高校野球報道における公立校・進学校びいきの風潮
 何だかんだ言って、今年の「夏の甲子園」(全国高等学校野球選手権大会)も話題に事欠かなかった。例えば、公立校の甲子園(本大会)進出はますます減少、今回はとうとう10校を切ったそうである(全49校中8校)。
 その反動で、ここ数年、高校野球報道でやたら公立公立と騒がれるようになっている。特に公立校の普通科で、それも有数の進学校だったりするとマスコミを中心に大変な話題になる。今大会でいえば、滋賀県代表、滋賀県立彦根東高等学校。あるいは福岡県代表、福岡県立東筑高等学校。いずれも、マスコミの扱いは破格であった。そうした学校の、私立の野球強豪校とは一線を画した「高校野球観」も目立って採り上げられた。
 その一方、(よくない言い方だが)いわゆる底辺校の監督が「文武両道あり得ない」という趣旨の発言をしてネットで炎上。初戦の対戦相手、香川県立三本松高等学校も公立の進学校で、しかも負けてしまったため、バツの悪い事になってしまった。
 それにしても、これだけ「格差」のあるチーム同士が「甲子園」という同じ舞台に登場し、場合によっては相見(あいま)みえるスポーツイベントというのも、なかなか興味深い。あるいは海外のサッカーとも通じるところがあるのではないかとも連想した。

英国サッカーのプロ化、高校野球の「プロ化」
 イングランド・サッカー、FAカップの初期の(19世紀の)優勝チームを見てみると、オックスフォード大学、オールドイートニアンズ(超名門パブリックスクール「イートン校」OBクラブ)、ロイヤルエンジニアズ(王立工兵連隊)といったエリート的なアマチュアのクラブが名を連ねている。だが、次第にそれらはプロフェッショナルの選手とクラブに取って代わられる。
ロイヤルエンジニアズFC
【ロイヤルエンジニアズFC(19世紀)とチームカラー】

 一方、大正時代の高校野球(当時の学制では中等学校だが)の優勝校・上位進出校を見ていると、当時は、秋田中、市岡中、愛知一中、神戸一中、和歌山中……といった、その府県のトップクラスの公立校か、慶應義塾、関西学院、早稲田実業、甲陽学院……といった、私学の名門である。
高校野球歴代優勝校
【大正時代の高校野球の歴代優勝校】

 現代の甲子園でも、こんな学校が進出すればマスコミも嬉しがるだろう。もっとも、明治・大正の当時はスポーツをやること自体が「ぜいたく品」であった。進学率が現代より極端に低い時代、スポーツは一部の上級学校の進学者のみの特権だったのである。時代が下って、そこに○○商業といった実業学校(生徒=選手をより集めやすい)が割って入り、そしてより大衆的(?)な私学が台頭、さらにスポーツの大衆化が進んで現在への私立野球強豪校の席捲へとつづく。

 松谷創一郎氏は、昨今のそうした私立野球強豪校の席捲を、高校野球を「『教育の一環』をタテマエとする“プロ部活”」だと非難じみて論じている。しかし、スポーツにおいては「プロ化」自体は、むしろごく自然な流れである(高校生年代のスポーツでそれがいいのか等々の問題は別として)。
 仮に歪んだ仕組みにあっても、そこに呼吸する者の価値は皆無ではありえない。新聞社の宣伝、学校経営の道具、高校野球の実相だろう。もとより支持したくはない。それでも、甲子園に語られるべき一投一打は存在する。

藤島大『知と熱』あとがき より



 松谷氏の発言は、英国サッカーにおいて、古典的でエリート的なアマチュア主義者がプロフェッショナルを非難している様子と似ていなくもない。しかし、英国(その他の国々)のサッカー同様、高校野球はスポーツが少数のエリートの独占物だった昔にはもう戻れない。英国サッカーと高校野球の歴史は、ある意味で似ている。

日本は歴然とした階級社会である
 欧米サッカーの熱狂、そこには欧米の階級社会が深く関わっているといわれる。例えば、英国スコットランドのレンジャーズ対セルチックのダービーマッチ、南米アルゼンチンのリバープレート対ボカジュニアーズのダービーマッチは、上流・中産階級vs労働者階級の階級対立を孕(はら)んでいる。だから、あれだけ多くの人々が熱狂するのだ。
オールドファームダービー
【レンジャーズ対セルチックのダービーマッチから】

 翻って、日本は階級社会ではない。日本は世界でもまれにみる平等社会、無階級社会、一億総中流社会である。つまり日本には階級対立が存在しない。したがって階級対立のエネルギーがスポーツに反映されることはない。日本のスポーツ文化は欧米と比べて、きわめて微温的なものである……などと、論じられてきた。

 実は、日本もずっと以前から相当な階級社会である。ロビン・ギルという日本在住のアメリカ人の著述家・翻訳家がいて、いろいろと本を出していた(アメリカに帰ってしまったらしい)。彼の著作『日本人論探検』**に、日本平等社会説、日本無階級社会説、一億総中流社会説に対する反論として、次のような話が出てくる。
日本人論探険―ユニークさ病の研究
ロビン・ギル
阪急コミュニケーションズ
1985-12

 1960年、萬成博とジェームズ・アベグレンによる日米比較調査によれば、アメリカ合衆国の政府高官やビジネスエリートの息子たちが占めている高い地位は、同年輩の全人口のに占めている彼らの割合に比べて、7~8倍も上回る出世率となっている。日本の場合、同様のアドバンテージは、アメリカよりさらに上、何と25倍になっている。

 日本における各界リーダーの3人に2人は社会の上層8分の1の家の出身である。日本は人的流動性の高い社会だとはとても言えない。この傾向は1970年、1980年の調査結果でもほぼ同じだった。

 1983年、カリフォルニア州立大学のトーマス・ローレンは1年強にわたって神戸の5つの高等学校を調査し、こう結論づけた。「神戸の一流(high status)〔灘高校〕と三流(low status)高等学校のあいだの社会的断絶は非常に大きい。その隔たりは一九世紀の階級差(日本、欧州いずれにせよ)に劣らないくらい広いのだ。それはただ単に、学問上のギャップではない」(『日本の高校~成功と代償』として邦訳、出版)。
日本の高校―成功と代償
トーマスP. ローレン
サイマル出版会
1988-03

 考えさせる観測であろうと、ロビン・ギルは次のように語る。
 もし仮に大学あるいは高校を出ていないすべての肉体労働者の皮膚を黒く染めること。またその皮膚の色を子供に遺伝させることができたなら、そういった日本人の子孫が、たとえばアメリカの黒人の場合よりも流動性が低いという驚くべき(?)状況が明るみに出るはずだ。

ロビン・ギル『日本人論探検』134頁
 「大学あるいは高校を出ていない」に加えて、現代では「格付けの低い大学を出た」も入るのだろうか。「大学」を卒業しても、非正規雇用で「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり……」という状況である。
 将来、日本の経済成長が後退するとき、政府がどんな教育革命をやってみてもやはり、遠く前に亡くなったはずの不平等の問題は再び現れるだろう、きっと。

同書136頁
 1985年に発したロビン・ギルのこの「予言」は、2017年現在、ほとんど当たっている。ちょっと怖いくらいだ。日本は階級社会なのである。

甲子園の「野郎ども」
 日本は階級社会ではないから、欧米のようなスポーツの熱狂に欠けると言われてきた。しかし、ロビン・ギルの指摘に従えば、日本もまた歴然とした階級社会である。そんな日本社会の「階級性」が、なぜ欧米諸国のようにJリーグやプロ野球に反映しないのかは、いろいろ考えてみる意味はあるかもしれない。

 日本のスポーツの場合、階級性は、一億総中流ではなくなったこの時代になって、高校野球に少しばかり現れるようになってきたのかもしれない(ただし、抽選で組み合わせが決まるから、欧米サッカーのように毎回「階級対立」的な試合があるわけではないが)。
 悲しいかな、文武両道には強い味方がいる。メディアであり、メディアによって作られた社会全般の声だ。実際強豪校と文武両道校の戦いになれば、自校の応援席以外は冷たい。

 三本松vs下関国際の試合に際してツイッター検索で、下関国際高校に関する「つぶやき」を追いかけてみた。試合前に夕刊タブロイド紙『日刊ゲンダイ』のサイトに載った監督の発言のせいもあるのだろう(取材した記者が監督の談話を誇張したという説もあるが真相不明)。ツイッターは、下関国際国際への嫌悪感やら侮蔑の念を表明した反応が多く目立った。

 これには、かえって違和感を感じた(さすがに下関国際高校野球部監督の、過剰な練習を強いる前時代的な指導方針はスポーツとして認められないけれども)。

 英国のミドルクラス(おそらくはその中でもロウアーミドル=lower middle class)の子供は、顔を洗うことと、労働者階級を馬鹿にすることを覚えるという(林信吾の本だったと思う)。一連のツイートは、そんなことをも連想させるのだ。高度成長・経済大国の時代からは日本の国力は後退していて、大衆はだんだん報われなくなっている。その分、誰かを下に見ていたいという心理の現れだろうか。

 マスコミの公立校びいき、進学校びいき。「底辺校」への嫌悪と侮蔑は、日本の階級差別……と言って悪ければ、ある種の日本の階級意識の現れなのである。
 だが一方で、知性をバカにすることによってプライドを保つ人たちが、そしてそういう人によってしか担われない領域の仕事というものがこの世には存在するのである。〔英国の〕社会学者ポール・ウィリスはその辺の事情を見事に明らかにしている〔『ハマータウンの野郎ども』〕。世の中は知的エリートによってだけ動いているのではない。知的であることによってプライドを充足できる。他方に反知性によりプライドを充足する人々がいる。人間はプライドなしには生きられないという観点からすれば、どちらも等価である。


 むしろ、下関国際高校の監督のように、公立校・進学校に注目する風潮とは反対の立場から、本音に近い感情や言い分がマスコミ(『ここもまた知的エリートの業界である)に載ったということの方が珍しいのではないか(こうした学校は、どうやって生徒たちのモチベーションを上げ、維持していくのだろうか)。

 それは、サッカーイングランド代表デビット・ベッカムを国民的ヒーローとして応援し、祭り上げておきながら、一方で、労働者階級出身であるベッカムを内心さげすんでいる英国の中産階級以上の人々の感情にも似ている。この辺は日本も同様か。

 ベッカムはベッカムで、ステータス上昇のために自身が話していたロンドン下町訛り(コックニー)の英語を矯正している。夫人のビクトリア・ベッカムは体の方々に入れたタトゥー(入れ墨)を除去しているという噂がある。

 英国は英国なりに、日本は日本なりに階級社会である。日本のスポーツにおける階級意識は、サッカー(Jリーグ)やプロ野球ではなく、高校野球に現れるのである。

(了)


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