スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:村上龍

晩年に劣化した小田嶋隆氏のサッカー観
 著名なコラムニストにして、サッカーファン、そして浦和レッズの熱烈なサポーターでもあった小田嶋隆氏(1956-2022)。

小田嶋隆(1956-2022)
【小田嶋隆(1956-2022)】

 だが、その晩年(還暦以降)のサッカー観はまったく劣化し、彼のサッカーコラムは本当につまらなくなった……。

ハリルホジッチ氏解任事件の真因とは?
 例えば……。ロシアW杯本大会を目前に控えた2018年4月、成績不振などを理由に断行された、サッカー日本代表監督 ヴァイッド・ハリルホジッチ氏解任事件。

 小田嶋隆氏は大いに憤慨している。

 そして、日経ビジネス電子版の連載コラムで、ハリルホジッチ氏を更迭した日本サッカー協会や田嶋幸三・同協会会長を口を極めて非難している。
 >>私〔小田嶋隆〕は、ハリルホジッチ監督を解任した日本サッカー協会のガバナンスを信頼していない。

 >>私〔小田嶋隆〕の見るに、彼ら〔日本サッカー協会〕は死によってのみ治癒可能なタイプの疾患をかかえている人々だ。

 >>〔日本〕サッカー協会の会長〔田嶋幸三〕は60ヅラを下げたおっさんだ。その酸いも甘いも噛み分けているはずの還暦過ぎのジジイ(すみません、書いている自分=小田嶋隆=も還暦過ぎました)が、〔ロシア〕W杯を2カ月後に控えたタイミングで代表監督を解任するにあたって持ち出してきた解任理由が、言うに事欠いて「信頼関係が多少薄れてきた」だとかいう間抜けなセリフだったというこのあきれた顛末を、われわれは断じて軽く見過ごすわけにはいかない。こんなバカな理由を、いったいどこの国際社会が失笑せずに受け止めるというのだろうか。<1>

小田嶋隆「華やかな敗北を見たがる人々~〈ア・ピース・オブ・警句〉世間に転がる意味不明」(2018.4.27)https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/174784/042600141/
 このハリルホジッチ氏解任事件では、多くのサッカーファンが動揺した。当ブログもいろいろ勘ぐったりした(後になってだんだん分かってきたこともあったが)。

 しかし、小田嶋隆氏はハリルホジッチ氏解任の真因は別のところにあると考えている。
 では、誰の責任なのかというと、元凶はつまるところ世論だと思っている。

 それが今回の主題だ。

 ハリルホジッチは、結局、われらサッカーファンが追放したのだ。

 悲しいことだが、これが現実だ。

小田嶋隆「華やかな敗北を見たがる人々~〈ア・ピース・オブ・警句〉世間に転がる意味不明」(2018.4.27)
 それにしても、小田嶋隆氏って「世論」とか「われらサッカーファン」とか、こんな〈主語の大きい〉サッカー談義をする人だったのだろうか? こんな人だったのかね?

華やかな敗北を見たがる日本人?
 話を戻して、小田嶋隆氏によるハリル氏解任事件の批判は、あらぬ方向に話が逸(そ)れていく。
 結論を述べる。

 今回の解任劇の隠れたシナリオは、サッカーにさしたる関心も愛情も抱いていない4年に一度しかゲームを見ない多数派のサッカーファン〔にわかファンやパリピなど〕が、「華麗なサッカー」を見たいと願ったところから始まる悲劇だった。〔中略〕

 繰り返すが、4年に一度W杯の時にだけサッカーを見る多数派のサッカーファンは、見栄えのするサッカーを見たいと思っている。

 彼らは、日本人選手の中から、ボール扱いの巧い順に11人の選手を並べて、テレビ画面の中に、スキルフルでテクニカルでスリリングで華麗なサッカーを展開してほしいと願っている。

 ところが、世界を知っている戦術家である外国人監督〔ハリルホジッチ氏やフィリップ・トルシエ氏など?〕は、世界の中の日本の実力に見合ったサッカーを構築しにかかる。すなわち、守備を固め、一瞬のカウンターを狙う走力と集団性を重視したサッカーで、言ってみれば、世界中のリーグの下位チームが採用している弱者の戦術だ。

 〔W杯アジア〕予選を勝ち抜いているうちは、ファンも我慢をしている。

 というよりも、アジアの格下を相手にしている間〔W杯アジア予選〕は、力関係からいって守備的なサッカーをせずに済むということでもある。

 しかしながら、本番〔W杯本大会〕が迫って、強豪チームの胸を借りる親善試合が続くうちに、当然、守備的な戦いを強いられるゲームが目立つようになる。

 で、いくつか冴えない試合が続くと、ファンはその田舎カテナチオに耐えられなくなる。

 人気選手に出資しているスポンサーも、視聴率を気にかけるメディアも、派手な見出しのほしいスポーツ新聞も同じだ。彼らは、技術に優れた中盤の選手がポゼッションを維持しつつスペクタクルなショートパスを交換するクリエイティブでビューティフルなサッカーを切望している。でもって、そのサッカーの実現のために、華麗なボールスキルを持った技巧的で創造的な選手を選出してほしいと願っている。もちろん、スポンサーもその種の華のある選手をCMに起用するわけだし、テレビ局はテレビ局でより高い視聴率のために知名度のある選手をスタメンに並べる戦い方を希望している。

 もちろん、その戦い方を採用して勝てれば文句はないわけだが、どっこいそうはいかない。

 きょうびブラジルでさえ、巧い順から11人並べるみたいなチームは作ってこない。そんなことで勝てるほど世界のサッカーが甘くないことを知っているからだ。

 W杯の本番では、世界の強豪でさえ思うままの華麗なサッカーは封印せねばならない。

 まして日本のようなW杯選出枠の最下層に属するチームは、走れる選手や身体の強い選手を揃えて守備に備えなければならない。そうでないと戦いのスタートラインにさえ立てない。

 と、その水を運ぶことの多いチームは、どうしても堅実でありながらも華のないチームになる。

 この至極単純な事実こそが、おそらくは、ハリルホジッチが私たちに伝えようとしたことだった。

 そして、彼が作ろうとしていた、地味で堅実で面白みには欠けるものの、3回戦えば1回は上位チームを食うかもしれないチームは、多数派のライトなサッカーファンには我慢のならないぞうきんがけサッカーだったということだ。

 でもって、わたくしども世界のサッカーの辺境で夢を見ている哀れな〔日本の〕サッカーファンは、どうせ勝てないのなら、せめて自分たちらしいサッカーを貫いて世界を驚かせてやろうじゃないかてなことを発想する〔?〕に至る。

 敗北に目がくらんで近視眼的になるのは、うちの国〔日本〕の民族〔日本人〕の考え方の癖みたいなもので、前回のW杯〔2014年ブラジルW杯〕でも同じだったし、さらにさかのぼれば、先の大戦〔第二次世界大戦≒アジア太平洋戦争〕でも同様だった。

 つまり、ミッドウェーで一敗地にまみれ、ガダルカナルで壊滅的な敗北を喫したのち、自分たちの戦術や戦力がまったく敵に通用していないことを思い知らされたにもかかわらず、それでもわれわれは、自分たちの「美学」だかを貫いて、美しく散ること〔≒玉砕〕を願ったわけで、つまるところ、ウクライナに敗北したあげく〔2018年ロシアW杯前の国際親善試合〕になぜなのか華麗なパスサッカーを志向するに至ったわれら極東のサッカーファンの幻視趣味は、帝国陸軍末期の大本営の机上作戦立案者のメンタリティーそっくりだということだ。

 われわれ〔日本人〕は、醜く勝つことよりも、美しく敗北することを願っている。

 ずっと昔から同じだ。われらニッポン人はそういう物語が大好きなのだ。

小田嶋隆「華やかな敗北を見たがる人々~〈ア・ピース・オブ・警句〉世間に転がる意味不明」(2018.4.27)
 ダウト! もう、この小田嶋隆氏の日本人観、日本サッカー観は完全に間違っていますね。

日本人は日本が勝つところが見たい
 実際には、サッカーにさしたる関心も愛情も抱いていない4年に一度しかゲームを見ない多数派のサッカーファンほど、つまり、にわかファンやパリピほど、「華麗なサッカー」なんかどうでもよく、日本がW杯本大会で勝つところが見たいのである。

 これには実例がある。2010年南アフリカW杯を戦った岡田ジャパン(第2次,2007年~2010年,岡田武史監督)がそうだった。

 岡田ジャパンもまたハリルホジッチ・ジャパン同様、南アW杯本大会前の国際試合では成績不振が続いていた。岡田武史監督はマスコミやインターネットから酷評され、監督解任すら噂されていた。

 元々は攻撃的なサッカーを志向しながらも切羽詰まった岡田ジャパン≒岡田武史監督は、ギリギリになって「華麗なサッカー」を捨て、「世界の中の日本の実力に見合ったサッカー」、守備的で「堅実でありながらも華のない」サッカーを選択し、南アW杯本大会に臨んだ。

 その第1戦の対カメルーン戦、岡田ジャパンは実に泥臭いサッカーで勝利をあげた。第2戦の優勝候補オランダには敗れたものの、第3戦の対デンマーク戦では2本のフリーキックから直接入るゴールなどで快勝。決勝トーナメントに進出した。

 下馬評を覆す快進撃に、日本国中が大いに盛り上がった。当然のことながら、東京・渋谷のスクランブル交差点も大騒ぎになった。

 インターネット掲示板やツイッターでは、かつて岡田武史監督に対する非難や不信感を表明していた者からの〈謝罪〉の表明が相次ぐ事態となった。

 一方、岡田ジャパンのプレースタイルを否定的に評価する声もあった。特に第1戦の日本vsカメルーンの試合内容を酷評する人がいた。しかし、それは少数派だった。
 「日本はいつからこんなチームになってしまったんだ.これまでのことを日本はすべて捨てたのか.私には理解できない」〔リカルド・セティヨン,ブラジル出身のサッカージャーナリスト〕

 私〔田村修一〕も同じだった。怒りに溢〔あふ〕れながらも、海外メディアならきっとこんな見方をするだろうと、客観的な評価のつもりで「ワールドカップ史上に残るアンチフットボール.ワールドカップの歴史を振り返った時に,アンチフットボールの典型として引き合いに出される試合」とつぶやいた私のツイッターは、しばらく後に炎上した。

田村修一『凛凛烈烈 日本サッカーの30年』8頁


 つまり〈われわれ日本人〉は「華やかな敗北を見たがる人々」ではない。「自分たちの〈美学〉だかを貫いて,美しく散ること〔≒玉砕〕を願っ」ている人々でもない。日本が〈世界勝つ〉ところ、あるいは〈世界勝つ〉ところが見たい人々なのである。

日本のサッカー論壇と「失敗の本質」
 引用文をジックリ読み直してみると、小田嶋隆氏の日本人観、日本サッカー観は随分と歪になってしまった印象がある。〈日本人のサッカー観=美しい敗北/外国人(監督)のサッカー観=醜い勝利〉という二元論は、事実を基に書いたモノというよりは、小田嶋隆氏自身の脳内で完結した結論から書いたモノである。

 東日本大震災(2011年3月11日発生)を経て、第2次安倍晋三政権が長期政権となる(2012年~2020年)に応じて、だんだん小田嶋隆氏のコラムはだんだん「左傾化」していき、その日本人観も日本人論・日本文化論の通説・通念に基づいた〈主語の大きい話〉になっていった……。

 ……同時にその日本サッカー観も、日本人論・日本文化論に応じたネガティブな「サッカー日本人論」になっていった。それこそが小田嶋隆氏自身の脳内で完結した結論の正体である。……というのが、当ブログの見立てである(次のリンク先を参照)。
  • 参照:小田嶋隆のサッカーコラムは「左の〈村上龍〉」と言えるまでに劣化していた(2023年02月03日)https://gazinsai.blog.jp/archives/48409010.html
 この一例に、小田嶋隆氏は日本サッカー界を「ミッドウェー」や「ガダルカナル」で壊滅的な敗北を喫した「帝国陸軍末期の大本営の机上作戦立案者のメンタリティーそっくりだ」と書いていた。

 実は、この手の「旧日本軍ネタ」もまた(ネガティブな)日本人論・日本文化論のバリエーションのひとつで、これに話を合わせた「サッカー日本人論」も頻々と観察される。

失敗の本質
野中 郁次郎
ダイヤモンド社
2013-08-02


 スポーツ評論の世界では、サッカー(やラグビー)の日本代表が変な負け方をした時、または変な負け方をしかけた時、あるいは変な負け方をした後に当事者の責任のとり方がいい加減だったりした時に、この「旧日本軍ネタ」が登場する。

 例えば「旧日本軍ネタ」は、サッカー日本代表(加茂―岡田ジャパン)が、1997年のフランスW杯アジア最終予選での迷走(特に第3戦の対韓国戦で痛恨の逆転負けを食らってからの日本代表)を評する際にも見られた。村上龍氏である。
 わたし〔村上龍〕は〔日本がアウェーで〕韓国に勝てないと思っていたので、日本のサッカー界は戦前の旧日本軍と似ている、みたいなことをこのエッセイで書くつもりだった。情報の軽視、非科学的な戦略、世界に対する無知とその裏返しの傲慢。旧日本陸軍にとってのノモンハンと同じような事態〔…〕が起きた。〔略〕あれはノモンハンだったんだな、とわたしは思っていた。旧日本陸軍と、〔日本〕サッカー協会・メディアはその危機感のなさにおいて今でも変わりがないと思う。〔中略〕

 〔…〕くどいようだが、サッカー協会とメディアは、無知・傲慢・危機感のなさ・情報無視・非科学的精神主義において旧日本軍と変わるところがない。

村上龍『フィジカル・インテンシティ』19~20頁


 もっとも、サッカー日本代表は旧日本軍とイコールではない。

 1997年の加茂周監督の解任の後を受けた岡田ジャパン(第1次,岡田武史監督)はフランスW杯本大会の出場権を勝ち取ったし、2018年のハリルホジッチ監督解任の後を受けた西野ジャパン(西野朗監督)はロシアW杯本大会で1次リーグ突破を勝ち取った。

小田嶋隆氏と村上龍氏とは「猿の尻笑い」の関係
 小田嶋隆氏は、かねがね村上龍氏が書いたモノには批判的だった。村上龍氏のサッカー観にも批判的だった。それが出来るところが小田嶋隆氏のいいところであった。

 しかし、小田嶋隆氏のサッカー観は村上龍氏と同じレベルに劣化してしまった。

 日本サッカーがどうであったか? ……ではなく、日本サッカーは如何に語られてきたか? ……という意味で、村上龍氏と小田嶋隆氏のサッカーコラムは同類の資料(史料)になってしまったのである。

 したがって、読者=サッカーファンは、氏の晩年のサッカーコラムを読む際には注意を要する。

(了)




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[文中敬称略]

むしろムカムカしてくる小田嶋隆のサッカーコラム
 著名なコラムニストにして、サッカーファン、そして浦和レッズの熱烈なサポーターでもあった小田嶋隆(1956-2022)。もっとも、彼の晩年(還暦以降)のサッカーコラムを読んでも、少しも痛快でなくなった。むしろムカムカしてくる。

小田嶋隆(1956-2022)
【小田嶋隆(1956-2022)】

 なぜだろう? なぜかしら? ……と思って、あらためていくつかを読み返してみて、その理由に思い当たった。小田嶋隆のサッカーコラムは、いわば「左の〈村上龍〉」<1>と言えるまでに変節・劣化していたからである。

 小田嶋隆の、何が、どう「村上龍」なのか?

小田嶋隆がはまり込んだ「サッカー日本人論」とは?
 長年、日本サッカーの精神文化やサッカー論壇を苦悩させてきた通念・言説に「サッカー日本人論」<2>がある。これは一体どういう問題なのか?

 1990年代まで日本では弱小だったサッカー。従来、日本サッカーの文脈では「日本的であること・日本人であること」はサッカーというスポーツにとって非常に不適格なことであるとされてきた。反面、サッカー的であるということは、それ自体、日本的ではないことなのである。

 これを図式化すると「日本的(日本)=非サッカー的/非日本的(外国)=サッカー的」という二元論になる。

 この二元論を「器」だとすると「内容物」に相当するのが、「日本人論・日本文化論」という、日本人のモノの考え方に多大な影響を与えてきた一連の文献群である。

 日本人が固有に持っているとされる万古不易の本質(国民性・民族性・社会・文化・伝統・精神……等々)を研究・考察した評論や著作であり、そこから生じた「日本人の国民性・民族性・社会・文化・伝統・精神……等々は外国のそれとは著しく異なっている」という通説や通念が日本人論・日本文化論である。

 特に、中根千枝(社会人類学者)の『タテ社会の人間関係』(初版1967年)、土居健郎(精神医学者)の『「甘え」の構造』(初版1971年)は、日本人論・日本文化論の超ベストセラー・超ロングセラーである。

「甘え」の構造 [増補普及版]
土居 健郎
弘文堂
2007-05-15


 「タテ社会」とか「甘え」とか、たいていの日本人はこれらの著作を直接読んだことはないにしても、その内容の一部分でも何らかの形で耳にしたり、口にしたり、意識したことがあるはずである。

 21世紀に入ってからも、鴻上尚史(劇作家)による『「空気」と「世間」』(2013年)<3>という日本人論・日本文化論がベストセラーになっている。

 「タテ社会」だろうと「甘え」だろうと「空気」だろうと「世間」だろうと、日本人論・日本文化論は、基本的には同じ概念に集約される内容を述べてきた。

 それは……。

 外国人(特に欧米人)は、自立した個人が確立し、自らの頭で考え、あつれきを恐れず互いに自己主張しあい、異質を尊重することで組織や集団・社会を有効に機能させていく「個人主義」である。

 だが一方、日本人は個人が自立できず、組織や集団に埋没し、体制の権威や決まり事または「場の〈空気〉」に服従し、同調圧力が強い「集団主義」である。

 ……というものである。

 日本の常識は世界(外国,欧米)の非常識。この外国(欧米)の「個人主義」と日本の「集団主義」との対照は、サッカーというスポーツの在り方にも関わってくる。その国のサッカーは、その国の国民性・民族性・社会・文化・伝統・精神……等々の影響を受ける(とされている)からである。

 つまり、サッカーこそは外国の欧米的な「個人主義」の神髄であり、そうした「個人主義」の価値観を持つ人のために存在するスポーツなのだ。しかし、日本人は全く異質の「集団主義」であり、だから実は本質的に「日本人はサッカーに向いていない」。世界で勝てない。世界に勝てない。

 これが「サッカー日本人論」である。サッカーファンやサッカー関係者ならば、この手の話も何度かは読んだり聞いたりしたことがあるはずだ。小田嶋隆は「サッカー日本人論」にはまり込んでしまったのである

村上龍の亜流と化した小田嶋隆
 「サッカー日本人論」は、陰鬱なサッカー観であり、日本のサッカーファンやサッカー関係者にとっては大変な劣等感となる。このような通念や言説に囚(とら)われると、人は日本のサッカーをひたすら自虐的に語るか、ひたすら腐して語るかになってしまう。

 日本のサッカー論壇における「サッカー日本人論」の語り手としては、金子達仁、湯浅健二、佐山一郎、細川周平、寺田農、ジョン・カビラ、星野智幸、中条一雄、山崎浩一……等々と数多にわたる。この中のひとりにサッカーファンの小説家・村上龍がいた。

 『週刊宝石』(廃刊)に連載し、後に単行本化された村上龍のスポーツエッセイ『フィジカル・インテンシティ』(1998年)。この本は、ほぼ全編「サッカー日本人論」であり、日本人を、日本の社会を、そして日本のサッカーを腐している。<4>

 小田嶋隆もまた、村上龍と同様、日本的「集団主義」を語っては日本人は愚かしいと嘆き、「サッカー日本人論」を語っては日本サッカーは愚かしいと腐す人になってしまっていた。
 >>わたくしども日本人は、眼前の現実を宿命として甘受する傾向を強く持っている国民だ。それゆえ、現在進行形で動いている事態には、いつも甘い点をつけてしまう。

 >>われわれ〔日本人〕は「現に目の前で動きつつある状況」や「結果として現出しつつある事態」や「理由や経緯はどうあれ,所与の現実として自分たちを巻き込んで進行している出来事」みたいなものに、あっさりと白旗をあげてしまうことの多い人々だ。で、その結果として、いつも現実に屈服させられている。

 >>われわれ〔日本人〕が暮らしているこの国〔日本〕のこの社会は、個々の人間が自分のアタマで独自に思考すること自体を事実上禁じられている場所でもあるのだ。

 >>当初は不満を持っていた人々も、時間の経過とともに、順次わだかまりを水に流しつつある。こんなふうにすべてを水に流して忘れてしまうことが、善良な日本人としてのあらまほしき上品な振る舞い方だということを、われわれ〔日本人〕は、子供の頃からやんわりと教えられ、そうやって大人になっている。

 >>われわれ〔日本人〕の多くは、不満たらたらで通っていた職場にも、そのうちに馴れてしまうタイプの人間たちだ。してみると、どんなに無茶な人事であっても、いかにデタラメな状況説明であっても、事態を掌握している側の人間が中央突破で押し通してしまえば、最終的にはどんな無茶でもまかり通ることになっている。月日のたつうちには、誰もが抵抗をあきらめてしまう。われわれが住んでいるのはそういう国〔日本〕だ。

小田嶋隆「ハリルホジッチ氏を忘れる勿れ~〈ア・ピース・オブ・警句〉世間に転がる意味不明」(2018.6.22)https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/174784/062100148/
 >>こんなことを言うと不愉快に感じる人もあるだろうが、私〔小田嶋隆〕は、日本人のチームが失敗する原因としては、チームが一丸となっていないことよりも、一丸となり過ぎた結果として瓦解するケースの方が多いと思っている。

 >>われわれ〔日本人〕は、「ムラ化」することで融通性を失い、どこまでも硬直化したあげくに頓死することになっている。

 >>日本人が監督をやっている限り、必ずそうなるのだ。

 >>私〔小田嶋隆〕がぜひ訴えたいと考えているのは、どちらかといえば、われら日本人の多数派が、おおむね善良で気が利いていて、知り合いの面目をつぶすような振る舞い方を避けたがる人々だということで、そういうふうにわれわれ〔日本人〕が互いの立場や気持ちを慮ることを第一に行動しているからこそ、サッカーのような血で血を洗う設定の競技では失敗しがちだということを申し上げているのである。

 >>われわれ〔日本人〕は、昔から忖度する民族だ。

 >>言葉を発する前に、相手の気持ちを先回りして理解する能力を日々研ぎ澄ましながら生きているテレパスみたいな人〔日本人〕たちでもある。

 >>が、サッカーというのは、1人ひとりの選手や監督や記者やファンがそうやってアタマの中にあるもやもやしたあれこれを言葉にして外に出すことで前に進んでいく競技なのだと私〔小田嶋隆〕は思っている。

小田嶋隆「我々には外側が必要だ~〈ア・ピース・オブ・警句〉世間に転がる意味不明」(2018.7.6)https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/174784/070500150/
 >>では、どうしてニッポンが団結すると、サッカーが低迷するのだろうか。サッカーは、個が個であることを何よりも大切にするチームスポーツだ。チームのメンバーが同じ方向を向いて同じ戦術を志向していると、不思議なことにチームは硬直し、戦術は停滞する。つまりストライカーがストライカーのエゴを体現し、サイドバックがサイドバックの個人戦術に固執していないと、チームは機能しないのである。

 >>〔日本〕代表監督が外国人〔フィリップ・トルシエやヴァイッド・ハリルホジッチ〕である時、日本人選手は自分のアタマで個々人のプレーを選択せねばならないし……

 >>人格円満な日本人の監督〔森保一〕がトップに座っている状況下では、選手がお互いの傷を舐め合い、右顧左眄しながらボール回しを繰り返し、監督のためにサッカーを展開するおよそサラリーマン的なニッポン社会がチームを支配してしまう。

 >>私〔小田嶋隆〕は、日本人が一丸となった時に必ずや生じるネガティブな結果を心配している。より正確に言えば、われわれは「敗北」を意識した時にはじめて一丸となる心性の持ち主なのであって、つまり、一致団結したニッポンの男たちは、必ずや「玉砕」するのである。

 >>〔日本〕代表チームの選手たちはもっと自分勝手に振る舞わなければならない。そのためには、メディアの顔色をうかがったり選手の立場を慮ったりする日本人の監督を排除して、空気を読まない、わからんちんな外国人を招聘するべきだろう。

小田嶋隆「一致団結すると日本は負ける」(2022年1月16日)https://www.gqjapan.jp/culture/article/20220116-its-all-in-the-game
 これでは文体が違うだけで、村上龍の「サッカー日本人論」とほとんど変わらない。小田嶋隆のサッカーコラムは村上龍化したのである。小田嶋隆を喝采するサッカーファンは村上龍を喝采するサッカーファンと大差がない。

日本人監督か,外国人監督か…という問題なのか?
 小田嶋隆は、ロシアW杯本大会を直前に控えた2018年4月のハリルホジッチ日本代表監督解任にはひどく立腹して、日本サッカーを批判していた。また、サッカー日本代表監督は是非とも外国人に任せるべきだというのが持論であった。なぜなら……。

 サッカー日本代表の監督を日本人にすると、(日本的「集団主義」によって)チームとその周辺は「ムラ社会」となり、監督への批判はタブーとなり、選手は現人神として扱われ、報道は大本営化し、チームは停滞、最後には惨敗する。

 ……そうならないために、サッカー日本代表には(「個人主義」の世界の人間による)「外部」が必要だ。その監督はトルシエやハリルホジッチのように外国人が務めるべきだ。

 このような主張を小田嶋隆は繰り返してきた。外国人がサッカー日本代表監督になるならば、青山か西麻布にあるワインバーのソムリエだってかまわない……などとふざけたことまで書いている。

 しかし、このような日本サッカー観は間違っている。

 例えば、前述のような〈チームとその周辺は「ムラ社会」となり,監督への批判はタブーとなり,選手は現人神として扱われ,報道は大本営化し,チームは停滞,最後には惨敗〉したサッカー日本代表なら、外国人のジーコ(元ブラジル代表)が率い、2006年ドイツW杯で惨敗した「ジーコ・ジャパン」(2002年~2006年)があるではないか。

 ジーコ・ジャパンの惨敗は、日本サッカーにとって深いダメージになった。その後を継いだイビチャ・オシムや岡田武史といった日本代表監督たちは、ジーコの尻拭いに悪戦苦闘することになる。

 日本人監督が率いたサッカー日本代表では、岡田ジャパン(第2次,2007年~2010年,監督・岡田武史)は2010年南アフリカW杯でグループステージ突破(ベスト16)、西野ジャパン(2018年,監督・西野朗)は2018年ロシアW杯でグループステージ突破(ベスト16)。

 翻って、外国人監督では、他にザック・ジャパン(2010年~2014年,監督アルベルト・ザッケローニ)があったが、こちらは2014年ブラジルW杯で惨敗している。

 小田嶋隆曰く「一致団結したニッポンの男たちは,必ずや〈玉砕〉するのである」。

 しかし、「外部」なき日本サッカーの象徴のような「人格円満な日本人の監督〔森保一〕」が率いたサッカー日本代表=森保ジャパンは「玉砕」しなかった。

 森保ジャパンは、カタールW杯アジア最終予選における当初の劣勢を挽回し、見事に本大会の出場権を獲得してみせた。

 これは、日本人監督か、外国人監督か……という問題ではない。

 小田嶋隆は、サッカーそれ自体を見ていない。日本人論・日本文化論と「サッカー日本人論」の色眼鏡でサッカーを見るようになり、サッカー観も曇ってしまったのである。

ドーハの総括と「電波ライター」
 小田嶋隆は2022年6月24日に亡くなったので、同年11月~12月に開催されたカタールW杯は見ていない。失礼を承知で言うと、小田嶋にとってある意味それは幸運だった。

 サッカー日本代表は、2022年カタールW杯本大会のグループステージでワールドカップ優勝経験のあるサッカー大国ドイツ、スペインと同組になってしまった。森保ジャパンではこの2か国にとても勝てないだろう……と、事前には思われていた。

 ところが、森保ジャパンは下馬評を覆して、ドイツ、スペインに逆転勝ちする大金星をあげ、グループステージ1位で突破するという番狂わせを演じてカタールW杯ベスト16に進出した(「ドーハの奇跡」または「ドーハの歓喜」)。

 外国人監督を推奨していた小田嶋隆にとって、この展開はバツが悪い。もうひとつ……。

 ハリルホジッチは、モロッコ代表を率いてW杯本大会(カタールW杯)の出場権を獲得した。しかし、モロッコ・サッカー界とまたもやあつれきを起こし、カタールW杯3か月前にモロッコ代表監督を解任されてしまう。

 これは4年前の日本代表と同じである。そして、モロッコ代表もカタール杯でグループステージを突破し、こちらは何と準決勝(ベスト4)まで進出した。

 日本代表監督時代のハリルホジッチ解任を批判していた小田嶋隆にとっては、この展開もまたバツが悪い。

 意地の悪い興味だが、小田嶋隆が存命だったら、この状況をどう総括しただろうか?

 あの時、あなたが言っていたことと事実は違うではないか……と、当然、彼にもツッコミが入っただろうからである。

 森保一という監督をどう思うか、個人的な好き嫌いは別として、森保ジャパンがあげた所定の成果「ドーハの奇跡」については相応の敬意を表するべきである。

 また、ハリルホジッチは有能なサッカー指導者である一方、自らの信念に合わない物事は一切受け入れない人物であるという。それゆえ、日本に限らず海外各国でもあつれきを起こし、監督を解任されたり短期間で辞任したりが多い。
  • 参照:長束恭行「ハリルホジッチがいつも〈短命政権〉に終わる理由~クロアチア人記者が語る…クロアチアのスポーツ紙『Sportske Novosti』記者に聞く」(2018/04/18)https://bunshun.jp/articles/-/7056
  • 参照:モハメド・アミン・エラムリ「キレたサポーターが絶叫〈ハリルやめろ!〉〈ベスト4〉モロッコ代表番記者が明かす,半年前の侵入事件〈なぜハリル解任というギャンブルに勝てた?〉」(2022/12/23)https://number.bunshun.jp/articles/-/855899
 つまり、ハリルホジッチ解任問題の本質は、小田嶋隆が言っていたような、日本的「集団主義」から来る、日本社会の、日本サッカーの「ムラ社会」性とは違うのではないか?

 ここで人としての器が測られる。自説に固執して事態を率直に受け入れられず、かえって日本サッカーに悪態をつくようなサッカージャーナリストやサッカー評論家のことを、最近はあまり言われなくなったが「電波ライター」と呼ばれ、日本のサッカー界隈では軽侮されていた。

 日本のサッカーを腐して評価したがるという点において、「サッカー日本人論」と「電波ライター」は親和性が高い。

 昔の小田嶋隆は「電波ライター」を批判できる側のサッカーコラムニストであった。だが、晩年のサッカーに関する言動を見るにつけ、「電波ライター」へと変節してしまったのではないか……と思わせるところがある。

 とにかく、小田嶋隆は「ドーハの奇跡」を、そしてモロッコ代表のベスト4を見る前に逝ってしまった(ある意味「炎上」せずに済んだ)。

パラドキシカルな日本批判
 本来、小田嶋隆は、後藤健生(サッカージャーナリスト)や藤島大(スポーツライター)とともに「サッカー日本人論」を批判できる人でもあった。

 2002年日韓W杯を翌年に控えた『別冊宝島Real vol.24 サッカー日本代表 斬り捨て御免!』(2001年)では、「〈評論家日本代表〉を採点する」というタイトルで、村上龍らを批判している。

 しかし、小田嶋隆は晩年になって「サッカー日本人論」に旋回してしまった。

 もともと、政治色の強いコラムニストではなかったが、東日本大震災(2011年3月11日発生)を経て、第2次安倍晋三政権が長期政権となる(2012年~2020年)に応じて、だんだん「左傾化」していった……。小田嶋隆にはこんな印象がある。

9条どうでしょう (ちくま文庫)
隆, 小田嶋
筑摩書房
2012-10-01


超・反知性主義入門
小田嶋 隆
日経BP
2015-09-15


 この「左傾化」にしたがって、小田嶋隆の世界観もまた日本人論・日本文化論に傾倒し、あわせてサッカー観も「サッカー日本人論」になっていった。

 しかし、もともと「サッカー日本人論」は1980年代初め、当時、低迷の極みにあった日本サッカーの状況を無理矢理に納得し、説明するために成立した言説である。あれから40年、日本サッカーがこれだけ伸長したことを考えれば、もはや「サッカー日本人論」のようなサッカー観は無効なのである。

 同様、「サッカー日本人論」の基である、日本人論・日本文化論のほとんどは、真っ当な心理学・社会学・文化人類学などの分野から見れば、学問的にデタラメである。

 先行研究の参照と検証、理論の構築、理論と現象との相関性の検証、学界内の議論による洗練……といった、アカデミックな「ふるい」にかけられることが日本人論・日本文化論にはない。

「集団主義」という錯覚 (新曜社)
高野 陽太郎
新曜社
2017-12-10


日本人論の危険なあやまち 文化ステレオタイプの誘惑と罠 (ディスカヴァー携書)
高野 陽太郎
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2019-10-19


日本人論の方程式 (ちくま学芸文庫 ス 1-1)
ロス・マオア
筑摩書房
1995-01-01


 日系アメリカ人の文化人類学者ハルミ・ベフ(日本名:別府春海)は、その著書『イデオロギーとしての日本文化論』の中で、日本人論・日本文化論などというものは学術性のない「大衆消費財」であると指摘している。その上でこう述べる。
 ……文化論〔日本人論・日本文化論〕というものは、日本の文化を忠実に、客観的に描写したものではなくて、ある一定の日本の特徴をとり上げ、それを強調し、都合の悪いところは無視して、一つのシステムをつくる。どうしてそういうものをつくるかといえば、それは体制の役に立つからです。

ハルミ・ベフ『増補新版 イデオロギーとしての日本文化論』24頁


イデオロギーとしての日本文化論
ハルミ ベフ
思想の科学社
1997-07T


 つまり、日本人論・日本文化論と称するものは日本の政治的な現状維持のためのイデオロギー的な機能を果たしている……というわけである。

 晩年の小田嶋隆の、モリカケ問題<5>など日本の世相と話を絡めた「サッカー日本人論」を読んでいると、ハルミ・ベフの「文化論〔日本人論・日本文化論〕もここまでくると国家体制に完全に汲〔く〕み込まれ,保守政権を支持するイデオロギーとして利用されていると見て間違いない」<6>という発言を、つい思い出してしまう。

 小田嶋隆が、日本人論・日本文化論の通説や通念に基づいて日本の世相を批判すれば批判するほど、(ハルミ・ベフの考えに従えば)実は体制の現状維持に奉仕してしまうパラドキシカルな状況に陥ってしまう……からである。

 小田嶋隆の「左傾化」が駄目だと言っているのではなく、日本人論・日本文化論にかぶれた小田嶋隆は駄目な「左傾化」をしてしまったのである。

 かくして、小田嶋隆のサッカーコラムは「左の〈村上龍〉」と言えるまでに変節・劣化した。したがって、晩年の彼のサッカーへの言及にめぼしいものは少ない。

(了)




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 村上龍著『フィジカル・インテンシティ』は、光文社『週刊宝石』(廃刊)に連載された同タイトルの連載コラムを、後で本にまとめたスポーツコラム(主にサッカー)。いくつかシリーズ本があるが、本書はその第1弾。1997年W杯アジア最終予選における日本代表の迷走、同年「ジョホールバルの歓喜」の勝利、1998年フランスW杯本大会に出場した日本の惨敗、同年イタリア・セリエAにデビューした日本代表・中田英寿の活躍までを描く。

 コアな村上龍氏のファンなら、この本を面白く読むことができるだろう。一方、本書はコアなサッカーファンからは強い反感を買った。なぜなら、表紙カバーに印刷された「オレ別にサッカーで食ってないから,何でも書けるんだよね」という村上龍氏の発言が、あまりにも不遜だったからである(註:残念なことにアマゾンに掲載された書影は表紙カバーを外して撮影してあるので、このセリフが写っていない)。<1>

 村上龍氏は、Jリーグ以前からサッカーファンであることを公言してきた小説家ではある。けれども、サッカー専門メディアや他のサッカー評論家との接点は、あまりない。だから、村上龍氏は「俺は日本サッカー界に寄生するサッカー評論家ではない.しがらみがないから日本サッカー界に忖度する必要は全くない.だから日本サッカーの本当のレベルを論じることができる.ハッキリ言おう.日本のサッカーは何もかもレベルが低い.もちろん中田英寿だけは例外で世界レベルだ」と大見得を切ったのである。

 しかし、この放言は、既存のサッカー評論界内部の人間をひどく不愉快にさせた。後藤健生氏や山崎浩一氏といった人たちが、そんな村上龍氏の態度を批判している。

 それでは、村上龍氏は日本サッカー界やマスコミのしがらみなしに、自由にサッカーを論評できているのでしょうか。これが違うのである。

 一般のスポーツマスコミと違って、日本のサッカー評論界が日本のサッカー、特に日本代表を評価するまなざしは、むしろ村上龍氏に近く非常にネガティブなものだ。無理やりにでも日本のサッカーを卑下して語れば「批判的」に物申したかのように見なされる習慣がある。そのためにサッカー評論界には、1980年代の「日本サッカー冬の時代」から確立され、21世紀の現在までに引き継がれた「批判的」サッカー評論のための常套句(決まり文句、クリシェ)がいくつかある。

 「日本的」な文化や習慣はサッカーというスポーツには不適格だと論じる。特に日本代表が重要な試合で敗れると「日本人はサッカーに向いていない」と断じる。日本代表がまずい試合をすると第二次世界大戦時の旧日本軍の拙劣な作戦指導になぞらえる(野中郁次郎ほか『失敗の本質』参照)。ことさらに「日本」と「世界」との間に越えがたい「壁」を設定する……etc.これら『フィジカル・インテンシティ』に書かれた事柄は、実は、すべて既存の日本サッカー評論界で今までさんざん語られてきた常套句だったのである。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)
野中 郁次郎
中央公論新社
1991-08-01


 村上龍氏は特異な言動をとる中田英寿と結託して、日本のサッカーや日本の社会や文化をさんざん批判していたが、「日本的」な因習に批判的な日本代表アスリートの言動をダシにしては、日本のスポーツ界や日本の社会や文化を批判するという形は、これもラグビーの平尾誠二の現役時代には確立された方法だった(中田英寿の場合は極端にすぎるが)。

「日本型」思考法ではもう勝てない
平尾 誠二
ダイヤモンド社
2016-06-06


 つまり「オレ別にサッカーで食ってないから、〔日本のサッカーについて〕何でも書けるんだよね」と豪語した村上龍氏の話は間違いだった。文体が村上龍だっただけで、実は村上龍氏のサッカー評論と既存のサッカー評論との間に本質的な違いはなかった。まずこれが日本のサッカー評論の悲喜劇。

 そして、上記のような決まりきった常套句でしつこくネガティブな評価を下されながら、1980年代の「冬の時代」から日本のサッカー(日本代表やJリーグなど)はそれなりの伸長を見せてきたこと。要するに、日本のサッカー評論は必ずしも日本のサッカーの実態の間とには乖離がある。これが日本のサッカー評論の不幸である。

 さらに言えば、そんなサッカー評論が幅を利かせている日本のサッカーそのものが不幸である。

 スポーツ社会学者の中には、そのことに気が付いていて、村上龍氏のサッカーへの言及を、日本サッカーの歴史や文化そのものの資料(史料)としてではなく、「日本のサッカーがいかに語られてきたか」をメタ的に考究する素材として読み込んでいる人がいる(せりか書房『日本代表論』の編著者・有元健氏)。

日本代表論
有元健 山本敦久
せりか書房
2020-04-15


 20世紀末に刊行された『フィジカル・インテンシティ』も、21世紀に入り20年もの歳月が経った。サッカーファンや読書人もまた、この本をメタ的に読むべきである。

(了)




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コラムニスト・山崎浩一氏とは何者か?
 あれだけ羽振りが良かったコラムニスト・山崎浩一氏の姿を、マスメディアで見かけなくなって久しい。もっとも、インターネット検索を覗(のぞ)いても、お亡くなりになったという話は出てこない。詮索はともかく、どんな人だったなのか? ちょうどPHPのウェブサイトに経歴が載っていたので、あらためて紹介する。
山崎浩一(やまざき・こういち)
 1954年神奈川県生れ。早稲田大学政治経済学部卒。

 デザイン、イラスト、雑誌編集も手がけるコラムニスト。ポップカルチャーなどのトレンド時評、CMウオッチングを中心とするが、『朝日新聞』で文化時評を手がけたり、『現代思想』でフェミニズム論を展開したりと、神出鬼没。

 自ら「フェミニズムも、ぼくにとっては思想や立場ではなく、世界の眺望をよくするためのさまざまな視点のひとつにすぎない」と語るごとく、固定した視座をもたないことに意義を見いだしながら、過剰なる言説やメディアをからかいつづける。

 著書に、『男女論』(紀伊國屋書店、1993年)、『リアルタイムズ』(河出書房新社、1992年)など。

PHP人名事典より(データ作成:1998年)
 いかにも「ボクは世の中をナナメから見ています,見えています」といった感じのプロフィールだが、もうひとつ、山崎浩一氏には人気サッカーコラムニストとしての顔もあった。

サッカー論壇における山崎浩一氏の高すぎる(?)地位
 例えば、2代目サポティスタ=岡田康宏氏は、山崎浩一氏の熱烈な大ファンでもあった。彼の著書『サッカー馬鹿につける薬』の中では、2人の対談までやっている。
サッカー馬鹿につける薬(2007/11/21)
 トルシエからジーコ、オシムへとつながる日本代表の軌跡、選手の移籍事情、ネットでのサッカー言説、サッカーメディアのあり方、サポーターとクラブの愛憎、フットサルの楽しみ方…。戦術論もフォーメーション図も出てこない、スタンド目線の過激なサッカーコラム満載!サッカー情報サイト『サポティスタ』管理人の『TV Bros.』連載+αが奇蹟の単行本化。師と仰ぐ山崎浩一氏との対談も収録。<1>

サッカー馬鹿につける薬
サポティスタ
駒草出版
2007-11-21


 また、半田雄一氏が編集長(初代)だった時代の『季刊サッカー批評』、その創刊(1998年)以来長らくのレギュラー執筆陣だった。

 さらに、2003年には、サッカージャーナリストの大住良之氏や後藤健生氏らとともに、当時の『季刊サッカー批評』の版元だった双葉社から刊行されたムック『新世紀サッカー倶楽部~もしも世界の言葉がサッカーであったなら』の執筆者として名を連ねる栄に浴している。

 日本のサッカー論壇における山崎浩一氏の地位は盤石であるかのようである。

村上龍氏と山崎浩一氏は同じ穴のムジナ
 しかし、実のところ、少なくともサッカー論壇の中では山崎浩一氏は大した人物ではない。『季刊サッカー批評』の連載「僕らはへなちょこフーリガン」は「どう? 僕って面白いでしょ?」的な感じが、かえって少しも面白くなかった。

 『季刊サッカー批評』だったか、『新世紀サッカー倶楽部』だったかは記憶は定かではないが、後藤健生氏と山崎浩一氏が対談をした。その中で、当時、さまざまな媒体でサッカー評論を書いていた村上龍氏の論評を、日本サッカーを不当に貶しては得意がっている(大意)としてこれを非難したことがある。

 まったく奇妙であった。後藤健生氏(や大住良之氏)人が、村上龍氏のサッカー評論をそのように非難するのは当然であろう。しかし、山崎浩一氏が後藤健生氏に乗じて、村上龍氏を非難するのは、まったく「目糞鼻糞を笑う」の図式そのものだからである。

 山崎浩一氏は、実に多くの媒体で執筆していたが、その中に小学館『週刊ポスト』の「情報狂時代」という世相・時評コラムがあった(1994年に単行本として刊行される)。

情報狂時代
山崎 浩一
小学館
1994-09T


 この連載では、山崎浩一氏はサッカー、特に日本サッカーについて何度も言及しているのだが、その内容が本当に酷い。それこそ村上龍氏や杉山茂樹氏、馳星周氏がやっていたような、日本サッカーを不当に貶しては得意がっている下劣な代物だったのである。

 強いて上げれば、日本サッカーを上から見下ろして貶すサディズム(村上龍氏,杉山茂樹氏,馳星周氏)か、下から自虐的に振る舞うマゾヒズム(山崎浩一氏,佐山一郎氏もこの系統である)かの違いである。それ以外は「文体」の違いぐらいだ。

 要は『季刊サッカー批評』半田雄一編集長の覚えがめでたかったから、鋭敏なサッカーファンからの警戒の対象にならなかったということである。

農耕民族社会ニッポンでサッカーが「愛されない理由」
 ようやく本題に入ることができそうです。今回採り上げるのは、月刊誌『PLAYBOY日本版』1990年9月号に掲載されたコラム「農耕民族社会ニッポンでサッカーが〈愛されない理由〉」である(次の写真を参照)。ちなみに『PLAYBOY日本版』は既に廃刊、同じ集英社が出している『週刊プレイボーイ』とは別の雑誌である。<2>

山崎浩一コラム『PLAYBOY日本版』1990年9月号
【山崎浩一「農耕民族社会ニッポンでサッカーが〈愛されない理由〉」】

 それにしても「農耕民族社会ニッポン」の字面を見ただけで目眩(めまい)がしそうですね(笑)。とにかく話を追っていきます。山崎浩一氏は1990年6月~7月に行われたFIFAワールドカップ・イタリア大会を回顧する……。

 ……曰く。サッカー・イタリアW杯は主審の判定が厳しい大会、主審が目立った大会でもあった。それにしても、反則をした選手にレッドカードやイエローカードを突き付ける時の主審の厳然たる態度は素晴らしい。実は元サッカー少年の僕(山崎浩一氏)自身、サッカーの主審を務めたこともあるのだが、その苦労は並大抵のものではない。

 主審に託された強大な権限と権威は、サッカーの試合を裁く責任と緊張への対価なのだ……。
 ……そんな〔サッカーW杯の〕主審の姿を見た後にわが〔日本の〕プロ野球の審判たちの状況に目を転じると、暗澹〔あんたん〕たる思いになる。金田〔正一〕監督〔当時,ロッテ・オリオンズ監督〕に抗議されてオロオロし、まるで逆上した窮鼠〔きゅうそ〕のように慌〔あわ〕てて退場を宣告する姿は、哀しい。

 野球(ベースボールではなく)とサッカーを比べてもしょうがないけれど、このへんにも農耕民族〔ニッポン人〕の集団競技と狩猟民族〔欧米人〕の個人競技(サッカーはじつは個人技が11集まった競技であり,本質的にはチームプレイではない.おそらくベースボールもそうだ)との間のルールの重みの差を感じてしまう。

 プロ野球の退場者が、外人〔ママ〕選手以外は、ほぼ監督(責任者)ばかりであることは象徴的なことに思える。

 そして日本人に野球ほどサッカーが愛されない理由が、そのへんにもあるような気がする。個人が組織の調和の中で「仕事をする」存在でしかない社会〔ニッポン的集団主義〕では、おそらく公平で強い主体性〔欧米の個人主義〕を持つ審判役など、単なる添え物に過ぎない〔以下略〕

山崎浩一「農耕民族社会ニッポンでサッカーが〈愛されない理由〉」
 言いたい文句はいっぱいあるが、まずはここで一息つきましょう。

山崎浩一氏の凡庸なるサッカー言説を揶揄(からか)う
 何のことはない。山崎浩一氏が展開したのは、驚くほど凡庸な、そして自虐的日本サッカー観に満ち満ちた「サッカー日本人論」である。

 すなわち、スポーツ、なかんずくサッカーにおいては愚鈍な農耕民族=ニッポン人と優れた狩猟民族=欧米人の違い、悪しき集団主義に充足しきったニッポン人と良き個人主義を重んじる欧米人の違い。ニッポンと欧米との間には絶望的な「壁」があり、欧米の精神や文化が貫徹したスポーツ=サッカーはニッポンでは「愛される」ことなど金輪際ありえない……。

 山崎浩一氏に限らず、村上龍氏であれ、馳星周氏であれ……。私たちサッカーファンはこの手の自虐的な話をさんざん聞かされてきた。そのように日本サッカーを蔑(さげす)むことで、論者は自身のサッカー観の確かさや批評精神を誇示するしきたりだったのである(そんな山崎浩一氏が村上龍氏を非難する筋合いがあるのか?)。

日本代表論
有元健 山本敦久
せりか書房
2020-04-15


 もうひとつ注目できるのは、この「サッカー日本人論」に、山崎浩一氏は「野球とベースボールの違い」を追加してきたことだ。

 当時、1980年後半から1990年代前半にかけて、文化的な面をも含めた「日米の野球の絶対差異」(武田徹氏)を論じることが、日本のスポーツ論壇のしゃれた言い回しであり、流行りでもあった。

 ニッポンとアメリカ(欧米)との間には絶望的な「壁」がある。アメリカ大リーグ=メジャーリーグベースボール(MLB)はとにかく無条件に素晴らしく開放的で、日本野球(NPB,高校野球など)はとにかく無条件に低劣で抑圧的だとされていた。

 これを誇張するために「(ニッポンの)野球と(アメリカ=欧米の)ベースボールはまったく違うのだ」などといったレトリックが多用された。こんな風潮を煽(あお)ったのは、ロバート・ホワイティング氏と玉木正之氏である(その歴史的な主な展開については,次のリンク先を参照)。
ニッポン野球は永久に不滅です (ちくま文庫)
ロバート ホワイティング
筑摩書房
1987-12T


和をもって日本となす
ロバート ホワイティング
角川書店
1990-04-01


 そのように日本の野球を蔑(さげす)むことで、論者は自身の野球観の確かさや批評精神を誇示するしきたりだった。山崎浩一氏は、その流行に乗っかったのである。

 「固定した視座をもたないことに意義を見いだし」ていると自称する山崎浩一氏の日本サッカー観・日本スポーツ観は、実は極めて単純だ。「ニッポン人=愚鈍な農耕民族=悪しき集団主義=サッカーに愛されない=抑圧的な野球/欧米人=優れた狩猟民族=良き個人主義=サッカーに愛される=開放的なベースボール」という二元論だ。

 何より、サッカーに愛されない何より駄目なニッポン人と、ベースボール(野球ではなく)に愛されない何より駄目なニッポン人。そのふたつの根っこはひとつであると解釈したのは、たいへん興味深い現象である。

本当は「ジョークの羅列」だった「野球とベースボールの違い」
 ところが、この「野球とベースボールの違い」とやらは、単なる言葉遊びであり、嘘やら誇張やら偏向やらであることが分かってきた。

 日本のテレビ(主にNHKの衛星波)でメジャーリーグの野球が日本にも頻繁に放送されるようになったことや、日本人野球選手がメジャーリーグでも活躍するようになったことで、アメリカのリアルな野球事情が日本人にもより分かるようになったこと。

 また、日本でもJリーグでサッカー人気が台頭し、サッカー日本代表も実力を付け曲がりなりにもワールドカップ本大会の常連国となって、アメリカ・メジャーリーグ以外の「世界」のスポーツの在り方や文化、習慣が日本人にも知られるようになったこと……などが理由である。

 特に、玉木正之氏とロバート・ホワイティング氏の共著「日米の野球の絶対差異」の集大成である『ベースボールと野球道』(1991年,前掲)の内容については、在米のスポーツライター・梅田香子(うめだ・ようこ)氏が『イチロー・ルール』(2001年)の中で「ジョークの羅列」としか取れないほど事実と反している……と喝破している(その詳しい経緯は次のリンク先を参照)。
 野球やスポーツ関連の著作も数多く手がけているルポライターの岡邦行氏もまた、『ベースボールと野球道』の内容に問題あることを指して、著者のひとり・玉木正之氏のことを「このウソツキ野郎め!」と辛辣に批判している。

KAZU(カズ)とJリーグ
岡 邦行
三一書房
1993-05T


 昨今、さすがに「野球とベースボールの違い」を得意気にウンヌンする人は減っている。

それでもニッポン人はサッカーを愛せない???
 それでは日本のサッカーは如何? 山崎浩一氏はサッカー論壇の表舞台からは身を引いたように見える。しかし、山崎浩一氏的な日本サッカー観=自虐的な日本サッカー観(サッカー日本人論)というものは、未だ根絶やしになっていない。

 少し前の例になるが、サッカー日本代表が「惨敗」した2014年ブラジルW杯の少し後、文芸誌『en-taxi(エンタクシー)』第42号(扶桑社,坪内祐三ほか責任編集)に、小説家・星野智幸氏の筆による「ガーラの祭典」なるエッセイ・評論が掲載された。
 これなどは、要するに南米スペイン語の「ガーラ」(garra)という概念を用いて「サッカーを(真に)愛することができないニッポン人」を巧みに論じたものだ。

 これからも、日本サッカーに悪いことが起きる度に「サッカーに愛されないニッポン人」や「サッカーを(真に)愛することができないニッポン人」は、姿を変え、形を変えて、さまざまに論じられるだろう。

 むろん、そんな事態にはならないことを願うばかりであるが……。

 山崎浩一氏が「農耕民族社会ニッポンでサッカーが〈愛されない理由〉」を書いた1990年からちょうど30年、2020年の今になっても、日本のサッカー言説の思想・論調に大きく変化がないのである。

(了)




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中田英寿にまつわる仰天エピソード
 2020年2月3日、ヤフー!ジャパンが、Goal.comからの配信として「トッティ氏,仰天エピソードに中田英寿氏を選出〈なぜそんなことを.彼は本当に特別な人〉」なる、サッカー元イタリア代表フランチェスコ・トッティのインタビュー記事を公開した。
  •  トッティ氏、仰天エピソードに中田英寿氏を選出「なぜそんなことを.彼は本当に特別な人」
 彼とサッカー元日本代表・中田英寿は、かつてイタリア・セリエAの名門ASローマでチームメイトであった。ASローマは、2000-2001シーズンにセリエAで18シーズンぶりに優勝した。

 その快挙、ASローマの選手やスタッフたちによる歓喜の輪の中にあって、中田英寿だけは「優勝が決まった直後,ロッカールームの隅で読書をしていた」という逸話を、トッティは「現役時代を通じ,最も驚いた仰天エピソード」として紹介している。
 「私〔トッティ〕は〔現役時代を通じ,最も驚いた仰天エピソードとして〕ナカタ〔中田英寿〕を選ぶ。なぜならナカタは、スクデットのお祭り騒ぎの中、本当に読書していたんだよ。なぜそんなことをしていたのかは分からない。彼〔中田英寿〕は本当に特別な人だよ」

Goal.comより
 この珍記事を受けて、中田英寿を素朴に信奉する、いたいけな人たちの反応がSNSやヤフー!ジャパンのコメント欄に現れている。以下は、そのマンセ~、ハラショ~のほんの一例であるが……。




 ……なるほど。「中田英寿神話」はこうやってメンテナンスされていくのだ。

英国における「大卒」サッカー選手の苦悩
 読めば分かるのだが、トッティは、あくまで「現役時代を通じ,最も驚いた仰天エピソード」を語ったのであって、「現役時代を通じ,最も驚いたサッカー選手やそのプレー」を語ったわけではない。

 該当記事を読む限り、トッティは中田英寿をそのように評価したわけではない。

 この「仰天エピソード」を読んで、むしろ、思い出したことがある。サッカーとサッカーカルチャーのことならおおよその事柄が書いてある、デズモンド・モリス博士の『サッカー人間学』(1983年,原題:The Soccer Tribe)に登場する話だ。

 英国イングランドのプロサッカー選手で、数少ない「大学卒」のインテリだったリバプールFCのスティーブ・ハイウェイ(Steve Heighway,1947年生まれ,ウォーリック大学卒)の「苦悩」である。
 大学教育まで受けた数少ない一流選手の一人で、リバプールで活躍するスティーブ・ハイウェイには,このような〔低学歴のプロサッカー〕選手〔たち〕の態度は大変な驚きであった。

スティーブ・ハイウェイ@『サッカー人間学』183頁
【スティーブ・ハイウェイ@『サッカー人間学』183頁】

 リバプール・チームに入った当初,彼〔ハイウェイ〕は相手チームと対戦する時と同じように,自チームの仲間との交際が怖かったという。あるスポーツ解説者は「彼はこの社会〔プロサッカー選手たちの世界〕の不適応者だった」といい,「遠征先でトランプ〔≒少額の賭け事〕が始まると,ハイウェイは抜け出して観光団に加わった。

 仲間には,明らかにインテリを鼻にかけた生意気な態度と映った。彼が戻ると,みんなは威嚇〔いかく〕的な視線を送って,トランプに仲間入りする気があるかどうか尋ねた」と伝えている。

 ハイウェイは変人扱いを受けるのがたまらず,何とか順応しようとした。

デズモンド・モリス『サッカー人間学』183頁


サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02


The Soccer Tribe
Desmond Morris
Rizzoli Universe Promotional Books
2019-03-26


 チームの雰囲気に馴染めなかったという意味では、スティーブ・ハイウェイと中田英寿は、ある意味で似ている(まだハイウェイはチームに馴染もうとしていたのだが)。

サッカー選手は「ハマータウンの野郎ども」である!?
 デズモンド・モリスが『サッカー人間学』で描き出した、プロサッカー選手のイメージ(ステレオタイプ)を抄出してみると……。
  •  芸術や科学や政治に関心がなく、サッカーにしか興味がない。
  •  暇な時、特に遠征時の移動中は、トランプのゲーム≒少額の賭け事を楽しんでいる。
  •  映画やテレビをよく見るが、(高尚な作品ではなく)スリラーやアクションが多い。
  •  読書も、サッカー関係の雑誌か、タブロイド紙の推理小説やスリラーの域を出ない。
  •  挑発的で威圧的なキャラクターの女性は好まれない。
  •  好きな音楽はロックやポップに限られている(クラシックではない)。
  •  遠征先の有名な観光地の見学には興味が薄く、つまりは知的好奇心に乏しい。
 ……等々。ものの見事にサッカー馬鹿であり、粗にして野であり、けして「知的」とはいえない。これでは、スティーブ・ハイウェイが馴染めないのは当然だ。

 これには、英国という社会のしくみが絡んでいる。いわゆる「階級社会」である。例えば、単純な計算で、英国の大学の数は日本の4割程度しかない。しかも進学率が低い。

 英国の子供は11歳(!)で学力試験を受けて、そのうち所定の成績を上げた3割程度しか高等教育の学校(大学など)に進学できない。残り7割のほとんどはステートスクール(公立中学)を卒業したら、そのまま労働者として社会に出る(この段落の知識は,林信吾『これが英国労働党だ』によるもの)。

 現在の英国でも、欧州の他の国も、おおむね事情は似たようなものである。

 サッカー選手は、労働者階級のスポーツである。選手の出身も労働者階級が多い。

 すなわち、サッカー選手は、なかんずくプロサッカー選手は。大学に進学するような知的エリート≒上流階級(的な)がやるスポーツだとは思われていない。そして、選手の言動や立ち振る舞いも労働者階級的であることを求められる。
 世の中には知的ならざる、しかしそれなしでは社会が動かない人たちの分厚い層があるのだという単純な事実……。

 知性をバカにすることによってプライドを保つ人たちが、そしてそういう人によってしか担われない領域の仕事というものがこの世には存在するのである。

 〔英国の〕社会学者ポール・ウィリスはその辺の事情を見事に明らかにしている〔ポール・ウィリスの著作『ハマータウンの野郎ども』のこと〕。

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)
ポール・E. ウィリス
筑摩書房
1996-09-01






 世の中は……知的エリートによってだけ動いているのではない。……知的であることによってプライドを充足できる。他方に反知性によりプライドを充足する人々がいる。

 人間はプライドなしには生きられないという観点からすれば、どちらも等価である。

三浦淳「捕鯨の病理学(第4回)」http://luna.pos.to/whale/jpn_nemo6.html
 すなわち、プロサッカーとは「知的ならざる,しかしそれなしでは社会が動かない人たちの分厚い層」あるいは「反知性によりプライドを充足する人々の」ための、基本的に「そういう人によってしか担われない領域の仕事」なのである。

 サッカー選手たちとは、とどのつまり「ハマータウンの野郎ども」なのだ。

 スティーブ・ハイウェイの「苦悩」の背景がここにある。「大学卒業」の学歴を持つハイウェイが馴染めないのは、プロサッカーが「労働者階級」の社会だからである。

「体育会系」という反知性的なコミュニティ
 その昔、1960年代、サッカー日本代表がヨーロッパに遠征した。そのスコッドの選手たちは、大学生や大学卒業の選手がほとんどだった。例えば、杉山隆一は明治大学卒業、釜本邦茂は早稲田大学卒業である。

 そのため、学歴のないサッカー選手が多いヨーロッパの現地では、珍しく受け取られたという。

 だからと言って、日本のサッカー選手やアスリートが、真に「知的」かどうかは微妙である。

 日本の大学スポーツの体育会・運動部には「体育会系」という言葉(概念)があり、それは「体育会の運動部などで重視される,目上の者への服従根性論などを尊ぶ気質.また,そのような気質が濃厚な人や組織」(デジタル大辞泉)と解釈される。

 すなわち、あまり「知的」とは見なされない。日本においてもサッカーを含むスポーツ選手は、あまり賢くないというイメージ(ステレオタイプ)があり、当事者もそこに充足しきっているというところがある。

 洋の東西を問わず、サッカー選手は敢えて「知的」でないことを誇っている節がある。

 そういえば、フランチェスコ・トッティは「知的」ではなく「間の抜けた男の愛嬌」を感じさせる逸話が多い。日本で言えば、プロ野球の長嶋茂雄のそれに通じるものがある。

 対して、中田英寿の逸話は対照的である。世界最高峰のサッカーリーグであるセリエAで優勝したにもかかわらず、ひとり「ロッカールームの隅で読書をしていた」というのは、そうしたサッカー界の風潮には順応できなかった……ということである。

中田英寿は「真に知的なアスリート」なのか?
 所詮、スポーツなど馬鹿がやる仕事なのか? 否。スポーツライターの藤島大は、スポーツこそ「知的」な営為であると説き、中田英寿のような安易なアンチテーゼ的振る舞いの方を批判している(下記リンク先参照)。曰く……。
 スポーツとは、そもそも高等な営みである。一流選手が経験する真剣勝負の場では、緊急事態における感情や知性のコントロールを要求される。

 へばって疲れてなお人間らしく振る舞う。最良の選択を試みる。この訓練は、きっと戦争とスポーツでしかできない。

 だからアスリートは、机上では得られぬ知性をピッチやフィールドの内外に表現しなければならない。

 常識あるスポーツ人が、非日常の修羅場でつかんだ実感を、経営コンサルタントや自己啓発セミナーもどきの紙切れの能弁ではなく、本物の「詩」で表現する。そんな時代の到来を待ちたい。

 「片田舎の青年が、おのれを知り、世界を知り、やがて、おのれに帰る。だからラグビーは素敵なのだ」

 かつてのフランス代表のプロップ、ピエール・ドスピタルの名言である。バスク民謡の歌手でもある臼のごとき大男は、愛する競技の魅力を断言してみせたのだ。

 ……たしかにドスピタルの言葉に比べると、中田英寿の『中田語録』などは「机上の知性」あるいは「紙切れの能弁」でしかない。

中田語録
文藝春秋
1998-05


中田語録 (文春文庫)
小松 成美
文藝春秋
1999-09-10


 知的とは思われていないフットボーラーだが、フットボールを極めると、むしろ、だからこそ真に知的な言葉が出てくる。一見すると、矛盾している。矛盾しているが、真理である。

 その真理を、ついに理解できなかったのが中田英寿である。

中田英寿から透けて見える日本サッカー界の「知性」
 藤島大が「真に知的なアスリートの到来」を期待したのは、2001年1月のことである。

 あれから、20年近くたった2020年2月。しかし、未だに「中田英寿の仰天エピソード」が出てくる。未だに「中田英寿神話」のメンテナンスが行われる……。

 ……ということは、日本サッカー界の知的レベルが更新されていないということでなる。

 中田英寿は「サッカー馬鹿」になるべき時になれない体質だった。そこにサッカー選手として才能の限界があった。中田英寿は、だから、ワールドクラスのサッカー選手としてのキャリアを形成できたわけではない。

 代わりに、中田英寿は、日本のサッカー界の知性の低劣さを巧妙に刺激する才能には長(た)けている。2000年のアウェー国際試合「フランスvs日本」戦のパフォーマンスなどは、そうである。

 そこで錯覚してしまう、いたいけな日本人が多い。残念でならない。

中田英寿は「特別な人」ではなく「特殊な人」である
 ところで、くだんのトッティのインタビュー記事。イタリア語原文がどうなっていたのかは分からないが、日本語の翻訳をちょっとだけ改変してみると、がぜん面白くなる。
  •  トッティ「なぜそんなことを.彼〔中田英寿〕は本当に特別な人」
 ここから単語をひとつ置換してみる。
  •  トッティ「なぜそんなことを.彼〔中田英寿〕は本当に特殊な人」
 フランチェスコ・トッティが「なぜそんなことをしていたのかは分からない」というくらいだから、後者の方がニュアンスが通じる!?

 ことほど左様、日本にとっても、国際的にも、中田英寿は「特別なサッカー人」ではない「特殊なサッカー人」なのである。

 こちらの方が、中田英寿という人間の本質を言い当てている。

(了)




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