、国内スポーツシーンにおける人気や日本代表の国際的な活躍の度合いについて、ラグビーがサッカーを上回っていた時代がありました。

日本ラグビー激闘史 2010年 12/8号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2010-11-24


 サッカーとラグビーは、同じ「フットボール」を祖としています。しかし、片や、サッカーはいち早いプロフェッショナル化やワールドカップ(世界選手権)の創設。こなた、ラグビーは従前のアマチュアリズムの維持や選手権制度の原理的否定(対抗戦思想)……と、大きく思想を異にしていました。

 その当時、一部の心ないラグビー関係者が、ラグビーへの歪んだ愛情のあまり、時流に乗じて、自身たちとスポーツの在り方に関する考え方が違うサッカーに対し、悪口雑言罵詈讒謗を放つことが間々ありました(逆の例もありましたが)。


 今回のエントリーの目的は、こうした言説の一部をインターネット上に保存し、後学のための覚書とすることです。その意図を斟酌(しんしゃく)の上で、ご笑覧いただけると、幸甚であります。

ラグビー宿沢ジャパン,スコットランドを破る!
 1989年5月28日、サッカー日本代表はジャカルタでインドネシア代表とイタリアW杯アジア1次予選の試合を行い、引き分けている。スコアは0対0。2019年の今、アウェーとはいえ、この相手にこんな試合をしたら大問題になる。監督解任論ぐらいは出るだろう。

 ただし、この試合、当時の日本ではサッカーファンを除いて、ほとんど無視された。

 同日、日本中の注目を集めた日本代表はラグビーフットボールの方だった。宿沢広朗(しゅくざわ・ひろあき)監督、平尾誠二(ひらお・せいじ)主将率いるジャパン(ラグビー日本代表)が、東京・秩父宮ラグビー場でスコットランド代表を28対24で破ったのである(ただし正規のフル代表ではなかったらしいが)。

 (それでも)ラグビーの世界トップ8の一角に初めて勝利したのである。NHKも午後7時のニュースで特報した。ちょうど、2015年のラグビーW杯でジャパンが世界トップ3の南アフリカ代表スプリングボクス(こちらは正真正銘のフル代表)に勝った時のような、ちょうどあんな感じである。国民レベルでラグビーの話題で湧きかえった。

日本ラグビー激闘史 2011年 2/9号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2011-01-26


 サッカーファンは、国内人気ばかりでなく、日本代表の活躍・実績でもラグビーに差を付けられたのか……と、少なからず複雑な心境になった。

中尾亘孝、ラグビー論壇に登場す
 そんな世上に、宿沢ジャパンの衝撃的な登場に合わせるかのように、デビュー作『おいしいラグビーのいただきかた』をひっさげて、ラグビー論壇に颯爽と登場したのが、中尾亘孝(なかお・のぶたか)だった。
ラグビーシーズン到来!

関係者が蒼ざめる最初にして最後の本

オキテ破りのラグビー観戦術〔マニュアル〕

中尾亘孝『おいしいラグビーのいただきかた』表紙の帯より


中尾 亘孝
徳間書店
1989-11


 そのキャッチフレーズからして、なかなか挑発的であるが、同書の「まえがき」を読むと、同時代のラグビーファン・関係者の感慨と日本ラグビーの状況が読み取れる。
まえがき
 のっけからあとがきの話をするのも変なのですが、この本〔『おいしいラグビーのいただきかた』〕の出版が決まった時〔1988年頃か〕ぼく〔中尾亘孝〕の考えたあとがきというのが、「いつの日か日本代表がIB加盟国〔ラグビーの世界トップ8の代表チーム〕を倒す時、ぼくは同じ空間と時間を共有し歴史的瞬間に立ち会う感動を味わいたい」というようなものでした。

 ところが1989年5月28日、早くもその夢が実現してしまったのです。日本代表はスコットランド代表に勝ってしまったのです。ほんとに勝ってしまった。もちろんぼくはその日秩父宮ラグビー場にいました。歴史的瞬間、明らかに決定的と言える一瞬に立ち会えて、しかもその意義が認識できているという幸福、不覚にも涙を流しそうになりました。〔中略〕(太字は原文では傍点)

 さて。

 とどまるところをしらないラグビー・ブームです。まったく行く末が思いやられるほどです。〔以下略〕

中尾亘孝『おいしいラグビーのいただきかた』6~7頁


中尾亘孝(プロフィール付き)
【中尾亘孝】
 とにかく当時、サッカーはラグビーにいろいろ差を付けられちゃったわけである。

新鮮なラグビー評論と醜悪な反サッカー言説の混在
 ラグビージャーナリズムの世界はかなり保守的で、ラグビー界本体はさらに保守的で頑迷固陋なので、中尾亘孝のラグビー評論の登場は、新鮮かつ刺激的であった。本人もそのことを充分に意識している。
あとがき
 ここ十年、'80年代になってからスポーツ文化史に残るような新しい試み、著作が各分野で相次いで刊行されました。

 プロ野球では野村克也氏の解説を嚆矢に、草野進〔蓮實重彦〕、玉木正之、平出隆の諸氏のエッセイが光っています。プロレスでも村松友視氏のエッセイが火付け役となって、新しいジャーナリズムの動きを作り、プロレス自体の在り方までに影響を及ぼすに至っています。競馬はもともと多士済々な作家、ジャーナリストの……〔中略〕

 ラグビーにもそろそろこういった著作があってもいいじゃないかと思っていました。しかし、自分〔中尾亘孝〕でそれを書こうとは〔…〕夢にも思いませんでした。〔以下略〕

中尾亘孝『おいしいラグビーのいただきかた』230~231頁
 1980年代の玉木正之氏の野球評論が面白かったことは間違いない(しかし1990年代以降は完全に駄目になった)。草野進〔蓮實重彦〕は衒学趣味と俗物主義である。それよりはずっとましだが平出隆氏は少々キザったらしいロマン主義がある。

 一方で鼻につくのが、中尾亘孝の反サッカー主義的な言動である。

 例えば……。当時のラグビーは抑制的かつ禁欲的で得点しても選手は喜んだりしなかった。それを誇って、サッカーの得点後のゴールセレブレーション(ゴールパフォーマンス,得点の喜び)は醜悪であるとか(同書19頁)。

 あるいは……。サッカーのスライディングタックルは芝生を傷めるから、ラグビーはサッカーとピッチを共用する必要はないだとか(同書201頁)。

 これらはほんの一部であるが、中尾亘孝の反サッカー思想・反サッカー言説のニュアンスのイヤラシサは、間接的な紹介では伝えきれない。やはりその実物を読むに限る。物好きなサッカーファン、ラグビーファンは『おいしいラグビーのいただきかた』や『15人のハーフ・バックス』などを読んでみるとよい。

 中尾が「間違っていた」のは、ラグビーも1995年アマチュアリズム(国際ラグビー評議会のアマチュア規定)を止めたら、素直に「得点の喜び」を表すようになったことでも分かる(下記リンク先参照)。

 芝生を傷める云々の話ならば、ラグビーでスクラムを組んでいる時も同様である。お互い様である。明治時代から一度として競技人口でサッカーを上回ったことのないラグビーが、必要なスタジアムやピッチを確保するために戦略的パートナーシップを結べそうなサッカーを、わざわざ敵に回す言動をとる……というのが、この時代の世上であった。

 2019年ラグビーW杯日本大会で、巨大なサッカー専用スタジアム「埼玉スタジアム2002」を使用できなかったのは、ラグビーに貸すとスクラムで芝生を傷めるからだと言われた。そしてそれは、昔、ラグビー関係者にいろいろ嫌なことを言われたり、やられたりしたことへのサッカー側の意趣返しである……などという無責任な「噂」まで流れている。

「ラグビー本流/サッカー傍流」論争を仕掛ける
 中尾亘孝の反サッカー主義の最たるものが、「サッカーから枝分かれしたラグビー」という世間一般のイメージを逆転させた、ラグビーこそが英国前近代のフットボールの正統なる継承者であり、サッカーはその矮小な傍流にすぎないとするフットボール正閏(せいじゅん)論「ラグビー本流/サッカー傍流」説である。

 中尾は、『おいしいラグビーのいただきかた』のまるまる一章を、この説の「論証」に費やしている。

 この件は、前回のエントリーで詳述したので、そちらを参照されたい。
前回のエントリー
▼ラグビー狂会=中尾亘孝の反サッカー言説~サッカーこそラグビーの傍流にすぎない!?(2019年08月20日)

 自称「日本ラグビー狂会」で反サッカー主義者の中尾亘孝(なかお・のぶたか)が主張する「ラグビーこそが,前近代英国フットボールの正統な後継者であり,サッカーはその矮小な傍流にすぎない」という仮説が、どこまで妥当なのか検証してみた。
 老舗和菓子の元祖・本家争いのような、唯一の正統なるフットボールとは何かを標榜する中尾亘孝の政治的アジテーションこそ意味がない。

中尾亘孝は村松友視氏のプロレス評論から何を学んだのか?
 先の引用文にあるように、中尾亘孝は、『私、プロレスの味方』などの村松友視氏のプロレス評論に影響を受けたという。

 村松氏は、自身をドン・キホーテのような存在と位置付け、プロレスをクローズアップさせ、その価値を言いつのったとしている(村松友視『アリと猪木のものがたり』より)。

アリと猪木のものがたり
村松 友視
河出書房新社
2017-11-20


 しかし、村松氏は、ボクシングや柔道といった他の格闘技、野球やサッカーといった他のスポーツを殊更に貶めたり、そのファンを不快がらせるようなことは書かない。

 一方、中尾亘孝は、他の球技なかんずくサッカーのような兄弟フットボール、あるいは同じラグビーであっても、関東学院大学や帝京大学のような新興大学といった「中尾亘孝自身の論理の外にある存在」を著しく不快がらせる、異様な言説を繰り返し発信してきた。

 この不徳さは、皮肉を込めて、ある種の「天才」と言ってもいい。

 中尾は、1990年代初め、本邦スポーツジャーナリズム界の一大権威、文春ナンバーのラグビーシーズン総括評論を書く機会をたびたび与えられていた。つまり、中尾もまたラグビージャーナリズムのオーソリティーでもあった。日本サッカー狂会の真似をして「日本ラグビー狂会」を名乗ったのもこの頃である。

 このことは、かえってラグビーの価値を大きく歪めることにもなった。

 ラグビーファンや関係者は、不遜で、サッカーをはじめとする他のスポーツ、あるいは同じラグビーでも新興勢力を見下している……。

 ……こんなイメージを人々に刷り込ませた中尾亘孝の罪は重い。

つづく



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内野席のネットの有無~日・米間の野球の違い
 日本の野球ジャーナリズムでは、発祥国たるアメリカ合衆国(米国)の野球、なかんずく大リーグ(メジャーリーグ,MLB)の流儀と何か異なっていると、それがスポーツとして、スポーツ文化として、犯罪的に間違っていることとして否定的な評価が下される。

 例えば、日本の野球場(球場)に設けられた内野スタンド(席)の観客防護用の「ネット」(網)での有無である。国の如何を問わず、公認野球規則上、本塁(ホームベース)の裏には「バックネット」(バックストップ)を設置が義務付けられている。しかし、一塁ベースまたは三塁ベースに近い内野席にはネットの設置は義務付けられていない。

 よく知られるように、米国の野球場の内野席には総じてネットがない。またファウルゾーンが狭い(下の写真参照)。

オラクルパーク野球場(アメリカ,サンフランシスコ)
【アメリカのオラクルパーク野球場(サンフランシスコ)】

 これは、観客の臨場感をより優先しているためと言われる。

 大リーグは長年、球場の内野席に防護ネットを設置しないことを〈伝統〉としてきた。選手と観客の間に境目(ネット)を設けないことは、ファンサービス精神の表れであるとされていた。

 一方、日本の野球場の内野席にはたいていネットが設けてある。また米国と比べてファウルゾーンが広めに設定されてある(下の写真参照)。

明治神宮野球場(日本,東京)
【日本の明治神宮野球場(東京)】

 これは、内野席に飛んでくるファウルボールの打球や折れたバットの破片などから、観客を守ることを優先しているためと言われている。

内野席のネットが大嫌いな玉木正之氏の言い分
 この、日本の野球場における内野席のネット設置の慣習を、アメリカ野球、大リーグの流儀を唯一絶対の判断基準として繰り返し断罪してきたのが、スポーツライターの玉木正之氏である。その玉木氏の批判の中から、最も本音に近く、かつ先鋭的と思われる1990年刊の新潮文庫『プロ野球大事典』から引用する。
ネット【net】
  1.  かつては、ファウル・ボールから観客を守るためのものだったが、現在では、観客から選手を守るために目的が変わった邪魔者
  2.  アメリカ大リーグのように、これをなくすれば、日本の観客も、もっとプレイに注目し、野球を楽しむようになるに違いない。それは危険だ……などというひとは、遊びにはつねに危険が付き物であるということが理解できないひとか、あるいは保安係の人件費をケチっている経営者である。ケガをしたらどうするんだ……などと心配する人は球場に来なければいい。そんなことでは観客に対して責任が持てない……と経営者がいうなら、ファウル・ボールに対して責任を負いませんと切符に書いておくだけで充分だ。バックネット以外にネットのない球場で、グラヴを持って野球を見に行きたいと切望しているのは筆者〔玉木正之氏〕だけか。
  3.  ネット(金網)は絶対に取り外せないというなら、引き分けなど廃止して金網デスマッチにしてほしい。
  4.  所沢西武球場をつくるとき、西武グループの総帥〔そうすい〕といわれる堤義明は、「バックネットがあるとゲームが見にくいから,なくせないものか」といったという。こういう堤オーナーの考え方は、常識破りのユニークな発想と称賛されているが、じっさいにバックネットを強化ガラスや強化プラスチックにした球場は存在した(サンフランシスコのシールズ・スタジアムやシンシナティのクロスレー・フィールド.しかし,汚れが目立って,いまは採用されていないらしい)。誰の考えることもそう大差はなく、「すごい発想だ!」などと誉めそやすひとの勉強不足(またはゴマスリ)である場合がほとんどなのだ。
玉木正之『プロ野球大事典』(新潮文庫)435~436頁



 野球と違って、世界各国の「お国柄」の違いには寛容なサッカーの在り方が、日本の人々に知れわたる前の1990年ごろのことであるから、玉木正之氏は、アメリカ大リーグを出汁(だし)にして、思う存分、日本の野球を罵倒している。

 例えば、内野席のネットを「観客から選手を守るために目的が変わった邪魔者」とか、「アメリカ大リーグのように,これをなくすれば,日本の観客も,もっとプレイに注目し,野球を楽しむようになるに違いない」とか論じるあたりは、日本野球の風潮で、もうひとつ玉木氏が大嫌いな存在である「応援団」に対する、玉木氏の当てこすりである。

▼アメリカ民謡『テキサス・ファイト』に日本の「応援団」文化の原点を感じた(2019年08月04日)

▼日本野球の「応援団」のルーツはアメリカの大学フットボールにあった!?(2019年05月02日)

 アメリカ大リーグが大好きな人たちは、大リーグの観客は、試合も見ずに歌い踊っているだけ(?)の日本野球の「応援団」などとは違って、試合に集中しており、またグラブを持参しているので、「危険」は少ない……と主張していたと言われている。

 また「遊びにはつねに危険が付き物である」というくだりは、ファクトやエビデンスよりもロマンチシズムを重んじる、玉木氏のスポーツライターとしての過剰なまでの思い入れを表している。

「ケガが怖いならメジャーの野球場には来るな」とは言えない時代
 ところが、ここ最近になって、大リーグの試合でもファウルボールの痛烈な打球が観客に当たり、重傷を負った。しかも、被害者の中には小さな子供がいた……という痛ましい事故が頻発している。

▼菊地慶剛「MLB球場にも防護ネットは必要なのか?」(2017/9/21)

 「ケガをしたらどうするんだ……などと心配する人は球場に来なければいい」……、いやいや玉木センセイ。もうそんな悠長なことを言っていられる時代ではないのですよ。

 野球という競技全体でパワーとスピードが向上していて、観客席に飛んでいくファウルの打球とて例外ではない。昔と違って危険度も高くなっている。その分、内野席の観客も自身の感覚だけで身を守ることが難しくなっている。

 それから、米国においても野球人気が下がっていると言われる。大リーグも、もはや〈伝統〉に拘泥している場合ではない。

 過(あやま)ちては改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ……。

〈伝統〉ゆえのためらい~メジャー各球場の内野席ネットの設置
 ……2019年に入って、大リーグの球場の内野席にも観客防御用のネットを設置する例が出てきた。

▼ホワイトソックスの本拠地が内野席全体に防御ネットを設置 メジャーでは初めて[2019年7月23日]

ホワイトソックス本拠内野全席にネット設置 観客安全のため[2019年7月24日]

 報道では、大リーグ各球団は内野席にネットを設置する方向に動きつつあり、「MLB側は面目なし!?」とまである。

▼MLB側は面目なし!? 各球場が次々と防護ネットを張る[2019年7月28日]

 むろん、この件に関して日本が正しかった、米国が間違っていた……という強弁したいわけではない。しかし、アメリカ大リーグは常に正しく、大リーグは常に正しいのだから決して間違っていない……という風潮は、再考するべきではないかという意味である。

 一方、コミッショナーを筆頭とする大リーグ当局は、全球場の内野席にネットを設けることには消極的なようだ。

 この辺りは、理屈では悪いと分かっていても、なかなか変えられない。本の高校野球に似て〈伝統〉の持つ縛る力、悪い側面を感じる。

 大切なのは、観客の安全と健康である。内野席に安全用のネットを付けたくらいで、野球自体がつまらなくなることはないはずだが。

(了)



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国ごとの文化の違い=多様性に寛容な「サッカー」と非寛容な「野球」
 サッカーのワールドカップなどで、ナイジェリア、カメルーン、セネガル、コートジボワール……といった、ブラックアフリカまたはサブサハラアフリカの国々のサポーターの応援・観戦のやり方を見聞きしていると、日本はむろん、ヨーロッパとも、ラテンアメリカとも違う、独特の、かなり耳慣れないリズムである。

 しかし、それがこれらの国々の人々のやり方=文化なのであって、自分たちのやり方と違うから、あるいはヨーロッパやラテンアメリカのやり方と違うからおかしい……と非難するのは、非常に失礼なことである。むしろ、世界の国や民族のさまざまな文化の違い=多様性に寛容なのが、サッカーの素晴らしいところであり、グローバルスポーツたる所以(ゆえん)である。

 ところが「野球」(ベースボール)というスポーツは、そうはならない。

 日本の野球ジャーナリズムでは、発祥国たるアメリカ合衆国(米国)の野球、すなわち大リーグ(メジャーリーグ,MLB)の流儀と何か異なっていると、それがスポーツとして、スポーツ文化として、犯罪的に間違っていることとして否定的な評価が下される。

スポーツ文化として犯罪的に間違っている(?)日本野球の「応援団」
 例えば、日本のスポーツの、なかんずく日本野球の「応援団」についてである。よく知られるように、米国の野球に「応援団」は見られないが、日本の野球……大学野球、高校野球、社会人野球、プロ野球には「応援団」の存在が特徴的である。

 この「応援団」、特にプロ野球(NPB)の「応援団」を、アメリカのプロ野球リーグである大リーグの流儀を唯一絶対の判断基準として繰り返し断罪してきたのが、スポーツライターの玉木正之氏である。その玉木氏の「応援団」批判の中から、最も本音に近く、かつ先鋭的と思われる1990年刊の新潮文庫『プロ野球大事典』から引用する。
おうえんだん【応援団】
  1.  野球を見るよりも、グラウンドに背を向けてドンチャン騒ぎをするほうが好きな観客たちが集まってつくった集団。
  2.  自分では何もできないくせに、何かをできる人物たちに声援を贈ることによって、彼らが何かをできるようになった、思い込むことができる幸運な連中が集まってつくった集団。
  3.  その発祥は、明治時代にスポーツをすすんで取り入れた大学と旧制高校であり、早慶戦の野球や隅田〔すみだ〕川レガッタといった試合が人気を集めはじめるとほぼ同時に、応援団の歴史は日本のスポーツの歴史と歩みをともにしている。
  4.  それは、スポーツを「やる人」と「見る人」が完全に分離した後の近代スポーツが分離していないスポーツの歴史、飛び入り自由の時代のスポーツの歴史が欠落しているため、「見る人」が専門化してしまったもだ。しかも応援団には、所詮〔しょせん〕主流(スポーツをやる人)ではなく、傍流(スポーツをやらない人)であるというコンプレックスだけは存在し、そのため、バンカラ、はぐれ者、あるいはヤクザといった、社会の傍流としての存在と似通った体質を持つまでになる傾向が生じた、といえるようにも思われる。*
玉木正之『プロ野球大事典』(新潮文庫)92頁


 悪し様な、まったく悪し様な表現の連発は、読んでいてかえってウンザリさせられる。玉木正之氏は、ただただ「応援団」が嫌いなのである。今、玉木氏が、NPBの「応援団」やJリーグのサポーターに向けて、ネット上で特に「2.」のような明白な嫌悪を著(あらわ)したら炎上必至である。

 引用文中のスポーツを「やる人/見る人」云々のくだりは、『オフサイドはなぜ反則か』で知られるスポーツ社会学者・中村敏雄氏(なかむら・としお,故人)の『メンバーチェンジの思想』を参考にしたとの由(よし)である(遺憾ながら,当ブログは未読)。

 玉木氏が、ここまで断定的にNPBの「応援団」を非難できるのは、何より、アメリカ大リーグの流儀とはハッキリ違うからである。大リーグは常に正しく、大リーグは常に正しいのだから決して間違っていない……という思考である。

日本野球の「応援団」は悪なのか?
 アメリカ大リーグ目線による日本野球の「応援団」文化への否定について、米国イェール大学教授(社会人類学,日本研究)で『虎とバット~阪神タイガースの社会人類学』の著者ウィリアム・W・ケリー氏は次のようにまとめている。
 こうした派手で熱狂的な〔NPBの〕ファンの解釈について、〔ロバート・ホワイティング氏のような〕アメリカの記者や訪日客は、……ある種の定型にはめて考えてきた。観光客はただそのスタイルを楽しみ、一方で〔玉木正之氏のような〕専門家は、ノンストップで騒ぎ続ける彼ら〔応援団〕のせいで〔アメリカ大リーグのように〕野球を〈正しく〉楽しめないと愕然とした。そして両者ともに、やはり日本人は集団に溶け込み、狂信的と言えるレベルにまで指示に従わないと安心できないたち〔国民性〕なのだとよく口にした。〔朱太字部分は原文では傍点付き〕

ウィリアム・W・ケリー『虎とバット~阪神タイガースの社会人類学』159頁


虎とバット 阪神タイガースの社会人類学
ウィリアム・W・ケリー
ダイヤモンド社
2019-06-20


 ケリー教授という人は、日本野球の解釈に関して「論敵」に当たるロバート・ホワイティング氏(日本在住の米国人ジャーナリスト,著書に『菊とバット』『和をもって日本となす』ほか)が「日本異質論」のリビジョニストだとすると、いわば「知日派」的なスタンスの人である。



 しかし、……と、ケリー教授は続ける。「ところがスタンドにじっくり腰を下ろして〔応援団が繰り出す〕応援に耳を傾け、〔阪神タイガースの〕ファンの話を聞くと、もっと複雑なタイガースファンの在り方が見えてきた」(同書159頁)。とにかく、「応援団」の観戦様式の実態は違う。
 それは(欧州サッカーのような)バリエーションと調和を兼ね備えた応援で、一本調子の退屈なものではなかった。打者から打者、イニングからイニングへと応援歌がスムーズに切り替わる流れが、試合終了まで続いた。確かに歌詞はありきたりで、選手を英雄視する言葉に凡庸〔ぼんよう〕な激励の文句を組み合わせたものだ。洗練性と独自性はあるが絶賛はしたくない。それでも、〔甲子園球場の〕ライトスタンド応援の意図や効果を無個性で退屈な文化だと断じるのは明らかな間違いだ。

ウィリアム・W・ケリー『虎とバット~阪神タイガースの社会人類学』160頁
 ひょっとしたら、ケリー教授も米国人であるから、日本野球の観戦スタイルに違和感があるのかもしれない。しかし、ここに描かれた世界こそ、英国の動物学者デズモンド・モリスが『サッカー人間学』(原題:The Soccer Tribe)で描き出した「サッカー部族の随行者」(サポーター)の姿に類似したものである。

サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02


 ヨーロッパやラテンアメリカのサッカーのサポーターもまた、「自分では何もできないくせに,何かをできる人物たちに声援を贈ることによって,彼らが何かをできるようになった,思い込むことができる幸運な連中」ではないのか。

 日本野球の、少なくともNPBの「応援団」の生態はサッカーのサポーターに近い。アメリカ大リーグの観客とは違う。

 そう言えば、サッカージャーナリストの後藤健生氏は「サッカーのサポーターや観客と比べたら,野球をはじめとするアメリカのメジャースポーツの観戦は,日本の小学校の運動会の見物みたいなもの」などと『サッカーの世紀』に書いていた。

サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07


 その辺りを認めたくない、あくまで日本野球の独自の文化を悪習として断罪したいから、玉木氏はモリスの『サッカー人間学』が嫌いなのである。

日本の「応援団」文化はアメリカ起源
 ところで、玉木正之氏も、玉木氏と関係の深いロバート・ホワイティング氏も、日本の野球やスポーツ界の「応援団」の出現が、明治時代の大学・旧制高校であることは知っている。しかし、その起源については調べがついていないようだ。

 玉木正之氏、ひょっとしたら、先に引用したように「近代以前のスポーツ史が欠落した,日本のスポーツの観客のコンプレックス(嫉妬と書くこともある)が,〈応援団〉を発生させた」とでも、本気で思っているのだろうか(いかにも,実証やエビデンスを軽んじる玉木氏らしい「仮説」であるが)。

 あるいは、玉木氏、ホワイティング氏ともども、日本野球の「応援団」=日本的集団主義の表れだと無邪気に信じているのだろうか。

 それはともかく、先のケリー教授は興味深い説を紹介している。
 ……〔日本の〕野球の応援の原点は……、スポーツそのものと同じく海外に由来する。二〇世紀初頭、早稲田大学と慶應大学の野球部がアメリカに遠征し、そこで現地の大学の(特にアメフトの)応援に感銘を受け、使っているパターンや道具を詳細に書き留め、帰国後に自分たちの応援に採り入れた。やがて応援団は一つの部活動として独立し、激しくも規律正しい応援を通じて愛校心を示す伝統は、日本の高校や大学に広く受け継がれている。

ウィリアム・W・ケリー『虎とバット~阪神タイガースの社会人類学』162頁
 野球ではないが、日本野球の「応援団」のルーツは米国の大学フットボールにあったという話は、玉木正之氏やロバート・ホワイティング氏にとっては「不都合な真実」かもしれない。

マードックの入場曲『テキサス・ファイト』を聴いて納得する
 ケリー教授の説がおそらく正しいのだろう……と感じたのは、『ザ・プロレスリング完全版~日本プロレス激闘60年史』というCDを聴いた時だった。これは、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、アブドーラ・ザ・ブッチャー、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ……といった、往年の名プロレスラーの入場曲を集めたアルバムである。

ザ・プロレスリング完全版~日本プロレス激闘60年史
インストゥルメンタル
ビクターエンタテインメント
2012-12-19


 その中に、ディック・マードック(Dick Murdoch,故人)の曲も収録されていた。


 その入場曲は、アメリカ民謡で、テキサス大学アメリカンフットボール部「ロングホーンズ」の応援歌という触れ込みの『テキサス・ファイト』という曲だった。

 なるほど、これを聴いたら、日本野球の「応援団」文化は、米国の大学フットボールの影響にあるというのが、非常によく分かるのである。


【theme dick murdoch】


【TEXAS FIGHT University of Texas Fight Song2】


【Texas Longhorns Fight Song (The Eyes of Texas/Texas Fight)】


【University of Texas Longhorns Fight Song】


【ディック・マードック入場テーマ曲「テキサスファイト」MonkeyFlipLIVE2016】

 軽快な曲の間奏部分でエールの掛け声が入るのも、日本の野球の応援で言う「チャンステーマ」や「ヒッティングマーチ」とよく似ている。

 ちなみに日本では、『テキサス・ファイト』は、NPBの西武ライオンズや社会人野球の西濃運輸の応援に使われている。

 また、スタンドが一体となった米国各大学のアメフトの応援は、日本野球の応援によく似ている。特に東京六大学野球リーグの、なかんずく早慶戦の応援・観戦文化は、たしかにアメリカ起源なのだろうと思わせる。


【Top 20 College Football Traditions/Chants】


【Top 10 College Fight Songs】

 米国のアメフトの応援を、日本の野球に移植して、何か悪いのか分からない。**

 それでも日本野球の「応援団」文化は、スポーツとして、スポーツ文化として間違っているとして、玉木正之氏はこれを断罪し続けるのだろうか?

世界に紹介された日本の「応援団」
 日本の「応援団」は野球のみならず、サッカーや駅伝など他のスポーツにも派生している。かなり古くなるが、先述の高校サッカーの「応援団」の姿が、先のデズモンド・モリスの『サッカー人間学』に掲載されている(見開きの「のど」にかかって見難いので,クリック→拡大してご覧ください)。

高校サッカーの学ラン応援団「サッカー人間学」88~89頁
【デズモンド・モリス『サッカー人間学』88~89頁より】

 モリス博士は、日本のスポーツ文化にある種の先入観がないのが面白い。玉木正之氏があれほど忌み嫌った日本の「応援団」を、著書を通じて
世界に紹介したのである。

The Soccer Tribe
Desmond Morris
Rizzoli Universe Promotional Books
2019-03-26


 だから、玉木氏はモリスの『サッカー人間学』が嫌いなのである。

(了)



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