スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:日本書紀

 神武紀元2679年(笑)2月11日「建国記念日」に寄せて……。

大化の改新のきっかけはサッカー? ホッケー?
 日本上代史に名高い「大化の改新」のクーデター「乙巳(いっし)の変」(645年)の主役、中大兄皇子と中臣鎌足の2人は、蹴鞠(けまり)の会で邂逅(かいこう)したと、巷間、信じられている。

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【神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより『中大兄皇子と中臣鎌足』作:小泉勝彌】

 ところが、その経緯を記した『日本書紀』皇極天皇紀にはハッキリ「蹴鞠」とは書かれていない。そこにあるのは「打毱」という謎の文字列である。この「打毱」をめぐっては、学者によって解釈が分かれてきた。

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【打毱】

 つまり、この古代日本の球技は、足でボールを蹴るサッカーに近い「蹴鞠」であるという説。一方、そうではなくて、スティック状の杖でボールを叩くホッケー風の球技(打毬=だきゅう=とも,毬杖=ぎっちょう=とも表記される)ではなかったかという説。ただし、両説ともに決定打を欠き、真相は現在も確定していない。

 ところが、スポーツライターの玉木正之氏は、具体的な証拠が乏しいにもかかわらず、一面的にホッケー説の方が正しいと、強硬に主張してきた。

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【玉木正之氏】

 なぜなら、玉木氏は、このことが日本のスポーツの在り方を規定しているのだと唱えているからである。なぜなら、玉木正之氏は「日本人はサッカーが苦手な民族である」という強い思想の持ち主だからである。

 日本では歴史的にサッカーより野球の方が人気があったこと、サッカー日本代表が国際舞台で「弱い」こと……等々、すべて、大化の改新のキッカケが蹴鞠ではなくホッケー風競技であった「史実」に拘束されている(!?)からなのだという。

「大化の改新のキッカケは蹴鞠ではなかった説」の間違い
 玉木正之氏は知名度の高いスポーツライターであり、スポーツ界への影響力も強い。つまり「大化の改新のキッカケは蹴鞠ではなかった説」も、玉木氏の「啓蒙」によって「天下の公論」になってしまうかもしれない。

 すると、それに付随している「日本人は日本人はサッカーが苦手な民族である」というイメージも、人々の間に常識化してしまいかねない。日本のサッカーにとっては、まったく迷惑な話である。

 一方で、玉木氏は、自分にとって都合の良い結論のために事実(史実)を歪曲する癖が強いと、これまでにも批判されてきた(ラグビー史研究家・秋山陽一氏による)。実際、よくよく吟味してみると「大化の改新のキッカケは蹴鞠ではなかった説」も同様、間違いだらけで、玉木史観のためのご都合主義の産物でしかない。

 当ブログ「スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う」本来の目的は、その玉木正之史観のデタラメさを告発し、かつ徹底的に批判することである。その成果は「大化の改新と蹴鞠(40)~玉木正之説の総括,批判,あるいは超克」(2017年10月26日)として、まとめた(下記リンク先参照)。
大化の改新と蹴鞠(40)~玉木正之説の総括,批判,あるいは超克(2017年10月26日)


 玉木正之説が妥当なものならば、私たちはこれを受け入れるしかない。しかし、玉木氏の持説は、徹頭徹尾、間違っているのである。そして、これは日本のサッカーにとって明らかに不利益なものだ。日本のサッカー関係者は、玉木正之氏のデタラメを徹底的に批判して、これを超克しなければならない。

描かれた「中大兄と鎌足の出会い」の謎
 このブログを展開するに際して、大化の改新における中大兄皇子と中臣鎌足の出会いを描いた絵画を探したが、意外に古いものが見つからなかった。当ブログが見つけたもので最も古いものは、天理図書館蔵『南都法興寺蹴鞠図』嘉永6年(1853)。この年の起きた出来事は「黒船来航」、すでに江戸時代末期「幕末」である(下記リンク先参照)。
「大化の改新と蹴鞠」問題(02)~描かれた「蹴鞠の出会い」その1(2016年10月09日)

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【天理図書館蔵『南都法興寺蹴鞠図』嘉永6年(1853)】
 このことから、ひょっとしたら、大化の改新、特に「中大兄と鎌足の出会い」のエピソードは、それまであまり注目を浴びていなかった。それが、幕末の国学や明治の皇国史観の時代に、つまり近代になって、勤皇愛国を称揚・奨励するために強調され、視覚化(絵画化)され、人々に刷り込まれたのではないか……という仮説を思いついた。

 伝統だと思われていたものが、意外にも近代の産物だったというのもよくあることだ。だから、我と思わん人文系・社会学系のスポーツ学専攻、あるいはカルスタ(?)専攻の学生・院生は、このテーマで研究して、論文を書いてみませんか? ……と煽ったこともある(下記リンク先参照)。


 当エントリー前掲の神宮徴古館所蔵『中大兄皇子と中臣鎌足』(筆:小泉勝彌)などは、その視覚化のツールだったのかもしれない……などと考えたりもする。

幕末~明治に「再発見」された大化の改新???
 以上のような仮説を漠然と考えていたところ、それを「裏付ける」……かのような記述をインターネットで見つけた。

 Wikipedia日本語版の「大化の改新」の項目である。
この大化の改新が歴史家によって評価の対象にされたのは、幕末の紀州藩重臣であった伊達千広〔だて・ちひろ,国学者〕(陸奥宗光の実父)が『大勢三転考』を著して、初めて歴史的価値を見出し、それが明治期に広まったとされている。[3]

[3]『歴史とは何か: 世界を俯瞰する力』著者: 山内昌之

Wikipedia日本語版「大化の改新」より(2019年2月11日閲覧)
 もっとも、この記述に飛びついて、仮説が「証明」されたとしてはいけない。

 Wikipediaは間違いの多い「百科事典」であり、出典になっている山内昌之氏(やまうち・まさゆき.歴史学者,中東・イスラーム地域研究,国際関係史)の著作『歴史とは何か~世界を俯瞰する力』に、何が書いてあるか確認しないといけない。

歴史とは何か (PHP文庫)
山内 昌之
PHP研究所
2014-10-03


 それを怠ると、「慶應義塾大学ではサッカー部のことを〈ア式蹴球部〉と呼んでいる」などという、トンデモない間違いを「フォーラム8」というIT企業の機関紙やWEBサイトに書いている玉木正之氏と同じになってしまう(下記リンク先参照)。


 そこで、山内昌之氏の『歴史とは何か~世界を俯瞰する力』を取り寄せて、ざっと目を通すことにした。

Wikipediaの記述の信憑性
 結論を先に言うと、山内昌之氏は前掲のWikipediaのようなことをハッキリと書いているわけではない。

 山内氏が自著で紹介する伊達千広の『大勢三転考』とは、古来(神代の昔以来?)、日本史において、日本という国の在り方(大勢)が3度大転換(三転)したという話である。その2番目が「聖徳太子による冠位十二階の制度や十七条の憲法から大化の改新にかけて」(171頁)だとあるが、今ひとつ印象に弱い。

 それとも……。
古代の氏姓制度,律令による官人(官僚)支配〔大化の改新?〕,次いで武家支配という三区分は,現在の基準では常識すぎるかもしれません.しかし,近代歴史学の成立以前に,千広が大胆に時代を三区分したことは,岡崎久彦氏〔元外交官,評論家〕が語るように,日本史学史上,画期的な意義をもつのです(『陸奥宗光』上)。この評価は筑摩書房版の注解にも共通します。

山内昌之『歴史とは何か~世界を俯瞰する力』170~171頁
 ……この部分のことだろうか?

 いずれにせよ、Wikipediaの記述とは、やはりニュアンスが違う。

 この辺は、Wikipediaの飛躍した拡大解釈ではないかと思う。とにかく、国学者・伊達千広が大化の改新の価値を「再発見」「再評価」し、明治になってこれを啓蒙したとか、山内昌之氏が自著でそのことを紹介したとかいうのは、違うのではないかと思う。

玉木正之氏のスポーツ史観には疑いがある
 残念なことだが、何事も確認である。

 大化の改新、なかんずく中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場面(蹴鞠?)が有名になったのは、皇国史観の幕末~明治以降……という裏付けは取れなかった。したがって、当ブログの仮説は保留である。

 しかし、歴史観は時代によって変わってくる。「江戸時代以前」「明治・大正・昭和戦前」「戦後」では、歴史上の事件や人物の評価が違っている。

 例えば、織田信長。明治・大正・昭和戦前の「皇国史観」の時代において、信長は、戦国の風雲児、革新的な天下人という「戦後」のイメージとは違い、戦乱で荒廃した京都御所を再建し、天皇の権威を大いに盛り上げた勤皇の人という評価で語られていた。

国史絵画『織田信長の勤皇』作:岩田正巳
【神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより『織田信長の勤皇』作:岩田正巳】

 大化の改新、あるいはその主役、中大兄皇子と中臣鎌足は「皇国史観」を大いに刺激する歴史的な事件・人物である。だから、その話は「皇国史観」によって「再発見」されたのではないかという仮説の真相については、今後の研究の成果を待ちたい。

 どうして、こんな事に拘泥しているのか。

 仮に、かつて「大化の改新」という歴史的事件が、江戸時代以前はそれほど評価されていなかったとすると、その「大化の改新」をもって、後々まで(21世紀の現代まで)の日本のスポーツの在り方を拘束している……という玉木正之氏は、かなり間抜けな議論をしていることになるからである。

 こういう話をしたかったが、ちゃんと山内昌之氏の著作で調べたら、いささか無理筋になってしまった。

 もっとも、玉木正之氏は、先に紹介した「慶応大学のサッカー部の名称の話」のように、そのちょっと調べて確認する……ということすらしない人なのだが。

(了)



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日本サッカーにとって何かと因縁のある10月26日に寄せて……。



そもそも「大化の改新と蹴鞠」問題とは何か?
 サッカー日本代表は、2018年に開かれるFIFAワールドカップ・ロシア本大会への出場を決めた。しかし世界の壁は厚い。日本代表はこれまでW杯で何度となく世界と戦い、しかし、勝てなかった。日本と世界との差は、果てしなく遠い。

 ああ、なぜ日本のサッカーは世界で勝てないのだろうか? 否、そもそも、なぜ日本は「サッカーの国」ではないのだろうか? なぜ日本ではサッカーより野球の人気があるのだろうか? 古来、日本には「蹴鞠」(けまり)の伝統があるというのに。はるか昔の飛鳥時代、「大化の改新」(645年)を主導した2人、中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったのは蹴鞠の会だというではないか?

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【小泉勝爾『中大兄皇子と中臣鎌足』神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより】

 しかし、実は、この逸話の記述がある『日本書紀』(720年成立)皇極天皇紀にはハッキリと「蹴鞠」とは書いていないのである。皇極紀に記載があるのは「打毱」という、謎の文字列だ。

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 この古代球技については、従来通り「蹴鞠」であるという説と、後代に打毬(だきゅう)とも毬杖(ぎっちょう)とも呼ばれたスティック(杖または棒)を用いたホッケー風の球技であるという説、2つの説がある。

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【打毱(正倉院宝物)小学館版『日本書紀』より】

 現在、出回っている主な『日本書紀』のテキストでは、どうなっているか? 岩波文庫版(歴史学者・坂本太郎校注)では「打毱〔まりく〕ゆる」と訓読して蹴鞠だとし、小学館版(国文学者・西宮一民校注)では「打毱」を「ちょうきゅう」と音読みしホッケー風球技だとしている。学術の世界でも解釈が分かれている。

日本書紀〈4〉 (岩波文庫)
坂本 太郎
岩波書店
1995-02-16



 いずれにせよ、この問題については、どちらが正しいのかハッキリと断定できる証拠がない。

玉木正之氏はなぜ蹴鞠説を否定するのか?
 こうした中にあって、有名なスポーツライター……にして、立教や筑波などいくつもの大学・大学院で「スポーツ学」を講じている「学者」でもある玉木正之氏は、一貫して蹴鞠説を否定し、ホッケー風球技説を全面的に正しいものと繰り返し主張してきた。

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【玉木正之氏】

 なぜなら、玉木正之氏は「日本人はサッカーが苦手な民族である」という強い思想の持ち主だからである。そのためには、大化の改新のきっかけが「蹴鞠」であっては困る。あくまでスティックを使ったホッケー風の球技でなければならない。

 そのロジックは以下のようなものである。

 玉木氏は「2チーム対戦型で、両チームが向かい合い、ピッチに両軍選手入り混じって、ボールを奪い合い、これをつないで、ゴールを狙う球技」のことをサッカー(またはフットボール)の人類史的なルーツと考えている。チーム(団体または集団)で行うのが重要なのであって、ボールに触れるのは、足でも、手でも、スティックでもかまわない。

 一方、現代の日本に伝わっている「蹴鞠」は足先を使い少人数でボールを蹴り上げ続けるが、しかし、個人プレー中心の球技である。日本人にとって蹴鞠はサッカーのルーツには当たらない。

 ホッケー風のスティックを使った団体球技は、やがて歴史の中で日本では廃れ、一方の蹴鞠は日本の伝統として近現代まで伝わった。日本人にとってボールスポーツ(球技)とは個人プレーに面白さを見出すものだからである。

 日本人はチームで行うスポーツよりも、個人プレー中心のスポーツを愛する。だから日本人はチームとしての動きが重要なサッカー(フットボール)よりも、投手や打者の個人としてのプレーが重要視される野球が好きなのである。だから日本はサッカーの国ではなく、野球の国になったのである。

 このことは現代日本のサッカー事情にも影響を与えている。蹴鞠と同じく、ボールリフティングの妙技をひとりで演じる競技「フリースタイルフットボール」では、日本人の世界チャンピオンが生まれている徳田耕太郎選手:Red Bull Street Style World Finals 2012 Italy 優勝)。



 しかし、チーム(団体または集団)でプレーする11人制のサッカーでは、日本代表(男子)は世界の一流国と伍(ご)して戦うことができない。また、国際サッカー連盟(FIFA)のランキングでは、日本は世界40位台をうろうろしている。

玉木正之説における知の欺瞞(ぎまん)
 何ともトリッキーな話だが、しかし、この玉木正之氏はデタラメなのである。

 そもそも学界でも確たる定説がないこの問題で、どうして玉木氏は蹴鞠ではなくホッケー風球技であると一方的に断言できるのだろうか? まさか、玉木氏自身が日本の古代史や古代スポーツを研究したはずはない。つまり、誰かの研究や所説に従っているはずである。その根拠はいったい何なのだろうか? 当ブログ(の中の人間)は、この件について玉木氏に質問のメールを出したことがある。

 返事は来た。ところが、この時の回答は呆れるばかりの酷いものだった。以下のリンクは、玉木氏と当ブログ(の中の人間)との意見のやり取りである。
 玉木正之氏との議論の問題点をまとめると……。

[1]
 そもそも玉木正之氏は、誰のどんな研究・所説や著作をもとに「大化の改新のきっかけは蹴鞠ではなくホッケー風球技だった説」を支持するようになったのかをまったく覚えておらず(!)、当ブログの質問の趣旨にまったく答えられていない。参考にしたはずの資料も破棄してしまった(!)らしい。

[2]
 なんと玉木氏は、蹴鞠説を採用した岩波文庫版でも、ホッケー風球技説を採用した小学館版でも、『日本書紀』皇極天皇紀の該当部分(中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場面)をまともに読んだことがなかった(!)ようである。玉木氏は議論するにあたって、最小限押さえておくべきところを押さえていない。

[3]
 さらに驚くべきことに玉木氏は、橋本治氏の作品『双調平家物語〈2〉飛鳥の巻(承前)』を示して、この小説の描写の方が(歴史書である『日本書紀』よりも)史実に近い(!)と主張した。



[4]

 玉木氏は、それでも自分が絶対的に正しいと持論持説を繰り返した。

 加えるに、橋本治氏の『双調平家物語』について。この作品は、歴史そのものではなく、あくまで歴史を題材にした想像力豊かな物語を味わうフィクションであること。中大兄と鎌足の出会いの設定・描写も『日本書紀』とはまったく違うこと。

 また橋本氏は、この作品の参考文献に歴史学者・遠山美都男氏の『大化の改新~六四五年六月の宮廷革命』をあげているが、遠山氏の著作では、特に蹴鞠説を否定しているわけではないこと。等々の理由で、玉木氏が持説の補強に使うには、はなはだ相応しくない。



 ……これだけ知的誠実さを欠いた玉木氏の言い分は、説得力があるとはとても言えない。アカデミズムとしてもジャーナリズムとしても論外だろう。議論の体をなしていない。

 つまり、この玉木正之説はデタラメなのである。

フリースタイルとFIFAランキング
 推察するに、大化の改新のきっかけ、中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場となった古代日本の球技は通説通り蹴鞠ではなく、実はホッケー風の球技だったのではないか……という説を、玉木氏はどこかで読みかじったのだろう。

 この説は「日本人はサッカーが苦手な民族である」という思想の持ち主である玉木正之氏にとって都合のいい話であった。だから、根拠となる事実(史実)や論証、誰の研究・著作かなど、まったくお構いなしに飛びついた(フィクションである橋本治氏の小説『双調平家物語』も,歴史的に正しい描写だと信じ込む)。そして、ホッケー風競技説を吹聴・喧伝し、玉木氏独自のスポーツ史観を次々と展開していった。

 曰く。だから、日本ではサッカーより野球の人気が高いのである。曰く。だから、蹴鞠の伝統を受け継ぐフリースタイルフットボールでは日本人の世界チャンピオン(徳田耕太郎選手)が出た。曰く。しかし、11人制サッカーの日本代表(男子)は世界に勝てない。FIFAランキングでは40位台をうろうろしている。

 しかし、日本に伝わる伝統的な蹴鞠と現代のフリースタイルフットボールとは似て非なるものである。烏帽子に鞠水干(まりすいかん)といった衣装で、右足でしか鞠を蹴られない、厳密に様式化された「蹴鞠」と、左右両足でのキックにヘッディング、バク転や逆立ちといった「フリースタイルフットボール」とでは、身体の動きや技術、演技は大きく異なるのである。

 そもそも、フリースタイルフットボールの「世界チャンピオン」である日本人・徳田耕太郎選手は、もともと11人制サッカーの選手であった。頭部のケガで11人制を続けることを断念したのであり、玉木氏正之が言うように、日本人はチームプレーを苦手とするから個人でプレーするフリースタイルの選手になったではない。この点もつじつまが合わない。

 サッカー日本代表(男子)は、世界の一流国と伍して戦うことができない。その実力はFIFAランキング(世界ランキング)40位台に過ぎない……という玉木正之氏の言い分も、ためにする議論の難癖である。

 だいたい、世界の一流国と伍して戦える国のことを一流国と呼ぶのである。世界中のほとんどのサッカー国は「世界の一流国と伍して戦え」ない、二流、三流、四流……の国である。

 2017年9月時点での日本のFIFAランキングはちょうど40位だ。世界40位台の国々を見ていくと、41位ルーマニア、43位スコットランド、44位ナイジェリア、45位カメルーン、46位ボリビア、47位ギリシャ、50位オーストラリア……。代表チームの実績としては、みな、ひとかどのサッカー国である。

 そして、Jリーグ以前(~1993年)のサッカー日本代表をあえて世界ランキングに換算すると、どうひいき目に見てもFIFA加盟200有余国の中で100位以上にはならない。それどころか120位以下かもしれない(参照:「1989年のサッカー日本代表~当時の世界ランキングを類推する?」)。むしろ、日本のサッカーは、そんな状態から世界40位台までに這い上がってきたのだ……という見方ができる。

 野球やラグビーなどと違うのは、サッカーは全世界的・全地球的な広がりと人気を持ったスポーツだということである。世界のサッカーはブラジルやドイツといった「一流国」や準一流国だけで成り立っているのではない。FIFAランキング30位台、40位台、50位台の国々がサッカーの世界性とその豊かさを支えている。そして日本のサッカーもまた、サッカーの世界性の一端を担っている。

 玉木正之氏が言うほど、日本サッカーって駄目なものだろうか?

そもそも「1対1の勝負説」とは何か?
 元来、日本人はサッカーが苦手な民族である。

 日本人はチームで行うスポーツよりも、個人プレー中心のスポーツを愛する。だから日本人はチームとしての動きが重要なサッカー(フットボール)よりも、投手や打者の個人としてのプレーが重要視される野球が好きなのである。だから日本はサッカーの国ではなく、野球の国になったのである。

 こうした玉木正之スポーツ史観を支える二本柱のもう一方が「1対1の勝負説」である。

 そのロジックは以下のようなものである。

 どうして日本人は、サッカーではなく野球に熱狂したのだろうか。この問いについて、最も面白く、かつ的確な指摘をしてくれたのは中沢新一氏(宗教学者・人類学者)の説である。

 それは「日本では、市民戦争が早く終結したから」というものだ。

 日本では、1600年の関ヶ原の戦いで、軍人以外の一般庶民が武器をとって戦う内戦(市民戦争,civil war)の時代が終結した。それは、日本に鉄砲が伝来(1542~43年?)して約半世紀後のことであり、その鉄砲が武器として用いられた長篠の戦い(1575年)からわずか25年後のことだった。

 鉄砲が戦争の主力武器となると、それまでの槍や刀を用いた戦争とは戦い方がまったく異なってくる。ひとりひとりの人間が白兵戦で切り合う個人戦から、団体戦(集団戦法,あるいはチームプレー)にだ。ところが、日本の一般庶民は、団体戦の歴史をほとんど経験しないまま、団体戦という新しい戦争の思想が成熟しないまま、江戸時代250有余年の平和な世の中に入った。日本は世界史的に見てきわめて特異な国である。

 そのため日本人は、戦いといえば源平合戦以来の「やあやあ我こそは……」と大音声を張りあげて闘う一騎打ちの意識が抜けきらなかった。そして、戦国時代の川中島の戦いにおける武田信玄と上杉謙信の一騎打ちや、江戸時代初期の巌流島の決闘における宮本武蔵と佐々木小次郎の戦い(個人戦=1対1の戦い)などを英雄譚として語り継いできた。

 そんなところへ、日本は文明開化の明治時代(1968年~)を迎え、さまざまなスポーツが一気に海外から伝えられた。

 「1対1の戦い」に美学を見出してきた日本人にとっては、サッカーやラグビーのように、役割の異なるプレーヤーが、別々の動きをするなかで、ひとつのチームとして機能するようなチームプレー(団体戦)のスポーツよりも、野球のように、チームのなかからひとりひとりの代表者(投手と打者)が「やあやあ我こそは……」と登場して戦う個人戦(1対1の戦い)のスポーツの方が理解しやすかったに違いない。

 だから、日本人はサッカーよりも熱狂したのである。日本人が野球を好み、サッカーが苦手なのは、歴史的・文化的・伝統的必然なのである。

 このことは現代日本のサッカー事情にも影響を与えている。個人でボールリフティングの妙技を演じる競技「フリースタイルフットボール」では、日本人の世界チャンピオンが生まれている(徳田耕太郎選手)。

 しかし、チーム(団体または集団)でプレーする11人制のサッカーでは、日本代表(男子)は世界の一流国と伍して戦うことができない。国際サッカー連盟(FIFA)のランキングでは、日本は世界40位台をうろうろしている。

 日本人はサッカーが苦手な民族なのである。

独断と歪曲の玉木正之説を撃つ
 何とももっともらしい話だが、しかし、この「1対1の勝負説」(命名は牛木素吉郎氏)はデタラメなのである。

 その理由を列挙すると……。

[一]
 明治時代初期、日本に伝来したばかりの頃の野球のルールは、現在のそれと大きく異なっていた。打者は「高め」(ハイボール)、「低め」(ローボール)、あるいはその両方(フェアボール)と、自分の打ちやすいストライクゾーンを指定して投手に球を投げさせることができた(下のイラスト参照)。
「ベースボールマガジン」1980年3月号
【『ベースボールマガジン』1980年3月号より】

 また、投手に関するルールは、かなり厳しいものがあり、たとえば投げ方は下手投げに限定されているなど、投手の技量・力量で打者を打ち取る余地はほとんどなかった。さらに、現在の野球のようにボール4つ=四球(フォアボール)ではなく、ボール9つ=九球で打者は一塁に進塁することになっていた。

 どういうことか? 投手は、打者が打ちやすいボールをひたすら投げ続けなければならない……それが当時の野球というゲームの本質であったからだ。当時のこうしたルールでは、野球における投手と打者のプレーを「1対1の対決」とは見なし難いのである。

 日本で野球が本格的に普及し始めた明治10~20年(1877~87)ごろの著名な野球人に、文学者の正岡子規(1867~1902)がいる。彼はそういう旧式のルールのもとで野球を始めたのである。

野球人・正岡子規
【野球のユニフォームを着た正岡子規】

 19世紀の旧式ルールで子規が野球をプレーするシーンは、NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」(2009~11年放送)で表現されている。

NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲 第1部 DVD BOX
本木雅弘
ポニーキャニオン
2010-03-15


 玉木氏は、正岡子規が野球について詠んだ短歌・俳句を紹介しては、ひたすらそれを称揚する。しかし、NHKの「坂の上の雲」を含めて、正岡子規がどんなルールで野球をやっていたかについては黙して語らない。それに言及することは「1対1の勝負説」の展開にとって都合が悪いからではないかと、当ブログ(の中の人間)は邪推している。

[二]
 玉木正之氏の「1対1の勝負説」は典型的な例で、なぜ日本ではサッカーより野球の人気が出たのか……という議論にありがちなのだが、野球とサッカー(フットボール)の外見的な特徴の違いを取り上げたものが多い。

 フットボール系の球技に対し、投手が投げた球を打者がバットで打つ、野球と同族の球技(「バット‐アンド‐ボール・ゲーム」と言う)に「クリケット」がある。

クリケット
【クリケット】

 クリケットも、野球と同じく明治時代初期に日本に伝来し、一定期間日本でプレーされていた。そして、投手対打者による1対1の対決というゲームの性格は、19世紀の旧式ルールの野球よりもクリケットの方がより顕著である。

 「1対1の勝負説」では、野球とクリケットとの比較を欠いている。つまり、なぜサッカーではなく野球なのかという説明はあっても、なぜクリケットではなく野球なのかという説得力ある説明を玉木正之氏はしていない。

[三]
 あるスポーツ種目が紹介され、定着し、普及し、拡散するということは、実はかなり手間のかかることである。一過性の紹介で定着・普及・拡散するということはまずない。具体的には、そのスポーツを行うための道具、土地、ルールや技術・戦術などの情報をそろえた上で、普及指導に熱心な個人または組織がなければならない。

 この仮説を立てたのは、学者で、日本ではいちど途絶えたクリケットの再普及を実践した山田誠氏(元神戸市外国語大学外国語学部教授,日本クリケット協会会長)である。
 実践経験者であるがゆえ、玉木正之氏らのように観念的な議論とは違った説得力がある。

 なぜ、日本ではサッカーより野球の人気があるのか(あったのか)を、「なぜ」の視点から考えてみると、玉木正之氏の「1対1の勝負説」のように、その国の歴史・文化・伝統……みたいな話、すなわち文化論・日本人論ばかりになってしまう。しかし、山田誠説をもとに野球やサッカーが「いかに」普及の道をたどったか……という視点でを考えると、別の答えが見えてくる。

 通説では、ベースボールやフットボールも明治初年に日本に伝来したことになっている。ただしこれは、日本に赴任したお雇い外国人が片手間にやって見せて、現地の日本人にやらせてみせた一過性の紹介に過ぎなかった。

 山田誠説にのっとった形で、野球とサッカーが「いかに」伝来・紹介されたのかを見ていく。すると、本格的な普及が始まった年が、サッカーより野球の方が20年近く古いことが分かる。

 片や、野球は1878年(明治11)、平岡煕(ひらおか・ひろし)主宰の新橋アスレチック倶楽部から始まった。こなた、サッカーは1896年(明治29)の東京高等師範学校(現在の筑波大学)のフートボール部(蹴球部)が設立されて以降に普及が図られた。

 これならば両者に普及や人気に差がついて当然。日本でサッカーより野球の人気が先んじたのは、単なる歴史の偶然である。例えば、史実ではアメリカに留学して日本に野球を持ち帰った平岡煕が英国に留学していたら、フットボール(サッカー)を日本に持ち帰っていたかもしれないのだ。

 加えるに、玉木正之氏の「1対1の勝負説」は、「大化の改新のきっかけは蹴鞠ではなくホッケー風球技だった説」と違って出どころがハッキリしている。講談社の月刊誌『現代』1988年10月号に掲載された、玉木氏、ロバート・ホワイティング氏、中沢新一氏3人による座談会「SMかオカルトか侃侃諤諤〈ベースボール人類学〉」である。

「現代」(講談社)1988年10月号2
【『現代』1988年10月号より】

 中沢氏は、学者としては毀誉褒貶の激しい人であり、堅実な実証というよりは1980年代の「ファッショナブルな知」の担い手として知られる人である。中沢氏の「1対1の勝負説」のヒントになった発言を読み返してみても、厳密な学問的裏付けがない。

 玉木正之氏もまた、事実や実証を軽んじる人である。玉木氏は、中沢発言の学問的正しさよりも、その「面白さ」に惹かれ、「日本人はサッカーが苦手な民族である」という彼の歴史観に適合したからこそ、これを採用し、吹聴・喧伝したにすぎない。

 ……つまり、この「1対1の勝負説」はデタラメなのである。

玉木正之的スポーツ史観の超克
 玉木正之氏は、いくつかの大学・大学院でスポーツ学を講じる「学者」でもある。しかし、当のアカデミズムからは全く相手にされていないらしい。

 しかし、玉木氏は知名度の高いスポーツライターであり、スポーツ界への影響力も強い。彼が問題提起したことで顕在化・常識化したスポーツ界の話題も多い。「野球」と「ベースボール」という表記を使い分けて、同じ球技にもかかわらず違ったニュアンスを出すことを日本語に定着させたり。10月の祝日「体育の日」を「スポーツの日」に改称させようと、政治的に働きかけたり……。

 玉木正之氏は「大化の改新のきっかけは蹴鞠ではなかった説」や「1対1の勝負説」という持説を吹聴して、日本人はサッカーが苦手な民族であるという思想を啓蒙しようとしている。だからJリーグはプロ野球の人気に勝てない、だからサッカー日本代表はワールドカップで勝てない……という印象を、人々に刷り込もうとしているのだ。

 つまり、このまま玉木氏の持論が「天下の公論」になってしまうかもしれないのである。

 その内容が妥当なものならば、受け入れるしかない。ところが、これまで論じてきた通り、玉木正之説は徹底的に間違っているのである。これは日本のサッカーにとって明らかに不利益なものだ。日本のサッカー関係者は、玉木正之氏のデタラメ説を徹底的に批判して、これを超克しなければならない。

(了)




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玉木正之氏の起用は企業の信頼性を損ねる?
 スポーツライター玉木正之氏のスポーツコラムやスポーツ評論を読んでいると、嘘やデタラメ、事実誤認が多くて本当にウンザリさせられる。

 なぜなら、玉木正之氏は、自身が執筆、主張する事柄について、よりどころとなる原典で確かめないでモノを書く人だからである。それどころか、「ネットで検索」すらしない、ウィキペディアすら引かない人なのである。嘘やデタラメが多いのは、そのためだ。ところが、玉木氏はスポーツライター業界の大物であるから、彼の文章を掲載する媒体では、編集や校正・校閲といったものが機能しない。したがって、嘘やデタラメがそのまま公に発表される。
この原稿は、我が国のIT企業のトップランナーのひとつFORUM8が発行する機関紙(で季刊誌)の『UP&COMING No.117』2017年春号に書いたものです。スポーツの根本的なテーマを書かせていただける機会があるのは、とっても嬉しいことで、その機会を与えてくださったFORUM8さんに感謝しつつ“蔵出し”します。
 ……と、いう触れ込みで玉木氏の公式サイト「カメラータ・ディ・タマキ」に転載されたコラムが「ちょっと教えたいお話・スポーツ編(2)スポーツ(サッカー)を語ることは、世界史や日本史を語ることにもつながる」である。やっぱり、これも酷い。
ちょっと教えたいお話(2)スポーツ
【「FORUM8」の公式サイトより】

 FORUM8という会社は「我が国〔日本〕のIT企業のトップランナーのひとつ」だそうである。それだけの企業の機関紙や広報誌に、嘘やデタラメ、事実誤認だらけの文章、あるいは「ネットで検索」すれば、すぐに分かるような話を掲載するのは、かえって企業としての信頼性を損ねるのではないだろうか?
何を今さらな「ちょっと教えたいお話」
常日頃は誰も意識しないことだが、スポーツには不思議なことが山ほど存在する。たとえばサッカー。そもそもサッカーとはどういう意味か?フットボールならFoot(足)ball(球)で何となくわかる。が、サッカーは意味不明。〔中略〕

〔近代に入って〕……オックスフォードやケンブリッジの大学やパブリック・スクール……ルールの統一と制定が進み、足だけを使うフットボールを行う連中がフットボール・アソシエーション(協会)を設立。そこで行われた手を使わないフットボールがアソシエーション・フットボール(Association Football)と呼ばれるようになり、それが、Assoc Football(アソック・フットボール)→Asoccer(アソッカー)→Soccer(サッカー)と略されたのだ。
 この程度のことは、サッカーの観戦入門書の類には必ず出てくる話である。それどころかネット検索やウィキペディアにも出てくる話だ。この程度のことで「ちょっと教えたいお話・スポーツ編」などとは、何を今さらの感がある。

中世フットボール=膀胱ボール説
〔中世のフランスや英国におけるフットボール〕はクリスマスや復活祭などの宗教的記念日に、村中をあげて「丸いモノ」〔=ボールのこと〕を奪い合った遊びで、聖職者も貴族も騎士も農民も、身分を超えて千人以上の村人が2組に分かれ、村はずれにある教会や大木など、ゴール(目的地)と決めた場所へ運ぶのを競った。

そのとき用いられた「丸いモノ」〔ボール〕は、豚や牛の膀胱〔ぼうこう〕を膨らませて作られた。遊びの最中にそれが破れると、すぐさま豚や牛を殺して膀胱を取り出し、中を洗って穴を紐で縛り、群衆の中に投げ入れたというから、かなり血の気の多い遊びで、実際大勢の負傷者や死者まで出たという。
 これも、何を今さらの話である。伸縮性の高い「ゴム」が存在しなかった前近代のフットボールでは、代わりに豚や牛の「膀胱」をふくらませてボールとして使っていた……と、いう話もよく聞く話だ。一般に名著と言われる中村敏雄の『オフサイドはなぜ反則か』はそうした著作の代表例である。


 特に、中村敏雄は同著の中で「殺した牛や豚の血まみれの膀胱をボールにしたように、フットボール(サッカーやラグビーなど)は狩猟民族=欧米人の荒々しいスポーツである。対照的に日本人は温厚な農耕民族である。したがって日本人は荒々しい狩猟民族=欧米人のスポーツであるフットボールの神髄を根本的に理解することができない」(大意)などと述べている。

 これもよく聞く話で、日本あるいは日本人の歴史・文化・精神・伝統……etc.は、サッカーフットボールの本質とは相容れないとする、自虐的な「サッカー日本人論」と呼ばれる言説の、ひとつの表出である。

膀胱ボールは使い物にならない?
 ここからは、当ブログが紹介するスポーツの「ちょっと教えたいお話」になる。フットボール・アナリストという肩書の「加納正洋」という人物が著した『サッカーのこと知ってますか?』という本に、膀胱を素材にしたボールの常識を覆す話が登場する。

 どんな本にも出てくる「膀胱ボール説」だが、これは机上の空論である。なぜなら……。
  • 実物の膀胱ボールは、紙風船とビーチボールを足して二分したような華奢(きゃしゃ)なもので、大人が蹴れば一発で破れる。とてもフットボールの実用に耐えるものではない。
  • フットボール用のボールは丈夫な動物の皮をアウター(外皮)として使い、インナー(内皮)には、よく洗い乾燥させた豚や牛の膀胱を使った(血まみれではない)。
  • 中世英国では、人々の間で荒々しいフットボールが行われていた。しかし、そこに血まみれの膀胱ボールが使われていたというイメージは正確ではない。
 ちなみに、加納正洋の正体は、ラグビー評論家の中尾亘孝(なかお・のぶたか)だと言われている。加納と中尾は、ピコ太郎と古坂大魔王くらいには別人である。
中尾亘孝
【加納正洋こと中尾亘孝】

 中尾は、非常に悪質な反サッカー主義者、かつ英国でも廃れたラグビー原理主義思想の持ち主、さらに贔屓の引き倒し的な早稲田大学ラグビー部のファンであり、ラグビーファンからもかなり評判の悪い人物でもある。それでも、こういう話を紹介してくれるのは面白い。「ちょっと教えたいお話」というならば、玉木正之氏も、これくらい驚きに満ちた事を書いてほしいものである。

慶應と早稲田を混同している玉木正之氏
明治時代初期にフットボールが日本に伝えられたとき、サッカーは「ア式蹴球」と翻訳され、いち早く取り入れた慶應大学には、今も部活動に「ア式蹴球」「ラ式蹴球(ラグビーフットボール)」という名称が残っている。
 これも、まともなサッカーファン、ラグビーファンならば唖然とするような事実誤認の文章である。まず、慶應義塾大学のラグビー部とサッカー部の正式名称を紹介する(創立順の紹介)。
 つまり、玉木正之氏の説明はいずれも間違いである。かの学校法人では、ラグビー部を「蹴球部」サッカー部を「ソッカー部」と呼ぶ。soccerのカタカナ表記が定着していなかったこともあって「ソッカー」である。

 「ア式蹴球部」を名乗っているのは、早稲田大学の方である。
 玉木正之氏は、慶應と早稲田を混同したまま読者に誤った知識を伝えているのである。

 慶應義塾大学がラグビーを「いち早く取り入れた」、日本ラグビーのルーツであるのは確かである。ラグビー部を「蹴球部」と呼ぶことについても、そうした伝統が表れているようだ。一方、日本のサッカーの直接のルーツは、慶應ではなく筑波大学(当時の東京高等師範学校、のちに東京文理大学、東京教育大学を経て、筑波大学)である。ちなみに、筑波大学のサッカー部も、「蹴球部(筑波大学蹴球部)」(創立1896=明治29年)である。

 この程度のことも、ネットで検索すればすぐにわかることである。

『日本書紀』の誤読を鵜呑みにしている玉木正之氏
古代メソポタミアから西洋に広がった「太陽の奪い合い」〔ここではフットボールのこと〕は東洋へも広がり、中国を経て日本の飛鳥時代には「擲毬〔くゆるまり〕」と呼ばれ、中臣鎌足と中大兄皇子が「擲毬」の最中に蘇我入鹿の暗殺(乙巳の変=大化の改新)の密談を交わしたことが『日本書紀』にも書かれている。
 これも間違い。『日本書紀』の記述では、中大兄と鎌足は「打毱」の会で面識を得ただけである。蘇我入鹿の暗殺の密談を交わしたのではない(しかし、玉木氏が採用している「擲毬」とは何であろうか? 『日本書紀』にあるのは「打毱」という表記である)。

 玉木正之氏がなぜこんな間違いをおかすのかというと……。スポーツ人類学者の稲垣正浩氏が『スポーツを読む』で『日本書紀』の問題の箇所をを誤読していたものを、玉木正之氏がそのまま鵜呑みにしていたからである。

 玉木正之氏は原典に当たって内容を確認することを怠る。そのため、玉木氏のスポーツ評論やスポーツコラムの信頼性は著しく低い。

玉木正之氏の文章を読んでもスポーツを理解できない
つまりサッカーというスポーツを語れば、世界史や日本史を語ることにもつながり、そのような「知的作業(知育)」を含むスポーツは「体育(身体を鍛える教育)」だけで語られるべきではないのだ。
 お説ごもっとも。しかし、このコラムを読む限り、玉木正之氏の文章を読んでもスポーツにかかわる豊かな「知」が身につくか、はなはだ怪しい。

 むしろ、玉木正之氏のデタラメを見抜くリテラシーを身につけることこそ、スポーツの「知」を獲得することになるだろう。

(つづく)


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古代日本の謎の球技と現代日本のスポーツとの関係
 「大化の改新」のきっかけとなった古代日本のクーデター「乙巳=いっし=の変」(645年)。その立役者,中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が面識を持ったのは「蹴鞠(けまり)」の会であったと、これまで信じられてきた。
kokusikaiga
【小泉勝爾『中大兄皇子と中臣鎌足』神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより】

 ところが、事の顛末(てんまつ)を記した『日本書紀』皇極天皇紀には「蹴鞠」ではなく「打毱」と表記されている。この球技の正体が分からない。いくつかの理由から、これは蹴鞠ではなく、杖(スティック)を手に持ってボールを打つホッケー風球技ではないかという説もある(国文学者・西宮一民氏,埼玉県立博物館・井上尚明学芸員ほか)。
正倉院宝物より
【打毱(正倉院宝物)小学館版『日本書紀』より】

 中でもスポーツライター玉木正之氏は、ホッケー風球技説の熱烈な支持者であり、蹴鞠説に否定的な立場をとっている。玉木氏は、そのことがその後の日本のスポーツ文化,日本のスポーツの在り方まで既定しているのだという。

 すなわち、日本でサッカーJリーグの人気がプロ野球に敵(かな)わないのも、日本サッカーが世界の一流国と互角に戦うことができないのも(一流国と互角に戦えるのなら一流国のはずなのだが……)、すべて大化の改新の始まりとなった古代日本の球技が蹴鞠ではなく、ホッケー風の球技だったからだと、玉木氏は言うのである。

小説を歴史的真実の根拠とする「スポーツ学者」玉木正之氏の感覚
 しかし、玉木氏がホッケー風球技説を支持する理由というのが今一つ薄弱である。当ブログ(の中の人間)は、玉木氏のウェブサイトを通じて、その根拠を質問したことがある。

 すると玉木氏は、何と! 橋本治氏が書いた小説『双調平家物語』にそう書いてあるからなのだと回答してきた。

 歴史的真実について話をするのに、その根拠として史料や実証ではなく小説=フィクションを挙げるスポーツライター玉木正之氏の感覚は……ハッキリ言って信じがたい。筑波大学や立教大学,国士舘大学など、いくつもの大学・大学院でスポーツ史やスポーツ文化を教えている大学教授でもある玉木氏の資質が、大いに疑わしくなる。

 それでも『双調平家物語』を読むのはなかなか興味深いものがあった。たしかに『双調平家物語』は、該当の球技を蹴鞠ではなく、ホッケー風球技として描いている。しかし、橋本氏はがそういう設定にしたのは、あくまで創作=小説としてのものだ。歴史の真相を述べようとしたものではない。何より、中大兄と鎌足の出会いも本来の『日本書紀』皇極天皇紀の描写とはまったく違うものとなっている。

 ところで、『双調平家物語』の巻末には、参考文献として歴史学者(日本古代史),遠山美都男氏の『大化の改新~六四五年の宮廷革命』(中公新書)が挙げられている。

 こちらの著作では、問題の球技は、2人の出会いは、どのように語られているのか?

遠山美都男氏のスタンスと橋本治氏の着想
 結論を先に言うと、遠山美都男氏の『大化改新~六四五年の宮廷革命』は、問題の古代日本の球技が蹴鞠なのか蹴鞠ではないのか……という問題に関して、橋本治氏の『双調平家物語』にさしたる影響を与えていない。
 鎌足は、中大兄の若さと器量に注目する。弱冠十九歳だが、この皇子ならば現状打開の大事をともにできる。だが、皇子の知遇を得る機会がなかなか訪れない。

 ところが幸運にも、鎌足が飛鳥寺の西の広場を通り過ぎようとした時、そこで蹴鞠に興ずる中大兄に出会う。鎌足は脱げとんだ中大兄の靴をひろい、これを献じた。中大兄は、跪いて靴をささげもつ男の目に尋常ならざる決意を感じ取った。

 これをきっかけに両者はたびたび出会い、いつか、お互いの主張や理想を熱っぽく語り合うようになる。おのずと談論は蘇我本宗家の専横の一事にいきついた。〔以下略〕

⇒遠山美都男『大化改新』(中公新書)7~8頁
藤原(中臣)鎌足五円切手
【藤原(中臣)鎌足五円切手】
 遠山氏は、本の冒頭で、実にアッサリと「蹴鞠」と書いている。橋本氏の『双調平家物語』と、その参考文献とした遠山氏の『大化改新』とでは、問題の球技とその描写は、全く違う。『双調平家物語』の設定と描写はあくまで小説のためのものである。

 そもそも、遠山氏も蹴鞠か蹴鞠でないかということにはこだわっていないのである(後述)。

 遠山氏の『大化改新』は、単に大化の改新という歴史的事件にとどまらず、邪馬台国の卑弥呼それ以前の昔にまでさかのぼって、日本列島の権力(王権)の推移の歴史を論じたものである。橋本氏が遠山氏の著作を参考にしたのは、十数巻に及ぶ大河小説である『双調平家物語』の、あくまで作品全体の構成、その着想を得るためである。

 繰り返すが、例の球技を蹴鞠ではなくホッケー風球技と設定したのは、歴史学的な正しさを求めてのことではない。

なぜか軽視される史料『藤氏家伝』の存在
 中大兄と鎌足の出会いの逸話について記した史料には『日本書紀』の他に『藤氏家伝』がある。略称『家伝』。書名にある通り、藤原氏の祖先(鎌足ほか)の伝記である。奈良時代、760年(天平宝字4)に成立。ちなみに『日本書紀』の成立は720年(養老4)である。『書紀』と並んで当時の状況を知るのに非常に重要な史料である。
 中臣鎌足は、中大兄に接近を試みる。ところが、なかなか面識を得る機会が訪れない。『書紀』では「法興寺の槻の樹の下」で行われていた「打毱」の競技の場で、他方『家伝』では「蹴鞠之庭」において、鎌足は偶然にも中大兄に出会うことになる。これをきっかけに二人は意気投合、以後、隔意のない親交が始まり、やがて蘇我本宗家打倒の決意を固めていったとされている。

⇒遠山美都男『大化改新』161頁
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【霞会館蔵「中大兄皇子蹴鞠の図」(部分)筆:原在寛】
 つまり、この『藤氏家伝』の該当部分にも、アッサリ「蹴鞠之庭」と書かれている。ホッケー風競技説を採用している玉木正之氏は『家伝』の記述を無視するのだろうか?
 『書紀』『家伝』……両史料は同一の原史料のをもとに書かれている。

⇒同書11頁
 『書紀』『家伝』の「乙巳の変」〔大化の改新〕の記述は、内容的にはほとんど同じものであり、同一の原史料をもとにそれぞれ文をなしたことが明らかにされている。この原史料には『原大織冠伝』ないしは『入鹿誅滅の物語』という仮称が与えられている(横田健一氏説)。

⇒同書82頁
 『書紀』も『家伝』も、元々は同じテキストなのだそうである。ならば『書紀』にある「打毱」の正体が『家伝』にある「蹴鞠」であってもおかしくない。現代でも、同じ球技のことを「サッカー」「フットボール」「蹴球」、あるいは「野球」「ベースボール」などと、いろいろ表記が分かれていたりするではないか。

途絶えたフットボールの系統
 一方で、日本に現在伝わっている蹴鞠は、2チーム対峙してゴールを狙うものではないスタイルの蹴鞠である。こうした蹴鞠は、9世紀に近い年代の遣唐使などによって日本に伝えられたのはほぼ確実である。したがって、大化の改新(乙巳の変)7世紀の西暦645年の日本に蹴鞠は存在しない。つまり、問題の球技は蹴鞠ではないという説がある。

 こうした説と『家伝』の記述との矛盾をどう解釈すればいいのか? 例えばの話……。

 ……明治6年(1873)、日本に最初に伝えられたとされる海軍兵学寮の「フットボール」は、実はサッカーなのか、ラグビーなのか(あるいはそのどちらでもないのか)、分からなくなっている。それでサッカージャーナリストの後藤健生氏と、ラグビー史研究家の秋山陽一氏との間でちょっとした論争にもなっている(下記リンク先参照)。
 この辺は、大化の改新と縁のある古代日本の球技が、蹴鞠なのか、蹴鞠ではないホッケー風球技なのかという論争(?)と、似ていなくもない。余談だが「大化の改新」も「明治維新」も国家の一大変革の時代という共通点もある。
1874年「横浜で行われたフットボール」
【『神奈川新聞』のウェブサイトから】

 また、海軍兵学寮の「フットボール」の系統は途絶えている。現在の日本のサッカーは筑波大学(当時の高等師範学校)から、ラグビーは慶應義塾から始まった始まった系統である。

 他にも、明治時代初期に日本に伝えられた英国生まれの球技「クリケット」も、明治の中頃まで行われた後に一度途絶えている。現在日本で行われているクリケットは1970年代後半になってあらためて紹介されたものである。
レクリエーショナルクリケット協会ウェブサイトから
【「レクリエーショナルクリケット協会」のウェブサイトから】

 中大兄皇子が行っていた蹴鞠の系統は一度途絶え、その後、改めて現代日本に伝わるスタイルの蹴鞠が日本に入ってきた。近現代の日本スポーツにあったことが、古代においても起こりえたのではないか。

 むろん、当ブログは蹴鞠説が一方的に正しいという主張をしたいのではない。この問題は邪馬台国論争と同じで、蹴鞠説でも、ホッケー風競技説でも、どちらも決定打がない。当ブログは、蹴鞠でも蹴鞠でなくでもどっちでもいい。

 玉木正之氏については、自説を主張するならばちゃんと論争が成り立つだけのハッキリとした裏付けをもってやってほしい。それができないならば一面的な主張は慎んでほしい。当ブログの願いは、ただただそれだけだ。

玉木正之説のナンセンスが暴き出された
 『日本書紀』は勅撰正史という政治的テキストであるがゆえに一方で謎が多く、脚色や潤色が多い、その記述をすべて額面通りに信用できないといわれている。だから、これまでにも「郡評論争」「法隆寺再建論争」「聖徳太子非実在論争」「大化の改新虚構論争」といった日本古代史のさまざまな論争を起こしてきた。

 さまざまな理由から「打毱」の会での、中大兄と鎌足の出会いのエピソード自体が虚構ではないかとする説もある。この説を採用、『日本書紀』の「話自体が事実を正確に伝えるものではない」、「そこから一定の史実を引き出せるような性質の史料ではない」という立場をとっているのが、実は遠山美都男氏の『大化改新』なのである(167頁)。

 そうなると、大化の改新における古代球技問題の意義付けも変わってきてしまう。それが蹴鞠なのか、蹴鞠ではないホッケー風球技なのか、無意味なものになってしまうからだ。

 想像であるが、橋本治氏は『双調平家物語』を執筆するにあたり、遠山氏『大化改新』の例の逸話は虚構であるという説をよりどころにして、問題の場面の球技を蹴鞠ではなく、ホッケー風球技として描いたのかもしれない。史実とされているものも実は虚構かもしれないとするならば、自由な創作をするのにもためらいがなくなるわけだ。

 いずれにせよ、玉木氏が「大化の改新のキッカケがは蹴鞠ではない説」を主張するのに、作家・橋本治氏の小説『双調平家物語』だと臆面もなく言い出す。その『双調平家物語』が参考文献とした歴史学者・遠山美都男氏の『大化改新~六四五年の宮廷革命』では、問題の場面は虚構だという考えを採っている……。

 ……こうしたところからも、玉木正之説のナンセンスぶりがよく分かるのである。

(つづく)


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玉木正之説の根拠(?)橋本治作『双調平家物語』
 古代日本のクーデター「大化の改新」(乙巳=いっし=の変,西暦645年)の主役,中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)。もともと面識がなかったという2人が出会ったのは、従来、蹴鞠の会であったと信じられてきた。
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【霞会館蔵「中大兄皇子蹴鞠の図」(部分)筆:原在寛】

 ところが、中大兄と鎌足の邂逅(かいこう)を描写している『日本書紀』皇極天皇紀にはハッキリ蹴鞠とは書いていない。そこにあるのは「打毱」という正体の知れない記述である。そこで、該当する概念は蹴鞠とは違う別の球技なのではないか……という説も一方で唱えられてきた。
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 中でも、スポーツライター玉木正之氏は、これは蹴鞠ではなく、スティックを使ったホッケー風の球技であると繰り返し、かつ強硬に主張してきた。玉木氏は、中大兄と鎌足の出会いのキッカケが蹴鞠ではなかったことが、その後の、現代にいたるまで日本のスポーツ、日本のスポーツ文化の在り方まで規定してきたのだという。

 すなわち、日本人とはサッカーが苦手な民族である。日本でサッカーより野球の人気が高いのも、日本のサッカーが世界の一流国に伍して戦うことができないのも、日本人が民族的にサッカーが苦手だからである。その証拠として、大化の改新のきっかけも従来信じられていた蹴鞠ではなく、ホッケー風の球技だったのである……ということである。

 玉木氏は、その根拠として橋本治氏の小説『双調平家物語』では、問題の球技(打毬)が、スティックを使ったホッケー風の球技として描かれていることを挙げている。

『双調平家物語』に描かれた球技のルールとは?
 歴史書、なかんずく日本国(倭国)の正史である『日本書紀』その他の史料を吟味することなく、現代に書かれた小説(フィクション)の方が歴史的真実として正しいという玉木正之氏の言い分は、バカバカしすぎて噴飯ものなのだが、それでも橋本治氏の小説『双調平家物語』にある打毬とはそのような球技なのか、検証する意義はあるだろう。

 まず、『双調平家物語』で「打毬(まりうち)」がどのような球技として描写されているのかを見ていく。
 若い男達が二手〔ふたて〕に分かれ、両の掌〔て〕に収まるほどの白い鹿の皮でくくった毬〔まり〕を、走りながら桃の打〔う〕ち杖〔づえ〕で叩き合っている。走り回るには十分な距離を隔てて、南北に広がった川原の両端には、布を結びつけた二本の旗竿〔はたざお〕がそれぞれ門構〔もんがま〕えのように立てられている。敵味方に分かれた二組が、打ち杖で叩いた毬〔まり〕をその門内に入れて勝ち負けを競う。若い男たちは息を切らせて走り、供〔とも〕として従った官人〔かんじん〕や下人〔げにん〕の男達も、息を詰めてその様を見守っている。裸足〔はだし〕の下人の中には、爪先〔つまさき〕立ちをした足を躍〔おど〕らせかかっている者もいる。勝ちを決めた[ゴールを決めた?]組が騒げば、負けとなった組もまた、声ばかりは負けじと落胆の喚〔おめ〕きを上げる。ほとばしるほどの若さには、韓〔から〕渡りの凝〔こ〕った仕様〔しよう〕の打ち杖よりも、まだみずみずしさの残る桃の切り枝の方が似合っていた。

橋本治『双調平家物語2 飛鳥の巻〈承前〉』(中公文庫)2009年
「大欅〔おおけやき〕」の章,224~225頁
 球技の概要自体は引用文の通りである。だが、ここから、またひとつ疑惑が発生する。

 該当する球技は蹴鞠ではない。ホッケー風の球技だと強く主張する玉木氏に対し、当ブログ(の中の人間)は、問題の球技は『日本書紀』本来の記述では「毱といっしょに脱げ落ちた靴を追いかけていった」(原文:而候皮鞋随毱脱落)となっているが、玉木氏の解釈ではどうなっているのか? 手に杖をもって毬を叩く球技では靴は脱げていかないのではないか、矛盾はないのか? と質問したことがある(下記のリンク先参照)。
 すると、玉木氏は「『双調平家物語』には、打毬は毬を杖で叩くだけでなく、足で蹴ってもよいルールの球技として描かれている。だから問題はないのだ」と回答してきた。

 しかし、上記引用文の通り、『双調平家物語』にそのような説明はないのだ。

 玉木氏が『日本書紀』皇極天皇紀をまともに読んでいないのは明らかだが、ひょっとしたら『双調平家物語』すらまともに読んでいないのではないかと勘ぐってしまう。

『双調平家物語』に描かれた中大兄と鎌足の出会い
 続いて『双調平家物語』では、中大兄皇子と中臣鎌足の出会いはどのように描かれてるのか? 朱太字で強調した部分に特に注意して読んでいただきたい。
 鎌足公が打毬〔まりうち〕の技を見るのは、これが初めてではない。仏法や儒教と同じように海を越えて伝えられたこの技を、鎌足公は河内〔かわち〕の郷〔さと〕で帰化人の子供達が遊び戯れながらしているのを見たことがある。しかし、ただ毬〔まり〕を打って走るという技がこれだけ若い男を興奮させるものだとは思わなかった。今ではそれも分かる。分からぬわけではない。しかし鎌足公の望むことは、その打毬〔まりうち〕の技の中に入ることではなかった。

 しばらく什〔たたず〕む内〔うち〕に、人の群れが北から走り寄って来た。喚声が上がり、打たれた毬が陣となった旗竿〔はたざお〕をそれて、鎌足公の方へ流れて来た。ただ件むばかりの鎌足公の足下へ落ちた毬は、そのまま後ろへと転がって行く。鎌足公はその行方を目で追い、足で尋ねた。

 両の掌〔て〕に収まるほどの毬〔まり〕を持ったままの鎌足公は、それをどうしたらよいかと考えた。陣の脇に集まって来た若者達は、口々に「よこせ!」と叫んでいる。そこには中大兄皇子のお姿もあった。鎌足公は、手にした毬〔まり〕をうやうやしく捧〔ささ〕げ持つと頭〔こうべ〕を下げ、皇子の御前へ静々と歩み寄ろうとした。

 そこに一際鋭いお声があって、「寄るな」と仰せられる。鎌足公は立ち止まり、その場に膝をついた。するとそのお声は、「投げよ」とお命じになった。

 鎌足公は頭を上げ、「投げよ」どの仰せを受けたその間の距離を目で測〔はか〕った。四五間〔けん〕もあったであろうか。そのような距離で物の投げ渡しなどしたことはない。「投げよ」との仰せを受けた以上、それをお投げすることは無礼に当たらない。この場で式張〔しきば〕ったうやうやしさをお見せするそのことの方がかえって非礼に当たるのであろうと思われた鎌足公は、その軽い毬を投げた。投げたつもりで、しかしその毬はほんのわずかのところで落ちた。どても四五問の距離を渡すどころではない。川原には若い洪笑〔こうしよう〕が起こった。

 鎌足公は慌てて、手前に落ちた毬に走り寄って再び手にした。四間ばかり先の皇子は、再び「投げよ」と仰せになる。〔まり〕を手にした鎌足公は、大きく振りかぶると、この時ばかりは力をこめて投げた。またしても大笑いの渦が起こった。いかがしたごとか、毬は飛ぶのではなく、ただ落ちるばかりであった。

 「もうよい」と皇子は仰せになる。しかし鎌足公には意地があった。〔以下略〕

橋本治『双調平家物語2 飛鳥の巻〈承前〉』(中公文庫)2009年
「蒼天〔そうてん〕」の章,231~232頁
 要点をあらためて箇条書きにする。
  1. 杖で打たれた毬がそれて、打毬を観ていた鎌足の前に流れてきた。
  2. 鎌足の足元に落ちた毬は、そのまま後ろに流れ、鎌足はその毬を追いかけた。
  3. 鎌足は、手にした毬をうやうやしく捧げ持ち、頭を下げて中大兄の前に歩み寄ろうとした。
  4. しかし、中大兄は鎌足に「寄るな」と言い、その毬を「投げよ」と命じた。
  5. 鎌足は、その毬を投げたがすぐ前に落ちた。鎌足は再び投げたがやはりすぐ前に落ちた。
 以上がその顛末(てんまつ)である。しかし『双調平家物語』はあくまで小説(フィクション)である。『日本書紀』には肝心の場面はどのように表現されているのか?

『日本書紀』皇極天皇紀には何と書いてあるのか?
 現在、流通する『日本書紀』のテキストには大きく分けて岩波文庫版と小学館版の2つにある。『日本書紀』皇極天皇紀、その問題の箇所には何と書かれているのだろうか?
 それぞれ該当する箇所を引用、検討してみたい。まずは岩波文庫版からである。
ワイド版岩波文庫『日本書紀(四)』より
 偶(たまたま)中大兄の法興寺(ほうこうじ)の槻(つき)の樹(き)の下(もと)に打毱(まりく)ゆる侶(ともがら)に預(くはは)りて、皮鞋(みくつ)の毱(まり)の随(まま)(ぬ)け落(お)つるを候(まも)りて、掌中(たなうら)に取(と)り置(お)ちて、前(すす)みて跪(ひざまづ)きて恭(つつし)みて奉(たてまつ)る。中大兄、対(むか)ひて跪きて敬(ゐや)びて執(と)りたまふ。


 ちなみに、岩波文庫版の「打毱」の解釈は「蹴鞠」である。続いて小学館版である。
小学館・新編日本古典文学全集(4)『日本書紀(3)』より
 偶(たまさか)に中大兄の法興寺(ほうこうじ)の槻樹(つきのき)の下(もと)に打毱(ちょうきゅう)の侶(ともがら)に預(くはは)りて、皮鞋(みくつ)の毱(まり)の随(まにま)に脱(ぬ)け落(お)つるを候(うかか)ひ、掌中(たなうら)に取(と)り置(も)て、前(すす)みて跪(ひざまづ)き恭(つつし)みて奉(たてまつ)る。中大兄対(むか)ひて跪き、敬(ゐや)びて執(と)りたまふ。


 こちらの「打毱」(ちょうきゅう)の解釈は、杖(スティック)を用いたホッケー風の球技である。

 もちろん、ここでは「打毱」がいかなる球技なのかということが問題なのではない。中大兄と鎌足,2人の出会いがいかに描かれているかということである。こちらも要約してみると……。
  • 中大兄の靴が毱に従って脱げた⇒鎌足が追いかけて手に取った⇒鎌足はその靴を中大兄の前でひざまずいてうやうやしく差し出した⇒中大兄も鎌足を敬ってひざまずきその靴を受け取った。
 ……中大兄が鎌足に対してとった態度は、皇族が臣下にとるものとしては異例の対応である。それだけ2人の生涯にわたる友情のきっかけでもあったという含みがある。
kokusikaiga
【小泉勝爾『中大兄皇子と中臣鎌足』神宮徴古館蔵「国史絵画」シリーズより】

歴史とフィクションの違いが分からない玉木正之氏
 司馬遼太郎氏の作品などもそうだが、歴史小説は史実や史料そのままを叙述したものではない。たいていフィクションが入ってくる。小説は、そうすることによって世界観がより豊かになるのだ。しかし、それは歴史本来の楽しみ方とはまた別のものである。

 脱げてきた靴を手に持ちつつしんで差し出した歴史書『日本書紀』と、それてきた毬を手に持って投げ返そうとした小説=フィクション『双調平家物語』。両者の描写は、これだけ違う。橋本治氏がこうした設定と表現を選んだのは、あくまで小説としてであって、歴史上の事実を述べたわけでも、実証したわけでもない。

 やはり、正史『日本書紀』皇極天皇紀に登場する、古代日本の謎の球技の実体を、橋本治氏の小説=フィクション『双調平家物語』をもって根拠とする玉木正之氏の姿勢は完全におかしい。

 玉木正之氏は歴史と小説(あるいはフィクション,物語)の区別が分からない?

 否。邪推するに、玉木氏は日本人はサッカーが苦手な民族であるという強烈なイデオロギーを持っていた。そのためには日本の歴史や文化,民族性の裏付けがなければならない。玉木氏は、大化の改新のキッカケになった球技は蹴鞠ではないらしいという話を聞きかじって、コレだ! と思った。しかし、玉木氏はそのソースを知らない。小学館版『日本書紀』が蹴鞠説ではなくホッケー風球技説を支持していることも知らなかった(笑)

 そんなところへ、ホッケー風球技説を採用した橋本治氏の小説『双調平家物語』の存在を知った。玉木氏は文学・思想方面へのコンプレックスが強い人で、その分、事実とか実証とかを軽く見る人である。この小説をに飛びついて、歴史的真実として信じ込み、吹聴するようになった。おそらく、こんなところではないか。

 いずれにせよ、こんな人が日本のスポーツジャーナリズムの第一人者だと思われていたり、筑波大学や立教大学のような大学・大学院でスポーツ史やスポーツ文化について教えていることは、日本のスポーツにとっても、日本の学術にとっても、日本の社会にとっても害悪である……。

『双調平家物語』のネタ本? 遠山美都男著『大化改新』
 ……と、ここまでは、いつものフンガイした終わり方なのだが、問題の『双調平家物語2 飛鳥の巻〈承前〉』(中公文庫)の巻末363頁で興味をかき立てる記述を知った。
参考文献:遠山美都男著『大化改新~六四五年の宮廷革命』(中公新書)



 橋本氏の小説は、歴史学者・遠山美都男氏の著作を参考にしているのだという。この本には何と書かれているか。大化の改新と古代球技の問題にどんな解釈を与えているのか。

 探求していきたい。

(つづく)


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