スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:横山謙三

2021年「ドーハの悲劇」は乗り越えられるのか?
 世界的にパンデミックした新型コロナウィルス感染症「COVID-19」の影響で、国際サッカー連盟(FIFA)が、2021年の秋~冬に行われる予定であるサッカーW杯2022年カタール大会の各大陸予選を、ホーム&アウェー方式から、1か国での集中開催方式(セントラル方式)への変更を考えているというニュースが流れた。

 その際、アジア最終予選の開催地は、W杯本大会を行う中東の国カタールになる可能性が高いのではないかと、後藤健生氏(サッカージャーナリスト)は予想している。

 カタールの首都は「ドーハ」。日本のサッカーファン、サッカー関係者にとって、カタール、ドーハといえば、1993年アメリカW杯アジア最終予選の「ドーハの悲劇」というトラウマである。その詳しいあらましは、ここでは特に説明の必要はありますまい。

「ドーハの悲劇」Wikipedia日本語版(20201003)
【ドーハの悲劇:Wikipedia日本語版2020年10月3日閲覧】

 後藤健生氏は、あの当時と比べても日本サッカーの実力は上がっているし、経験も積んでいる。28年ぶりのカタールでの最終予選が実現すれば、むしろ日本サッカーが「ドーハの悲劇」の記憶を乗り越える好機と考えていいだろう。しかも2022年に開催されるW杯本大会の最高のシミュレーションになるだろう……と「楽観論」を述べている。

 しかし、スポーツマスコミやサッカー論壇は「ドーハの悲劇」の記憶に由来する「悲観論」を、どこまでも煽り立てるだろう。それがサッカーの「現場」にどこまで影響を及ぼすのか否かは、何とも言いかねる。だが、後藤健生氏はともかく、日本サッカー界の体質が何かと「悲観的」で、「ドーハの悲劇」を精神的に乗り越えていないのは間違いない。

 今回は、そういう「悲観論」が蔓延(はびこ)る原因の一端は、実は当の後藤健生氏にもあるのではないか……という不躾な話になる。

「ドーハの悲劇」=「神の教訓」論とは何か
 後藤健生氏が「ドーハの悲劇」について論究したテキストが『ワールドカップの世紀』の第1章「〈ドーハの悲劇〉もしくは神の教訓」である。この本の初版は「ドーハの悲劇」の記憶もまだ生々しい1996年。それにしても「神の教訓」とは穏やかな表現ではない。それは一体どういう意味なのか? 簡単にまとめると、次の3つが要点となる。
〈ドーハの悲劇〉もしくは神の教訓
  1.  サッカー日本代表=オフト・ジャパンは、1992年アジア杯広島大会で優勝した。1993年のアメリカW杯アジア最終予選においても、FIFAの大会報告書にもあったように、参加6か国の中でも最良のサッカーをしていた。……とは言うものの、オフト・ジャパンはあまりにも「ナイーヴ」だった。W杯予選を勝ち抜くための試合の進め方はきわめて拙く、心理的にも冷静さを欠いていた。そんな彼らの未熟さが「ドーハの悲劇」を誘発した。<1>
  2.  「ドーハの悲劇」は、いたずら好きな「サッカーの神様」が、この機会を利用して未熟な日本サッカーに仕掛けた「レッスン」、または「神の教訓」である。
  3.  マスコミなどは「日本サッカー界,悲願のW杯本大会出場」とは言うが、国民的関心と注視の中で行われたサッカー日本代表のW杯本大会挑戦は、実は1993年のW杯アジア予選が初めてだった。国民的な記憶の蓄積がなければ、日本代表はW杯を勝ち抜けていくことはできない。W杯予選というものの難しさを日本中の人々が経験した「ドーハの悲劇」によって、W杯本大会出場は日本にとって本当の意味での〈悲願〉となった。
後藤健生『ワールドカップの世紀』第1章より


ワールドカップの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2012-09-20


 ……こうした歴史観を、後藤健生氏はその後も折に触れて展開している。しかし、後藤健生氏にしては日本サッカーに関してかなり自虐的で、氏の、「ドーハの悲劇」の解釈や批評を「ひとつの物語」に押し込めてしまおうという意図が読み取れてしまうことで、サッカーファンや読者には何とも言えない居心地の悪さがある。

「ドーハの悲劇」は日本サッカーに下された「天罰」なのか?
 そもそも、後藤健生氏のような「ドーハの悲劇」の解釈は珍しくない。例えば、杉山茂樹氏(サッカージャーナリスト)は、これを「天罰」と呼んだ。山崎浩一氏(サッカーファンのコラムニスト)は、これを「天誅」と呼んだ。21世紀に入ってからだが蓮實重彦氏(フランス文学者,映画評論家,東京大学総長ほか)もまた、これをドヤ顔で「天罰」と呼んだ(いずれも次のリンク先を参照)。
 それにしても、高名なフランス文学者である蓮實重彦氏の語彙が、いわゆる「電波ライター」の代表格だとされた杉山茂樹氏の語彙と全く同じだった! ……という衝撃的かつ悲喜劇的な事実は、サッカーファン以上に蓮實重彦ファンは知っておいた方がいいだろう(笑)。

 また、「ドーハの悲劇」=「神の教訓」論では、後に花形ライターとなる金子達仁氏(スポーツライター,ノンフィクションライター)が『激白』などの著作で展開した「ドーハの悲劇」=「日本が弱かっただけ」論や、「ドーハの悲劇」=「日本は負けてよかった」論と大して変わらない議論になる。

 話を戻して、日本サッカー自体が何か特別な「原罪」のようなものを抱えていて、「ドーハの悲劇」のような出来事は、人知を超越した絶対的能力を持った存在(神または天)が下した罰だ教訓だ……などという話は、実は日本のサッカー論壇に染み付いた「自虐的日本サッカー観」そのものであり、常套句(決まり文句,クリシェ)なのである。

 そうした「自虐的日本サッカー観」こそ、2021年に開催が予想されるカタールW杯アジア最終予選の1か国集中開催における「悲観論」の温床である。こうしたサッカー観には反対の立場をとっている後藤健生氏にとって、これは本来、非常によろしくないことだ。

横山全日本とはどんなサッカー日本代表だったのか
 後藤健生氏で不可解なのは、オフト・ジャパン(1992~1993年のハンス・オフト監督率いる日本代表)より一代前、1988~1992年の横山謙三監督率いる日本代表……便宜的にこれを「横山全日本」と呼ぶことにするが、横山全日本について、きわめて断片的にしか言及していない、むしろ、ある意味で避けていることである。

 では、横山全日本とはどんなサッカー日本代表だったのか? 横山謙三監督、現役時代のポジションはGK、立教大学卒、旧・日本サッカーリーグの三菱重工(現・浦和レッドダイヤモンズ)に入団した。1968年メキシコ五輪サッカー競技の銅メダリストのひとり。

 日本代表の監督としては、当時の世界最先端の戦術である3-5-2システムを採用し、ウイングバック(両サイドのMF)を攻撃の基点とする戦術を採った。しかし、フィットする選手がおらず、1989年のイタリアW杯アジア予選では1次予選で実にあっけなく敗退してしまう。

 前回を下回る結果に加え、その後の試合や大会でも不甲斐ない戦いを続けて、業を煮やしたサッカーファンの不満が高まり、ファンによる横山監督退陣要求署名運動やシュプレヒコール、スタジアムにおける解任を要求する横断幕の掲示が行われた。有名なサッカーブロガーさん(○釆尺○)が、出待ちで横山謙三監督に「ヤメロ! ヤメロ!」と罵声を足せていたという目撃証言もある

 1991年1月23日には、ついにサッカーファン有志が日本サッカー協会(JFA)に「横山謙三日本代表監督,退陣要求嘆願書」を提出する事態にまでなっている。佐山一郎氏(作家,編集者)が『日本サッカー辛航紀』でこの辺の事情を書き記している。
代表監督に絶縁状を突きつけた1・23決起のホロ苦さ
 この時代のスクラップファイルをあたると、「横山謙三日本代表監督,退陣要求嘆願書」(発起人・萩本良博,当時22歳)の現物と「朝日ジャーナル」1991(平成3)年2月15日号に寄稿したコラムがセットで収められている。

 嘆願書には、辞任要求の理由が〈罪状〉さながらに5つ挙げられている。
  1.  就任当初、1年で韓国に追い付くと公言しながら、一向に差が縮まっていないこと
  2.  イタリア・ワールドカップ予選において、第1ラウンドで日本を敗退させたこと
  3.  ダイナスティカップ、アジア大会でメダルを取るとの公言に反し、敗退させたこと
  4.  攻撃サッカーを提唱しながら、零敗の連続であること
  5.  選手の選考、戦術が我々の理解の限度を超えたものであること〔原文太字ゴシック〕
佐山一郎『日本サッカー辛航紀』第5章より


 オフト・ジャパンの一代前のサッカー日本代表は、こんな迷走状態だった。

森→石井→横山→オフトの流れからサッカー日本代表を再検証する
 サッカー日本代表は、オフト・ジャパンになってから急に強くなって国際レベルでも戦えるようになったようにも見えるが、これは必ずしも正しい見方とは言えない。

 1980年代、日本のサッカーは、1985年にメキシコW杯アジア最終予選まで進出した森孝慈監督の日本代表(森全日本)、1987年にソウル五輪アジア最終予選まで進出した石井義信監督の日本代表(石井全日本)と、曲がりなりにも「良い流れ」を作っていた。ところが、これを継承した「横山全日本」は「良い流れ」を停滞させてしまった……。

 ……これは、対談本『ぼくたちのW杯』などの著作がある、オールドサッカーファンの久保田淳氏が、初代サポティスタ浜村真也氏が主催したトークイベントで述べていた回顧談である。氏は、横山監督退陣要求嘆願書運動の発起人・萩本良博氏とも、後藤健生氏とも、オールドサッカーファン同士、よく知った間柄だ。

 ここから話は想像力の翼を全開する。横山謙三監督は、日本の実情を無視して、世界最先端の戦術を形式通り導入しようとして失敗した。山っ気に走らず、しかるべき指導力を発揮していれば、日本代表は1989年のイタリアW杯アジア最終予選には進出できたかもしれない。

 最終予選は6か国総当たりで、たとえ全敗でも5試合経験できる。日本代表の選手や監督・コーチらスタッフ、さらにその裏方のJFAもそれだけ経験が詰める。テレビ中継(その場合,NHK-BSか?)ほか、日本のスポーツマスコミもそれなりにフォローしただろうから、国民的とはいえないまでも、スポーツファンの多くもサッカーW杯の本大会に出場することの困難さの経験を共有できただろう。

 それだけの「経験」を積めば、サッカー日本代表は1993年の「ドーハの悲劇」もなく、1994年のアメリカW杯本大会に出場できていたかもしれない。

有り得べき過去の想像=思想を放棄(?)した後藤健生氏
 後藤健生氏は、「ドーハの悲劇」=「神の教訓」論で、要は日本サッカー総体が経験不足だから日本代表はアメリカW杯本大会に行けなかったと言っている。だが、「神の教訓」ではなく、オフト・ジャパンの有り得(う)べき可能性について、あらゆる角度から検証してこそ「ドーハの悲劇」は真の「教訓」たりうる。

 しかし、後藤健生氏は、サッカー日本代表の歴史を、1980年12月のスペインW杯アジア予選から1996年12月のアジア杯までクロニクルで描いた『日本サッカーの未来世紀』では、これまで述べてきたような横山全日本時代の込み入った経緯には触れていないのである。

日本サッカーの未来世紀
後藤 健生
文藝春秋
1997-03T


 『日本サッカーの未来世紀』では、横山全日本最後の試合、1991年7月に長崎県諫早市に行われた日本vs韓国戦(日韓定期戦,日本の敗戦)を話の中心に据えており、横山監督退陣要求嘆願書運動という、あからさまな歴史的事件には特に触れていない。

 不可解である。当時の後藤健生氏はフルタイムのサッカージャーナリストではなく、サッカーファン、サポーターとの境界線上に位置する人だった。だから、萩本良博氏らとは知らない間柄ではない。そして、日本代表サポーターの横山監督退陣要求嘆願書運動という動きを全く知らないということはない。やはり、氏は、この問題について考えることを避けているのではないかと疑ってしまう。

サイモン・クーパー的「ジャパンはなぜドーハで負けたのか」の論考
 何かにつけて日本のサッカーは経験不足だと言われてきた。けれども、サイモン・クーパー(ジャーナリスト)とステファン・シマンスキー(スポーツ経済学者)は、その著書『「ジャパン」はなぜ負けるのか』でアッサリと言う。経験不足ならば西欧のサッカー先進地帯の優れた監督・コーチを連れてきて指導に当たらせればいいではないか……と。



 経験が足りないから、外から優れた指導力を持つ監督・コーチを連れてくるのである。この伝で行けば、サッカーチームにおける敗北の原因、第一義的責任は監督・コーチにある。思った成果が上げられなかったら、まずは監督を評価あるいは批判をするべきである。

 こうした観点から「ドーハの悲劇」を検証した観戦レポートに、ミニコミ誌から単行本『日本サッカー狂会』に転載された小川智史氏(成城大学サッカー部監督)の「ハンス・オフトの失敗~なぜ日本代表はワールドカップにいけなかったか?」がある。これを読むと、それまで私たちを束縛していた自虐的「ドーハの悲劇」史観が一変する。

日本サッカー狂会
国書刊行会
2007-08-01


 当時のサッカー日本代表は、W杯本大会出場に足るだけの実力も内容も備えていた。敗因=「ドーハの悲劇」の原因は、第一に監督ハンス・オフト氏の指揮官としての数々の判断のミス、そして選手たちの経験不足である……と。

 『日本サッカー狂会』の編者は、小川智史氏の「ハンス・オフトの失敗」について「1993年アメリカW杯アジア最終予選の戦評と敗因分析について,どの新聞・雑誌よりも的確な論評で〈ドーハの悲劇〉再考のキッカケになる」と自讃している。この表現に誇張はない。この観戦レポートが、一部の人しか読めないミニコミ誌から、きちんとした形で公刊された意義は大きい。日本サッカー史を振り返る時に重要な資料(史料)である。

 サッカーは、欧米一神教世界の契約社会的なスポーツである……と、佐山一郎氏は折に触れて言っている。

 こういうサッカーにおける日本人論・日本文化論の類を本気にする必要は全くない。けれども「ドーハの悲劇」を「神の教訓」と呼んだ後藤健生氏の論考が、非常にウェットで非契約社会的な内容なのに対して、小川智史氏の観戦レポートはあくまで監督ハンス・オフトの失敗と責任を問う、きわめてドライで契約社会的な内容になっている。

 まことに皮肉で対照的な批評になっている。

未だ書かれざる「1989年のサッカー日本代表」
  ××××年の○○○○……という命名は、柳澤健氏の『1976年のアントニオ猪木』や『1964年のジャイアント馬場』『1984年のUWF』といった、一連のプロレス&格闘技ノンフィクションの題名を思い出させる。

 実は、柳澤健氏は後藤健生氏の『日本サッカーの未来世紀』ほかの「サッカーの世紀シリーズ」とでも呼ぶべきサッカー本の担当編集者でもあった。

 これまで、1936年、1968年、1993年、1996年、1997年、2002年,2006年……のサッカー日本代表(五輪代表を含む)について、「××××年のサッカー日本代表」とでも呼べそうな、興味深いノンフィクション作品が書かれてきた。

ベルリンの奇跡 日本サッカー煌きの一瞬
竹之内響介
東京新聞出版局
2015-11-23


狂気の左サイドバック (新潮文庫)
治夫, 一志
新潮社
1997-09T


28年目のハーフタイム (文春文庫)
金子 達仁
文藝春秋
1999-10-08


 ところが不思議なことに、そして管見の限り、横山全日本=「1989年のサッカー日本代表」はスポーツジャーナリズムにとって手つかず、未検証の題材である。もし、横山全日本が停滞していなかったら「ドーハの悲劇」はなかったかもしれない……という煽り文句ならば、それがどこまで実態を反映していたのかどうかは別にして、サッカーファンやスポーツファンの読者を惹(ひ)きつけるいい文言になるだろう。

 我と思わんスポーツライター志望者,ノンフィクションライター志望者の人は、各位に取材して、一筆したためてみるのも面白いかもしれない。……というか、ソレを読んでみたい。これは今のうちに話を聞いておくべき事柄でもある。

 諦めの悪さこそが、批評の原点でもあるからだ。

「ドーハの悲劇」は真の「教訓」たりうるか
 来たる2021年、日本サッカー協会(JFA)は創立100周年を迎える。JFA公式のみならず、これを記念した刊行物=本もいくつか出版されるのではないかと予想される。ひょっとして、どこぞの版元から後藤健生氏のもとに企画は来ていないだろうか?

 JFAの100周年、そこで「ドーハの悲劇」や「横山全日本」はどのように総括されるのだろうか? そして、それは日本サッカーにとって真の「教訓」たりうるのか?

 さらに、同年に行われるW杯アジア最終予選(カタール?)に出場予定のサッカー日本代表は、その「教訓」をもとに如何に戦い、W杯本大会のクオリファイをするのか?

(了)




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2021年「ドーハの悲劇」は乗り越えられるのか?
 世界的にパンデミックした新型コロナウィルス感染症「COVID-19」の影響で、国際サッカー連盟(FIFA)が、2021年の秋~冬に行われる予定であるサッカーW杯2022年カタール大会の各大陸予選を、ホーム&アウェー方式から、1か国での集中開催方式(セントラル方式)への変更を考えているというニュースが流れた。

 その際、アジア最終予選の開催地は、W杯本大会を行う中東の国カタールになる可能性が高いのではないかと、後藤健生氏(サッカージャーナリスト)は予想している。

 カタールの首都は「ドーハ」。日本のサッカーファン、サッカー関係者にとって、カタール、ドーハといえば、1993年W杯アジア最終予選の「ドーハの悲劇」というトラウマである。その詳しいあらましは、ここでは特に説明の必要はありますまい。

「ドーハの悲劇」Wikipedia日本語版(20201003)
【ドーハの悲劇:Wikipedia日本語版2020年10月3日閲覧】

 後藤健生氏は、あの当時と比べても日本サッカーの実力は上がっているし、経験も積んでいる。28年ぶりのカタールでの最終予選が実現すれば、むしろ日本サッカーが「ドーハの悲劇」の記憶を乗り越える好機と考えていいだろう。しかも2022年に開催されるW杯本大会の最高のシミュレーションになるだろう……と「楽観論」を述べている。

 しかし、スポーツマスコミやサッカー論壇は「ドーハの悲劇」の記憶に由来する「悲観論」を、どこまでも煽り立てるだろう。それがサッカーの「現場」にどこまで影響を及ぼすのか否かは、何とも言いかねる。だが、後藤健生氏はともかく、日本サッカー界が「悲観的」な体質で、「ドーハの悲劇」を精神的に乗り越えていないのは間違いない。

 それは一体どういうことなのか? 説明するために話を少し迂回(うかい)させる。

プロ野球「批評」家=草野進とは「誰」か?
 草野進(くさの・しん)。フランス現代思想にも深く通じた妙齢の前衛的女流華道家、しかしてプロ野球「批評」家。そのプロ野球「批評」には独特の流儀があり、勝利至上主義(近代合理主義)に埋没したプロ野球とスポーツ報道の在り方を、流麗かつ晦渋な文体で否定。反面、野球における「乱闘」や「爽快な失策」「豪快な三振」といった出来事の勃発を積極的に肯定し、それらに「美」を見出し、称揚した……。

どうしたって、プロ野球は面白い
草野 進
中央公論社
1984-09-01


 ……というプロフィールになっているが、草野進なる人物はイザヤ・ベンダサンやポール・ボネ、ヤン・デンマンなどと同じく、私たちの前に一度も姿を見せなかった。つまり「彼女」は覆面作家であり、その正体は、高名なフランス文学者の蓮實重彦氏(はすみ・しげひこ.映画評論家,文芸批評家,東京大学総長など)である。

蓮實重彦と山形の因縁
【蓮實重彦氏】

 要するに、覆面作家の部分は別として、2020年の現在に至るまで今福龍太氏(文化人類学者)がサッカーにおいてやってきたことを、蓮實重彦氏が1980年代に既に野球でやっていたのである<1>。ニューアカデミズムと呼ばれ、当時は、蓮實重彦氏のようなフランス現代思想に依(よ)った「批評」が知的ファッションとして流行っていた。その「標的」のひとつにプロ野球をはじめとしたスポーツも入っていた……。

 草野進(蓮實重彦氏)やその亜流のプロ野球「批評」やスポーツ「批評」は、「これは知的に高尚で深遠であるはず」と自らに強迫した「自分は頭が悪いと思われたくない」スポーツファンや読書人によって正当化され、称揚されてきた……。<2>

草野進(蓮實重彦氏)の文筆的幇間=玉木正之氏
 ……さて、その有り難がられ方や如何? 例えば、草野進の編著だとして1988年に新潮文庫から上梓された『プロ野球批評宣言』なる文庫本がある。

 文庫本といえば、巻末の解説記事が付きものだが、『プロ野球批評宣言』の解説を担当したのが、当時、脂の乗り切ったスポーツライター・玉木正之氏であった。その記事は玉木正之氏の公式サイト「カメラータ・ディ・タマキ」に転載されてあるので、その称揚ぶりの「気持ち悪さ」をリンク先でタップリと読み味わっていただく。
  • 参照:玉木正之「草野進のプロ野球批評は何故に〈革命的〉なのか?」2004-02-02(http://www.tamakimasayuki.com/sport_bn_6.htm)
 もっとも、この種の、フランス現代思想やそれに触発された文芸批評に乗じたスポーツ「批評」というのは、あくまで狭い内輪の「お約束事」の世界に過ぎない。

 だから、物の分かったスポーツライターである藤島大氏や武田薫氏、あるいは「狐の書評」こと書評家の山村修氏といった人たちは、あくまで、この種のスポーツ「批評」は「スポーツそのもの」を謳(うた)いながら、けっしてスポーツそのものの批評ではないので、一般のスポーツファンが本気にして読んではいけないと、読者をいましめている。

 しかしながら、玉木正之氏は、一般の野球ファン・スポーツファンに向けて、草野進(蓮實重彦氏)とその亜流のスポーツ「批評」を、「スポーツライター」として絶賛・推薦するという愚挙に出た。このことは、氏が「スポーツライター」を名乗りながら、実はその仕事に自信が持てず、文学・思想・哲学方面に度し難い劣等感を抱いていることを示している。

 玉木正之氏は真面目な野球ファン・スポーツファンを蠱惑(こわく)するという、なかなかに罪深い話ことをやったのである。

草野進から遠く離れて…「高見」の論説に感じた居心地の悪さ
 そんな、1980年代の草野進(蓮實重彦氏)に対する「測り知れざる知への熱狂症候群」(本来はフランス現代思想を批判した『ラカン現象』なる著作への惹句)。しかし、あれから時間が過ぎて21世紀となり、少しは冷静になってきた。すると玉木正之氏は、実は彼(彼女?)らの言説には一方で「〈高見〉の論説に感じた居心地の悪さ」も感じた……と「告白」するようになっている。
  • 参照:玉木正之「〈高見〉の論説に感じた居心地の悪さ」2004-05-03(http://www.tamakimasayuki.com/sport/bn_13.htm)
 玉木正之氏の「正直」さには敬服する。嫌味で書いているのではない。氏が「告白」したことで、いろいろ分かってきたこともあるからだ。玉木正之氏ですらも草野進(蓮實重彦氏)のプロ野球「批評」に違和感を持っていた。これだけでも重要な情報だ。
 〔草野進=蓮實重彦氏は〕いわばレヴィ=ストロースの仕事を野球の世界に持ち込んだわけだが、小生〔玉木正之氏〕もスポーツライターの一人としてその衝撃に打ちのめされたものだった。が、そのとき同時に、奇妙な居心地の悪さを感じたのも事実だった。

 その居心地の悪さとは、いったい何だったのか?

 それが新しく刊行された本書(蓮實重彦著『スポーツ批評宣言』青土社)を読んで、自分なりに納得できた。

玉木正之「〈高見〉の論説に感じた居心地の悪さ」
 該当コラムでは、玉木正之氏は、直接には2004年3月に蓮實重彦氏がが上梓した『スポーツ批評宣言~あるいは運動の擁護』という本(これは「草野進」名義ではない)の内容に言及している。ここに蓮實重彦氏の「ドーハの悲劇」観や、蓮實重彦氏のスポーツ「批評」の真の「居心地の悪さ」が読み取れるのである。

 今さら蓮實重彦氏の本を最初から読む気にも全くなれないので、玉木正之氏の該当コラムからの孫引きとする。太字《 》の部分が『スポーツ批評宣言~あるいは運動の擁護』からの引用文となる。
 〔前略〕……が、次の「正論」は、どう読めばいいのだろう?

 《醜さは失点につながることから、人は「醜さ」を忘れ、失点のみを思い出す。人々が「ドーハの悲劇」と呼び、一部の人間や私〔蓮實重彦氏〕自身が「ドーハの天罰」と呼ぶあの「醜い」ゲームの神話化は、あの瞬間にフットボールの神々が日本チームを見放したという厳粛な事実を忘れようとすることにほかなりません。〔蓮實重彦〕》

 この文章にも間違いはない〔は?〕。が、ドーハでの日本代表選手として最後の最後に単純なパスミスを犯した選手も、また、他の選手たちも、さらに「神話化」に走ったスポーツ記者やサポーターたちも、そのくらいのことはわかっているのではないか?

 もちろん、すべての人間がわかっているとはいわないし、わかっているひとたちも「天罰」という言葉を駆使できるほどの表現力を持ち合わせてはいないだろう。が、断じて「一部」ではなく多くのサッカー・ファンがこのくらいのことには気づいており、それでも「悲劇」という表現を受け入れているのは(メディアの表現力のなさを除けば)選手に対する惻隠の情であると私〔玉木正之〕は思っている。〔中略〕

 「高見」に立つことは評論者には必要なことだろう。が、アンタ〔蓮實重彦氏〕はそんなにエライのか、という思いは対談形式の話し言葉になると度合いを増し、対談相手〔セクハラ事件の加害者で文芸批評家の渡部直己〕までが選手やスポーツ関係者を小馬鹿にする言辞で著者に対するお追従を繰り返すと、うんざりした気分に陥る。〔後略〕

玉木正之「〈高見〉の論説に感じた居心地の悪さ」
 蓮實重彦氏(やセクハラ渡部直己)の傲慢なスポーツ「批評」を素直に共感できないのは、むしろ当然である(実はこれまで,それを表明すること自体が大変だったのだが)。しかし、私たちは玉木正之氏が蓮實重彦氏(ら)を批判しながらも、一方で煽(おだて)て上げる言動にもまた、強い「居心地の悪さ」や「うんざりした気分」を覚える。

 そもそも、引用文中の蓮實重彦氏の発言は「正論」でもなんでもない。

 村上龍氏しかり、星野智幸氏しかり、日本の文学者が発信する日本サッカー論は、高い次元の視点から、サッカーにまつわる現象・事象を分析し、その本質を私たちサッカーファンの前に示してくれる……などということは全くない。むしろ愚劣な代物が多い。それは蓮實重彦氏でも同様。とてもじゃないが読むに堪えない代物である。

陳腐で凡庸な蓮實重彦氏の日本サッカー論
 なぜなら、蓮實重彦氏の「天罰」発言はオリジナルなどではないからだ。玉木正之氏は、日本のサッカージャーナリストは「ドーハの悲劇」のことを「〈天罰〉という言葉を駆使できるほどの表現力を持ち合わせてはいない」などと言っているが、この認識は完璧に間違い。以下の人たちは「ドーハの悲劇」=日本サッカー「天罰」論を展開している。

 例えば、後藤健生氏は、自著『ワールドカップの世紀』(文藝春秋,1996年)の中で「ドーハの悲劇」のことを日本サッカーにとっての「神の教訓」だと呼んだ。

ワールドカップの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2012-09-20


 あるいは、杉山茂樹氏(サッカージャーナリスト)は、自著『ドーハ以後』(文藝春秋,1998年)の中で「ドーハの悲劇」のことを日本サッカーに対する「天罰」だと呼んだ。初出は、1993年のスポーツ誌『文春ナンバー』のマッチレポートである。

 さらに、山崎浩一氏(サッカーファンのコラムニスト)は、自著『情報狂時代』(小学館,1994年)の中で「ドーハの悲劇」のことを日本サッカーに対する「天誅」だと呼んだ。初出は、1993年の『週刊ポスト』の連載コラムである。

情報狂時代
山崎 浩一
小学館
1994-09T


 高名なフランス文学者である蓮實重彦氏の語彙が、いわゆる「電波ライター」の代表格だとされた杉山茂樹氏の語彙と全く同じだった! ……というのは驚きであるとともに、私たちにとってただただ苦笑する他はない厳粛な事実である。

 日本サッカー自体が特別な「原罪」のようなものを抱えていて、「ドーハの悲劇」のような出来事は、人知を超越した絶対的能力を持った存在(神または天)が下した罰だ教訓だ……などと言うのは、実は日本のサッカー論壇に染み付いてしまった「自虐的日本サッカー観」の常套句(決まり文句,クリシェ)のひとつに過ぎなかったのである。

 そんなクリシェを得意気に吟じてみせた蓮實重彦氏のサッカー観、特に日本サッカー観はきわめて陳腐で凡庸である。滑稽で悲しい。

「ドーハの悲劇」を乗り越えようとしない悲喜劇
 なおかつ、こんな貧相な蓮實重彦氏のサッカー談義を有り難がっている日本のサッカー論壇、スポーツ論壇もまた、滑稽で悲しい。

 とどのつまり、日本のサッカーの「現場」以上に、日本のサッカー論壇は、論者自身の賢(さか)しらを誇示しようとするあまり、「ドーハの悲劇」というトラウマを精神的に乗り越えていない。乗り越えようともしていないのである。日本サッカーにとってこんな悲喜劇はない。

 だから、スポーツマスコミやサッカー論壇は、2021年のカタールW杯アジア最終予選で、「ドーハの悲劇」の記憶に由来する「悲観論」を、どこまでも煽り立てるだろう。

 ……と、ここで終わってもいいのだが、日本のサッカー論壇をそのようにさせた問題の一端は、当の後藤健生氏にもあったのではないかという話を、次回、続編として展開する予定。乞うご期待。

つづく




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宇都宮徹壱氏による「続投」への違和感
 久しぶりに「宇都宮徹壱ウェブマガジン」を覗いてみたら、宇都宮徹壱氏が「続投」という野球由来の慣用句をサッカーで使用することについてイチャモンをつけていた。
 今年最初のFC今治の取材を終えて、松山に向かう伊予線の車内にて、この原稿を書いている。当初、来週からのハワイ取材について書こうと思ったのだが、ちょうど今朝届いたリリースを見て〔私,宇都宮徹壱は〕考えが変わった。発信元はJBFA(日本ブラインドサッカー協会)で、タイトルは「ブラインドサッカー日本代表高田敏志監督続投のお知らせ」。正直これを見て、いささかがっかりしてしまった。

 誤解していただきたくないのだが、私は決して「高田敏志監督続投」にがっかりしているのではない。高田監督には昨年に当WMでもご登場いただいたが(参照)、野心的でありながら実に理にかなった強化策には、大いに感銘を受けたものだ。個人的にはぜひ、2020年の東京パラリンピックでも指揮をとってほしいと願っている。私〔宇都宮徹壱〕が不満に感じたのは「続投」の二文字。つまり、無自覚的に野球用語がタイトルに使われていたことだ。

ハリルホジッチ代表監督続投明言
【引用文と写真は関係ありません】

 またしても誤解していただきたくないのだが、私は「野球用語」そのものを否定しているのではない。また、スポーツ紙が「風間監督続投」とか書いても、普段ならスルーしている。なぜならスポーツ紙の読者層は野球世代のオジサンが多く、「契約更新」というよりも「続投」と書いたほうが通りはいいからだ。しかしながらJBFAという、障がい者サッカーの代表的な組織が、その情報発信の中で「続投」という言葉を安易に使用したのなら話は別だ。スポーツ紙の見出しではないのだから、ここはやはり「契約更新」とすべきであったと思う。〔この続きは有料会員のみ〕

 当ブログは吝嗇なので、宇都宮氏のウェブマガジンの有料会員ではない。だから、なぜ宇都宮氏が「続投」という単語に拒否反応を示すのか。サッカーの話題で「続投」を使うことの何が「リスク」なのかは、よく分からない……。

 ……よく分からないくせに、なぜ、この問題を論うのかというと、同じようにサッカーで「続投」を使うことに拒否反応を示した人が、過去に存在したからである。

佐山一郎氏による「続投」への違和感
 何の因果か、それも宇都宮徹壱氏が「師」と仰ぐ、佐山一郎氏(作家・編集者)である。

宇都宮徹壱による佐山一郎インタビュー
【佐山一郎氏:宇都宮徹壱ウェブマガジンより】

 話は、1991年の昔のことになる。日本のプロサッカーリーグ(Jリーグ)のスタートを2年後(93年)に控え、扶桑社から『サッカーハンドブック'91-'92』という本が刊行された。その中に出てきた佐山一郎氏のエッセイから。
 野球をあしざまに言ってサッカーに忠誠を誓うセコい料簡など、殆〔ほとん〕ど持ちあわせていないけれど、「横山全日本監督、続投」というふうな新聞の表記を目にするにつけ、なんか変だなという思いにかられてしまいます。いや、それ程までに野球は日本の文化に深く根づいていることの証左なんでしょう。「横山氏、延長戦突入」とならないところが、なんだか悔しいけれど……〔以下略〕

佐山一郎「サッカーの見方が変わってきた~大人の文化としてのサッカーの定着を夢見て」(『サッカーハンドブック'91-'92』)

『サッカーハンドブック'91-'92』
 この当時は「横山ジャパン」ではなく「横山全日本」だった。ある意味で「師弟」の関係にある宇都宮徹壱氏と佐山一郎氏が、同じく野球由来の慣用句「続投」の使用に否定的だったのは、必然なのか? あるいは偶然の一致なのか? 興味深い符号である。

 なぜ佐山一郎氏が「横山全日本監督、続投を話題にしていたのかというと、横山謙三氏は、サッカーファン・サポーターから初めて「監督ヤメロ運動」を起こされた人だからである。森孝慈監督(先々代)~石井義信監督(先代)と続いたサッカー日本代表は、曲がりなりにもW杯・五輪の最終予選までに進出したのに、「横山全日本」は1989年のイタリアW杯アジア予選であっさり敗退した。

 その後も「横山全日本」は、不甲斐ない戦いが続いた。そしてサッカーファン・サポーター有志の不満が沸点に達したのである。サッカーの試合会場の至るところで「横山ヤメロ!」の罵声が飛んだ。「横山ヤメロ!」の横断幕が吼えた。萩本良博氏が発起人となって横山監督更迭要求の署名を募って、日本サッカー協会に提出した。

 それだけ反対があったにもかかわらず、日本サッカー協会は、当時の時代的制約もあって横山監督を1991年いっぱいまで「続投」させる。この人事は高くついた。いち早く後代のハンス・オフト体制(外国人の優れた監督・コーチ)に切り替えていれば、ドーハの悲劇はなかったかもしれないと言われている。

「続投」でなければ表現できないニュアンス
 昔から、サッカー日本代表監督の座はファンやサポーターの賛否両論・侃侃諤諤・甲論乙駁の対象だった。しかし、日本サッカー協会は、監督更迭という大鉈(おおなた)を振るうことはめったになく、したがって、横山続投、加茂続投、トルシエ続投、ジーコ続投、岡田続投、ハリル(ハリルホジッチ)続投……と、実にさまざまな人物が「続投」してきた(最悪だったのは「ジーコ続投」だった)。

 そもそも「続投」とはどんな意味なのか? コトバンクを引いてみた。
続投 ゾクトウ

デジタル大辞泉の解説
ぞく‐とう【続投】
[名](する)
  1. 野球で、投手が交代せずに引き続いて投球すること。
  2. 〔転じて〕交代せずに役目や職を続けること。「現党首がそのまま続投する」

大辞林 第三版
の解説
ぞくとう【続投】
(名)スル
  1. 野球で、投手が交代せずに引き続いて投球すること。
  2. 転じて、任期を終わろうとしている者が、辞任せず引き続き任にあたること。「今度の事件で首相の―の目はなくなった」
 それでは実際に「続投」はどんな使われ方をされているのか? Googleのニュース検索(2018年2月4日検索)で大雑把に調べてみると……。
  • レアル・マドリー、中心選手たちはジダンを支持…来季の続投を願う Goal.com-2018/02/01〔サッカー〕
  • 八角理事長4期連続当選、続投確実も喜びの声はなし 日刊スポーツ-2018/02/02〔大相撲〕
  • 黒田氏続投説に異変 日銀総裁候補に浮上する“意外な名前” ニフティニュース-2018/02/02〔政治・経済〕
  • バイエルン、ハインケス監督に続投オファーへ「プランBは存在しない」 サッカーキング-2018/01/29〔サッカー〕
  • ダニエル・クレイグ、『007』ボンド役続投をついに認める ELLE ONLINE(エル・オンライン)-2017/08/17〔外国映画〕
  • 村井チェアマン、続投へ=Jリーグ 時事通信-2018/01/23〔サッカー〕
 ……これだけ広い分野に「続投」はごく普通に使われている。本来の野球用語からはかなり離れており、意外にもサッカーメディアの使用例も目立つ。

 「続投」の使用に否定的なサッカー関係者の人たちは、この言葉が長年のサッカーの怨敵である野球由来であること。その人物の手腕に疑問や批判もあって交代もありうるが、やっぱり続けさせることにした……というネガティブなニュアンス(先の「横山続投」や「ジーコ続投」はその例)が頭にある。

 しかし、最近の実例ではそうした陰のある意味合いすら脱色されている場合も散見される(先に引用例でいうと、サッカーの2つがそうであった)。

 特定の1人の人物に特定の重職を引き続き担ってもらう……というニュアンスは「続投」で最も簡潔に伝わる。宇都宮徹壱氏が言う「契約更新」でも、佐山一郎氏が言う「延長戦」でも、「再任」や「留任」でも、これは表現できない。

 「続投」は、単なる「野球世代のオジサン用語」ではない。

 宇都宮氏にしろ、佐山氏にしろ、ずいぶんとつまらないことに目くじらを立てているのである。

(了)


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FIFAランキング40位台の日本サッカーってそこまで酷いか? : スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

「1989年のサッカー日本代表」とは何か?
 ××××年の○○○○……という命名は、柳澤健氏の『1976年のアントニオ猪木』や『1964年のジャイアント馬場』『1984年のUWF』といった、一連のプロレス&格闘技ノンフィクションの題名を思い出させる。


 実は、柳澤氏は後藤健生氏の『サッカーの世紀』ほかの「世紀シリーズ」とでも呼ぶべきサッカー本の担当編集者でもあった。
サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07



 21世紀に入ってかなり年月が経った。そろそろ、後藤氏による『サッカーの21世紀』(仮題)も読みたいところだ。『サッカーの世紀』(1995年)の最終章に「電脳世界とサッカーの未来~二十一世紀に、サッカーはどうなる?」という評論があり、そこでの「予言」がどこまで当たっているか外れているかを、検証してほしいのである。

 1989年だけでなく、1936年,1968年,1993年,1997年,2002年,2006年,2010年,2014年……のサッカー日本代表でも、「××××年のサッカー日本代表」とでもいうべき、面白いノンフィクションが書けそうだ。この内、36年「ベルリンの奇跡」の日本代表、93年「ドーハの悲劇」の日本代表など、いくつかは作品になっている。
ベルリンの奇跡 日本サッカー煌きの一瞬
竹之内響介
東京新聞出版局
2015-11-23



 1996年のサッカー五輪代表だと『28年目のハーフタイム』があるが、著者,金子達仁の毀誉褒貶ぶりからすると……なんとも微妙な作品だ。同じく金子達仁による2006W杯のジーコ日本代表を描いたの『敗因と』というのもあった。どちらも主たるテーマはチームの内部崩壊。そして、どちらも中田英寿が絡んでいる
28年目のハーフタイム
金子 達仁
文藝春秋
1997-09

敗因と
金子 達仁
光文社
2006-12-15

 さて、表題の「1989年のサッカー日本代表」とは何か? 監督は1968年メキシコ五輪銅メダリストの元日本代表・横山謙三(兼三)氏である。
「横山謙三」 ウィキペディア日本語版 2017年4月25日閲覧
1988年からは日本代表の監督に就任。当時の世界最先端である3‐5‐2システムを採用し、ウイングバック(両サイドのMF)を攻撃の基点とする戦術を採ったが、ワールドカップイタリア大会アジア予選は1次予選敗退という結果となった。前回大会を下回る結果にサッカーファンの不満が高まり、ファンによる解任署名運動やスタジアムにおける解任を要求する横断幕の掲示が行われたが、その地位に留まり続けた。その後、総監督としてU‐23代表を率い1992年3月のバルセロナ五輪アジア最終予選に挑むが惨敗を喫し、遂に辞任する結果となった。
 横山日本代表は日本サッカー冬の時代(1971年ごろ~1992年)最後の苦い思い出である。やはり日本は勝てなかった。しかし、積年の鬱憤をつのらせたサポーターたちによってついに監督更迭要求闘争が起こった。これは本邦サッカー史上初めてのこと。爾来、日本のサッカーファン,サポーターは「物言う」「行動的な」スポーツファンになった。

48か国ならば昔の日本でもW杯本大会に行けたか?
 2022年大会からサッカーワールドカップ本大会の出場枠が32か国から48か国に増える。横山日本代表の当時は、ちょうど半分の24か国だった。48か国だったら、昔の弱かった日本代表でもアジア予選突破して本大会出られますかねえ? と、メキシコ五輪の昔から観ているサッカーファンに聞いたことがある。

 「いや、無理だろうな……」という答えが返ってきた。

 それでは、この当時のサッカー日本代表を世界ランキングで表したら何位くらいになるだろうか? 方法論的にはデタラメだろうが、2017年4月のFIFAランキングと、1989年の日本代表の戦績を参考に類推してみた。
 この年の日本代表は、イタリアW杯アジア予選を戦っている。初戦、FIFAランキングで149位の香港にアウェーでで引き分け(0対0)。つづく第2戦、175位(!)のインドネシアのアウェーで引き分け(0対0)。ホームの香港戦でも引き分け(0対0)、今(2017年4月)この相手にこんな試合をしたら、大問題になるだろう。

 同時期、ラグビー日本代表の方は東京・秩父宮ラグビー場で世界クラスの強豪「スコットランド」に勝利しており、大変な話題になっていた。その分、日本サッカーの不甲斐なさが際立つこととなった。

 そして、115位の北朝鮮にはホームできわどい逆転勝ち(2対1)、アウェー平壌で完敗(2対0)。あえなく1次予選で敗退した。

 香港,インドネシアに引き分けたのは評価に大きく影響するだろう。インドネシアにはホームで大勝しているから(5対0,しかしアウェーでスコアレスドロー)、さすがにそこよりは順位は上だろう。が、北朝鮮より上ということはない。

 さまざま勘案するに「1989年のサッカー日本代表」は、FIFAに加盟している200か国余りの中、世界ランキングで110位台後半から140位台をウロチョロしていたといえるかもしれない……? たしかに、これでは出場枠がたとえ48か国でも日本はW杯本大会には行けないだろう。

 スポーツライター玉木正之氏は、サッカー日本代表はFIFAランキング40位台をうろついているなどと書いている。(『9回裏2死満塁』巻末解説)。しかし、1989年から30年近くたって日本のサッカーのレベルはその位には上昇している。そして、世界のサッカー国には40位台に届かない国の方が多い。

 日本サッカーに否定的な評価を下して「批評的」であることを顕示したがる人は、こうしたことには触れない。

いまだ手つかずの横山謙三→ハンス・オフトの時代
 もっと興味深いことがある。横山時代の後半はラモス瑠偉や三浦知良も日本代表に参加してくる(それでも最初はなかなか勝てなかった)。横山日本代表の次の代は、オランダ人、日本代表初の外国人監督ハンス・オフトである。

 オフトが日本代表の監督になったとたん、東アジアを制し(1992年ダイナスティカップ)、アジアを制し(1992年アジアカップ)、ワールドカップ本大会出場までもう少しのところまできた(1993年W杯アジア予選「ドーハの悲劇」)。わずか2年余りでこの劇的な変貌ぶりは何であろうか?

 日本はいきなり強くなったのか? それとも、もともとそれなりに強かったのに力を発揮できないでいたのか? だとしたら横山謙三監督はそんなに酷い監督だったのか? あの時、サッカー日本代表の内側ではどんなことが起こっていたのか? サポーターが起こした「横山監督ヤメロ運動」はその後のサッカーカルチャーにどんな影響を与えたのか? アマチュアからプロ(Jリーグ)へ、日本サッカーの産みの苦しみの時期だったのか? ……興味は尽きない。

 不思議なことに、そして管見の限り、「1989年のサッカー日本代表」はスポーツジャーナリズムにとって手つかずの題材である。我と思わんスポーツライター志望者,ノンフィクションライター志望者の人は、各位に取材して、一筆したためてみるのも面白いかもしれない。

 ボヤボヤしていると、宇都宮徹壱氏にこのテーマを持っていかれるかもしれない。

(つづく)


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