スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:橋本治

古代日本の謎の球技と現代日本のスポーツとの関係
 「大化の改新」のきっかけとなった古代日本のクーデター「乙巳=いっし=の変」(645年)。その立役者,中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が面識を持ったのは「蹴鞠(けまり)」の会であったと、これまで信じられてきた。
kokusikaiga
【小泉勝爾『中大兄皇子と中臣鎌足』神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより】

 ところが、事の顛末(てんまつ)を記した『日本書紀』皇極天皇紀には「蹴鞠」ではなく「打毱」と表記されている。この球技の正体が分からない。いくつかの理由から、これは蹴鞠ではなく、杖(スティック)を手に持ってボールを打つホッケー風球技ではないかという説もある(国文学者・西宮一民氏,埼玉県立博物館・井上尚明学芸員ほか)。
正倉院宝物より
【打毱(正倉院宝物)小学館版『日本書紀』より】

 中でもスポーツライター玉木正之氏は、ホッケー風球技説の熱烈な支持者であり、蹴鞠説に否定的な立場をとっている。玉木氏は、そのことがその後の日本のスポーツ文化,日本のスポーツの在り方まで既定しているのだという。

 すなわち、日本でサッカーJリーグの人気がプロ野球に敵(かな)わないのも、日本サッカーが世界の一流国と互角に戦うことができないのも(一流国と互角に戦えるのなら一流国のはずなのだが……)、すべて大化の改新の始まりとなった古代日本の球技が蹴鞠ではなく、ホッケー風の球技だったからだと、玉木氏は言うのである。

小説を歴史的真実の根拠とする「スポーツ学者」玉木正之氏の感覚
 しかし、玉木氏がホッケー風球技説を支持する理由というのが今一つ薄弱である。当ブログ(の中の人間)は、玉木氏のウェブサイトを通じて、その根拠を質問したことがある。

 すると玉木氏は、何と! 橋本治氏が書いた小説『双調平家物語』にそう書いてあるからなのだと回答してきた。

 歴史的真実について話をするのに、その根拠として史料や実証ではなく小説=フィクションを挙げるスポーツライター玉木正之氏の感覚は……ハッキリ言って信じがたい。筑波大学や立教大学,国士舘大学など、いくつもの大学・大学院でスポーツ史やスポーツ文化を教えている大学教授でもある玉木氏の資質が、大いに疑わしくなる。

 それでも『双調平家物語』を読むのはなかなか興味深いものがあった。たしかに『双調平家物語』は、該当の球技を蹴鞠ではなく、ホッケー風球技として描いている。しかし、橋本氏はがそういう設定にしたのは、あくまで創作=小説としてのものだ。歴史の真相を述べようとしたものではない。何より、中大兄と鎌足の出会いも本来の『日本書紀』皇極天皇紀の描写とはまったく違うものとなっている。

 ところで、『双調平家物語』の巻末には、参考文献として歴史学者(日本古代史),遠山美都男氏の『大化の改新~六四五年の宮廷革命』(中公新書)が挙げられている。

 こちらの著作では、問題の球技は、2人の出会いは、どのように語られているのか?

遠山美都男氏のスタンスと橋本治氏の着想
 結論を先に言うと、遠山美都男氏の『大化改新~六四五年の宮廷革命』は、問題の古代日本の球技が蹴鞠なのか蹴鞠ではないのか……という問題に関して、橋本治氏の『双調平家物語』にさしたる影響を与えていない。
 鎌足は、中大兄の若さと器量に注目する。弱冠十九歳だが、この皇子ならば現状打開の大事をともにできる。だが、皇子の知遇を得る機会がなかなか訪れない。

 ところが幸運にも、鎌足が飛鳥寺の西の広場を通り過ぎようとした時、そこで蹴鞠に興ずる中大兄に出会う。鎌足は脱げとんだ中大兄の靴をひろい、これを献じた。中大兄は、跪いて靴をささげもつ男の目に尋常ならざる決意を感じ取った。

 これをきっかけに両者はたびたび出会い、いつか、お互いの主張や理想を熱っぽく語り合うようになる。おのずと談論は蘇我本宗家の専横の一事にいきついた。〔以下略〕

⇒遠山美都男『大化改新』(中公新書)7~8頁
藤原(中臣)鎌足五円切手
【藤原(中臣)鎌足五円切手】
 遠山氏は、本の冒頭で、実にアッサリと「蹴鞠」と書いている。橋本氏の『双調平家物語』と、その参考文献とした遠山氏の『大化改新』とでは、問題の球技とその描写は、全く違う。『双調平家物語』の設定と描写はあくまで小説のためのものである。

 そもそも、遠山氏も蹴鞠か蹴鞠でないかということにはこだわっていないのである(後述)。

 遠山氏の『大化改新』は、単に大化の改新という歴史的事件にとどまらず、邪馬台国の卑弥呼それ以前の昔にまでさかのぼって、日本列島の権力(王権)の推移の歴史を論じたものである。橋本氏が遠山氏の著作を参考にしたのは、十数巻に及ぶ大河小説である『双調平家物語』の、あくまで作品全体の構成、その着想を得るためである。

 繰り返すが、例の球技を蹴鞠ではなくホッケー風球技と設定したのは、歴史学的な正しさを求めてのことではない。

なぜか軽視される史料『藤氏家伝』の存在
 中大兄と鎌足の出会いの逸話について記した史料には『日本書紀』の他に『藤氏家伝』がある。略称『家伝』。書名にある通り、藤原氏の祖先(鎌足ほか)の伝記である。奈良時代、760年(天平宝字4)に成立。ちなみに『日本書紀』の成立は720年(養老4)である。『書紀』と並んで当時の状況を知るのに非常に重要な史料である。
 中臣鎌足は、中大兄に接近を試みる。ところが、なかなか面識を得る機会が訪れない。『書紀』では「法興寺の槻の樹の下」で行われていた「打毱」の競技の場で、他方『家伝』では「蹴鞠之庭」において、鎌足は偶然にも中大兄に出会うことになる。これをきっかけに二人は意気投合、以後、隔意のない親交が始まり、やがて蘇我本宗家打倒の決意を固めていったとされている。

⇒遠山美都男『大化改新』161頁
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【霞会館蔵「中大兄皇子蹴鞠の図」(部分)筆:原在寛】
 つまり、この『藤氏家伝』の該当部分にも、アッサリ「蹴鞠之庭」と書かれている。ホッケー風競技説を採用している玉木正之氏は『家伝』の記述を無視するのだろうか?
 『書紀』『家伝』……両史料は同一の原史料のをもとに書かれている。

⇒同書11頁
 『書紀』『家伝』の「乙巳の変」〔大化の改新〕の記述は、内容的にはほとんど同じものであり、同一の原史料をもとにそれぞれ文をなしたことが明らかにされている。この原史料には『原大織冠伝』ないしは『入鹿誅滅の物語』という仮称が与えられている(横田健一氏説)。

⇒同書82頁
 『書紀』も『家伝』も、元々は同じテキストなのだそうである。ならば『書紀』にある「打毱」の正体が『家伝』にある「蹴鞠」であってもおかしくない。現代でも、同じ球技のことを「サッカー」「フットボール」「蹴球」、あるいは「野球」「ベースボール」などと、いろいろ表記が分かれていたりするではないか。

途絶えたフットボールの系統
 一方で、日本に現在伝わっている蹴鞠は、2チーム対峙してゴールを狙うものではないスタイルの蹴鞠である。こうした蹴鞠は、9世紀に近い年代の遣唐使などによって日本に伝えられたのはほぼ確実である。したがって、大化の改新(乙巳の変)7世紀の西暦645年の日本に蹴鞠は存在しない。つまり、問題の球技は蹴鞠ではないという説がある。

 こうした説と『家伝』の記述との矛盾をどう解釈すればいいのか? 例えばの話……。

 ……明治6年(1873)、日本に最初に伝えられたとされる海軍兵学寮の「フットボール」は、実はサッカーなのか、ラグビーなのか(あるいはそのどちらでもないのか)、分からなくなっている。それでサッカージャーナリストの後藤健生氏と、ラグビー史研究家の秋山陽一氏との間でちょっとした論争にもなっている(下記リンク先参照)。
 この辺は、大化の改新と縁のある古代日本の球技が、蹴鞠なのか、蹴鞠ではないホッケー風球技なのかという論争(?)と、似ていなくもない。余談だが「大化の改新」も「明治維新」も国家の一大変革の時代という共通点もある。
1874年「横浜で行われたフットボール」
【『神奈川新聞』のウェブサイトから】

 また、海軍兵学寮の「フットボール」の系統は途絶えている。現在の日本のサッカーは筑波大学(当時の高等師範学校)から、ラグビーは慶應義塾から始まった始まった系統である。

 他にも、明治時代初期に日本に伝えられた英国生まれの球技「クリケット」も、明治の中頃まで行われた後に一度途絶えている。現在日本で行われているクリケットは1970年代後半になってあらためて紹介されたものである。
レクリエーショナルクリケット協会ウェブサイトから
【「レクリエーショナルクリケット協会」のウェブサイトから】

 中大兄皇子が行っていた蹴鞠の系統は一度途絶え、その後、改めて現代日本に伝わるスタイルの蹴鞠が日本に入ってきた。近現代の日本スポーツにあったことが、古代においても起こりえたのではないか。

 むろん、当ブログは蹴鞠説が一方的に正しいという主張をしたいのではない。この問題は邪馬台国論争と同じで、蹴鞠説でも、ホッケー風競技説でも、どちらも決定打がない。当ブログは、蹴鞠でも蹴鞠でなくでもどっちでもいい。

 玉木正之氏については、自説を主張するならばちゃんと論争が成り立つだけのハッキリとした裏付けをもってやってほしい。それができないならば一面的な主張は慎んでほしい。当ブログの願いは、ただただそれだけだ。

玉木正之説のナンセンスが暴き出された
 『日本書紀』は勅撰正史という政治的テキストであるがゆえに一方で謎が多く、脚色や潤色が多い、その記述をすべて額面通りに信用できないといわれている。だから、これまでにも「郡評論争」「法隆寺再建論争」「聖徳太子非実在論争」「大化の改新虚構論争」といった日本古代史のさまざまな論争を起こしてきた。

 さまざまな理由から「打毱」の会での、中大兄と鎌足の出会いのエピソード自体が虚構ではないかとする説もある。この説を採用、『日本書紀』の「話自体が事実を正確に伝えるものではない」、「そこから一定の史実を引き出せるような性質の史料ではない」という立場をとっているのが、実は遠山美都男氏の『大化改新』なのである(167頁)。

 そうなると、大化の改新における古代球技問題の意義付けも変わってきてしまう。それが蹴鞠なのか、蹴鞠ではないホッケー風球技なのか、無意味なものになってしまうからだ。

 想像であるが、橋本治氏は『双調平家物語』を執筆するにあたり、遠山氏『大化改新』の例の逸話は虚構であるという説をよりどころにして、問題の場面の球技を蹴鞠ではなく、ホッケー風球技として描いたのかもしれない。史実とされているものも実は虚構かもしれないとするならば、自由な創作をするのにもためらいがなくなるわけだ。

 いずれにせよ、玉木氏が「大化の改新のキッカケがは蹴鞠ではない説」を主張するのに、作家・橋本治氏の小説『双調平家物語』だと臆面もなく言い出す。その『双調平家物語』が参考文献とした歴史学者・遠山美都男氏の『大化改新~六四五年の宮廷革命』では、問題の場面は虚構だという考えを採っている……。

 ……こうしたところからも、玉木正之説のナンセンスぶりがよく分かるのである。

(つづく)


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玉木正之説の根拠(?)橋本治作『双調平家物語』
 古代日本のクーデター「大化の改新」(乙巳=いっし=の変,西暦645年)の主役,中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)。もともと面識がなかったという2人が出会ったのは、従来、蹴鞠の会であったと信じられてきた。
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【霞会館蔵「中大兄皇子蹴鞠の図」(部分)筆:原在寛】

 ところが、中大兄と鎌足の邂逅(かいこう)を描写している『日本書紀』皇極天皇紀にはハッキリ蹴鞠とは書いていない。そこにあるのは「打毱」という正体の知れない記述である。そこで、該当する概念は蹴鞠とは違う別の球技なのではないか……という説も一方で唱えられてきた。
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 中でも、スポーツライター玉木正之氏は、これは蹴鞠ではなく、スティックを使ったホッケー風の球技であると繰り返し、かつ強硬に主張してきた。玉木氏は、中大兄と鎌足の出会いのキッカケが蹴鞠ではなかったことが、その後の、現代にいたるまで日本のスポーツ、日本のスポーツ文化の在り方まで規定してきたのだという。

 すなわち、日本人とはサッカーが苦手な民族である。日本でサッカーより野球の人気が高いのも、日本のサッカーが世界の一流国に伍して戦うことができないのも、日本人が民族的にサッカーが苦手だからである。その証拠として、大化の改新のきっかけも従来信じられていた蹴鞠ではなく、ホッケー風の球技だったのである……ということである。

 玉木氏は、その根拠として橋本治氏の小説『双調平家物語』では、問題の球技(打毬)が、スティックを使ったホッケー風の球技として描かれていることを挙げている。

『双調平家物語』に描かれた球技のルールとは?
 歴史書、なかんずく日本国(倭国)の正史である『日本書紀』その他の史料を吟味することなく、現代に書かれた小説(フィクション)の方が歴史的真実として正しいという玉木正之氏の言い分は、バカバカしすぎて噴飯ものなのだが、それでも橋本治氏の小説『双調平家物語』にある打毬とはそのような球技なのか、検証する意義はあるだろう。

 まず、『双調平家物語』で「打毬(まりうち)」がどのような球技として描写されているのかを見ていく。
 若い男達が二手〔ふたて〕に分かれ、両の掌〔て〕に収まるほどの白い鹿の皮でくくった毬〔まり〕を、走りながら桃の打〔う〕ち杖〔づえ〕で叩き合っている。走り回るには十分な距離を隔てて、南北に広がった川原の両端には、布を結びつけた二本の旗竿〔はたざお〕がそれぞれ門構〔もんがま〕えのように立てられている。敵味方に分かれた二組が、打ち杖で叩いた毬〔まり〕をその門内に入れて勝ち負けを競う。若い男たちは息を切らせて走り、供〔とも〕として従った官人〔かんじん〕や下人〔げにん〕の男達も、息を詰めてその様を見守っている。裸足〔はだし〕の下人の中には、爪先〔つまさき〕立ちをした足を躍〔おど〕らせかかっている者もいる。勝ちを決めた[ゴールを決めた?]組が騒げば、負けとなった組もまた、声ばかりは負けじと落胆の喚〔おめ〕きを上げる。ほとばしるほどの若さには、韓〔から〕渡りの凝〔こ〕った仕様〔しよう〕の打ち杖よりも、まだみずみずしさの残る桃の切り枝の方が似合っていた。

橋本治『双調平家物語2 飛鳥の巻〈承前〉』(中公文庫)2009年
「大欅〔おおけやき〕」の章,224~225頁
 球技の概要自体は引用文の通りである。だが、ここから、またひとつ疑惑が発生する。

 該当する球技は蹴鞠ではない。ホッケー風の球技だと強く主張する玉木氏に対し、当ブログ(の中の人間)は、問題の球技は『日本書紀』本来の記述では「毱といっしょに脱げ落ちた靴を追いかけていった」(原文:而候皮鞋随毱脱落)となっているが、玉木氏の解釈ではどうなっているのか? 手に杖をもって毬を叩く球技では靴は脱げていかないのではないか、矛盾はないのか? と質問したことがある(下記のリンク先参照)。
 すると、玉木氏は「『双調平家物語』には、打毬は毬を杖で叩くだけでなく、足で蹴ってもよいルールの球技として描かれている。だから問題はないのだ」と回答してきた。

 しかし、上記引用文の通り、『双調平家物語』にそのような説明はないのだ。

 玉木氏が『日本書紀』皇極天皇紀をまともに読んでいないのは明らかだが、ひょっとしたら『双調平家物語』すらまともに読んでいないのではないかと勘ぐってしまう。

『双調平家物語』に描かれた中大兄と鎌足の出会い
 続いて『双調平家物語』では、中大兄皇子と中臣鎌足の出会いはどのように描かれてるのか? 朱太字で強調した部分に特に注意して読んでいただきたい。
 鎌足公が打毬〔まりうち〕の技を見るのは、これが初めてではない。仏法や儒教と同じように海を越えて伝えられたこの技を、鎌足公は河内〔かわち〕の郷〔さと〕で帰化人の子供達が遊び戯れながらしているのを見たことがある。しかし、ただ毬〔まり〕を打って走るという技がこれだけ若い男を興奮させるものだとは思わなかった。今ではそれも分かる。分からぬわけではない。しかし鎌足公の望むことは、その打毬〔まりうち〕の技の中に入ることではなかった。

 しばらく什〔たたず〕む内〔うち〕に、人の群れが北から走り寄って来た。喚声が上がり、打たれた毬が陣となった旗竿〔はたざお〕をそれて、鎌足公の方へ流れて来た。ただ件むばかりの鎌足公の足下へ落ちた毬は、そのまま後ろへと転がって行く。鎌足公はその行方を目で追い、足で尋ねた。

 両の掌〔て〕に収まるほどの毬〔まり〕を持ったままの鎌足公は、それをどうしたらよいかと考えた。陣の脇に集まって来た若者達は、口々に「よこせ!」と叫んでいる。そこには中大兄皇子のお姿もあった。鎌足公は、手にした毬〔まり〕をうやうやしく捧〔ささ〕げ持つと頭〔こうべ〕を下げ、皇子の御前へ静々と歩み寄ろうとした。

 そこに一際鋭いお声があって、「寄るな」と仰せられる。鎌足公は立ち止まり、その場に膝をついた。するとそのお声は、「投げよ」とお命じになった。

 鎌足公は頭を上げ、「投げよ」どの仰せを受けたその間の距離を目で測〔はか〕った。四五間〔けん〕もあったであろうか。そのような距離で物の投げ渡しなどしたことはない。「投げよ」との仰せを受けた以上、それをお投げすることは無礼に当たらない。この場で式張〔しきば〕ったうやうやしさをお見せするそのことの方がかえって非礼に当たるのであろうと思われた鎌足公は、その軽い毬を投げた。投げたつもりで、しかしその毬はほんのわずかのところで落ちた。どても四五問の距離を渡すどころではない。川原には若い洪笑〔こうしよう〕が起こった。

 鎌足公は慌てて、手前に落ちた毬に走り寄って再び手にした。四間ばかり先の皇子は、再び「投げよ」と仰せになる。〔まり〕を手にした鎌足公は、大きく振りかぶると、この時ばかりは力をこめて投げた。またしても大笑いの渦が起こった。いかがしたごとか、毬は飛ぶのではなく、ただ落ちるばかりであった。

 「もうよい」と皇子は仰せになる。しかし鎌足公には意地があった。〔以下略〕

橋本治『双調平家物語2 飛鳥の巻〈承前〉』(中公文庫)2009年
「蒼天〔そうてん〕」の章,231~232頁
 要点をあらためて箇条書きにする。
  1. 杖で打たれた毬がそれて、打毬を観ていた鎌足の前に流れてきた。
  2. 鎌足の足元に落ちた毬は、そのまま後ろに流れ、鎌足はその毬を追いかけた。
  3. 鎌足は、手にした毬をうやうやしく捧げ持ち、頭を下げて中大兄の前に歩み寄ろうとした。
  4. しかし、中大兄は鎌足に「寄るな」と言い、その毬を「投げよ」と命じた。
  5. 鎌足は、その毬を投げたがすぐ前に落ちた。鎌足は再び投げたがやはりすぐ前に落ちた。
 以上がその顛末(てんまつ)である。しかし『双調平家物語』はあくまで小説(フィクション)である。『日本書紀』には肝心の場面はどのように表現されているのか?

『日本書紀』皇極天皇紀には何と書いてあるのか?
 現在、流通する『日本書紀』のテキストには大きく分けて岩波文庫版と小学館版の2つにある。『日本書紀』皇極天皇紀、その問題の箇所には何と書かれているのだろうか?
 それぞれ該当する箇所を引用、検討してみたい。まずは岩波文庫版からである。
ワイド版岩波文庫『日本書紀(四)』より
 偶(たまたま)中大兄の法興寺(ほうこうじ)の槻(つき)の樹(き)の下(もと)に打毱(まりく)ゆる侶(ともがら)に預(くはは)りて、皮鞋(みくつ)の毱(まり)の随(まま)(ぬ)け落(お)つるを候(まも)りて、掌中(たなうら)に取(と)り置(お)ちて、前(すす)みて跪(ひざまづ)きて恭(つつし)みて奉(たてまつ)る。中大兄、対(むか)ひて跪きて敬(ゐや)びて執(と)りたまふ。


 ちなみに、岩波文庫版の「打毱」の解釈は「蹴鞠」である。続いて小学館版である。
小学館・新編日本古典文学全集(4)『日本書紀(3)』より
 偶(たまさか)に中大兄の法興寺(ほうこうじ)の槻樹(つきのき)の下(もと)に打毱(ちょうきゅう)の侶(ともがら)に預(くはは)りて、皮鞋(みくつ)の毱(まり)の随(まにま)に脱(ぬ)け落(お)つるを候(うかか)ひ、掌中(たなうら)に取(と)り置(も)て、前(すす)みて跪(ひざまづ)き恭(つつし)みて奉(たてまつ)る。中大兄対(むか)ひて跪き、敬(ゐや)びて執(と)りたまふ。


 こちらの「打毱」(ちょうきゅう)の解釈は、杖(スティック)を用いたホッケー風の球技である。

 もちろん、ここでは「打毱」がいかなる球技なのかということが問題なのではない。中大兄と鎌足,2人の出会いがいかに描かれているかということである。こちらも要約してみると……。
  • 中大兄の靴が毱に従って脱げた⇒鎌足が追いかけて手に取った⇒鎌足はその靴を中大兄の前でひざまずいてうやうやしく差し出した⇒中大兄も鎌足を敬ってひざまずきその靴を受け取った。
 ……中大兄が鎌足に対してとった態度は、皇族が臣下にとるものとしては異例の対応である。それだけ2人の生涯にわたる友情のきっかけでもあったという含みがある。
kokusikaiga
【小泉勝爾『中大兄皇子と中臣鎌足』神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより】

歴史とフィクションの違いが分からない玉木正之氏
 司馬遼太郎氏の作品などもそうだが、歴史小説は史実や史料そのままを叙述したものではない。たいていフィクションが入ってくる。小説は、そうすることによって世界観がより豊かになるのだ。しかし、それは歴史本来の楽しみ方とはまた別のものである。

 脱げてきた靴を手に持ちつつしんで差し出した歴史書『日本書紀』と、それてきた毬を手に持って投げ返そうとした小説=フィクション『双調平家物語』。両者の描写は、これだけ違う。橋本治氏がこうした設定と表現を選んだのは、あくまで小説としてであって、歴史上の事実を述べたわけでも、実証したわけでもない。

 やはり、正史『日本書紀』皇極天皇紀に登場する、古代日本の謎の球技の実体を、橋本治氏の小説=フィクション『双調平家物語』をもって根拠とする玉木正之氏の姿勢は完全におかしい。

 玉木正之氏は歴史と小説(あるいはフィクション,物語)の区別が分からない?

 否。邪推するに、玉木氏は日本人はサッカーが苦手な民族であるという強烈なイデオロギーを持っていた。そのためには日本の歴史や文化,民族性の裏付けがなければならない。玉木氏は、大化の改新のキッカケになった球技は蹴鞠ではないらしいという話を聞きかじって、コレだ! と思った。しかし、玉木氏はそのソースを知らない。小学館版『日本書紀』が蹴鞠説ではなくホッケー風球技説を支持していることも知らなかった(笑)

 そんなところへ、ホッケー風球技説を採用した橋本治氏の小説『双調平家物語』の存在を知った。玉木氏は文学・思想方面へのコンプレックスが強い人で、その分、事実とか実証とかを軽く見る人である。この小説をに飛びついて、歴史的真実として信じ込み、吹聴するようになった。おそらく、こんなところではないか。

 いずれにせよ、こんな人が日本のスポーツジャーナリズムの第一人者だと思われていたり、筑波大学や立教大学のような大学・大学院でスポーツ史やスポーツ文化について教えていることは、日本のスポーツにとっても、日本の学術にとっても、日本の社会にとっても害悪である……。

『双調平家物語』のネタ本? 遠山美都男著『大化改新』
 ……と、ここまでは、いつものフンガイした終わり方なのだが、問題の『双調平家物語2 飛鳥の巻〈承前〉』(中公文庫)の巻末363頁で興味をかき立てる記述を知った。
参考文献:遠山美都男著『大化改新~六四五年の宮廷革命』(中公新書)



 橋本氏の小説は、歴史学者・遠山美都男氏の著作を参考にしているのだという。この本には何と書かれているか。大化の改新と古代球技の問題にどんな解釈を与えているのか。

 探求していきたい。

(つづく)


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 スポーツライター玉木正之氏は、いくつかの大学や大学院で客員教授や非常勤講師を務めている(2016年時点で5つの大学・大学院)。当然、学生・院生たちにも蹴鞠否定論を教えている。

『玉木正之 スポーツ・ジャーナリズムを語る』(国士舘大学体育・スポーツ科学学会)2003年
tamaspo
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 《古代メソポタミアで始まったボールゲームは、東に渡って、中国や日本にも伝わります。そのときに呼ばれていた名前が鞠打(ぎっちょう)です。これは日本書紀に出ていて、“くゆるまり”ともいいます。大化の改新の前、中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿を殺そうという謀議を巡らせるのですが、鞠打をやっているときに靴が脱げて、その靴を取りに行くふりをして、クーデターを決行しようという話をその2人がしたと『日本書記』に出ています。また、鞠打は『平家物語』にも出ています。〔略〕
 鞠打(ぎっちょう)は蹴鞠(けまり)とは違います。蹴鞠は平安時代に中国から伝わりましたが、鞠打はそれよりもずっと前に伝わった一種のボールゲームです。〔以下略〕》
 玉木氏は、かつてスポーツライター養成塾も主宰していた。おそらく塾生たちにも蹴鞠否定説を教えていたのだろう。以下に紹介するのは、その進塾試験の問題の抜粋である。

『スポーツ・ヤァ!玉木正之のスポーツ・ジャーナリスト実践塾』進塾希望者への筆記試験
掲載日2005-10-03

 《〔玉木氏が〕主宰する『スポーツ・ジャーナリスト塾』で、養成塾から実践塾への進塾を希望する塾生に対して、「面接試験」に加えて初めて「筆記試験」を実施しました。我ながらなかなかイイ問題ができた、と思っているのですが、皆さん〔玉木氏のホームページを閲覧している人々〕も挑戦してみてください。

 これはテストでもありアンケートでもあります。はっきりいって、テストはかなり難しい内容ともいえます。ですから、少々できなくても気にしないでください。とはいえ、プロのスポーツ・ジャーナリストとして活躍するためには、この程度の問題にはすべて正解してほしいとも思います。これは、皆さんを選抜するうえで、また実践塾で講義するうえでの参考にさせていただくために実施するもので、多くの問題に正解したからといって入塾が決定されるわけではありません。が、可能性は高くなりますから、一所懸命取り組んでみてください。時間を少しくらいオーバーしても待ちますから、すべての問題に回答し、白紙提出だけは避けてください。〔中略〕

問2) 問1と同様、歴史の古い順に並べ、その記号を書いてください。〔A~D,Fは省略〕

E.木の下に佇んでいた中臣鎌足は足もとに転がってきた鞠打(くゆるまり)の鞠を拾いにきた中大兄皇子と偶然出逢った素振りを見せ、蘇我馬子を討つ相談をし、乙巳の変(大化の改新)へと突き進んだ。》
 「E」の設問、特に色文字で強調した部分を読んで、おかしいと感じた点はなかっただろうか?
  • おや? 「足もとに転がってきた鞠」は「脱げた靴」の間違いではないのか?
  • おや? 「鞠を拾いにきた中大兄」は「靴を拾った鎌足」の間違いではないのか?
  • おや? 「蘇我馬子」は「蘇我入鹿」の間違いではないのか?
 この程度の疑問が浮かばない人、リテラシーのない人はプロのジャーナリストになることをあきらめた方がいいかもしれない。

 種明かしをすると、玉木氏の設問の文章は『日本書紀』ではなく、『書紀』を独自にアレンジした橋本治氏の小説『双調平家物語〈2〉飛鳥の巻(承前)』(中公文庫)の描写に由来するのである(さすがに橋本氏は「馬子」と「入鹿」を間違えたりはしないが)。日本では「歴史」と「小説(物語)」の区別がつかない人が、スポーツジャーナリズムの第一人者として活躍している。

 (それとも玉木氏は、フランス語などでは「歴史」と「物語」は同じ単語だ。元は同じ概念だとでも屁理屈をこねるのだろうか?)

 玉木正之氏は『日本書紀』のテクストをちゃんと読んでいないのではないか? という疑念がますます深まっていくのである。

(つづく)
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