スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:森保ジャパン

守田英正選手の悲痛なコメント
 2024年1~2月にカタールで行われた「アジアカップ2023」、サッカー日本代表=森保ジャパンは「日本サッカー史上最強」と呼ばれ、優勝を期待されながら、しかし準々決勝(ベスト8)で敗退してしまった。これには多くのサッカーファンの失望している。

 日本が敗れた対イラン戦は、後半、日本が防戦一方になりながら(そして後半終了直前に与えたPKを決められた)、森保一監督は選手交代や守備の指示など、何の手も打たなかった。この森保采配についても多くのサッカーファンの失望している。

 これには選手、例えば守田英正選手からも異論が出ている。
 ……後半10分に追いつかれてから我慢の時間が続き、後半アディショナルタイムにPKで決勝点を献上。そんな試合展開に守田〔英正〕は偽らざる胸中を吐露した。

 「どうすれば良かったのかはハッキリ分からない。考えすぎてパンクというか、もっとアドバイスとか、外からこうした方がいいとか、チームとしてこういうことを徹底しようとかと〔ベンチからの声〕が欲しい。チームとしての徹底度が足りなくて試合展開を握られるということがゼロじゃないし、この大会でも少なからずあった。ボランチとして、プレイヤーとして、チームのために考えないといけないし、その思考は止めないけど、そこの決定権が僕にある必要はないのかなと思う。あくまで僕は最後の微調整だけでいいのかなと。担っているものを重荷には感じないけど、もっと〔ベンチからのアドバイスが〕欲しい

 ピッチ上の選手だけで対応するのにも限界がある。劣勢の展開の中でもっとベンチからの明確な指示があっても良かったのではないか。〔以下略〕

西山紘平/ゲキサカ「苦悩を吐露した守田英正の悲痛な叫び〈考えすぎてパンク〉〈もっといろいろ提示してほしい〉」(2024/2/4)https://web.gekisaka.jp/news/japan/detail/?400971-400971-fl
 一方、これについては、次のような解釈も存在する。
 守田〔英正〕は今回の発言の際、非常に言葉を選びながら絞り出すように思いを口にしていたが、森保一監督を始めベンチ側から「もっと提示して欲しい」というのはこれまでもよく話題に上がっていたこと。〔略〕

 ただ一方で、そういった状況を分かった上で指揮官が〈動かない〉ことを選択している節もある。〔略〕目の前の勝利とともに日本サッカーの発展を考えるが故に、何もしないことで選手たちがどう反応し、どういった解決を図るかを見守っているところがある。そこは森保監督の〈ズルさ〉と表現していい。

林遼平/GOAL「なぜ優勝にたどりつけなかったのか.アジア杯を戦う日本代表にあった2つの〈問題〉」(2024年2月08日)https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/japan-asian-cup-review-20240208/blt495228c8f255efbc
 それにしても、2024年の今でもこういう奇妙な論理が出てくるのか? ……と(当ブログは)驚く。

 まず、アジアカップの準々決勝はあえて「〈動かない〉ことを選択」して勝たなくてももいいという試合ではなく、何が何でも勝ちにいかなければならない試合である。

 何より、森保一監督はあえて「〈動かない〉ことを選択」した、「ズルさ」の現れなのではなく、試合中、単純にフリーズしてしまい、適切な手が打てなかったのではないか……という批判的な指摘の方が多数派である。

日本のスポーツ界と「ボトムアップ型」の日本代表
 森保一監督はチームに戦術の仕込みをせず、試合中、選手たちに具体的な指示を送ることも少ない。これを「ボトムアップ型」の監督と呼ばれるが、別の(悪い)言い方をすると「戦術やプレーを選手たちに丸投げ」する監督ということである。

 木村浩嗣氏(元フットボリスタ誌編集長)が、小澤一郎氏(サッカージャーナリスト)が主宰するYouTube番組の中で「ボトムアップ型の監督やチームなんてスペインサッカーじゃ有り得ない!!」と語っていたが、なぜ日本にそのような類型が存在するのか?


[冒頭10分公開]スペインから見た日本代表の弱点と敗因。「監督で負けた」「ボトムアップなんてありえない」

 日本のスポーツ界、日本のスポーツ論壇には、「〈日本人〉のスポーツ選手は細かい戦術指導や指示をすると思考の柔軟性を失い、その枠をはみ出てプレーをすることが出来なくなる」という「迷信」がある。特にサッカーやラグビーなどはそう言われる。

 だから、それを乗り越えるため……と称して、日本のスポーツ界は「ボトムアップ型」の日本代表が時として登場してきた。すなわち、1997年~2000年のラグビー日本代表「平尾ジャパン」、2002年~2006年のサッカー日本代表「ジーコ・ジャパン」がそうである。

 平尾ジャパンの平尾誠二監督(故人)は、次のように述べている。
 「多様な局面に対し、多様に瞬時に対応できるのが、現代のいいプレーヤーの条件です。しかし、これは日本人が一番弱い部分。そもそも、そういう教育がされていない」「(ラグビーのゲームは)常に状況が変わり、選手がどうカオス(混とん)に対応するかが問題になる」

『日本経済新聞』1999年11月20日付
 今でこそ、森保ジャパンを鋭く批判している西部謙司氏(サッカー記者)であるが、かつてはこの論理でジーコ・ジャパン(セレクター型監督と称していた)の熱烈な支持者であった。森保一監督は「セレクター型」の監督なのだろうか?

アエラ2004年6月7日号より
ジーコ・ジャパンの風刺画:アエラ2004年6月7日号から

 前掲の林遼平氏(GOAL.COM)の言い分は、実はこの論理をなぞったものである。

「日本人」と「自己決定力」
 そもそも、森保一監督の「雇い主」であるところの田嶋幸三JFA会長(2024年3月で退任予定)自身が、そういう「迷信」を信じているのではないか? ……との見方がある。田嶋幸三会長の著作、2007年に出た『「言語技術」が日本のサッカーを変える』の冒頭にはこうある。<1>
 2007年1月、大坂で「第5回フットボールカンファレンス」が開催されました。

 メインテーマは、06年にドイツで開催されたワールドカップの分析と報告です。このカンファレンスで私〔田嶋幸三〕は「日本代表報告」を担当することになっていました。

 私が壇上に立つ直前、ハッとするような話が耳に飛び込んできたのです。

 ワールドカップの準決勝・イタリア対ドイツ――この大会で何試合かアシスタントレフェリーを務めていた廣嶋禎数〔ひろしま・よしかず〕さんが、こんな話を始めました。

 「イタリアの選手が退場させられて選手が1人減ってしまったその時、イタリアの選手たちは、誰1人として、ベンチを見なかった」

 イタリア・チーム〔2006年ドイツW杯で優勝〕は、状況からして非常に不利な局面を迎えていた。にもかかわらず、選手たちはベンチに指示を仰がなかった。その場で話し合いをはじめ、10人でどのように試合を進めていくのかを即座に決め、お互いに指示を出し合い、発生した問題を解決していった――というのです。

 ピッチ上の選手が、「ベンチを見ない」。

 そのことは、いったい何を示しているのでしょうか? サッカーにとって、どれくらい重要な意味があるのでしょうか?

 イタリアのメンバーたちは、選手が1人欠けてしまった場面に遭遇しても、自分たちで判断し難問を解決する力を持っていました。そうした能力をしっかり養ってきたからこそ、彼らはベンチに対して「指示を求めなかった」のです。

 つまり、「ベンチを見ない」ということは、ピッチ上で発生した出来事をどう処理していくのか、そのために分析力と判断力を発揮して、決定する「力」を持っていたことの「証」〔あかし〕でした。

 究極の状況下で、自ら考えて判断を下す「自己決定力」。その力を備えていない限り、世界で通用するサッカー選手になることはできない、という事実を明確に示している――そうした出来事だと、私〔田嶋幸三〕には思えたのでした。

 でははたして、日本の選手たちはどうでしょう?

 日本のサッカーは、どれくらい「自己決定力」の大切さを意識してきたでしょうか? そうした能力を養っていくための訓練をしてきたでしょうか? 学校や家庭で、そうした能力を育む努力や工夫を、重ねてきたでしょうか? 「自己決定力」を支える、論理や表現力を学ぶシステムは、確立されているでしょうか? それともそうしたことの大切さすら、まだ自覚されていないのでしょうか?

田嶋幸三「ベンチを見ないイタリア・チーム」@『「言語技術」が日本のサッカーを変える』7頁~9頁


 平尾誠二監督と田嶋幸三会長の「日本人観」は、非常によく似ている。そして、ジーコ・ジャパン(や平尾ジャパン)の擁護論として、多用された言い回しでもあった。

 ジーコ・ジャパンは(平尾ジャパンも)、肝心なワールドカップ本大会では惨敗した。しかし、それは田嶋幸三会長が述べるところの「日本人の〈自己決定力〉の欠如」の問題であって、ジーコ・ジャパンの監督であるジーコ氏の責任ではない……ということで片付けられてしまった。

 この度の守田英正選手のコメントは、彼がサッカー選手としてレベルが低いということの「証」なのだろうか? ……それは違う。

「迷信」に斬り込んだスポーツライター
 藤島大氏(スポーツライター)は、あるいは大西鐵之祐氏(ラグビー日本代表監督ほか)の薫陶を受けたためもあるのかもしれない。「ボトムアップ型」日本代表を生み出す、日本スポーツ界の「迷信」を批判してきた。
 なぜかスポーツとなると「型」〔≒指示、戦術〕と「個性」〔≒自己決定力〕の対極へと位置づけるナイーブな論調が跋扈〔ばっこ〕する。しかし、マイク・タイソン〔元プロボクシング世界ヘビー級チャンピオン〕は厳しいパターンに従って戦ったプロデビュー直後こそ、もっともタイソンらしかった。〔略〕

 つまりスポーツに型はあるものなのだ。そして型を実行する過程においても「その人らしさ」は必ず反映されるし、「ここに拠点ができたら必ず右に攻めろ」とパターン化しても、パスをするのか蹴るのか当たるのかは「個人の判断」がしばしば決定する。

藤島大「〈史上最強〉の虚実」@『ラグビーの世紀』104頁


ラグビーの世紀
藤島 大
洋泉社
2000-02-01


 型、パターン、戦術を明快に打ち立てると、個人の判断や力強さが身につかない。とらわれがちな呪縛〔じゅばく〕ではある。少年期なら自由な判断と一般的な基本技術がとことん尊重されるべきだ。しかし〔日本〕代表の具体的なチーム作りにあっては、それでは時間が足りなくなる。それに、一級の指導者は選手の個性を観察した後にふさわしい型を構築するものなのだ。

藤島大「〈史上最強〉の虚実」@『ラグビーの世紀』106頁
 以上、平尾ジャパンを総括した記事である。実に溜飲が下がる。聞いているか!? 田嶋幸三会長! そして宮本恒靖次期JFA会長! ……と言いたくなる。

 藤島大氏は該当記事で、松尾雄治氏(元ラグビー日本代表)から「戦争に行ってさ、個人の判断でいけ、なんて嫌だよ。そんなの。あっちこっちに勝手に弾打ってさ。そんなんで、どうして死ねるんだよ」という、平尾ジャパンをやんわり批判した比喩的なコメントを引き出している。

 守田英正選手のコメント(あるいは三笘薫選手のコメント)は「そんなんで、どうして死ねるんだよ」という気持ちの表明でもあったのかもしれない。

 藤島大氏の筆鋒は、ジーコ・ジャパンの総括にも向けられている。
 ジーコが悪い。ジーコがしくじったから〔サッカー日本代表は2006年ドイツW杯で〕負けた。なぜか。チャンピオンシップのスポーツにおいて敗北の責任は、絶対にコーチ〔監督〕にあるからだ。〔略〕シュートの不得手なFW〔柳沢敦〕を選んで、緻密な戦法抜きの荒野に放り出して、シュートを外したと選んだコーチ〔監督〕が非難したらアンフェアだ。

藤島大「ジーコのせいだ」(2006年7月27日)https://www.suzukirugby.com/column/column984


柳沢敦:急に(Q)ボールが(B)来たので(K)
柳沢敦のQBK:急に(Q)ボールが(B)来たので(K)
 サッカージャーナリストの多くが「迷信」の前にジーコを批判できず、沈黙してしまったのに対し、まことに胸のすく啖呵である。

 あの対イラン戦。ロングボールをゴール前に放り込まれ続けられる「荒野」の中で、しかし、しかるべき守備の指示もなく、なすがままに敗れ去ってしまったのが森保ジャパンだった。

サッカーはアップデートしている
 もうひとつ。そもそも、イタリア代表の選手たちがW杯の準決勝でピンチに陥ってもベンチ(監督)の指示を仰がなかったという逸話は、今から17年半も昔の2006年のことである。

 しかし、2024年現在、サッカーというスポーツは(好むと好まざるとにかかわらず)アップデートしている。

 すなわち、GPSやAIなどを使った膨大なデータの集積と科学的な分析。ドローンを使ったフォーメーションの練習など高度に統制された戦術。そればかりか「個の力」に頼っていた最後の崩し方すら「組織的、戦術的」に練習する。

 試合中はピッチを俯瞰したスタッフがフォーメーションを絶えず観察、状況に応じてスタッフが無線で連絡しあい、それによって選手たちは柔軟にそれを変更する。……等々。

 もはや、ピッチ上の選手たちだけで出来るゲームではなくなっているのだ、サッカーは。

 選手だけでサッカーをしていると、それこそ「考えすぎて頭がパンクする」のである。

 三笘薫、堂安律、久保建英、遠藤航、冨安健洋、守田英正……等々(順不同)、日本代表選手の「個の力」も2006年当時から大幅に向上した。結局、森保ジャパンの活躍は選手たちの「個の力」に頼ったところが大きかったのではないか? ……とまで言われている。

 その「個の力」をチームの力にまとめきれないのは、やはりベンチ(監督)の責任ではないのか? ……と。

 田嶋幸三会長が『「言語技術」が日本のサッカーを変える』の中で称揚した逸話は、昔の日本プロ野球で二日酔いで猛打賞をとったスラッガーを讃える武勇伝と同じ類のアナクロニズムである。<2>

 森保ジャパンの予想外の不振と敗退に、ジーコ・ジャパンの(そして平尾ジャパンの)亡霊を見てしまった気がする。





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日本サッカー界のPR下手
 Jリーグの「秋春制」シーズンへの移行が、2023年12月、本決まりとなった。決まってしまった。
  • 参照:NHK「サッカー Jリーグ〈秋春制〉移行を正式決定 2026年から」(2023年12月19日)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231219/k10014292481000.html
 その理由についてはいろいろ言われているが、建前論を捨象すると、秋春制に移行したAFCチャンピオンズリーグ(ACL)にJリーグがシーズンを合わせることで、ACLやFIFAクラブワールドカップ(CWC)におけるJクラブのプレゼンスを維持し、またはこれを高め、延いては日本の公衆に対するサッカーというスポーツのパブリックリレーションズ(Public Relations,PR)の構築につなげるためだとされている。

 ……と言う割には、同時期にサウジアラビアで開催された、Jリーグの浦和レッズがACL王者として出場した「FIFAクラブワールドカップ サウジアラビア2023」の情報発信、特にウェブサイトやSNSでのそれに関して、日本サッカー協会(JFA)もJリーグも全く不熱心だった。SNSではサッカーファンからの批判やら落胆やらで渦巻いていた。

 もともと今回のCWCは、日本ではテレビの放送が無かった。野球ばかりを優遇するテレビのスポーツニュースでも、ほとんどCWCの情報は出なかったであろうと思われる。

 熱心なサッカーファンですら、浦和レッズがCWCを戦っていること自体、試合後になってからスマホの小さな記事でたまたま知ったくらいだという。

 とにかく、JFAも、Jリーグも、日本サッカー界のダメなところは、日本の公衆への露出が少なくてPRが下手という点に尽きる……と、サッカーファンは憤慨している。

 実際、日本サッカー界はPR、パブリックリレーションズの構築が非常に下手である。例えば、毎年、正月「元日」(1月1日)の試合開催に拘泥している(こだわっている)ことなどがそうである。

元日にサッカー日本代表が国際試合?
 2023年10月19日、JFAは「史上初,元日開催」と称して、また冠大会「TOYO TIRES CUP 2024」(トーヨータイヤカップ2024)として、2024年元日(1月1日)に日本代表とタイ代表の国際試合を行うことを発表した。
  • 参照:日本サッカー協会「TOYO TIRES CUP 2024」https://www.jfa.jp/samuraiblue/20240101/
  • 参照:トーヨータイヤ「元日のサッカー日本代表 国際親善試合~TOYO TIRES CUP 2024を開催」(2023.11.14)https://www.toyotires.co.jp/press/2023/231114.html
 2024年1月12日~2月10日に、中東・カタールでAFCアジアカップ(アジア杯)が開催されることになっており、その壮行試合という意味合いがある。また「TOYO TIRES CUP 2024」の試合の直後に記者会見を開いて、アジア杯の招集メンバーを発表する予定だという。

 しかし、これではJFAの思惑とは裏腹にサッカー日本代表とアジア杯のPRにはならない。

 なぜなら、元日では、いくら日本代表が面白い試合をしても、翌日は新聞(一般紙,スポーツ紙とも)は休刊日。そしてテレビは特別編成となり、通常のスポーツニュースは放送されない。正月スポーツの話題は翌2日~3日に開催される箱根駅伝にほぼ独占される。正月の日本では、サッカーは物理的に話題にならない。したがって情報が拡散されない。

 ただでさえアジア杯はテレビ(地上波)では放送されないというのに(DAZNはテレビ局にニュース映像をどれだけ提供してくれるのだろうか?)。これでは、日本の公衆というレベルでの日本サッカーの気勢が上がらないことになる。

 JFA、延いては日本サッカー界は、何故こんな頭の悪いことをするのか?

「元日,国立,サッカー」への拘泥と呪縛
 そもそも、2024年1月1日はFIFAが定める国際Aマッチデーではない。だから年末年始にも公式戦のスケジュールが詰まっている、スペインやイングランドのクラブ所属の選手は招集できない。

 また「TOYO TIRES CUP 2024」については、大事なアジア杯を控えて日本代表選手に無理をさせず休養を与えるべきだという意見もある。JFAは金稼ぎの興行に走ったという批判もある。

 ……にもかかわらず、「TOYO TIRES CUP 2024」を開催する理由は、JFAは「毎年,元日に東京・国立競技場でサッカーの試合をすること」に関して特別な思い入れがあるからだ。
 JFAの宮本恒靖専務理事〔次期JFA会長〕は〔10月〕19日に行われた理事会後のブリーフィングで、「1月1日は日本サッカー界に〔とって〕重要な日ですし,アジアカップ前に強化試合をやりたいという〔森保一〕監督の考えもあり,どことやるのかを交渉した結果、タイに決まりました」と経緯を説明している。

サッカーキング「日本代表,史上初となる〈元日決戦〉が決定! 国立競技場でタイ代表と激突」(2023.10.19)https://www.soccer-king.jp/news/japan/national/20231019/1822322.html
 曰く「1月1日は日本サッカー界に〔とって〕重要な日」なのである。

 なぜなら、毎年元日は、東京・国立競技場でサッカー天皇杯の決勝を行うのが「恒例」だからだ(あくまで恒例であって「伝統」ではない.後述)。しかし、日本プロサッカー選手会から選手のオフ期間を確保するための要請もあり、ここ2年間は決勝を前倒しして開催。2023年(2023年度)も12月9日に行われた。

 それでも、JFAは「元日,国立,サッカー」に拘泥している。

 2023年元日(2022年度)は、全日本大学サッカー選手権大会(インカレ)の決勝が行われた。決勝は新潟医療福祉大学vs桐蔭横浜大学が対戦。1万2841人の観客を集めた。大学サッカーについては詳しくないが、いわゆる「伝統校」ではない大学同士の対戦としては、よく集客した方ではないだろうか。
  • 参照:JFA「2022年度 第71回全日本大学サッカー選手権大会 新潟医療福祉大学vs桐蔭横浜大学」(2023/1/1 日・祝)https://www.jfa.jp/match/alljapan_university_2022/match_page/m23.html
 2023年度=2024年の元日もインカレの決勝が行われる予定だったが、日本代表の国際試合「TOYO TIRES CUP 2024」に差し替えられ、これが行われることになったのである。

歴史的正当性が怪しい元日サッカー
 もっとも、天皇杯決勝が元日でなければならない。天皇杯決勝が出来なかったら、何か他のサッカーの試合を東京・国立競技場でしなければならない。それが「伝統」だから……と拘るJFAの言い分の歴史的な正当性や根拠が怪しい。

NHK「サッカー天皇杯」100回の歴史
「NHK〈サッカー天皇杯〉100回の歴史」OP画像

 天皇杯元日決勝は、同じフットボールの、まるでラグビーにおける英国「オックスフォード大学vsケンブリッジ大学」の定期戦(毎年12月第1火曜日開催,剣牛戦)に範をとった「早慶戦」(早稲田大学vs慶應義塾大学,毎年11月23日祝日開催)や、「早明戦」(早稲田大学vs明治大学,毎年12月第1日曜日開催)に似ている。

戦前のラグビー早明戦(1934年12月2日?)
戦前のラグビー早明戦(1934年12月2日?)

 ラグビー「早慶戦」「早明戦」は、この競技独特の「対抗戦思想」と呼ばれる古いフットボール文化(詳細は次のリンク先を参照)に基づいて行われるが、しかし、19世紀にいち早くプロ化が認められ「選手権制度」の下で試合が行われるサッカーには、そのような文化は早々と消滅している。
  • 参照:昔のラグビー~慶應義塾大学vs帝京大学の公式戦が無かった〈対抗戦思想への拘泥[2]〉(2023年10月11日)https://gazinsai.blog.jp/archives/50245564.html
 この試合はこの日でなければならない……という特定の日程への拘り(天皇杯元日決勝)では、日本サッカーそのもののPRにならず、かえって利益を損ねているのである。

 また、ラグビー「早慶戦」「早明戦」は大正時代に始まり、およそ一世紀にわたる名勝負を繰り広げ、スポーツファンの話題になり続けてきた。
  • 参照:Sports Graphic Number 258号 早明終わりなき熱闘(1990年12月20日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/652
 だから歴史的正当性があり、あるいはこの日程で行うことが日本ラグビー界の「聖域」となっている(逆に言えば,これを批判することはタブーとなっている)。

 一方、日本サッカーのカップ戦、現在の天皇杯も大正時代(1921年)に始まったが、「天皇杯」の冠が掲げられたのは1951年5月(昭和26)から。「元日決勝」に至っては1969年(昭和44)1月から(年度としては1968年)から。たかだか50年余りの歴史しかない。

サッカー天皇杯元日決勝:日本髪の女性
サッカー天皇杯決勝を観戦する日本髪の女性(1969年元日)

 満員のスタジアムでの「元日決勝」に至っては、1992年(1991年度)天皇杯決勝「日産自動車vs読売クラブ」からである。せいぜい30年の歴史なのである。

1991年度サッカー天皇杯決勝:日産vs読売
1991年度天皇杯決勝(1992年元旦):日産自動車vs読売クラブ


天皇杯の「元日決勝の伝統」の正体だが、
  1. 学生主体の時代→学期の真ん中あたり
  2. 学生vs実業団の時代→GW開催
  3. 実業団の時代→冬季、元日決勝へ
で、伝統っても実業団時代の伝統でしかないわけだよね。今は各国でリーグが整備されてシーズン末は固まってるが、元日である必要はない
 ラグビー早明戦が本物の伝統であることに比べると、元日サッカーの方は「伝統」とは呼べない。これは偽りの「伝統」に過ぎないのである。

日本サッカー界の賢明でないこと
 その偽りの「伝統」への拘泥と呪縛で、元日に日本代表が国際試合を行う。が、しかし、それは「元日」という固有の事情で大して日本サッカーのPRにはならない。

 このような賢明でないことを、いつまで日本サッカー界は続けるのだろうか? ……と考えると、新春の華やいだ気分にはとてもなれず、いろいろガッカリしてしまうのである。





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日本のマスコミと野球の関係
 日本のマスコミ企業(一般紙や地上波テレビ,スポーツ紙)は、例えば「朝日新聞」が夏の甲子園(高校野球の大会)を主催していたり、「読売新聞」が読売ジャイアンツ(プロ野球球団)を経営していたり……等々、野球の興行に自ら関わっている。

 また、相互に監視、批評しあう関係にあるべきマスコミ企業は、いわゆるクロスオーナーシップというもので、「一般紙/地上波テレビ/スポーツ紙」が資本的に系列化されている。<1>

 加えて、アメリカ合衆国(米国)のメジャーリーグベースボール(MLB)に莫大な放映権料を支払い、これをBSや地上波で放送し、毎年、春・夏の甲子園=高校野球の大会を地上波で全試合放送している公共放送NHKがある。

 つまり、日本のマスコミ企業は総体として野球とは利害関係者の間柄で、一蓮托生、癒着している。野球(特にプロ野球)は、日本のマスコミ企業総体にとって「自社コンテンツ」なのである。

 そんな日本のマスコミにとって、日本のナンバーワンスポーツはあくまで「野球」でなければならない。新しく台頭した「サッカー」や「バスケットボール」など他のスポーツであってはならない。

野球マスコミの野球ゴリ押し
 年々、日本においても野球の人気は下がり、競技人口も減っている。国会の議席で譬(たと)えれば、もはや野球は単独過半数を取れなくなっている。その分、日本人一般のスポーツの好みはサッカーやバスケットボールなどに「多様化」しており、本来ならば日本のスポーツ報道も各競技の人気の度合いに応じて按分されるべきである。

 しかし、だからこそ、前述の理由で、日本のマスコミはサッカーやバスケットボールなど他のスポーツの報道の量を野球の報道の量より増やすことは、しない。むしろ、日本で野球の人気が落ちれば落ちるほど、日本のマスコミは野球をゴリ押しする。

 こうした、野球とマスコミが癒着した状況を「野球マスコミ」と呼ぶことがある。

 2023年のワールドベースボールクラシック(WBC)の時の野球マスコミの攻勢(ゴリ押し)は凄まじいものがあった。
  • 参照:WBC2023「侍ジャパンがアメリカを下し3大会ぶり3回目のWBC制覇! 大谷翔平が胴上げ投手に」https://www.wbc2023.jp/
 2022年のFIFAワールドカップ(サッカーW杯)カタール大会は、大会が始まるまで、あるいはサッカー日本代表(森保ジャパン)が強国ドイツに勝つまでは、日本のマスコミ(野球マスコミ)はきわめて冷淡だった。翻って、野球のWBC2023については、開催のずっと前からゴリ押ししまくっていた。

 首尾よく事が運んで野球日本代表(侍ジャパン)はWBC2023で優勝したが、地上波テレビ(野球マスコミ)はワイドショー番組でこの話題を1~2か月引っ張った。よほど熱心な野球ファンでも、何度も何度も同じ話題を見せられるとさすがに食傷する。

 野球マスコミによるWBC2023のゴリ押しは止めどが無い。今度は2023年大晦日、WBC2023の地上波放送担当局だったTBSが「WBC2023 ザ・ファイナル」という番組を、午後5時から約7時間(!)放送する。聞いただけでゲップが出そうだ。
  • 参照:TBS「WBC2023 ザ・ファイナル」(2023年12月31日午後5時から放送)https://www.tbs.co.jp/program/wbc2023sp_20231231/
 ちなみに、NHKが総合テレビで2022年12月25日に放送した「FIFAワールドカップ2022総集編~挑戦者たち」という番組は、放送時間は1時間13分であった(これは好番組であった)。
  • 参照:NHK「FIFAワールドカップ2022総集編~挑戦者たち」(2022年12月25日放送)https://www.ennetinc.com/work/fifa%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%972022-%E7%B7%8F%E9%9B%86%E7%B7%A8/
 適切な編集を施せば、スポーツのビッグイベントの総集編コンテンツはせいぜい2時間程度の放映時間となるものだが、7時間とはよほど内容が水増しされるのではないか。

ナショナルチームか,オールスターチームか
 ところが、ワールドベースボールクラシックなるこのスポーツイベント、野球におけるナショナルチーム(代表チーム)のこの世界大会は、同じくナショナルチームの世界大会であるサッカーのFIFAワールドカップや、ラグビーのラグビーワールドカップなどと違って、全くオーソライズされていない大会なのである。

 その理由。まず第一に、そもそもサッカーやラグビーのような英国生まれのスポーツと違って、野球のような米国生まれのスポーツは、ナショナルチーム(代表チーム)の国際試合自体がオーソライズされていない。サッカーやラグビーのW杯の熱狂は、本来、その延長線上にある。

 しかし、野球のWBCは、そのような歴史や文化を経ずに、2006年、米国MLBの主導で始まった。

 米国のスポーツ報道ではWBCのことを「国別対抗のオールスターゲーム」と呼んだらしい。この辺にサッカーやラグビーのW杯と野球のWBCの違いがある。「ナショナルチームによる世界大会」ではないのである(ひょっとして米国のスポーツジャーナリズム,米国のスポーツ文化は「ナショナルチーム」の何たるかを分かっていないのではないか?)。

 むしろ、ある意味、WBCは、サッカーやラグビーのW杯のように眦(まなじり)を決して臨むというよりは、「国別対抗のオールスターゲーム」という面持ちで取り組むべきイベントなのかもしれない。

 こんな中で、日本の侍ジャパンだけが眦を決してWBCに臨み、必死に優勝を目指した。なぜならば、それは野球マスコミの「強い希望」であり、そこで優勝し「世界一」の称号を得ることで日本国内における野球のプレゼンスを高め、2022年サッカーW杯カタールW杯における森保ジャパンのベスト16に対する優越を誇示せんがためである。

デタラメでオーソライズされないWBC
 第二に、サッカーと野球の世界的な普及度の違い、スポーツとしての規模の違いである。その違いは、地域大陸予選を含めて総数200か国に及ぶサッカーW杯に対して、WBCは2023年大会で総数28か国である。参加国総数の違いは競争の激しさの違いにつながる。

 サッカーW杯は掛け値なしに世界的な注目を浴びる。しかし、野球の人気は世界的な普及に失敗した競技である。野球の人気は米国においてすら良く見積もってアメフト、バスケに次ぐ三番手であり、一部ではサッカーの人気に並ばれたとも追い抜かれて四番手に落ちたとも言われる。つまり、WBCは世界的には注目されない。

 ……なるほど、野球が世界的な人気スポーツでないことは、日本球界の責任ではない。しかし……。

 第三に、WBCは1次ラウンドで公正な組み合わせ抽選をしない。その上で、WBC2023で言えば侍ジャパンは、プールBで韓国、オーストラリア、中国、チェコ共和国といった、弱小の、ほぼ確実に勝てる相手と、大会主催者のはからいにより試合をすることとなった(それにしても,かつてのWBCで日本に立ちはだかった韓国野球の凋落が著しい)。

 しかも会場は勝手知ったる地元・日本の東京ドームだった。次いで準々決勝の対戦相手はイタリアという、これまたほぼ確実に勝てる相手だった。

 極論すれば、侍ジャパンは準決勝、決勝と、2回勝っただけで「世界一」になれたのである。カタールW杯グループステージでドイツ、スペインというW杯優勝経験国、サッカー超大国と対戦することになったサッカーの森保ジャパンと何という違いだろうか。

 一方、米国で行われていたWBCプールDは、プエルトリコ、ベネズエラ、ドミニカ共和国、ニカラグア……と野球の強豪国ぞろいであり「死のグループ」と呼ばれた。特に優勝候補のドミニカ共和国がプエルトリコに敗れた試合、たまたま当方、Jスポーツで視聴していたが、これがなかなか面白い試合であった。

 侍ジャパンも、こういう1次ラウンドの組み合わせで勝ち上がって優勝すれば、その「世界一」の価値も高まるのに……と思った。また、侍ジャパンがWBCでドミニカ共和国やプエルトリコと試合をしたら面白いのに……とも思った。しかし、WBCの主催者はそうはしない。

 とにかく、WBCはサッカーやラグビーのW杯と比べて、さまざまな意味でデタラメな世界大会である。そのデタラメさゆえに侍ジャパンは楽にベスト4に進出でき、優勝できた。そのデタラメさ加減が、WBCのオーソライズを阻んでいるという残念な現実がある。

 WBCが開催される3月、毎年、米国では全米大学バスケットボールトーナメントが開催される。この大会は「マーチ・マッドネス」(3月の熱狂)と呼ばれ、文字通り「全米が熱狂」する。
  • 参照:レーン・ミクラ(駐日アメリカ大使館公式マガジン)「スポーツ 全米が熱狂する〈マーチ・マッドネス〉」(2019年4月3日)https://amview.japan.usembassy.gov/march-madness-explained/
 WBCの方はマーチ・マッドネスと比べると、あまり注目されない。こうしたWBCの実態について、野球マスコミは触れたがらない。

日本人のコモンセンス
 そんな野球の世界大会(WBC2023)を、日本の野球マスコミはまるで世界中が注目している偉大なイベントであるかのように熱心に報道していた。

 リテラシーのない人は、WBC2023における侍ジャパンの優勝が、2022年サッカーW杯カタールW杯における森保ジャパンのベスト16を超える偉業であるかのように受け取る。

 これこそ野球マスコミの企てである。

 もっとも、全てが野球マスコミの思惑通りに運ぶとは限らない。

 サッカーW杯で日本代表が勝つと、東京・渋谷のスクランブル交差点界隈が大変な騒ぎになる。しかし、WBC2023で侍ジャパンが勝っても何も起こらなかった。

 こちらの方が、日本人のコモンセンスである。正しい評価である。

 野球マスコミは、WBC2023の侍ジャパン優勝でハシャギ過ぎなのである。





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  • 前回のおさらい:「日本人サッカー不向き論」は2022年カタールW杯で復活する!?(2022年07月27日)https://gazinsai.blog.jp/archives/46969809.html

日本人サッカー選手の活躍に見る「隔世の感」
 鎌田大地、伊東純也、古橋亨梧、前田大然……等々。欧州サッカーシーンにおける日本人選手の活躍が目覚ましい。これを受けて、サッカージャーナリストの大御所・後藤健生氏が「隔世の感」という言葉を用いていろいろ感慨にふけっている。

 何をもって「隔世の感」というのか?
後藤健生「鎌田がCLで2戦連続ゴール 20年前を思うと、まさに〈隔世の感〉」(2022年10月28日)
 さまざまな意味で「隔世の感」としか言いようがない。

 まず、思うのは最近では「日本人選手〔欧州サッカーシーンで〕がゴールを決めるのが当たり前のようになった」ということ。〔中略〕

 ほんの30年ほど前まで「日本人はサッカーに向かない」と言われていた。その後、Jリーグが発足し、日本代表も毎回のようにワールドカップに出場するようになった。すると、さすがに「日本人はサッカーに向かない」などと言う人は少なくなったが、代わりに「日本人はパスはうまいがシュートが下手.そもそもシュートを打とうとしない」と言われるようになった。

 『日本人はなぜシュートを打たないのか?』という本を書いた人〔サッカー指導者で評論家の湯浅健二氏のこと〕までいた。

 いずれも、日本人がサッカーに向かないのも、シュートを打たないのも、「横並びが重視される日本社会のせい」とか「日本の教育のせい」というのが答えだったように記憶している〔後述するが本当はこの手の議論はもっと多種多様である〕。

 しかし、最近の日本人はシュートを打つし、シュートを決めることもできるようになってきたのだ。もう、今では「日本人はシュートを打たない」などと、誰も言わないだろう。

 先日、U-20女子ワールドカップ〔U-17女子ワールドカップの間違いか?〕を見ていたら、日本の女の子たちはシュートが大好きらしく、カナダ戦では日本チームはなんと30本以上のシュートを放っていた。

 スペインとの準々決勝ではスペイン人選手のスピードやパワーに圧倒されて守備一辺倒になってしまったが、後半66分には谷川萌々子が30メートルほどのロングシュートを突き刺してなんと押されていた日本が先制したのだ(最後に逆転されてしまったが)。

 最近、数10年の間に日本の社会や日本の教育が大きく変わったとは思えない。だとすれば、「日本人はサッカーに向かない」と思われていたのも、「日本人がシュートを打たな」かったのも、社会や教育のせいではなかったのではないだろうか。

 要するに、日本では選手の育成がうまくいっていなかったからサッカーが弱かったのであり、日本人選手はキックが下手だったからシュートを打ちたがらなかったのに違いない。

 1990年代以降、日本の育成システムが大幅に改善され、最初はパス技術などのレベルが上り、最近になってようやくキック技術の高い選手が数多く生まれてきた。その結果、日本人選手もシュートがうまくなり、ヨーロッパ各国リーグでも〔UEFA〕チャンピオンズリーグでもゴールを決められるようになってきたのだ。

 力を入れ過ぎずに、しっかり相手のGKの動きなども見極めながら、冷静にゴールを決める鎌田〔大地〕の姿を見れば、もう二度と「日本人にサッカーは向かない」とか「日本人はシュートを打たない」などと言われることはないだろう。

 もう一つ、「隔世の感」を思わせるのは、日本人選手がCL〔UEFAチャンピオンズリーグ〕に出場できるような強豪クラブで活躍するようになったということだ。〔以下略〕

https://news.jsports.co.jp/football/article/20190310223956/
 そもそも、かつての後藤健生氏自身が、著書『サッカーの世紀』などの場で、「日本人はサッカーに向かない」と力説していた……。

サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07T


 ……しかしながら、後藤氏は1990年代からの日本サッカーの伸長を的確に評価し、そのような煩悩(ぼんのう)のような思考からは既に解脱(げだつ)している。

 氏は、2022年の時点で、「日本人サッカー不向き論」はもう二度と出てこない、すなわち「もう二度と〈日本人にサッカーは向かない〉とか〈日本人はシュートを打たない〉などと言われることはない」と啖呵を切っているのである。

 だが、それは怪しい。後藤健生氏は少し楽観的すぎやしないか。

でも,もしカタールW杯で日本代表が「惨敗」したら?
 日本代表にとって、どのワールドカップ本大会でも、1次リーグで楽な対戦相手など存在しなかった。そうだとしても、今回、2022年カタールW杯は厳しい。ドイツ、スペインというW杯優勝経験のあるヨーロッパのサッカー超大国と同組になってしまった。毎回、好チームをW杯本大会に送り込んでくる北中米カリブ海のコスタリカもまた、侮れない。

 当代サッカー日本代表=森保ジャパンの国際的な下馬評はハッキリ言って低い。もし、カタールW杯で日本が下馬評通りに……否、下馬評を下回る「惨敗」を喫してしまったら? 特にドイツなんかは大量得点をしても手抜きをしない印象があるから本当に怖い。

ミネイロンの惨劇(ドイツ7-1ブラジル)
【2014年ブラジルW杯の「ミネイロンの惨劇」】

 悲観的になるが、カタールW杯での森保ジャパンの結果と内容いかんによっては、後藤健生氏の考えとは裏腹に、ネガティブで自虐的な「日本人サッカー不向き論」はたやすく復活するだろう。

 そうなったら、いずれも日本代表が「惨敗」した過去のW杯、1998年フランスW杯、2006年ドイツW杯、2014年ブラジルW杯の時がそうだったように、日本のサッカー界隈、日本のサッカー論壇には「日本人サッカー不向き論」で溢(あふ)れかえるのである。

 例えば、「日本人サッカー不向き論」のイノセントなビリーバーである湯浅健二氏と、そこからは脱した後藤健生氏の対談である(もともと両氏は懇意な間柄にある)。

 2人の対談本『日本代表はなぜ敗れたのか』(2014年)では、何度となく湯浅健二氏は日本人の国民性では本質的にサッカーに向いていない。だからブラジルW杯で日本代表は惨敗したのだ……と繰り返す。対して後藤氏は、時には語気を強めてまで必死でそれをたしなめるのだが、イノセントな湯浅氏はまったく聞く耳を持たない。

日本代表はなぜ敗れたのか (イースト新書)
後藤健生
イースト・プレス
2014-08-10


 それでは、日本代表が1次リーグを勝ち上がったW杯ではどうか? ……というと、実は変わらない。何と湯浅健二氏と後藤健生氏は、2010年の南アフリカW杯の時も、ブラジルW杯の時とほとんど同様の対談を展開していたのである(『日本代表はなぜ世界で勝てたのか?』2010年)。

日本代表はなぜ世界で勝てたのか? (アスキー新書 161)
後藤 健生
アスキー・メディアワークス
2010-08-07


 要するに、「日本人サッカー不向き論」の世界では、日本代表がW杯で勝とうが負けようが、日本人が日本人である限り日本人はサッカーに向いていないのである。それに関しては、湯浅健二氏のように、ネガティブで自虐的な「日本人サッカー不向き論」を吟ずることこそ、日本のサッカーファンとしての賢明で批評的な態度の表明なのだ。<1>

 後藤健生氏が先の引用文で湯浅健二氏のことを当てこすっていたのは、このような経緯があったからである。それにしても、後藤氏は少し楽観的すぎやしないか。

「日本人サッカー不向き論」の担い手は世代交代している
 なぜなら、「日本人サッカー不向き論」自体が根絶できていないからだ。

 後藤健生氏は知らないのかもしれないが、「日本人サッカー不向き論」は湯浅健二氏や佐山一郎氏、細川周平氏、星野智幸氏、村上龍氏、金子達仁氏……等々の世代から世代交代している。例えば、中野遼太郎氏(1988年生まれ)や河内一馬氏(1992年生まれ)といった若手のサッカー指導者・サッカー関係者が今やその担い手になっている。

 そして、その中身は、と言えば……、
 日本人が使う「日本語」は極めて特殊で難しいニュアンスを含んでおり、サッカー国である大多数の外国人には習得が非常に難しい言語である(日本語特殊言語論)⇒ゆえに日本人は日本人というだけで、サッカーに関して大変なハンディキャップを宿命的に背負っている(もっとハッキリ言えば,日本人はサッカーに向いていない)。

参照:中野遼太郎氏のサッカーコラムから~日本人論・日本文化論は終わっていない(2021年05月02日)https://gazinsai.blog.jp/archives/43733968.html
 日本人は「一神教」なかんずくキリスト教(でなければイスラム教)を信仰していない、信仰心が極めて薄い多神教または「無宗教」である(日本人無宗教論)⇒ゆえに日本人は日本人というだけで、サッカーに関して大変なハンディキャップを宿命的に背負っている(もっとハッキリ言えば,日本人はサッカーに向いていない)。

参照:一番ダサいのは陳腐な「サッカー日本人論」を垂れ流している河内一馬氏の方ではないか(2018年12月01日)https://gazinsai.blog.jp/archives/35168758.html
 ……こういったことは、別に中野遼太郎氏や河内一馬氏が新しく論じたことではない。

 「日本語特殊言語論」や「日本人無宗教論」に基づいた「日本人サッカー不向き論」というのは、日本サッカーが長期低迷していた1970~1980年代初めから既に存在していた(余談ながら,1980年代,ミニコミ誌『サッカージャーナル』の編集長として,そうした「日本人サッカー不向き論」の流布に関わっていたひとりが後藤健生氏だったであるが)。

 繰り返すが、「日本人サッカー不向き論」は根絶できていないのである。

 だから、やはり悲観的になるが、カタールW杯での森保ジャパンの結果と内容いかんによっては、後藤健生氏の考えとは裏腹に、ネガティブで自虐的な「日本人サッカー不向き論」はたやすく復活するだろう。

欧州サッカーシーンでの日本人選手の活躍は関係ない
 ワールドカップ本大会における日本代表の勝ち負けはあくまで一時(いっとき)の運、一方、鎌田大地、伊東純也、古橋亨梧、前田大然ら、多数の日本人選手は欧州サッカーシーンで普通に活躍しているのだから、もう「日本人にサッカーは向かない」などと言われることはない……ひょっとしたら、後藤健生氏はこう言いたかったのかもしれない。

 しかし、そんな理屈は通用しない。

 先に、「日本人サッカー不向き論」の世界では、日本代表がW杯で勝とうが負けようが、日本人が日本人である限り日本人はサッカーに向いていない……と書いた。同様、「日本人サッカー不向き論」の世界では、日本人選手が欧州サッカーシーンで活躍しようがしまいが、日本人が日本人である限り日本人はサッカーに向いていないのである。

 だから、今でも中野遼太郎氏や河内一馬氏のような人が台頭するのである。中野氏や河内氏がサッカー関係者・サッカーファンの耳目を集めたのは、実はサッカーの仕事それ自体というよりも「日本人サッカー不向き論」を展開したから。そこに日本のサッカー界隈や日本のサッカー論壇の特殊性がある。

 サッカー関係者・サッカーファンの層(親サッカー層)ですらそうなのである。

 ふだんサッカーへの関心は薄いがW杯なら見るという一般人を中心とした層(非サッカー層)や、あからさまな「反サッカー層」なら、なおさら。

 〈二刀流〉の日本人メジャーリーガー・大谷翔平をめぐる過剰な報道に代表されるように、野球ばかりが優遇される日本のオールドメディアのスポーツ報道の状況にあっては、非サッカー層・反サッカー層の人たちには、欧州で活躍する日本人サッカー選手たちは「視界」に入らない。

 日本人とサッカーのかかわりへの評価や日本のサッカーへの評価は、あくまでワールドカップの結果で判断される。

 「日本人サッカー不向き論」の言説は、親サッカー層、非サッカー層、反サッカー層の区別と関係なしに誰でも参加でき、発信される。<2>

 カタールW杯での森保ジャパンの結果と内容いかんによっては、ネガティブで自虐的な「日本人サッカー不向き論」はたやすく復活するだろう……と、どうしても悲観的になってしまう。

 大会本番を直前に、日本サッカーの「隔世の感」を思い、感慨にふける後藤健生氏がであるが、少し楽観的すぎやしないか。

(了)




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サッカー日本代表は「停滞」しているのか?
 2020年11月18日のメキシコ戦をもって、サッカー日本代表の同年の試合全日程が終了した。カメルーン、コートジボワール、パナマ、メキシコ相手に2勝1分1敗。ただし、全体に「停滞」またはそれ以下との印象を抱いたサッカー関係者がかなり多いようだ。

 サッカージャーナリストの西部謙司(にしべ・けんじ)氏もそのひとりで、フットボールゾーンWEBの2020年11月22日付の総括コラムのタイトルが「日本代表はとにかく〈変化〉に弱い~〈対応力〉不足は選手でなくベンチの問題」であった。
  • 参照:西部謙司「日本代表はとにかく〈変化〉に弱い~〈対応力〉不足は選手でなくベンチの問題(1/2)」2020.11.22(https://www.football-zone.net/archives/294347)
 「ベンチの問題」とあるから、おっ!? いよいよ西部謙司氏が当代サッカー日本代表の森保一(もりやす・はじめ)監督の采配を批判するのかな……と思ったら、必ずしもそうではなかった。話があらぬ方向に飛躍していったのである。

日本代表の「対応力」が弱いのは「日本人」だから?
 西部謙司氏が言うには……。日本代表は、W杯本大会では勝っても負けても引き分けでも基本的に接戦に持ち込めているケースが多い。相手が事前の予想どおりなら、サッカー大国のアルゼンチンでもオランダでも0-1の小差の敗戦だった。

 ところが、日本代表は予想外・想定外の事態にはめっぽう弱く、相手が「変化」してきた試合は優勢だったのを簡単にひっくり返されている……という。相手の「変化」に対する日本代表の弱さは今に始まったことではない

 記憶に新しいのは2018年ロシアW杯のベルギー戦、相手が空中戦に集中してきたら2-0が2-3になった。2006年ドイツW杯のオーストラリア戦でもジョシュア・ケネディを入れて放り込んできたら1-0が1-3に逆転負け。2014年もコートジボワール戦で相手がディディエ・ドログバを投入してきたら、1-0から1-2と逆転負け……。

 ……ことほど左様、そもそも日本のサッカー選手(日本のサッカー選手?)は、ヨーロッパの選手と比べて「変化」に対する「対応力」が苦手である。その違いはヨーロッパと日本の社会的な「許容範囲の差」(国民性や文化の差?)ではないかと(私,西部謙司は)思っている。
 社会環境の違いがメンタルの違いに結びついていると仮定すると、これはもうサッカーの手には負えないと思う〔「日本人」の問題である?〕。〔日本人の?〕選手に「対応力」を期待するのは無理筋ではないかと。

 だとすれば、「対応力」を発揮すべきなのは監督やスタッフのはずである。

 ……想定外を減らすべく、あらかじめ「引き出し」を用意すること。それでも想定外が出たら、選手に任せずベンチが対策を指示すること。正解かどうか分からなくても、それを決めなくてはいけないのは、むしろベンチだ。選手が解決してくれてもいいが、日本代表の場合、あまりそれは期待しないほうがいい。

西部謙司「日本代表はとにかく〈変化〉に弱い~〈対応力〉不足は選手でなくベンチの問題(2/2)」2020.11.22(https://www.football-zone.net/archives/294347/2)
 いや、同じ日本人でも西部謙司氏にとって中田英寿だけは例外だったんだろ! ……というツッコミは本文の後半でもう一回やる。それにしても「想定外」のことを監督やコーチが「想定」して選手にやらせる。しかし、さらなる「想定外」の事態が出てきたら? ……西部謙司氏の話はずいぶん矛盾している。

 つまり、西部謙司氏は森保一監督の批判をしたのではなく、むしろ「日本人は上から言われた通りのことしかできない国民性なので,それはサッカーという〈想定外〉の事態が頻出するスポーツには向いていない.だから日本のサッカーは〈世界〉に勝てない」という、話をしたいのである。

 同時に西部謙司氏は、自身のサッカーへの理解度の高さと批評精神をアピールしたいのである。

サッカー日本代表と日本人の国民性という「物語」
 私たちサッカーファンはこの手の物語をさんざん聞かされてきた。日本のサッカー史は「日本のサッカーが如何なるものであったか?」だけが問題なのではない。「日本のサッカーが如何に語られてきたか?」も重要な問題である。

 せりか書房刊『日本代表論』にある、スポーツ社会学者・有元健氏(国際基督教大学=ICU=上級准教授)の論文「第1章 サッカー日本代表と〈国民性〉の節合」(有元論文)は、そうした日本のサッカー論壇に深く根付いた、日本のサッカーと日本人の「国民性」を論じる日本人論の通説との絡み合い=物語を解きほぐした言説史である。

日本代表論
有元健 山本敦久
せりか書房
2020-04-15


 これを読めば、西部謙司氏が今回展開した「日本人は上から言われた通りのことしかできない国民性なので,それはサッカーという〈想定外〉の事態が頻出するスポーツには向いていない.だから日本のサッカーは〈世界〉に勝てない」という物語は、遅くとも1980年代から折に触れて語られてきたことが分かる。

 例えば、1980年代の「日本サッカー冬に時代」には日本サッカーの長期低迷の理由として。1998年にはフランスW杯で日本が初めて「世界」と戦って「惨敗」した理由として……。例えば、近江達(おうみ・すすむ)氏<1>や中条一雄氏、後藤健生氏、金子達仁氏、馳星周氏、村上龍氏……といった、サッカー論壇でもよく知られた人たちが勝手気ままに論じていた。

 有元論文では触れていないが、2014年にはブラジルW杯で日本が「惨敗」した時も、西部謙司氏の論理と同様の物語がさまざまな形で登場していた(例えば文芸誌『エンタクシー』第42号ブラジルW杯特集の星野智幸氏の論考ほか)。

 それにしても、1980年代から2020年の現在に至るまで日本サッカーは大変な伸長を遂げたはずなのに、どうしてその階梯ごとに、あるいは日本サッカーが「惨敗」なり「停滞」などするごとに、西部謙司氏のように、同じような陳腐で凡庸で通俗にまみれた物語を語りたがるのだろうか?

 本当に「日本人であること」と「その国のサッカーのレベル」の間に本当にネガティブが因果関係があるのだとしたら、日本サッカーは長期低迷の1980年代のままのはずだ。

 すなわち、この両者の間にいわゆる「本質主義」的な関係は無い。日本サッカーを面倒な手間を省いて論じるためのステレオタイプ、ある種のフィクションに過ぎないのである。有元論文は、その欺瞞性を告発した一面もある。

西部謙司氏が抱える「日本人であること」の屈託
 意外に目立たないが、実は、西部謙司氏は、金子達仁氏や馳星周氏、佐山一郎氏、村上龍氏などと同じく、サッカーにおける「日本人であること」の屈託が非常に深い人物である。だから、今回の「日本代表はとにかく〈変化〉に弱い~〈対応力〉不足は選手でなくベンチの問題」のようなネガティブなコラムを書くのだ。

 例えば、サッカーにおける悪しき「日本人であること」とは例外的に対極にあるとされた元日本代表・中田英寿を常識外れに賞賛したこと<2>などにも、それは如実に表れている。同じ日本人でも西部謙司氏にとって中田英寿だけは例外だった

 あるいは、2006年ドイツW杯で日本代表が「惨敗」したのは、例えば日本vsオーストラリア戦で逆転負けを食らったのは、当然「ジーコのせいだ」。
  • 参照:藤島大「ジーコのせいだ」2006年7月27日(https://www.suzukirugby.com/column/column984)
 しかし、翻って西部謙司は、元ブラジル代表のエース(だが無能な,しかし)それゆえ「日本人であること」を超克するサッカーを目指していたとされた日本代表監督ジーコ……という怪しげな擁護論=物語の先鞭をつけた人でもあった<3>

 そうした西部謙司氏の数々の意見もまた、ネガティブな日本サッカーの物語の表出である。

 それにしても、「日本人であること」と「その国のサッカーのレベル」の関係を「国民性」という概念でネガティブな因果として結びつける物語に耽溺する西部謙司氏(や金子達仁氏ら)のようなサッカージャーナリストなど、とても信用が置けない。

 それは、日本のサッカーについて何かを深く考えているように見えて、実は何も考えていないことに等しいからだ。

 だから、当ブログは西部謙司氏の日本サッカー観を疑う。あえて踏み込んだ言い方をします。西部謙司氏はサッカージャーナリストから引退するべきです。

有元健氏に期待すること
 悪態ついでに有元健氏についても一筆啓上いたします。

 有元論文は、かつて主流だった「そもそも日本人の〈国民性〉はサッカーとは愛称が悪い」といった自嘲的でネガティブな物語は影を潜め、肯定的な論調へと転じ、それはまたサッカー日本代表をして日本人の排外的ナショナリズムを煽る危うさがあると指摘している。

 その指し示すところを軽視するものではないが、しかし、自嘲的でネガティブな日本サッカー言説そのものは鎮火していないことは、今回の西部謙司氏のコラム「日本代表はとにかく〈変化〉に弱い~〈対応力〉不足は選手でなくベンチの問題」でも分かる。有元健氏が2020年時点での日本のサッカー論壇事情を把握できていないことは、大きな問題である。

 有元健氏は「今なぜこの時代にサッカーと国民性を結びつけようとするのか」(『日本代表論』33頁)と読者に問う。が、しかし、日本サッカー界、サッカーファン、サッカー論壇には「サッカーと国民性を結びつけようとする」の欲求=欲望が、まだまだ大きいのである。

 否定的にせよ、肯定的にせよ、日本のサッカー言説の論調は表裏一体であり、その根本は同一である。国民国家の集合体という世界の在り方が持続し、各国代表チーム同士による試合の人気がある限り、有元論文が希望するように、2020年のうちにスポーツ国民性言説を安らかに眠らせることは出来そうにない。

 だから、日本サッカーと国民性を結びつける物語は後を絶たないし、西部謙司氏のコラムのような代物が頻出するのだ。

 むしろ有元健氏に期待したいのは、これまでの研究成果を踏まえた上での、日本サッカーの言説やスポーツ国民性言説に対する不断の観察と批評である。

(了)




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