スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:日本サッカー辛航紀

はじめに…
 当エントリーを全部読むのが面倒だと言う人は、途中の小見出し「▼日本のスポーツ選手の多くは早慶両大学の学生だった!?」の以降から読み始めていただいてかまいません。

 これからしばらく、「日本のスポーツ史において,サッカーは,野球だけでなく,ラグビーにも人気で後塵を拝していたこと」や、「日本のサッカー論壇で重きをなしていた佐山一郎氏が,そのことで繰り返し劣等感を吐露してきたこと」を、しつこく具体例で示していくからであります。

日本サッカー黎明史の悩ましさ
 西暦2021年は、公益財団法人日本サッカー協会(JFA)の創立100周年に当たる。JFAをはじめ、これを記念したサッカー本もいくつか刊行されるだろう(大住良之氏や後藤健生氏は何か執筆しているのだろうか?)。

 当然、日本サッカーの歴史も話題にするのだろうが、ここでひとつ悩ましい問題が出る。日本のスポーツでは、サッカーより野球の人気の方がはるかに先行してしまったことである。それはなぜか? この疑問と解答については、当ブログはさんざん言及してきたので、あらためては採り上げない。

 少なくとも、野球の持つ固有のゲーム性が、サッカーの持つ固有のゲーム性よりも、日本人の固有の歴史・文化・精神・伝統に適っていたなどという俗説は、すべてデタラメである。サッカーファンは、そこは安心していい。

ラグビーより人気がなかったサッカーの悩ましさ
 ところが、さらにもうひとつ悩ましい問題が登場する。日本のスポーツ史では、Jリーグが登場するまでは(~1993年)、サッカーは野球だけでなくラグビーよりも人気が無かったのである。

 長らく日本のサッカー論壇で重きをなしてきた佐山一郎氏は、そのことを事あるごとに嘆いてきた。一例として、日本サッカーのプロリーグ(現在のJリーグ)の構想が明らかになった1991年初め、野球専門誌『ホームラン』(日本スポーツ出版社)で書いている。
佐山一郎「それでも野球は王様だ!」
 あまり言いたくないのだが、〔19〕60年代半ばから10年余り続いた杉山〔隆一〕-釜本〔邦茂〕人気だけが、突然変異で、戦前からサッカーは、相撲、六大学野球、大学ラグビーなどに比べて人気の面ではるかに劣っていた。つかこうへい〔劇作家,演出家,小説家〕さんがいつか書いていたように、ちょっとうつむいているうちに1点だけ入って、それっきりみたいな狩猟民族のための非物見遊山的競技〔=サッカー〕は日本人には合わない。〔以下略〕

『ホームラン』1991年2月号より

『ホームラン』1992年2月号(2)
【Jリーグ以前の日本サッカーの光景@『ホームラン』1991年2月号より】

佐山一郎氏(ホームラン1991年2月号)
【佐山一郎氏@『ホームラン』1991年2月号より】
 日本古来の格闘技・相撲(大相撲)を別として、明治時代になって舶来した日本の球技スポーツには「野球>ラグビー>サッカー」という序列があった。

 佐山氏は、その理由を、サッカーの持つ固有のゲーム性が、日本人の固有の歴史・文化・精神・伝統に適っていなかったから……という自虐的日本サッカー観で説明していたのである。

スポーツ誌『文春ナンバー』から読み取るラグビーとサッカーの格差
 1990年代に入るまで、日本ではサッカーよりもラグビーの方が人気が高かったことを「証明」することは、そんなに難しい話ではない。文藝春秋の総合スポーツ誌『スポーツグラフィックナンバー』(文春ナンバー)の1980年創刊以来のバックナンバーをず~っと辿(だど)っていくと、そのことがよく分かる(下記リンク先を参照)。
 もっとも、『文春ナンバー』は実態以上にラグビーに肩入れし、実態以上にサッカーを軽視・冷遇している雰囲気はあったが。


 それはともかく、1989年から1991年にかけて、国際舞台における日本代表の活躍度でもサッカーはラグビーに差を付けられていた。ラグビー日本代表はアジア太平洋予選を突破して、1991年に英国・アイルランドで開かれたラグビーW杯本大会に出場しており、アジアの下で停滞していた当時のサッカーファンを嫉妬させている(下記リンク先を参照)。
 リアルタイムで「Jリーグ以前」を知らない世代のサッカーファンは、いろいろと信じられない情況かもしれない。

戦前のモダン雑誌『新青年』から読み取るラグビーとサッカーの格差
 それでは、1980年以前、特に明治・大正から昭和戦前にかけての日本のスポーツ人気事情はどうだったのか? これについては、佐山一郎氏の数々の言及が「傍証」になる。例えば、1998年、サッカー日本代表が初めてW杯本大会フランス大会に出場した直後(日本代表は1次リーグ3戦3敗)の、佐山一郎氏の随感から……。
佐山一郎「極私的ワールドカップ報告」
 なぜ日本代表は〔1998年フランスW杯その他で〕勝てないのかを考えることはむろん大切だが、決定的に欠けているのは、なぜ日本人の多くがこれまでサッカーを必要としてこなかったかの考察である。

 それはパックス・アメリカーナの傘という角度や地理的条件〔島国ニッポン?〕だけで語りきれるものでもないような気がする。おそらくは〔日本人の〕深層というところで何かしらの反発が受容の妨げになってきたに違いない。

 ラグビー、野球、オリンピックでの成功を頻繁にとりあげた戦前のモダン雑誌『新青年』がまったくといっていよいほど、サッカーに興味を示さなかったことも気になる。わずかに裏表紙の明治チョコレートの広告のさし絵として登場するだけというのも不可思議である。

『サッカー細見'98~'99』94頁

サッカー細見―’98~’99
佐山 一郎
晶文社
1999-10-01


 またしても佐山一郎氏が大好きな自虐的日本サッカー観である。ところで、ここで『新青年』という雑誌の名前が出てきた。どんな性格の雑誌だったのか、ウィキペディア日本語版の記事を参考に確認しておく。
新青年(日本)
 『新青年』(しんせいねん)は、1920年に創刊され、1950年まで続いた日本の雑誌。

 1920年代から1930年代に流行したモダニズムの代表的な雑誌の一つであり、「都会的雑誌」として都市部のインテリ青年層の間で人気を博した。

 現代小説から時代小説まで、さらには映画・演芸・スポーツなどのさまざまな話題を掲載した娯楽総合雑誌であった。

ウィキペディア日本語版「新青年(日本)」より抜粋(2020年7月11日閲覧)
 同じくウィキペディア日本語版には、現在『新青年』誌の商標権を保有しているのが佐山一郎氏だと記してある(2020年7月11日閲覧)。だから、この雑誌への言及が多いのだ。

 大正から昭和戦前にかけては『新青年』を見れば、戦後1980年以降はインターネットで公開されている『文春ナンバー』の表紙と目次(前掲)を見れば、日本における人気スポーツ事情は大まかに理解できようというものである。

 佐山一郎氏は、サッカー論壇からの引退作と自ら公言している『日本サッカー辛航紀』(光文社新書)にも、雑誌『新青年』とサッカーについて触れている。
佐山一郎「第1章 戦争から東京オリンピック前夜」
 戦前の大学ラグビーは、半ばプロ化していた東京六大学野球の比ではなかったが、大衆のウケはよかった。ラグビーには、サッカーにはない相撲のぶちかましの要素〔?〕がある。戦前人気を博した都会派モダン雑誌「新青年」のスポーツ関連記事を調べて驚いたのは、サッカーに関するものがまるで見当たらないことだ。編輯〔へんしゅう〕部員の好き嫌いの問題だけでもなさそうだった。

佐山一郎『日本サッカー辛航紀』31~32頁

 戦前は『新青年』に無視され、戦後は『文春ナンバー』に無視され……。日本のスポーツ史においては、醜いアヒルの子だったサッカー。やはり、サッカーが持つ固有のゲーム性は、日本人の日本人の固有の歴史・文化・精神・伝統に適っていない。

▼日本のスポーツ選手の多くは早慶両大学の学生だった!?
 それは今なお、ドーハの悲劇、決定力不足、あるいは「ロストフの14秒」からの逆転負け……。日本サッカーに「本質主義的」な悪い影響を与えている???

 佐山一郎氏が日本サッカーの話をすると、こんな風に否定的で悲観的で自虐的な方向に話が傾きがちだ。しかし、氏は「農耕民族の日本人は米飯と味噌汁を食べているからサッカーが弱くなる」などというトンデモ話を『BRUTUS』誌に書くような人であるから、本気にしてはいけない(次のリンク先を参照)。
 それはともかく、野球はともかく、サッカーよりラグビーの方が人気があった事実については、長い間よく分からなかった。しかし、意外なところからヒントが出てくる。2018年刊行の『スポーツの世界史』(一色出版)である。

 この本は、スポーツを研究テーマにした学者たちによる、650頁を超える浩瀚なアンソロジーだ。編者は、専門家向けの論文集でも、また事典や教科書でもなく、読み物として面白い一般読者向けの「スポーツで読む世界史」を目指したという。

 何より、一定のクオリティを保った上で、英・仏・独・西・東欧・露・米・カリブ・南米・豪・アフリカ・イスラム・印・アジア・中・朝韓・日……といった、世界各国・各地域・各文化圏のスポーツ史・スポーツ文化を大づかみに読めるのは、なかなか有難い。

 日本の担当は、一橋大学大学院・坂上康博(さかうえ・やすひろ)教授である。その中に気になる記述があった。
坂上康博「第21章 日本:スポーツと武術/武道のあゆみ150年」
 明治になってどんなスポーツが輸入され、人気を得たのだろうか? それを知るには、当時の学校をのぞいてみるのが一番だ。学生たちこそ、スポーツと出会うチャンスを最初に掴んだ、日本におけるスポーツのパイオニアだった。

 スポーツは、学校体育(体操科)の教材としても採用されていくが、中等学校や師範学校では、体操と教練(兵式体操)に重点が置かれていた。学生たちがスポーツに多くの時間と情熱を注いだのは、放課後に行なわれた運動部活動である。その中からやがてオリンピックなどの国際的な舞台で活躍する選手も生まれていった。

 戦前、1912年から36年までに日本は計6回夏季オリンピックに参加し派遣された選手は計389人にのぼるが、うち258人(66%)が学生であり(略)、その半分以上が早稲田、慶応、明治の3大学の学生で占められている。これらの学校の中で最も早く体育会を設立した慶応を中心にして、どんなスポーツがいつ行なわれるようになったのかを見てみよう。〔下線部は引用者による〕

『スポーツの世界史』535頁
 つまり、ごくごく大雑把な計算をすると、全体の5分の1から4分の1もの割合で「日本のスポーツ選手」は早稲田大学か慶應義塾大学の学生だったということになる。これに加えて、オリンピックの正式種目ではないが、日本で絶大な人気を誇った「野球」がある。戦前期日本において、日本で最も注目されるスポーツイベントが「野球の早慶戦」だった。

 日本のスポーツ界における早慶両大学の地位の高さが、こうした情報からも分かる。

早慶両大学ではサッカー部よりラグビー部の方が歴史が古かった!?
 これとは別に、ひとつ意外だったのは、慶應義塾・早稲田両大学とも、サッカー部よりもラグビー部の歴史が古かったのである。まずは両大学のサッカー部とラグビー部の正式名称と創立年を示していく。
慶應義塾大学
 慶應義塾では、ラグビー部を「蹴球部」、サッカー部を「ソッカー部」と呼ぶ。soccerのカタカナ表記が定着していなかったこともあって「ソッカー」である。慶應義塾大学はラグビーをいち早く取り入れた、日本ラグビーのルーツである。ラグビー部を「蹴球部」と呼ぶことについても、そうした伝統が表れているようだ。
早稲田大学
 一方、日本のサッカーの直接のルーツは、筑波大学(当時の東京高等師範学校=東京高師,のちに東京文理大学,東京教育大学を経て,筑波大学)である(明治初年の海軍兵学寮や工部大学校のフットボールは「前史」という解釈でよい)。ちなみに、筑波大学ではサッカー部のことを「蹴球部」(創立1896年=明治29)と呼ぶ。

 ちなみに、旧制第三高等学校(戦後,京都大学に再編)では「蹴球部」といえば事実上ラグビーのことであり、同じく第六高等学校(戦後,岡山大学に再編)で「蹴球部」といえばサッカーのことであったという(この知識は,佐山一郎氏の『日本サッカー辛航紀』から得た)。

早慶戦における「ラグビー」が持つ意味の重さ
 早稲田大学のラグビー部の創立のキッカケは「好敵手である慶應義塾さんがやっているスポーツだから,ぜひ早稲田でもやろう」ということだったらしい。これは早稲田大学ラグビー部の長老であり、日本ラグビー界の長老でもある日比野弘氏の証言である(何かのテレビ番組でそう発言していた)。

 日比野弘氏は、『早稲田ラグビー史の研究~全記録の復元と考察』(早稲田大学出版部)や、『日本ラグビー全史』(ベースボール・マガジン社)といった歴史書(大型本)の編纂にかかわった人であり、この話にはそれなりに信憑性があると思う。

早稲田ラグビー史の研究―全記録の復元と考察
日比野 弘
早稲田大学出版部
1997-12T


日比野弘の日本ラグビー全史
日比野弘
ベースボール・マガジン社
2011-06-17


 それならば「早慶戦」をやろうということになる。ところが、実はこの当時、あらゆるスポーツ競技で「早慶戦」は禁止されていた。1903年(明治36)に始まった野球の早慶戦は、1906年(明治39)に両大学の応援合戦が過熱化、騒擾問題を起こし、試合は中止。そのまま定期戦も中断するはめになる。両大学の仲は険悪になり、体育会の交流は断交状態になっていたからである。

早慶戦の謎―空白の十九年
横田 順弥
ベースボール・マガジン社
1991-07T


 そんな中にあって、1922年(大正11)、最初のラグビー早慶戦は敢行された。この辺の事情は、ラグビー評論家・中尾亘孝(反サッカー主義者としての悪名も高い)が、自著『おいしいラグビーのいただきかた』(徳間書店)で書いている。
中尾亘孝「応援は清く正しく美しく」
 第1回ラグビー早慶戦は大正11年〔1922〕11月23日に開かれました。明治39年〔1906〕以来途絶えていた全競技の早慶戦復活の先鞭をつけました。学校当局の反対を無視して挙行された点でラグビー精神を充分発揮したと言えます。応援に当たって、
  1. 拍手以外の応援厳禁
  2. 学生は制服制帽
  3. 和服のものは袴をはくこと
 というルールが設けられ、これが現在〔この本の刊行は1989年〕の刊行にも多少の影響を与えているようです。<1>

『おいしいラグビーのいただきかた』65頁

中尾亘孝『おいしいラグビーのいただきかた』(1989)表紙
ラグビー・ウォッチング・クラブ
徳間書店
1989-11T


 世界的にも、サッカーと比べてラグビーの観戦・応援文化は抑制的なところがあったが、日本のラグビーの観戦・応援文化はさらに抑制的であった。それはこうした理由からかもしれない。

 とにかく、ラグビーが早慶戦を「学校当局の反対を無視して挙行された」ことが、長らく中断していた野球その他の早慶戦復活の契機のひとつになっていく。それだけに、早慶戦の中でもラグビーの試合の持つ意味は大きい。

 またラグビー早慶戦は、関東におけるラグビーの最初の国内チーム同士による対戦である(関西には,京都の同志社大学や第三高等学校といった対戦相手があった)。

早慶両大学への普及が遅れたサッカー
 その頃、日本のサッカーは何をやっていたのかというと、現在の筑波大学の前身・東京高等師範学校で蹴球部=サッカー部が創立されたのが、創立1896年(明治29)。慶應義塾のラグビー部創立1899年(明治32)よりは少し早い。しかし、既に野球は全国的に普及し始めていたので、サッカーとラグビー、どっちが早いかという争いは、ここではほとんど意味がない。

 サッカーにおける国内チーム同士の最初の試合は、1907年(明治40)11月16日の東京高等師範学校vs青山師範学校(東京学芸大学の前身)が最初。その8日後の11月24日に東京高等師範学校vs慈恵医院(東京慈恵会医科大学の前身)であるとされる。

 筑波大学は数多くの人材を日本サッカーに送り出しているし、東京学芸大学は、元日本代表・岩政大樹選手の出身校である。しかし、悪い言い方になるが、筑波大学vs東京学芸大学では、早慶戦や英国のオックスフォード大学vsケンブリッジ大学、あるいは米国のハーバード大学vsイェール大学のような、大学スポーツとしての華やかな印象には欠ける。

 日本で長らくサッカーよりもラグビーの方が(特にマスコミの扱いという意味で)人気が高かった理由が、なんとなく分かってきた。サッカーは早慶両大学への普及がラグビーよりも遅れたからである。
  •  慶應義塾大学と早稲田大学は、日本の私立大学の両雄である。
  •  慶應義塾大学と早稲田大学はスポーツも盛んで、戦前の夏季オリンピック日本代表選手全体の5分の1から4分の1もの割合で、慶應義塾大学か早稲田大学の学生であった。
  •  野球をはじめとする早稲田大学vs慶應義塾大学のスポーツの試合「早慶戦」は、戦前期日本におけるスポーツの花形であった。
  •  日本におけるラグビーは1899年(明治32)に慶應義塾大学で始まり、関東では少し遅れて早稲田大学がこれに続いた。
  •  ラグビー早慶戦の始まりは、諸般の事情で断交状態になっていた野球その他のスポーツの「早慶戦」復活の呼び水となった。
  •  したがって、さまざまな「早慶戦」の中で、ラグビー早慶戦は、競漕(ボートレース)と並んで、野球の早慶戦に次ぐ重要な地位にある。
  •  実質的に東京高等師範学校(現在の筑波大学)から始まった日本のサッカーは、早慶両大学への普及がラグビーよりも遅れた。
  •  だから、慶應義塾大学と早稲田大学が注目される戦前期日本のスポーツ報道にあって、サッカーよりラグビーの方が人気が出るのは当たり前である。
  •  当時のスポーツ報道のひとつであるモダン雑誌『新青年』でも、ラグビーよりサッカーの扱いが低くなるのは当然である。
早慶両大学のラグビー部&サッカー部
[左上から時計回りに]慶應義塾大学ラグビー部、早稲田大学ラグビー部、早稲田大学サッカー部、慶應義塾大学サッカー部
 箇条書きでまとめてみると、以上のような形になる。こうやって、たしかな理由を推理していくと、戦前から戦後のある時期まで、日本のスポーツ界でラグビーの方がサッカーよりも人気があったことに、佐山一郎氏のように逐一卑屈になる必要はないのである。

来たる2021年…新しい日本サッカー史観の確立を
 その代わりと言っては何だが、日本のサッカーは、野球に匹敵するほど全国的に普及することができた。東京高等師範学校のサッカー、慶應義塾大学のラグビー。どちらもエリート校であるが、このルーツ校の違いは全国の普及度、競技人口の差となっている。

 要するに師範学校とは、要するに学校の先生(教師)を要請する高等教育機関である。東京高師~筑波大学のOBたちは、教師として赴任した全国の学校(旧制中学など)でサッカー部を創ることを自らの使命とした……。以前の筑波大学蹴球部(サッカー部)の公式ウェブサイトには、実際こんなことが書かれてあった。

 戦前の「全国中等学校蹴球選手権大会」(現在の全国高等学校サッカー選手権大会の前身)の、歴代の上位進出校(ベスト4)を見ても、○○師範学校という名前が多い。この辺は、サッカーが東京高師から始まったことと関係があるのかもしれない(今後の研究成果を期待します)。

 対して、ハイカラな慶應義塾のOBには、あくまでステレオタイプであるが、草深き田舎に仕(つかまつ)ってまで、ラグビーの普及に勤(いそし)しむというイメージが涌(わ)かない。例えば、東北の強豪・秋田県にラグビーを伝えたのは、京都・第三高等学校OBの炭鉱・冶金の技術者だと聞く。慶應義塾のOBではないのである。

 そのためか、21世紀の現在では、県単位でラグビーの存続も危うい地方もあるほどだ。

 この全国的な普及度の違いは、後代のJリーグの創設に大きな意味を持って来る。

 反面、ラグビーは、W杯創設と脱アマチュアリズム=プロ化の波に乗り遅れ、しばらく低迷することになる。これは戦前からのラグビー人気の後遺症である。

 とまれ、繰り返しになるが、2021年はJFAの創立100周年に当たる。これを記念した刊行物もいくつか出るだろう。そこでは、これまでのような自虐的日本サッカー観に陥らない、新しい日本サッカー史観の確立が期待される。

(了)




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佐山一郎さんと宇都宮徹壱さんの対話から…
 サッカーライターでもあった佐山一郎さんは、自らその集大成と位置付けていた『日本サッカー辛航紀~愛と憎しみの100年史』(2018年)を執筆・上梓するにあたり、宇都宮徹壱さん(佐山さんのサッカーライターとしての弟子に相当する)との対談で、次のような気炎を上げていた。
宇都宮徹壱による佐山一郎インタビュー
【インタビューを受ける佐山一郎氏.宇都宮徹壱ウェブマガジンより】


――今日はよろしくお願いします。本題に入る前に、佐山さんの近況と言いますか、現在執筆されている著書についてお話を伺いたいと思います。タイトルが『日本サッカー辛航紀』。辛い本なんですか(笑)?〔聞き手:宇都宮徹壱氏〕

佐山 ネタをバラすと、2つの書籍からアイデアをもらっています。ひとつは、〔2016年〕8月に亡くなられた柳瀬尚紀〔やなせ・なおき〕さんの『フィネガン辛航紀』(河出書房新社)。これは柳瀬さんが、ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を翻訳するのがいかに大変であったかというお話。辛いどころか、歯ごたえありすぎのご本。もうひとつが、ロナルド・ドーアの『幻滅』(藤原書店)。ドーアさんはイギリス人の社会学者で、90(歳)超えしています。日本を研究してきた「親日派」社会学者が、くまなく見てきた戦後日本70年がテーマの本で、いろんな時代の転換期をとらえながらも、最後に行き着いたのは「幻滅」の境地だったという。でも2冊ともユーモアを失ってはいませんし、そこがとても良いところ。

――つまり『フィネガン辛航紀』からタイトルを借りながら、ドーアの『幻滅』のように佐山さんの実体験を重ねつつ、日本サッカーの来し方を振り返るという作品になるんでしょうか?

佐山 そうなんですけど、予備考察としての蹴鞠の話から1964年東京五輪までの道のりも少しは押さえなければいけないですからね。1936年ベルリン五輪で日本がスウェーデンに勝った話ばかり〔「ベルリンの奇跡」〕でしょ。その次の試合でイタリアに0-8という大差で敗れてしまったことも、それ以上に重要なんじゃないでしょうかね。

――それ、私〔宇都宮徹壱〕も感じていました! そうした前史というか、佐山さんが生まれる前の日本サッカー史を掘り起こした上で、ご自身〔佐山一郎〕のサッカー体験をプレーバックしていくと。やはり起点は、64年の東京五輪なんですね?

佐山 そうですね。だいたい10年ずつくらいで章を立てていて、ようやく〔19〕70年代の終わりくらいまで来ました。〔以下略〕

(2016年11月02日)
 なるほど。ロナルド・ドーアの『幻滅』にインスパイアされたと言うだけあって、「ベルリンの奇跡」だけでなく、次の対イタリア戦の惨敗についても考えていくべきだと。日本サッカーの明るくない側面にも着目するのは、いかにも佐山一郎さんらしい。

 ベルリン五輪のサッカー競技、なかんずく日本代表に関して、何か、新しいネタの発掘・発見があったのかもしれない。……と、当ブログは期待して待った。

 はたして、佐山一郎さん渾身の一冊『日本サッカー辛航紀』は刊行された。

 ところが……。あにはからんや! 『日本サッカー辛航紀』には、ベルリン五輪の話は、ほんの数行しか書かれていなかった。いわゆるベルリンの奇跡=「日本がスウェーデンに勝った話」が、ほんの少し出てきただけだった。

 つまり、佐山一郎さんが事前に予告した「ベルリン五輪サッカー競技 日本vsイタリア戦論」は、実際には書かれることなく本になってしまったのである。

 何か、肩透かしを食らった気分だった。

後藤健生さんが語る対イタリア戦=日本惨敗の真相?
 2019年11月、サッカージャーナリストの大御所・後藤健生さんが『森保ジャパン 世界で勝つための条件~日本代表監督論』を上梓した。*

 この本は、サッカー日本代表の歴史。すなわち日本サッカーのプロ化(Jリーグ=1992~93年)以降の歴史、そしてプロ化以前=アマチュア時代のサッカー日本代表の歴史を、歴代監督ごとに言わば「紀伝体」の体裁を取りながら、簡潔に記述した興味深い一冊である。

 この著作の中で、後藤健生さんは、ベルリン五輪(1936年)当時のサッカー日本代表監督=鈴木重義に触れている(236~237頁)。

 対イタリア戦での、日本大敗の真相や、如何に?

 何のことはない。日本代表は1回戦でスウェーデンに逆転勝ちして「世界」に衝撃を与えたが、疲労困憊しており、そのために次戦=2回戦では、当時世界最強のイタリア代表(1934年,1938年とW杯連覇中)に0-8のスコアで大敗してしまった。

 それでも、後半30分くらいまでは、0-3とそれなりに戦うことができていた……という、実にアッサリとしたものであった。

 何事につけ、日本サッカーについてあまり明朗ではない叙述をしたがる傾向のある佐山一郎さんは、対イタリア戦の日本惨敗について掘り下げて書いて、他の凡百な日本サッカー史と「差別化」をしたかった。

 しかし、資料(史料)は少ないし、長年懇意にしている後藤健生さんの理解するところでは、大した中身もないので、その「差別化」は挫折してしまった。

 邪推になるが、意外に実態はそんなところではないのか。

(了)




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「明治」をスルーした日本サッカー史?
 2021年は公益財団法人日本サッカー協会(JFA)の創立100周年である。JFAは「正史」として大型本の『JFA 100年史』(仮称)を公刊するはずだ(JFAは創立50周年の時も,75周年の時も「正史」を刊行している)。

財団法人日本サッカー協会 75年史―ありがとう。そして未来へ
財団法人日本サッカー協会75年史編集委員会
日本サッカー協会
1996-10-01



 しかし、いかに本が売れない時代とはいえ、有為な書き手による、手ごろな一冊のサイズにまとまった日本サッカー通史を、サッカーファンやスポーツファンに送り出す企てはないのだろうか。

 相撲(「大相撲」に限定されない格闘技としての相撲)や、マラソン・駅伝などには優れた通史は存在するのだから、サッカーでもそういった、いい意味での「外史・稗史・野史」を当然読みたいのである。

相撲の歴史 (講談社学術文庫)
新田 一郎
講談社
2010-07-12


相撲の歴史
新田 一郎
山川出版社
1994-07-01


マラソンと日本人 (朝日選書)
武田 薫
朝日新聞出版
2014-08-08


 果たして、その先駆けなのか、佐山一郎さんによる『日本サッカー辛航紀』が上梓された。

 もっとも、この著作は「私小説」的な性格が色濃いうえに、日本サッカー史を謳(うた)いながら、日本サッカー界は歴史を大事にしていないと批判しながら、そして蹴鞠も話題まで採り上げながら、しかし、肝心要の明治時代、草創期の日本のサッカー事情について全く触れていないという、実に不思議な一冊である。

 やっぱり、明治時代、海外から日本へのサッカーの伝来、普及、野球やラグビーなど他競技との関係等々について全く言及しないというのは、違うのではないか。

 それこそが、日本サッカーの原点だからである。日本のサッカーの文化や歴史などの総体を理解するためには、原点である「明治」を知らなければならない。書名が『日本サッカー辛航紀』であるならば、なおさら、その「辛」い「航」海の船出が明治時代だったからである。

明治最初のフットボールはサッカーか? ラグビーか?
 意地の悪いことを言うと、『日本サッカー辛航紀』はこの重苦しいテーマから逃げたのではないかと邪推する。野球に普及や人気でサッカーが先んじられたこともある。もうひとつは、そもそも日本で最初に行われたフットボールが、サッカーなのか、ラグビーなのか、最近になって論争になっているためでもある。迂闊(うかつ)なことが書けないのだ。

 今でも、JFAの公式サイトの「沿革・歴史」、1873年(明治6)の項には「イングランドサッカー協会(The FA)創設から10年後、英国海軍教官団のA・L・ダグラス少佐(中佐とも)と海軍将兵が来日。東京築地の海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)で日本人の海軍軍人に訓練の余暇としてサッカーを教えた(これが、日本でサッカーが紹介された最初というのが定説になっている)」とある。これが従来の定説というか、通説であった。

▼日本サッカー協会(JFA)沿革・歴史

 後藤健生さんも『日本サッカー史 代表編』では、特に吟味することもなく、この通説を掲載した。


秋山陽一
【秋山陽一氏】

 秋山さんの主張をまとめたのが、日本ラグビー狂会編『ラグビー・サバイバー』所収の「フットボールの憂鬱」という論考である。

ラグビー・サバイバー
日本ラグビー狂会
双葉社
2002-11


 後藤さんは、ある程度、秋山さんの批判を受け入れている。当時の海軍兵学寮の様子を調べていくうちに、なるほど、これが完全なるサッカーだったとは言い難い。もっとも、それがラグビーだったと証明することもできないのだが……。

 後藤さんの後の著作『サッカー歴史物語』では、持論が修正されてある。

 イングランドでFAルール(サッカー)が普及するのは、実は「The FA」が創設された1963年よりも少し後のことだ。また、イングランドのラグビー協会(RFU)の創設も1871年である。あの当時は、サッカーとラグビーはそれほど隔たりのある球技ではなかった。

 当ブログから加えるに、当時は、サッカー、ラグビー以外のルールのフットボールもいくつか混在していた。フットボールが両者どちらかに収斂(しゅうれん)していくのも、後々のことである。

 明治初期の海軍兵学寮では、キッチリしたルールではなく、フットボールの真似事のような遊びを英国海軍将兵と日本人学生らはやっていたのではないか。

 後藤さんといっしょに「日本サッカー史研究会」を主宰している牛木素吉郎さんも、この立場を支持している。

 牛木さんは、明治初期に日本で行われたフットボールを「サッカー」でも「ラグビー」でもなく、「フットボール」と表記しようと提案している。FAルールで行われたことが確実なものだけを「サッカー」と呼び、RFUルールで行われたことが確実なものだけを「ラグビー」と呼ぶ。

▼牛木素吉郎「明冶初期のフットボール@日本サッカー史研究会」(2007年2月19日)

 そうすることによって、無意味な論争を避けることができる。

後藤・牛木説をあくまで突っぱねる秋山陽一氏
 しかし、秋山陽一さんは、この後藤・牛木説にもあくまで異を唱える立場をとる。

 秋山さん曰く……。後藤健生氏は『サッカー歴史物語』で、当時のルールについて、相変わらず「サッカーともラグビーとも特定しがたく」という見解を披歴しているが、根拠を示していない(これは指摘どおりかもしれない)。一方、イギリスの研究者(誰?)は海軍兵学寮のフットボールについてラグビーとしている。

A_Footbll_Match_in_Japan
【A Football Match in Japan(19世紀)】

 イギリス人の特徴としてスポーツ組織を作るときにそこで行われるルールを何にするかを決めずに行動を起こさない(本当か?)。論拠となる資料はある(それが知りたい)。

 後藤健生氏と牛木素吉郎氏の説を支持するサッカーファンが理解できない。

 ……。何というか。秋山さんのスタンスからは、サッカーファンに対して「マウントを取りに行く」感じをヒシヒシと感じる。さすがに最近はそんな人も少なくなったが、どうして日本のラグビー関係者はサッカーを目の敵にするのだろうか。

 いちど「日本サッカー史研究会」の会合で後藤さんと秋山さんの「直接対決」があったというが、秋山さんの態度がかなり挑発的だった、との噂もある。

 秋山さんがいう「イギリスの研究者」が誰かは分からないが、2019年6月に英国の歴史学者、ラグビー史研究家のトニー・コリンズ(Tony Collins)による『ラグビーの世界史~楕円球をめぐる二百年』が上梓された。

 現時点で未読だが、この著作では海軍兵学寮の「フットボール」を「ラグビー」としているかもしれない。確認できれば当ブログで紹介するかもしれない。

工部大学校の「フットボール」は「サッカー」
 もうひとつ、秋山氏が批判・指摘しているのは、明治初期の海軍兵学寮とはほぼ同時期に「フットボール」が行われていた工部省工学寮(工部大学校)は、昭和初期に刊行された当時の学生の回顧談にハッキリと「アソシエーション式」(サッカー)であることだ。

 これについては、サッカー史研究ブログの「蹴球本日誌」が詳しい。『旧工部大学校史料』(1931年)、『旧工部大学校史料・同附録』(1978年復刻)を参照しながら、次のように説明する。
 古川阪次郎〔OB〕「工部大学に於ける運動其他」には、

 〈…それから上の組の頭が玉木弁太郎君及田辺朔郎君であったと記憶して居るが、玉木君は丈が高い(後には肥ったが)ので、フットボールの時分には、いつでも玉木君がゲートキーパーであった。〉(p.137)

 とあり、GKを置いた「サッカー」だったことがわかります。弱冠20代で琵琶湖疎水を完成させるという偉業をなしとげた田辺朔郎もサッカーをしていたようです。

 門野重九郎〔OB〕「工部大学に於けるスポーツ」には、

 〈四、フートボール

 此のゲームは溜池運動場にて盛なりしが今日のアッソシエーション〔FAルール=サッカー〕の前身とも云ふべく其のルールも至って簡単にして今日の如く前営〔FW〕、中堅〔HBまたはMF〕、後営〔BKまたはDF〕などと確然と定まった陣営も無く唯早く球をゴールに蹴込むに勉めたるものなり。〉(p.142)

 とあり、「サッカー」だったことを〈証言〉しています。

蹴球本日誌「『旧工部大学校史料』におけるサッカー」July 09, 2005


▼旧工部大学校史料~国立国会図書館デジタルコレクション

▼旧工部大学校史料・同附録(青史社)1978|書誌詳細|国立国会図書館
 後藤健生さんは、なぜか工部大学校の「フットボール」にしても、サッカーなのかラグビーなのか曖昧にしている。海軍兵学寮と違って、こちらは「サッカー」であることがほぼ確定しているのだから、堂々とサッカーと書いてもいいのではないかと思う。

 後藤さんは、わざと曖昧にしているのだろうか。

海軍兵学寮=ラグビー説の矛盾
 ブログ「蹴球本日誌」は、サッカーかラグビーかという論争に、別の立場から「参戦」している。「蹴球本日誌」は、秋山陽一さんと同じ史料、沢鑑之丞著『海軍兵学寮』(1942年)などを参照しながら、しかし、海軍兵学寮のフットボールは「サッカー」であるという立場をとる。

 該当するエントリー「秋山陽一『フットボールの憂鬱』を読んで」(2005年7月18日)では、秋山さんの史料の見落としや持説の矛盾点を突いている(引用文は,読みやすいように適宜編集してある)。
 秋山陽一氏の著作「フットボールの憂鬱」@『ラグビー・サバイバー』p.212に〈澤鑑之丞の別の著書「海軍兵学寮」でも、午後に毎日砲術訓練が取り入れられた当初、生徒たちは身体が大いに疲労を感じたが、後には次第に活気を増し愉快に外業を学ぶようになったと述べている。〉とあり、澤(沢)の『海軍兵学寮』(興亜日本社,1942)を読んだことが記されています。

 この本(『海軍兵学寮』)の明治7年〔1874〕の部分に〈また、「フットボール」(蹴球)もイギリス教師より教を受けて、寮内馬場に於て、甲乙両部にわかれ仕合を致しました。〉という一行があり(p.248-250のうちのどこか)、1874年当時の在籍者が〈フットボール(蹴球)〉をしていたとの「証言」があるのですが、不思議なことに(笑)秋山氏はこの部分に言及していません。

 また秋山氏は、「フットボールの憂鬱」で〈日本では、明治から大正時代にかけてア式とラ式といういい方で2つのフットボールを区別してきたが、昭和に入ると、ア式は蹴球を名乗り、一方は単にラグビーとなった。〉(『ラグビー・サバイバー』206頁)とも述べています。1942(昭和17)年に出版された『海軍兵学寮』に〈「フットボール」(蹴球)〉と記されていて、〈「フットボール」(ラグビー)〉でないのは、秋山氏の説に従えば、海軍兵学寮はサッカーをしていたことになってしまいます。これは秋山氏のオウン・ゴール……(笑)。

蹴球本日誌「秋山陽一『フットボールの憂鬱』を読んで」July 18, 2005


▼海軍兵学寮(興亜日本社):1942|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
 読んでいて、当ブログも笑ってしまった。

 秋山さんの「フットボールの憂鬱」は、私も読んだが、何というか、あれを確実にラグビーであるとするには、今ひとつ決定打に書くのではないかという気はした。

もっと活発な議論の応酬を!
 話を戻すと、秋山陽一さんは「イギリス人の特徴としてスポーツ組織を作るときにそこで行われるルールを何にするかを決めずに行動を起こしません.論拠となる資料はあります」と唱える。

 一方、後藤健生さんは「YC&AC〔横浜カントリー・アンド・アスレチック・クラブ,外国人居留地のクラブ,かつての通称「横浜外人クラブ」〕で、アソシエーション式(つまりサッカー)にするか、ラグビー式にするかという議論が行われたのは1880年代になってからのことだ」と唱える(『サッカー歴史物語』143頁)。

 これは重要な指摘だ。何がしかの根拠=資料(史料)がなければならない。

 ここでも、後藤さんと秋山さんの意見の相違は争点になる。野次馬としては、このサッカーvsラグビー論争で、もっと活発な議論の応酬を見たい。そうすることが、むしろお互いをよく知ることになり、お互いのためになる……のではないか。邪馬台国論争や、法隆寺再建論争みたいに、もっと派手にやってほしいのである。

 そのためには後藤健生さんvs秋山陽一さんのセカンドレグを、ぜひとも実現させるべきであろう。

(了)



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デズモンド・モリス『サッカー人間学』の装丁への不満
 佐山一郎氏の『日本サッカー辛航紀』を読んでいると、1983年に邦訳・刊行された、英国の動物行動学者デスモンド・モリスの著作『サッカー人間学 マンウォッチングII』(原題:THE SOCCER TRIBE,岡野俊一郎監修,白井尚之訳)の話が出てくる。

サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02


 モリスには既に『マンウォッチング』という有名な著作があり、まだ日本サッカーが「冬の時代」だった1983年に、あれだけサッカーの浩瀚な著作が刊行できたのは、その続編という位置付けだったからではないかと考えていた。

 佐山氏の『日本サッカー辛航紀』の解するところでは「新種の学術書として受け入れられたようだ」(138頁)とのことである。

 ところで、佐山一郎氏は『サッカー人間学』の装丁(表紙のデザイン)が、ひどく気に入らないようである。
 問題は(『サッカー人間学』の)装丁です。たとえ裏事情があるにせよ、写真カバーに日本リーグ〔Jリーグ以前の旧JSL〕の、三菱重工‐ヤンマーディーゼル戦を持って来るセンスに目まいがしました。

 今でいう浦和対セレッソ大阪戦なのかもしれないけれど、ヤンマーFW堀井美晴のドリブルを赤いゲームシャツの三菱DF斉藤和夫キャプテンが左から止めにかかる図でよいものかと。カバー写真はもっと選びようがあったはずです。〔以下略〕



 ちなみに、当ブログが所有している英語の原書『THE SOCCER TRIBE』の表紙がある(ペーパーバック,マスマーケット版かもしれないが)。あらためて日本語版と比べてみる。

「The Soccer Tribe」cover
【『THE SOCCER TRIBE』表紙】

デズモンド・モリス『サッカー人間学』表紙
【『サッカー人間学』表紙】

 原書の表紙は、イングランドのリバプールFCが欧州チャンピオンズ杯(当時)で優勝した時の写真である。比べてみると、たしかに日本語版は見劣りするかもしれない。

「知の再発見」双書『サッカーの歴史」装丁への不満
 同じような不満なら、当ブログにもある。

 フランスのガリマール出版社の「ガリマール発見叢書」(Decouvertes Gallimard)を、日本の出版社である創元社が翻訳出版権を獲得して、1990年から『「知の再発見」双書』としてシリーズ刊行した。

知の再発見双書_創元社(1)
【「知の再発見」双書(創元社のウェブサイトより)】

 さすが、この双書は知的好奇心をくすぐるテーマが多い。当ブログとしては、紋章学者ミシェル・パストゥロー著『紋章の歴史 ヨーロッパの色とかたち』(原題:Figures de l'heraldique)が面白かった。

 フットボール(サッカー,ラグビー)のデザインと、紋章学のデザインが深く結びついていることについて、ヒントになるところがいろいろあったからである。
 2002年、ワールドカップの年、同双書から『サッカーの歴史』(原題:La balle au pied:Histoire du football)が出た。原著者はフランスのサッカー史家アルフレッド・ヴァール(Alfred Wahl)、日本語版監修は大住良之氏。書店で、この本の背表紙を見た途端「これは買わねば!」と手を伸ばした。が、しかし……。

 ……表紙を見て脱力した。な、なんでやねん……。

サッカーの歴史 (「知の再発見」双書)
アルフレッド ヴァール
創元社
2002-01


 問題は「知の再発見」双書『サッカーの歴史』の装丁です。たとえ裏事情があるにせよ、写真カバーに中田英寿を持って来るセンスに目まいがしました。

 当時、サッカー日本代表のエース格だったのかもしれないけれど、サッカーの世界史的な深遠さも、サッカーの全世界的な熱狂の広がりもまったく感じない、中田英寿みたいなちょっと前に台頭した程度の、それも日本の若手選手でよいものかと。

 カバー写真は、ペレでも、クライフでも、マラドーナでも、ベッカムでも、昔のワールドカップの名場面でも……、もっと選びようがあったはずです。

 ちなみに、アマゾンに〈La balle au pied:Histoire du football〉の書誌情報があった。

 詳しい事情は調べなかったが、「知の再発見」双書は、フランスのガリマール出版社と日本の創元社では表紙の装丁が違うのかもそれない。そうだとしても……。

 ……創元社のウェブサイトに、「知の再発見」双書の各書の表紙を並べた集合写真がある。チンギス・ハン、オスマン帝国、イースター島、シルクロード、アンコール・ワット等々の装丁(表紙デザイン)と比べると、中田英寿が表紙の『サッカーの歴史』(左下)だけは、明らかに違和感があり、フランス書からの邦訳という有難みがなく、かえって安っぽいのである。

知の再発見双書_創元社(2)
【「知の再発見」双書の表紙(創元社のウェブサイトより)】

 で、結局、その本は買いませんでした。

(了)



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国際的なスポーツイベントと元号との相性
 「令和」改元にちなんで、NHKは2019年4月に「もう一度見たい!平成のスポーツ中継」というシリーズ番組を放送した。夏・冬のオリンピック、ラグビーW杯(男子日本代表)、サッカーW杯(男女日本代表)、野球のアメリカ大リーグ(イチロー)と、なかなか有難い企画であった。


 だが、なでしこジャパン(サッカー女子日本代表)のW杯優勝(2011年)が「平成23年」、サッカー男子日本代表の「ジョホールバルの歓喜」(1997年)が「平成9年」と言われても、今ひとつピンと来ない。五輪もW杯も大リーグも、国際的なスポーツイベントは、みな西暦で動いているからだ。

 元号を先に出して、平成23年とか、平成9年とか言われても、はて? いつの時代だったか? ……とかえって不安になる人が、少なからずいるからだ。

十干十二支とは?
 改元は不規則である。これは一世一元制を採用した明治以降(1968年~)も、それ以前(江戸時代まで)も、変わらない。つまり、元号だけだと自分がいつの時間軸にいるのか不安になる。そこで現代では西暦を併用することになるが、それでは西暦が通用していなかった江戸時代までは、何を使っていたか? 十干十二支(六十干支)である。

 例の、辛酉(シンユウ)革命、甲子(コウシ)改元、辛亥(シンガイ)革命、甲子(コウシ)園球場、庚午(コウゴ)年籍、壬申(ジンシン)の乱、戊辰(ボシン)戦争、壬申(ジンシン)戸籍、丙午(ひのえうま)の女性は気性が荒いという迷信……などといった、十干と十二支の組み合わせで60年で一巡り(還暦)する紀年法である。
 だから、昔の古文書の日付には「文化元年甲子五月二十三日」のような形で書かれているがある。ちなみに、文化元年=甲子=西暦1804年である。

サッカーは契約社会のスポーツ?
 大学やカルチャーセンターなどで「古文書」(くずし字で書かれた古い記録・史料)の授業を受けると、そのテキストとして借金の証文が使われることが多い。借金の証文など、権利関係の文書は特に大事に保管され、現代まで伝わることが多いからである。

 ……と、ここまで書いてきて、佐山一郎氏の著作『Jリーグよ!』に所収された、佐山氏と佐山氏のご夫人との対談での「あるやり取り」を、にわかに思い出してしまった。
  要するに言いたいことは何。

 〔佐山一郎氏〕 つまりサッカーの世界〔欧米〕は、本来的に厳しい契約・対決社会の産物でもあるということなんだ……。

佐山一郎『Jリーグよ!』163頁


佐山一郎氏(ホームラン1991年2月号)
【佐山一郎氏@『ホームラン』誌1991年2月号より】


Jリーグよ!―サッカー めざめの年に
佐山 一郎
オプトコミュニケーションズ
1993-12


 佐山氏が「要するに言いたいことは何」かと言うと、翻って日本は、契約社会である欧米とは対照的な「非契約社会」=「黙約(もくやく)社会」である。すなわち日本は「契約」観念の薄い「非サッカー的」な社会である。とどのつまり「日本人はサッカーに向いていない」と言いたいのである。

 よく知られた著作に久枝浩平著『契約の社会・黙約の社会~日米にみるビジネス風土』というのがあり、日本は「契約」を重んじない「黙約」社会だという通念は、日本人の間に広く浸透している。

 ここでも、日本サッカー論壇の作法である「日本的=非サッカー的/非日本的=サッカー的」という二元論、あるいは二項対立の図式が透けて見える。サッカーと同じくらい、日本人論・日本文化論を愛好する佐山一郎氏も、『契約の社会・黙約の社会』は読んでいるかもしれない。

 しかし、である。借金とはひっきょう「契約」である。日本に古文書に借金の証文がたくさん残っているということは、つまり、歴史的・文化的に日本は「契約」を重んじない社会とは言えないのである。

 一方、「欧米」に当たるオーストラリアでは、功成り名を遂げた実業家が「自分は,いかに正規の契約書に依らずに,友人と口約束と握手=黙約=だけで何百万ドルもの事業を成功させたか」を自慢するようなテレビ番組があったという。

 以上は、オーストラリア在住の社会学者・杉本良夫氏とロス・マオア氏が『「日本人論」の方程式』(初版『日本人は「日本的」か』)で報告するところである。

 とまれ、欧米は契約社会、日本は非契約=黙約社会。サッカーは契約社会のスポーツ、だから、日本人はサッカーに向いていないなどと言った(要するに,これは「サッカーは〈狩猟民族〉のスポーツ」説の〈変数〉を変えただけの論理なのだ)、通俗的なサッカー文化論を真に受けることには、もう少し慎重になりましょう。

 それが、これからのサッカーファンのリテラシーですよ……という話である。

「横綱免許状」から読む「元号」と「十干十二支」の関係
 話を戻して、例えば、享和四年一月二十日に成立した借金の「契約書」。この日付を「享和四年甲子一月二十日」としておけば、同年、二月十一日に御上の命令で「文化」と改元されても、同じ借金の「契約」はあくまで「甲子」の年だと、その内容を曖昧ウヤムヤにされずに済む。……というメリットはある。

 しかし、残念な話だが、十干十二支は、昨今、占いや特殊な暦などを除いて重んじられなくなっている。その歴史的変遷が分かる一連のテキストはないだろうか……と考えていたら、そうだ、大相撲の横綱免許状があったとハタと思い当たった。

不知火光右衛門(錦絵)
【第11代横綱・不知火光右衛門】

 かつて、大相撲の最高位「横綱」とは「免許」されるものだった。熊本に「吉田司家」(よしだ・つかさけ)という大相撲の家元がいた。当主は代々「吉田追風」(よしだ・おいかぜ)の名を世襲し、日本相撲協会が推挙した力士を審査し、ふさわしいと判断したとき、横綱を「免許」する。こんな慣例が、第二次大戦後、しばらくの間まで続いた。

 現在では、その吉田司家が没落してしまったので、「横綱」は日本相撲協会が独自に「推挙」することになっているが。

 まずは、江戸時代の大横綱「谷風」の免許状である。
第4代横綱「谷風」横綱免許
  免  許
 一、横綱之事
右者谷風梶之助依相撲之位授與畢以來片屋入之節迄相用可申候仍如件
  寛政元己酉年十一月十九日
        本朝相撲之司御行司十九代
               吉田追風 判 朱印

(「相撲隠雲解」より.ほかに写本あり,字句が異なる)

坪田敦緒「横綱(三十三)免許状から@相撲評論家之頁」より(以下同じ)
http://tsubotaa.la.coocan.jp/yokoki/yokoki33.html
 「谷風は相撲の品格・力量を極めたので,横綱を授与し,これを締めて土俵入りすることを免許した」くらいの文意か。年号にある寛政元年は西暦1789年、十干十二支では「己酉」(つちのととり,キユウ)ある。

 この年、ジョージ・ワシントンがアメリカ合衆国大統領に就任、フランス革命勃発など、有名な出来事が起こっている。

 次は谷風と同時に横綱を免許された「小野川」である。
第5代横綱「小野川」証状
  證  状
        當時久留米御抱
         小野川喜三郎
右小野川喜三郎今度相撲力士故實門弟召加候仍證状如件
  寛政元十一月十九日
        本朝相撲之司御行司十九代
               吉田追風 判 朱印

(「相撲隠雲解」より.ほかに写本あり,字句が異なる)
 もっとも、その書状の題名や文言は「證状」(証状)であり、谷風とは異なっていて、この辺は好角家の間でいろいろ議論の的になっている。「このたび,小野川を(吉田司家の)大相撲の故実の門弟として召し加えることを証明する」といったところか。またこちらの日付は、十二支の「酉」(とり)年だけの表記になっている。

 次に、吉田司家と大相撲の家元の本家争いをしていた、京都の五條家という公家(最終的に吉田司家に屈服する)が、第7代横綱「稲妻」に発給した横綱免許状である。
第7代横綱「稲妻」五條家横綱免許
   證
一、紫化粧廻し
一、注連縄
 右此度願に依り被下之仍而證状如件
   文政十一戊子年七月
          五條家役所印
 稲妻雷五郎殿

(「江戸時代の大相撲」より引用)
 文政11年は西暦1828年、十干十二支では「戊子」(つちのえね,ボシ)。この年、明治維新の三傑のひとり、西郷隆盛が誕生。

横綱免許状から十干十二支が消えた
 ところが、明治時代も後半となると、横綱免許状の日付に十干十二支が入らなくなる。明治末期~大正期に活躍した「太刀山」の免許状である。
第22代横綱「太刀山」横綱免許
  免許状
        越中國人
         太刀山峰右衞門
右者依相撲之位横綱令授與畢以来方屋入之節迄相用可申候依而免許状如件
        本朝相撲司御行司
 明治四十四年   第二十三世
  十月二十四日   吉田追風 印 花押

(「太刀山」より)
 明治44年は西暦1911年、十干十二支では「辛亥」(かのとい,シンガイ)。この年、中国清朝が打倒された「辛亥革命」で中華民国が成立。また、ノルウェーの探検家アムンセンが、人類史上初めて南極点に到達した。

 こうした十干十二支が記載されていない日付は、昭和戦前・戦中期の大横綱「双葉山」の横綱免許状も同様である。
第35代横綱「双葉山」横綱免許
  免許状
        豊前國
          双葉山定次
右依相撲之位横綱令免許畢以来方屋入之節迄相用可申候依而免許状如件
   昭和十二年十一月吉日
        本朝相撲司御行司
          第二十三世
           吉田追風 印 花押

(大相撲写真画報「双葉山」より)
 昭和12年は西暦1937年、十干十二支では「丁丑」(ひのとうし、テイチュウ)。この年、盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まった。

 参考までに、昭和戦後、日本相撲協会が独自に横綱を「推挙」することになった最初の例、「千代ノ山」(千代の山)の「横綱推挙状」を引用する。
第41代横綱「千代ノ山」横綱推挙状
          千代ノ山雅信
品格力量抜群に付横綱に推擧す
     印
   昭和二十六年五月二十八日
      財團法人大日本相撲協會
       理事長取締 出羽海秀光   印
        常務取締 春日野剛史   印
        常務取締 時津風定次   印
        取  締 立浪彌右エ門  印
        取  締 伊勢ヶ濱勘太夫 印

(千代の山・千代の富士記念館蔵)
 昭和26年は西暦1951年、十干十二支では「辛卯」(かのとう,シンボウ)。この年、サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が結ばれている。

元号のみの表記は「創られた伝統」?
 大雑把な考察になってしまい、読者にはご寛恕を請うばかりであるが、文書を書く時の習わしに、江戸時代までと「御一新」の明治以降とでは断絶があり、日付から「元号」と「十干十二支」を併せて記載する習慣が衰退していったのではないか……と仮説する。

 この辺は、近代日本の来し方、近代天皇制の成立と来し方などと関係があるのかもしれない。どなたか学界で、この件に関して研究している人がいるのだろうか。論文を書かれている例があるのだろうか。ご存知の方がいらっしゃいましたら、紹介いただけると幸甚です。

 日本人の「十干十二支」という時間軸の感覚は、大正13年=西暦1924年ごろまでは残っていたらしい。このことは、同年、兵庫県西宮市に竣工した野球場「阪神甲子園球場」の命名からも推察できる。この年は、十干十二支で最初の「甲子」(きのえね,コウシまたはカッシ)の年であり、江戸時代までは、甲子の年はほぼ必ず改元されていた。

 ところが、この時間感覚は、遅くとも第二次大戦後には完全に潰(つい)えてしまった。

 「元号は,今では日本にのみ伝わる固有の文化・伝統です」と誇って語る人がいる。しかし、日付を「元号」のみで記載するのは、伝統的なやり方ではない。本当に伝統的なのは、「元号」と「十干十二支」を併記する記載である。

 「元号」のみの記載は「創られた伝統」、「元号」と「十干十二支」の併記は本来の伝統、あるいは「消えた伝統」と言えるかもしれない。

 公文書が元号と西暦で併記することをあくまで拒むならば、元号と十干十二支を併記するやりかたこそ、ぜひ復権するべきである。すなわち「令和元年 己亥(つちのとい,キガイ)」である。

 ちなみに、佐山一郎氏が、自身のサッカーライティングの有終と位置付け、西暦2018年に上梓した『日本サッカー辛航紀』の前文「はじめに」では、文末に堂々と「平成三〇年 戊戌〔つちのえいぬ〕 早春」と書かれてある。

 これこそ、あるべき紀年の表記と言える。

(了)



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