晩年に劣化した小田嶋隆氏のサッカー観
著名なコラムニストにして、サッカーファン、そして浦和レッズの熱烈なサポーターでもあった小田嶋隆氏(1956-2022)。
【小田嶋隆(1956-2022)】
だが、その晩年(還暦以降)のサッカー観はまったく劣化し、彼のサッカーコラムは本当につまらなくなった……。
ハリルホジッチ氏解任事件の真因とは?
例えば……。ロシアW杯本大会を目前に控えた2018年4月、成績不振などを理由に断行された、サッカー日本代表監督 ヴァイッド・ハリルホジッチ氏解任事件。
小田嶋隆氏は大いに憤慨している。
そして、日経ビジネス電子版の連載コラムで、ハリルホジッチ氏を更迭した日本サッカー協会や田嶋幸三・同協会会長を口を極めて非難している。
>>私〔小田嶋隆〕は、ハリルホジッチ監督を解任した日本サッカー協会のガバナンスを信頼していない。>>私〔小田嶋隆〕の見るに、彼ら〔日本サッカー協会〕は死によってのみ治癒可能なタイプの疾患をかかえている人々だ。>>〔日本〕サッカー協会の会長〔田嶋幸三〕は60ヅラを下げたおっさんだ。その酸いも甘いも噛み分けているはずの還暦過ぎのジジイ(すみません、書いている自分=小田嶋隆=も還暦過ぎました)が、〔ロシア〕W杯を2カ月後に控えたタイミングで代表監督を解任するにあたって持ち出してきた解任理由が、言うに事欠いて「信頼関係が多少薄れてきた」だとかいう間抜けなセリフだったというこのあきれた顛末を、われわれは断じて軽く見過ごすわけにはいかない。こんなバカな理由を、いったいどこの国際社会が失笑せずに受け止めるというのだろうか。<1>小田嶋隆「華やかな敗北を見たがる人々~〈ア・ピース・オブ・警句〉世間に転がる意味不明」(2018.4.27)https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/174784/042600141/
このハリルホジッチ氏解任事件では、多くのサッカーファンが動揺した。当ブログもいろいろ勘ぐったりした(後になってだんだん分かってきたこともあったが)。
しかし、小田嶋隆氏はハリルホジッチ氏解任の真因は別のところにあると考えている。
では、誰の責任なのかというと、元凶はつまるところ世論だと思っている。それが今回の主題だ。ハリルホジッチは、結局、われらサッカーファンが追放したのだ。悲しいことだが、これが現実だ。小田嶋隆「華やかな敗北を見たがる人々~〈ア・ピース・オブ・警句〉世間に転がる意味不明」(2018.4.27)
それにしても、小田嶋隆氏って「世論」とか「われらサッカーファン」とか、こんな〈主語の大きい〉サッカー談義をする人だったのだろうか? こんな人だったのかね?
華やかな敗北を見たがる日本人?
話を戻して、小田嶋隆氏によるハリル氏解任事件の批判は、あらぬ方向に話が逸(そ)れていく。
結論を述べる。今回の解任劇の隠れたシナリオは、サッカーにさしたる関心も愛情も抱いていない4年に一度しかゲームを見ない多数派のサッカーファン〔にわかファンやパリピなど〕が、「華麗なサッカー」を見たいと願ったところから始まる悲劇だった。〔中略〕繰り返すが、4年に一度W杯の時にだけサッカーを見る多数派のサッカーファンは、見栄えのするサッカーを見たいと思っている。彼らは、日本人選手の中から、ボール扱いの巧い順に11人の選手を並べて、テレビ画面の中に、スキルフルでテクニカルでスリリングで華麗なサッカーを展開してほしいと願っている。ところが、世界を知っている戦術家である外国人監督〔ハリルホジッチ氏やフィリップ・トルシエ氏など?〕は、世界の中の日本の実力に見合ったサッカーを構築しにかかる。すなわち、守備を固め、一瞬のカウンターを狙う走力と集団性を重視したサッカーで、言ってみれば、世界中のリーグの下位チームが採用している弱者の戦術だ。〔W杯アジア〕予選を勝ち抜いているうちは、ファンも我慢をしている。というよりも、アジアの格下を相手にしている間〔W杯アジア予選〕は、力関係からいって守備的なサッカーをせずに済むということでもある。しかしながら、本番〔W杯本大会〕が迫って、強豪チームの胸を借りる親善試合が続くうちに、当然、守備的な戦いを強いられるゲームが目立つようになる。で、いくつか冴えない試合が続くと、ファンはその田舎カテナチオに耐えられなくなる。人気選手に出資しているスポンサーも、視聴率を気にかけるメディアも、派手な見出しのほしいスポーツ新聞も同じだ。彼らは、技術に優れた中盤の選手がポゼッションを維持しつつスペクタクルなショートパスを交換するクリエイティブでビューティフルなサッカーを切望している。でもって、そのサッカーの実現のために、華麗なボールスキルを持った技巧的で創造的な選手を選出してほしいと願っている。もちろん、スポンサーもその種の華のある選手をCMに起用するわけだし、テレビ局はテレビ局でより高い視聴率のために知名度のある選手をスタメンに並べる戦い方を希望している。もちろん、その戦い方を採用して勝てれば文句はないわけだが、どっこいそうはいかない。きょうびブラジルでさえ、巧い順から11人並べるみたいなチームは作ってこない。そんなことで勝てるほど世界のサッカーが甘くないことを知っているからだ。W杯の本番では、世界の強豪でさえ思うままの華麗なサッカーは封印せねばならない。まして日本のようなW杯選出枠の最下層に属するチームは、走れる選手や身体の強い選手を揃えて守備に備えなければならない。そうでないと戦いのスタートラインにさえ立てない。と、その水を運ぶことの多いチームは、どうしても堅実でありながらも華のないチームになる。この至極単純な事実こそが、おそらくは、ハリルホジッチが私たちに伝えようとしたことだった。そして、彼が作ろうとしていた、地味で堅実で面白みには欠けるものの、3回戦えば1回は上位チームを食うかもしれないチームは、多数派のライトなサッカーファンには我慢のならないぞうきんがけサッカーだったということだ。でもって、わたくしども世界のサッカーの辺境で夢を見ている哀れな〔日本の〕サッカーファンは、どうせ勝てないのなら、せめて自分たちらしいサッカーを貫いて世界を驚かせてやろうじゃないかてなことを発想する〔?〕に至る。敗北に目がくらんで近視眼的になるのは、うちの国〔日本〕の民族〔日本人〕の考え方の癖みたいなもので、前回のW杯〔2014年ブラジルW杯〕でも同じだったし、さらにさかのぼれば、先の大戦〔第二次世界大戦≒アジア太平洋戦争〕でも同様だった。つまり、ミッドウェーで一敗地にまみれ、ガダルカナルで壊滅的な敗北を喫したのち、自分たちの戦術や戦力がまったく敵に通用していないことを思い知らされたにもかかわらず、それでもわれわれは、自分たちの「美学」だかを貫いて、美しく散ること〔≒玉砕〕を願ったわけで、つまるところ、ウクライナに敗北したあげく〔2018年ロシアW杯前の国際親善試合〕になぜなのか華麗なパスサッカーを志向するに至ったわれら極東のサッカーファンの幻視趣味は、帝国陸軍末期の大本営の机上作戦立案者のメンタリティーそっくりだということだ。われわれ〔日本人〕は、醜く勝つことよりも、美しく敗北することを願っている。ずっと昔から同じだ。われらニッポン人はそういう物語が大好きなのだ。小田嶋隆「華やかな敗北を見たがる人々~〈ア・ピース・オブ・警句〉世間に転がる意味不明」(2018.4.27)
ダウト! もう、この小田嶋隆氏の日本人観、日本サッカー観は完全に間違っていますね。
日本人は日本が勝つところが見たい
実際には、サッカーにさしたる関心も愛情も抱いていない4年に一度しかゲームを見ない多数派のサッカーファンほど、つまり、にわかファンやパリピほど、「華麗なサッカー」なんかどうでもよく、日本がW杯本大会で勝つところが見たいのである。
これには実例がある。2010年南アフリカW杯を戦った岡田ジャパン(第2次,2007年~2010年,岡田武史監督)がそうだった。
岡田ジャパンもまたハリルホジッチ・ジャパン同様、南アW杯本大会前の国際試合では成績不振が続いていた。岡田武史監督はマスコミやインターネットから酷評され、監督解任すら噂されていた。
元々は攻撃的なサッカーを志向しながらも切羽詰まった岡田ジャパン≒岡田武史監督は、ギリギリになって「華麗なサッカー」を捨て、「世界の中の日本の実力に見合ったサッカー」、守備的で「堅実でありながらも華のない」サッカーを選択し、南アW杯本大会に臨んだ。
その第1戦の対カメルーン戦、岡田ジャパンは実に泥臭いサッカーで勝利をあげた。第2戦の優勝候補オランダには敗れたものの、第3戦の対デンマーク戦では2本のフリーキックから直接入るゴールなどで快勝。決勝トーナメントに進出した。
下馬評を覆す快進撃に、日本国中が大いに盛り上がった。当然のことながら、東京・渋谷のスクランブル交差点も大騒ぎになった。
インターネット掲示板やツイッターでは、かつて岡田武史監督に対する非難や不信感を表明していた者からの〈謝罪〉の表明が相次ぐ事態となった。
一方、岡田ジャパンのプレースタイルを否定的に評価する声もあった。特に第1戦の日本vsカメルーンの試合内容を酷評する人がいた。しかし、それは少数派だった。
「日本はいつからこんなチームになってしまったんだ.これまでのことを日本はすべて捨てたのか.私には理解できない」〔リカルド・セティヨン,ブラジル出身のサッカージャーナリスト〕私〔田村修一〕も同じだった。怒りに溢〔あふ〕れながらも、海外メディアならきっとこんな見方をするだろうと、客観的な評価のつもりで「ワールドカップ史上に残るアンチフットボール.ワールドカップの歴史を振り返った時に,アンチフットボールの典型として引き合いに出される試合」とつぶやいた私のツイッターは、しばらく後に炎上した。田村修一『凛凛烈烈 日本サッカーの30年』8頁
つまり〈われわれ日本人〉は「華やかな敗北を見たがる人々」ではない。「自分たちの〈美学〉だかを貫いて,美しく散ること〔≒玉砕〕を願っ」ている人々でもない。日本が〈世界で勝つ〉ところ、あるいは〈世界に勝つ〉ところが見たい人々なのである。
日本のサッカー論壇と「失敗の本質」
引用文をジックリ読み直してみると、小田嶋隆氏の日本人観、日本サッカー観は随分と歪になってしまった印象がある。〈日本人のサッカー観=美しい敗北/外国人(監督)のサッカー観=醜い勝利〉という二元論は、事実を基に書いたモノというよりは、小田嶋隆氏自身の脳内で完結した結論から書いたモノである。
東日本大震災(2011年3月11日発生)を経て、第2次安倍晋三政権が長期政権となる(2012年~2020年)に応じて、だんだん小田嶋隆氏のコラムはだんだん「左傾化」していき、その日本人観も日本人論・日本文化論の通説・通念に基づいた〈主語の大きい話〉になっていった……。
……同時にその日本サッカー観も、日本人論・日本文化論に応じたネガティブな「サッカー日本人論」になっていった。それこそが小田嶋隆氏自身の脳内で完結した結論の正体である。……というのが、当ブログの見立てである(次のリンク先を参照)。
- 参照:小田嶋隆のサッカーコラムは「左の〈村上龍〉」と言えるまでに劣化していた(2023年02月03日)https://gazinsai.blog.jp/archives/48409010.html
この一例に、小田嶋隆氏は日本サッカー界を「ミッドウェー」や「ガダルカナル」で壊滅的な敗北を喫した「帝国陸軍末期の大本営の机上作戦立案者のメンタリティーそっくりだ」と書いていた。
実は、この手の「旧日本軍ネタ」もまた(ネガティブな)日本人論・日本文化論のバリエーションのひとつで、これに話を合わせた「サッカー日本人論」も頻々と観察される。
スポーツ評論の世界では、サッカー(やラグビー)の日本代表が変な負け方をした時、または変な負け方をしかけた時、あるいは変な負け方をした後に当事者の責任のとり方がいい加減だったりした時に、この「旧日本軍ネタ」が登場する。
例えば「旧日本軍ネタ」は、サッカー日本代表(加茂―岡田ジャパン)が、1997年のフランスW杯アジア最終予選での迷走(特に第3戦の対韓国戦で痛恨の逆転負けを食らってからの日本代表)を評する際にも見られた。村上龍氏である。
わたし〔村上龍〕は〔日本がアウェーで〕韓国に勝てないと思っていたので、日本のサッカー界は戦前の旧日本軍と似ている、みたいなことをこのエッセイで書くつもりだった。情報の軽視、非科学的な戦略、世界に対する無知とその裏返しの傲慢。旧日本陸軍にとってのノモンハンと同じような事態〔…〕が起きた。〔略〕あれはノモンハンだったんだな、とわたしは思っていた。旧日本陸軍と、〔日本〕サッカー協会・メディアはその危機感のなさにおいて今でも変わりがないと思う。〔中略〕〔…〕くどいようだが、サッカー協会とメディアは、無知・傲慢・危機感のなさ・情報無視・非科学的精神主義において旧日本軍と変わるところがない。村上龍『フィジカル・インテンシティ』19~20頁
もっとも、サッカー日本代表は旧日本軍とイコールではない。
1997年の加茂周監督の解任の後を受けた岡田ジャパン(第1次,岡田武史監督)はフランスW杯本大会の出場権を勝ち取ったし、2018年のハリルホジッチ監督解任の後を受けた西野ジャパン(西野朗監督)はロシアW杯本大会で1次リーグ突破を勝ち取った。
小田嶋隆氏と村上龍氏とは「猿の尻笑い」の関係
小田嶋隆氏は、かねがね村上龍氏が書いたモノには批判的だった。村上龍氏のサッカー観にも批判的だった。それが出来るところが小田嶋隆氏のいいところであった。
しかし、小田嶋隆氏のサッカー観は村上龍氏と同じレベルに劣化してしまった。
日本サッカーがどうであったか? ……ではなく、日本サッカーは如何に語られてきたか? ……という意味で、村上龍氏と小田嶋隆氏のサッカーコラムは同類の資料(史料)になってしまったのである。
日本サッカーがどうであったか? ……ではなく、日本サッカーは如何に語られてきたか? ……という意味で、村上龍氏と小田嶋隆氏のサッカーコラムは同類の資料(史料)になってしまったのである。
したがって、読者=サッカーファンは、氏の晩年のサッカーコラムを読む際には注意を要する。
(了)
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