スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:後藤健生

『サッカー狂い』への過剰な評価
 日本のサッカー界隈では、細川周平氏(音楽学者,フランス現代思想家)の著作『サッカー狂い~時間・球体・ゴール』(1989年)がカリスマ本扱いされている。

サッカー狂い―時間・球体・ゴール
細川 周平
哲学書房
1989-01T


 ドゥルーズ=ガタリをはじめとしたフランス現代思想を援用しつつ、「サッカーそのもの」の美やサッカーへの愛を語った名著として過剰なまでに高く評価されてきた。

 しかし、ハッキリ言ってそこまで賛美するほどの著作ではない。千野圭一編集長時代の旧「WEBサッカーマガジン」の匿名電子掲示板に、この本のことを「サッカー冷遇時代におけるヒガミ根性丸出しの一冊」と揶揄した書き込みがあったが、この指摘はある意味で正しい。

 そうした性格をキチンと知らないことには『サッカー狂い』の評価をかえって誤るし、日本のサッカー文化総体も理解できない。

ニューアカとスポーツ評論
 そもそもJリーグが始まる1993年より4年も前、後藤健生氏の『サッカーの世紀』が刊行された1995年より6年も前の1989年「日本サッカー冬の時代」に、何故このような本が出版できたのか?

サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07T


 まず時代背景がある。1980年代、いわゆる「ニューアカデミズム」が持てはやされており、フランス現代思想、ポストモダン哲学、ポスト構造主義……といった知的潮流が輸入され、一種のファッションとして流行していた。細川周平氏も、音楽学者として『音楽の記号論』や『ウォークマンの修辞学』その他の論考で、ニューアカ・ブームの一翼を担っていた。

音楽の記号論 (エピステーメー叢書)
細川周平
朝日出版社
1981-01T


 ニューアカからのスポーツへの言及としては、文芸・映画評論家の蓮實重彦氏(時に「草野進」名義も使用)らが行った、大胆で放埓な修辞と晦渋な文体、そして「スポーツそのものの美こそが絶対」という視点に立った「プロ野球批評」がこれまた称揚されていた。

どうしたって、プロ野球は面白い
草野 進
中央公論新社
1984-09-01


 細川周平氏が『サッカー狂い』を執筆し、上梓することができたのは、そうした時代の余恵にあずかったところが大きい。

狭い内輪の世界の「お作法」
 しかし、細川周平氏や蓮實重彦氏が依ってきたフランス現代思想というものは、いたずらに晦渋なだけで、世の中の実際の在り様に真摯に対応していない「絵空事」であると、しばしば批判されてきた代物でもある。

 だから、フランス現代思想やそれに触発された文芸批評に乗じたスポーツ「批評」というのは、あくまで狭い内輪の世界の「お作法」でしかない。スポーツ評論ではなく、いわばスポーツの文芸批評であり、あるいはスポーツを種にしたフランス現代思想の展開にすぎない。

 この種の思想に没入し、特定の対象を耽溺するようになると、その対象の外にあるものは強迫的に嫌悪するようになる。『サッカー狂い』も同様。例えば、野球、ラグビー、アメリカンフットボール(著者・細川氏は蔑称のように「アメラグ」=アメリカンラグビーの略=と呼ぶ)といった他の球技スポーツへの悪罵である。

 しかし、それぞれのスポーツは各々固有のゲーム性=面白さが当然あるわけだから、細川周平氏の言説はいかにも品がない。

日本サッカー界隈における反ドイツ主義
 あるいは、著者が考える「サッカーならざるもの」への憎しみは、同じサッカーの中にも及ぶ。ドイツのサッカーを勝利至上主義の権化「愚鈍なサッカー」として執拗に嫌悪し出したのも『サッカー狂い』である。以来、日本のサッカー界隈はドイツ・サッカーに対する好感を素直に表明しづらくなった。

 たしかに、橋本誠記者(時事通信社)もまた、時事通信社のWEBサイトで、もともと親ドイツだった日本サッカー界の反動としての、日本人サッカーファンのドイツ・サッカーへの複雑な感情を書き連ねてはいる。
  • 参照:橋本誠「だからサッカー・ドイツ代表が嫌いだった~最強チームへの敬意を込めて」https://www.jiji.com/sp/v4?id=germannationalfb0001
 だが、それと比べても細川周平氏の言説はいかにも品がない。

サッカーは「反日本的」か?
 さらに、細川周平氏の嫌悪の矛先は、まだ「冬の時代」だった日本サッカーにも及ぶ。

 とにかく折に触れては日本のサッカーを執拗なまでに貶し、卑下する。著者曰く「サッカーを愛すれば愛するほど、ぼく〔細川周平氏〕は日本から遠ざかっていく気がする。サッカーはもしかすると反日本的な競技なのかもしれない」……と。

 しかし、その自虐的な日本サッカー観の根底にあるのは何かといえば、サッカーは狩猟民族のスポーツで日本人は農耕民族なのだからサッカーに向いていない……といった類の陳腐で凡庸で、そして決定的に間違っている日本人論・日本文化論的サッカー観である。

 細川周平氏の言説はいかにも品がない。

日本の「サッカー狂い」の分断
 これら全て著者の「ヒガミ根性」なのだが、それをフランス現代思想のファッショナブルな衒学で飾っているだけに非常に厄介である。細川周平氏の『サッカー狂い』は「この本は知的に高尚で深遠であるはず」「自分は頭が悪いとは思われたくない」と自らに強迫した日本のサッカーファンによって正当化され、称揚されてきた。

 それは「日本サッカー冬の時代」の限界だろうか? その認識が正しくないのは、例えば日本サッカー狂会の鈴木良韶和尚や、久保田淳氏(著書に『ぼくたちのW杯~サポーターが見た!フランスへの熱き軌跡』ほか)、後藤健生氏(著書に『日本サッカーの未来世紀』ほか)のように、Jリーグ以前から、苦い肝を嘗めながらも日本サッカーを見捨てずに応援してきた「サッカー狂い」の層が一方で存在するからである。

日本サッカー狂会
国書刊行会
2007-08-01


日本サッカーの未来世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2001-08T


 細川周平氏に象徴されるサッカー狂、翻って鈴木和尚や久保田氏、後藤氏に代表されるサッカー狂。このふたつの日本のサッカーファン層の間には高くて長い壁が存在している。

 『サッカー狂い』は、はしたなくも日本のサッカーの精神文化を表している。後の時代の金子達仁氏や杉山茂樹氏、村上龍氏……といった、日本サッカーを殊更に蔑んでは自身のサッカー観の確かさや批評精神を誇示するサッカー関係者の先駆けと言える。

 また、日本のサッカーを敬遠するが欧州の一流どころの海外サッカーは嗜むサッカーファン層(むろん細川周平氏は日本のサッカーとドイツ以外の海外のサッカーとサッカー文化には好意的である)と、日本代表やJリーグなど日本サッカーを応援するサッカーファン層との分断の先駆けとも言える。

 どうしたって『サッカー狂い』は面白く読めない。けれども日本のサッカーやサッカーファンの屈折した精神史を、著者・細川周平氏の意図とは違った視点で興味深くたどれるトンデモない史料(資料)としては、反比例的な評価はできるのかもしれない。

(了)




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  • 前回のおさらい:「日本人サッカー不向き論」は2022年カタールW杯で復活する!?(2022年07月27日)https://gazinsai.blog.jp/archives/46969809.html

日本人サッカー選手の活躍に見る「隔世の感」
 鎌田大地、伊東純也、古橋亨梧、前田大然……等々。欧州サッカーシーンにおける日本人選手の活躍が目覚ましい。これを受けて、サッカージャーナリストの大御所・後藤健生氏が「隔世の感」という言葉を用いていろいろ感慨にふけっている。

 何をもって「隔世の感」というのか?
後藤健生「鎌田がCLで2戦連続ゴール 20年前を思うと、まさに〈隔世の感〉」(2022年10月28日)
 さまざまな意味で「隔世の感」としか言いようがない。

 まず、思うのは最近では「日本人選手〔欧州サッカーシーンで〕がゴールを決めるのが当たり前のようになった」ということ。〔中略〕

 ほんの30年ほど前まで「日本人はサッカーに向かない」と言われていた。その後、Jリーグが発足し、日本代表も毎回のようにワールドカップに出場するようになった。すると、さすがに「日本人はサッカーに向かない」などと言う人は少なくなったが、代わりに「日本人はパスはうまいがシュートが下手.そもそもシュートを打とうとしない」と言われるようになった。

 『日本人はなぜシュートを打たないのか?』という本を書いた人〔サッカー指導者で評論家の湯浅健二氏のこと〕までいた。

 いずれも、日本人がサッカーに向かないのも、シュートを打たないのも、「横並びが重視される日本社会のせい」とか「日本の教育のせい」というのが答えだったように記憶している〔後述するが本当はこの手の議論はもっと多種多様である〕。

 しかし、最近の日本人はシュートを打つし、シュートを決めることもできるようになってきたのだ。もう、今では「日本人はシュートを打たない」などと、誰も言わないだろう。

 先日、U-20女子ワールドカップ〔U-17女子ワールドカップの間違いか?〕を見ていたら、日本の女の子たちはシュートが大好きらしく、カナダ戦では日本チームはなんと30本以上のシュートを放っていた。

 スペインとの準々決勝ではスペイン人選手のスピードやパワーに圧倒されて守備一辺倒になってしまったが、後半66分には谷川萌々子が30メートルほどのロングシュートを突き刺してなんと押されていた日本が先制したのだ(最後に逆転されてしまったが)。

 最近、数10年の間に日本の社会や日本の教育が大きく変わったとは思えない。だとすれば、「日本人はサッカーに向かない」と思われていたのも、「日本人がシュートを打たな」かったのも、社会や教育のせいではなかったのではないだろうか。

 要するに、日本では選手の育成がうまくいっていなかったからサッカーが弱かったのであり、日本人選手はキックが下手だったからシュートを打ちたがらなかったのに違いない。

 1990年代以降、日本の育成システムが大幅に改善され、最初はパス技術などのレベルが上り、最近になってようやくキック技術の高い選手が数多く生まれてきた。その結果、日本人選手もシュートがうまくなり、ヨーロッパ各国リーグでも〔UEFA〕チャンピオンズリーグでもゴールを決められるようになってきたのだ。

 力を入れ過ぎずに、しっかり相手のGKの動きなども見極めながら、冷静にゴールを決める鎌田〔大地〕の姿を見れば、もう二度と「日本人にサッカーは向かない」とか「日本人はシュートを打たない」などと言われることはないだろう。

 もう一つ、「隔世の感」を思わせるのは、日本人選手がCL〔UEFAチャンピオンズリーグ〕に出場できるような強豪クラブで活躍するようになったということだ。〔以下略〕

https://news.jsports.co.jp/football/article/20190310223956/
 そもそも、かつての後藤健生氏自身が、著書『サッカーの世紀』などの場で、「日本人はサッカーに向かない」と力説していた……。

サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07T


 ……しかしながら、後藤氏は1990年代からの日本サッカーの伸長を的確に評価し、そのような煩悩(ぼんのう)のような思考からは既に解脱(げだつ)している。

 氏は、2022年の時点で、「日本人サッカー不向き論」はもう二度と出てこない、すなわち「もう二度と〈日本人にサッカーは向かない〉とか〈日本人はシュートを打たない〉などと言われることはない」と啖呵を切っているのである。

 だが、それは怪しい。後藤健生氏は少し楽観的すぎやしないか。

でも,もしカタールW杯で日本代表が「惨敗」したら?
 日本代表にとって、どのワールドカップ本大会でも、1次リーグで楽な対戦相手など存在しなかった。そうだとしても、今回、2022年カタールW杯は厳しい。ドイツ、スペインというW杯優勝経験のあるヨーロッパのサッカー超大国と同組になってしまった。毎回、好チームをW杯本大会に送り込んでくる北中米カリブ海のコスタリカもまた、侮れない。

 当代サッカー日本代表=森保ジャパンの国際的な下馬評はハッキリ言って低い。もし、カタールW杯で日本が下馬評通りに……否、下馬評を下回る「惨敗」を喫してしまったら? 特にドイツなんかは大量得点をしても手抜きをしない印象があるから本当に怖い。

ミネイロンの惨劇(ドイツ7-1ブラジル)
【2014年ブラジルW杯の「ミネイロンの惨劇」】

 悲観的になるが、カタールW杯での森保ジャパンの結果と内容いかんによっては、後藤健生氏の考えとは裏腹に、ネガティブで自虐的な「日本人サッカー不向き論」はたやすく復活するだろう。

 そうなったら、いずれも日本代表が「惨敗」した過去のW杯、1998年フランスW杯、2006年ドイツW杯、2014年ブラジルW杯の時がそうだったように、日本のサッカー界隈、日本のサッカー論壇には「日本人サッカー不向き論」で溢(あふ)れかえるのである。

 例えば、「日本人サッカー不向き論」のイノセントなビリーバーである湯浅健二氏と、そこからは脱した後藤健生氏の対談である(もともと両氏は懇意な間柄にある)。

 2人の対談本『日本代表はなぜ敗れたのか』(2014年)では、何度となく湯浅健二氏は日本人の国民性では本質的にサッカーに向いていない。だからブラジルW杯で日本代表は惨敗したのだ……と繰り返す。対して後藤氏は、時には語気を強めてまで必死でそれをたしなめるのだが、イノセントな湯浅氏はまったく聞く耳を持たない。

日本代表はなぜ敗れたのか (イースト新書)
後藤健生
イースト・プレス
2014-08-10


 それでは、日本代表が1次リーグを勝ち上がったW杯ではどうか? ……というと、実は変わらない。何と湯浅健二氏と後藤健生氏は、2010年の南アフリカW杯の時も、ブラジルW杯の時とほとんど同様の対談を展開していたのである(『日本代表はなぜ世界で勝てたのか?』2010年)。

日本代表はなぜ世界で勝てたのか? (アスキー新書 161)
後藤 健生
アスキー・メディアワークス
2010-08-07


 要するに、「日本人サッカー不向き論」の世界では、日本代表がW杯で勝とうが負けようが、日本人が日本人である限り日本人はサッカーに向いていないのである。それに関しては、湯浅健二氏のように、ネガティブで自虐的な「日本人サッカー不向き論」を吟ずることこそ、日本のサッカーファンとしての賢明で批評的な態度の表明なのだ。<1>

 後藤健生氏が先の引用文で湯浅健二氏のことを当てこすっていたのは、このような経緯があったからである。それにしても、後藤氏は少し楽観的すぎやしないか。

「日本人サッカー不向き論」の担い手は世代交代している
 なぜなら、「日本人サッカー不向き論」自体が根絶できていないからだ。

 後藤健生氏は知らないのかもしれないが、「日本人サッカー不向き論」は湯浅健二氏や佐山一郎氏、細川周平氏、星野智幸氏、村上龍氏、金子達仁氏……等々の世代から世代交代している。例えば、中野遼太郎氏(1988年生まれ)や河内一馬氏(1992年生まれ)といった若手のサッカー指導者・サッカー関係者が今やその担い手になっている。

 そして、その中身は、と言えば……、
 日本人が使う「日本語」は極めて特殊で難しいニュアンスを含んでおり、サッカー国である大多数の外国人には習得が非常に難しい言語である(日本語特殊言語論)⇒ゆえに日本人は日本人というだけで、サッカーに関して大変なハンディキャップを宿命的に背負っている(もっとハッキリ言えば,日本人はサッカーに向いていない)。

参照:中野遼太郎氏のサッカーコラムから~日本人論・日本文化論は終わっていない(2021年05月02日)https://gazinsai.blog.jp/archives/43733968.html
 日本人は「一神教」なかんずくキリスト教(でなければイスラム教)を信仰していない、信仰心が極めて薄い多神教または「無宗教」である(日本人無宗教論)⇒ゆえに日本人は日本人というだけで、サッカーに関して大変なハンディキャップを宿命的に背負っている(もっとハッキリ言えば,日本人はサッカーに向いていない)。

参照:一番ダサいのは陳腐な「サッカー日本人論」を垂れ流している河内一馬氏の方ではないか(2018年12月01日)https://gazinsai.blog.jp/archives/35168758.html
 ……こういったことは、別に中野遼太郎氏や河内一馬氏が新しく論じたことではない。

 「日本語特殊言語論」や「日本人無宗教論」に基づいた「日本人サッカー不向き論」というのは、日本サッカーが長期低迷していた1970~1980年代初めから既に存在していた(余談ながら,1980年代,ミニコミ誌『サッカージャーナル』の編集長として,そうした「日本人サッカー不向き論」の流布に関わっていたひとりが後藤健生氏だったであるが)。

 繰り返すが、「日本人サッカー不向き論」は根絶できていないのである。

 だから、やはり悲観的になるが、カタールW杯での森保ジャパンの結果と内容いかんによっては、後藤健生氏の考えとは裏腹に、ネガティブで自虐的な「日本人サッカー不向き論」はたやすく復活するだろう。

欧州サッカーシーンでの日本人選手の活躍は関係ない
 ワールドカップ本大会における日本代表の勝ち負けはあくまで一時(いっとき)の運、一方、鎌田大地、伊東純也、古橋亨梧、前田大然ら、多数の日本人選手は欧州サッカーシーンで普通に活躍しているのだから、もう「日本人にサッカーは向かない」などと言われることはない……ひょっとしたら、後藤健生氏はこう言いたかったのかもしれない。

 しかし、そんな理屈は通用しない。

 先に、「日本人サッカー不向き論」の世界では、日本代表がW杯で勝とうが負けようが、日本人が日本人である限り日本人はサッカーに向いていない……と書いた。同様、「日本人サッカー不向き論」の世界では、日本人選手が欧州サッカーシーンで活躍しようがしまいが、日本人が日本人である限り日本人はサッカーに向いていないのである。

 だから、今でも中野遼太郎氏や河内一馬氏のような人が台頭するのである。中野氏や河内氏がサッカー関係者・サッカーファンの耳目を集めたのは、実はサッカーの仕事それ自体というよりも「日本人サッカー不向き論」を展開したから。そこに日本のサッカー界隈や日本のサッカー論壇の特殊性がある。

 サッカー関係者・サッカーファンの層(親サッカー層)ですらそうなのである。

 ふだんサッカーへの関心は薄いがW杯なら見るという一般人を中心とした層(非サッカー層)や、あからさまな「反サッカー層」なら、なおさら。

 〈二刀流〉の日本人メジャーリーガー・大谷翔平をめぐる過剰な報道に代表されるように、野球ばかりが優遇される日本のオールドメディアのスポーツ報道の状況にあっては、非サッカー層・反サッカー層の人たちには、欧州で活躍する日本人サッカー選手たちは「視界」に入らない。

 日本人とサッカーのかかわりへの評価や日本のサッカーへの評価は、あくまでワールドカップの結果で判断される。

 「日本人サッカー不向き論」の言説は、親サッカー層、非サッカー層、反サッカー層の区別と関係なしに誰でも参加でき、発信される。<2>

 カタールW杯での森保ジャパンの結果と内容いかんによっては、ネガティブで自虐的な「日本人サッカー不向き論」はたやすく復活するだろう……と、どうしても悲観的になってしまう。

 大会本番を直前に、日本サッカーの「隔世の感」を思い、感慨にふける後藤健生氏がであるが、少し楽観的すぎやしないか。

(了)




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ある逸話
 中村敏雄著『オフサイドはなぜ反則か』。初版は1985年7月。ゴールを目指しながらゴールへの先回りを禁じたサッカーやラグビーの「不合理」なルール=「オフサイド」の発祥を中世英国の村祭りにたどり、その「心」を描いた名著としてきわめて高く評価されてきた。





 半田雄一編集長時代の旧『サッカー批評』誌で、後藤健生氏と中村敏雄氏との対談が企画された。その冒頭、後藤健生氏はこの本の初版本を持ち出して、中村敏雄センセイにサインをおねだりした……という逸話があるくらい、『オフサイドはなぜ反則か』は名著なのである。

 だからといって、今なお、この本を神棚の御札のようにただただ有難がっているだけでいいのだろうか?

オフサイドの「心」
 中世英国、街頭や村で大規模に行われていた「フットボール」は時代を下り、空き地や校庭で限られたスペースで行われるようになった。その「フットボール」では、自陣より前に出て待ち伏せのようにプレーすること、つまり「オフサイド」を卑怯な反則として禁じた。

 その理由とは? 当時、ほとんどのルールでは、1点先取か2点先取で勝敗が決まるルールだったので、時間いっぱいフットボールのゲームを楽しむためには、簡単に得点が決まってはかえって困るからである……。

 ……というのが『オフサイドはなぜ反則か』という著作の「心」である。

 この「心」は、刊行当時、1980年代に流行っていた「近現代の競技スポーツにおいて勝ち負けを争うこと勝利を求めること,それ自体を卑しめる」現代思想系のスポーツ評論(否,今福龍太氏のように2020年代に入ってもそんなスポーツ評論を書く現代思想家はいるが)の精神とも共鳴するところが多々あった。

 こうした時代背景が『オフサイドはなぜ反則か』を歴史的な名著としている。

加納正洋による批判
 しかし、この仮説には弱点がある、と中村敏雄説を大胆に批判したのは、フットボール・アナリストを自称する加納正洋……数々の反サッカー主義的言動で知られる中尾亘孝(なかお のぶたか)<1>という偏執的なラグビー評論家の別名……の著作『サッカーのこと知ってますか?』(2006年)である。

サッカーのこと知ってますか?
加納 正洋
新潮社
2006-05-25


 加納正洋の主張は、要するにサッカーやラグビーが形成されていく当時(19世紀後半)の英国のフットボールには「オフサイドがないフットボール」も多数あったというのである。

 すなわち、シェフィールド・ルール、ウィンチェスター・カレッジ・フットボール、オーストラリアン・ルールズ・フットボール、ゲーリック・フットボールなどのフットボールには、オフサイドが無かったという。

 特にオーストラリアン・ルールズ・フットボール(オーストラリアの国技)やゲーリック・フットボール(アイルランドの国技)は、オフサイドが無くても何の不自由もなく、競技が成立・発展してきた。

 こうしたことは19世紀末に「フットボール」を室内向けに改良、考案され、オフサイドを意図的に無くしたとされるバスケットボールに限らないのである。

 中村敏雄説では「オフサイド」を他の反則ルールの中でも特別視する傾向にあるあるが、こうして見てくると、オフサイドはそんなに特別で特異なルールなのだろうか? ……と思えてくる。

 例えばラグビーなどは、オフサイドだけなく、ノックオンやスローフォワードをも反則としないと、そのゲーム性は成立しない。そうしないと、オーストラリアン・ルールズ・フットボールか、ゲーリック・フットボールみたいな球技になってくるからだ。

 これは、ラグビー・フットボールの創生譚「ウェッブ・エリスの伝説」とも関わってくる。

世界ラグビー基礎知識
小林 深緑郎
ベースボールマガジン社
2003-10T


膀胱ボールと「農耕民族」
 近代以前のフットボールで使用されるボールは、ゴムの代わりに牛や豚の膀胱が用いられたという、有名な話があるが、『オフサイドはなぜ反則か』初版の78~79頁には、これについて次のような話が書かれてある(本文の引用では長すぎるので要約を載せる)。
 膀胱のボールを作るためには牛や豚が屠畜されなければならない。昔の英国人(欧米人)は血まみれの膀胱ボールを蹴っていたのではないか? また膀胱ボールは破れやすかったという。昔の英国人(欧米人)は膀胱ボールが破れるたびに牛や豚を屠畜していたのではないか?

 血まみれの膀胱ボールを蹴り合い、楽しみ、それが破れるたびに牛や豚を殺していた昔の英国人(欧米人)の感覚はまさに荒々しい狩猟民族の精神そのものであり、対照的に温和な「農耕民族=日本人」にはサッカーやラグビーの本質は理解できないのではないか?

中村敏雄『オフサイドはなぜ反則か』初版の78~79頁より
 このように、中村敏雄氏は、日本でサッカーを語る人にはありがちなのだが、「日本」と「世界」の間に越えられない「文化の壁」や「人種の壁」を構築する癖の強い人で、この点、非常に頑迷であった。

膀胱ボールは実用に耐えない
 ただし、このくだりは何かの根拠をもって書かれたものではない。あくまで著者・中村敏雄氏の想像である。2022年の今日、農耕民族と狩猟民族の対比などといったありふれた文化論は、とても知的には見えない。だが、中村敏雄氏の存命中はこれが通用していた。

 加納正洋は、この説も批判する。

 どんな本にも出てくる「膀胱ボール説」だが、これは机上の空論である。なぜなら……。実物の膀胱ボールは、紙風船とビーチボールを足して二分したような華奢(きゃしゃ)なもので、大人が蹴れば一発で破れる。とてもフットボールの実用に耐えるものではない。

 フットボール用のボールは丈夫な動物の皮をアウター(外皮)として使い、インナー(内皮)には、よく洗い乾燥させた豚や牛の膀胱を使った(血まみれではない)。

 中世英国では、人々の間で荒々しいフットボールが行われていた。しかし、そこに血まみれの膀胱ボールが使われていたというイメージは正確ではない……と。

中村敏雄説もアップデートを
 中尾亘孝は嫌いだが、中村敏雄氏の権威におもねることなく批判した点は評価できるのではないか。

 とまれ『オフサイドはなぜ反則か』の所説もアップデートが必要な時期に来ているのだと思う。

(了)




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 長い間、巷では、国民性や文化といった次元で「日本人はサッカーに向いていない」「日本人はサッカーよりも野球の方が向いているのだ」と信じられてきた。

 しかし、今やドイツ・ブンデスリーガ1部クラブ所属の日本人サッカー選手だけで、海外球団(アメリカのMLBおよびその傘下のMiLB)所属の日本人野球選手の人数を超えてしまったのだという。これがヨーロッパ全体だともっと多いはずである。

 この「事実」は、実は日本人は野球よりサッカーの方が向いているのではないかという、意外な「本質」を表しているのではないか。


 これで「日本人はサッカーに向いていない」と言ったら、外国人(特に欧米人)に怪訝な顔をされるのではないか。


 サッカーの世界列強から一世紀遅れてプロリーグを設立した国(日本)が、その後、ワールドカップ本大会の常連国にのしあがった。こんな芸当は日本人にサッカーが向いていなければ不可能ではないのか。

 * * *

 だが……、思い起こしてほしい。この「日本人サッカー不向き論」というネガティブな言説は、反サッカーの側からよりも、むしろ、親サッカーの側、つまり日本のサッカー論壇の住人たちが多く発してきたという「事実」である。


 ちょっと思い出しただけでも、村上龍、金子達仁、後藤健生、湯浅健二、佐山一郎、細川周平、寺田農、ジョン・カビラ、星野智幸、中条一雄……等々、枚挙にいとまがない。

 サッカーに向いていない……それが日本人の「本質」であると。

 これらの人々は、このような発言をすることで、自身のサッカー観の確かさやサッカーに関する批評精神の高さを誇示してきたのである。だから、なかなか無くならない。

 そして、その火種は今なお燻(くすぶ)り続けている。否、ためしに今でもGoogleで「日本人,サッカー,向いていない」と検索を書ければいい。自虐的な「日本人サッカー不向き論」の類がウジャウジャ出てくる。これは何かあれば、再着火し、炎上する。


 当代サッカー日本代表=森保ジャパンの気勢がなかなか上がらない。悲観的になるが、2022年カタールW杯での森保ジャパンの結果如何によっては、ネガティブな「日本人サッカー不向き論」はたやすく復活するだろう。

 ザック・ジャパンで惨敗した2014年のブラジルW杯の時、ジーコ・ジャパンで惨敗した2006年のドイツW杯の時がそうだったから。

 「日本人サッカー不向き論」は、もっぱら親サッカー=日本サッカー論壇の内側から出てきたのであって、反サッカーはその風潮に棹を指しているだけだ。

 けして「反サッカーvs親サッカー」という単純な図式には収まらないのである。

(了)




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 サッカー日本代表、2022年1月~2月の活躍は素晴らしいものがあった。それを讃えるサッカー講釈師こと武藤文雄さんのツイートである。

>>100年の歴史が育んだ知性と技巧とフィジカルに優れた我らのサッカーエリート達が、ここまで戦ってくれるとは。(武藤文雄)
 さて、この「100年の歴史」とは何だろうか?

 JFA=公益財団法人日本サッカー協会が、1921年(大正10年)に創立してから2021年で100年経ったということである。

 しかし、それは日本のサッカーの歴史が100年とちょっとということではない。それ以前から、日本でサッカーは行われていた。

 日本でもっとも古くから活動している旧制東京高等師範学校フートボール部、現在の筑波大学蹴球部が創部されたのが1896年(明治29年)だから、そこから起算すると、2022年で126年になる。

 筑波大学蹴球部は、現在まで続いている日本の(日本人の)サッカーの直接のルーツと考えられる。全国各高校のサッカー部の淵源、あるいはその血脈(けちみゃく)をたどっていくと、東京高等師範学校~筑波大学の人材に連なるクラブは多いはずである。

 だから、武藤文雄さんが「100年の歴史」と書いたのは正しくないのではないか。

 さらにそれ以前から、日本の(日本人の)サッカーは行われていた。

 もっとも、日本の(日本人の)サッカーが「いつから」始まったのか? 諸説紛々かつ曖昧模糊としており、かつ解釈によってまちまちである。未だよく分かっていないことも多い。
  • 参照:明治最初のフットボールはサッカーか? ラグビーか?~後藤健生vs秋山陽一(2019年08月12日)https://gazinsai.blog.jp/archives/38242980.html
  • 参照:公益財団法人日本サッカー協会(JFA)沿革・歴史 http://www.jfa.jp/about_jfa/history/
 この点、1899年(明治32年)、慶應義塾で行われたラグビーを日本の(日本人の)ラグビーの始まりという話が定説化しているラグビー界とは対照的である。<1>

慶応ラグビー「百年の歓喜」
生島 淳
文藝春秋
2000-09-01


 ともあれ、武藤文雄さんは「120有余年の歴史が育んだ……我らのサッカーエリート達が……」と書くべきだったのではないか。

(了)




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