スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:決定力不足

男女日本代表敗退で再び火が付いた自虐的日本サッカー観
 1年前の今頃、2018年6月は……。サッカー日本代表はロシアW杯で惨敗するだろう。そして、またぞろネット世論を含めたサッカー論壇は、自虐的な日本サッカー観(日本人論・日本文化論から見たネガティブな日本サッカー観)で溢(あふ)れかえるだろう……などと、すっかり悲観的になり、喚(わめ)きたてていた。


 ところが、西野ジャパンは下馬評を覆(くつがえ)して1次リーグを突破した。本当に恥ずかしい。

 2018年ロシアW杯では、日本代表が一定の成果を収めたために、奇妙キテレツで自虐的な「サッカー日本人論」の類は、あまり流行(はや)らかなったように思われる(もっとも,NHKのドキュメンタリー番組「ロストフの14秒」での,イビチャ・オシム氏の首を傾げたくなるような発言はあったけれども)。


 しかし……。

 2019年6月になって、日本女子代表「なでしこジャパン」がフランス女子W杯のベスト16で敗退、男子日本代表がコパアメリカ(南米選手権)の1次リーグで敗退(さらに20歳以下の男子日本代表が,U20ワールドカップのベスト16で敗退)……という、各カテゴリーの日本代表が「不完全燃焼」で終わる事態が続き、前年は不発だった「火薬」=自虐的な日本サッカー観が、サッカー論壇で「再着火」している気配がある。

「決定力不足」という「日本人」の病!?
 男女の日本代表とも、共通の課題があるとされていて、例えば「決定力不足」である。


 宇都宮徹壱氏は次のように語る。
 もっとも、決定力不足に関しての森保一監督の認識は……決して森保監督のオリジナルではなく、最後の外国人指揮官である〔「現時点で最後」と書くべきでは?〕ヴァイッド・ハリルホジッチ監督も、繰り返し述べてきたことだ。


 さらにさかのぼればジーコ監督時代の15年くらい前にも、日本の「決定力不足」は盛んに指摘されていた。今となっては信じられないだろうが、〔2006年〕W杯ドイツ大会に出場していた時にも、試合前に繰り返しシュート練習が行われていたのである(結局、この大会で日本は2ゴールしか記録していない)。このように「決定力不足」は、日本代表にとって根深い歴史的な課題であり、そこだけをクローズアップしてしまうと問題の本質を見失う危険性をはらんでいる。

 宇都宮徹壱氏が「〈決定力不足〉は,日本代表にとって根深い歴史的な課題」と言っているのは、単純に昔からそうだという意味ではなく、文脈上、一朝一夕に変えようがない日本(人)の国民性や文化といった次元で「根深い歴史的な課題」という意味である。これは「サッカー日本人論」である。どうしても宇都宮徹壱氏は、日本人論・日本文化論の「まなざし」で日本サッカーを見てしまう傾向がある。

 だから、あのジーコの名前とエピソードも登場する。ジーコは、その経歴を見る限り、特別優秀なサッカーの監督・コーチとは言えない。けれども、日本人の自虐的な日本サッカー観を大いにくすぐる人なのである。宇都宮徹壱氏や西部謙司氏は、熱烈なジーコ信奉者のそぶりは見せないが、しかし、どうしてもジーコを見限れないという人でもある。



 そんな折も折、ジーコが来日して、昨今の日本サッカーの決定力不足を嘆き、「これを改善しない限り,日本のサッカーは2020年の東京オリンピックでもよい結果を残せないだろう」とか何とか、また宣(のたま)ったのだという。*


 アンタにだけは言われたくはないわ……というサッカーファンもいると同時に、ジーコの発言に過剰反応する幼気(いたいけ)なサッカーファンもいる。


 ジーコ発言にこうした反応を見せることで、自身のサッカー観の賢しらを誇示する。その発言が日本人論がかっている。これこそ「自虐的サッカー観」である。こういう人たちに対しては、やはり、藤島大氏の「ジーコのせいだ」をあらためて援用せざるを得ない。


 2006年のドイツW杯の期間中、にジーコ監督が日本人の選手たちにシュート練習をさせていたことは、むしろ、ジーコの監督能力を疑わせるエピソードである。本来、いわゆる「日本サッカーの決定力不足」とは別問題なのに、いっしょくたにしてしまっている宇都宮徹壱氏などを見ていると、やはりジーコ・ジャパンとは日本のサッカー評論、サッカー観のリトマス試験紙なのだと感じてしまう。

「脳科学」的に「日本人」監督の采配能力は著しく劣っている!?
 もうひとつの共通の課題は監督の采配、より具体的には「監督の消極的な交代策」である。男女のサッカー日本代表(森保一氏,高倉麻子氏)とも、例えば、選手の交代が遅い、1試合の交代枠(3人)を余らせてしまう、選手を交代させても試合の流れを積極的に変えるものではない……等々の理由で、勝てる試合を失い、日本代表は早々と敗退したというものである。

 この件について、何か面白いネタがネット上にあるかもしれないと思って検索をしていたら、とても興味深いツイートが釣れた。「日本人」の監督は脳科学的(!)に、そして統計的(!)に能力が劣っていることが明らか(!)なのだという。


 しかし、ここでいう「脳科学」とは、誰の、どういう研究・学説なのだろうか? どうせ中野信子みたいな俗流なんじゃないのか……とか、「日本人」と他の人類を分ける(自然科学的な?)定義ってあるのだろうか……とか、その「日本人の脳」をどうやって分析したのか……とか、いろいろツッコミたくなるところではある。

 こうした「脳科学」による日本サッカーの「分析」には、デジャブ(既視感)がある。日本代表が「惨敗」した2014年ブラジルW杯の3か月後、テレビ東京系のサッカー番組「FOOT×BRAIN」が(疑似科学だと批判されている)脳科学者・中野信子を出演させてしまったことがある。
FOOT×BRAIN「目からウロコ!脳科学から見るサッカー上達法!」
2014年9月27日

中野信子_サッカー_フットブレイン1

中野信子_サッカー_フットブレイン2

中野信子_サッカー_フットブレイン3


 くだんのツイートは、中野信子をゲストに迎えた時の「FOOT×BRAIN」を思い出させる。一方、中野信子のような「脳科学者」にはいろいろと疑義が提出されている。

 「日本人がサッカーで弱いのは科学的にも証明されている」という話。要は、日本サッカーが「世界」で負けると頻出する疑似科学的日本人論の一種である。

いよいよ「なでしこジャパン」言説まで日本人論化するのか?
 またまた、話はサッカー日本代表が「惨敗」した2014年のブラジルW杯になる。

 小説家で、サッカー関連の著作もある星野智幸氏が「日本のサッカーのうち,男子日本代表は〈日本的〉であるがゆえに愚劣だが(ただし本田圭佑のような〈日本人離れ〉したキャラクターを除く),女子日本代表〈なでしこジャパン〉は誇るべきものである」といった意味合いの、自虐的日本サッカー観に満ちたエッセイを書いていた(星野智幸「ガーラの祭典」@『エンタクシー』42号掲載,下記リンク先参照)。

 つまり、サッカー女子日本代表「なでしこジャパン」は、自虐的な日本サッカー観やサッカー日本人論の「枠の外」に置かれてきた。しかし、2019年フランス女子W杯の意外に早い敗退を受けて、またその評価を受けて、いよいよ日本女子サッカー&なでしこジャパン言説も、いよいよそうした風潮に呑み込まれてしまったかのような反応が散見される。

 現時点(2019年6月)の時点では、それはハッキリとは見極めがつかない。「要経過観察」といったところか。そのように「発症」してしまったと確信できたら、あらためて論考したい。

 いずれにせよ、こういう思考や精神は、日本サッカーの批評にも創造にもつながらない。

(了)



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「サイモン・クーパーの誤算(前編)~続・外国人監督の日本人論をありがたがる日本サッカーの悪癖」よりつづく

サッカー文化なんか数か月で変えられる?
 サイモン・クーパーとステファン・シマンスキーが著したサッカー本『「ジャパン」はなぜ負けるのか』(2010年,森田浩之訳,原題:英国版Why England Lose,米国版Soccernomics)日本語版の第2章は、書名と同じ「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」。日本サッカーが国際舞台でなかなか勝てない理由を「日本人の国民性,文化」に求める風潮をデタラメだと批判する意欲的な論考である。



 この話のマクラとして、非常にわかりやすい話の入り口として「サッカーにおける日本人の決定力不足」が登場する。日本の人たちは、永久に変えようがない日本人の国民性や文化の影響下にあり、自分たちは「決定力不足」だと信じ込んでいる……。

 ……しかし、こんな議論は誤りだと、クーパーとシマンスキーは喝破する。もっとも、2人は「決定力不足」言説そのものを批判しない。その代わり、日本サッカー本来の素質(秘めた実力)を統計を使って諄々(じゅんじゅん)と諭すという方法をとる。サッカーそれ自体の実力を上げ、実績を積むことは、必然的に「決定力不足」の克服になるわけだ。

 すなわち、その国のサッカーの実力は「国の人口」「国民所得」「代表チームの経験値」という3つの要素に左右される(国民性や文化ではない)。実は、日本はこの点で非常に有望である。アメリカ合衆国,中国とならんで将来的に最も有望な国であろう。

 優れた代表選手を輩出する母体となる「国の人口」の多さ(日本:およそ1億2千万人)。「国民所得」とは早い話が強化のためのカネ=経済力である(身体能力に優れているとされるアフリカ諸国は、この点で期待薄らしい)。そして「代表チームの経験値」を積むことは国際試合,国際大会における強さにつながる。

 歴史の浅い日本サッカーにとって一番不利な点が、3番目の「代表チームの経験値」である。だが、それもまったく問題はない。世界サッカーの最先端地域である西ヨーロッパ(ドイツ,オランダ,イタリア,フランスなど)から優れた指導者(監督,コーチ)を招聘(しょうへい)し、その知識を吸収すればよいのである。

 西ヨーロッパの優れたサッカー指導者ならば、その国のサッカーを悪い意味で規制している独自の「文化」など、ほんの数か月で変えられる。事実、オランダ人のフース・ヒディンクは、上下関係の厳しい韓国、だらしないオーストラリア、卑屈で冒険心のないロシア、これら各国の代表チームを変革し、素晴らしい結果を上げてきた……。

あざやかなロジックについてまわる不安や疑問
 ……胸がすくような論理が次々と展開される。日本のサッカーファンならば、日本人ならば『「ジャパン」はなぜ負けるのか』をぜひ読むべきである。しかし。この著作の小気味の良さには、表裏一体で不安や疑問もわいてくる。

 ひとつは、日本における日本人論の存在があまりにも強固なこと。日本人は日本にやってきた外国人による日本人論の類(ロラン・バルトほか)を過剰にありがたがる風潮があり、特にスポーツは、そうした日本人論に素材を提供し続けてきた。この分野は海外との人的交流が盛んであり、かつ大衆的な文化として人々の目に触れやすいからだ。
菊とバット〔完全版〕
ロバート ホワイティング
早川書房
2005-01-01

和をもって日本となす
ロバート ホワイティング
角川書店
1990-04

 サッカーでは、総合スポーツ誌『ナンバー』が2010年12月9日号(通巻768号)で「外国人監督が語る日本サッカー論 ニッポン再考。」という、外国人のサッカー指導者の言葉を日本人論として受容する特集を出している。
外国人監督が語る日本サッカー論ニッポン再考
【ナンバー768号「外国人監督が語る日本サッカー論 ニッポン再考。」(2010年12月9日号)】

 西ヨーロッパから指導者を招聘することは、日本人論にもとづいた日本人のネガティブなサッカー観を払拭するためでもある。しかし、それは新たな「サッカー日本人論」を再生産する危うさもまた孕(はら)んでいるのだ。

 著者のクーパーとシマンスキーにとって、あるいは『「ジャパン」はなぜ負けるのか』の邦訳者にして、「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」の重要なインフォーマント(情報提供者)であった森田浩之氏のとって、このことは想定外だったのではないか。

ザッケローニジャパン,その上昇と転落
 もうひとつ。『「ジャパン」は…』では、オランダ人のヒディンク、トルコのクラブ「カラタサライ」を指導したドイツ人のユップ・デアバル、ギリシャ代表を率いた同じくドイツ人のオットー・レーハーゲルといった指導者が、赴任した国々の「文化」を変革し、サッカーチームに成果をもたらした事例が紹介されている。

 いずれも成功例である。当然、失敗だってあるのではないか。2010年~2014年こそサッカー日本代表は、まさに失敗例だったのではないか。

 2010年8月、日本サッカー協会は日本代表監督として、イタリア人コーチのアルベルト・ザッケローニ(ザック)を招聘した。クーパーとシマンスキーが推奨したサッカー最先進地域,西ヨーロッパからの、待望の、監督就任である。

 ザッケローニの日本代表(ザッケローニジャパン,またはザックジャパン)は、同年10月、親善試合で南米のサッカー超大国アルゼンチンにいきなり勝利する金星をあげる。翌年1月、アジアカップでは苦しみながら最後は劇的に勝利、優勝した。ザックジャパンは順調だった。これを受けて『「ジャパン」はなぜ負けるのか』の邦訳者,森田浩之氏は自信に満ちたツイートを発した。
 少し楽観的にすぎないかと、当ブログ(の中の人間)はかえって不安を感じてしまった。とにかく、ザックジャパンはブラジル・ワールドカップのアジア予選も無難に勝ち抜いた。しかし、この直後から日本代表の雲行きが怪しくなってくる。

 本田圭佑がまたぞろ増長し始めたことも、その理由のひとつである。チーム内に「権力の多重構造」が発生した場合、よほどの戦力がない限りそのチームは必ず負ける(参照:藤島大「ジーコのせいだ」)からだ。

 余談ながら、本田といい、中田英寿といい、マスメディアがむやみやたらに称揚する一部選手への「スターシステム」をそろそろ研究や評論の対象としていいと思うのだが。

 果たして、ザックジャパンは2014年ブラジルW杯で惨敗してしまった。こうなると世上には再び「サッカー日本人論」がはびこる。ツイッターには、その当時、文化論的で自虐的なサッカー観が蔓延(まんえん)していたこと。しかし一方で、そうした風潮に懐疑的な人たちもまた少なからずいたことを示す痕跡が残されている。





 ザックジャパンでは「サッカー日本人論」は克服されなかった。新しい「サッカー文化論」も生まれなかった。日本はやっぱり「決定力不足」だったし、日本代表は「日本人」だからこそW杯で惨敗した。日本の成績が悪かったことで、サッカーをめぐる言説は、結局、日本人論や「サッカー日本人論」の常套句を繰り返す場となったのである。

「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」はなぜ負けたのか
 ザッケローニはブラジルW杯でかなり重要な采配ミスをおかしている。あるいは、「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」で紹介されたフース・ヒディンクは、ロマーリオ(ブラジル),エドガー・ダービッツ(オランダ),安貞桓(アン・ジョンファン:韓国)という、扱いの難しい選手をよく御してチームに生かしてきた。一方のザッケローニは、本田圭佑の度の過ぎた高慢を制することができなかった。

 ザッケローニの失敗は、後学のためにももっと多面的に検証,批判されるべきである。

 ここで再び、宇都宮徹壱氏の「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。だが、私はそこに〈幸運〉を感じた」(2015年6月19日)からの引用,援用を例にとる(繰り返すが当ブログは宇都宮氏に対して何の他意もない)。
ハリルホジッチを唖然とさせた「日本固有の病」。
【「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。」より】

 宇都宮徹壱氏は、ザッケローニのことはほとんど不問にする。むしろ、ザックが「それにしても、日本人がワールドカップのピッチに立ってなお、死に物狂いで戦わないとは思わなかった」などと他人事みたいに言っていたことに対して、日本人として「ただただ当惑するよりほかにない」に慨嘆する。

 監督よりも選手である日本人の側に問題があるのだ。

 あるいは、当代日本代表監督ヴァイッド・ハリルホジッチ(在任2015‐)が、W杯予選での苦戦を受けて、「私〔ハリルホジッチ〕の長いサッカー人生で、これだけ点が入らない試合を見たの初めてだ」などと発言したのを紹介する。では、そこでハリルホジッチはどうするのかという問題になるのだが、「サッカー日本人論」の影響下にある宇都宮氏の考えはそうした方向には向かわない。

 むしろ宇都宮氏は、日本選手の、否、日本人の決定力不足の方を問題にする。

 それは「日本固有の病」にして日本人の「国民的な悪しき伝統」であり、ハリルホジッチやジーコ,イビチャ・オシムなど「歴代の外国人監督を悩ませてきた宿痾(しゅくあ)」であると、あらためて宇都宮氏は「サッカー日本人論」に思い耽る。

 とどのつまり、日本サッカー界のおいて外国人監督とは、日本人論ないし「サッカー日本人論」を払拭するのではなく、その触媒として機能する存在でしかないのだ。

 厳しい表現になるけれども、ハッキリ言えばこれは「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」を書いた側の敗北であろう。サイモン・クーパーやステファン・シマンスキー,森田浩之氏の期待は実現していない。

 もちろん今後とも、スポーツの場における日本人論や「サッカー日本人論」の批判はこれからも続けてほしい。特にクーパーとシマンスキー両氏には「決定力不足の統計学」みたいな分析を行って「日本人の決定力不足」の実態を明らかにしてほしい。

 ただ、残念ながら『「ジャパン」はなぜ負けるのか』は、それを打破する「決定力」にはならなかった。

(了)


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日本人_決定力不足

決定力不足の「なぜ」と「いかに」
 日本サッカーは「なぜ」決定力不足なのか? ……という問題意識では、それは「日本固有の病」だとか、克服することは「永遠の課題」だとか、日本人論,日本文化論のような話、「サッカー日本人論」ばかりになってしまう。
リトバルスキー「なぜ日本にストライカーが育たないのか」
【リトバルスキー「なぜ日本にストライカーが育たないのか」(聞き手:加部究)】

 これでは事の本質は分からないのではないか。そうではなくて、日本サッカーは「いかに」決定力不足なのか? どれだけ、どれほど決定力不足なのか? ……という視点での論考はないものだろうか。

 要はサッカーにおける「決定力」なるものを定義したうえで数値化,統計化し、いろいろ比べてみるのである。日本は決定力が不足しているというが、それでは他の国では決定力が充足しているのか、あるいは日本同様に不足しているのか。

 そもそも、サッカーは点(ゴール)が入りにくいスポーツと言われてきた。日本に限らず、サッカーで点が入らないときは本当に入らない……。

 ……では、サッカーそれ自体が持つ点の入りにくさ、またはサッカーにおける世界平均の点の入りやすさ/入りにくさと、あるいは他の国の「決定力」と、日本サッカー独特の点の入りにくさとの間では、一体どれだけの差があるのか? それとも、ないのか?

 サッカーにおける「決定力」の統計調査をしてみたところ、やっぱり日本サッカーは「決定力不足」でしたということになるかもしれない。
QBK直後のジーコ(左)と柳沢敦
【ジーコ(左)と柳沢敦:急に(Q)ボールが(B)来たので(K)】

 しかし、人々が何となく抱いている印象が統計学によって覆ったということが、よくある。例えば、最近、少年による凶悪犯罪が増えていると思われがちだが、統計をとると実際には一貫して減り続けていることが分かるといったことなどである。

 意外にも……。日本と他国の「決定力」を統計学的に比べたらその差は小さかった。日本サッカー固有のものと思われた「決定力不足」とは「サッカー発展途上国」のありふれた現象,悩みでしかなかった。あるいは「決定力不足」だと思われていたものは、実はサッカーそのものの点の入りにくさだった……などということがあるかもしれない。

 とにかく、サッカーにおける「決定力」とは何か? あるいは、日本サッカーの「決定力不足」とは何なのか? 統計学的に調査したものを、少なくとも当ブログは知らない。

 ためにする議論に陥りがちな「なぜ」ではなく、「いかに」という視点で迫ってこそ、「決定力不足」問題の把握と解決につながるのではないか。

「決定力」は統計化できるか?
 サッカーは、ゲーム内容や選手のプレー内容を数値化しにくい「アナログ型スポーツ」の典型とだとされていた。この点、数値化が容易な「デジタル型スポーツ」だとされ、数字で楽しめる野球やアメリカンフットボールとは対照的で趣が異なるとされている(後藤健生氏も若かりし頃、日本サッカー狂会のミニコミ誌にそのような趣旨を書いていた)。

 サッカーの中で数少ないデジタル型の局面であるペナルティキック(PK)であれば、統計学の優れた論考がたくさんある。

 しかし、やはり、インプレーからの得点(流れの中での得点)、その「決定力」についてのような統計をとるのは難しいのかな……と思っていたら、2014年W杯のテクニカルリポートに興味深いデータ分析があった。
サッカーの「決定力」ってなに?
参考:サッカーの「決定力」ってなに?(2016年7月27日)

 この論考では、ありがちな個人的なシュート技術や精神論,文化論に傾いていない。それがいい。こうした方法からデータベースを蓄積し、資料をうまく処理して、サッカーの「決定力」あるいは日本サッカーの「決定力不足」の正体に統計学から迫ってほしい……。

 ……サイモン・クーパー(サッカージャーナリスト)のと、ステファン・シマンスキー(スポーツ経済学者)のコンビなら、ひょっとしたらやってくれるのではないか、などと勝手に夢想するのである。

ステファン・シマンスキー(左)とサイモン・クーパー
【ステファン・シマンスキー(左)とサイモン・クーパー】



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玉木正之説と日本文化とサッカー
 日本人は、国民性,民族性の観点からも、集団的な戦闘(チームプレー)よりも、1対1の戦いを好む。だから、明治以来、日本人はチームプレーのゲームであるサッカーよりも、投手vs打者の1対1の対決がゲームの基本となる野球を愛するようになったのだ……。

 ……と、いうのが、スポーツライター玉木正之氏の長年の持論「1対1の勝負説」であった。

 玉木氏は、この説をテコにさまざまな日本スポーツ文化論を展開している。サッカー日本代表がワールドカップで勝てないのも、日本サッカーのいわゆる「決定力不足」も、みなこの文化本質的な拘束力が働いているためだと、玉木氏は主張している。

 だが、しかし、「1対1の勝負説」はさまざま無理があることを当ブログでは指摘してきた。有り体に言えばこの玉木氏の説は間違いではないのかと。そして「1対1の勝負説」に基づいた日本スポーツ文化論,日本サッカー文化論もまた間違いではないのかと……。

通俗的な日本文化論から日本スポーツ文化論へ
 ……玉木正之氏のこうした説の背景には、各国民,各民族には固有の国民性,民族性があり、人々はその強い拘束と影響の下にあるという通念がある。野球でもサッカーでもetc.日本のスポーツを論じる際には、こうした通念に基づいた議論がよく発せられる。例えば、前掲の日本サッカーの「決定力不足」を日本の文化や伝統を求める例は、広く見られる例である。

 こうした日本文化論のひとつに「間の文化論」(間は「ま」と読む)がある。主に比較文学者の剣持武彦氏が唱えたもので、日本人は……縁側や床の間を大切にする日本建築、余白の多い水墨画、行間を読む文学……など、とかく「間」を愛する民族であるというものだ。


 これが日本人と野球の関係に転じられると、以下のような展開になる。

 日本人には「間」を好むという独特の文化がある。伝統の大相撲には仕切りなどの「間」があり、囲碁や将棋の棋士の長考の「間」がある。そして野球もまた、間の多いスポーツである……。

 ……だから、日本人は野球を愛するようになったのだ。そして、だから、日本人は本質においてサッカーを愛することができないのである。だから、サッカー日本代表は世界で勝てないのである。

玉木正之氏版「間の文化論」とその疑問
 玉木正之氏は、「1対1の勝負説」の他に「間の文化論」も展開している。
 ……野球が日本で人気を博した大きな理由として、「間」が多いということもいえるだろう。

 野球というスポーツは、三時間の試合のうちプレイ中が二十分程度しかなく。その他の時間は、イニングの合間の攻守交代や、ピッチャー〔投手〕が投球するあいだの間合いや、バッター〔打者〕が精神を統一するためにバッターボックスをはずす時間に費やされている。それは、野球というスポーツの特徴でもあるが、アメリカうまれのすべてのスポーツに当てはまる特徴でもある。

 アメリカン・フットボールは……バスケットボールは……バレーボールも……それらアメリカうまれのスポーツは、ヨーロッパうまれのスポーツ――サッカー、ラグビー、ホッケーなどが原則的にプレイを中断することなく、できるだけプレイを継続させようとするのと、本質的に異なる特徴を有している。

玉木正之『Jリーグからの風』(集英社文庫)1993年,102~103頁

 さて、玉木氏の「間の文化論」にも、またあの疑問が浮かんでくる。

 英国生まれで、国際的には大変人気がある「クリケット」はどうしたのですか?
クリケット
【クリケット】

 野球とクリケットは親戚関係にあるバット・アンド・ボール・ゲームの仲間である。したがって、当然、クリケットにも「間(ま)」がある。しかもこのスポーツには試合途中に「お茶の時間」や「ランチの時間」だってあるのだ。

 クリケットは「間の文化」ではないのですか? 野球が「間の文化」で、クリケットは「間の文化」ではないのだとしたら、その理由はどこにあるのですか?

 なぜ、クリケットではなくて野球なのか? なぜ、その説明がないのか? という問題がここでも出てくる。

 もちろん、玉木氏のような日本文化論で日本のスポーツを断じる人は、持説にとってこんな都合の悪いことを考察の対象にしたりはしない。「間の文化論」に基づいた日本のスポーツ論もまた破綻しているのである。

(つづく)


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