スポーツにおける「日本人農耕民族説」
欧米人(やアフリカ系黒人)は「狩猟民族」である。ひるがえって日本人は「農耕民族」である。両者はあらゆる意味で対照的であり、したがって……という「日本人農耕民族説」は、あらゆる分野の通俗評論で援用される俗信である。
これは、特にスポーツでは頻々と使われる。ハリルホジッチ監督解任事件で揺れる昨今のサッカージャーナリズムで、こんな文章を目にした。
サッカーは両チームが入り乱れるカオスの競技であり、一方のチーム事情だけでは測れない。たとえば、日本人は農耕民族だからそれに合ったスタイルをやりましょう……などと言ったところで、同時に狩猟民族の良さを潰すことも考えなければ、サッカーの試合は勝てない。求められる能力、戦術は多岐にわたる。
該当の記事は「日本人らしいサッカー」をキーワードに、日本代表のサッカーを論じている。だが、本来、技術論に徹して書くべきところ、「日本人らしさ」に拘泥するあまり、つい「日本人は農耕民族だから……」という例の常套句が出てしまった。
これはサッカーそのものからの逸脱である。あまり賢明には見えないから、こんなアンチョコなど止めるに越したことはない。
佐山一郎氏の『サッカー人間学』の解釈
さて、この「日本人農耕民族説」。なかんずくサッカーでは「日本人」の民族的、あるいは人種的(!)な劣等性を強調するために頻々と使われる。そのロジックは……。
そもそもサッカー(フットボール)は狩猟のメタファーであり、それは狩猟民族の欧米人(やアフリカ系黒人)のものである。農耕民族の日本人は、サッカーではどこまでいっても狩猟民族に勝つことはできない。
……と、いうものだ。
ディスリータ@この腐った世界の片隅から@toxic_sjまあ、ハリルホジッチ氏解任に関する憤りは理解できますけどね。日本サッカー協会もバカだね。
2018/05/29 13:11:01
狩猟民族から生まれたスポーツなんだから、狩猟民族の人間の考え方ややり方を学ばないと勝てねぇーよ‼︎
せいぜい農耕民族のオママゴトサッカーでもやってろ‼︎
ハリルホジッチ氏、ロッケンロール‼︎… https://t.co/l9EfO7jlhi
こうした「サッカーにおける〈日本人農耕民族説〉」の元凶であるという濡れ衣を着せられている、実に不幸なサッカー本がある。
デスモンド・モリス(動物行動学者)の超大作『サッカー人間学』(原題:The Soccer Tribe=サッカー部族=)である。
モリス博士が「サッカーにおける〈日本人農耕民族説〉」の犯人である……かのように思わせる言及が、最近刊行された佐山一郎氏による日本サッカー通史『日本サッカー辛航紀』にある。
陰気でおたく〔原文傍点〕な私〔佐山一郎〕が指摘しておきたかった……。悪性マゾ的メンタリティ〔自虐的な日本サッカー観〕の大量発生に、この本が一役買ってしまった可能性が高い。「第1章 部族のルーツ」の中の〈儀式的狩猟としてのサッカー試合〉の項が、のちのち長くいわれ続けることになる「日本人=非狩猟民族=得点力不足」説の論拠になってしまったからだ。これに集合的な諦念がカクテルされれば、さらなる負のスパイラルである。偏狭な一国史観的自己認識でしかない“農耕民族説だから勝てない説”がはびこるのも当然のことだった。〔サッカー日本代表の〕五輪出場は再び分不相応の大きな望みである「非望」のレベルにまで達していた。佐山一郎『日本サッカー辛航紀』144~145頁
当時、『サッカー人間学』日本版が刊行された1983年の日本サッカーは、人気・実力ともに低迷のどん底にあった。そこへモリス博士が『サッカー人間学』で「サッカー≒狩猟」の図式を示したものだから、日本のサッカー関係者は、皆「サッカーにおける〈日本人農耕民族説〉」で(きわめて自虐的に)納得してしまったというのである。
そういえば『サッカー人間学』日本語版の監修者・岡野俊一郎氏は「サッカーにおける〈日本人農耕民族説〉」の固い信奉者でもあった。
佐山氏の、『サッカー人間学』の解釈に問題はないのだろうか?
日本もまた世界の「サッカー部族」の一員である
端的に言えば、佐山氏の解釈は間違いである。
モリス博士は、たしかにサッカーを儀礼的狩猟とみなし、サッカー文化を原始あるいは非文明の部族社会のそれにたとえた。しかし、農耕民族説に基づいて、日本人サッカー部族から排除しようなどと言う意図は、まったくない。
どうしてそんなことが断言できるのかというと、『サッカー人間学』の図版には日本サッカーに関する言及が何か所か存在するからである。
どの写真図版も、本の見開きのノドの部分にかかってしまうので、不鮮明なのは恐縮なのだが、まずは88頁。キックオフ前に試合を盛り上げるサッカーの「式典」のひとつとして、高校サッカーの学ラン応援団によるエール交換が登場する。
続いて104~105頁。ブラジルのペレ、イングランドのジミー・グリーブスと並んで、偉大なゴールスコアラー、その国のサッカー部族の英雄、伝説的人物として、日本の釜本邦茂が登場する。
そして、106頁。優勝の祝いの儀式のひとつとして日本とチェコスロバキア(当時)の「胴上げ」が登場する。胴上げされている日本の選手は、1976年の天皇杯優勝チーム=古河電工のキャプテン桑原隆選手である。
ちなみに胴上げは、昨今、海外のサッカーでも「胴上げ」は行われるようになった。一方、アメリカ合衆国のメジャースポーツ、野球の大リーグでは日本のプロ野球のように胴上げは行われていない。
アメリカの野球と日本の野球の違いを400項目羅列・解説した、玉木正之氏とロバート・ホワイティング氏の『ベースボールと野球道』には、しかし、アメリカ大リーグでは優勝しても監督その他が胴上げされることはない……という話は登場しない。
その理由は、「胴上げ」が必ずしも日本独特の習慣ではないことがモリス博士の『サッカー人間学』に書いてあるからではないかと憶測する。
サッカーにおける「日本人農耕民族説」を乗り越える?
話を戻すと、デスモンド・モリス著『サッカー人間学』は「サッカーにおける〈日本人農耕民族説〉」を吹聴などしていない。また、『サッカー人間学』がその「論拠」になったというのもおかしな話で、モリス博士の浩瀚(こうかん)な著作を、モリス博士の意図を曲解して、「日本人農耕民族説」として「受容」してしまった……という方が正しい。
佐山一郎氏は他人事のように書いているが、そもそも「サッカーにおける〈日本人農耕民族説〉」を煽ったひとり(誰よりも一番煽った)が佐山氏なのである。
この度の佐山氏には「サッカーにおける〈日本人農耕民族説〉」を乗り越えようという意思が(それなりに?)見える。だが、それには煽った過去がある佐山氏本人の自省の表明が必要なのではないか。
後藤健生氏が、かつて自身が持ちネタにしていたサッカー文化論(サッカー日本人論)である赤信号文化論(トルシエよりずっと前)について、自省を込めながら批判してみせたようにである。
『日本サッカー辛航紀』は良書であるだけに、その点は少しばかり残念なのである。
(了)