神武紀元2679年(笑)2月11日「建国記念の日」に寄せて……。
大化の改新のきっかけはサッカー? ホッケー?
日本上代史に名高い「大化の改新」のクーデター「乙巳(いっし)の変」(645年)の主役、中大兄皇子と中臣鎌足の2人は、蹴鞠(けまり)の会で邂逅(かいこう)したと、巷間、信じられている。
ところが、その経緯を記した『日本書紀』皇極天皇紀にはハッキリ「蹴鞠」とは書かれていない。そこにあるのは「打毱」という謎の文字列である。この「打毱」をめぐっては、学者によって解釈が分かれてきた。
【打毱】
つまり、この古代日本の球技は、足でボールを蹴るサッカーに近い「蹴鞠」であるという説。一方、そうではなくて、スティック状の杖でボールを叩くホッケー風の球技(打毬=だきゅう=とも,毬杖=ぎっちょう=とも表記される)ではなかったかという説。ただし、両説ともに決定打を欠き、真相は現在も確定していない。
ところが、スポーツライターの玉木正之氏は、具体的な証拠が乏しいにもかかわらず、一面的にホッケー説の方が正しいと、強硬に主張してきた。
【玉木正之氏】
なぜなら、玉木氏は、このことが日本のスポーツの在り方を規定しているのだと唱えているからである。なぜなら、玉木正之氏は「日本人はサッカーが苦手な民族である」という強い思想の持ち主だからである。
日本では歴史的にサッカーより野球の方が人気があったこと、サッカー日本代表が国際舞台で「弱い」こと……等々、すべて、大化の改新のキッカケが蹴鞠ではなくホッケー風競技であった「史実」に拘束されている(!?)からなのだという。
「大化の改新のキッカケは蹴鞠ではなかった説」の間違い
玉木正之氏は知名度の高いスポーツライターであり、スポーツ界への影響力も強い。つまり「大化の改新のキッカケは蹴鞠ではなかった説」も、玉木氏の「啓蒙」によって「天下の公論」になってしまうかもしれない。
すると、それに付随している「日本人は日本人はサッカーが苦手な民族である」というイメージも、人々の間に常識化してしまいかねない。日本のサッカーにとっては、まったく迷惑な話である。
一方で、玉木氏は、自分にとって都合の良い結論のために事実(史実)を歪曲する癖が強いと、これまでにも批判されてきた(ラグビー史研究家・秋山陽一氏による)。実際、よくよく吟味してみると「大化の改新のキッカケは蹴鞠ではなかった説」も同様、間違いだらけで、玉木史観のためのご都合主義の産物でしかない。
当ブログ「スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う」本来の目的は、その玉木正之史観のデタラメさを告発し、かつ徹底的に批判することである。その成果は「大化の改新と蹴鞠(40)~玉木正之説の総括,批判,あるいは超克」(2017年10月26日)として、まとめた(下記リンク先参照)。
大化の改新と蹴鞠(40)~玉木正之説の総括,批判,あるいは超克(2017年10月26日)
gazinsai@gazinsai#サッカー #玉木正之 #蹴鞠 #大化の改新 #正岡子規 スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う : 大化の改新と蹴鞠(40)~玉木正之説の総括、批判、あるいは超克 https://t.co/RU8Q7BspFz https://t.co/eWQFjIg05t
2017/10/26 20:33:00
玉木正之説が妥当なものならば、私たちはこれを受け入れるしかない。しかし、玉木氏の持説は、徹頭徹尾、間違っているのである。そして、これは日本のサッカーにとって明らかに不利益なものだ。日本のサッカー関係者は、玉木正之氏のデタラメを徹底的に批判して、これを超克しなければならない。
描かれた「中大兄と鎌足の出会い」の謎
このブログを展開するに際して、大化の改新における中大兄皇子と中臣鎌足の出会いを描いた絵画を探したが、意外に古いものが見つからなかった。当ブログが見つけたもので最も古いものは、天理図書館蔵『南都法興寺蹴鞠図』嘉永6年(1853)。この年の起きた出来事は「黒船来航」、すでに江戸時代末期「幕末」である(下記リンク先参照)。
「大化の改新と蹴鞠」問題(02)~描かれた「蹴鞠の出会い」その1(2016年10月09日)
gazinsai@gazinsai「大化の改新」における中大兄皇子と中臣鎌足の出会いを描いた #蹴鞠 の絵画を探してみると、意外に幕末以前のものが見当たらない。推測するに、やはり #玉木正之 氏のスポーツ史観は間違っているのではないかという話をブログに書こうかと考… https://t.co/mSqHTPJaTr
2019/02/11 07:59:10
【天理図書館蔵『南都法興寺蹴鞠図』嘉永6年(1853)】
このことから、ひょっとしたら、大化の改新、特に「中大兄と鎌足の出会い」のエピソードは、それまであまり注目を浴びていなかった。それが、幕末の国学や明治の皇国史観の時代に、つまり近代になって、勤皇愛国を称揚・奨励するために強調され、視覚化(絵画化)され、人々に刷り込まれたのではないか……という仮説を思いついた。
伝統だと思われていたものが、意外にも近代の産物だったというのもよくあることだ。だから、我と思わん人文系・社会学系のスポーツ学専攻、あるいはカルスタ(?)専攻の学生・院生は、このテーマで研究して、論文を書いてみませんか? ……と煽ったこともある(下記リンク先参照)。
gazinsai@gazinsai「大化の改新」における中大兄皇子と中臣鎌足の出会いを描いた #蹴鞠 の絵画を探してみると、意外に幕末以前のものが見当たらない。推測するに、やはり #玉木正之 氏のスポーツ史観は間違っているのではないかという話をブログに書こうかと考… https://t.co/MIvKHeyMfH
2019/02/11 08:24:00
当エントリー前掲の神宮徴古館所蔵『中大兄皇子と中臣鎌足』(筆:小泉勝彌)などは、その視覚化のツールだったのかもしれない……などと考えたりもする。
幕末~明治に「再発見」された大化の改新???
以上のような仮説を漠然と考えていたところ、それを「裏付ける」……かのような記述をインターネットで見つけた。
Wikipedia日本語版の「大化の改新」の項目である。
この大化の改新が歴史家によって評価の対象にされたのは、幕末の紀州藩重臣であった伊達千広〔だて・ちひろ,国学者〕(陸奥宗光の実父)が『大勢三転考』を著して、初めて歴史的価値を見出し、それが明治期に広まったとされている。[3][3]『歴史とは何か: 世界を俯瞰する力』著者: 山内昌之Wikipedia日本語版「大化の改新」より(2019年2月11日閲覧)
もっとも、この記述に飛びついて、仮説が「証明」されたとしてはいけない。
Wikipediaは間違いの多い「百科事典」であり、出典になっている山内昌之氏(やまうち・まさゆき.歴史学者,中東・イスラーム地域研究,国際関係史)の著作『歴史とは何か~世界を俯瞰する力』に、何が書いてあるか確認しないといけない。
それを怠ると、「慶應義塾大学ではサッカー部のことを〈ア式蹴球部〉と呼んでいる」などという、トンデモない間違いを「フォーラム8」というIT企業の機関紙やWEBサイトに書いている玉木正之氏と同じになってしまう(下記リンク先参照)。
gazinsai@gazinsai#サッカー #玉木正之 #forum8 #日本書紀 #ラグビー スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う : 大化の改新と蹴鞠(38)~デタラメだらけの玉木正之コラム https://t.co/hRdUU8oMvk https://t.co/Q9bWAwwfNz
2017/09/03 16:34:12
そこで、山内昌之氏の『歴史とは何か~世界を俯瞰する力』を取り寄せて、ざっと目を通すことにした。
Wikipediaの記述の信憑性
結論を先に言うと、山内昌之氏は前掲のWikipediaのようなことをハッキリと書いているわけではない。
山内氏が自著で紹介する伊達千広の『大勢三転考』とは、古来(神代の昔以来?)、日本史において、日本という国の在り方(大勢)が3度大転換(三転)したという話である。その2番目が「聖徳太子による冠位十二階の制度や十七条の憲法から大化の改新にかけて」(171頁)だとあるが、今ひとつ印象に弱い。
それとも……。
古代の氏姓制度,律令による官人(官僚)支配〔大化の改新?〕,次いで武家支配という三区分は,現在の基準では常識すぎるかもしれません.しかし,近代歴史学の成立以前に,千広が大胆に時代を三区分したことは,岡崎久彦氏〔元外交官,評論家〕が語るように,日本史学史上,画期的な意義をもつのです(『陸奥宗光』上)。この評価は筑摩書房版の注解にも共通します。山内昌之『歴史とは何か~世界を俯瞰する力』170~171頁
……この部分のことだろうか?
いずれにせよ、Wikipediaの記述とは、やはりニュアンスが違う。
この辺は、Wikipediaの飛躍した拡大解釈ではないかと思う。とにかく、国学者・伊達千広が大化の改新の価値を「再発見」「再評価」し、明治になってこれを啓蒙したとか、山内昌之氏が自著でそのことを紹介したとかいうのは、違うのではないかと思う。
玉木正之氏のスポーツ史観には疑いがある
残念なことだが、何事も確認である。
大化の改新、なかんずく中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場面(蹴鞠?)が有名になったのは、皇国史観の幕末~明治以降……という裏付けは取れなかった。したがって、当ブログの仮説は保留である。
しかし、歴史観は時代によって変わってくる。「江戸時代以前」「明治・大正・昭和戦前」「戦後」では、歴史上の事件や人物の評価が違っている。
例えば、織田信長。明治・大正・昭和戦前の「皇国史観」の時代において、信長は、戦国の風雲児、革新的な天下人という「戦後」のイメージとは違い、戦乱で荒廃した京都御所を再建し、天皇の権威を大いに盛り上げた勤皇の人という評価で語られていた。
大化の改新、あるいはその主役、中大兄皇子と中臣鎌足は「皇国史観」を大いに刺激する歴史的な事件・人物*である。だから、その話は「皇国史観」によって「再発見」されたのではないかという仮説の真相については、今後の研究の成果を待ちたい。
どうして、こんな事に拘泥しているのか。
仮に、かつて「大化の改新」という歴史的事件が、江戸時代以前はそれほど評価されていなかったとすると、その「大化の改新」をもって、後々まで(21世紀の現代まで)の日本のスポーツの在り方を拘束している……という玉木正之氏は、かなり間抜けな議論をしていることになるからである。
こういう話をしたかったが、ちゃんと山内昌之氏の著作で調べたら、いささか無理筋になってしまった。
もっとも、玉木正之氏は、先に紹介した「慶応大学のサッカー部の名称の話」のように、そのちょっと調べて確認する……ということすらしない人なのだが。
(了)
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