コラムニスト・山崎浩一氏とは何者か?
あれだけ羽振りが良かったコラムニスト・山崎浩一氏の姿を、マスメディアで見かけなくなって久しい。もっとも、インターネット検索を覗(のぞ)いても、お亡くなりになったという話は出てこない。詮索はともかく、どんな人だったなのか? ちょうどPHPのウェブサイトに経歴が載っていたので、あらためて紹介する。
山崎浩一(やまざき・こういち)
1954年神奈川県生れ。早稲田大学政治経済学部卒。デザイン、イラスト、雑誌編集も手がけるコラムニスト。ポップカルチャーなどのトレンド時評、CMウオッチングを中心とするが、『朝日新聞』で文化時評を手がけたり、『現代思想』でフェミニズム論を展開したりと、神出鬼没。自ら「フェミニズムも、ぼくにとっては思想や立場ではなく、世界の眺望をよくするためのさまざまな視点のひとつにすぎない」と語るごとく、固定した視座をもたないことに意義を見いだしながら、過剰なる言説やメディアをからかいつづける。著書に、『男女論』(紀伊國屋書店、1993年)、『リアルタイムズ』(河出書房新社、1992年)など。PHP人名事典より(データ作成:1998年)
いかにも「ボクは世の中をナナメから見ています,見えています」といった感じのプロフィールだが、もうひとつ、山崎浩一氏には人気サッカーコラムニストとしての顔もあった。
サッカー論壇における山崎浩一氏の高すぎる(?)地位
例えば、2代目サポティスタ=岡田康宏氏は、山崎浩一氏の熱烈な大ファンでもあった。彼の著書『サッカー馬鹿につける薬』の中では、2人の対談までやっている。
サッカー馬鹿につける薬(2007/11/21)
トルシエからジーコ、オシムへとつながる日本代表の軌跡、選手の移籍事情、ネットでのサッカー言説、サッカーメディアのあり方、サポーターとクラブの愛憎、フットサルの楽しみ方…。戦術論もフォーメーション図も出てこない、スタンド目線の過激なサッカーコラム満載!サッカー情報サイト『サポティスタ』管理人の『TV Bros.』連載+αが奇蹟の単行本化。師と仰ぐ山崎浩一氏との対談も収録。<1>
また、半田雄一氏が編集長(初代)だった時代の『季刊サッカー批評』、その創刊(1998年)以来長らくのレギュラー執筆陣だった。
さらに、2003年には、サッカージャーナリストの大住良之氏や後藤健生氏らとともに、当時の『季刊サッカー批評』の版元だった双葉社から刊行されたムック『新世紀サッカー倶楽部~もしも世界の言葉がサッカーであったなら』の執筆者として名を連ねる栄に浴している。
日本のサッカー論壇における山崎浩一氏の地位は盤石であるかのようである。
村上龍氏と山崎浩一氏は同じ穴のムジナ
しかし、実のところ、少なくともサッカー論壇の中では山崎浩一氏は大した人物ではない。『季刊サッカー批評』の連載「僕らはへなちょこフーリガン」は「どう? 僕って面白いでしょ?」的な感じが、かえって少しも面白くなかった。
『季刊サッカー批評』だったか、『新世紀サッカー倶楽部』だったかは記憶は定かではないが、後藤健生氏と山崎浩一氏が対談をした。その中で、当時、さまざまな媒体でサッカー評論を書いていた村上龍氏の論評を、日本サッカーを不当に貶しては得意がっている(大意)としてこれを非難したことがある。
まったく奇妙であった。後藤健生氏(や大住良之氏)人が、村上龍氏のサッカー評論をそのように非難するのは当然であろう。しかし、山崎浩一氏が後藤健生氏に乗じて、村上龍氏を非難するのは、まったく「目糞鼻糞を笑う」の図式そのものだからである。
山崎浩一氏は、実に多くの媒体で執筆していたが、その中に小学館『週刊ポスト』の「情報狂時代」という世相・時評コラムがあった(1994年に単行本として刊行される)。
この連載では、山崎浩一氏はサッカー、特に日本サッカーについて何度も言及しているのだが、その内容が本当に酷い。それこそ村上龍氏や杉山茂樹氏、馳星周氏がやっていたような、日本サッカーを不当に貶しては得意がっている下劣な代物だったのである。
強いて上げれば、日本サッカーを上から見下ろして貶すサディズム(村上龍氏,杉山茂樹氏,馳星周氏)か、下から自虐的に振る舞うマゾヒズム(山崎浩一氏,佐山一郎氏もこの系統である)かの違いである。それ以外は「文体」の違いぐらいだ。
要は『季刊サッカー批評』半田雄一編集長の覚えがめでたかったから、鋭敏なサッカーファンからの警戒の対象にならなかったということである。
農耕民族社会ニッポンでサッカーが「愛されない理由」
ようやく本題に入ることができそうです。今回採り上げるのは、月刊誌『PLAYBOY日本版』1990年9月号に掲載されたコラム「農耕民族社会ニッポンでサッカーが〈愛されない理由〉」である(次の写真を参照)。ちなみに『PLAYBOY日本版』は既に廃刊、同じ集英社が出している『週刊プレイボーイ』とは別の雑誌である。<2>
それにしても「農耕民族社会ニッポン」の字面を見ただけで目眩(めまい)がしそうですね(笑)。とにかく話を追っていきます。山崎浩一氏は1990年6月~7月に行われたFIFAワールドカップ・イタリア大会を回顧する……。
……曰く。サッカー・イタリアW杯は主審の判定が厳しい大会、主審が目立った大会でもあった。それにしても、反則をした選手にレッドカードやイエローカードを突き付ける時の主審の厳然たる態度は素晴らしい。実は元サッカー少年の僕(山崎浩一氏)自身、サッカーの主審を務めたこともあるのだが、その苦労は並大抵のものではない。
主審に託された強大な権限と権威は、サッカーの試合を裁く責任と緊張への対価なのだ……。
……そんな〔サッカーW杯の〕主審の姿を見た後にわが〔日本の〕プロ野球の審判たちの状況に目を転じると、暗澹〔あんたん〕たる思いになる。金田〔正一〕監督〔当時,ロッテ・オリオンズ監督〕に抗議されてオロオロし、まるで逆上した窮鼠〔きゅうそ〕のように慌〔あわ〕てて退場を宣告する姿は、哀しい。野球(ベースボールではなく)とサッカーを比べてもしょうがないけれど、このへんにも農耕民族〔ニッポン人〕の集団競技と狩猟民族〔欧米人〕の個人競技(サッカーはじつは個人技が11集まった競技であり,本質的にはチームプレイではない.おそらくベースボールもそうだ)との間のルールの重みの差を感じてしまう。プロ野球の退場者が、外人〔ママ〕選手以外は、ほぼ監督(責任者)ばかりであることは象徴的なことに思える。そして日本人に野球ほどサッカーが愛されない理由が、そのへんにもあるような気がする。個人が組織の調和の中で「仕事をする」存在でしかない社会〔ニッポン的集団主義〕では、おそらく公平で強い主体性〔欧米の個人主義〕を持つ審判役など、単なる添え物に過ぎない〔以下略〕山崎浩一「農耕民族社会ニッポンでサッカーが〈愛されない理由〉」
言いたい文句はいっぱいあるが、まずはここで一息つきましょう。
山崎浩一氏の凡庸なるサッカー言説を揶揄(からか)う
何のことはない。山崎浩一氏が展開したのは、驚くほど凡庸な、そして自虐的日本サッカー観に満ち満ちた「サッカー日本人論」である。
すなわち、スポーツ、なかんずくサッカーにおいては愚鈍な農耕民族=ニッポン人と優れた狩猟民族=欧米人の違い、悪しき集団主義に充足しきったニッポン人と良き個人主義を重んじる欧米人の違い。ニッポンと欧米との間には絶望的な「壁」があり、欧米の精神や文化が貫徹したスポーツ=サッカーはニッポンでは「愛される」ことなど金輪際ありえない……。
山崎浩一氏に限らず、村上龍氏であれ、馳星周氏であれ……。私たちサッカーファンはこの手の自虐的な話をさんざん聞かされてきた。そのように日本サッカーを蔑(さげす)むことで、論者は自身のサッカー観の確かさや批評精神を誇示するしきたりだったのである(そんな山崎浩一氏が村上龍氏を非難する筋合いがあるのか?)。
もうひとつ注目できるのは、この「サッカー日本人論」に、山崎浩一氏は「野球とベースボールの違い」を追加してきたことだ。
当時、1980年後半から1990年代前半にかけて、文化的な面をも含めた「日米の野球の絶対差異」(武田徹氏)を論じることが、日本のスポーツ論壇のしゃれた言い回しであり、流行りでもあった。
ニッポンとアメリカ(欧米)との間には絶望的な「壁」がある。アメリカ大リーグ=メジャーリーグベースボール(MLB)はとにかく無条件に素晴らしく開放的で、日本野球(NPB,高校野球など)はとにかく無条件に低劣で抑圧的だとされていた。
これを誇張するために「(ニッポンの)野球と(アメリカ=欧米の)ベースボールはまったく違うのだ」などといったレトリックが多用された。こんな風潮を煽(あお)ったのは、ロバート・ホワイティング氏と玉木正之氏である(その歴史的な主な展開については,次のリンク先を参照)。
そのように日本の野球を蔑(さげす)むことで、論者は自身の野球観の確かさや批評精神を誇示するしきたりだった。山崎浩一氏は、その流行に乗っかったのである。
「固定した視座をもたないことに意義を見いだし」ていると自称する山崎浩一氏の日本サッカー観・日本スポーツ観は、実は極めて単純だ。「ニッポン人=愚鈍な農耕民族=悪しき集団主義=サッカーに愛されない=抑圧的な野球/欧米人=優れた狩猟民族=良き個人主義=サッカーに愛される=開放的なベースボール」という二元論だ。
何より、サッカーに愛されない何より駄目なニッポン人と、ベースボール(野球ではなく)に愛されない何より駄目なニッポン人。そのふたつの根っこはひとつであると解釈したのは、たいへん興味深い現象である。
本当は「ジョークの羅列」だった「野球とベースボールの違い」
ところが、この「野球とベースボールの違い」とやらは、単なる言葉遊びであり、嘘やら誇張やら偏向やらであることが分かってきた。
日本のテレビ(主にNHKの衛星波)でメジャーリーグの野球が日本にも頻繁に放送されるようになったことや、日本人野球選手がメジャーリーグでも活躍するようになったことで、アメリカのリアルな野球事情が日本人にもより分かるようになったこと。
また、日本でもJリーグでサッカー人気が台頭し、サッカー日本代表も実力を付け曲がりなりにもワールドカップ本大会の常連国となって、アメリカ・メジャーリーグ以外の「世界」のスポーツの在り方や文化、習慣が日本人にも知られるようになったこと……などが理由である。
特に、玉木正之氏とロバート・ホワイティング氏の共著「日米の野球の絶対差異」の集大成である『ベースボールと野球道』(1991年,前掲)の内容については、在米のスポーツライター・梅田香子(うめだ・ようこ)氏が『イチロー・ルール』(2001年)の中で「ジョークの羅列」としか取れないほど事実と反している……と喝破している(その詳しい経緯は次のリンク先を参照)。
野球やスポーツ関連の著作も数多く手がけているルポライターの岡邦行氏もまた、『ベースボールと野球道』の内容に問題あることを指して、著者のひとり・玉木正之氏のことを「このウソツキ野郎め!」と辛辣に批判している。
昨今、さすがに「野球とベースボールの違い」を得意気にウンヌンする人は減っている。
それでもニッポン人はサッカーを愛せない???
それでは日本のサッカーは如何? 山崎浩一氏はサッカー論壇の表舞台からは身を引いたように見える。しかし、山崎浩一氏的な日本サッカー観=自虐的な日本サッカー観(サッカー日本人論)というものは、未だ根絶やしになっていない。
少し前の例になるが、サッカー日本代表が「惨敗」した2014年ブラジルW杯の少し後、文芸誌『en-taxi(エンタクシー)』第42号(扶桑社,坪内祐三ほか責任編集)に、小説家・星野智幸氏の筆による「ガーラの祭典」なるエッセイ・評論が掲載された。
これなどは、要するに南米スペイン語の「ガーラ」(garra)という概念を用いて「サッカーを(真に)愛することができないニッポン人」を巧みに論じたものだ。
これからも、日本サッカーに悪いことが起きる度に「サッカーに愛されないニッポン人」や「サッカーを(真に)愛することができないニッポン人」は、姿を変え、形を変えて、さまざまに論じられるだろう。
むろん、そんな事態にはならないことを願うばかりであるが……。
山崎浩一氏が「農耕民族社会ニッポンでサッカーが〈愛されない理由〉」を書いた1990年からちょうど30年、2020年の今になっても、日本のサッカー言説の思想・論調に大きく変化がないのである。
(了)
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