スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:日本ラグビー狂会

はじめに…
 ラグビーワールドカップ2019日本大会まで、あと10日となりました。

 まず、はじめに……。当ブログの趣旨は、ラグビーフットボールというスポーツそのもの、また日本におけるラグビーフットボールそのものを貶めるものではありません。

 かつて、Jリーグ以前、1970年代初めから1990年前後にかけて、国内スポーツシーンにおける人気や日本代表の国際的な活躍の度合いについて、ラグビーがサッカーを上回っていた時期がありました。

日本ラグビー激闘史 2010年 12/8号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2010-11-24


日本ラグビー激闘史 2011年 2/9号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2011-01-26



 サッカーとラグビーは、同じ「フットボール」を祖としています。しかし、片や、サッカーはいち早いプロフェッショナル化やワールドカップ(世界選手権)の創設。こなた、ラグビーは従前のアマチュアリズムの維持や選手権制度の原理的否定(対抗戦思想)……と、大きく思想を異にしていました。

 その当時、一部の心ないラグビー関係者が、ラグビーへの歪んだ愛情のあまり、時勢に乗じて、自身たちとスポーツの在り方に関する考え方が違うサッカーに対し、悪口雑言罵詈讒謗を放つことが間々ありました(逆の例もありましたが)。


 今回のエントリーの目的は、こうした言説の一部をインターネット上に保存し、後学のための覚書とすることです。その意図を斟酌(しんしゃく)の上で、ご笑覧いただけると、幸甚であります。

日本サッカーは未来永劫ワールドカップに出られない!?
前回のエントリーから…
▼日本サッカーは未来永劫ワールドカップに出られない!?~ラグビー狂会=中尾亘孝の放言(2019年09月01日)

 1991年、サッカー日本代表は未来永劫ワールドカップ本大会には出られない! と断言した反サッカー主義のラグビー評論家・中尾亘孝。その「ご託宣」は全く外れたわけだが…。
 1991年秋、サッカー日本代表(横山謙三監督)が不振にあえいでいた頃、ラグビー日本代表(宿沢ジャパン平尾組)は、アジア・オセアニア予選を突破して第2回ラグビーW杯本大会に進出。国民的な期待を集めていた。

日本ラグビー激闘史 2011年 3/9号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2011-02-23



 ちょうどその頃、ラグビーW杯の話題に当て込んで刊行されたラグビー評論書が、「日本ラグビー狂会」を自称する中尾亘孝(なかお・のぶたか)の『15人のハーフ・バックス~オレたちにも言わせろ!〈ジャパンはこうすれば強くなる〉』だった。

 一方、時を同じくして、20年来の低迷を打破するべく日本サッカー協会(JFA)が国内リーグのプロ化(現在のJリーグ)を発表した。目的は、サッカー人気の再興、そしてサッカー日本代表をワールドカップ本大会に出場させることである。

 中尾亘孝は、悪質な反サッカー主義者でもあり、とにかくサッカーが嫌いで嫌いでしょうがない。特に日本のサッカー(Jリーグと日本代表)には茶々を入れずにはいられない。サッカー日本代表はアジア予選を勝ち進んで、W杯本大会に出場できるのか? 中尾亘孝は『15人のハーフ・バックス』の中で居丈高に答える。
サッカーはW杯に出られるか
 ……〔日本の〕サッカーがW杯に出られるかどうかという疑問に答えておきましょう。まことにご同情にたえない次第ですが、ノーです。ジャパン〔ラグビー日本代表〕がオールブラックス〔ラグビー・ニュージーランド代表〕に勝つより確率は低いといえそうです。それはどうしてか、現場に限って原因を追究すると、
  1. 日本独自の理論がない。
  2. 人材が揃わない。
  3. 学閥、派閥の足の引っ張り合いが激しい。
 日本サッカー唯一の成功が、メキシコ五輪〔1968年〕銅メダル獲得です。しかし、五輪のサッカーが選手権としてはマイナーである事実は、当のサッカー関係者が一番よくわかっていることです。その上、指導者は西ドイツ(当時)人のクラマー氏でした。ファースト・ステップとしてはこれでいいでしょう。でもその後、日本独自の理論が生まれたという話は聞きません。人材については、決定力のあるプレーヤーが釜本邦茂以来出ていません。現有の数少ない才能〔海外組〕を外国プロ・チームから呼び戻すことすらできません。最後の派閥争いに関しては、ただただお疲れさまというしかありません。

中尾亘孝『15人のハーフ・バックス』237~238頁


中尾亘孝2
【中尾亘孝】
 時勢に乗じた、まことに傲岸不遜な放言であった。

 ところが、周知にとおり、この「ご託宣」は「未来永劫」どころか、1997年11月の「ジョホールバルの歓喜」で、たった6年で覆(くつがえ)されてしまったのである

岡野雅行_ジョホールバルの歓喜
【ジョホールバルの歓喜】

 本当は1993年の「ドーハ」で達成されるべきだった(先のリッチリンクを参照)というのは、ひとまず措(お)くとしても……。

他人事のように「ジャケvsレキップ」を語る中尾亘孝
 ……中尾亘孝に求められたのは、ラグビーファン、サッカーファン、スポーツファンの読者に対する潔い謝罪であった。

 とにかく横柄が過ぎる中尾亘孝は、ラグビーフットボールおよびラグビーファンにまつわるある種のイメージ、すなわち「ラグビーを偏愛し,不遜で,他の競技なかんずくサッカーを敵対的に見下している……」というステレオタイプを煽っている。しかし、ここで「私が間違っていました」の一言が出るかどうかで、人としての器量がはかられる。

 ところが、中尾亘孝の取った対応は、読者の予想の斜め上をいくものだった。

 「ジョホールバルの歓喜」後の、中尾亘孝のサッカーに対する本格的な言及は、1998年12月刊行の『リヴェンジ』である。

 はじめに「まえがき」であるが、真面目なラグビーファンやサッカーファンの読者は、いきなり狐(きつね)につままされたような気分にさせられる。
まえがき
 ヴェトナム(ヴィエト・ナム)戦争は、アメリカン・ジャーナリズムが勝利した戦争として有名です。〔1998年の〕サッカー・ワールド・カップ・フランス大会は、フランス最大のスポーツ・ジャーナリズム『レキップ』紙(ツール・ド・フランスの元締め)が完全敗北したことで歴史に残るでしょう。考えてみると、今の世の中、かくも明快に物事の白黒が判明するというのは極めて稀〔ま〕れなわけで、その意味では歴史に残るケース・スタディだと思います。『レキップ』紙は優勝した〔サッカーの〕フランス代表を率いるエメ・ジャケ監督に対し、終始一貫して批判的立場をとりながら「優勝」という結果を出したことで、ジャケ監督に全面謝罪したのです。それでも、新聞が売れ続けたことで「批判は正しかった」と開き直ることを忘れていないところがジャーナリスト魂を感じさせます。〔略〕

 一方、岡田〔武史〕監督率いる〔サッカー〕日本代表の場合は、フランス代表ほど簡単には分析できません。それは、「誰が監督をやろうと結果は同じ」だったろうと多くのファンには分かっていたからです。ところが未だに監督が違う人だったら……〔以下略〕

中尾亘孝『リヴェンジ』2頁(原文ママ)

 あれ? あれ? あれれ??? 中尾亘孝は、自分の「間違い」を省みることは、しないのか? 何で「ジャケvsレキップ」の一件を、他人事みたいに語ることができるんや?

 ……というのは、ちょうど中尾亘孝が、サッカー・フランスW杯におけるエメ・ジャケ仏代表監督と『レキップ』紙の話題を出していたので、これに譬(たと)えてみる。

 日本サッカーは「サッカー・フランス代表を率いるエメ・ジャケ監督」の立場であり、日本サッカーは未来永劫ワールドカップに出られないなど日本サッカーにさんざん悪口雑言罵詈讒謗を放言してきた中尾亘孝は『レキップ』紙の立場である。

 日本サッカーは「W杯本大会出場」という結果を出した。だから「完全敗北」した中尾亘孝こそ日本サッカーに対して「全面謝罪」しなければならない。今の世の中、かくも明快に物事の白黒が判明するというのは極めて稀〔ま〕れなわけで、その意味では日本スポーツジャーナリズム史に残る一大事件でもある。

 しかし、自分の論評は正しかったと開き直ることを忘れていないイヤラシサが、反サッカー主義者のラグビー者(もの)=中尾亘孝の本性なのである。

20世紀末,中尾亘孝はすでに「謝ったら死ぬ病」だった
 「謝ったら死ぬ病」は21世紀に入ってから流行り始めた奇病だと言われているが、次に紹介する中尾亘孝の強弁的言い訳は、この症例が20世紀末(1998年)には既に存在していたことを明らかにしている。
 今を去る7年前〔1991年〕、フットボール・アナリストを自称するおやぢ〔オヤジ=中尾亘孝〕は、「〔日本の〕サッカーは未来永劫ワールド・カップ〔本大会〕には出られない」と断定したことがあります。軽率のそしりはまぬがれない放言であります。周知のように、J-リーグ→ドーハの悲劇→ジョホール・バルの歓喜という風にステップ・アップして、目出たくワールド・カップ・フランス大会に出場したわけです。活字だけでなく、文章も読める人が読めば分かることですがこれには前提があったのです。それは、
  1. 日本独自の理論がない。
  2. 人材が揃わない。
  3. 学閥、派閥の足の引っ張り合い。
 以上の三点がクリアされない限り、世界の檜舞台〔W杯〕には絶対立てないという結論は、今でも正しかった〔!?〕と思っているし、現時点でも同じことを書けば、「4.運、ツキに恵まれる」と、もう一項目付け加える必要さえあるとさえ考えています。

 〔日本〕サッカーの場合、理論面では「〔19〕90年以降新しい理論は生まれていない」と断言する岡田武史監督の誕生があり〔出典不明〕、中田英寿の登場で人材面はクリア〔いつも過大評価がついて回る人〕、そしてJ-リーグのダイナミズムは派閥をバラバラにして、協会内の既得権益集団へと転向させた〔関東大学ラグビー対抗戦の慶應義塾大学,早稲田大学,明治大学の三校こそ本当の「既得権益集団」だが〕。以上の変革の結果、ヨレヨレヘロヘロの状態だったとはいえ、ワールド・カップ〔本大会〕出場への道を拓いたのだと思う。

中尾亘孝『リヴェンジ』11~12頁(原文ママ)

 「ヴィエト・ナム」とか、「おやぢ」とか、ハイフンが入った「J-リーグ」とか、中黒が入った「ワールド・カップ」とか「ジョホール・バル」とか……は、中尾亘孝の文章表現上の実につまらない拘泥である。つまり、中尾亘孝は独りよがりで矮小な人間である(だから書名も『リベンジ』ではなく『リヴェンジ』なのである)。

 それはともかく、「日本サッカーは絶対W杯本大会に出場できない」と「予想」はしたものの、しかし「事実,現実」はこれを覆(くつがえ)してしまった。それでも、なおかつ中尾亘孝は自身が下した「結論は、今でも正しかった〔!?〕と思っている」などと言い逃れするのは、どう考えても辻褄(つじつま)が合わない。

 要するに、俺は間違ったことは書いていない。それが分からないのは読解力のないお前ら読者がバカだからだ……と、中尾亘孝は見苦しく居直り、責任を転嫁したのだ(こういう,ナチュラルな憎まれ口を平然と書くのが中尾亘孝の品性の下劣さである)。

 こんな感じで過去の「ご託宣」の間違い、その「みそぎ」をチャチャっと済ませた(つもりの)中尾亘孝は、今度は『リヴェンジ』で、1998年サッカー・フランスW杯で3戦3敗1次リーグ敗退に終わったサッカー日本代表=岡田ジャパンや日本人サポーターを愚弄し、嘲笑する「ご高説」を垂れるようになったのである。

 サッカー、なかんずく日本サッカーを、しつこくヘイト(hate)し、ハラスメント(harassment)する、その中尾亘孝の「ご高説」の逐一は細かくは紹介しないの。物好きなサッカーファンやラグビーファンは現物に当たってほしい(目次のみPDFのデータにしたので参照されたい)。
 こんな言動は、インターネット全盛の21世紀ならば炎上必至である。……ばかりか、個人情報を特定されて、中尾亘孝一個人が報いを受けても、誰からも同情されないという事態すら起こりうる。

中尾亘孝は日本語の読み書きができない与太郎である
 それでは、日本語の読解力がない(活字ではなく文章が読めない)バカなのは、読者(サッカーファンやラグビーファン)なのか、あるいは反サッカー主義者の中尾亘孝なのか、軽く検証してみる。

 先の引用文だけでなく、中尾亘孝『15人のハーフ・バックス』の該当部分については、PDFデータでもアップしたので、そちらも参照されたい。
 1991年の『15人のハーフ・バックス』では、日本サッカーがW杯本大会に出られるかどうかについては、完全に「ノー」だと断言している。そして、その「原因」として例の3か条を挙げている。
  1. 日本独自の理論がない。
  2. 人材が揃わない。
  3. 学閥、派閥の足の引っ張り合いが激しい。
 ところが、これが1998年の『リヴェンジ』では、この3か条は、日本サッカーがW杯本大会出場を「クリア」するべき「前提」に話をスリ替えて(!)いる。自身の言行一致を取り繕うために、おかしな自己弁護に走っているのは、サッカーファンやサッカー関係者に「謝ったら死ぬ病」に罹(かか)った中尾亘孝の方である。

 ついでに、中尾亘孝が追加した「4.運、ツキに恵まれる」の項目についても説明しておくと……。1997年のフランスW杯アジア最終予選では、たしかアウェーのウズベキスタン戦で、試合終了間際の偶発的なゴールで同点に追いついたことがあり、この得点がグループリーグの最後に効いてくる……ということがあった。

 これなどは、中尾亘孝が言うように「運、ツキに恵まれ」た実例なのかもしれない。

 しかし、日本サッカー狂会を出身母体を持つサッカージャーナリストの後藤健生さんの「理論」に従えば、サッカーの場合、局面局面では偶発的な出来事が起こっても、リーグ戦(ラウンドロビンとでも言わなきゃならんのか?)の最後には、おおむね実力通りの結果に収斂されてくる。

 この「理論」は、後藤健生さんの著作『アジア・サッカー戦記』や『ワールドカップの世紀』などに出てくる話である。


 つまり、サッカー日本代表=加茂&岡田ジャパンは、1997年のフランスW杯アジア最終予選において、少なからず迷走はしたが「おおむね」実力通りの結果を出したのである。だいたい「運、ツキに恵まれ」ただけで、1998年から2018年まで、サッカー日本代表は6回連続してW杯本大会に出場などできない。

 中尾亘孝は、実は日本のサッカーのことをよく知らない。自称「日本ラグビー狂会」の中尾亘孝の本を読んでいて不思議に思うのは、反サッカー主義者にもかかわらず、「狂会」の名前をサッカーからパクっているにもかかわらず、しかし、日本サッカー狂会の後藤健生さんの著作を、まったく(ほとんど)参照していないことだ。

 このことは、中尾亘孝のことを「ラグビーの後藤健生」などというトンデモない紹介をした、佐山一郎さんも気が付いていないようである(佐山一郎さんの中尾亘孝評は「兄弟フットボールライターからの助言」として,佐山一郎著『サッカー細見』に所収)。

サッカー細見―’98~’99
佐山 一郎
晶文社
1999-10-01


 中尾亘孝は、後藤健生さんの著作を意図的に参照しないことで、日本サッカーの伸長を認めないという詐術を用いる卑劣漢なのである。

ラグビーファン=〈観客〉から見放された中尾亘孝
 なにより、中尾亘孝の、この卑怯未練な言動に嘆き悲しんだのは、他でもない、真面目で善良なラグビーファンたちだった。『リヴェンジ』における逆ギレの一件は、読者=ラグビーファンが中尾亘孝から離反していく決定的なキッカケになっていく。

 これ以降、中尾亘孝のラグビー本体の評論の質も大きく、ますます下がった。『ラグビーマガジン』や文春『ナンバー』ラグビー記事への執筆の機会も減った(たまに間違って起用されては,読者のヒンシュクを買うが)。

 中尾亘孝が編集を周旋している「狂会本」と通称されるアンソロジー形式のラグビー本からは、小林深緑郎さん、大友信彦さん、永田洋光さん、藤島大さんといった有為な常連執筆者が去っていった。昨今の「狂会本」は、ラグビーファンからは、中尾亘孝主宰の「同人誌」などと揶揄されるほど、コンテンツの質が下がった。

 このことは、本人も意識しているのかもしれない。かつて、中尾亘孝は自身の著作のプロフィール欄には「〈観客〉の立場から独自のラグビー評論を展開」するとあった。

 ところが、『リヴェンジ』の少し後から「〈観客〉の立場」を自ら放棄し、「フルタイムのラグビー・ウォッチャー」とか、先の引用文にあったように「フットボール・アナリスト」などという不思議な肩書を自称するようになっていく。

 〈観客〉たるラグビーファンから見放され、自らも〈観客〉と決別した中尾亘孝。そのラグビー観や反サッカー主義は、さらにさらに歪んだものになっていった。

つづく




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はじめに…
 ラグビーワールドカップ2019日本大会は、いよいよ今月20日となりました。ジャパンのスコッドも発表されました。

 まず、はじめに……。当ブログの趣旨は、ラグビーフットボールというスポーツそのもの、また日本におけるラグビーフットボールそのものを貶めるものではありません。

 かつて、Jリーグ以前、1970年代初めから1990年前後にかけて、国内スポーツシーンにおける人気や日本代表の国際的な活躍の度合いについて、ラグビーがサッカーを上回っていた時期がありました。

日本ラグビー激闘史 2010年 12/8号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2010-11-24


 サッカーとラグビーは、同じ「フットボール」を祖としています。しかし、片や、サッカーはいち早いプロフェッショナル化やワールドカップ(世界選手権)の創設。こなた、ラグビーは従前のアマチュアリズムの維持や選手権制度の原理的否定(対抗戦思想)……と、大きく思想を異にしていました。

 その当時、一部の心ないラグビー関係者が、ラグビーへの歪んだ愛情のあまり、時勢に乗じて、自身たちとスポーツの在り方に関する考え方が違うサッカーに対し、悪口雑言罵詈讒謗を放つことが間々ありました(逆の例もありましたが)。


 今回のエントリーの目的は、こうした言説の一部をインターネット上に保存し、後学のための覚書とすることです。その意図を斟酌(しんしゃく)の上で、ご笑覧いただけると、幸甚であります。

期待される「日本代表」はラグビー?
 1989~1991年頃の日本スポーツ界の状況……。オリンピックの正式種目だった野球の日本代表にプロ野球(NPB)は関わることはなく、アマチュアのみで編成されていた。その分、国民的な関心が高かったとはちょっと言い難い。

 サッカー日本代表はアジア予選でモタモタしていて、W杯や五輪といった「世界」の大舞台に出ていけなかった(←日本のサッカーマスコミが大好きな「日本代表は○○を勝ち抜く力を持っていなかった」的な評価とは少し違う.この件,後述)。

 したがって、当時、日本のスポーツ界で、期待される「日本代表」といえば、もっぱら「ラグビー日本代表・宿沢ジャパン平尾組」(宿沢広朗=しゅくざわ・ひろあき=監督,平尾誠二=ひらお・せいじ=主将)であった。

日本ラグビー激闘史 2011年 2/9号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2011-01-26


 この「ジャパン」は、第2回ラグビーワールドカップのアジア予選を突破して、英・仏・アイルランドで開催されたW杯本大会に出場している。1991年10~11月に行われた本大会では、スコットランド、アイルランドにそこそこ善戦しながら最後は完敗。最終戦のジンバブエには勝ったが……簡単に言えば「世界の壁」に跳ね返されたのである。

 しかし、日本サッカーは「世界と戦う」ことすら出来なかったのだから、サッカーファンは心境は複雑であった。

本来は小林深緑郎氏が書くべきだった『15人のハーフ・バックス』?
 この大会の直前、1991年9月に満を持して刊行されたのが、「日本ラグビー狂会」または「ラグビーの〈目利き〉」を自称する、中尾亘孝(なかお・のぶたか)による『15人のハーフ・バックス』である。

 公平に見て、この本は中尾亘孝のラグビー関連著作の中でも最も力の入ったものである。もっとも、コンテンツに必要な情報やデータは、ほとんど、日本ラグビー論壇の良心=小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)氏らから提供されたものだが。

 中尾亘孝本人は、自身ではめったに現場に足を運んで取材しない。すなわち『15人のハーフ・バックス』は、本来、小林深緑郎氏によって書かれ、上梓されるべき本だった。そうはならなかったのは、辛辣で刺激的にみえる中尾亘孝の思想や語彙、文体が(当時のラグビーファンの)読者にはウケが良いだろうという版元の読みがあったからである。
前回のエントリーから…
▼ラグビー宿沢ジャパン衝撃の登場と反サッカー主義者=中尾亘孝の台頭(2019年08月28日)

 1989年、いきなりスコットランドを破って注目されたラグビー日本代表「宿沢ジャパン」。それに合わせたかのように中尾亘孝はラグビー論壇にデビューする。だが、その内容は刺激的なラグビー評論と醜悪な反サッカー主義が入り混じった異様なものだった。
 一方、そんな中尾亘孝の個性が、イヤラシイ形で表出しているのが、『15人のハーフ・バックス』本文のあちらこちらから滲(にじ)み出る「反サッカー主義」である。

日本サッカーは未来永劫ワールドカップに出られない!?
 その逐一は紹介しないが、今回の採り上げるのは、同時期に世上の話題に上った、日本サッカーのプロリーグ化構想(現在のJリーグ)に対する、中尾亘孝の言及である。

 『15人のハーフ・バックス』を脱稿しようかどうかというタイミングで、この話が沸き上がってきたものだから、反サッカー主義のラグビー評論家=中尾亘孝としては、ついつい茶々を入れずにはいられない。

中尾亘孝(プロフィール付き)
【中尾亘孝】

 日本サッカーのプロリーグは成功するのか? サッカー日本代表はアジア予選を勝ち進んで、W杯本大会に出場できるのか? 中尾亘孝は居丈高に答える。
サッカーはW杯に出られるか
 ここで……看過できない問題が発生したので触れてみようと思います。

 それはサッカーのプロ化〔Jリーグ〕です。〔略〕

 ……〔日本の〕サッカーがW杯に出られるかどうかという疑問に答えておきましょう。まことにご同情にたえない次第ですが、ノーです。ジャパン〔ラグビー日本代表〕がオールブラックス〔ラグビー・ニュージーランド代表〕に勝つより確率は低いといえそうです。それはどうしてか、現場に限って原因を追究すると、
  1. 日本独自の理論がない。
  2. 人材が揃わない。
  3. 学閥、派閥の足の引っ張り合いが激しい。
 日本サッカー唯一の成功が、メキシコ五輪〔1968年〕銅メダル獲得です。しかし、五輪のサッカーが選手権としてはマイナーである事実は、当のサッカー関係者が一番よくわかっていることです。その上、指導者は西ドイツ(当時)人のクラマー氏でした。ファースト・ステップとしてはこれでいいでしょう。でもその後、日本独自の理論が生まれたという話は聞きません。人材については、決定力のあるプレーヤーが釜本邦茂以来出ていません。現有の数少ない才能〔海外組〕を外国プロ・チームから呼び戻すことすらできません。最後の派閥争いに関しては、ただただお疲れさまというしかありません。

 それでもこうした閉塞状況は、たった一人の天才の出現によって解消してしまうものですから、簡単には見放せないものです。

 当面の大問題をさし置いて、ほとんど無謀ともいえるプロ化に取り組むサッカー協会〔JFA〕は、意外な決断力と実行力を見せてくれました。これほどのリーダー・シップがどうして代表チーム強化の際に発揮できないのか、傍目からはさっぱりわからないのですが、それでも現状改革に心掛けているだけマシです。

 プロ化構想発表から実行までの移行期間が短すぎる点に、ナニやら公表されていない背景がありそうです。とまれここは、大いに手心を加えて前向きに考えてみましょう。サッカー界がこれほどまでに劇的な改革を必要とする理由は「もっと強くなりたい」という願望からなのはだれの目にも明らかなのですから。

 でも、「日本のサッカーをもっと強くして、W杯に出る」――この目標めざして、具体的な戦術、戦略を示さずに、サッカーをプロ化すればいいのだといささか飛躍した結論にとびついたかのように見えることは否めません。こうすれば、あれよあれよという間に、規格外れの天才がどんどん生まれてくるというわけでしょう。〔以下略〕

中尾亘孝『15人のハーフ・バックス』237~239頁
 さらにこの後、中尾亘孝は「Jリーグは絶対に失敗する」という話を延々続けるのだが、今回は割愛する。サッカーへの敵意丸出しの上から目線には本当にウンザリさせられる。

 中尾亘孝の本当のイヤラシサは元の書面に当たってこそ、より深く味わえる。『15人のハーフ・バックス』の該当部分はPDFにしてアップしたので、詳しくはそちらを参照されたい。
 時勢に乗じた、反サッカー主義者による、まことに傲岸不遜な「ご託宣」である。

ドーハの悲劇,ジョホールバルの歓喜、ブルームフォンテーンの悪夢
 ラグビーがサッカーに優越していた1991年当時、中尾亘孝の「ご託宣」は、いかにももっともらしく聞こえた。しかし、間違っていたのは、読者も承知の通りである。

 [1991年]1989年のイタリアW杯アジア予選の敗退など、あまりの成績不振で、サッカー日本代表の横山謙三(よこやま・けんぞう)監督に対して、サッカーファン、サポーターから解任要求運動が起きる(俗に言う「横山やめろ」運動)。

 [1992年]横山謙三監督、ついに辞任する。

 [1992年]サッカー日本代表初の外国人監督として、オランダ人のハンス・オフト氏が就任する。

 [1992年]8月、オフト・ジャパン(当時からの習慣ではないが,便宜的にこのように呼ぶ)が、韓国、中国、北朝鮮などに競(せ)り勝って、東アジアの王者に。サッカー日本代表は、戦後初の公式タイトルを獲得する。

 [1992年]10~11月、オフト・ジャパンが、イラン、中国、サウジアラビアを破ってAFCアジアカップで初優勝。最優秀選手は日本代表の三浦知良。翌年のアメリカ合衆国W杯アジア予選でも、日本が有力候補として躍り出る。

 [1993年]10月、オフト・ジャパン、アメリカ合衆国W杯アジア最終予選で3位。いわゆる「ドーハの悲劇」でW杯本大会出場権獲得は逃すが、ギリギリもう一歩まで迫った。

 [1996年]サッカー日本五輪代表、アジア最終予選を突破してアトランタ・オリンピック本大会の出場権を獲得。五輪本大会では、1次リーグでは、いわゆる「マイアミの奇跡」でブラジルを破る金星を上げる。

 [1997年]11月、サッカー日本代表=岡田ジャパンは、フランスW杯アジア予選第3代表決定戦でイランを下す。いわゆる「ジョホールバルの歓喜」で、日本はサッカーW杯本大会の出場権を初めて獲得した。

 ……日本代表を中心に、それからの日本サッカーの大まかな流れを折っていくと、以上のようになる。日本サッカーは未来永劫ワールドカップに出られないという「ご託宣」は、たった6年で打破されたのである(本当はもっと早く打破できるはずだった.後述)。

 この中尾亘孝発言がいかにも不味かったのは、サッカー日本代表がW杯本大会に出場できる確率は「ジャパン〔ラグビー日本代表〕がオールブラックス〔ラグビー・ニュージーランド代表〕に勝つより確率は低い」などと放言してしまったことだ。

 なぜなら、1995年、南アフリカで行われた第3回ラグビーW杯で、皮肉なことに、ジャパンはオールブラックスと対戦し、17対145(!?)という大惨敗を喫してしまったからだ。この惨めな試合を、人呼んで「ブルームフォンテーンの悪夢」と呼ぶ。

ブルームフォンティーンの惨劇
【ブルームブルームフォンテーンの悪夢】

 この試合をあえてサッカーにたとえれば、ドイツかブラジルを相手に、2分に1本の割合でシュートを打たれるか、フリーキックかペナルティキックかコーナーキックを与えるかして、90分間フルタイムで23~24失点する(!?)ようなものだ。

 この敗北で、日本ラグビーは二度と立ち直れないかのようなダメージを負った。

 真面目なラグビーファンには申し訳ないけれど、こと反サッカー主義者の中尾亘孝一個人に関しては「因果応報」という言葉を思い出してしまう。

横山全日本…停滞の時代の罪
 日本サッカーは、オフト・ジャパンになってから急に強くなったようにも見えるが、これは正しくない。

 1980年代、日本のサッカーは、1985年にメキシコW杯アジア最終予選まで進出した森孝慈(もり・たかじ)監督の日本代表(森全日本)、1987年にソウル五輪アジア最終予選まで進出した石井義信(いしい・よしのぶ)監督の日本代表(石井全日本)……と、曲がりなりにも「良い流れ」を作っていた。

 ところが、これを継承した横山謙三監督のサッカー日本代表(横山全日本,1988~1992年)は「流れ」を停滞させてしまった。横山監督が、山っ気に走らず、しかるべき指導力を発揮していれば、1989年のイタリアW杯アジア最終予選には進出できた。

 最終予選は6か国総当たりで、たとえ全敗でも5試合経験できる。それだけの「経験値」があれば、サッカー日本代表は「ドーハの悲劇」もなく、1994年のアメリカ合衆国W杯本大会に出場できていたかもしれない……。

 ……こう言っていたのは、たしかブログ「サッカー講釈」の武藤文雄氏だったような気がするが、インターネット上でソースが見つからない。武藤氏がネット進出以前のコピー刷りのミニコミ誌の時代だったか?

 スポーツの勝負事に「タラレバ」はないというが、タラレバ談義を上手に突き詰めれば、これは立派な敗因分析になると述べていたのは、中尾亘孝だったはずである(たしか1989年刊の『おいしいラグビーのいただきかた』だった)。

 要するに、中尾亘孝が「サッカー日本代表は未来永劫ワールドカップに出られない」と大見得を切ったのは、横山全日本の「停滞」の時代である。つまり、この人は「目利き」を自称する割には、日本のサッカーに関して、大変な鑑定違いをおかしてしまっていたのだ。

意外と日本サッカーを知らない(?)中尾亘孝
 ダメ押しに、サッカー日本代表が絶対にW杯本大会に出られない条件として、中尾亘孝が掲げていた3か条のひとつ「日本独自の理論の不在」の正否について、軽く検証してみる。

 この「日本独自の理論」というのがサッカーファンには分かりにくいが、具体的に日本ラグビーでいえば、大西鐡之祐(大西鉄之祐)氏が提唱した「接近・展開・連続」理論に基づいたのオープンラグビースタイルのような戦法のことである。



 それでは、サッカーにそのようなプレースタイルが存在しないのか……というと、それは正しくない。しかも、その萌芽は第二次世界大戦前から見られた。1936年「ベルリンの奇跡」のメンバーのひとり、サッカー日本代表・松永行(まつなが・あきら)選手が、大会後、体育専門誌に寄せた一文がある。
 ……ショートパスの速攻法をあくまでも伸ばし、之〔これ〕に加へるに遅攻法をとり、緩急よろしきを得て、始めて日本蹴球の完成の時は来るのであると同時に、この時こそ世界蹴球覇者たり王者たる時なのである。〔以下略〕

松永行「オリムピック蹴球の回顧」『体育と競技』1936年11月号69~72頁


ベルリンの奇跡 日本サッカー煌きの一瞬
竹之内響介
東京新聞出版局
2015-11-23


 この文章が「再発見」されたのは、Jリーグ以降の日本サッカー史の見直しからだった。そうだとしても、中尾亘孝という人は、英国のラグビー史・サッカー史にはそれなりに詳しくても、日本のサッカー史は意外に調べていない、知らないようである。

偏屈な中尾亘孝は日本サッカーに対して謝罪するか?
 とにかく、中尾亘孝の「ご託宣」は実践でも理論でも完全に間違っていたのである。

 「ジョホールバルの歓喜」の後、少々意地の悪い興味ではあったが、真面目なラグビーファンやサッカーファンからは、中尾亘孝が自身の誤りを認めることと、日本サッカーへの真摯な謝罪が求められた。

 ところが、この人はさらに底意地の悪く、自身の非礼を一切合切謝罪しない人間だったのである。そんなわけで、中尾亘孝への糾弾は今回限りでは終わらない。

つづく




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はじめに…
 ラグビーワールドカップ2019日本大会まで、あと1か月を切りました。

 まず、はじめに……。当ブログの趣旨は、ラグビーフットボールというスポーツそのもの、また日本におけるラグビーフットボールそのものを貶めるものではありません。

 かつて、Jリーグ以前、1970年代初めから1990年前後にかけて、国内スポーツシーンにおける人気や日本代表の国際的な活躍の度合いについて、ラグビーがサッカーを上回っていた時代がありました。

日本ラグビー激闘史 2010年 12/8号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2010-11-24


 サッカーとラグビーは、同じ「フットボール」を祖としています。しかし、片や、サッカーはいち早いプロフェッショナル化やワールドカップ(世界選手権)の創設。こなた、ラグビーは従前のアマチュアリズムの維持や選手権制度の原理的否定(対抗戦思想)……と、大きく思想を異にしていました。

 その当時、一部の心ないラグビー関係者が、ラグビーへの歪んだ愛情のあまり、時流に乗じて、自身たちとスポーツの在り方に関する考え方が違うサッカーに対し、悪口雑言罵詈讒謗を放つことが間々ありました(逆の例もありましたが)。


 今回のエントリーの目的は、こうした言説の一部をインターネット上に保存し、後学のための覚書とすることです。その意図を斟酌(しんしゃく)の上で、ご笑覧いただけると、幸甚であります。

ラグビー宿沢ジャパン,スコットランドを破る!
 1989年5月28日、サッカー日本代表はジャカルタでインドネシア代表とイタリアW杯アジア1次予選の試合を行い、引き分けている。スコアは0対0。2019年の今、アウェーとはいえ、この相手にこんな試合をしたら大問題になる。監督解任論ぐらいは出るだろう。

 ただし、この試合、当時の日本ではサッカーファンを除いて、ほとんど無視された。

 同日、日本中の注目を集めた日本代表はラグビーフットボールの方だった。宿沢広朗(しゅくざわ・ひろあき)監督、平尾誠二(ひらお・せいじ)主将率いるジャパン(ラグビー日本代表)が、東京・秩父宮ラグビー場でスコットランド代表を28対24で破ったのである(ただし正規のフル代表ではなかったらしいが)。

 (それでも)ラグビーの世界トップ8の一角に初めて勝利したのである。NHKも午後7時のニュースで特報した。ちょうど、2015年のラグビーW杯でジャパンが世界トップ3の南アフリカ代表スプリングボクス(こちらは正真正銘のフル代表)に勝った時のような、ちょうどあんな感じである。国民レベルでラグビーの話題で湧きかえった。

日本ラグビー激闘史 2011年 2/9号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2011-01-26


 サッカーファンは、国内人気ばかりでなく、日本代表の活躍・実績でもラグビーに差を付けられたのか……と、少なからず複雑な心境になった。

中尾亘孝、ラグビー論壇に登場す
 そんな世上に、宿沢ジャパンの衝撃的な登場に合わせるかのように、デビュー作『おいしいラグビーのいただきかた』をひっさげて、ラグビー論壇に颯爽と登場したのが、中尾亘孝(なかお・のぶたか)だった。
ラグビーシーズン到来!

関係者が蒼ざめる最初にして最後の本

オキテ破りのラグビー観戦術〔マニュアル〕

中尾亘孝『おいしいラグビーのいただきかた』表紙の帯より


中尾 亘孝
徳間書店
1989-11


 そのキャッチフレーズからして、なかなか挑発的であるが、同書の「まえがき」を読むと、同時代のラグビーファン・関係者の感慨と日本ラグビーの状況が読み取れる。
まえがき
 のっけからあとがきの話をするのも変なのですが、この本〔『おいしいラグビーのいただきかた』〕の出版が決まった時〔1988年頃か〕ぼく〔中尾亘孝〕の考えたあとがきというのが、「いつの日か日本代表がIB加盟国〔ラグビーの世界トップ8の代表チーム〕を倒す時、ぼくは同じ空間と時間を共有し歴史的瞬間に立ち会う感動を味わいたい」というようなものでした。

 ところが1989年5月28日、早くもその夢が実現してしまったのです。日本代表はスコットランド代表に勝ってしまったのです。ほんとに勝ってしまった。もちろんぼくはその日秩父宮ラグビー場にいました。歴史的瞬間、明らかに決定的と言える一瞬に立ち会えて、しかもその意義が認識できているという幸福、不覚にも涙を流しそうになりました。〔中略〕(太字は原文では傍点)

 さて。

 とどまるところをしらないラグビー・ブームです。まったく行く末が思いやられるほどです。〔以下略〕

中尾亘孝『おいしいラグビーのいただきかた』6~7頁


中尾亘孝(プロフィール付き)
【中尾亘孝】
 とにかく当時、サッカーはラグビーにいろいろ差を付けられちゃったわけである。

新鮮なラグビー評論と醜悪な反サッカー言説の混在
 ラグビージャーナリズムの世界はかなり保守的で、ラグビー界本体はさらに保守的で頑迷固陋なので、中尾亘孝のラグビー評論の登場は、新鮮かつ刺激的であった。本人もそのことを充分に意識している。
あとがき
 ここ十年、'80年代になってからスポーツ文化史に残るような新しい試み、著作が各分野で相次いで刊行されました。

 プロ野球では野村克也氏の解説を嚆矢に、草野進〔蓮實重彦〕、玉木正之、平出隆の諸氏のエッセイが光っています。プロレスでも村松友視氏のエッセイが火付け役となって、新しいジャーナリズムの動きを作り、プロレス自体の在り方までに影響を及ぼすに至っています。競馬はもともと多士済々な作家、ジャーナリストの……〔中略〕

 ラグビーにもそろそろこういった著作があってもいいじゃないかと思っていました。しかし、自分〔中尾亘孝〕でそれを書こうとは〔…〕夢にも思いませんでした。〔以下略〕

中尾亘孝『おいしいラグビーのいただきかた』230~231頁
 1980年代の玉木正之氏の野球評論が面白かったことは間違いない(しかし1990年代以降は完全に駄目になった)。草野進〔蓮實重彦〕は衒学趣味と俗物主義である。それよりはずっとましだが平出隆氏は少々キザったらしいロマン主義がある。

 一方で鼻につくのが、中尾亘孝の反サッカー主義的な言動である。

 例えば……。当時のラグビーは抑制的かつ禁欲的で得点しても選手は喜んだりしなかった。それを誇って、サッカーの得点後のゴールセレブレーション(ゴールパフォーマンス,得点の喜び)は醜悪であるとか(同書19頁)。

 あるいは……。サッカーのスライディングタックルは芝生を傷めるから、ラグビーはサッカーとピッチを共用する必要はないだとか(同書201頁)。

 これらはほんの一部であるが、中尾亘孝の反サッカー思想・反サッカー言説のニュアンスのイヤラシサは、間接的な紹介では伝えきれない。やはりその実物を読むに限る。物好きなサッカーファン、ラグビーファンは『おいしいラグビーのいただきかた』や『15人のハーフ・バックス』などを読んでみるとよい。

 中尾が「間違っていた」のは、ラグビーも1995年アマチュアリズム(国際ラグビー評議会のアマチュア規定)を止めたら、素直に「得点の喜び」を表すようになったことでも分かる(下記リンク先参照)。

 芝生を傷める云々の話ならば、ラグビーでスクラムを組んでいる時も同様である。お互い様である。明治時代から一度として競技人口でサッカーを上回ったことのないラグビーが、必要なスタジアムやピッチを確保するために戦略的パートナーシップを結べそうなサッカーを、わざわざ敵に回す言動をとる……というのが、この時代の世上であった。

 2019年ラグビーW杯日本大会で、巨大なサッカー専用スタジアム「埼玉スタジアム2002」を使用できなかったのは、ラグビーに貸すとスクラムで芝生を傷めるからだと言われた。そしてそれは、昔、ラグビー関係者にいろいろ嫌なことを言われたり、やられたりしたことへのサッカー側の意趣返しである……などという無責任な「噂」まで流れている。

「ラグビー本流/サッカー傍流」論争を仕掛ける
 中尾亘孝の反サッカー主義の最たるものが、「サッカーから枝分かれしたラグビー」という世間一般のイメージを逆転させた、ラグビーこそが英国前近代のフットボールの正統なる継承者であり、サッカーはその矮小な傍流にすぎないとするフットボール正閏(せいじゅん)論「ラグビー本流/サッカー傍流」説である。

 中尾は、『おいしいラグビーのいただきかた』のまるまる一章を、この説の「論証」に費やしている。

 この件は、前回のエントリーで詳述したので、そちらを参照されたい。
前回のエントリー
▼ラグビー狂会=中尾亘孝の反サッカー言説~サッカーこそラグビーの傍流にすぎない!?(2019年08月20日)

 自称「日本ラグビー狂会」で反サッカー主義者の中尾亘孝(なかお・のぶたか)が主張する「ラグビーこそが,前近代英国フットボールの正統な後継者であり,サッカーはその矮小な傍流にすぎない」という仮説が、どこまで妥当なのか検証してみた。
 老舗和菓子の元祖・本家争いのような、唯一の正統なるフットボールとは何かを標榜する中尾亘孝の政治的アジテーションこそ意味がない。

中尾亘孝は村松友視氏のプロレス評論から何を学んだのか?
 先の引用文にあるように、中尾亘孝は、『私、プロレスの味方』などの村松友視氏のプロレス評論に影響を受けたという。

 村松氏は、自身をドン・キホーテのような存在と位置付け、プロレスをクローズアップさせ、その価値を言いつのったとしている(村松友視『アリと猪木のものがたり』より)。

アリと猪木のものがたり
村松 友視
河出書房新社
2017-11-20


 しかし、村松氏は、ボクシングや柔道といった他の格闘技、野球やサッカーといった他のスポーツを殊更に貶めたり、そのファンを不快がらせるようなことは書かない。

 一方、中尾亘孝は、他の球技なかんずくサッカーのような兄弟フットボール、あるいは同じラグビーであっても、関東学院大学や帝京大学のような新興大学といった「中尾亘孝自身の論理の外にある存在」を著しく不快がらせる、異様な言説を繰り返し発信してきた。

 この不徳さは、皮肉を込めて、ある種の「天才」と言ってもいい。

 中尾は、1990年代初め、本邦スポーツジャーナリズム界の一大権威、文春ナンバーのラグビーシーズン総括評論を書く機会をたびたび与えられていた。つまり、中尾もまたラグビージャーナリズムのオーソリティーでもあった。日本サッカー狂会の真似をして「日本ラグビー狂会」を名乗ったのもこの頃である。

 このことは、かえってラグビーの価値を大きく歪めることにもなった。

 ラグビーファンや関係者は、不遜で、サッカーをはじめとする他のスポーツ、あるいは同じラグビーでも新興勢力を見下している……。

 ……こんなイメージを人々に刷り込ませた中尾亘孝の罪は重い。

つづく



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はじめに…
 ラグビーワールドカップ2019日本大会まで、あと1か月となりました。

 まず、はじめに……。当ブログの趣旨は、ラグビーフットボールというスポーツそのもの、また日本におけるラグビーフットボールそのものを貶めるものではありません。

 かつて、Jリーグ以前、1970年代初めから1990年前後にかけて、国内スポーツシーンにおける人気や日本代表の国際的な活躍の度合いについて、ラグビーがサッカーを上回っていた時代がありました。

日本ラグビー激闘史 2010年 12/8号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2010-11-24


 サッカーとラグビーは、同じ「フットボール」を祖としています。しかし、片や、サッカーはいち早いプロフェッショナル化やワールドカップ(世界選手権)の創設。こなた、ラグビーは従前のアマチュアリズムの維持や選手権制度の原理的否定(対抗戦思想)……と、大きく思想を異にしていました。

 その当時、一部の心ないラグビー関係者が、ラグビーへの歪んだ愛情のあまり、時流に乗じて、自身たちとスポーツの在り方に関する考え方が違うサッカーに対し、悪口雑言罵詈讒謗を放つことが間々ありました(逆の例もありましたが)。


 今回のエントリーの目的は、こうした言説の一部をインターネット上に保存し、後学のための覚書とすることです。その意図を斟酌(しんしゃく)の上で、ご笑覧いただけると、幸甚であります。

ラグビー評論家・中尾亘孝(なかお・のぶたか)とは何者か?
 ラグビーフットボールに関心は薄くとも、サッカーファンがラグビー評論家・中尾亘孝の名前を憶(おぼ)えているとしたら、1998年フランスW杯の少し後、佐山一郎さんが『サッカーマガジン』誌の連載コラムの中で「ラグビーの後藤健生」だなどと評して、中尾が同年に出した著作『リヴェンジ』を推奨していたことではないだろうか(「兄弟フットボールライターからの助言」として,後に佐山一郎著『サッカー細見』に所収)。

サッカー細見―’98~’99
佐山 一郎
晶文社
1999-10-01


 この「ラグビーの後藤健生」を本気にして『リヴェンジ』を読んだら、著者・中尾の、サッカーに対する、なかんずく同年のフランスW杯で1次リーグ3戦3敗で終わったサッカー日本代表=岡田ジャパンに対する悪口雑言罵詈讒謗があまりにも酷くて著しく不快となり、当ブログ(の中の人間)に問い合わせの電話をかけてきたサッカーファンが2人いる(いずれも界隈では相応のポジションにあるサッカーファンである)。

 事ほど左様、この人物こそは、ラグビーへの歪んだ愛情のあまり、サッカーに対して悪口雑言罵詈讒謗をさんざんぱらぱら放言してきたインチキラグビー評論家であり、札付きの反サッカー主義者なのである。

 それでは「中尾亘孝」とは何者なのか? 1950年、愛知県生まれ。ラグビー評論家。早稲田大学商学部中退(らしい)。ラグビーブームの時代の最後半、1989年に『おいしいラグビーのいただきかた』でデビュー。主な著作に『15人のハーフ・バックス』『リヴェンジ』『英国・フランス楕円球聖地紀行』ほか。

中尾亘孝(プロフィール付き)
【中尾亘孝】

中尾亘孝『おいしいラグビーのいただきかた』(1989)表紙
 1990年ごろから、反サッカー主義者にもかかわらず、鈴木良韶(すずき・りょうしょう)和尚率いる日本最古のサッカーファン・サポーター集団「日本サッカー狂会」の許しもなく、勝手に「日本ラグビー狂会」を名乗り始める。

日本サッカー狂会
国書刊行会
2007-08-01


 以後、この「狂会」を事実上「主宰」し、他の「会員」とともに、ラグビーファンから「狂会本」と言われるアンソロジーのラグビー本を、実に20冊以上刊行してきた。主な著作に『頭にやさしいラグビー』『ラグビー黒書』『ラグビー・サバイバー』『ラグビー構造改革』ほか。

ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12


ラグビー・サバイバー
日本ラグビー狂会
双葉社
2002-11


ラグビー構造改革
日本ラグビー狂会
双葉社
2001-12


 現在は、愛知県豊橋市の、東海道新幹線・東海道本線と蒲郡街道が立体交差する付近のアパート1階を「寓居」とし、ブログを中心に放言している。

中尾亘孝のブログ「楕円系萬週報」
【中尾亘孝のブログ「楕円系萬週報」】

 この辺りの情報は、中尾のブログ自身にそれとなく分かるように書いてある。ラグビーが好きな人は、直接、中尾にラグビー談義を聴きに行くのも一興であろう。

サッカーこそラグビーの矮小な傍流にすぎない?
 その中尾亘孝の反サッカー言説の代表例が、「サッカーから枝分かれしたラグビー」という世間一般のイメージを逆転させた、ラグビーこそが英国前近代のフットボールの正統なる継承者であり、サッカーはその矮小な傍流にすぎないとするフットボール正閏(せいじゅん)論「ラグビー本流/サッカー傍流」説である。

 1823年のある日、英国の名門パブリックスクール「ラグビー校」でのフットボール(サッカーと誤記されることが,間々ある)の試合中、ウィリアム・ウェッブ・エリスなる生徒が、プレーに熱中するあまりボールを抱えて走る(ランニングイン)という「反則」をしでかした……。

ウィリアム・ウェブ・エリス(肖像画)
【ウィリアム・ウェブ・エリス(肖像画)】

 ……しかし、ラグビー校ではその「反則」プレーの精神を尊重し、ゲームの骨子として受け入れ、新たな独自の球技「ラグビーフットボール」の誕生を促(うなが)した……。

 ……というのが、ラグビーの創世物語「エリス神話」である。

 対して、中尾亘孝のラグビー・サッカー正閏論では、英国のラグビー関係者の所説などを参照しつつ、「エリス神話」は事実ではなく、捏造・デッチ上げによる虚構、あるいは政治的プロバガンダ(英国エリート的なスポーツの価値観を護持するための?)にすぎないと断定した。そして、フットボールの正統をサッカーに簒奪(さんだつ)された……などと繰り返し扇動してきた。

 この当時(1989年~1990年代初め)は、ラグビーの人気や日本代表の活躍の度合い(ラグビー日本代表=宿沢ジャパン平尾組)がサッカーに優越していた時代であり、風潮に気圧されるというか、勢いに乗じた中尾亘孝の説ももっともらしく聞こえた。

日本ラグビー激闘史 2011年 2/9号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2011-01-26



日本ラグビー激闘史 2011年 3/9号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2011-02-23


 「ラグビー本流/サッカー傍流」説を読者(スポーツファン)に焚(た)き付けることで、サッカーに対して優位性を誇示しようとしてきたのである。

中尾亘孝説がラグビージャーナリズムに与えた影響
 中尾説の影響は、侮れない。2000年に出た永田洋光さんの『ラグビー従軍戦記』では、近代フットボール制定の経緯が、一般の常識とは正反対の視点、中尾のラグビー・サッカー正閏論に則って、いわばラグビー中心史観で描かれている(167~169頁)。

ラグビー従軍戦記
永田 洋光
双葉社
2000-06


 通説では、1863年、共通のフットボールルールを制定する会議で、ルールをサッカー式にするかラグビー式にするかで揉めた時、サッカー式に反対して退席していったのはラグビー側ということになっている。ところが『ラグビー従軍戦記』では、何とサッカー側が退席したことになっている(え!?)。

 しかも、新興の「サッカー」は、競技人口が劣勢であり、それを拡大する必要性に迫られて選手権大会=FA杯をスタートさせた……とか、選手のプロ化を容認した……とか。一方のラグビーは競技人口の大半を占める英国のエリート層が、厳格なアマチュアリズム規定を定め、選手権大会を否定するいわゆる対抗戦思想にこだわり……などと書かれてある。

 従来のフットボール史は、なるほどサッカー寄りだったかもしれないが、永田さんの叙述の方はラグビーに寄りすぎ……と言うよりは、完全に中尾亘孝説に「洗脳」されたものである。

 そういえば、ラグビー史研究家の秋山陽一さんにも、どことなくサッカーへの敵愾心を感じるところがある。秋山さんその「海軍兵学寮で行われたフットボールはサッカーではなくラグビーである」という問題提起もまた、中尾が仕掛けたラグビー・サッカー正閏論のバリエーションのようにも読める(秋山さん自身はそれを否定しているが)。

中尾亘孝の「ラグビー・サッカー正閏論」を疑う
 ラグビーが「サッカー」から分派したものではないこと、サッカー「だけ」が英国前近代のフットボールを「正統」に継承したものでないことは、多くのサッカー関係者も(例えば後藤健生さんも)認めている。

 しかし、中尾亘孝が主張しているのは、ラグビー「だけ」が英国前近代のフットボールを「正統」に継承したものであり、サッカーもアメフトもオーストラリア式もゲーリック式も、これすべてラグビーの傍流である……という極端なものだ。容易に納得はできない。

 しかも、中尾説にはひとつの疑問がある。

 例えば、ボールを前に投げてはいけないという「スローフォワード」という反則。ボールを手で叩いて前に進めてはならないという「ノックオン」という反則。これらはサッカーでいう「ハンドリング」の反則に相当する、その球技をその球技たらしめる重要なルールだ。

 ラグビーにとっては「オフサイドはなぜ反則か」よりも「ノックオンはなぜ反則か」や「スローフォワードはなぜ反則か」の方が重要な課題なのである。



 この2つの反則は、前近代の英国のフットボールに広範に存在したのだろうか? そこが証明されない限り、中尾説は妥当とはいえない。ところが、中尾の「ラグビー本流/サッカー傍流」説は「ノックオン」や「スローフォワード」がなぜ反則なのか……という疑問に対する解答=論証が弱い。

 もうひとつの疑問は、本当にラグビー「だけ」が英国前近代のフットボールを「正統」に継承したものであり、他のフットボールがその傍流にすぎないと言うならば、最初からラグビー関係者が、そう主張すればよいのである。

 なぜ「エリス神話」なるものが存在するのか? 中尾もあれこれ述べているが、この件に関しては歯切れがよいとは言えない。

自爆する「ラグビー本流/サッカー傍流」説
 2006年ドイツW杯を当て込んで刊行されたサッカーの蘊蓄(うんちく)本に、加納正洋(かのう・まさひろ)著『サッカーのこと知ってますか?』がある。著者・加納の正体は、まさに中尾亘孝のことで、だから、文面には中尾の反サッカー主義があちこちに滲(にじ)み出ていて、肝心の読者であるサッカーファンが読んでいてかえって不快な思いをするという、実に奇妙なサッカー本である。

 加納正洋=中尾亘孝は、『サッカーのこと知ってますか?』の中で、サッカーファンを挑発するかのように、フットボール正閏論「ラグビー本流/サッカー傍流」説で一席ぶっている(100~116頁)。

 しかし、一方で「19世紀初頭のラグビー・スクールのフットボールは、ランニングイン(ボールを持って相手ゴールに走ること)は許されていなかった」ことは認めている(103頁)。認めざるを得ない。……と言うか、それを「ラグビー」と呼ぶのである。

 『サッカーのこと知ってますか?』は、サッカー式ルールを定めたFA創設後も傘下のクラブを含めて各フットボールクラブは、独自のルールで試合をしていた……という(157~158頁)。しかし、それは全部が全部掛け値のない「ラグビー式」なのか? ノックオンとスローフォワードの反則はどうなっていたのか?

 また、英国前近代のフットボールには、例えばシェフィールド式やオーストラリア式のルールなど、「オフサイド」のないものも存在した(71頁)という。しかし、それではノックオンとスローフォワードを認めることになり、ランニングインを旨とするラグビーフットボールにはならないのではないか?

 中尾亘孝は、実は「ラグビーフットボール」のことをキチンと定義できていないのである。サッカーでなく、何らかの形で「手」を使っているフットボールがあったら、みんなラグビーの仲間に入れている感がある(ひょっとしたら、それは意図的なものかもしれない)。

 サッカーは「ラグビーとは違うフットボールだという差異を強調するあまり、手の使用禁止、厳格なオフサイド・ルールなど……が出すぎた感があった」(102頁)などと中尾(加納)は言う。

 それならば「ラグビーは、ノックオンとスローフォワードを反則とし、サッカーよりもさらに厳格なオフサイドルールを採用することで、〈ランニングインのフットボール〉として他のフットボールにはない独自性を強調している」のである。

 それで、ノックオンやスローフォワードは、いつ、どのように反則として成立したのか? 例によって中尾亘孝(加納正洋)は説明不足である。

再評価される「エリス神話」の史実性
 「エリス神話」についても、ラグビー評論界の良心、小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)さんが、独自の取材調査で、19世紀前半、ラグビー校でラグビー式のフットボールを行った最初の世代で唯一名前が判明している生徒がウィリアム・ウェッブ・エリスであるとしている(小林深緑郎『世界ラグビー基礎知識』)。つまり「エリス神話」にも一定の史実性があることを認めているのである。

世界ラグビー基礎知識
小林 深緑郎
ベースボールマガジン社
2003-10


 要するに、「サッカーからラグビーが派生した」という世間一般の認識は間違いだが、「ラグビーだけが英国前近代フットボールの正当な継承者」であるという中尾説も正しくない。「エリス神話」より、むしろ「ラグビー本流/サッカー傍流」説の方こそ、ラグビー派の反サッカー主義者(中尾亘孝)による政治的プロパガンダなのである。

 サッカーも、ラグビーも、いくつもあるフットボールのローカルルールのひとつに過ぎなかった。

 老舗和菓子の元祖・本家争いのような、唯一の正統なるフットボールとは何かを標榜する中尾亘孝のアジテーションこそ意味がない。

つづく




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