2021年「ドーハの悲劇」は乗り越えられるのか?
世界的にパンデミックした新型コロナウィルス感染症「COVID-19」の影響で、国際サッカー連盟(FIFA)が、2021年の秋~冬に行われる予定であるサッカーW杯2022年カタール大会の各大陸予選を、ホーム&アウェー方式から、1か国での集中開催方式(セントラル方式)への変更を考えているというニュースが流れた。
その際、アジア最終予選の開催地は、W杯本大会を行う中東の国カタールになる可能性が高いのではないかと、後藤健生氏(サッカージャーナリスト)は予想している。
カタールの首都は「ドーハ」。日本のサッカーファン、サッカー関係者にとって、カタール、ドーハといえば、1993年アメリカW杯アジア最終予選の「ドーハの悲劇」というトラウマである。その詳しいあらましは、ここでは特に説明の必要はありますまい。
【ドーハの悲劇:Wikipedia日本語版2020年10月3日閲覧】
後藤健生氏は、あの当時と比べても日本サッカーの実力は上がっているし、経験も積んでいる。28年ぶりのカタールでの最終予選が実現すれば、むしろ日本サッカーが「ドーハの悲劇」の記憶を乗り越える好機と考えていいだろう。しかも2022年に開催されるW杯本大会の最高のシミュレーションになるだろう……と「楽観論」を述べている。
しかし、スポーツマスコミやサッカー論壇は「ドーハの悲劇」の記憶に由来する「悲観論」を、どこまでも煽り立てるだろう。それがサッカーの「現場」にどこまで影響を及ぼすのか否かは、何とも言いかねる。だが、後藤健生氏はともかく、日本サッカー界の体質が何かと「悲観的」で、「ドーハの悲劇」を精神的に乗り越えていないのは間違いない。
今回は、そういう「悲観論」が蔓延(はびこ)る原因の一端は、実は当の後藤健生氏にもあるのではないか……という不躾な話になる。
「ドーハの悲劇」=「神の教訓」論とは何か
後藤健生氏が「ドーハの悲劇」について論究したテキストが『ワールドカップの世紀』の第1章「〈ドーハの悲劇〉もしくは神の教訓」である。この本の初版は「ドーハの悲劇」の記憶もまだ生々しい1996年。それにしても「神の教訓」とは穏やかな表現ではない。それは一体どういう意味なのか? 簡単にまとめると、次の3つが要点となる。
〈ドーハの悲劇〉もしくは神の教訓
- サッカー日本代表=オフト・ジャパンは、1992年アジア杯広島大会で優勝した。1993年のアメリカW杯アジア最終予選においても、FIFAの大会報告書にもあったように、参加6か国の中でも最良のサッカーをしていた。……とは言うものの、オフト・ジャパンはあまりにも「ナイーヴ」だった。W杯予選を勝ち抜くための試合の進め方はきわめて拙く、心理的にも冷静さを欠いていた。そんな彼らの未熟さが「ドーハの悲劇」を誘発した。<1>
- 「ドーハの悲劇」は、いたずら好きな「サッカーの神様」が、この機会を利用して未熟な日本サッカーに仕掛けた「レッスン」、または「神の教訓」である。
- マスコミなどは「日本サッカー界,悲願のW杯本大会出場」とは言うが、国民的関心と注視の中で行われたサッカー日本代表のW杯本大会挑戦は、実は1993年のW杯アジア予選が初めてだった。国民的な記憶の蓄積がなければ、日本代表はW杯を勝ち抜けていくことはできない。W杯予選というものの難しさを日本中の人々が経験した「ドーハの悲劇」によって、W杯本大会出場は日本にとって本当の意味での〈悲願〉となった。
後藤健生『ワールドカップの世紀』第1章より
……こうした歴史観を、後藤健生氏はその後も折に触れて展開している。しかし、後藤健生氏にしては日本サッカーに関してかなり自虐的で、氏の、「ドーハの悲劇」の解釈や批評を「ひとつの物語」に押し込めてしまおうという意図が読み取れてしまうことで、サッカーファンや読者には何とも言えない居心地の悪さがある。
「ドーハの悲劇」は日本サッカーに下された「天罰」なのか?
そもそも、後藤健生氏のような「ドーハの悲劇」の解釈は珍しくない。例えば、杉山茂樹氏(サッカージャーナリスト)は、これを「天罰」と呼んだ。山崎浩一氏(サッカーファンのコラムニスト)は、これを「天誅」と呼んだ。21世紀に入ってからだが蓮實重彦氏(フランス文学者,映画評論家,東京大学総長ほか)もまた、これをドヤ顔で「天罰」と呼んだ(いずれも次のリンク先を参照)。
それにしても、高名なフランス文学者である蓮實重彦氏の語彙が、いわゆる「電波ライター」の代表格だとされた杉山茂樹氏の語彙と全く同じだった! ……という衝撃的かつ悲喜劇的な事実は、サッカーファン以上に蓮實重彦ファンは知っておいた方がいいだろう(笑)。
また、「ドーハの悲劇」=「神の教訓」論では、後に花形ライターとなる金子達仁氏(スポーツライター,ノンフィクションライター)が『激白』などの著作で展開した「ドーハの悲劇」=「日本が弱かっただけ」論や、「ドーハの悲劇」=「日本は負けてよかった」論と大して変わらない議論になる。
話を戻して、日本サッカー自体が何か特別な「原罪」のようなものを抱えていて、「ドーハの悲劇」のような出来事は、人知を超越した絶対的能力を持った存在(神または天)が下した罰だ教訓だ……などという話は、実は日本のサッカー論壇に染み付いた「自虐的日本サッカー観」そのものであり、常套句(決まり文句,クリシェ)なのである。
そうした「自虐的日本サッカー観」こそ、2021年に開催が予想されるカタールW杯アジア最終予選の1か国集中開催における「悲観論」の温床である。こうしたサッカー観には反対の立場をとっている後藤健生氏にとって、これは本来、非常によろしくないことだ。
横山全日本とはどんなサッカー日本代表だったのか
後藤健生氏で不可解なのは、オフト・ジャパン(1992~1993年のハンス・オフト監督率いる日本代表)より一代前、1988~1992年の横山謙三監督率いる日本代表……便宜的にこれを「横山全日本」と呼ぶことにするが、横山全日本について、きわめて断片的にしか言及していない、むしろ、ある意味で避けていることである。
では、横山全日本とはどんなサッカー日本代表だったのか? 横山謙三監督、現役時代のポジションはGK、立教大学卒、旧・日本サッカーリーグの三菱重工(現・浦和レッドダイヤモンズ)に入団した。1968年メキシコ五輪サッカー競技の銅メダリストのひとり。
日本代表の監督としては、当時の世界最先端の戦術である3-5-2システムを採用し、ウイングバック(両サイドのMF)を攻撃の基点とする戦術を採った。しかし、フィットする選手がおらず、1989年のイタリアW杯アジア予選では1次予選で実にあっけなく敗退してしまう。
前回を下回る結果に加え、その後の試合や大会でも不甲斐ない戦いを続けて、業を煮やしたサッカーファンの不満が高まり、ファンによる横山監督退陣要求署名運動やシュプレヒコール、スタジアムにおける解任を要求する横断幕の掲示が行われた。有名なサッカーブロガーさん(○釆尺○)が、出待ちで横山謙三監督に「ヤメロ! ヤメロ!」と罵声を足せていたという目撃証言もある
1991年1月23日には、ついにサッカーファン有志が日本サッカー協会(JFA)に「横山謙三日本代表監督,退陣要求嘆願書」を提出する事態にまでなっている。佐山一郎氏(作家,編集者)が『日本サッカー辛航紀』でこの辺の事情を書き記している。
代表監督に絶縁状を突きつけた1・23決起のホロ苦さ
この時代のスクラップファイルをあたると、「横山謙三日本代表監督,退陣要求嘆願書」(発起人・萩本良博,当時22歳)の現物と「朝日ジャーナル」1991(平成3)年2月15日号に寄稿したコラムがセットで収められている。嘆願書には、辞任要求の理由が〈罪状〉さながらに5つ挙げられている。
- 就任当初、1年で韓国に追い付くと公言しながら、一向に差が縮まっていないこと
- イタリア・ワールドカップ予選において、第1ラウンドで日本を敗退させたこと
- ダイナスティカップ、アジア大会でメダルを取るとの公言に反し、敗退させたこと
- 攻撃サッカーを提唱しながら、零敗の連続であること
- 選手の選考、戦術が我々の理解の限度を超えたものであること〔原文太字ゴシック〕
佐山一郎『日本サッカー辛航紀』第5章より
オフト・ジャパンの一代前のサッカー日本代表は、こんな迷走状態だった。
森→石井→横山→オフトの流れからサッカー日本代表を再検証する
サッカー日本代表は、オフト・ジャパンになってから急に強くなって国際レベルでも戦えるようになったようにも見えるが、これは必ずしも正しい見方とは言えない。
1980年代、日本のサッカーは、1985年にメキシコW杯アジア最終予選まで進出した森孝慈監督の日本代表(森全日本)、1987年にソウル五輪アジア最終予選まで進出した石井義信監督の日本代表(石井全日本)と、曲がりなりにも「良い流れ」を作っていた。ところが、これを継承した「横山全日本」は「良い流れ」を停滞させてしまった……。
……これは、対談本『ぼくたちのW杯』などの著作がある、オールドサッカーファンの久保田淳氏が、初代サポティスタ浜村真也氏が主催したトークイベントで述べていた回顧談である。氏は、横山監督退陣要求嘆願書運動の発起人・萩本良博氏とも、後藤健生氏とも、オールドサッカーファン同士、よく知った間柄だ。
ここから話は想像力の翼を全開する。横山謙三監督は、日本の実情を無視して、世界最先端の戦術を形式通り導入しようとして失敗した。山っ気に走らず、しかるべき指導力を発揮していれば、日本代表は1989年のイタリアW杯アジア最終予選には進出できたかもしれない。
最終予選は6か国総当たりで、たとえ全敗でも5試合経験できる。日本代表の選手や監督・コーチらスタッフ、さらにその裏方のJFAもそれだけ経験が詰める。テレビ中継(その場合,NHK-BSか?)ほか、日本のスポーツマスコミもそれなりにフォローしただろうから、国民的とはいえないまでも、スポーツファンの多くもサッカーW杯の本大会に出場することの困難さの経験を共有できただろう。
それだけの「経験」を積めば、サッカー日本代表は1993年の「ドーハの悲劇」もなく、1994年のアメリカW杯本大会に出場できていたかもしれない。
有り得べき過去の想像=思想を放棄(?)した後藤健生氏
後藤健生氏は、「ドーハの悲劇」=「神の教訓」論で、要は日本サッカー総体が経験不足だから日本代表はアメリカW杯本大会に行けなかったと言っている。だが、「神の教訓」ではなく、オフト・ジャパンの有り得(う)べき可能性について、あらゆる角度から検証してこそ「ドーハの悲劇」は真の「教訓」たりうる。
しかし、後藤健生氏は、サッカー日本代表の歴史を、1980年12月のスペインW杯アジア予選から1996年12月のアジア杯までクロニクルで描いた『日本サッカーの未来世紀』では、これまで述べてきたような横山全日本時代の込み入った経緯には触れていないのである。
『日本サッカーの未来世紀』では、横山全日本最後の試合、1991年7月に長崎県諫早市に行われた日本vs韓国戦(日韓定期戦,日本の敗戦)を話の中心に据えており、横山監督退陣要求嘆願書運動という、あからさまな歴史的事件には特に触れていない。
不可解である。当時の後藤健生氏はフルタイムのサッカージャーナリストではなく、サッカーファン、サポーターとの境界線上に位置する人だった。だから、萩本良博氏らとは知らない間柄ではない。そして、日本代表サポーターの横山監督退陣要求嘆願書運動という動きを全く知らないということはない。やはり、氏は、この問題について考えることを避けているのではないかと疑ってしまう。
サイモン・クーパー的「ジャパンはなぜドーハで負けたのか」の論考
何かにつけて日本のサッカーは経験不足だと言われてきた。けれども、サイモン・クーパー(ジャーナリスト)とステファン・シマンスキー(スポーツ経済学者)は、その著書『「ジャパン」はなぜ負けるのか』でアッサリと言う。経験不足ならば西欧のサッカー先進地帯の優れた監督・コーチを連れてきて指導に当たらせればいいではないか……と。
経験が足りないから、外から優れた指導力を持つ監督・コーチを連れてくるのである。この伝で行けば、サッカーチームにおける敗北の原因、第一義的責任は監督・コーチにある。思った成果が上げられなかったら、まずは監督を評価あるいは批判をするべきである。
こうした観点から「ドーハの悲劇」を検証した観戦レポートに、ミニコミ誌から単行本『日本サッカー狂会』に転載された小川智史氏(成城大学サッカー部監督)の「ハンス・オフトの失敗~なぜ日本代表はワールドカップにいけなかったか?」がある。これを読むと、それまで私たちを束縛していた自虐的「ドーハの悲劇」史観が一変する。
当時のサッカー日本代表は、W杯本大会出場に足るだけの実力も内容も備えていた。敗因=「ドーハの悲劇」の原因は、第一に監督ハンス・オフト氏の指揮官としての数々の判断のミス、そして選手たちの経験不足である……と。
『日本サッカー狂会』の編者は、小川智史氏の「ハンス・オフトの失敗」について「1993年アメリカW杯アジア最終予選の戦評と敗因分析について,どの新聞・雑誌よりも的確な論評で〈ドーハの悲劇〉再考のキッカケになる」と自讃している。この表現に誇張はない。この観戦レポートが、一部の人しか読めないミニコミ誌から、きちんとした形で公刊された意義は大きい。日本サッカー史を振り返る時に重要な資料(史料)である。
サッカーは、欧米一神教世界の契約社会的なスポーツである……と、佐山一郎氏は折に触れて言っている。
こういうサッカーにおける日本人論・日本文化論の類を本気にする必要は全くない。けれども「ドーハの悲劇」を「神の教訓」と呼んだ後藤健生氏の論考が、非常にウェットで非契約社会的な内容なのに対して、小川智史氏の観戦レポートはあくまで監督ハンス・オフトの失敗と責任を問う、きわめてドライで契約社会的な内容になっている。
まことに皮肉で対照的な批評になっている。
未だ書かれざる「1989年のサッカー日本代表」
××××年の○○○○……という命名は、柳澤健氏の『1976年のアントニオ猪木』や『1964年のジャイアント馬場』『1984年のUWF』といった、一連のプロレス&格闘技ノンフィクションの題名を思い出させる。
実は、柳澤健氏は後藤健生氏の『日本サッカーの未来世紀』ほかの「サッカーの世紀シリーズ」とでも呼ぶべきサッカー本の担当編集者でもあった。
これまで、1936年、1968年、1993年、1996年、1997年、2002年,2006年……のサッカー日本代表(五輪代表を含む)について、「××××年のサッカー日本代表」とでも呼べそうな、興味深いノンフィクション作品が書かれてきた。
ところが不思議なことに、そして管見の限り、横山全日本=「1989年のサッカー日本代表」はスポーツジャーナリズムにとって手つかず、未検証の題材である。もし、横山全日本が停滞していなかったら「ドーハの悲劇」はなかったかもしれない……という煽り文句ならば、それがどこまで実態を反映していたのかどうかは別にして、サッカーファンやスポーツファンの読者を惹(ひ)きつけるいい文言になるだろう。
我と思わんスポーツライター志望者,ノンフィクションライター志望者の人は、各位に取材して、一筆したためてみるのも面白いかもしれない。……というか、ソレを読んでみたい。これは今のうちに話を聞いておくべき事柄でもある。
諦めの悪さこそが、批評の原点でもあるからだ。
「ドーハの悲劇」は真の「教訓」たりうるか
来たる2021年、日本サッカー協会(JFA)は創立100周年を迎える。JFA公式のみならず、これを記念した刊行物=本もいくつか出版されるのではないかと予想される。ひょっとして、どこぞの版元から後藤健生氏のもとに企画は来ていないだろうか?
JFAの100周年、そこで「ドーハの悲劇」や「横山全日本」はどのように総括されるのだろうか? そして、それは日本サッカーにとって真の「教訓」たりうるのか?
さらに、同年に行われるW杯アジア最終予選(カタール?)に出場予定のサッカー日本代表は、その「教訓」をもとに如何に戦い、W杯本大会のクオリファイをするのか?
(了)
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