スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:本田圭佑

 先ごろ亡くなったプロレスラー、アントニオ猪木は最初から「元気ですかー!元気があれば何でもできる!」や「1、2、3、ダー!」の人ではなかった。

 昔、アントニオ猪木のモノマネの定番の台詞といえば、アゴを突き出しての「何だ!コノヤロー!」だった。

 それが証拠に……。プロレス・ブームの1983年に『激突!馬場派vs猪木派』という本が出ているが、この本の表紙に書かれてあるアントニオ猪木の言葉は、やはりこの「コノヤロー!!」である(次のリンク先を参照)。

激突!馬場派VS猪木派
群雄社出版
1983-01T


 「元気ですかー!元気があれば何でもできる!」や「1、2、3、ダー!」は、アントニオ猪木が「ネタキャラ化」した、キャリアの後半以降の文言である。


【アントニオ猪木「こうして〈1、2、3、ダー!〉は完成した」】

 * * *

 さて、キャリアの後半に「ネタキャラ化」した日本のスポーツ関係者といえば、もうひとり、日本野球界の「ミスター」こと長嶋茂雄がいる。

玉木正之「遠藤忠~長嶋茂雄ヘルメット飛ばす」日経20210301
【遠藤忠撮影「長嶋茂雄、ヘルメット飛ばす」】

 長嶋茂雄が「ネタキャラ化」したキッカケは、ひとつには、驚異的な売り上げを記録して出版界では語り草になっているスポーツ誌「文春ナンバー」通巻第10号、1980年8月の長嶋茂雄特集「SOS! 長島茂雄へラブコールを!」である。
  • 参照:Sports Graphic Number 10号「SOS! 長島茂雄へラブコールを!」(1980年8月20日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/60
 もうひとつのキッカケが、スポーツライター・玉木正之による啓蒙(≒洗脳?)である。



 * * *

 他のメディアやライターはともかく、玉木正之による長嶋茂雄のキャラ付けには明確な目的があった。それは「〈チマチマして抑圧的な日本野球〉を批判すること」、歪んだ日本のスポーツのアンチテーゼだった。

定本・長嶋茂雄 (文春文庫)
玉木 正之
文藝春秋
1993-03-01




 当時は「浪人中」「充電期間」だった長嶋茂雄だが、日本のプロ野球界に復帰すれば「チマチマして抑圧的な日本野球」を打破してくれる。そんな期待感を玉木正之は煽った。

 果たして、長嶋茂雄は1993年、古巣の読売ジャイアンツ(巨人軍)の監督として復帰した。2001年まで9シーズン、第2次長嶋政権である。

 もっとも、藤島大氏が「〈日本のスポーツは歪んでいる〉と批判している人も実は歪んでいる」と玉木正之を揶揄したように、玉木正之が期待をかけたスポーツ関係者=歪んだ日本のスポーツのアンチテーゼというのは、たいてい「失敗」している。

 サッカー日本代表=ジーコ・ジャパン(2002年~2006年)がそうだった(次のリンク先を参照)。
  • 参照:藤島大「ジーコのせいだ」(2006年7月27日)https://www.suzukirugby.com/column/column984
 日本の「ミスターラグビー」こと平尾誠二(故人)もそうだった(次のリンク先を参照)。
  • 参照:「スポーツ」と「遊び」の区別がつかない玉木正之氏(2021年02月10日)https://gazinsai.blog.jp/archives/43032155.html
 断っておくが、これらは単なる勝ち負けの問題ではなく「スポーツ」の実践として「失敗」なのである。

 * * *

 それでは、第2次政権時代の長嶋巨人軍は如何?

 何度かセ・リーグの公式戦や日本シリーズで優勝しているが、連覇はしていない。この点は、後任の原辰徳の実績に劣っている。

 毎年のように大型補強をするが、それはいわば大艦巨砲主義であり、「チマチマして抑圧的な日本野球」を打破するプレーぶりだったかどうかは怪しい。長嶋茂雄の采配の拙さもあって、優勝を逃したり、シーズンで苦戦することがよくあった。

 しかし、カリスマ・長嶋茂雄に責任を負わせられないので(長嶋大元帥!)、毎年、配下のコーチが辞めさせられる……などということが、専門誌『週刊ベースボール』にも書かれていた。

 あるいは。長嶋茂雄は、結局のところ巨人軍を通じてしか日本プロ野球界と関わり合いを持たなかった、持てなかった人でもある。


 しかし、日本の野球人気(日本のプロ野球人気)の在り様が、もはや長嶋茂雄の現役時代、あるいは長嶋第1次政権時代とは大きく変容していった。

 読売ジャイアンツ(巨人軍)がその絶対的な中心にあり、周囲を牽引するという図式ではなくなっていた。日本プロ野球は、地域密着を掲げたプロサッカー・Jリーグのいわば「いいとこ取り」をすることで人気を延命させているのである。

 * * *

 振り返ってみると、プロレスのアントニオ猪木のネタキャラ化はともかく、長嶋茂雄のネタキャラ化が日本野球界にとって良かったのかどうか……。それは微妙だ。


 少なくとも、玉木正之が目論んでいたような「長嶋茂雄のネタキャラ化による〈チマチマして抑圧的な日本野球〉の批判と打破」、これはやはり失敗だったのではないか……。

(下につづく)




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 生島淳氏の著作『箱根駅伝』(2011年)、その中で「山の神」と讃えられたランナー・柏原竜二(東洋大学―富士通)をめぐる記述で面白い箇所があった。
 スポーツの世界で人気が出る要因として、最近は「ルックス」もかなり重視されている。サッカー選手の醸し出す雰囲気は商品価値へと直結している。その点、柏原〔竜二〕は完全に競技力のみで視聴者〔ファン〕をがっちりつかんだ。

生島淳『箱根駅伝』50頁

箱根駅伝 (幻冬舎新書)
生島 淳
幻冬舎
2011-11-29


 さて、ここで言う「醸し出す雰囲気が商品価値へと直結しているサッカー選手」とは、誰だろう? 何といっても俺たちの中田英寿である。

俺たちの中田英寿1
【俺たちの中田英寿(1)】

俺たちの中田英寿2
【俺たちの中田英寿(2)】

 未だ「中田英寿」を超える日本人サッカー選手は出てこない……と言われる。あるいは、そう思われている。

 そんなことはない。

 ドイツ・ブンデスリーガで活躍した奥寺康彦はフランツ・ベッケンバウアーが絶賛した選手だし、ワールドカップ本大会での活躍ならば本田圭佑の方が上である。冨安健洋はイングランドの名門アーセナルFCのレギュラーとして現在進行形で活躍中である。

 中田英寿程度の活躍をした日本人サッカー選手ならザラにいる。

 にもかかわらず、中田英寿があたかも特権的な存在に見えてしまうのは、まさに「醸し出す雰囲気を商品価値に直結させた」からだ。

 「醸し出す雰囲気を商品価値に直結させた」ことで、実体は明らかでないのに、長い間人々によって絶対のものと信じこまれ、称賛や畏怖の目で見られてきた中田英寿。

 まったく中田英寿神話とは「神話」でしかない。
  • 参照:NAKATA神話は時々メンテナンスされる~フランチェスコ・トッティと中田英寿(2020年02月08日)https://gazinsai.blog.jp/archives/39853481.html
 そんな中田英寿の「神話」の実体を解きほぐした研究。スポーツ社会学でも、カルチュラルスタディーズでも、メディア研究でもいい。そんな著作(研究書?)があるならば、当ブログは読みたい。

 その「神話」を解体すれば、中田英寿を越える(超える)日本人サッカー選手など珍しくなくなる。

 中田英寿の公平な評価は「ジョホールバルの歓喜のプレイヤー・オブ・ザ・マッチ」……これだけで十分である。〔文中敬称略〕

(了)




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デズモンド・モリス『サッカー人間学』の装丁への不満
 佐山一郎氏の『日本サッカー辛航紀』を読んでいると、1983年に邦訳・刊行された、英国の動物行動学者デスモンド・モリスの著作『サッカー人間学 マンウォッチングII』(原題:THE SOCCER TRIBE,岡野俊一郎監修,白井尚之訳)の話が出てくる。

サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02


 モリスには既に『マンウォッチング』という有名な著作があり、まだ日本サッカーが「冬の時代」だった1983年に、あれだけサッカーの浩瀚な著作が刊行できたのは、その続編という位置付けだったからではないかと考えていた。

 佐山氏の『日本サッカー辛航紀』の解するところでは「新種の学術書として受け入れられたようだ」(138頁)とのことである。

 ところで、佐山一郎氏は『サッカー人間学』の装丁(表紙のデザイン)が、ひどく気に入らないようである。
 問題は(『サッカー人間学』の)装丁です。たとえ裏事情があるにせよ、写真カバーに日本リーグ〔Jリーグ以前の旧JSL〕の、三菱重工‐ヤンマーディーゼル戦を持って来るセンスに目まいがしました。

 今でいう浦和対セレッソ大阪戦なのかもしれないけれど、ヤンマーFW堀井美晴のドリブルを赤いゲームシャツの三菱DF斉藤和夫キャプテンが左から止めにかかる図でよいものかと。カバー写真はもっと選びようがあったはずです。〔以下略〕



 ちなみに、当ブログが所有している英語の原書『THE SOCCER TRIBE』の表紙がある(ペーパーバック,マスマーケット版かもしれないが)。あらためて日本語版と比べてみる。

「The Soccer Tribe」cover
【『THE SOCCER TRIBE』表紙】

デズモンド・モリス『サッカー人間学』表紙
【『サッカー人間学』表紙】

 原書の表紙は、イングランドのリバプールFCが欧州チャンピオンズ杯(当時)で優勝した時の写真である。比べてみると、たしかに日本語版は見劣りするかもしれない。

「知の再発見」双書『サッカーの歴史」装丁への不満
 同じような不満なら、当ブログにもある。

 フランスのガリマール出版社の「ガリマール発見叢書」(Decouvertes Gallimard)を、日本の出版社である創元社が翻訳出版権を獲得して、1990年から『「知の再発見」双書』としてシリーズ刊行した。

知の再発見双書_創元社(1)
【「知の再発見」双書(創元社のウェブサイトより)】

 さすが、この双書は知的好奇心をくすぐるテーマが多い。当ブログとしては、紋章学者ミシェル・パストゥロー著『紋章の歴史 ヨーロッパの色とかたち』(原題:Figures de l'heraldique)が面白かった。

 フットボール(サッカー,ラグビー)のデザインと、紋章学のデザインが深く結びついていることについて、ヒントになるところがいろいろあったからである。
 2002年、ワールドカップの年、同双書から『サッカーの歴史』(原題:La balle au pied:Histoire du football)が出た。原著者はフランスのサッカー史家アルフレッド・ヴァール(Alfred Wahl)、日本語版監修は大住良之氏。書店で、この本の背表紙を見た途端「これは買わねば!」と手を伸ばした。が、しかし……。

 ……表紙を見て脱力した。な、なんでやねん……。

サッカーの歴史 (「知の再発見」双書)
アルフレッド ヴァール
創元社
2002-01


 問題は「知の再発見」双書『サッカーの歴史』の装丁です。たとえ裏事情があるにせよ、写真カバーに中田英寿を持って来るセンスに目まいがしました。

 当時、サッカー日本代表のエース格だったのかもしれないけれど、サッカーの世界史的な深遠さも、サッカーの全世界的な熱狂の広がりもまったく感じない、中田英寿みたいなちょっと前に台頭した程度の、それも日本の若手選手でよいものかと。

 カバー写真は、ペレでも、クライフでも、マラドーナでも、ベッカムでも、昔のワールドカップの名場面でも……、もっと選びようがあったはずです。

 ちなみに、アマゾンに〈La balle au pied:Histoire du football〉の書誌情報があった。

 詳しい事情は調べなかったが、「知の再発見」双書は、フランスのガリマール出版社と日本の創元社では表紙の装丁が違うのかもそれない。そうだとしても……。

 ……創元社のウェブサイトに、「知の再発見」双書の各書の表紙を並べた集合写真がある。チンギス・ハン、オスマン帝国、イースター島、シルクロード、アンコール・ワット等々の装丁(表紙デザイン)と比べると、中田英寿が表紙の『サッカーの歴史』(左下)だけは、明らかに違和感があり、フランス書からの邦訳という有難みがなく、かえって安っぽいのである。

知の再発見双書_創元社(2)
【「知の再発見」双書の表紙(創元社のウェブサイトより)】

 で、結局、その本は買いませんでした。

(了)



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日本代表は1995年ラグビーW杯並みの大惨敗を喫するかもしれない?
 秘かに恐れているサッカーW杯ロシア大会最悪の予想は、1995年ラグビーW杯の日本vsニュージーランド戦、ジャパンがオールブラックスに145失点(!)した時のような形で、サッカー日本代表が大惨敗すること。この試合「ブルームフォンテーンの悪夢」の悲惨さは、2014年ブラジルW杯「ミネイロンの惨劇」よりもさら上回る。
ブルームフォンティーンの惨劇
【ブルームフォンテーンの悪夢】

 こんな結末に至った裏事情は、日本ラグビー狂会編『ラグビー黒書』に詳しい(編者の中尾亘孝=なかお・のぶたか=は反サッカー主義者だし大嫌いだが,これだけの本をサッカージャーナリズムで出せるだろうか?)。
ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12

 サッカーだと普通はそこまでならないし、風紀が紊乱して二日酔いになって練習場で嘔吐していた増保輝則のような選手もさすがにいない。しかし、腐ったミカンは存在する。

 ここから日本のラグビーが立ち直る……2015年W杯でジャパンが世界クラスの強豪・南アフリカを破った番狂わせ「ブライトンの奇跡」を起こすまで、実に20年かかった。

 杞憂で終わってほしいです。

日本は無理して勝たなくていいよ.そのためにハリルを更迭したんだから…
 いずれにせよ、日本代表が惨敗するだろうことを前提として話をするが、W杯本大会ではどんな弱小国でも1次リーグで3試合できる(少なくとも2022年カタール大会までは)。

 想像するに、ビジネス的観点からすると、それだけ試合ができれば、わざわざ日本代表が勝たなくとも、十分儲けられる。

 日本代表のスポンサー企業にとっては、日本が勝つことよりも、本田圭佑や香川真司といったスポンサー企業にとって重要な選手がW杯に出場することが大事。そのためにハリルを更迭したんだから。そして、日本が負け続けても、マスコミやスポンサーのCMではその3試合を徹底的に煽り倒すだろう。
JFA公式キリン杯広告香川真司_アディダスジャパン_日本航空
【本田圭佑とキリン(上),香川真司とアディダス】

 特に、最終戦となる3試合目は「本田圭佑 最後の戦い」みたいな言葉遣いで煽りまくるだろう。

「日本人ダメダメ論」と「自虐的日本サッカー観」は確実に出る
 日本が3戦全敗&惨敗すると、マスコミやサッカー論壇、ネットでは、「日本人はサッカーがダメダメ論」「自虐的日本サッカー観」で溢(あふ)れかえるだろう。今回は、適当なことを書いているが、これに関してはほとんど確実である。

 だって、この2つは日本が勝っても(1次リーグを突破しても)出るんだから。これまた日本人農耕民族説の固い信奉者である湯浅健二氏みたいに(下記リンク先を参照)。
日本代表はなぜ世界で勝てたのか? (アスキー新書 161)
湯浅 健二
アスキー・メディアワークス
2010-08-07

 少し時間が経つと、「〈日本人がサッカーで弱いのは科学的にも証明されている〉という疑似科学がマスコミに出てくるであろう。ちょうど、2014年ブラジルW杯の3か月後に、テレビ東京系「FOOT×BRAIN」が(疑似科学だと批判されている)中野信子を出演させてしまったように。
FOOT×BRAIN「目からウロコ!脳科学から見るサッカー上達法!」
2014年9月27日
中野信子_サッカー_フットブレイン3
中野信子_サッカー_フットブレイン2
中野信子_サッカー_フットブレイン1
 脳科学の第一人者・中野信子氏をスタジオに迎えて、今回は「日本人はサッカーに向いているのか?」を大きなテーマに、新たな視点からサッカーについて考えます。民族的に欧州、南米、アジアでは何か違うのか? 従来は肉体的な面での差が語られることの多かったこの手の比較に、番組は脳科学の分野からアプローチ。日本人の特性を脳科学の分野から考えると、今までとは全く違ったトレーニング方法がわかるかも…今回も必見です!!

 「民族」どころか「人種」という概念ですら科学的妥当性はないと言われる時代に、日本のサッカー論壇では「〈日本人〉とかいうホモサピエンスの亜種が自然科学的に存在する.この〈亜種〉はなかんずくサッカーの能力が決定的に劣っている」という言説が大手を振ってまかり通っている。
 ロシアW杯では、いい頃合いでツイッターから蒐集したもの、日本人農耕民族説とか日本人論を当ブログで公開、いささかの解説(ツッコミ)をつけて紹介する予定です。

本田派ライターの提灯記事と見苦しい引退パフォーマンス
 サッカー日本代表 が出場するW杯の試合のTV中継では、国際映像の間に、日本のTV局が撮影した独自映像をバンバン挟み込む。ロシアW杯でも本田圭佑や香川真司を執拗にフォーカスするだろう。
 そして、ロシアW杯で日本が惨敗し、いかにマスコミやネットで「日本人はサッカーがダメダメ論」と「自虐的日本サッカー観」で溢れかえろうと、特権的な立場にある本田圭佑だけは、前回2014年ブラジルW杯同様、テフロンで加工した鍋のごとく焦げ付くことはないだろう。

 スターシステムに乗った選手ばかり注目するマスコミ、あるいは本田派のライターたちは、何よりダメだった日本の中で「本田だけは孤軍奮闘」「本田だけは通用していた」みたいな与太話をいろいろ書くのではないか。
この試合、戦っていのは本田圭佑だけだった
【植田路生氏による2014年W杯の本田圭佑幇間(ほうかん)記事】

 2006年ドイツW杯1次リーグ最終戦終了後、中田英寿は引退後のビジネスのプロモーションを兼ねて、醜悪なパフォーマンスを行った。
英紙も酷評した中田英寿2006ドイツW杯での猿芝居
【英紙も酷評したドイツW杯における中田英寿のパフォーマンス】

 今回のロシアW杯を「集大成」と位置付けていると言われる本田圭佑も何か同様のことをやらかすかもしれない。

本田圭佑は再び「海外逃亡」する
 前回のブラジルW杯と同様、日本代表が惨敗したとして、大会後の本田圭佑は他のメンバーとは一緒に日本に帰国せず、記者会見・インタビューに応じることもなく、再び海外に「逃亡」するだろうと予想できる。
サンスポ20140626
スポニチ20140626
【ブラジルW杯のスポーツ紙1面から】

 本田圭佑は好き嫌いがハッキリ分かれる人物だが、この事件は、本田に反感を持つ人たちの感情が「嫌悪」から「憎悪」に変わった瞬間だった。この時に本田が何か真面目にメッセージを発していたら、私的な好き嫌いは別にして、それなりに評価され、反感も少なかったであろう。

 一方で「本田の行動を批判している人がいるが,次のシーズンに備えて,いち早く渡欧するのは当然」などと擁護した、いたいたいけな人がいた。

 甘やかすから、本田圭佑はますます増長する。本田の、こんなワガママ身勝手をJFAが抑えていたら、ハリルホジッチ氏日本代表解任事件もまた、なかったかもしれない。

本田圭佑と辻政信,あるいは「日本人」の失敗の本質
 大言壮語⇒しかし結果が伴わず日本は惨敗⇒責任者なのに日本に帰国せず海外逃亡⇒こっそり帰ってきて再び大言壮語……のサイクル。前回のブラジルW杯から今回のロシアW杯にかけて本田圭佑がとったこの行動は、旧日本軍の大本営陸軍参謀・辻政信に、よく似ている。
辻政信
【辻政信】

 ちなみに、サッカーやラグビーのW杯で日本代表が惨敗すると旧日本軍の『失敗の本質』に譬えるのは、1980年代からある日本のスポーツ評論の定番ネタである。

 例えば、村上龍氏のスポーツコラム(?)集『フィジカル・インテンシティ』なんかがそうである。

 これもまた旧日本軍の話⇒日本型組織論⇒日本文化論・日本人へと話が飛躍し、「日本人はサッカーがダメダメ論」と「自虐的日本サッカー観」へと展開する様子は、少々皮肉なことにいかにも日本的である。

(了)


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 小説家・星野智幸氏のエッセイから、サッカー日本代表がW杯で惨敗するたびに頻出する「日本人ダメダメ論」のパターンを解説します。
星野智幸ポートレート
【星野智幸氏】

文学・思想畑のスポーツ評論
 権威があった頃の昔のスポーツ新聞の記者は、虫明亜呂無(むしあけ・あろむ)の小癪なスポーツ評論など馬鹿にしていたらしい(参照:武田薫「長嶋ジャパンを援護せよ」)。

 しかし、時代が変わり関係は逆転した。文学界・思想界の住人が、時々思い出したかのようにドヤ顔でスポーツの領域に踏み入ってきては、勿体(もったい)づけの激しいスポーツ評論をまき散らす。スポーツ界やスポーツマスコミ、スポーツファンは、それを過剰なまでに有難がる……という風潮が、むしろ当然のようになっている。

 文芸誌『en-taxi〔エンタクシー〕』第42号(扶桑社,坪内祐三ほか責任編集)が2014年に掲載されたサッカー・ブラジルW杯の特集は、そんなドヤ顔企画のひとつだった。タイトルは「[特集]サッカーの詩学~〈ブラジル〉のあとに思うこと」

 どこかで聞いたことがあると思ったら、カルスタ系学者たちの手による『サッカーの詩学と政治学』という本があった。「○○の詩学」……とは、いかにもな命名である。


今福龍太と佐山一郎の悪ノリ
 ご多分にもれず『en-taxi』のブラジルW杯特集のコンテンツは、どれも酷い。
特集「サッカーの詩学」エンタクシー42号
【エンタクシー第42号「特集 サッカーの詩学」の扉】

 今福龍太氏は、例によって、過剰な思い入れ、閉鎖的な美意識、勿体ぶった修辞で、思わず鼻をつまみたくなる、自己陶酔のきつい、批評の形(なり)をした散文詩である(参照:今福龍太「フチボルの女神への帰依を誓おう」,題名からしてナルシズム臭がただよう)。

 佐山一郎氏は、例によって、サッカーにおける「日本人ダメダメ論」「自虐的日本サッカー観」の放埓な佐山ワールドを炸裂(さくれつ)させる(参照:佐山一郎「SANURAIとカナリア、その苦痛へのまなざし」,この「まなざし」自体が翻訳調のインテリ臭い言い回しである)。

 今回、なかんずく俎上(そじょう)に載せるのは小説家・星野智幸氏の「ガーラの祭典」である。

「ガーラの祭典」と招かざる客ニッポン
 ところで「ガーラ」とは何か? 「garra」、スペイン語である。もともとは「爪」を意味する単語だが、スペイン語圏、南米ウルグアイ発祥の「勇敢さと不屈の精神力」を意味する概念として伝えられる。

 日本のサッカーファンには、「ゲルマン魂」と呼ばれたドイツ代表(かつての西ドイツ代表)の驚異的な勝負強さや精神力になぞらえて、「ウルグアイ版ゲルマン魂」として紹介されたことがある。
 星野智幸氏は言う。ブラジル大会を見れば見るほど、W杯が「ガーラの祭典」であることを感じる。ウルグアイのみならず、ブラジル、アルゼンチン、チリ、コロンビア、コスタリカ、メキシコと、名勝負を見せてくれたチームには、皆この「ガーラ」が輝いていた。

 中南米だけでなく、アメリカ合衆国やアフリカのアルジェリア(余談だが,このチームの監督がハリルホジッチ氏だった)なども、私(星野智幸)は「ガーラ」を見た。

 「ガーラ」こそ、サッカーの神髄である。しかし……。

 ……ひるがえって日本代表を思い返すと、最も欠けていたのが「ガーラ」だった。そもそも「ガーラ」を日本語にするのは難しい。ガッツ、気合い、根性、気迫、闘魂等々。どれも、しっくりこない。以下、原文から引用すると……。
 日本でいう根性、気合いといった言葉の裏には、精神主義が張りついている。それは、上からの指示への絶対服従(己を殺せ)と、失敗したときの自己責任論(おまえの根性が足りなかったせいだ)が、もたれ合いながら作られた、体育会系的な価値観だ。

 ガーラは、まず何よりも個人の意志から始まる。集団の力が発揮されるのはその後だ。ガーラを待った者たちが集まり、意志の交換を通じて信頼を築き上げたとき、有機的なチームとなる。勝とうという集団的な熱狂だけで、自分の主体が覚醒していない状態であるならば、どうして状況の変化に個々人が機敏に対応できるだろうか。

 私〔星野〕は日本の初戦、対コートジボワール戦を、現地のスタジアムで観戦した。選手たちに気合いは入っていただろう。でもガーラは発動していない選手が多かった。ガーラを見せていたのは、本田〔圭佑〕と内田〔篤人〕だった。〔中略〕

 日本のサッカー文化の中には、まだガーラが育っていないのだ。それを選手にだけ求めるのは酷というものだ。

 「ガーラ」はサッカーの神髄である。しかし、日本のサッカー、日本のスポーツ、否、体育会的な価値観=精神主義は「ガーラ」とは似て非なるものである。日本のサッカー文化の中には、まだガーラが育っていない。つまり、日本人は「ガーラ」を、すなわちサッカーを理解することができない……。

 また「ガーラ」とは「何よりも個人の意志から始まるもの」である。ひるがえって日本人は「精神主義」と「集団的な熱狂だけで、自分の主体が覚醒していない状態」でしかない。日本のサッカー文化の中には、まだガーラが育っていない。つまり、日本人は「ガーラ」を、すなわちサッカーを理解することができない……。

日本サッカー論壇における「構造主義」
 ……こういう話の持っていき方に既視感(デジャヴ)を覚えたのだとしたら、その読者の感覚はまったく正しい。星野氏は、独自性ある見解を示したのではなく、日本のサッカー論壇の「お作法」に従ってこのエッセイを書いたにすぎないからだ。

 日本のサッカー論壇には「日本的であること,日本人であること」はサッカーというスポーツにとって非常に不適格なことである、という考えが根深くある。反面、サッカー的であるということは、それ自体「日本的ではない」のである。

 日本サッカー界は「日本的=非サッカー的/非日本的=サッカー的」という本質主義と二元論の思想に拘束されている。これは大変な劣等感であり、日本人の自虐的な日本サッカー観の基になっている。つまるところ、サッカーにおける「日本人ダメダメ論」と「自虐的日本サッカー観」である。

 日本のサッカー論壇は、1970~80年代の日本サッカー低迷時代から、この図式にのっとって日本サッカーを自虐的に、かつ飽くことなく論じてきた。そうすることで論者は、サッカーへの理解と批評精神の表明をしたとされてきたのである。

 「ガーラ」なる概念を持ってきた星野氏の「まなざし」は、一読するとユニークに思える。が、その実「日本的=非サッカー的/非日本的=サッカー的」なるものの表象を「ガーラならざるもの/ガーラ」として論じてみせただけである。

 また、もうひとつ星野氏が使った「日本的=集団(的な熱狂)=非サッカー的/非日本的=個人(の意志)=サッカー的」の対比の図式は、日本のサッカー論壇が長年にわたり頻々と多用してきた表象である。

 要するに、星野氏は、サッカー論壇の常套句を、少しばかり目先を変えて書いてみせただけにすぎない。あまりにもベタな展開に、読んでいる方がウンザリさせられる。

反動形成として本田or中田を称揚
 加えるに「日本的であること,日本人であること」への度し難い劣等感の反動形成(?)として、「日本人離れ」している(とされる)日本人サッカー選手への度し難い称揚がある。星野智幸氏の場合は本田圭佑であった(もう1人いるが省略)。

 同様の前例として、村上龍氏や島田雅彦氏と中田英寿の関係がある。
中田英寿(左)と本田圭佑
【中田英寿(左)と本田圭佑】

 村上氏は『フィジカル・インテンシティ』ほか、島田氏は『中田語録』(ただし単行本のみ)に書いた序文「ゴールの向こうに」ほか(参照:島田雅彦vs玉木正之 ドイツW杯特別対談「選手を自由にさせたら高校生になっちゃった」)で、中田英寿をひたすら称揚していた。

中田語録
文藝春秋
1998-05

 こうした太鼓持ちは、サッカー選手への評価として正しくないばかりか、日本サッカーをさまざまな形で歪ませる。それが2006年ドイツW杯や2014年ブラジルW杯での日本代表の惨敗や、2018年のハリルホジッチ氏日本代表監督解任事件の遠因でもある。

サッカー言説の凡庸さについてお話させていただきました
 文学者や思想家といえば、高尚で個性的な視点で、私たちのサッカー観に新鮮な刺激を与えてくれると思いがちだが、大間違いである。陳腐な二元論の思想のテンプレートをなぞり、目先の表象や過剰な思い入れの対象を変えて読者に提供するだけなのである。

 文学者ほどサッカーを語れない。呆れるばかりの凡庸さである。

(了)


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