スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:東京オリンピック

スポーツの政治利用をタブー視した理由とは?
 昨今の米国で深刻化している黒人差別反対運動(Black Lives Matter=BLM)。その「BLMにスポーツの場において共感・賛同しない日本・日本人は〈世界〉の中で後れをとっている」式の発言をしているのが、例の広尾晃氏である。
 日本の国では「アスリートが政治的発言をするのは良くない」という、西側自由主義圏では極めて特殊な観念が大きくのさばっている。

 最近ますます劣化が激しい広尾晃氏ごときに、日本をひとまとめにされて「劣化が激しい」などと否定される云(い)われもないと思うが。ともかく、氏に発言のように「アスリートが政治的発言をするのは良くない」という観念は、もともと日本独自のものではない。

 「アスリートの政治的発言・主張・行動」と言えば有名なのが、米国内で黒人の公民権運動が激化していた1968年、同年メキシコ五輪陸上男子200メートルの表彰式で抗議行動に出た米国黒人選手2名がすぐさま選手村を追放され、米国選手団からも外された「ブラックパワーサリュート」事件である。

ブッラクパワーサリュート@1968メキシコ五輪
【ブラックパワーサリュート:1968年メキシコ五輪】

 BLMの勃興と激化で、最近「ブラックパワーサリュート」事件が再脚光・再評価され、神話化すらしているが、なぜ、この米国の黒人選手2名がメキシコ五輪から追放されたのか? なぜ、アスリートが競技の場で政治的発言・主張・行動をしてはいけなかったのか?

 「そこには,〔東西〕冷戦時代〔=米ソ対立〕の真っただ中でスポーツを政治や思想から切り離そうという共通認識が存在していた」からだったと説明してくれたのが、スポーツライターの武田薫氏であった。ようやくこれで納得した。
 一方、最近「ブラックパワーサリュート」の神話化に掉(さお)差している人に、カルチュラルスタディーズ系スポーツ社会学者の山本敦久氏(成城大学教授)がいる。

 氏の著作『ポスト・スポーツの時代』で、アスリートの政治的主張について論じた「第5章 批判的ポスト・スポーツの系譜~抵抗するアスリートと〈ソーシャル〉の可能性」には、そうした東西冷戦時代という時代的・社会的背景という話は、全く出てこない。

ポスト・スポーツの時代
敦久, 山本
岩波書店
2020-03-28


 山本敦久氏は、「ブラックパワーサリュート」の当事者トミー・スミスとジョン・カーロス(あるいは2人に同調した白人豪州人選手ピーター・ノーマン)、あるいは彼らに倣(なら)ったコリン・キャパニック(アメリカンフットボール,元NFL)や大坂なおみといった、昨今の政治的主張をする黒人アスリートを、ただただ肯定するばかりである。

 もっとも、山本敦久氏にとってスポーツ社会学とは「学問」というより「思想」であり、カルチュラルスタディーズ(カルスタ)とは、多分に「思想」や政治的アジテーションを含めて語るアカデミズムの一流派なのだから、かえって説明が片手落ちになるのかもしれない(それにしても,あれではどっちが「学者」の解説なのかよく分からない)。

「白人」が黒人アスリートの発言力を強めた皮肉
 今になって、政治的主張をするアスリートが目立つようになったのは何故なのか? 山本敦久氏ならば「彼ら彼女らは,権力や資本主義による支配と戦い,抵抗を表現し,声を挙げることに目覚めた」……とでも言うのかもしれない。全く別の見方を武田薫氏は「日刊ゲンダイ電子版」で展開している。
 大坂なおみ選手のBLMアピールの行動は、その是非はともかく、これまでの常識ではスポーツの政治利用ということになる。世界にはあらゆる差別があり、(あからさまなレイシストでもない限り)人種差別を肯定する人はいない。ただ、BLMに限ればかなりの米国固有の事情で、アジアや日本での理解には限界がある。

 ちょっと脇道にそれるが、BLMは他の欧米諸国の人(例えば英国人ジャーナリストのコリン・ジョイス氏)ですら違和感を感じるものらしい。
 話を戻して、プロスポーツは(ある意味で)人種差別の舞台ではない。むしろ黒人がマジョリティーである。NBA(米国プロバスケットボール)では8割、NFL(米国プロアメリカンフットボール)では7割、マラソンではトップ100の9割を黒人を占める。黒人アスリートなしでは、現代の世界のスポーツ文化は成立しない。

 また、大坂なおみ選手をはじめ黒人アスリートの抗議行動は、現在のスポーツが持つ発信力に由来する。その源泉は、1980年代、スポーツやオリンピックにおけるアマチュア/プロフェッショナルの垣根を取り払い、アスリートのプロ化、スポーツの国際化・興行化を進め、競技レベルを飛躍的に向上させたIOC≒オリンピック・ムーブメントである。<1>

 つまり、黒人アスリートの発言力が強まったのは、スポーツや世界の「権力」や「資本主義」を牛耳る「白人」の側の働きかけの結末だったとというのだ。これは皮肉だ。山本敦久氏は複雑な思いを抱くかもしれないが、両者は糾(あざな)える縄のような関係でもあるのだ(いったい,どっちが「学者」なのか分からないですね)。

 とにかく山本敦久氏がイデオロギー的な視点から黒人アスリートの言動を語っているのに対し、武田薫氏は世界スポーツの政治的・経済的・構造的要因を語っている。
 ただし、大坂なおみが訴える人種差別問題〔BLM〕は根深く、歴史的かつ構造的で、プロ化を下支えした白人による資本主義さえ否定しかねない。どう落とし前をつけるか。コロナによる中断は新たな火種を持ち込んだ。

武田薫「大坂なおみの行動はスポーツの政治利用で五輪プロ化の帰結」
 本当に、どう落としどころ(落とし前)を持っていくのか? 例えば、2021年開催予定の東京オリンピック2020では、どうするのか?

 例えば、開会式のオリンピック宣誓の文言にアンチレイシズム(反人種差別)を盛り込むとか、サッカーFIFAの世界大会でやっているように、試合前に選手の代表者にアンチレイシズムを呼びかけるスピーチをするとか。その上で、選手独自の行動は慎むようにさせるとか。

 浅学非才な素人には、この程度しか思い浮かばない。巷間にはもっといい知恵があるのだろうけれども。そんなこと以前に、やっぱりコロナ禍で東京オリンピック2020は開催できないのではないかと思うが……。

(了)




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 周知のようにCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)パンデミックの影響で2021年に「延期」になったわけだが、2020年8月9日(日)は、本来、2020東京オリンピックの閉会の日であったという(やはり最終的には「中止」しかないと思うけれども)。

 それはともかく、先日、NHK-BSプレミアムで市川崑が総監督をつとめた記録映画「東京オリンピック」を放送していた。

 その録画を視聴しての諸々の感想……。

記録か芸術か…の論争?
 この映画「東京オリンピック」は、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げた。そのため「記録か芸術か」という論争が沸き起こった。……と、いうことになっているが、あらためて見直すと、変な意味での「芸術性」の臭みを感じることなく視聴することができた。。

 すでに1936年ベルリン・オリンピックの記録映画、レニ・リーフェンシュタール監督の「オリンピア」二部作(民族の祭典,美の祭典)のような「芸術」的な作品はあったわけだし、どうしてそんな論争が起こったのか、今の感覚ではよく分からない。

 Jスポーツで「1966年ル・マン24時間レース 激突!フェラーリ対フォード」という記録映画を放送していた。
 これなどは、最近公開された劇映画「フォードvsフェラーリ」の元ネタになった1966年ル・マン24時間レースの、本物の公式記録映画であるが、いかにも記録映画であって少し無味乾燥なところがある。



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 スポーツのメガイベントの記録映画といっても、隅から隅まで細大漏らさず「記録」することはできない。なにがしかの素材の取捨選択など(演出)は必要になってくる。映画「東京オリンピック」は、退屈することなく視られる映画である。

スポーツにおけるナショナルカラーが定まっていない「日本」という不幸
 アイルランド(緑)、イタリア(青)、オランダ(橙)、ニュージーランド(黒■)……。映画「東京オリンピック」でも、おなじみのスポーツのナショナルカラーを確認することができた。本当にうらやましい。

 それに比べて、わが日本のスポーツにおけるナショナルカラー文化の不毛さよ。……と、毎度のことながら嘆きたくなる。これについては以前ブログで書いた。
 ブログのアクセス分析をやると、このテーマはかなり関心も高いようだ。

ニュージーランド代表がウォークライ「ハカ」をやっていた
 映画「東京オリンピック」では、ニュージーランド代表の選手たちが、ラグビー代表チーム・オールブラックスでおなじみのウォークライ「ハカ」をやっているシーンが3回くらい出てくる(特に最後の閉会式の場面)。ラグビー好きが見ると特に印象的だ。

 映画の制作スタッフは珍しい民族の習慣だと思って、この場面を本編に加えたのだろうか? ちなみにハカの種類は昔から舞われている「カマテ」であった。

選手はみんな「アマチュア」だった
 棒高跳び(当時は男子のみ)優勝、アメリカ合衆国のフレッド・ハンセン選手は歯科大学の学生、棒高跳びの棒に使う「グラスファイバーの湾曲と反発」に関する研究論文を執筆中……みたいなナレーションがあった。

 マラソン(これも当時は男子のみ)優勝、エチオピアのアベベ・ビキラは、皇帝親衛隊の軍人(階級は軍曹)。その他、出場したマラソン選手の本業は、印刷会社の会計係、大工、機械工、教師……などと紹介されるナレーションがある。

 当時、オリンピックに出場する選手(アスリート)は、協議することを営利を目的とせず、趣味として純粋に愛好しようとする「アマチュア」でなければならなかった。アマチュアリズムである……。

 ……と、こんなことを説明しても、世代的には何を言っているのかよく分からない人がいるかもしれない。

 周知にように、サッカーは昔からプロもアマチュアも同じように統括されており、アマチュアリズムに拘束されない独自の世界大会「ジュール・リメ杯 世界選手権」、後の「FIFAワールドカップ」を創設した。

ワールドカップの回想―サッカー、激動の世界史
ジュール リメ
ベースボール・マガジン社
1986-05T


 日本のサッカーは、長年このアマチュアリズムの制度と思想の両面で足かせになっており、それを打破するのに大変な苦労をした。ジャーナリズムだと、特に読売新聞の牛木素吉郎さんが、アマチュアリズムの打破を必死で啓蒙していた。

 どなたかスポーツ社会学の学者さんで、その辺の過程を詳しく追った研究書を出してくれる人はいませんか?

(了)




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 ちなみに当ブログは2020東京オリンピックには一貫して反対の立場であります。

いだてん信者の声高な叫び
 壊滅的低視聴率(平均視聴率,関東地区8.2%)、超駄作、 #史上最低大河 ……とまで酷評されている、2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)」(作:宮藤官九郎)の再放送が、BSプレミアムとBS4Kで、2020年4月6日から始まった。
  •  参照:再放送情報「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)」全47回を一挙放送! BSプレミアム・BS4K同時放送が決定!(2020年02月13日)
 狂気! 絶句! 日本の公共放送たるNHKは、だからこそ貴重な【波】と【枠】をもっと大切に使ってほしい。こんな調子だから、元NHK職員の立花孝志率いる「NHKから国民を守る党」(N国党)みたいなキワモノ政党が議席を獲ったりしてしまうのだ。

 「いだてん」が #史上最低大河 なのは、何よりその内容が壊滅的にツマラナイからに尽きる。

 それなのに、否、だからこそ「いだてん」は、カルト映画のテレビドラマ版として、ごく一部の視聴者の熱狂的な、異様な人気を獲得している。あれだけ壊滅的な低視聴率に喘(あえ)いでいたにもかかわらず、ネットには「いだてん」に対する熱烈な提灯記事が、SNSにはカルト的な擁護や礼賛の発信が不思議と目立った。

 むろん、そうした情報の発信で「いだてん」の視聴率が向上した事実はない。

 もちろん、彼ら彼女ら、すなわち「いだてん信者」が狭いサークルの中で勝手に盛り上がっている分には、全く構わない。誤解していただきたくないのだが、私たちは何も「〈いだてん〉はツマラナイから見るな」と言ってきたわけではない(ツマラナイのは間違いないが)。

 ところが、いだてん信者たちは、自分たちの狭いサークルを飛び出しては「視聴率は低いけれども内容は面白い大傑作だ」などと耳障りに叫んできた。そこまではまだいい。いだてん信者たちは、次第にエスカレートして、挙句の果てに「〈いだてん〉を見ろ! コレを見ないお前らは愚鈍だ!」と、上から目線で私たちを罵倒すらしてきた。

 私たちは、そのことをとても騒々しく、鬱陶しく、苦々しく感じている。

大河ドラマ「いだてん」は何故つまらないのか?
 こういった反比例的な怪奇現象は、いかに解釈すればよいのか?

 作品として「いだてん」の何が駄目なのか。それでも、否、それゆえ「いだてん」を偏愛・称揚してしまう視聴者が出てきてしまうのは何故か。キチンと分け入った論考は多くはない。その希少例が、宝泉薫氏(ほうせん・かおる,アイドルや時代劇など幅広く芸能界を論評)による「〈いだてん〉が数字をとれない,不毛にして当然な理由」である。
 詳しくはリンク先を参照していただくとして、その論評を煎じ詰めると、いくつかの理由に絞られてくる。
  •  そもそも「いだてん」は、大河ドラマとしては馴染みの薄い時代(近現代)、なじみの薄い人物(金栗四三,田畑政治など)を扱っているうえに、狂言回しが何人も登場したり(落語家の5代目古今亭志ん生など)、時代が行ったり来たりがするなど、分かりにくい作品である。
  •  しかし、いだてん信者は、フェミニズム(フェミ)や反差別、反戦、リベラリズム、反ナショナリズムといった、最近流行りのポリコレ的感覚(ポリティカルコレクトネス=政治的正しさ)を「いだてん」の作中に見出し、これを高評価する。
  •  いだてん信者は、そのことなどで「いだてん」を非常にレベルの高い作品と見ており、これまでの大河ドラマを見下げる。しかし、実際の視聴率は低迷しており、いだてん信者は、そういう現実に大いに不満である。
  •  そんないだてん信者の不満は、昨今「右傾化」が著しいとされる日本政治へ不満と、その情況を覆せないも野党的な人々による現実への苛立ちとも重なっている。
  •  ただでさえ分かりにくい上に、「いだてん」からはフェミやポリコレの説教臭さまで漂ってくる。現代的な「政治的正しさ」など忘れて愉しめるのが大河ドラマ(歴史劇)なのに、このテレビドラマの視聴者は上から目線でそれをアピールする。
  •  だから「いだてん」から脱落する視聴者が続出する。
 だしかに。これでは、少なくとも右ではない普通の日本人である私たちですら「いだてん」を敬遠したくなる。

悲しきカルスタ・スポーツ学
 そんなところに、何とも奇妙な「ポリコレ的〈いだてん〉評論」が出た。神戸大学大学院教授で、カルチュラルスタディーズのスポーツ学者・小笠原博毅(おがさわら・ひろき)教授の「『いだてん』は五輪に負けた 開催契約解除への道」である。
  •  参照:小笠原博毅「『いだてん』は五輪に負けた 開催契約解除への道~オリンピックは〈やり方〉ではなく,〈やること〉が間違っている」(2019年12月31日)
 ところで、小笠原教授が依(よ)る「カルチュラルスタディーズ」(cultural studies)とは何か? 直訳すると「文化研究」。しかし、その意味するところはもっと深い。

 コトバンクの説明。デジタル大辞泉の解説では「異なる文化領域にまたがって比較研究する,文化論の方法」とある。大辞林第三版の解説では「近代国民国家の属性であるナショナリズムをとらえ直し,国家・国民・民族にまとわりつく虚偽性をえぐり出し,それを乗り越えようとする学問の思潮.植民地化以後の第三世界,性・民族・階層による集団間の差異や力関係などを,音楽・文学・映画を含む幅広い対象から分析する」とある。

 当然、フェミニズムや反ナショナリズムといったポリコレ的テーマとも親和性が高い。

 略して「カルスタ」。もっとも、これはカリスマ文芸評論家・柄谷行人氏の命名による蔑称であるとされている。比較文学者・小谷野敦氏も「カルスタは学問上の一分野なのか,広義の政治的イデオロギーなのか,よく分からん」みたいなことをどこかで書いていた。カルスタには、それだけ批判も多いということである。

 私たちも、カルスタ・スポーツ学(者)に対して度し難い偏見がある。小笠原博毅教授の舎弟(←我ながら失礼な表現ですね)である成城大学・山本敦久(やまもと・あつひさ)准教授が、2010年サッカーW杯南アフリカ大会で1次リーグを突破した日本代表=岡田ジャパンに対して、これを酷く侮辱するツイートを連発しことがあったからだ。

 その痕跡は、今でも一部ネット上に残されている。
 詳しくはそちらを読んでいただくとして、山本敦久准教授の連作ツイートには、落ち度がいくつもある。

 日本のサッカージャーナリズムには、洪水のような「ニッポンガンバレ!」的報道・放送とは別に、日本のサッカーを(場合によっては佐山一郎氏のように自虐的に)殊更に貶めて自身の賢しらを誇示する「電波ライター」評論という「カルチャー」が存在しているいうこと(主な担い手に、金子達仁、杉山茂樹、村上龍らがいる)。

 山本敦久准教授が高く評価した馳星周(はせ・せいしゅう,小説家)の朝日新聞でのコメントは、代表的な電波ライターのひとりによる電波サッカー評論にすぎず、すなわち「異端」ではなく、ある種の「正統」だったということ。

 山本敦久准教授自身が、電波ライターとして発信(ツイート)を連発していたということ(ミイラ取りがミイラだったという皮肉)。

 日本のカルスタ・スポーツ学などというものは、所詮、理論や方法を欧米から輸入した輸入学問にすぎず、電波ライターという日本サッカーの足元にある不思議な、しかし、あからさまな「カルチャー」の存在に気が付かなかったこと。見落としていること。

 滑稽で悲しい。

いだてん信者と小笠原教授の「思い入れ」共有部分
 長い前振りが終わったところで、カルスタ小笠原博毅教授の「いだてん」評、「現代的な政治的正しさ」を捨てきれない言及を見ていく。

 >>もはや今後、嘉納治五郎について考えるときは役所広司の顔が浮かぶだろうし……

 これこれ小笠原センセ。役所広司演じた嘉納治五郎は悪くなかったが、あんな低視聴率大河ドラマ「いだてん」ごときで、それはありえない。渡辺謙の伊達政宗や、岩下志麻の北条政子、高橋幸治の織田信長などと一緒にしないでほしい。小笠原博毅教授が「いだてん」を相応の思い入れで見ていたことは、この文言などからもうかがえるが。

 >>しかし一方で、大河ドラマはやはり男子の物語になってしまうという点が物足りなかった。『草燃える』、『おんな太閤記』、『花の乱』、『春日局』、『八重の桜』、あとは忘れてしまったが、これらの数少ない例外を除いて、大河は結局ほぼ男たちの物語で占められてきた。

 これこれ小笠原センセ。大河と並ぶNHKの看板ドラマ「朝ドラ」(連続テレビ小説)の方は、ほとんど「女子の物語」であり、知名度はそれほど高くないが、実在の女性をモデルにした主人公であることが多かったではありませんか。結果論かもしれないが、NHKは、大河(男)と朝ドラ(女)で性別のバランスをとってのではありませんか。

 実際には、特に21世紀に入って、フェミやポリコレといった風潮「現代的な政治的正しさ」を反映して、無理やり女主人公の物語を乱発しては「スイーツ大河」と揶揄され、駄作を連発し、視聴者離れを起こしてきたのが大河ドラマの歴史だったのである。
  •  参照:ピクシブ百科事典【スイーツ大河】スイーツ大河とは駄作の大河に呼ばれる蔑称である。
 カルスタ小笠原博毅教授の認識は、事実とは違う。この辺に小笠原教授による「現代的な政治的正しさ」があぶり出されて、私たちはシラケてしまう。

 >>女子体育の礎を築いた二階堂トクヨ(寺島しのぶ)……「東洋の魔女」川西〔河西〕昌枝(安藤サクラ)をはじめ、全体の役の半数近くを女性が占めていたにもかかわらず、鬼の大松〔大松博文バレーボール女子日本代表監督〕(徳井義実)最後のセリフは、「お前ら嫁にいけ」だった。

 鬼の大松の「お前ら嫁にいけ」発言。いかにもフェミが目くじらを立てそうな発言だが、しかし、スポーツ社会学者・新雅史(あらた・まさふみ)氏の『「東洋の魔女」論』(イースト新書)<1>などを読むと、事態はそう単純なものではない。

「東洋の魔女」論 (イースト新書)
新雅史
イースト・プレス
2013-07-10


 大松監督は会社での昇進の遅れ、河西昌枝主将をはじめとする当時のバレーボール女子日本代表選手たち(いわゆる「東洋の魔女」たち)は、当時の結婚適齢期の年齢をオーバーしてしまうという悩みを抱えていた。彼と彼女らは、1964東京オリンピックに勝つ(金メダル)ことで、そうした問題から解放されたいと願っていたのだ。

 こうした背景をキチンと説明しないと、小笠原教授の指摘も「現代的な政治的正しさ」の表明にしか読めない。何より当時の価値観として、しかるべき年齢に結婚することが女の幸せをつかむ道だとされていたわけだし。

 >>決定的なのは、数多い女性の中でも最も光る演技を見せていた人見絹枝(菅原小春)が、最終回の回想シーンで現れなかったことだ。アムステルダムでの人見絹枝を見せずして、なにが『いだてん』か?

 #史上最低大河 の「いだてん」だが、菅原小春が演じた日本女性初の五輪メダリスト・人見絹枝の登場場面に関しては評価が高い。こういったところは、小笠原教授の「まなざし」と、宝泉薫氏が指摘した「いだてん信者」の「上から目線」、両者の思い入れが共有できているところではある。

今度は「いだてん信者」を説教し始めた小笠原博毅教授
 ところが、小笠原博毅教授は、同じ文章の中で、今度は「いだてん信者」たちを上から目線で説教し始めるのである。いわば「二段階的上から目線」である。

 >>大河ドラマは、登場人物や出来事を虚実取り混ぜ、主人公にありえないものを「期待」させることで、現代の世界とは切り離された歴史物語を作り上げる。

 >>戦国から安土桃山時代なら「戦乱の世を終わらせる天下統一」や「民のための平和な世」、幕末なら「身分のない自由な世界」や「世界に追いつく日本」。若者の成長や人間模様の背後には、このような大きな物語が用意されているのが大河の常道だ。<2>

 それでは、NHK大河ドラマ「いだてん」の制作者たちが、物語の主人公・金栗四三(演:中村勘九郎)と田畑政治(演:阿部サダヲ)に込めた「期待」とは何なのか? それは……。

 >>……まさに「公的」な五輪〔オリンピック〕の理念を真に受けて、その〔現実の〕歪みを正し、理想的な形で東京で〔1964年のオリンピックを〕開催するために身を粉にして働いた、その姿が描かれている。彼らは五輪ではない「もう一つの視点をかたちづく」るのではなく、五輪に「期待」したのだ。

 しかし。それは、あくまで「現実の世界とは切り離された歴史物語」でしかない。

 >>なぜそれが五輪でなければならないのか? もちろん説明は……〔以下略〕

 小笠原博毅教授と、その舎弟(←我ながら失礼な表現ですね)山本敦久准教授は、断固とした2020東京オリンピック反対派(返上派,中止派)である。岩波ブックレット『やっぱりいらない東京オリンピック』のような著作を、何冊か上梓している。

反東京オリンピック宣言
テリエ・ハーコンセン
航思社
2016-08-17


 小笠原博毅教授(や山本敦久准教授)は、当然のこととして2020東京オリンピックの積極的推進派を断罪する。一方、批判的でありながらも、それでも少しでも「よりよい」形での建設的な提言をして東京五輪を受容しようという人たち、小笠原教授・山本准教授は「どうせやるなら派」と呼んでいるが、こちらの立場も断罪する。
 だが、悪いところを批判して「よりよい」オリンピックにしようという態度は、2020年東京大会を開催することの矛盾や問題を覆い隠すだけでなく、むしろ開催の推進力となる。……いくら批判的なジェスチャーを見せてはいても、「どうせやるなら派」はオリンピック積極的推進派と同じである。

小笠原博毅・山本敦久『やっぱりいらない東京オリンピック』14頁
 つまり、絶対的な2020東京オリンピック反対派の小笠原博毅教授は、所詮「いだてん」は東京五輪のための国策大河ドラマ、いだてん信者たちも「どうせやるなら派」の一部、2020東京オリンピック開催の補完勢力だとして、これを非難しているのである。

 これが小笠原博毅教授の「いだてん」に対する「二段階的上から目線」である。

2020東京オリンピック潜在的反対派の声なき声を聞け
 小笠原博毅教授の、くだんの「いだてん」&2020東京オリンピック評論「『いだてん』は五輪に負けた」の居心地の悪い読後感の正体がこれである。

 しかしながら、カルスタ・小笠原博毅教授は2019年NHK大河ドラマ「いだてん」に関して、肝心要なことを忘れている。

 #史上最低大河 と酷評される最も大きな原因となった「いだてん」の壊滅的低視聴率である。平均視聴率は関東地区で8.2%(!)、関西はじめ他の地域はもっと低い。ノモンハン事件、ミッドウェー海戦、インパール作戦並みの大惨敗である。

 笛吹けど踊らず。それが国策大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)」、そして、その背後に控えている2020東京オリンピックに対する視聴者(≒国民)の本音である。こういう「声なき国民の声」はなかなか政治的に表面化しない。

 その「声なき声」を聞き、すくい上げられないカルスタ・スポーツ学って何なの? ……というのが素朴な疑問のひとつ。

 「いだてん」への共鳴と、「いだてん信者」への非難という矛盾を抱えた論考。

 この辺が日本のカルスタ・スポーツ学の限界なのだろうか。……などと嫌味な事を考えてしまったのである。

 ちなみに当ブログは2020東京オリンピックには一貫して反対の立場であります。

(了)




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前回,前々回のおさらい
  • 【前々回】RWC2019日本大会の公式テーマ曲「ワールド・イン・ユニオン」はなぜ黙殺されたのか?(2020年01月23日)
  • 【前回】続・RWC2019日本大会の公式テーマ曲「ワールドインユニオン」はなぜ黙殺されたのか?(2020年01月26日)
 いきものがかりの吉岡聖恵が歌った、ラグビーW杯2019日本大会の公式テーマ曲「ワールド・イン・ユニオン」(World In Union)は、世間では無視され、黙殺され、忘れ去られた。

World In Union
Sony Music Labels Inc.
2019-10-01


 なぜか? 「ワールド・イン・ユニオン」とは別に、独自のラグビー関連のタイアップ曲を持ってビジネスをしているNHK、日本テレビ、TBSといった日本ラグビー界をPRしてくれるマスメディア、独自のCMタイアップ曲を持つ、ラグビー日本代表のスポンサー・大正製薬「リポビタンD」に対して、日本ラグビー界が【忖度】したからである。

 タイアップ曲によるビジネスは、欧米の音楽業界には見られない因習であり、日本の音楽業界、テレビ業界が孕(はら)む構造的な、好ましからざる慣習である。

 この風潮が、ラグビー界を含めた日本のスポーツ界、日本のマスメディアによるスポーツ番組、スポーツ中継にも及ぶようになっている。

 日本ラグビー界が吉岡聖恵の「ワールド・イン・ユニオン」を前面に押し立ててしまうことで、他の日本ラグビーとのタイアップ曲が目立たなくなってしまうことを、恐れたからである。

 吉岡聖恵の「ワールド・イン・ユニオン」は、「タイアップ曲」という日本的な因習の犠牲になり、存在を隠蔽され、潰された。

ゆず「栄光の架橋」とNHKのステマ
 例えば。2004年アテネ・オリンピックの公式テーマ曲は、ゆず「栄光の架橋」……ではない。

 同大会の体操競技の中継で、NHKの刈谷富士雄アナウンサーが「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」と実況した。1936年ベルリン五輪の「前畑ガンバレ」に匹敵する、本邦スポーツ中継史における名セリフ、だと言われている。しかし……。

 この刈谷アナウンサーの実況は、放送法にある「他人の営業に関する広告の放送をしてはならない」という規定に抵触するのではないか? ……と批判されている。

 NHKは、子会社のNHK出版が「栄光の架橋」の原盤権(著作権とは別の音源に関する権利)を持っていて、この曲を流せばNHK出版にカネが下りる。つまり、刈谷アナウンサーの実況は「栄光の架橋」のステマ(ステルスマーケティング)をしたものではないか……との疑惑を指摘されているのだ(速水建朗『タイアップの歌謡史』215~216頁)。


 例えば。2010年サッカーW杯南アフリカ大会の公式テーマ曲は、Superflyの「タマシイレボリューション」……ではない。

 日本人のあるお笑いタレントが、この曲をBGMにして、同大会でアルゼンチン代表監督をつとめたディエゴ・マラドーナの物まね振りマネをしていたが、国際的には通用しない。外国人には、マラドーナの真似をするのに、なぜこの曲でなければならないのか意味不明である。

 例えば。2012年ロンドン・オリンピックの公式テーマ曲は、いきものがかりの「風が吹いている」……ではない。

 いきものがかりのボーカルの吉岡聖恵は、2019年のラグビーW杯日本大会の正真正銘の公式テーマ曲「ワールド・イン・ユニオン」を歌いながら、他のテレビ局・他のスポンサー会社のタイアップ曲ビジネスに隠蔽されて、世間的には黙殺された。しかし、この時は公共放送たるNHKの強力なバックアップを受けていた。

 皮肉と言えば、皮肉である。

椎名林檎のブラジルW杯NHKタイアップ曲「NIPPON」は何が駄目か?
 例えば。2014年サッカーW杯ブラジル大会の公式テーマ曲は、椎名林檎の「NIPPON」……ではない。

 この楽曲は、好悪の別がハッキリと分かれたが、何が駄目なのか? 当ブログには、よく分かる。当シリーズでは、楽曲それ自体への評価はしないつもりだったが、この作品に関しては例外とする。「NIPPON」は、何が駄目なのか?

 ウィキペディア日本語版の記述をそのまま信じれば、椎名林檎の「NIPPON」は、NHKから「日本代表を応援する歌を作ってほしい」と依頼されたという。しかし、英米などとは違い、ナショナリズムがデリケートな問題になっている日本で、これでは歪な楽曲しか生まれない(RADWIMPSの「hinomaru」なども同様である)。

 むしろ、NHKは「国籍や民族にかかわらず,世界中のどこのサッカーチームであっても,ファンやサポーターが応援に使える曲を作ってほしい」と依頼するべきであった。

 事実、JリーグのFC東京のサポーターは「You'll Never Walk Alone」(俗称:ユルネバ,元はリバプールFCのサポーターソング)、モンテディオ山形は「Blue Is The Colour」(俗称:ブルイズ,元はチェルシーFCのサポーターソング)と、英国のサポーターソングを使っている。

 ……というか、日本製のサッカー関連の楽曲が余りにも貧困なので、そうせざるを得ない。*

 この辺が、「六甲おろし」(阪神タイガース)や「東京音頭」(東京ヤクルト スワローズ)といった応援歌が定着している、土俗の臭いが(いい意味で)ぷんぷんするNPB=日本プロ野球に対して、Jリーグ(日本サッカー)の劣っている点である。

六甲おろし~阪神タイガースの歌
立川清登
ビクターエンタテインメント
1992-07-22


 椎名林檎が本当に優れたシンガーソングライターならば、NHKの依頼など鵜呑みにせずに、こうした「情況」に風穴をブチ開ける楽曲を創るべきであった。

 それとも、Jポップのアーティストの創作力なんて、所詮こんな程度のモノなのですかね?

W杯も五輪も日本ではテレビ局のイベント!?
 ……等々、こうした事例には枚挙に暇がない。これらは、あくまでNHK(他の民放でも同様)が自局のスポーツ中継を利用した原盤権ビジネスのために、勝手に制定した私的な「タイアップ曲」であって、大会それ自体の「公式テーマ曲」ではない。

 つまり、1964年東京オリンピックにおける三波春夫(ほか競作)の「東京五輪音頭」や、1972年札幌冬季オリンピックにおけるトワ・エ・モア(ほか競作)の「虹と雪のバラード」といった、公的なテーマ曲とは性格の異なる楽曲である(椎名林檎の「NIPPON」以外は,楽曲そのものへの評価ではない)。

東京五輪音頭~世界の国からこんにちは(舞踊ガイド付)
三波春夫
テイチクエンタテインメント
2019-10-10


虹と雪のバラード (MEG-CD)
トワ・エ・モワ
株式会社EMIミュージック・ジャパン
2012-10-31


 あまつさえ、NHKなどは、テレビやラジオの番組で。こうした大会の公的なテーマ曲と私的なタイアップ曲を混同して、「W杯や五輪のテーマ曲」として紹介する詐術を行っている。許し難い。

 かくして日本人は、ワールドカップであれ、オリンピックであれ、テレビ局の私的な「タイアップ曲」をいうフィルターを付けさせられて、あたかもそのテレビ局のスポーツイベントであるかのように、これを見るハメになる。

 日本人は「世界」とは違ったものを見せられている。

 このことは、日本におけるスポーツの文化的価値を著しく下げている。

紅白で「ワールド・イン・ユニオン」が歌われなかった愚かなニッポン
 2019年12月31日、大晦日(おおみそか)恒例の歌番組「NHK紅白歌合戦」(紅白)で、吉岡聖恵が属するいきものがかりは、「ワールド・イン・ユニオン」ではなく、前述の「風が吹いている」を歌った……というか歌わされた。ゆずもまた前述の「栄光の架橋」を歌った。

 ともに2020年東京オリンピックの前景気を煽るためである。

 Little Glee Monster(リトグリ)は、NHKのラグビー関連番組タイアップ曲「ECHO」を歌った。また、松任谷由実は、ラグビーを題材にした「ノーサイド」を歌った。

ノーサイド
UNIVERSAL MUSIC LLC
2018-09-24


 同年、日本で開催されたラグビーW杯の感動を振り返り、その余韻に浸るためである。曲が流れている間、番組では、ラグビーW杯2019日本大会の試合の映像をふんだんに使っていた。

 他方、他のラグビー関連のタイアップ曲の歌い手、例えば「馬と鹿」(TBS系テレビドラマ「ノーサイド・ゲーム」主題歌)の米津玄師や、「兵、走る」(ラグビー日本代表スポンサー「リポビタンD」CMソング)のB'zは、「紅白」に出演しなかった。

 「紅白」には、いかにもNHK的な権威主義や、番組独特の野暮ったさがあり、こだわりを持つ「アーティスト」的な歌い手たちには、出演することに抵抗のある歌番組である。出演するにしても、さんざんな勿体を付けて出演する(何のかんのいっても「紅白」は視聴率は高いからPRの効果は高い.だから音源は売れる)。**

 松任谷由実は、以前はそんなこだわりを持つ「アーティスト」的な歌い手だった。以前はそんなこだわりを持つ「アーティスト」的な歌い手では必ずしもなかった桑田佳祐のサザンオールスターズは、今やそんな人たちになってしまった。

 そして、ネットという巷間には、そんな米津やB'zを盾にとってNHKや「紅白」を揶揄しては得意げな人がいるらしい。さらには米津「馬と鹿」の作風をもってB'z「兵、走る」の作風まで揶揄しては、得意げな人もいるらしい。だが……。

 ……全部間違っている。

 吉岡聖恵が「NHK紅白歌合戦」で「ワールド・イン・ユニオン」を歌うことが出来なかったこと。これが一番の問題である。間違いである。

 わたくしたちの祖国ニッポンは、そのことを知らない人の方が多い。間違っている。

 日本人は本当に馬鹿な民族である……などと書くと、釜本邦茂の日本代表得点記録は捏造(そうなのかもしれない)だと常々主張している某ブロガー氏と一緒になってしまう。

 しかし、日本人の多くがいたいけな情況なのは事実だからしょうがない。

 日本は「世界」に向けて恥をさらしているッ……と書くと、誤字脱字事実誤認悪口雑言罵詈讒謗の常習犯であるインチキ野球ブロガー・広尾晃氏のようになってしまう。

 しかし、「世界」に対して日本が恥ずかしい情況なのは事実だからしょうがない。

RWC2019…その玉に瑕
 ラグビーW杯2019日本大会は、本当に素晴らしい大会だった。そのことは誰も疑いようはない。

 台風19号の被害で3試合が中止になったこと。これは天災であるし、いたしかたない。

 しかし、ラグビーW杯2019日本大会の本来の公式テーマ曲である、吉岡聖恵が歌った「ワールド・イン・ユニオン」が、ここまで蔑(ないがし)ろにされたこと。

 この恥ずかしい事実は、大会唯一の汚点となっている。

(了)




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前回のおさらい
  • 【前回】RWC2019日本大会の公式テーマ曲「ワールド・イン・ユニオン」はなぜ黙殺されたのか?(2020年01月23日)
 歴代のラグビーW杯で歌い継がれてきた大会公式テーマ曲「ワールド・イン・ユニオン」(World In Union)。2019日本大会では、いきものがかりの吉岡聖恵が歌った。

World In Union
Sony Music Labels Inc.
2018-10-05


 しかし、世間では、吉岡聖恵の「ワールド・イン・ユニオン」は無視され、黙殺され、忘れ去られた。なぜか?

 通説では、日本ラグビー界の首領(ドン)こと元首相・森喜朗が、吉岡聖恵よりも、平原綾香の方を依怙贔屓(えこひいき)したために、日本ラグビー界がその意向を【忖度】したからだ……と伝えられている。

 しかし、おそらく元首相・森喜朗の存在は隠れ蓑(かくれみの)に過ぎない。日本ラグビー界の真の【忖度】の対象は他にある。

 独自のラグビー関連のタイアップ曲を持ってビジネスをしているNHK、日本テレビ、TBSといった日本ラグビー界をPRしてくれるマスメディア、独自のCMタイアップ曲を持つラグビー日本代表のスポンサー・大正製薬「リポビタンD」に対する【忖度】である。

 日本ラグビー界が吉岡聖恵の「ワールド・イン・ユニオン」を前面に押し立ててしまうと、他の日本ラグビーとのタイアップ曲が目立たなくなってしまうからである。

 タイアップ曲によるビジネスは、欧米の音楽業界には見られない慣習であり、日本の音楽業界、テレビ業界、スポーツ業界が孕(はら)む構造的な、好ましからざる慣習である。

 吉岡聖恵の「ワールド・イン・ユニオン」は、「タイアップ曲」という日本的な悪習*によって存在を隠され、潰されたのだ……。

世界的スポーツイベントとタイアップ曲
 ……こうした日本のタイアップ曲の慣習は、日本のスポーツ文化という観点から見て大いに弊害がある。

 例えば、2018年のサッカー・ロシアW杯の場合、その公式曲は、ドイツ人の作曲家ハンス・ジマー(Hans Zimmer)とスコットンド人の作曲家ロアン・バルフェ(Lorne Balfe,ローン・バルフとも)が作曲した「Living Football」という曲である。


【Hans Zimmer & Lorne Balfe - Living Football (The original 2018 FIFA World Cup soundtrack)】


【Hans Zimmer, Lorne Balfe - Living Football (Official FIFA Theme)】


【Hans Zimmer & Lorne Balfe - Living Football [FIFA 2018 Theme Music Visualization]】

 ところが、日本の公共放送たるNHKは、これとは別に日本のロックバンドSuchmos(サチモス)の「VOLT-AGE」(ボルテージ)なる楽曲を「2018年NHKサッカーテーマ」として(勝手に)選び、2018FIFAワールドカップ・ロシア™のテレビ中継のオープニングやエンディングにも被せてきた。


【FIFA ワールドカップロシア2018 NHK オープニング】

 NHK……に限らず日本のテレビ局は、公式のテーマ曲を蔑(ないがし)ろにすることで、サッカーW杯やオリンピックを、あたかも自局独自のスポーツイベントであるかのように、視聴者に印象付けようとしてきた。

 タイアップ曲というフィルターによって、日本のスポーツファン、テレビ視聴者は、日本のテレビ局によって、W杯でも五輪でも「世界」とは違ったものを見せられてきた。

 さすがにFIFAは、こうした事態を防ぐために、昨今、W杯公式曲をBGMとした、オリジナルのオープニング&エンディング用のアニメーションを制作し、これを試合中継や関連番組の前後に挟んで放送するようになっている(これはラグビーW杯でも同様である)。


【2018 FIFA World Cup Russia - OFFICIAL TV Opening (EXCLUSIVE)】


【2014 FIFA World Cup - OFFICIAL TV Opening】

 日本のテレビ局(NHKや民放)による、自局のビジネスのために発生した、W杯や五輪という世界的なメガイベントへの不遜や矮小化は、目に余るものがある。





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