スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

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東京五輪でなかったら野球は採用されなかったし…
 もし、2020年の夏のオリンピックが日本の東京でなかったら、野球がオリンピックの正式種目に採用されることはなかったはずである。

 すなわち、雑誌『東京人』2019年8月号の特集「近代スポーツことはじめ」に、ロバート・ホワイティング氏(日本在住の米国人ジャーナリスト)が「アメリカ人は犠牲バントを好まない」などという奇妙な一文を寄稿することはなかった。

 内容は今さら紹介の必要もありますまい……。

菊とバット〔完全版〕
ロバート ホワイティング
早川書房
2005-01-01


和をもって日本となす
ロバート ホワイティング
角川書店
1990-04-01


 ……いつもの、ホワイティング氏の、日本と日本人に対するステレオタイプと偏見に満ちた日本野球論・日本文化論である。

サッカーの視座ならば「菊とバット」を解体できる…できるはず…
 「野球」の枠の中にいると、「ホワイティング氏の日本野球観」の何が歪(いびつ)なのか今ひとつ分かりにくい。むしろ「サッカー」の視座からこそ「それ」は見えてくる。すべからくサッカー側の人間はホワイティング氏の日本野球観を批判するべきである。なぜなら、この人の日本野球観は、当ブログがしつこく問題にしてきた「自虐的サッカーな日本サッカー観」と深いところでつながっているからだ。

 してみると、逆説的ではあるが、サッカー側の人間からもなかなか「ホワイティング氏の日本野球観」への批判がなかなか登場しないのも分からないことはない。なぜなら、サッカー側の人間には「自虐的サッカーな日本サッカー観」に染まっている人が多いからだ。

 具体的には、塩野七生氏や山崎浩一氏のような人たちのことであるが、野球とサッカー、お互いのために、いずれこの問題には触れなければならない。

明治以来150年の「日本野球の到達点」が… えッ,イチロー!?
 さて、くだんの「アメリカ人は犠牲バントを好まない」なる一文は、最初から最後までツッコミどころばかりなので逐一付き合っていたら、それこそ、いつまで経っても終わらない。そこで、2つの部分に絞って話を進める。

 はじめに、文章冒頭の2段落である。
 〔二〇一九年〕三月二十一日、東京ドームでイチロー(本名・鈴木一朗)の引退セレモニーが開催された。その野球人生の締めくくりにふさわしい、感動的なイベントだった。ニューヨーク・ヤンキースのゼネラルマネージャー、ブライアン・キャッシュマンが「世界の野球史上で最高の選手」と称賛したイチローは、日本人選手として初めて、アメリカのメジャーリーグで殿堂入りするに違いない。

 こうしたイチローの輝かしい成功は、むろん彼個人の才能と努力の賜物である。と同時に、それは約百五十年前に日本政府がアメリカ〔合衆国〕から招聘した〔お雇い外国人〕教師たちによって、日本に野球が紹介されて以来の、長い歴史の到達点でもあった。

ロバート・ホワイティング「アメリカ人は犠牲バントを好まない」@『東京人』2019年8月号


ホワイティング「アメリカ人は犠牲バントを好まない」見出し
【ホワイティング「アメリカ人は犠牲バントを好まない」の見出し部分】
 いや、これ、おかしいでしょう?

ホワイティング氏の「まなざし」=アメリカ野球界一国主義の「まなざし」
 明治このかた約150年の歴史を持つ「日本に野球が紹介されて以来の,長い歴史の到達点」が、日本野球を代表するナショナルチーム(代表チーム)の実績、その世界大会で優勝したことだとか、日本代表が発祥国であるアメリカ合衆国代表を国際試合で打倒したとか、そういうことではないからである。なんと、それがひとりの選手で「代表」されてしまうことである。それは、よいとしても……。

 ……イチロー選手が日本野球史上随一の選手のひとりなのは間違いないにしても、その評価と言及は、形式論的にはたかだか1か国のプロリーグにすぎないアメリカ大リーグ(MLB,メジャーリーグ)での実績に限られてしまっているからである。イチローが日本代表として活躍したこと。具体的にはワールドベースボールクラシック(WBC)で連覇したことに、ホワイティング氏は一言も触れられてのであるからである。

 例えば、ペレの功績をブラジル代表とワールドカップでの活躍に全く触れないで、サントスFCとニューヨーク・コスモスの活躍だけで考察したら、本当におかしな評価になるだろう(当然,これは突飛な連想であるが)。

 むろん、ホワイティング氏のイチロー選手の評価が「クラブチーム」に偏ってしまう理由は、野球の世界地図では、サッカーやラグビー、クリケット(野球と同類のバット・アンド・ボール・ゲームのひとつ)のように、ナショナルチームによる国際試合や世界大会が全くオーソライズされていないためである。複数の国にプロリーグがある、チームで行う対戦型球技で、そのようなスポーツはほとんど野球だけではないかと思う。

 ロバート・ホワイティング氏のイチロー評が、アメリカ大リーグのそれに偏ってしまうこと。それは、実はアメリカ大リーグからみた「その他の世界」への想像力の狭さ、度量の狭さとほとんど重なる。すなわちアメリカ合衆国野球界の体質であり、ホワイティング氏は、その「まなざし」を体現して、日本人なり、日本の野球界なりに向けて、講釈を垂れているのである。

 しかし、そうした体質が改められないのであれば、大リーグは、英国・ヨーロッパや、クリケットの大国インドに進出することなど止めた方がいいだろう。


 英国・ヨーロッパしかり、インドしかり(英連邦諸国もヨーロッパと含めると,インドもヨーロッパである)、ナショナルチームによる国際試合、世界大会が、その国のスポーツ文化の大きな地位を占めているからである。それを認めようとしない野球は、少なくとも大リーグは、その枠内でやっておればよろしい。

 それにしてもホワイティング氏は、あの底が割れたようなイチロー選手の引退試合を「感動的なイベント」などと仰(おっしゃ)るのですね。 

 あれだけ日本野球に辛辣なホワイティング氏にしては、ずいぶんと寛大ではありませんか。

野球を選んでしまった日本近代史150年の不幸
 真面目な話に戻ると、スポーツは、特に代表チーム同士の対戦は、感情的な対立を抱えた2か国、あるいは「宗主国」と「従属国」といった、複雑な両国の政治的な関係を、たとえ一時であっても乗り越えるという「機能」がある。

 すなわち、ラグビーにおける英国(なかんずくイングランド)とニュージーランド、またはイングランドとスコットランド、アイルランド、ウェールズ。あるいはクリケットにおける英国(なかんずくイングランド)とインド、英国(なかんずくイングランド)とオーストラリアといった試合である。


 ところが、前述の理由で野球に限ってはその「機能」がないのであります。こうした問題に米国=大リーグはすこぶる鈍感だが、日本にとっては大いなる不幸である。これは日本の近代史、あるいは戦後史、平成史に少なからず影響を与えているかもしれない。


 ロバート・ホワイティング氏の日本野球観。その言説は、米国野球界の鈍感さと同様に発せられる。

間違いだらけのホワイティング氏の日本野球史考察
 次いで、この1段落である([ ]数字は引用者が付けたもの)。
 [1]日本人が野球を好んだのは、野球がおそらく日本初のチームスポーツだったからだろう。そして日本人はチーム優先の戦術を愛するようになった。たとえば[2]犠牲バント〔送りバント〕。これはパワー志向のアメリカ人選手には嫌われる手法だ。こうした集団戦の側面に加えて、[3]投手と打者の一対一の対決図式は、剣道や相撲などの試合を思わせる。その上、[4]時間制限もないため、試合の展開について議論する時間がたっぷりあった。[5]野球はまるで日本人の国民性に誂〔あつら〕えたかのようなスポーツだったのだ。

ロバート・ホワイティング「アメリカ人は犠牲バントを好まない」@『東京人』2019年8月号


早大vs一高野球戦(1909=明治42年)
【早大vs一高野球戦(1909年=明治42)】
 いや、これ、おかしいでしょう?

 ほとんど間違いだらけだし、例によって、ホワイティング氏のステレオタイプと偏見に満ちた日本観・日本野球観が全開している。

ホワイティング氏の持説を1本1本折っていく
 [1]について……。明治初年に欧米人によって紹介された、チームで行う対戦型球技スポーツは野球だけではない。これについては、当ブログはしつこく説いてきた。

 サッカーなのかラグビーなのかはよく分からないが、1873~1874年(明治6~7)ごろ海軍兵学寮に「フットボール」が、クリケットなどのスポーツとともに紹介されている。また、1984年(明治7)ごろ、工部省工学寮(工部大学校)にサッカーが、クリケットなどのスポーツとともに紹介されている。

 つまり、ホワイティング氏の説明は正しくない。

 [2]について……。これも当ブログの前のエントリーで書いたが、アメリカ野球も最初から「パワー志向」で、「犠牲バント」(送りバント)を嫌っていたわけではない。タイ・カッブが大活躍していた昔は、大リーグも「スモールベースボール」(スモールボール)志向だった。



 せめてホワイティング氏は「ベーブ・ルース以降のパワー志向のアメリカ人選手」とか、昨今の「セイバーメトリクス≒ビッグボール以降のパワー志向のアメリカ人選手」と言うべきだったのではないか。

 つまり、ホワイティング氏の説明は正しくない。

 [3]について……。これは、ホワイティング氏のオトモダチのスポーツライター・玉木正之氏が、かねがね持説としていた「1対1の勝負説」である。日本人は集団やチームによる戦い(サッカーやラグビー)よりも、投手と打者の1対1の対決(野球)にスポーツの面白さを見出したのだ……という仮説。この仮説に対しても、当ブログはしつこく批判してきた。


 簡単に言えば、明治初年、日本に最初に入ってきた時の野球のルールは、現在と大きく異なっており玉木氏の「1対1の勝負説」は成り立たない。例えば、当時のルールでは、劇画「巨人の星」の物語も成り立たない。

 つまり、ホワイティング氏の説明は正しくない。

 [4]について……。ホワイティング氏が言わんとしているのは、日本人には、独特の「間」(ま)の文化というものがあるために、日本人はサッカーやラグビーのような時間制限の中で絶えず動き続けるスポーツではなく、野球のようなプレーとプレーの「間」があるスポーツが好まれたというものだ。ちょうど比較文学者・剣持武彦の『〈間〉の日本文化』という日本文化論の著作がある。

「間」の日本文化
剣持 武彦
朝文社
1992-06-01


 しかし、「間」のあるスポーツは何も野球だけではない。明治初年、野球とともに同じバット・アンド・ボール・ゲームである「クリケット」も日本に紹介されている。

野球
【野球(ベースボール)】

クリケット
【クリケット】

 ホワイティング氏も、玉木正之氏も、他の誰でも「なぜサッカーではなく野球だったのか」という「答え」は出してはみせる。しかし、「なぜクリケットではなく野球だったのか」という「答え」を、どの考察も出してはくれない。

 つまり、ホワイティング氏の説明は正しくない。

 [5]について……。端的に「国民性」がその国の人気スポーツを決定するという仮説は成り立たない。例えば、米国人のお雇い外国人教師が学生たちに野球を紹介しても、ついにそこには定着せずに消滅した開拓使仮学校(後の札幌農学校~北海道大学)の例が、池井優氏の著作『白球太平洋を渡る』などには紹介されている。

 ホワイティング氏は、自著『和をもって日本となす』(前掲)の参考文献に、野球評論家としても有名な池井優氏の『白球太平洋を渡る』を挙げている。しかし、こういった都合の悪い事実は無視している。

 つまり、ホワイティング氏の説明は正しくない。

精神の奴隷にさせる日本野球論
 それにしても、ホワイティング氏は、引用した短い文章の中だけでも、よくこれだけのデタラメを書けるものである。

 こうした歪んだ日本野球観は、日本人を「精神の奴隷」とさせる。

 これに抗うか、奴隷のままでいるかは、野球ファンにせよ、サッカーファンにせよ、けっこう重要な問題ではないかと考えてしまう。

(了)



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犬も卒倒するホワイティング氏の日本野球論
 ロバート・ホワイティング氏(日本在住の米国人ジャーナリスト)の、『菊とバット』『和をもって日本となす』のような日本・日本人に対するステレオタイプと偏見に満ちた日本野球論・日本文化論は、どうにも苦手だ。むしろ、ゲンナリさせられる……という人は、スポーツライター・武田薫氏をはじめ意外に多い。

 そんな、犬も卒倒しそうな、ゲンナリさせられるホワイティング氏の日本野球論を、私たちスポーツファンは、またまた読む羽目になった。雑誌『東京人』2019年8月号の特集「近代スポーツことはじめ」である。


 そのタイトルは「アメリカ人は犠牲バントを好まない」である。翻訳を担当したのは、なぜか徳川宗家の徳川家広氏であった。それはともかく、内容は今さら紹介の必要もありますまい。いつもの、ホワイティング氏の、日本・日本人に対するステレオタイプと偏見に満ちた日本野球論・日本文化論である。

アメリカ人は犠牲バントを好まない…だから何なのだ!?
 「犠牲バント」とは、いかにもホワイティング氏が好んで採り上げそうな、きわめて「日本的」で「滅私奉公」的なニュアンスだが、実は英語の「Sacrifice bunt」の翻訳であって、昨今の日本語ではあまり用いられない。要するに「送りバント」のことだ。事実、Googleの検索ヒット数では「犠牲バント」よりも「送りバント」の方が多い。

送りバント(犠牲バント)を試みる打者
【送りバント(犠牲バント)を試みる打者】

 不思議なのは「〈アメリカ人〉は〈犠牲バント〉を好まない」という命題である。なぜなら、これは「華麗で攻撃的なサッカーを好む〈ブラジル人〉はイタリア的な〈カテナチオ〉の守備的サッカーを好まない」、または「勇敢なサッカーを好む〈イングランド人〉はイタリア的な〈カテナチオ〉の守備的サッカーを好まない」と同じくらい、ほとんど意味のない命題だからである。

 あるいは、日本経済新聞電子版には、スポーツライター・丹羽政善氏による「メジャーはなぜバントをしないのか 日米野球比較」という論評が掲載されている。
  • 参照:丹羽政善「メジャーはなぜバントをしないのか 日米野球比較(1)」2010/12/6
 これまた、「サッカーブラジル代表〈セレソン〉は,なぜ〈カテナチオ〉をしないのか?」とか、「サッカーイングランド代表〈スリーライオンズ〉は,なぜ〈カテナチオ〉をしないのか?」とかと同じく、ほとんど意味のない命題である。

 所変われば品かわる。国が違えば物事に関する好みが違うのは当たり前のことだ。ましてや、シングルスやダブルスではなく、9人、11人、15人……とチーム単位で、広いフィールドで行われる球技スポーツでは、国ごとにプレースタイルの好みが違ってくるのは、むしろ当然のことではないか。

 別の譬(たと)え方をすると、イタリアのサッカースタイルをブラジルやイングランドと異なるというだけで、これを上から目線で断罪しているのが、ロバート・ホワイティング氏(や玉木正之氏)の手口なのである。

イタリア・サッカーと日本野球の意外な(?)共通性
 イタリアのサッカーといえば、(超)守備的戦術にカウンターアタックでゴールを仕留めるスタイル「カテナチオ」である。最近はそのイメージもずいぶん様変わりしたというし、それ自体がステレオタイプの偏見に満ちた「まなざし」かもしれない。しかし、それでも、イタリア・サッカーといえば「カテナチオ」。「カテナチオ」といえばイタリア・サッカーなのである。

 サッカージャーナリストの後藤健生さんは、1994年アメリカW杯の取材から帰った後のトークイベントで「今回のアリゴ・サッキ監督のイタリア代表は,攻撃的で魅力的なサッカーをしていたが,それはまったく〈イタリア的〉でなくて,ちっとも魅力的ではない(笑)」などとジョークを嘯(うそぶ)いては笑いを取っていた。むろん、後藤さんはイタリア・サッカーに敬意を表して、そんな冗談を飛ばしたのだ。

 片や、日本野球の送りバントを多用するプレースタイル(仮に「日本型スモールベースボール」と呼ぶ)。こなた、イタリア・サッカーの守備的なプレースタイル「カテナチオ」。ともに「消極的」で「勝利至上主義」の好ましからざるプレースタイルのようにも言われることがある。

 少し脱線するが、細川周平氏や今福龍太氏といったポストモダン思想系(現代思想系,ポモ)のサッカー評論が跋扈(ばっこ)するようになり、ドイツのサッカーを「勝利至上主義」の権化として大袈裟に悪罵する以前は……すなわちベッケンバウアーらがプレーしていた頃は、西ドイツ(当時)のサッカーが「好ましいサッカー」をしていて、反面、イタリアのサッカーこそ「勝利至上主義の好ましからざるサッカー」だと非難さわれていた。



 事ほど左様、世上のイメージとはいい加減なものである。

 話を戻す。なぜ「カテナチオ」には今では悪いイメージがなく、しかし、なぜ「日本型スモールベースボール」には悪いイメージがついて回るのか。

 イタリアのサッカースタイル「カテナチオ」のルーツは諸説あるが、最も興味深いのは、日本在住のイタリア人文化人類学者ファビオ・ランベッリ氏が紹介しした説である。
 ……戦後イタリアのもっとも偉大なサッカー・ジャーナリストであるジャンニ・ブレーラ……によると、イタリアン・サッカー独特の技能・カテナッチョ(守備固め、文字通りには「ドアの掛け金」)は、劣勢の意識から始まったものだった。〔一九〕五〇~六〇年代には、ブレーラが言うようにイタリア人選手は栄養の少ない食事をとり、背が低く、北欧〔ドイツほか〕や南米〔ブラジルほか〕のチャンピオン・チームの試合では、身体的にも技術的にも劣位であった。この劣勢を乗り越えるために、カテナッチョという方法が工夫されたのである。

ファビオ・ランベッリ『イタリア的』222~223頁


 ジャンニ・ブレーラは、日本で言えば賀川浩氏と牛木素吉郎氏と金子勝彦氏(3人とも日本サッカー殿堂入り)を足したくらいの、本当に偉大なサッカージャーナリストである。
  • 参照:ダニエーレ・マヌシア(翻訳 片野道郎)「サッカージャーナリズムは最新戦術用語をどう扱うべきか?」2018.05.23
  • 参照:白鳥大知「伝統のイタリア・ダービーは激しい肉弾戦に。狙い通りの結果を手にしたのは?」2015年10月19日
 そんな人だけに、その考察は非常に重い。とにかく「カテナチオ」がイタリア人の、サッカーにおけるフィジカル(身体)やテクニック(技術)の劣等意識から始まったという説は面白い。「日本型スモールベースボール」もまた、アメリカ野球に対するフィジカルやパワーの劣勢・劣等意識から始まったのが、その起源のひとつとされているからである(玉木正之「4番打者論」@『プロ野球の友』など)。

 その意味では、イタリア・サッカーと日本野球には意外な(?)共通性がある。

日本野球こそ本来の「ベースボール」正統な継承者である!?
 アメリカ合衆国(米国)においても、もともと野球は「スモールベースボール」(スモールボール)こそが好ましいプレースタイルとされていた。スポーツライター・玉木正之氏『プロ野球の友』(1988年)に所収の「4番打者論」には、以下のような記述がある。
 アメリカのベースボール〔野球〕も、かつては……〈短打主義〉と、バント、ヒットエンドラン、スチールといった細かい作戦〔スモールベースボール〕が正統とされていた。ベーブ・ルースが投手としてデビューした1914年の新聞には、スポーツ欄のバッティング記録に、打率、犠打数、盗塁数の記載はあっても、ホームラン数など記録されていなかったくらいなのだ。さらに、ベースボール〔野球〕の正統派を自認するスポーツライターたちは、ホームランを姑息な手段と断じ、ホームランが増えれば作戦の面白さが失われ、野球が堕落すると警告し続けていた。

玉木正之「4番打者論」@『プロ野球の友』279~280頁
朱太字部分は原文では傍点(次の引用文も同じ)


プロ野球の友 (新潮文庫)
玉木 正之
新潮社
1988-03


 例えば、この「スモールベースボール」時代の、アメリカ大リーグ野球のスター選手が「球聖」ことタイ・カッブであった。玉木氏はさらに続ける。
 ところが、ベーブ・ルースが打者に転向し、1918年に11ホーマーの新記録(それ以前の記録は8ホーマー)、19年にファンの肝を抜く29ホーマーを打って、事態は一変した。白球が空高く舞い上がる美しさに対して、一般大衆が圧倒的な拍手で歓迎の意を表し、保守派の理屈は敗れ去ったのである。そして1920年に〔MLBの2大リーグのうち一方の〕アメリカン・リーグはボールの反発力を高めた〈飛ぶボール〉〔ライブボール〕の使用を決定。ルースが、その年54ホーマーを放ち、大リーグ〔MLB〕は、ホームラン時代、強打者〔スラッガー〕時代、「4番打者」〔クリンナップ・ヒッター〕による〈英雄時代〉の幕を開けたのだった。

 しかし、〔東京〕六大学野球の〈精神主義〉と〈短打主義〉のため、この大リーグの時代の流れは、一部の野球ファンの胸をときめかせただけで、日本の野球界にはまったくといいほど影響を及ぼさなかったのだ。

玉木正之「4番打者論」@『プロ野球の友』280頁
 しかし、この辺の事情は、野球ファンとしても有名な米国人の古生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドの、これまた有名な科学評論「妥当な打者~四割打者の絶滅と野球技術の向上」(『フルハウス~生命の全容』所収)を読むと少し違う。

 それによると……。保守的なアメリカ野球界は、ベーブ・ルース台頭による「ホームラン時代」の到来を苦々しく思っており、本来であれば思慮深いルール改正を行って、これにストップをかけていたであろう。だが、当時は米国球界を揺るがした八百長スキャンダル「ブラックソックス事件」の最中であり、米国球界は人気回復のために大衆迎合路線を取らざるを得ず、これを許容してしまった。

 だから「スモールベースボール」は下火になっていった……というのだ。

 これをもって、グールドは「タイ・カッブもうんざり」と書いている。

ベーブ・ルース(左)とタイ・カッブ(1920年)
【ベーブ・ルース(左)とタイ・カッブ】

 米国と地続きではない日本で、かつサッカーやラグビーのような英国系球技のような活発な国際交流もない野球のようなスポーツ(後述)で、日本野球が単純に「ホームラン時代」へと移行しなかったのは、むしろ当然と言える。

 ちなみに、米国人の日本野球観と言うと、ホワイティング氏のようなステレオタイプと偏見に満ちたものばかりと思われがちだが、そうでもない。この故グールド教授や、『虎とバット』の著者ウィリアム・W・ケリー教授(イェール大学,文化人類学,日本研究)のように、歪みのない「まなざし」で日本野球をとらえる人もいる。

虎とバット 阪神タイガースの社会人類学
ウィリアム・W・ケリー
ダイヤモンド社
2019-06-20



プロ野球観戦学
時事通信社
1999-07


 すなわち「日本型スモールベースボール」の起源のひとつとして、米国にあった「スモールベースボール」が、変容しつつも保存されていたという仮説も成り立つのである。

セイバーメトリクスによる「送りバント」批判は机上の空論(?)である
 あらためて、なぜイタリア・サッカーの「カテナチオ」には悪いイメージがなく、なぜ「日本型スモールベースボール」には悪いイメージがついて回るのか。

 要するに、サッカーにはオーソライズされたナショナルチーム(代表チーム)による国際試合や世界大会(FIFAワールドカップ=W杯)があるけれども、野球にはそのような国際試合や世界大会が存在しないからである。

 イタリア・サッカーは昨今こそ低迷気味とはいえ、何のかんの言ってもW杯で優勝4回。勝負強いサッカーのドイツには不思議と強く、華々しいサッカーのブラジルの攻撃をガッチリ受け止めては、しばしばこれらのサッカー大国に勝ってきた。だから、守備的だろうが勝利至上主義だと言われようが、イタリアのサッカーは世界的な敬意を受ける。

 一方、野球には「ワールド・ベースボール・クラシック」(WBC)なる、ナショナルチーム同士の対戦による世界大会があることにはあるし、日本はこの大会を、第1回(2006年)、第2回(2010年2009年)と連覇はしている。

 しかし、WBCは、権威づけられた大会ではない。第1回開催が21世紀に入ってからと、歴史的に遅く始まったためもある。しかし、それ以上に、WBCの事実上の「主催者」であるところの「アメリカ大リーグ」(MLB)に、WBCを権威的な大会にしようという姿勢がまったく見られないためでもある。だから、日本野球は国際的な評価を受けることは少ない。

 従来の打率や打点、防御率といった従来の野球の指標より、さらに精緻な統計である「セイバーメトリクス」の観点から分析しても「送りバント」は、やはり不合理な戦法だという指摘=批判もある。
  • 参照:菊田康彦「送りバントは〈消えゆく戦術〉なのか!? MLBで激減する理由を探る」2017年9月14日
 敢えて言うが、「実践」もないまま、こうした議論をいくら積み重ねても所詮は「机上の空論」にすぎない。「実践」とはひっきょう「オーソライズされたナショナルチームによる国際試合,世界大会」のことであり、その「場」において有効性なり無効性なりが「実証」されないかぎり、日本野球から送りバントが減ることはない。

各国ごとの「多様性」を認めないアメリカ・メジャーリーグ
 繰り返すが、イタリア・サッカーの「カテナチオ」に悪いイメージがないのは、サッカーというスポーツが、プレースタイルや観戦文化などで「多様」な在り方を併せ呑み、かつW杯などナショナルチームの「実践」の場において有効性が「実証」されていたからである。

 翻って「日本型スモールベースボール」にどこか後ろめたいイメージがついて回るのは、野球というスポーツがアメリカ大リーグ(MLB,メジャーリーグ)の流儀以外を「異端」と見なす風潮があり、かつWBCなどナショナルチームによる国際試合や世界大会がオーソライズされておらず、「実践」の場として機能していないからである。

 日本の野球ジャーナリズムでは、日本がアメリカと違っていると、そのこと自体がスポーツとして犯罪的に間違っていることにされてしまう。しかし、それは世界的で多様な「サッカー」的な視座からすると、ずいぶんとおかしな話である。

 独善的な一国主義で視野狭窄的なアメリカ野球界、そして米国人のロバート・ホワイティング氏には、そうした問題性は理解できないのであろう。

(了)



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 2020東京オリンピックまで、ちょうど、あと1年! ……というところで、新しい国立競技場が、どうにも採算が合わない「負の遺産」になりそうだという批判記事が出た。


 「告発」の主は、サッカージャーナリストにして和製サイモン・イングリスの異名をとるスタジアムおたくの後藤健生さんである。



The Football Grounds of Britain
Simon Inglis
HarperCollinsWillow
1987-04-06


The Football Grounds of Britain
Simon Inglis
HarperCollins Publishers Ltd
1996-05-14


The Football Grounds of Europe
Simon Inglis
HarperCollinsWillow
1990-04-02


 後藤健生さんの批判記事は、サッカー界隈にも衝撃を与えた。


 ところが、ここに来て日本サッカー協会(JFA)が、新国立競技場の運営権取得に名乗り出た……というニュースが出てきた。
サッカー協会、新国立の運営権取得に興味 田嶋会長明かす
2019.7.19

 東京五輪・パラリンピックのメインスタジアム、新国立競技場の大会後の民営化で、日本サッカー協会の田嶋幸三会長が19日、運営権取得に関心のある事業者への日本スポーツ振興センター(JSC)の意向調査に応募したことを明らかにした。「新国立を負の遺産としないためコンセッション方式〔公共施設を民間事業者が運営すること〕に興味がある。競技団体として唯一手を挙げた」と語った。

 新国立競技場は大会後に球技専用に改修される方針だったが、収益の柱と見込むコンサートが実施しにくくなることなどから〔陸上競技用の〕トラック存続の動きも出ている。

 田嶋会長は「コンサートも年に7回から10回しかできない。どうやって収益を上げていくか知恵を出し合わないと。サッカーでできること、欧州でのスタジアム運営方法のノウハウも含めて提案できる」と話した。

 この田嶋幸三会長の「立候補」が、どこまで妥当で賢明な申し出なのかはよく分からない。だからコンセッションの「採算性」とか専門外だし、ここでは問わない。

 ちょうど、全国高校野球選手権大会(甲子園)の各都道府県「予選」が行われている。高校野球の地域「予選」などを見ていると、5千人~1万人収容の野球場ならざらにある。

 ところが、Jリーグに使えるサッカー(フットボール)専用スタジアムを建設しようとなると、いつも、いろいろ行政サイドから厳しい条件が課せられてしまう。


 これには大いに不満である。

 そこで、新国立競技場のオリンピック後の利用に、日本サッカー界にどこまで関わっていけるかは、日本のサッカーにおけるスタジアム文化の「天王山」になるだろう……などと勝手に想定していた。そして、だから、これには失敗したかな……などとも思ってきた。


 仮に、JFAが新国立競技場の運営を担うとなれば、今後の状況もまた変わってくるのであろうか。

 それならそれで、スタジアムの大規模な改修は難しいとして、しかし、陸上競技用トラックの内側の最低5レーンくらいは潰して、サッカーのピッチとして十分なスペースを取るくらいの改修はしてほしい。

 そうすれば、音楽関係のイベント(コンサート)にもさほど支障はないだろうし(たぶん)、肝心要のサッカーでの使用にも問題ない。いずれにせよ、これ以上、東京・首都圏に大規模な陸上競技場はいらない。

 つまり、どういうことかというと、ツインタワーがあったころの昔の旧ウェンブリースタジアムを思い出していたのである。

旧ウェンブリースタジアム空撮(1991年)
【旧ウェンブリースタジアム空撮(1991年)】

旧ウェンブリースタジアム内部(1990年)
【旧ウェンブリースタジアム内部(1990年)】

ツインタワー(旧ウェンブリースタジアム)
【ツインタワー(旧ウェンブリースタジアム正面)】

 旧ウェンブリースタジアムも、元々トラックが付いた陸上競技場であり、サッカーの観客にとっては、けして見やすいスタジアムではなかった。

 新国立競技場を我慢して50~60年くらい使って、その後、現在のウェンブリースタジアムのようにサッカー(フットボール)専用の本当に素晴らしいスタジアムを建てる。

 田嶋幸三会長の申し出はそのための政治的な深謀遠慮、「布石」なのだろうか……などという妄想が、一瞬頭をよぎったのであった。

(了)



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 FIFAワールドカップにおける賞金(報酬)を男女同額にするべきだと主張している、サッカー女子アメリカ合衆国(米国)の主将ミーガン・ラピノー選手。彼女の主張は、実際のところ、本場ヨーロッパの、特に主要サッカー国の関係者の間で、どれだけまともに相手にされているのだろうか。あるいはされていないのだろうか。

 ラピノー選手のこうした話題を掲載し、視界に入ってくるのが、BuzzFeed Japan であるとか、ニューズウィーク日本版であるとか、ハフィントンポスト日本版とかなので、国際サッカー界主流の本音がかえって見えにくいのである(わざわざ調べようという気もない)。

 同じサッカーW杯でも男・女では収入に大きな差があるし、また、プレーのレベルも異なる。当然、それに比例して男・女では報酬が異なる。

 女子サッカー選手の収入が男子サッカー選手のそれよりも低いのは確かだが、彼女たちが抱えている問題は、男・女にかかわらず、むしろマイナースポーツ一般に共通する問題である。これは男・女の格差の是正ではない。つまりメジャースポーツとマイナースポーツの収入格差を無理やり同格にするような話で、だから話の筋が違うのではないか……。

 ……とか何とか、いろいろと「草の根」では意見があるのだが、何分、公的なサッカー関係者となると政治的に正しい意見にはいろいろと異論を立てづらいのかもしれず、よく分からないのである。

 サッカー女子アメリカ合衆国代表は、2019年6~7月に開催されたフランスW杯で優勝した。米国では「優勝」したスポーツの選手やチームは、大統領がホワイトハウスへ招待し、訪問した選手やチームは大統領を表敬する習慣があるらしい。

 しかし、当代アメリカ合衆国大統領は、性的マイノリティーを否定する、きわめて保守的なドナルド・トランプである。一方、ラピノー選手は、性的マイノリティーである同性愛者であることを公言している。だから、ラピノー選手は「W杯に勝っても,くそったれのホワイトハウスになんか行くもんか」と、これを拒絶した。

 日本の商業捕鯨が再開されたので、捕鯨/反捕鯨問題の評論でも知られる三浦淳氏(新潟大学教授,ドイツ文学)の「反捕鯨の病理学」シリーズを読み直してみた。その第3回、反捕鯨派のロビン・ギル氏(在日米国人の文筆家で『反日本人論』『日本人論探検』などの著作がある)を三浦氏が批判している箇所が印象に残った。
 『日本人論探検』での彼〔ロビン・ギル〕の論法を見よう。まず彼は捕鯨問題における日本人の反応を偏頗〔へんぱ〕だとする。例えば、「英米人こそかつて鯨油のためだけに鯨を乱獲した張本人だ」「反捕鯨はレーガンの陰謀だ」という日本人の反応に対して、「過去にそれだけ悪行を重ねてきたのに、白人=人間至上主義を止めて、よりエコロジカルな信念に〔白人が〕変わったことを歓迎すべき〔!〕」「グリーンピースは革新的環境主義者であり、(…)ベトナム戦争に反対し、レーガンのことが大嫌い」と応じている。
  • ロナルド・レーガン(米国大統領,共和党,任期1981-89)
  • グリーンピース(世界的規模の環境保護団体,本部アムステルダム,1971年設立)
 日本側の反応に若干問題があるのは私も認めるが、それに対するギルの批判もおかしい。まず英米が反捕鯨を主張するようになったのは、経済的に引き合わなくなって捕鯨業から撤退した後になってからである。エコロジカルな理由で捕鯨を止めたのではない。むしろ経済的理由で捕鯨業から撤退していたからこそ、安心して反捕鯨をエコロジカルに主張できたのである。後で述べるが、こういう政治的駆け引きは72年のストックホルム国際環境会議で突如捕鯨問題が取り上げられたことにもつながっている。この辺の政治的洞察がギルには欠けている。

 もっともギルは、米国がイルカの保護に乗り出していること、その実現にあたってはイルカを巻き込むマグロ漁に反対して国民がツナ〔マグロ=鮪〕をボイコットしたことが大きいとしているが、この辺は甘ちゃんの寝言としか言いようがない。都市住民はいくら好物をボイコットしようがそれで食物がなくなるわけではない。しかしマグロ漁を行う漁民からすれば、マグロが売れないと生計そのものが危ういのである。その点で都市住民と漁民には大きな「権力」の差がある。自然をロマンティックに見る多数の都市住民の横暴に過ぎないものを美化するギルの論法を、右で挙げた『反=日本人論』でのファンダメンタリストやエコロジーに関する妥当な認識と比較してほしい。後退ぶりは明らかだろう。こと鯨イルカ類となると、ギルの知的レベルは大幅に低下してしまうのだ。

 レーガンとグリーンピースとの関係だが、ギルがレーガンを嫌っているらしいことはだいぶ後の(捕鯨とは無関係の)記述からも分かるが、嫌っていようがいまいがレーガンが政策を(積極的にであれ嫌々であれ)行う時、米国大統領として行っていることをギルは忘れている。つまり、軍事的・経済的・政治的に世界最強の国家の大統領として行っているということだ。基本的にそれは「力による政治」である。反捕鯨はその意味で、ギルの嫌うレーガン流の政治そのものに他ならない。ギルはグリーンピースが反体制派であると言いたいらしいが、米国の反体制派が外国に向かって何かを主張する時、必ずそこには超大国たる自国の力が背景にあるのであって、そのことが分からないで自国反体制派を持ち上げるのはナイーヴに過ぎる。例えばアイスランドは、米国内での魚製品輸入ボイコットにあって捕鯨を中止せざるを得なかったが、逆のことが可能かどうか、ギルは考えてみるべきだろう。アイスランド国民が米国内の何らかの習慣を気に入らなかったとして、輸入ボイコットによって米国民の習慣を変えられるだろうか。ギルに欠けているのはこうした国家間の力関係への洞察であり、それは彼が根本的に政治音痴である証左なのである。

三浦淳「反捕鯨の病理学 第3回」
 突飛な、飛躍した、あるいは的外れな連想なのかもしれないが、レーガンもトランプも共和党の大統領だし、その政治スタイルはある意味で似ている。つまり「強いアメリカ」である。

 この文中のレーガン大統領とグリーンピースあるいはロビン・ギル氏の関係は、トランプ大統領とラピノー選手の関係に、かなりの程度で置換できるのではないか……などと考えてしまったのである。

 ラピノー選手が嫌っていようがいまいが、トランプが政策を(積極的にであれ嫌々であれ)行う時、米国大統領として行っている。つまり、軍事的・経済的・政治的に世界最強の国家の大統領として行っている。

 ラピノー選手は自身が反トランプであることをアピールしている。だが、米国人たるラピノー選手が外国に向かって、サッカー選手の男女同一報酬などを主張できるのは、必ずそこには超大国たる母国=米国、かつ世界の女子サッカーの超大国としての米国、なおかつ尖鋭的なポリティカルコレクトネス(ポリコレ,PC)の国=米国の政治力・権力が背景にあるからである。その点ではドナルド・トランプと似たようなものだ。

 そのことが分からないで、ラピノー選手を積極的に報じる(持ち上げる?)、BuzzFeed Japan やニューズウィーク日本版、ハフィントンポスト日本版のようなメディアは、少しナイーブではないのか。

 アナロジー(?)にも似た両者の関係に、皮肉じみたものを感じたのである。

 この度のサッカー女子アメリカ合衆国代表は、対戦相手への敬意を欠いた数々の不遜な振る舞いでも話題もしくは問題になった。この辺の行儀の悪さとラピノー選手の言動は、コインの両面にも思える。

 野球のアメリカ大リーグ(MLB,メジャーリーグ)では、試合において、対戦相手を必要以上にコケにしてはいけないというアンリトンルール(不文律)があるというのに、同じ米国でも随分違うものである。

 野球やバスケットボールの主流国は米国だが、サッカーの主流は欧州の主要国である。これらの国々のサッカー関係者が、女子アメリカ代表に関して、心の内で舌打ちしているのではないかなどと心配するのである。

(了)



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男女日本代表敗退で再び火が付いた自虐的日本サッカー観
 1年前の今頃、2018年6月は……。サッカー日本代表はロシアW杯で惨敗するだろう。そして、またぞろネット世論を含めたサッカー論壇は、自虐的な日本サッカー観(日本人論・日本文化論から見たネガティブな日本サッカー観)で溢(あふ)れかえるだろう……などと、すっかり悲観的になり、喚(わめ)きたてていた。


 ところが、西野ジャパンは下馬評を覆(くつがえ)して1次リーグを突破した。本当に恥ずかしい。

 2018年ロシアW杯では、日本代表が一定の成果を収めたために、奇妙キテレツで自虐的な「サッカー日本人論」の類は、あまり流行(はや)らかなったように思われる(もっとも,NHKのドキュメンタリー番組「ロストフの14秒」での,イビチャ・オシム氏の首を傾げたくなるような発言はあったけれども)。


 しかし……。

 2019年6月になって、日本女子代表「なでしこジャパン」がフランス女子W杯のベスト16で敗退、男子日本代表がコパアメリカ(南米選手権)の1次リーグで敗退(さらに20歳以下の男子日本代表が,U20ワールドカップのベスト16で敗退)……という、各カテゴリーの日本代表が「不完全燃焼」で終わる事態が続き、前年は不発だった「火薬」=自虐的な日本サッカー観が、サッカー論壇で「再着火」している気配がある。

「決定力不足」という「日本人」の病!?
 男女の日本代表とも、共通の課題があるとされていて、例えば「決定力不足」である。


 宇都宮徹壱氏は次のように語る。
 もっとも、決定力不足に関しての森保一監督の認識は……決して森保監督のオリジナルではなく、最後の外国人指揮官である〔「現時点で最後」と書くべきでは?〕ヴァイッド・ハリルホジッチ監督も、繰り返し述べてきたことだ。


 さらにさかのぼればジーコ監督時代の15年くらい前にも、日本の「決定力不足」は盛んに指摘されていた。今となっては信じられないだろうが、〔2006年〕W杯ドイツ大会に出場していた時にも、試合前に繰り返しシュート練習が行われていたのである(結局、この大会で日本は2ゴールしか記録していない)。このように「決定力不足」は、日本代表にとって根深い歴史的な課題であり、そこだけをクローズアップしてしまうと問題の本質を見失う危険性をはらんでいる。

 宇都宮徹壱氏が「〈決定力不足〉は,日本代表にとって根深い歴史的な課題」と言っているのは、単純に昔からそうだという意味ではなく、文脈上、一朝一夕に変えようがない日本(人)の国民性や文化といった次元で「根深い歴史的な課題」という意味である。これは「サッカー日本人論」である。どうしても宇都宮徹壱氏は、日本人論・日本文化論の「まなざし」で日本サッカーを見てしまう傾向がある。

 だから、あのジーコの名前とエピソードも登場する。ジーコは、その経歴を見る限り、特別優秀なサッカーの監督・コーチとは言えない。けれども、日本人の自虐的な日本サッカー観を大いにくすぐる人なのである。宇都宮徹壱氏や西部謙司氏は、熱烈なジーコ信奉者のそぶりは見せないが、しかし、どうしてもジーコを見限れないという人でもある。



 そんな折も折、ジーコが来日して、昨今の日本サッカーの決定力不足を嘆き、「これを改善しない限り,日本のサッカーは2020年の東京オリンピックでもよい結果を残せないだろう」とか何とか、また宣(のたま)ったのだという。*


 アンタにだけは言われたくはないわ……というサッカーファンもいると同時に、ジーコの発言に過剰反応する幼気(いたいけ)なサッカーファンもいる。


 ジーコ発言にこうした反応を見せることで、自身のサッカー観の賢しらを誇示する。その発言が日本人論がかっている。これこそ「自虐的サッカー観」である。こういう人たちに対しては、やはり、藤島大氏の「ジーコのせいだ」をあらためて援用せざるを得ない。


 2006年のドイツW杯の期間中、にジーコ監督が日本人の選手たちにシュート練習をさせていたことは、むしろ、ジーコの監督能力を疑わせるエピソードである。本来、いわゆる「日本サッカーの決定力不足」とは別問題なのに、いっしょくたにしてしまっている宇都宮徹壱氏などを見ていると、やはりジーコ・ジャパンとは日本のサッカー評論、サッカー観のリトマス試験紙なのだと感じてしまう。

「脳科学」的に「日本人」監督の采配能力は著しく劣っている!?
 もうひとつの共通の課題は監督の采配、より具体的には「監督の消極的な交代策」である。男女のサッカー日本代表(森保一氏,高倉麻子氏)とも、例えば、選手の交代が遅い、1試合の交代枠(3人)を余らせてしまう、選手を交代させても試合の流れを積極的に変えるものではない……等々の理由で、勝てる試合を失い、日本代表は早々と敗退したというものである。

 この件について、何か面白いネタがネット上にあるかもしれないと思って検索をしていたら、とても興味深いツイートが釣れた。「日本人」の監督は脳科学的(!)に、そして統計的(!)に能力が劣っていることが明らか(!)なのだという。


 しかし、ここでいう「脳科学」とは、誰の、どういう研究・学説なのだろうか? どうせ中野信子みたいな俗流なんじゃないのか……とか、「日本人」と他の人類を分ける(自然科学的な?)定義ってあるのだろうか……とか、その「日本人の脳」をどうやって分析したのか……とか、いろいろツッコミたくなるところではある。

 こうした「脳科学」による日本サッカーの「分析」には、デジャブ(既視感)がある。日本代表が「惨敗」した2014年ブラジルW杯の3か月後、テレビ東京系のサッカー番組「FOOT×BRAIN」が(疑似科学だと批判されている)脳科学者・中野信子を出演させてしまったことがある。
FOOT×BRAIN「目からウロコ!脳科学から見るサッカー上達法!」
2014年9月27日

中野信子_サッカー_フットブレイン1

中野信子_サッカー_フットブレイン2

中野信子_サッカー_フットブレイン3


 くだんのツイートは、中野信子をゲストに迎えた時の「FOOT×BRAIN」を思い出させる。一方、中野信子のような「脳科学者」にはいろいろと疑義が提出されている。

 「日本人がサッカーで弱いのは科学的にも証明されている」という話。要は、日本サッカーが「世界」で負けると頻出する疑似科学的日本人論の一種である。

いよいよ「なでしこジャパン」言説まで日本人論化するのか?
 またまた、話はサッカー日本代表が「惨敗」した2014年のブラジルW杯になる。

 小説家で、サッカー関連の著作もある星野智幸氏が「日本のサッカーのうち,男子日本代表は〈日本的〉であるがゆえに愚劣だが(ただし本田圭佑のような〈日本人離れ〉したキャラクターを除く),女子日本代表〈なでしこジャパン〉は誇るべきものである」といった意味合いの、自虐的日本サッカー観に満ちたエッセイを書いていた(星野智幸「ガーラの祭典」@『エンタクシー』42号掲載,下記リンク先参照)。

 つまり、サッカー女子日本代表「なでしこジャパン」は、自虐的な日本サッカー観やサッカー日本人論の「枠の外」に置かれてきた。しかし、2019年フランス女子W杯の意外に早い敗退を受けて、またその評価を受けて、いよいよ日本女子サッカー&なでしこジャパン言説も、いよいよそうした風潮に呑み込まれてしまったかのような反応が散見される。

 現時点(2019年6月)の時点では、それはハッキリとは見極めがつかない。「要経過観察」といったところか。そのように「発症」してしまったと確信できたら、あらためて論考したい。

 いずれにせよ、こういう思考や精神は、日本サッカーの批評にも創造にもつながらない。

(了)



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