スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:正岡子規

後藤健生さんの新説への評価と疑問
 2020年の東京オリンピックを1年後にひかえ、雑誌『東京人』は2019年8月号で「近代スポーツことはじめ」という特集を組んだ。

 この企画で、サッカージャーナリストの後藤健生さんが「発展の陰に、〈この人〉あり」「さきがけは、〈学校〉から」という、明治時代初期~中期の日本のスポーツ事情を紹介した記事が2本掲載されている(うち「さきがけは…」の方は東洋経済オンラインに転載されている,下記リンク先参照)。
  • 後藤健生「明治時代にスポーツを広めた〈欧米人〉の功績~外国人に大勝したのは東大前身の一高だった」2019/07/03
 これらの記事では、東京高等師範学校の中村覚之助のことを再評価したり、なかなか重要なことが指摘されてある。しかし、一方で首を傾げたくなるような記述もある。それは前回のエントリーで書いた(下記リンク先参照)。
前回のエントリーから
明治初期のスポーツに関する後藤健生説を検証する~『東京人』2009年8月号より(1/2)

 英国人より米国人の「お雇い外国人」教師の数が多かったから、日本ではサッカーより野球の人気が先行した…という後藤健生説は、どこまで妥当なのか?
 疑問を感じるのは、実はこの件ばかりではないのである。

なぜ,日本人は欧米人のスポーツに飛び入り参加できなかったのか?
 例えば、後藤健生さんはこんなことを述べている。
 ヨーロッパや南米諸国では、英国人たちがスポーツに興じていると、現地の市民が飛び入りで参加したり、自分たちで参加したり、自分たちでクラブを作ってスポーツを始めたりしたものだ。〔幕末・明治の日本でも外国人居留地で行われた欧米人のスポーツを見物する日本人はいたが〕日本人と欧米人では、歩き方や走り方すら違ったのだから、〔日本人が欧米人と〕一緒にスポーツを楽しむことは難しかったのだろう。

後藤健生「さきがけは、〈学校〉から」@『東京人』2019年8月号


 この仮説はどこまで妥当なのだろうか? 推量形で「…だろう」と結んでいるのだから、確証には乏しいのだろう(←あ,これも推量形だ)。

 例えば、横浜カントリー&アスレチッククラブという、1968年(明治元)創設の在日外国人のためのスポーツクラブがある。略称「YC&AC」、かつての通称を「横浜外人クラブ」という。このクラブは、自尊心が高くかつ日本人に対して排他的なところがある。最近は日本人でも会員になれるらしいが、しかし、それでもハードルは高い。

 YC&ACは以前から7人制ラグビーの大会を主催しているが、最近まで「犬と黄色人は立ち入り禁止」という差別的な看板があった、大会の観客は「使用人」扱いで一般来場者は裏口・勝手口から入るようになっていた……などという話が伝わっている。インチキラグビー評論家の中尾亘孝(なかお・のぶたか)が、自身のブログで書いている。
〈第52回YC&ACセヴンズ〉
ヨコハマ・カントリー&アスレティック・クラブは、
つい最近まで「横浜外人クラブ」と呼ばれていた、
非常にプライドの高い英国系スポーツ・クラブ。

ここ数年、「犬と黄色人立ち入り禁止」なんて、
看板こそありませんが、大会の観客は使用人扱い
一般来場者は裏口・勝手口から入るようになっていた。

で、我輩〔中尾〕は、大家さん〔誰?〕のお下がりであるニコンを手に、
証拠写真を撮ろうと思っていたわけですが、
なんと今年は普通に入れます!

中尾亘孝「セヴンズ中退の言い訳」2010年04月05日
http://blog.livedoor.jp/nob_nakao/archives/51419984.html


中尾亘孝(プロフィール付き)
【中尾亘孝とそのプロフィール】
 この話の信憑性については何とも言いかねるが、しかし、「日本人と欧米人の身体の動きの違い」以前に、「人種」的な問題として日本人は欧米人のスポーツに参加することができなかったのではないか。

 外国人居留地でも、同じアジアの中国、ベトナム、インドネシアなどの事情はどうだったのか。欧米人が楽しんでいるスポーツに現地のアジア人が「飛び入り参加」できたのか、できなかったのか。仮に後者なのだとしたら、それは「アジア人と欧米人の身体の動きの違い」の問題で参加できなかったのか。「人種」的な問題として参加できなかったのか。

 これらの点からも、この問題を検討・検証するべきではなかっただろうか。

日本人の「官費留学生」はスポーツをする余裕がなかったのか?
 あるいは、後藤健生さんは……後に文豪として有名になる森鴎外や夏目漱石といった「官費留学生」は学問に追われていてスポーツをやる余裕はなかったが、平岡熈(野球)が田中銀之助(ラグビー)といった「自費(私費)留学生」はスポーツに親しむ余裕があった……と「発展の陰に、〈この人〉あり」で書いている。

 しかし、幕末期に徳川幕府の命で、維新期に明治政府の命で、二度にわたって英国に留学した数学者の菊池大麓は、留学先のケンブリッジ大学でラグビーに親しんだと伝えられている。
  • 国立国会図書館「菊池大麓│近代日本人の肖像」
 他にも、明治初年、開拓使仮学校で米国人教師をウィリアム・ベーツとともに学生たちに対して野球の指導に当たった日本人、得能通要、大山助市、服部敬次郎の3人は、開拓使から米国に留学し、帰国した学生である(大島正建『クラーク先生とその弟子』、池井優『白球太平洋を渡る』参照)。


 この人たちの留学は公的な性格のものである。つまり、官費留学だからスポーツができなかった、自費留学だからスポーツができた……という説も、一概には決め付けられず、再検証・再検討の余地があるのではないか。

2021年=JFA日本サッカー協会創設100周年のために…
 とかく日本のスポーツ評論は、日本のスポーツ史に関して何か特殊な事情があったはずだと、性急に解答を求める傾向がある。しかし、そうした安易な「答え探し」などやめて、個々の事柄に関して緻密な検証を積み重ねていくことの方が大切ではないだろうか。

 例えば、日本に野球を定着させた平岡熈はどういう条件(契約?)で工部省鉄道局の土地を利用することができたのか? 日本サッカーの発展の基を築いた中村覚之助はどうやってボールやスパイクシューズを調達したのか?

 どこかで誰かが研究しているのかもしれない。こうした話は日本のスポーツ史を理解するために非常に重要だと思うのだが、しかし、なかなか一般のスポーツファンには伝わっこない。

 そのためか、巷間にはさまざま怪しい俗説が流通している(玉木正之氏とかw)。*
  • 玉木正之の「スポーツって、なんだ?」#15 日本で野球が人気なのはなぜ?
 再来年2021年の日本サッカー協会創設100周年を控え、後藤健生さんには、むしろ、そうした通念を打破する仕事をしてほしいのである。

(この項,了)



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後藤健生さんの新説
 なぜ日本では、世界中で人気があるサッカーの人気が出なかったのか? なぜ野球の人気が先行してしまったのか? ……という難問は、日本サッカー史における最大の「謎」である。……と同時に、昔から珍説・奇説の宝庫であった。

 最近、この分野に「参戦」してきた人に、サッカージャーナリストの後藤健生さんがいる。その内容は、以下のようなものである。
 サッカーやラグビーよりも早く日本中に普及し、強化も進んだのは米国生まれのスポーツ、ベースボール(つまり野球)だった。その理由の1つは、米国人教師が数多く日本にやって来たからだ。1869年〔明治2〕にスエズ運河が開通したとはいえ、ヨーロッパから極東の島国に至るには距離的にも経費的にも負担は大きかった。一方、米国ではスエズ運河と同じ69年に大陸横断鉄道が開通しており、列車でカリフォルニア州まで来てサンフランシスコから乗船すれば、比較的容易に日本に来ることができた。そのため、全国の中学校〔大学ではなく中等学校でよいのか?〕には多くの米国人教師が赴任し、彼らはちょうど近代的なルールが確立したばかりの野球を日本に伝えたのだ。

後藤健生「さきがけは〈学校〉から」@『東京人』2019年8月号


  • 参照:
 引用部分だけでなく、全体の文脈を見ても、後藤さんの書き方が少し曖昧なこともあって、いくつか「?」と思う箇所がいくつかある*が、それはひとまず措(お)く。疑問を感じるのは、明治時代の「お雇い外国人」、特に教師の国籍の数は米国人が(圧倒的に?)他国を、なかんずく英国人より本当に多かったのか? ……ということである。

「お雇い外国人」教師の国籍
 後藤健生さんの考えは、あたかも明治時代前半の「お雇い外国人」教師の数は、欧州よりも日本と地理的に近い、野球を国技とする米国人が(圧倒的に?)多い。一方、欧州人のお雇い外国人、特にサッカーやラグビー(またはクリケット)を国技とする英国人の教師は少なかった……かのようにも読める。

 実際はどうだったのか。この件に関しては、歴史学者・故梅渓昇(うめたに・のぼる)氏の『お雇い外国人~明治日本の脇役たち』(講談社学術文庫)という優れた著作がある。この本に掲載された「お雇い外国人」に関するの統計に目を通してみた。

 詳しくは本に当たってほしいが、官費雇用の「お雇い外国人」の国籍で米国人の数が抜きんでて多かったことはない。むしろ、英国人の方が全体で圧倒的な多数を占めている。ただし、その内訳で多いのは工部省の雇いの技術者ではある。

 それでは教師の数はどうか? 梅渓氏の著作を参考にから文部省雇いの「お雇い外国人」を国籍別で表してみた(以下の表を参照)。文部省雇いの「お雇い外国人」の職務は、ほぼ「大学」の「教師」であると推定できるからである。

文部省「お雇い外国人」の国籍(単位:人)
  アメリカ イギリス フランス ドイツ その他
1872年(明治5) 6 5 4 8 1 24
1874年(明治7) 14 25 10 24 17 90
1879年(明治12) 14 7 5 12 12 50
1885年(明治18) 2 11 2 9 2 26
計(延べ人数) 36 48 21 53 32 190
梅渓昇『お雇い外国人』(講談社学術文庫)第4章より作成

 この表を見ても、米国人の数が英国人の数より多いとは言えない。参考までに出してみた「延べ人数」の合計では、米国人の数は、英国人の数よりも少なく、同じ欧州のフランスやドイツなどを加えた全体の比率では2割に満たない。**

 梅渓氏の著作にも書いているのだが、「お雇い外国人」が日本と母国を往来する際の交通費は、当然、日本側が負担している。明治政府が金をケチったために、「お雇い外国人」の国籍が、英国・ヨーロッパよりも米国が多かったという話は無い。

 いずれにせよ、「お雇い外国人」教師の数が、米国人の方が、英国人よりも多かったので、日本ではサッカーよりもラグビーの人気が出たという後藤健生氏の仮説は、成り立たないのではないか。

ベーツ先生とその弟子たち
 明治初期、米国人の「お雇い外国人」教師が日本人の学生に野球を教えても、全く定着しなかった実例がある。明治6年頃(1873)頃、北海道大学の前身に当たる開拓使仮学校で、米国人教師アルバート・G・ベーツが、日本人の学生たちに野球を教えた例である。

 この辺の事情は、後藤健生さんが大学・大学院時代に学恩のある、野球評論家でも有名な政治学者・池井優さん(いけい・まさる:慶應義塾大学教授,外交史ほか)の『白球太平洋を渡る』が紹介している。


 それは、開拓使仮学校(後の札幌農学校~北海道大学の)で学んだ伊藤一隆(中川翔子の高祖父としても知られる)の回想として、大島正建著『クラーク先生とその弟子たち』(何度も復刻されている名著,クラーク博士の「少年よ,大志を抱け」という言葉の元ネタ)に登場する逸話である。あえて孫引きなのは意図的なものである。
 明治6年(1873)頃、まだ東京にあった開拓使仮学校に、アルバート・G・ベーツという米国人の英語教師がやってきた。彼は好球家で、1本のバットと3個のボールも持参してきた。生徒たちを2チームに分け、野球の試合をさせたが、選手の〔日本人〕生徒たちは、ルールや技術の要点をなかなか理解できず、ベーツは苦心した。

 幸いにも、開拓使から米国に留学させていた開拓使仮学校の生徒3人、得能通要、大山助市、服部敬次郎が帰国して、彼らの指導によって野球の試合も少しは様になるようになった。そのうち、ボール2個が破損してしまった。代用品のボールは日本の靴工場で、バットは棒屋で作らせたが、出来ばえは不完全だった。だから、実際に野球の試合をするには苦心した。

 やがてベーツが注文した野球道具が届き、生徒たちの士気も上がった。しかし、ベーツは来日2年足らずで急死してしまい。生徒たちの野球熱も消えてしまった。

池井優『白球太平洋を渡る』5~8頁より大意・要約


 道具の調達がうまくいかなかったこと、米国人「お雇い外国人」教師ベーツの急死が、開拓使仮学校での野球普及が挫折した主な理由である。

球技スポーツが日本に定着するセオリーとは?
 とにかく、米国人の「お雇い外国人」教師が英国のそれより多かったから、日本ではサッカーより野球の人気が出た……と、いう理由ではなさそうである。

 開拓使仮学校の逸話からは、ある国(少なくとも日本で)で特定の球技スポーツを「普及」させるための仮説や経験則がいくつか導き出せる。
  •  たとえ野球であっても(むろんサッカーでも)、外国人が持ち込んで現地の人たち(日本人たち)にちょっとプレーさせてみたくらいでは、現地の人たちがその球技スポーツの面白さを理解することはない。したがってその国には「普及」しない。
  •  ボールやバットなど、そもそも道具が揃わないと、その球技スポーツ自体ができない。本物がない場合は地元で代用品を作ることになるが、出来が悪いと「普及」に支障が出る(付け足すと,その球技をプレーできる広い「土地」も必要になる)。
  •  熱心な指導者がいて継続的に活動しないと、その球技スポーツは「普及」しない。その人に任期が来て帰国したり、客死したりすると「普及」活動が後々まで続かない。
 以上の仮説は、当ブログの独創ではない。神戸市外国語大学の元教授(スポーツ学)で日本クリケット協会会長・山田誠さんの論文「ニューカレドニアンクリケットの研究-2-」に登場する話である。
  • 参照:
 山田誠さんは、野球やサッカーと同じく明治初期に紹介されながら、一度は廃れてしまった英国の球技「クリケット」(野球と同じ系統のバット・アンド・ボール・ゲーム)を、あらためて日本で普及させようという、近年まれに見る実践を行った人である。

日本国某所で行われた「クリケット」の練習風景(2019年)
【日本国某所で行われた「クリケット」の練習風景(2019年)】

 それだけに、後藤健生氏や、あるいは玉木正之氏やロバート・ホワイティング氏の「仮説」よりも強い説得力がある。

スポーツの普及は日本人自身の働きかけによるもの
 使用に耐えうる「道具」の調達と、充分な広さをもった「土地」の確保と、普及に熱心な「指導者」の存在と、3つの物理的条件が揃えて、サッカーよりもラグビーよりも先行して日本に野球を普及させたのは、米国人ではなく日本人である。すなわち、明治11年(1978)から明治20年(1887)頃にかけて、「新橋アスレチック倶楽部」を創設して野球の伝統に努めた平岡熈(ひらおか・ひろし)である。

 この件についてはいろいろ書いてきたから、ここでは繰り返さない(下記のリンク先を参照いただければ幸甚である.もっとも後藤健生氏によると平岡熈は公費留学ではなく私費留学だそうで,その辺の当ブログの思い違いは寛恕を請い願うものであります)。
  • 参照:
 野球にせよ、サッカーにせよ、ラグビーにせよ、その歴史を検証してみると、日本に定着したのは、単なる「お雇い外国人」による紹介ではなく、日本人による主体的な働きかけによるものなのは、とても興味深い。

 すなわち、サッカーにおいては東京高等師範学校(東京高師,後の筑波大学)の中村覚之助であり(下記リンク先を参照)、ラグビーにおいては慶應義塾のエドワード・B・クラークと田中銀之助。ちなみにE・B・クラークは「お雇い外国人」ではなく「在日英国人」である。
  • 参照:
 「お雇い外国人」の紹介であろうと、日本人の紹介であろうと、物理的な条件な揃わないと、その球技スポーツは普及・定着することはないと……書いた。例えば「土地」の確保についてはどうだろうか? 野球、サッカー、ラグビー、三者三様、けっこう手間暇がかかっているのである。

野球=品川,サッカー=大塚,ラグビー=麻布,それぞれの出発点
 野球に関しては、「新橋アスレチック倶楽部」の平岡熈が、奉職先の工部省鉄道局の八ツ山下(東京・品川)の車庫のそばに「保健場」と名付けられた専用グラウンドを持っていたことが知られている(池井優『白球太平洋を渡る』20頁)。

 おそらく平岡本人の私有地ではなかったであろうし、何がしかの条件で(契約で?)使用させてもらった(工部省鉄道局から?)であろう。従来の日本野球の黎明史には、こうした瑣末ではあるが、しかし重大な事情が伝えられることはない。学界のスポーツ史学やスポーツ社会学が、この辺の分野に未開拓なのだとしたら、非常に残念な話である。

 サッカーの場合、雑木雑草に埋められていた東京・大塚の新運動場の予定地を、中村覚之助と東京高師のサッカー部員たちと整地した(下記リンク先参照)。
  • 参照:
  • 参照:
 白線を引くための石灰が手に入らなかったので、フィールドに棕櫚縄(しゅろなわ)を張り、ゴールを立ててサッカーの練習を開始したとある。そして1904年(明治37)に横浜の外国人クラブと日本初の対外試合を行う。この様子が新聞で全国に紹介されたら、全国の中等学校からサッカーの指導依頼が来て、東京高師の部員が各地に指導のために出張したという話が伝わっている。

 最後にラグビーになるが、ラグビー史研究家・秋山陽一氏のWEBサイト、旧「日本フットボール考古学会」には、「E・B・クラークが慶應義塾の学生(塾生か?)にラグビーやクリケットを教え始めるが,試合ができるような体制になるのは,東京・麻布の〈仙台ヶ原〉という土地にグラウンドを移してからのこと」と紹介されていた(下記リンク先参照)。
 佐山一郎氏は、ラグビーにはサッカーにはない「相撲のぶちかましの要素」があるから、同じフットボールでもサッカーよりもラグビーの方が「日本人」の感性にかなっており、だから、長らく日本ではサッカーよりラグビーの人気が高かった……などと語っている(佐山一郎『日本サッカー辛航紀』より)。

 しかし、日本ラグビー伝来の時点で慶應義塾が「仙台ヶ原」に土地を持っていて、ラグビー部(蹴球部)に使わせなかったら、ラグビーはサッカーより普及が遅れていたかもしれない。

「なぜ…を問う」から「いかに…を問う」べきである
 明治時代の日本において、野球の人気がサッカーやラグビーに先行したことは、歴史の偶然であり、必然ではない。

 従来の所説は、明治初期にさまざまなスポーツが、ほぼ同時期に日本に紹介された。その中で、野球だけが突出した人気を得たために、それは「なぜ」なのか? そこに何か日本固有の理由があるに違いない。……という視点が多かった。

 しかし、クリケットを研究・実践する山田誠さんの仮説のように、スポーツの普及には「道具」「場所」「指導者」の3条件の充足が重要であるという仮説から、野球やサッカー、ラグビーが「いかに」日本に定着してきたのか? ……という視点で歴史を振り返ってみると、この3競技の日本への本格的な紹介は必ずしも同時期ではなかった、だいたい「野球」と「サッカー,ラグビー」で四半世紀の時代的なズレがあったことが分かる。

 「なぜ」野球だったのか? 「なぜ」サッカーではなかったのか? ……ではない。

 バットやボール、スパイクシューズを「いかに」調達したか? 野球やサッカーやラグビーを行うフィールドを「いかに」確保したか? 整地したか? 野球もサッカーもラグビーも、その知識がゼロの人たちに、どんな人は「いかに」指導をしていったのか?

 こうした、細かい事実の「いかに」を洗い出す、地道な実証的研究を積み重ねていくことで、日本のスポーツ文化の全体像が本当の意味で理解できるだろう。

 この点では、後藤健生さんの新説(仮説)もまた厳しく審査されなければならない。

(2/2につづく)



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スーパーラグビー日本撤退と日本サッカー史
 あるサッカーライター氏(名前は失念)が「サッカーで言えば,ほぼほぼ日本代表の特別なクラブチームを結成して欧州チャンピオンズリーグに参加させてもらうようなものだ.とってもうらやましい!」と語っていた、日本のラグビーチーム(サンウルブズ)による国際リーグ「スーパーラグビー」への参戦が、主に金銭的な問題と言われているが、2021年以降、撤退させられることになってしまった。残念なことである。

 Jスポーツ(J SPORTS)のウェブサイトに、この件について解説するコラムが掲載されていた。当ブログは、てっきり、博識で知られるラグビー評論界の大御所・小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)さんが執筆しているのかと思ったら、実は、これまた博識で知られるサッカー評論界の重鎮・後藤健生(ごとう・たけお)さんが書いていたのだった(下記ツイッターのリンク先参照)。


 後藤健生さんは、国を跨(また)いだ、海を隔てた、広大な地域を包括するスポーツの国際リーグの運営、特に日本のチームの参加は難しいという話をしている。その本題はひとまず措(お)いて、今回、当ブログが後藤さんのコラムに言及するのは、そこに気になる記述を見つけたからである。
 日本のスポーツ界にとって、スポーツの本場であるヨーロッパ〔欧州〕から遠いという地理的な条件は明治時代以来大きなハンディキャップだった。交通機関が発達した現在でも、これからも大きな課題であることに変わりはない。

 太平洋を隔てた北アメリカ〔アメリカ合衆国=米国〕生まれのベースボール〔野球〕というスポーツが日本に根付いたのも、ヨーロッパに比べて比較的近いため、明治の初めにアメリカ人の語学教師が数多く日本に渡ってきて、日本人学生に彼らが愛するベースボールを教えたからだと言われている。それに引き換え、サッカー、ラグビーなどヨーロッパ生まれのスポーツは本場との交流がとても難しかったのだ。

 日本サッカー史における最大の謎が「なぜ,日本ではサッカーが国民的スポーツになれずに,野球(ベースボールと呼ばなきゃならんのかw)に出し抜かれてしまったのか?」という問題である。後藤健生さんは、その「解答」を「日本と欧州,日本と米国の地理的な隔たりの差」、その差に由来する「米国人お雇い外国人教師の数の多さ」(?)に求めたのである。

「日本における野球人気の謎」をめぐる珍説・奇説
 この「謎」は、昔から珍説・奇説の宝庫であり、特に「野球は日本人の歴史的・文化的背景に適っていた.しかし,サッカーはそうではなかった」といった文化論・日本人論に傾きやすい。最近では、あの玉木正之サンがその系統の「1対1の勝負説」(牛木素吉郎さんの命名による)とでも呼ぶべき持説を、一生懸命になって吹聴している(下記ツイッターのリンク先参照)。


 その上で、玉木サンは、サッカー日本代表が弱い(?)のも、Jリーグがプロ野球に人気で勝てない(?)のも、すべて「日本人」とサッカーとの歴史的・文化的な致命的な相性の悪さためであるという話を展開するのである。

 しかし、この玉木サンは持説は、徹底的に間違っている。間違っているから、徹底的に批判した(下記ツイッターのリンク先参照)。



 後藤さんの持説(?)は、玉木サンの持説よりはマシに読める。だが……。

お雇い外国人教師の国籍は?
 例えば、後藤健生さんの言い分は、あたかも明治初期のお雇い外国人教師は、欧州よりも日本と地理的に近い、野球を国技とする米国人が(圧倒的に?)多い。一方、欧州人のお雇い外国人、特にサッカーやラグビー(またはクリケット)を国技とする英国人の教師が少なかったかのようにも読める。

 実際はどうだったのか。ためしに歴史学者・故梅渓昇(うめたに・のぼる)の『お雇い外国人~明治日本の脇役たち』掲載の統計に目を通してみた。

 お雇い外国人は、当時の日本政府の各省に存在したが、注目したのは「文部省」のお雇い外国人、特に米国人と英国人の数の違いである。この人たちの多くは、現在の大学もしくはそれに準じる学校の教師である。当時の「大学」は西洋からスポーツを受け入れる窓口だった。そのお雇い外国人の国籍を調べれば、後藤さんの持説がどこまで妥当か、ある程度、推し量ることができる。

 それを見る限り、明治初めから明治20年(1887)前後までの「お雇い外国人教師」の国籍別人数は、異動が多かったのか、一定しない(その分,じっくり腰を据えてスポーツの指導ができたかどうかは怪しい)。また、時期によって英国人が多かったり、米国人が多かったりする。米・英のみならず、フランス人、ドイツ人まで含めると、明治時代前半期を通じて、米国人のお雇い外国人教師が特別に多かったとは言えない。

 明治18年(1885)年の統計にいたっては、英国人11名(ちなみにドイツ人は9名)に対し、米国人はたったの2名である。この時期は、テレビドラマ『坂の上の雲』で描かれたたように、正岡子規が野球に熱中していた。考えてみれば不思議な話ではないか。

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 こうした、いくつかの情報から類推するに、後藤さんが仄(ほの)めかしている「明治の初めにアメリカ人の語学教師が数多く日本に渡ってきたために,日本ではサッカーやラグビーよりも野球の人気が出た」……という見解にも、納得しかねるものがある。

途絶えた日本野球の系譜
 それでは、米国の野球と英国のサッカー、日本のおける展開の決定的な差は何だったのか? 視点を変えてみた。

 一般に、日本への「野球伝来」と「サッカー伝来」は、以下のように紹介される。
  1. 明治5年頃(1872)、現在の東京大学に当たる学校で、米国人教師ホーレス・ウィルソンが、日本人の学生たちに野球を教えた。
  2. 明治6年頃(1873)頃、北海道大学の前身に当たる開拓使仮学校で、米国人教師アルバート・G・ベーツが、日本人の学生たちに野球を教えた。
  3. 明治6年頃(1873)、海軍兵学校の前身・海軍兵学寮で、英国海軍のアーチボルド・L・ダグラス少佐(中佐とも)と将兵が、日本人の学生たちにサッカーを伝えた(ラグビー史研究家・秋山陽一氏が唱えるラグビー説もあり)。
  4. 明治6年頃(1873)、東京大学工学部の前身に当たる工部省工学寮という学校で、英国人教師のリチャード・ライマー=ジョーンズ(ヘンリー・ダイアーとも)が、日本人の学生たちにサッカーを教えた。
 1~2年の誤差は措(お)くとしても、日本で、日本人の間で人気が出たのはサッカーではなく野球の方だった。それはなぜか? ……「謎」に答えるべく、実にさまざまな人が、実にさまざまな珍説・奇説を唱えてきた(下記ツイッターのリンク先参照)。


 ところで。1.~4.までのうち、現在の日本に存在する野球またはサッカーと、直接、系譜がつながっているのは、どれとどれでしょう? 答えは「1.」だけである。3.と4.のサッカーが途絶えてしまったことはともかく、2.の野球伝来の系譜が、日本人が心底大好きなはずの野球が途絶えてしまっていたとは、一体どういうことなのか?

ベーツ先生とその「不肖なる」弟子たち
 この辺の事情は、後藤健生さんが大学・大学院時代に学恩のある、野球評論家でも有名な政治学者・池井優さん(いけい・まさる:慶應義塾大学教授,外交史ほか)の『白球太平洋を渡る』が紹介している。


 それは、開拓使仮学校(北海道大学の前身)で学んだ伊藤一隆(中川翔子の高祖父としても知られる)の回想として、大島正建著『クラーク先生とその弟子たち』(何度も復刻されている名著)に登場する逸話である。あえて孫引きなのは意図的なものである。
 明治6年(1873)頃、まだ東京にあった開拓使仮学校に、アルバート・G・ベーツという米国人の英語教師がやってきた。彼は好球家で、1本のバットと3個のボールも持参してきた。生徒たちを2チームに分け、野球の試合をさせたが、選手の〔日本人〕生徒たちは、ルールや技術の要点をなかなか理解できず、ベーツは苦心した。

 幸いにも、米国に留学していた開拓使仮学校の生徒3人が帰国して、彼らの指導によって野球の試合も少しは様になるようになった。そのうち、ボール2個が破損してしまった。代用品のボールは日本の靴工場で、バットは棒屋で作らせたが、出来ばえは不完全だった。だから、実際に野球の試合をするには苦心した。

 やがてベーツが注文した野球道具が届き、生徒たちの士気も上がった。しかし、ベーツは来日2年足らずで急死してしまい。生徒たちの野球熱も消えてしまった。

池井優『白球太平洋を渡る』5~8頁より大意・要約

 道具の調達がうまくいかなかったこと、米国人お雇い外国人教師ベーツの急死が、開拓使仮学校(北海道大学)からの野球普及が挫折した主な理由である。

球技スポーツが日本に定着するセオリーとは?
 この逸話からは、ある国(少なくとも日本で)で特定の球技スポーツを「普及」させるための仮説や経験則がいくつか導き出せる。
  •  たとえ野球であっても(むろんサッカーでも)、外国人が持ち込んで現地の人たち(日本人たち)にちょっとプレーさせてみたくらいでは、現地の人たちがその球技スポーツの面白さを理解することはない。したがってその国には「普及」しない。
  •  ボールやバットなど、そもそも道具が揃わないと、その球技スポーツ自体ができない。本物がない場合は地元で代用品を作ることになるが、出来が悪いと「普及」に支障が出る(付け足すと,その球技をプレーできる広い場所も必要になる)。
  •  熱心な指導者がいて継続的に活動しないと、その球技スポーツは「普及」しない。その人に任期が来て帰国したり、客死したりすると「普及」活動が後々まで続かない。
 ある球技スポーツが全国的に普及するためには、使用に耐えうる「道具」と、充分な広さに「場所」と、伝道に熱心な「指導者」と、3つの物理的条件が揃ったうえで、現地の人たちが「面白さを理解」させることが必要だという仮説は、当ブログの独創ではない。神戸市外国語大学の元教授(スポーツ学)で日本クリケット協会会長・山田誠さんの論文「ニューカレドニアンクリケットの研究-2-」に登場する話である。
 山田誠さんは、野球やサッカーと同じく明治初期に紹介されながら、一度は廃れてしまった英国の球技「クリケット」(野球と同じ系統のバット・アンド・ボール・ゲーム)を、あらためて日本で普及させようという、近年まれに見る実践を行った人である。

日本国某所で行われた「クリケット」の練習風景(2019年)
【日本国某所で行われた「クリケット」の練習風景(2019年)】

 該当論文は、学術誌の査読を通ったものではなく、紀要論文ではある。が、日本人は全く知らない球技スポーツを、ゼロから普及させようとした活動から抽出された仮説であるから、玉木正之サン(や後藤健生さん)の持説よりはずっと具体的で、説得力がある。

 何より重要なことは……。
  • その国の人たちの「歴史的・文化的な背景」と、その球技スポーツが持つ「本質」との「相性」から、その国の人気スポーツが決定されるわけではない。
 ……と、いうことである。

平岡熈の業績をあらためて評価する
 逆に言うと、1.の事例だけが前述の条件を満たしていた。だから、日本では、サッカーやラグビーに先駆けて野球が普及したのである。米国人教師ホーレス・ウィルソン自身は明治10年(1877)に帰国してしまう。だが、だいたい同時期、入れ替わるように米国留学から帰朝した、鉄道技術者の平岡熈(ひらおか・ひろし)が、新たな「指導者」として日本における野球の普及を引き継いだからである。

 平岡熈。明治4年(1871)に16歳で米国留学。留学中は鉄道技術者として勉学に励む。同時に野球にも傾倒して、プロ化が進んでいた米国の最先端の野球を吸収するとともに、米国人の元プロ野球選手で、スポーツ用品メーカー「スポルディング社」を創設するアルバート・G・スポルディングとも知遇を得た。

 明治10年(1877)、米国留学から日本に戻る。帰国早々、東京の練兵場などで、ホーレス・ウィルソンから野球を教えられた「東京大学」の学生や人士たちと野球に興じる。翌明治11年(1987)、平岡は鉄道技術者として工部省(官営鉄道)に出仕する。平岡はそこで野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成する。

 ルールブックなどの情報や、バットやボールなどの「道具」は、友人である「スポルディング社」のスポルディングが、米国から無償で提供してくれた。プレーする「場所」としては新橋鉄道局構内に「保健場」という専用の野球場も作り、そろいのユニフォームを仕立てた。

 平岡熈と「新橋アスレチック倶楽部」の活動期間は、明治11年(1978)から明治20年(1887)頃にかけて。その交流の中から、野球の面白さに目覚めた学生たちが増えた。その1人が例の正岡子規である。そして現在の東京大学、慶應義塾、明治学院、青山学院、立教大学、一橋大学に「野球部」が設立された。その後、さらに全国に野球人気が拡散した。
 野球がたんに少数のお雇い外国人教師の紹介に終わっていたら、ここまで発展したかどうか。平岡(熈)による再紹介と、将来日本のリーダーの地位を約束されている開成学校〔東京大学〕生徒と旧大名などの理解と関心、さらには体操伝習所〔筑波大学の前身のひとつ〕で学んだ教師の卵たちが全国各地の小、中学校に赴任したことも初期の野球の国内伝播に有力な役割を演じたのである。

池井優『白球太平洋を渡る』26頁


野球人・正岡子規
【野球のユニフォームを着用した正岡子規】
 少々意外なことに、後藤健生さんと違って、池井優さんは、お雇い外国人による野球の紹介よりも、日本人の平岡熈による再紹介の方を高く評価していたのである。

野球とサッカー,偶然か必然か…
 一方、同時期のサッカー(アソシエーション・フットボール)は、野球のような普及のための条件には恵まれていなかった。先に書いたように海軍兵学寮や工部省工学寮の「フットボール」は後が続かず途絶えたし、サッカーも紹介されていたという体操伝習所には、詳しい指導書や、平岡熈のような本格的な指導者が存在しなかった。

 日本においてサッカーの普及がようやく軌道に乗り始めるのは、明治35年(1902)、東京高等師範学校(東京高師,筑波大学の前身)学生で、にフートボール部(蹴球部)の中村覚之助(なかむら・かくのすけ)が洋書『アッソシェーション・フットボール」を邦訳したあたりからだ。

 中村覚之助こそが明治時代の日本サッカーの画期となった人物で、その果たした役割りは、野球における平岡熈に相当する(下記リンクを参照)。
 平岡熈と中村覚之助、野球とサッカーで、日本における創始はおよそ25年の開きがある。

 平岡熈が米国留学で鉄道技術者を志したのは偶然によるものである。初めから鉄道技術者として留学させるつもりであれば、日本の官営鉄道は英国式を採用していたから、英国に留学していたはずだ。だから、米国の球技「野球」になじむということありえない。

 また、帰朝後の平岡熈が官営鉄道に出仕し、ここで「新橋アスレチック倶楽部」を主宰して野球をプレーできたことも幸いした。不足しがちなバットやボールは鉄道車両の部品の古いものを用い、鉄道工場で改造して代用品を作り出すことができた。彼の奉職先が官営鉄道でなかったら、こうした代用品で「道具」を調達することは難しかった。

 こういった好条件は、日本人の歴史的・文化的背景の宿命ではないし(玉木正之説)、地球上で日本列島が置かれた地理的なハンディキャップ(後藤健生説)でもない。

 明治日本において、野球の人気がサッカーやラグビーに先行したことは、歴史の偶然であり、必然ではない。

「なぜ…を問う」から「いかに…を問う」へ
 従来の所説は、明治初期にさまざまなスポーツが、ほぼ同時期に日本に紹介された。その中で、野球だけが突出した人気を得たために、それは「なぜ」なのか? そこに何か日本固有の理由があるに違いない。……という視点が多かった。

 しかし、クリケットを研究・実践する山田誠さんの仮説のように、スポーツの普及には「道具」「場所」「指導者」の3条件の充足が重要であるという仮説から、野球とサッカーが「いかに」日本に定着してきたのか? ……という視点で歴史を振り返ってみると、両者の日本への本格的な紹介は必ずしも同時期ではなかった、だいたい四半世紀の時代的なズレがあったことが分かる。


 また、野球にせよ、サッカーにせよ、お雇い外国人教師の紹介から一気に普及したということはない。実は「日本人」の意志的な働きかけが一段階絡んでから、初めて普及する。野球の平岡熈、サッカーでは中村覚之助が相当する。

 この点はラグビーもまた然りで、日本人実業家の田中銀之助とともに、日本の慶應義塾にラグビーを伝えたと言われるエドワード・B・クラークは、実は横浜の外国人居留地の生まれと育ち。生活も永眠も日本の「在日英国人」で、ホーレス・ウィルソンやアルバート・ベーツのようなお雇い外国人教師ではない。

 「なぜ」野球だったのか? 「なぜ」サッカーではなかったのか? ……ではない。

 バットやボール、スパイクシューズを「いかに」調達したか? 野球やサッカーやラグビーを行うフィールドを「いかに」確保したか? 整地したか? 野球もサッカーもラグビーも、その知識がゼロの人たちに、どんな人は「いかに」指導をしていったのか?

 ……こうした、細かい事実の「いかに」を洗い出す、地道な実証的研究を積み重ねていくことで、日本のスポーツ文化の全体像が本当の意味で理解できるだろう。

 いずれにせよ、玉木正之サンが再三力説しているような珍説・奇説の類は駆逐されなければならない。

(了)



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タマキの蔵出しコラム「スポーツ編」
 この原稿は、2015(平成27)年に新潮文庫より出版した『彼らの奇蹟 傑作スポーツアンソロジー』に続き、同じく新潮文庫として翌年の2016年(平成28)年10月に出版した『9回裏2死満塁 素晴らしき日本野球』の解説として書いたものです。…これがどんなアンソロジーなのかを知っていただくために、解説の前半部分を(一部省略して)“蔵出し”させていただきます。御一読下さい。
――玉木正之(2019年4月10日)


 この本、新潮文庫『9回裏2死満塁 素晴らしき日本野球』の品質を著しく下げている、最低最悪の部分が編者・玉木正之氏による巻末の「解説」。日本では、なぜ、サッカーよりもラグビーよりも(つまりフットボール系の球技よりも)、野球(ベースボール)の人気が出て、国民的スポーツになったのか……という難問の、玉木氏による疑似科学的回答である。

 日本人は歴史的・文化的にチーム戦(団体戦)が苦手な民族であり、一方、宮本武蔵vs佐々木小次郎のような1対1の勝負を好んできた。だから、サッカーやラグビーのようなチーム戦のスポーツよりも、投手vs打者の1対1の勝負である野球の方が日本人に人気が出たのだ……と、玉木氏はこの本で唱えている。

 玉木正之氏は、ことあるごとにこの説を吹聴している。持説を世間一般に普及させることで、玉木氏の世界観、日本において野球こそが国民的スポーツになったのは歴史的必然性があったからだ……という歴史観に読者に誘導させようという目論見なのである。

 しかし、この玉木説は完璧に間違っている。野球が日本に入ってきた当時のルールは、現在の野球のルールとは大きく異なっており、それによると野球を投手vs打者の1対1の勝負が基本となったゲームとは、とても認められないからだ。例えば、明治初期、日本野球黎明期の選手である正岡子規の「現役時代」は、現在とは違う当時のルールでプレーされていた。

 玉木正之説の批判は、スポーツライター・牛木素吉郎氏(元『読売新聞』運動部,編集委員)や、当ブログからも、公開に近い形で展開され、そのコンテンツは玉木氏にも伝えられている。


 日本の野球界、延いては日本のスポーツ界が、いかにさまざまな深い問題を抱えていようと、間違ったところから批判しても、かえって間違ったことになるだけである。実際、玉木正之氏と親交のあった平尾誠二氏は、玉木氏に影響されたおかげで日本ラグビーに悪い効果を及ぼしている(1995年ラグビーW杯での日本代表の大惨敗など)。

 今からでも遅くないから、新潮社は『9回裏2死満塁 素晴らしき日本野球』を回収、一度絶版し、編者・玉木正之氏による問題部分を削除したうえで、改めて刊行するべきである。

(了)



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日本人と相性が良いのはサッカーではなく野球である!?
 スポーツライター・玉木正之氏は、春陽堂書店のWEBサイトで「日本で野球が人気なのはなぜ?」という、実に香ばしいネタを書いている。
玉木正之の「スポーツって、なんだ?」#15 日本で野球が人気なのはなぜ?
2020年の東京オリンピックに向けて、スポーツを知的に楽しむために──
数多くのTV番組に出演し、多岐に渡って活躍するスポーツ評論家の玉木正之さんが、文化としてのスポーツの魅力を解き明かす。
第15回では、西洋から日本に伝わったスポーツのなかで、なぜ野球が人気を得たのか、その歴史的・文化的背景に迫ります。
(詳細は下記ツイッターのリンク先参照)


 要するに、玉木正之氏は、野球は日本人の「歴史的・文化的背景」に適していた。しかし、サッカーは適していない。サッカー日本代表が弱い(?)のも、Jリーグがプロ野球に人気で勝てない(?)のも、そのせいだ……ということが言いたいのである。

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【玉木正之氏】

 こんなことを言われると、多くのサッカーファンはビビってしまう。しかし、心・配・御・無・用! 玉木説は全部デタラメなので、簡単かつ徹底的に反駁できる。

パクス・トクガワーナと玉木正之氏「1対1の勝負説」
 玉木正之氏の「日本で野球が人気なのはなぜ?」という問いには、常に摩訶不思議な「疑似回答」がついて回る。それは次のようなものだ。
 ではなぜ日本では、多くのスポーツ(ボールゲーム)のなかで、野球(ベースボール)だけが突出した人気を博したのか?

 その理由については、昔から多くの人々が多くの意見を述べている。投手と打者の対決〔1対1の勝負〕が相撲の立ち合いに似ていて、日本人に理解しやすかった……〔略〕。

 〔…〕日本という風土には、他国と較べて珍しい過去の歴史があった。

 世界的には、19世紀まで一般市民が兵士となる戦争が続いていた地域が多かったが、日本では1600年の関ヶ原の合戦でほとんど幕を閉じ、その後徳川幕府の平和な時代が250年以上続く。戦国時代の1543年、ポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝えて以来、わずか半世紀のうちに戦いは終結しているのだ。

 軍人だけでなく、一般の人々が武器を持って戦うためには、チームプレイの理解が必要となる。3組に分かれた鉄砲隊が順々に入れ替わって火縄銃を撃ったり〔織田信長vs武田勝頼の長篠の戦い,1000丁×3組=3000丁の鉄砲隊〕、左翼の鉄砲隊が射撃したあとに、右翼の騎馬隊、中央の歩兵隊が進軍する、といった具合に、鉄砲という武器は(狙撃兵という特殊な役割の兵士を除いて)、戦争に参加したあらゆる兵士に、必然的にチームプレイを要求することになる。

 鉄砲が出現する前の戦争は、基本的に、一人ひとりの力が中心となる。兵士は個人で手柄をあげようと先陣を切り、「やあやあ我こそは○○○、遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ!」と大音声で名乗りをあげ、戦いに臨んだ。そして大将は、戦いに勝てば兵士(市民)に論功行賞を施したのである。

 戦争を早く終え、多くの人々が鉄砲での戦いの経験が未熟なまま平和な時代に突入した日本では、当然チームプレイに対する理解も進まなかった。「徳川の平和(パクス・トクガワナ)」の時代に語り継がれた戦いは、源義経や那須与一を中心とした一の谷、屋島、壇ノ浦の源平の戦いでの個人戦であり、上杉謙信・武田信玄の川中島の一騎打ち、あるいは宮本武蔵・佐々木小次郎の巌流島の戦いだった。

玉木正之の「日本で野球が人気なのはなぜ?」画像
【玉木正之氏「日本で野球が人気なのはなぜ?」より】

 そんな日本の社会に、勝敗を争うチーム(集団)の戦いであるスポーツ(ボールゲーム)が伝わってきたのだ。日本人が、サッカーやラグビーでなくベースボールに飛びつくのは当然だろう。

 集団のなかから一人の武士(打者)が「やあやあ我こそは……」と名乗り出て、マウンドに立った一人の武士(投手)と対決する。そして大将(監督)は論功行賞を施す。そうして日本人は明治時代にいち早く野球(ベースボール)を好きになり、他のスポーツもすべて野球を基準に考えるようになったのだった。

 サッカーやラグビーやバスケの団体競技はもちろん、陸上(駅伝)も水泳(リレー)も卓球などのような個人競技も、指導者(コーチ)が、ベースボールのように監督(マネジャー)と呼ばれるようになっている。また、柔道、卓球、テニス、フィギュアスケートなどの団体戦、つまり一人ひとりが力を発揮してチームで勝利を目指す競技の団体戦と、一人ひとりが異なる動きをして一つのチームとして機能するサッカーやラグビーのような団体競技の違いが、はっきりと理解されなくなったり……と、野球の普及は、無自覚的に、日本のスポーツ界全体に悪影響を及ぼした、ということもできる。

 日本人の多くがチームプレイというものを理解できるようになったのは、1993年のJリーグ発足以降ともいえそうだ。

 この説を、牛木素吉郎氏iの名付けで「1対1の勝負説」と呼ぶ。

 これもまた、虫明亜呂無の憶測仮説を、玉木正之氏が拡張・増幅させた「野球=ドラマ説」と同様(下記ツイッターのリンク先を参照)、玉木正之氏の実にざまざまな著作でお目にかかれる定番である。


 「1対1の勝負説」も、「野球=ドラマ説」も、「玉木正之スポーツ学」(学?)の根本をなすものだ。玉木氏の日本スポーツに関する考察は、すべてこれらの持説から出発する(後述)。それにしても、こんな奇々怪々な玉木氏の持説「1対1の勝負説」は、いったいどこから来たのだろうか?

「1対1の勝負説」の淵源
 「野球=ドラマ説」のルーツは、サッカーにまつわる随想録(?)、虫明亜呂無の「芝生の上のレモン」の記述であった。「1対1の勝負説」に関しては、出どころがハッキリしている。

 講談社の月刊誌『現代』1988年10月号掲載、玉木正之氏、ロバート・ホワイティング氏(在日アメリカ人ジャーナリスト)、中沢新一氏(宗教学者,人類学者)による座談会「SMかオカルトか侃侃諤諤〈ベースボール人類学〉」である。内容は日本の野球文化論もしくは野球を通じた日本文化論ともいうべき趣。
 中沢 〔…〕野球というのは〔…〕だから日本人の感性に合っているのかも知れない。

 玉木 ホワイティングさんには『菊とバット』という名著がありまして、今度は明治時代まできかのぼって〈日本人と野球〉を考察したパート・ツー〔『和をもって日本となす』〕を脱稿されたばかりなんです。

菊とバット〔完全版〕
ロバート ホワイティング
早川書房
2005-01-01


和をもって日本となす
ロバート ホワイティング
角川書店
1990-04-01


 中沢 ほう。日本人はなぜこんなに野球が好きになったとお考えですか?

 ホワイティング 一つには、宮本武蔵と佐々木小次郎というような〔1対1の〕対決の図式があることだと思います。第二点は日本人にとって初めての団体スポーツだった。その前は剣道とか……。

 玉木 一対一の個人競技ですよね。

 ホワイティング 本来は非常に集団主義に向いている国なのにね。それに、理屈ということでは、日本では野球の楽しみの半分は筋を読むことになっている。ボクシングなら試合が終わったら、すべてが終わるのに、野球は次の日の朝、新聞を読んでまた楽しむんです。

 中沢 なるほど。集団と個人ということでいえば、日本は世界的に見ても内乱〔内戦〕というか、シビル・ウォー〔‘civil war’=内戦〕が早く終わった国なんです。十六世紀にだいたい終わっちゃったから集団戦法というのが発達しきらなかった。集団戦という新しい戦争の思想が成熟しなかったわけです。そうしたときに、戦いということでは武蔵と小次郎という一種のフィクションが作り上げられた。

 玉木 それはおもしろい。戦いということを考えたときに、イビツだという気がしますね。たとえば川上哲治という男がいるでしょう〔注:悪意を感じる表現〕。彼はさかんに武蔵を語るわけです。武蔵ほど勝手な個人主義者はいないですよ。それなら川上さんも個人主義に徹するかというと、なぜか〈チームの和〉を強調する。おかしいのは、武蔵も晩年になって精神的なことをいってるんですね。心と心の対話だとか。そういう虚像を作るのは日本人は非常にうまい(笑)。

 中沢 集団と個人的なヒーローのバランスを、実際の戦いやスポーツの中でどう作るかということは大きなテーマだった。結局は、あまり個人が浮き立つようなヒー口ーはまずいわけですよ。

「現代」(講談社)1988年10月号2
【『現代』1988年10月号より】
 「1対1の勝負説」は、この時の中沢新一氏とロバート・ホワイティング氏の発言に、玉木正之氏がインスパイアされ、拡張・増幅したものなのである。

 それにしても、玉木正之氏の「それはおもしろい」という発言には引っかかる。つまり、玉木氏が日本のスポーツ史やスポーツ文化について考察する時、学問的実証・検証に堪(た)えうる理論ではなく、「おもしろい」話かどうかが基準なのである。

 虫明亜呂無の「野球=ドラマ説」しかり、中沢新一氏の「1対1の勝負説」しかり、大胆な憶測仮説としては「おもしろい」のかもしれない。中沢氏も、虫明亜呂無と同じく、実証主義的というよりは、感覚的な「知」の面白さに訴えかける人である。

 しかし、その「おもしろ」さから来るところとは、日本は、なかんずく日本のスポーツは「世界」と比べて、こんなにユニークで不思議で、なおかつ後進的な国なんですよ……という、玉木正之氏の決め付けなのである。

「明治10年のベースボール」とは?
 玉木正之が折に触れて繰り返し吹聴している「1対1の勝負説」であるが、ハッキリ言って間違っている。明治時代初期、日本に野球が伝わった当時のルールは、現在のそれとは大きく異なっていたからだ。したがって、投手と打者のやりとりを「1対1の対決」とは見なしがたいのである。

 2017年に日本の野球殿堂入りした人物に、鈴木美嶺(すずき・みれい)という野球記者がいる(玉木氏は当然知っているはずだ)。野球のルールに精通し、この方面で多大な業績を残した。
 鈴木美嶺は、野球専門誌『ベースボールマガジン』で「ルール千一夜」という野球ルールにまつわる連載コラムを執筆していた。その1980年3月号に「1877年のストライクとボール」という記事がある。その勘所を引用すると……。
 1877年〔明治10〕の〔野球〕ルール第5条第5項はこうなっている。

 ――打席についたバッツマン(打者)は〈ハイボール〉〈ローボール〉あるいは〈フェアボール〉のいずれかをコールしなければならない。審判員は投手に対して〈どの球〉を投げるか指示しなければならない。そのようなコールは第1球が投げられた後は変更できない――

鈴木美嶺「1877年のストライクとボール」より
 ……「高め」(ハイボール)、「低め」(ローボール)、あるいはその両方(フェアボール)、打者は自分の打ちやすいストライクゾーンを指定して投手に球を投げさせることができた。(下のイラスト参照)

「ベースボールマガジン」1980年3月号
【『ベースボールマガジン』1980年3月号より】

 つづいて現在のフォアボール=四球に相当するルールを紹介すると……。
 ――ホームベースの上に投げられなかったり、打者が要求した高さにこなかった投球は、すべてアンフェア・ボールとみなされる。この投球が3回行われたら審判員はボールを宣告し、スリー・ボールズになったときに、ストライカー(打者)は一塁が与えられる――

 この条文は……今日の〈四球〉にあたるものである。〈九球〉で一塁に歩くのだから一見、投手に有利なように思えるが、本当はその反対で打者にできるだけ打たせるように考えた末のルールなのである。

鈴木美嶺「1877年のストライクとボール」より
 ……さらに「投手に関するルールは,かなり厳しいものがあ」り(同記事)、投手の技量力量が打者を打ち取る余地という要素はほとんどなかった(例えば,投げ方は下手投げに限定されている)。投手は、打者が打ちやすいボールをひたすら投げ続けないといけなかった。

 これでは野球における投手と打者のやり取りを、「1対1の対決」であるとはとても言い難い。野球とは投手が球(ボール)を打者に打たせるスポーツだった。これが日本で野球が紹介された、日本に野球が普及した時代のルールなのである。

 故意か、はたまた無知によるものか(まさか!?)、玉木正之氏は現在の野球と当時の野球のルールの根本的な違いを無視している。

 玉木正之氏の「1対1の勝負説」は間違っているである。

正岡子規がプレーした野球のルールとは?
 NHKが2009~2011年にかけて放送したテレビドラマ『坂の上の雲』に、明治18年(1885)頃のこととして、物語の主人公の1人である正岡子規が、野球(当時の呼称はベースボールか)の試合をやるシーンがある。

NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲 第1部 DVD BOX
本木雅弘
ポニーキャニオン
2010-03-15




 劇中、香川照之が演じる正岡子規はバットを持ち、バッターボックスに立って「ハイボールじゃ!」と叫ぶ。審判は投手に「ハイボール!」と宣告。投手は下手投げで子規に向かってボールを投げた。

 これこそ、鈴木美嶺が説明していた、打者はハイボールか、ローボールか、コースを指定でき、投手はボールを下から投げなければならない、野球ルールであるii。テレビドラマ『坂の上の雲』の正岡子規による野球シーンは、まさにそれを再現してみせたのである。

 ところで玉木正之氏は、2011年までNHKの番組審議委員を務めていた。なのに当ブログが知る限り(インターネットでしつこく検索をかけた限り)、テレビドラマ『坂の上の雲』での正岡子規の野球シーンに言及したところは見たことがない。ダンマリを決め込んでいる。

 玉木正之氏にとっては、この場面は都合が悪いからである。

 その一方で、玉木正之氏は同じNHKの歴史教養番組『その時歴史が動いた』(2000~2009年)での大化の改新の、例の「打毱」(打毬)のシーンには、あれは違う! 間違いだ! スティックを鞠を打つ球技だ! ……とイチャモン(言いがかり)を付けている。
12月16日(木)つづき
ホテルでNHK『その時歴史は〔ママ〕動いた 大化の改新』を見る。首謀者が中大兄と鎌足ではなく皇極女帝と軽王子が後ろで糸を…というのは面白かったけど、中大兄と鎌足が「蹴鞠」で密談という「俗説」をそのまま紹介したのは残念。蹴鞠は平安以降で、当時は「鞠打」(まりうち・ぎっちょう・くゆるまり)と呼ばれる球戯。2組に分かれたチームが互いに足や棒を使ってボールを運び、ゴールを目指し合ったもので、いわば日本フットボールの草分け。こういう球戯が古代日本にあったのに、それを蹴鞠と誤解してしまうから、日本のサッカーは「ゴールを狙う意志」が薄く、蹴鞠のようにパス回しだけに終わってしまうのでは?〔略…〕正月のNHK特番ドラマ『大化の改新』ではどうなんやろ?


タマキのナンヤラカンヤラ バックナンバー 2004年12月より
【玉木正之「タマキのナンヤラカンヤラ バックナンバー 2004年12月」】
 まったく、この辺はご都合主義としか言いようがない。

クリケットと野球
 玉木正之氏の「1対1の勝負説」には、もうひとつ致命的な欠陥がある。玉木正之「日本で野球が人気なのはなぜ?」をはじめとして、なぜ日本ではサッカーより野球の人気が出たのか……という議論には、なぜ野球とフットボール(サッカー,ラグビー)の外見的な特徴の違いを取り上げたものが多い。

 しかし、なぜ、「クリケット」ではなく野球だったのか……という考察と説明が、まったく欠落している。クリケットと野球は、1人の投手が投げたボールを、1人の打者がバットで打つ、同族の球技「バット・アンド・ボール・ゲーム」である(フットボール系の球技に対してこう呼ぶ)。

クリケット
【クリケット】

野球
【野球】

 クリケットも、野球と同じく明治時代初期に日本に伝来し、一定期間日本でプレーされていた。そして、投手vs打者による1対1の対決というゲームの性格は、19世紀の旧式ルールの野球(先述)よりもクリケットの方がより顕著である。玉木氏の持説「1対1の勝負説」に忠実ならば、野球よりもクリケットの人気が出ていなければおかしい。

 つまり、「1対1の勝負説」では、野球とクリケットとの比較を欠いている。つまり、なぜサッカーではなく野球なのかという説明はあっても、なぜクリケットではなく野球なのかという説得力ある説明を玉木氏はしていない。

 これらの疑問の数々に、玉木正之説は堪(こた)えられない。とどのつまり玉木氏の「1対1の勝負説」は間違っているのである。

 ついでながら、戦国時代の長篠の戦い(1575年=天正3)で、織田信長が「3組に分かれた鉄砲隊〔1000丁×3組=3000丁の鉄砲隊〕が順々に入れ替わって火縄銃を撃った」という俗説。最近の歴史研究では否定する人が多い。この辺は、鈴木眞哉氏の『鉄砲と日本人』などの著作を参考にしていただければと思う。

 玉木説は、思い込みと俗説によるいかがわしい産物である。

日本人はチームプレイ=団体闘争が苦手?
 玉木正之氏は、「1対1の勝負説」に代表されるように日本の「歴史的・文化的背景」が、日本においてサッカーやラグビーよりも野球の人気が突出した理由だとしている。同時に、玉木氏は、その「歴史的・文化的背景」による「野球の普及は、無自覚的に、日本のスポーツ界全体に悪影響を及ぼした」などと述べている。

 当ブログは、日本のスポーツ界に一切合切「歪み」がないと言いたいのではない。それはあるだろう。

 しかし、これまで論じてきたように、玉木正之氏の「1対1の勝負説」は徹頭徹尾間違っている。その間違った文化的本質主義から、日本のスポーツの「歪み」を批判しても、かえって「歪み」が増すだけだ。

 実際、玉木氏と元ラグビー日本代表・故平尾誠二氏との馴れ合い関係が、一度は日本ラグビーを奈落の底に叩き落したのである(下記ツイッターのリンク先を参照)。


 どうしたって玉木正之氏の「1対1の勝負説」は間違っているのである……。

 ……と、話はここで終わっていいのである。が、日本人は元来チームプレー・団体戦が苦手だと事あるごとに附会(ふかい)してきた玉木正之氏を見ていると、「日本人アスリートは〈団体闘争〉が苦手」と論じているサッカーの河内一馬氏を思い出してしまう。




 当ブログ「玉木正之氏〈日本で野球が人気なのはなぜ?〉に反論する」シリーズの総括と合わせて、河内氏と玉木氏の奇妙な共通項にも触れるために、もう1回だけ同じテーマで続けたいと思う。




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