スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:佐山一郎

 2023年10月28日は「ドーハの悲劇」から30年に当たります。あの出来事が日本サッカーにもたらした余波について振り返ります。なにぶん内容的に古い話や今の人には分かりにくい話があるかもしれませんが、ほぼそのまま掲載します。(4回シリーズ,文中敬称略)

ドーハの悲劇(1993年11月28日)
【ドーハの悲劇(1993年10月28日)】

  • 前回のおさらい:

オフト・ジャパンをめぐる様々な見解
 ワールドカップ本大会出場という一大目標を達成できなかったのだから、オフト・ジャパンが完璧であるはずはないだろう。だからといって、金子達仁が書いたように「オフト監督に対する同情心すらわいてくる」ほど日本のサッカーは酷かったのだろうか?

 金子達仁に同調する人は多い。「つまり,日本があと一歩で出場権を逃したと考えるから,〈ドーハの結末〉は悲劇になるのであって,本来,日本代表の技術水準を考えれば,むしろ〈あと一歩〉まで迫ったのは健闘だったと評価するのは妥当だ」などと卑屈に書きなぐった加部究(『ブルータス』マガジンハウス'94年3月15日号)。

 「拝啓/無事,〈ドーハの悲劇〉から立ち直れたでしょうか」。「ゲーム内容は日本人の琴線に触れたようですが,残念ながら個人の力が思ったほど上がっていなかったということに最後は尽きてしまいそうです./〔…〕イラクの個人技は、努力型スターしかいない日本チームを明らかに上まわっていました.そして次の大会までに同じような力のチームが築ける保証は現在のところどこにもないのです」いう佐山一郎(『エスクァイア日本版』エスクァイアマガジンジャパン'94年1月号)。

 どちらも金子達仁と似ているのに驚く。

 特に、後の日本代表監督・岡田武史と親交のある佐山一郎は、加茂周―岡田武史指揮下のサッカー日本代表には何かと悪罵を放っていた金子達仁に抵抗して、'97年のW杯アジア最終予選ではアンチ金子色を鮮明にするが、この時は金子に近かったのだ。

 批評姿勢にしても、日本マスコミのW杯予選報道が大本営発表と化す中で、唯一、『サッカーダイジェスト』の金子達仁だけが核心に迫ることを書いていた……などと二宮清純が褒めちぎっている(『勝ち方の美学』講談社'94)。

勝ち方の美学
二宮 清純
講談社
1994-09T


 中には最終予選に進出できただけでも出来過ぎだという極端なものまであった記憶がある。一方、全く違った立場をとる人がいる。例えば大住良之だ。

 1994年、アメリカW杯の年になってもたびたび悔しい気持ちが沸いてくるが「もっと悔しいのは,〈日本の実力ではワールドカップに出ても勝つことは出来ない.負けてよかったんだ〉などという人がいることだ.こうした意見はとくに〈サッカー関係者〉と呼ばれる人に少なくない」。

 こんな風潮に対して自身の見解を書いておきたい。「オフト前監督のいう〈ヒストリー〉についての正しい評価がなければ,今後の道を誤る危険性があるからだ」。

 ハンス・オフト監督はチームを強くしただけでなく、とても魅力的な攻撃サッカーを作り上げた。特に近代的な戦術理解はこれまでのアジアサッカーの中では傑出していた。世界中のサッカーが守備的で退屈になる中にあって日本のサッカーは輝かしいものだったが、それを予選突破に結びつけられなかった要因は国際競争の場での経験不足だけだった。

 だからこそ、日本代表が世界の檜舞台でその真価を試す機会がないのは残念でならない。

 それなのに「〈日本のサッカーはまだまだダメだ〉と言えば,〈そのへんのサッカーファン〉と一線を画せると勘違いしている〈サッカー関係者〉が少なくないことは悲しい」(以上は『サッカーの話をしよう〈1〉』(NECクリエイティブ'96/初出は『東京新聞』'94年1月4日付)。

サッカーの話をしよう〈1〉
大住 良之
NECクリエイティブ
1996-03T


 「負けてよかったんだ」や「日本のサッカーはまだまだダメだ」の「サッカー関係者」とは特定の人物を揶揄したものではないはずだ。賀川浩のような人ですら負けてよかった「負けた方がよかった」式の発言をしてしまうのだから(『ジェイレブ』朝日オリコミ'94年1月号)、これはむしろ日本サッカー総体の現象なのである。

 ネガティブな評価と自虐趣味に耽ってファンとしての良心・良識を気取るのは日本サッカーの奇怪な伝統である。すなわち金子達仁とは日本サッカーの伝統が生んだ「イドの怪物」でもあるのだ。

 大住よりもっと具体的なのが後藤健生である。『ストライカー』(学習研究社)'93年12月4日臨時増刊号を見ていこう。なお本稿は『ワールドカップの世紀』(文藝春秋'96)以降の後藤健生による、しょっぱいドーハの悲劇の評価は無視する。
 日本は、技術、戦術、体力のいずれをとっても6チームの中で、イラクと並んで最もレベルの高いサッカーをしていた。集中が90分続かないチームが多い中で、無失点試合が3試合もあったことがそれを証明している。

 攻守のバランスは日本がいちばんよく、中盤のプレスのかけ方などももっとも洗練されていた。〔中略〕

 消極的なアジアサッカーのなかで、よりクリエイティブ(創造的)なサッカーを目指している日本は、すでにアジアを超えている。アジアのなかで世界に通用する可能性が、もっとも大きいのは日本だ。

後藤健生『ストライカー』'93年12月4日臨時増刊号
 その日本サッカーが最も良い面が出たのは韓国戦である。

 日本の速いパス回しに韓国は翻弄され、振り回され、韓国ボールになっても日本の守備陣がパスコースをつぶし、前にロングボールを蹴り込むだけで日本に拾われる。

 「韓国の特徴である1対1〔デュエル〕の争いでの肉体的強さも,日本のボールテクニックの前になす術もなかった。〔略〕/いつの日か日本のテクニックが韓国の強さに勝てる日が来るとは思っていたが,それがついに実現したのだ」。

 30年以上韓国にやられてきたことを、日本がやり返した歴史的勝利だった。

 それにしても同じ選手・同じ監督・同じチームによる同じ試合を見ていて、金子達仁(ら)とこれだけ違うのだろうか? <1>

後藤健生説と金子達仁説
 そもそも、それほど素晴らしいサッカーをした日本がなぜあんなに苦戦し、最後はDNQ(予選不通過)になったのか? 後藤は言う。
 そこに日本サッカーの残された課題が隠されている。要するに、相手の良さをつぶしたり、敵の弱点に付け込むといった戦術的な駆け引きが、日本にはまだまだ足りないのだ。〔中略〕

 この勝負の駆け引きは、〔国際レベルのサッカーにおいては〕必要不可欠な要素である。世界中どこの国でも相手のよさを消したり、相手の弱点をついたり、あるいはそのときの試合の状況を徹底的に利用したりと、さまざまな戦略を駆使して勝負している。

後藤健生『ストライカー』'93年12月4日臨時増刊号
 その駆け引きのまずさが出た典型的な試合こそ日本が唯一敗れたイラン戦である。この試合は後藤説と金子説、両者の吟味の素材になる。

 イランは初戦の韓国に0-3で大敗して後がない。どうしても勝つために、普段のカウンターサッカーを捨ててでも攻勢をかけなければならない。

 一方、日本の弱点は故障した都並敏史の代役が見つからない左サイドバックである。カタールの本番直前に急遽使われた三浦泰年(ヤス)は慣れないこのポジションに戸惑い、必要以上に攻撃参加が目立ち、背後に大きなスペースが空き、そこを攻められてしまう。

 初戦のサウジアラビア戦でもそれが露呈してしまった。案の定、イランは日本の弱点を見逃さず、右サイド(日本の左サイド)に攻撃的な選手を3人並べてこの弱点を突いてきた。

 ところが、オフトはこれを修正できない。しかも、イラン戦でヤスは初戦以上に積極的に攻撃参加してくる。たびたび左サイドの裏を突破され、ピンチに陥る。前半終了間際、その問題の左サイドからフリーキックを与え1点を先制される。後半のイランはゲームプラン通り守りに入る。

 イランは、日本の選手交替が裏目に出てフォーメーションのバランスが崩れたところを突いてカウンターから追加点、勝敗を決したのである。(前出『ストライカー』臨時増刊より要約)

 後藤のこの戦評から日本対イラク戦のボールキープ時間を見直すと、この試合のイランのゲームプランの痕跡をしっかりとどめていることになる(それでも前半は日本のキープ時間の方が長い)。

1993年W杯アジア最終予選におけるボールポゼッション
【1993年W杯アジア最終予選におけるボールポゼッション】

1993年W杯アジア最終予選におけるデュエル
【1993年W杯アジア最終予選におけるデュエル】

 守備に不安のあるヤスは無理に攻め上がる必要などなかった。オフトはヤスに攻撃参加を減らすとか、DFラインが崩れないようにするとか指示できなかったのか? あの試合、日本は最悪引き分けでもよかった。イランがあせって無理攻めしてきたところを逆襲する展開でもよかったのに……。

 こうした、試合毎の戦術的な駆け引きやズル賢さを駆使することは中東勢の得意とするところであるが、教育者タイプで実戦的な指揮官ではない監督オフトにも、選手にもそうしたセンスが欠けていた。技術・戦術では日本はアジアを超えつつあるのだから、あとはこれを覚えればアジアで常勝、ワールドクラスにも通用するようになる。

 大住が言う国際競争の場での経験不足のひとつはこのことであろう。

 金子のイラク戦評を思い出してみよう。「この日のイランは,ゴールを挙げる前半終了間際までは本来の戦いかたをし,リードした後半はなりふりかまわず守りに入っている」(『サッカーダイジェスト』日本スポーツ企画出版社'93年11月24日号)。

 ……と、後藤とはまるで反対のことを言っている。金子説では「キープ時間の大きな差は,日本が自力で獲得したのではなく,イランが与えてくれたという意味合いが強かった」(同)からで、なぜなら日本は1対1(デュエル)に弱い、すなわち日本は弱いからである。

金子メソドロジーへの素朴な疑問
 どうやら鍵は、金子達仁のデータ分析の方法にありそうだ。ただ、誤解していただきたくないのだが、私は何も、彼がカタールで書いたことの全てが間違っていると言いたいのではない。日本が1対1に弱いという話も、日本サッカー協会の要人も認めている日本サッカーの課題であり、その点に絞ればその通りなのだろう。

 〈金子達仁のカタール戦記〉が幅広い支持を得た理由は、データや記録・数字を用いたことである(前掲の円グラフ参照)。金子に惹きつけられたファンの多くはJリーグ以降の新参者だったはずだが、特に彼らに、「日本は弱いから負けた」ということを、1対1のボール奪取判定という目に見える形、具体的な数字をグラフ化して見せたのである。

 効果はてきめん。ドーハの悲劇という劇的すぎる場面に遭遇した彼らの多くは、当時の雰囲気(空気)に呑まれ、それを信じ込んでしまった。

 それでは金子達仁のデータ分析法に問題はないのか?

 ある。彼の方法論は欠陥だらけだ……と、金子の文章が臭いのはこの種の言い回しを濫用するからなのはともかくとして、最初の疑問はサッカーを数値化して語ることの原理的な難しさと、数値化されることへの抵抗感である。

 以前からサッカーには、デジタル型スポーツの典型たる野球に対してアナログ型スポーツの極であるといった対比論があった(後藤健生・細川周平・今福龍太など)。アナログ型とは、要はゲームの内容を数字として残しにくいという意味である。

 昔からサッカーのスコアブック記録法の試みはうまくいったためしがない。

 '90年代の初めには旧『ジェイレブ』誌が挑んで失敗している。このときはパソコン用の入力用タブレットまで試作して「日本発信の〈スコアブックの新秩序〉を提唱していこうとする,何とも壮大な計画なので」あったが(『ジェイレブ』朝日コミュニティ・サービス'93年3月号)、いつの間にか立ち消えになった。

 サッカーくじの予想や選手の契約更改・移籍交渉に使われるという当時のOptaシステムにしてもファンの反撥が根強かった。数字でサッカーが分かるのか? 中盤でつなぐだけの「パス成功率100%」に何の意味があるのか?

 次の疑問は他球技の記録法と比べて浮かび上がる金子方式のキメの粗さである。野球の打率・防御率はチーム全体の打力・投手力の強さ弱さはもちろん、このチームは4番が穴だとか、得点力がないのは1番の出塁率が低いからだとか、投手陣の中でも中継ぎ・抑えが悪いから逆転負けが多い……などの情報が読み取れる。<2>

 同じ英国系のフットボールなら、オールブラックスで有名なニュージーランドが採用している、ラグビーの「ボール放棄率」という方法がある(参照:生島淳「こんなに違うぞ,世界と日本」『ラグビー黒書』双葉社'95)。

ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12T


 これは1チーム15人のうち、どの選手が、どのようなミス(コンタクトプレー・反則など5項目)で何回相手にボール(=事実上の攻撃権)を手放してしまったかをVTRで測定して表にしたものである。サッカーと違って、ボールを抱えて持って走るラグビーは、必然的にコンタクトを伴うからここから有意の数字が出せるのである。

 両チームのミスの数、この場合は少ない方がほぼ勝敗・強弱に比例するとされる。このスタンドオフはキックが下手だとか、このセンターはやたらノックオンが多いとか。両チームのミスの総数でその試合のレベルの高低、あるいは過去との比較、レフリーの判定の傾向……といったことまで読み取れるという。

 翻って金子方式は、データ分析というわりには、選手各々とチーム全体の両方を把握できるような緻密な情報を読み取ることが出来ない。せめて選手ごとの1対1の数値を測れなかったのだろうか。そうすればイラン戦の左サイドの「穴」を見出せたのではないか。

 そんなことはお構いなしに、とにかく弱いから負けた、ひたすら弱いから負けたの一辺倒なのである。

ではビデオを調べてみてください
 最たる疑問は、重要ではあってもあくまで「1対1」とはサッカーの一つの要素でしかないのではないかということだ。「1対1の強さ」はサッカーの能力の唯一・絶対の基準なのか? 金子(たち)はそう思っているらしい。

 しかも90分間での1対1の勝ち負けを計上すれば対戦した両チームの地力の差を具体化できると本気で信じているらしい。以下は翌'94年の広島アジア大会での『ダイジェスト』の記事である。
 シュート数こそ14対17と食い下がったが、日韓両国には個々の能力の違いはもちろん、チームとしての完成度にも明らかな開きがあった。

 ほぼ1年前、あのドーハで韓国と対戦した日本代表は、1対1の攻防で82回の勝利を収めた。韓国は89回だった。だが、日本は7回の差を埋める組織力があった。強い運にもあった。

 ひるがえって、アジア大会準々決勝での1対1はどうだろうか。両国の差は拡がっていた。日本代表の103回に対し、韓国は117回に(いずれもビデオからカウント)である。特に空中戦ではことごとく制空権を握られ、完璧に競り勝ったのは1点目につながった場面の高木だけだった。

 14回の差を生める組織力は日本になく、韓国は14を倍以上にする組織力を、ブイショベツ監督のもとで身に付けていた。そして、1年前は日本に傾いた運も。

『サッカーダイジェスト』'94年11月2日号
 実際にこれを書いたのは戸塚啓だが、彼は金子と一緒にカタールW杯最終予選の1対1を計測した仲間であり、前述のように金子の弟分である。質的な差はない。

 金子の立場から言わせると、オフト・ジャパンを悩ませ続け、イラン戦では致命傷になった「狂気の左サイドバック」問題など瑣末事にすぎないというのだろう。

 なぜなら1対1に弱い日本は個人能力に大きく劣るから、すなわち日本は弱いからである。「ではビデオを調べてみてください」『美しく勝利せよ』二見書房'99年/22頁)……金子は絶対の自信を持っている。ならばビデオを見てみよう。

ヨハン・クライフ「美しく勝利せよ」
ファンドープ,ヘンク
二見書房
1999-12-01


 イラン戦。日本がイランのペナルティエリアまで攻め込み、イランの守備陣が必死で守る場面がある。そればかりか中山雅史のヘディングシュートがポストをたたくシーンまである。こんな場面まで「イランが与えてくれた」と言うのだろうか?

 ゴールは割らないが、ポストをたたく(それもゴールライン直前でワンバウンドする!)ヘディングシュートをわざわざ打たせてくれる。こんな凄い芸当が出来る国があったらワールドカップで優勝できるだろう。ボールを持っても何もできないような試合展開ではなかったのだ。

 サウジアラビア戦もしかり。そんなに日本が弱いなら勝ちにいけばいいではないか! 確実に勝利を計算できる相手なのだから、初めから「第2戦以降の戦い方をサウジ」はしてくればよかったではないか。わざわざ「〈勝たなくていい〉という戦い方をして」くる必要などはなかったはずだ。

 「日本は弱い」を強調するあまり自家撞着に陥ってませんか?

 前年(1992年)、サウジは広島アジアカップ決勝で敗れた相手であり、かつ初戦である。日本とは「引き分けでもよかった」のではないか。もっともアジア杯は日本が地元なのだから、金子達仁の〈厳しい批判〉の前には評価にも値しないのだろうが。

つづく




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 長い間、巷では、国民性や文化といった次元で「日本人はサッカーに向いていない」「日本人はサッカーよりも野球の方が向いているのだ」と信じられてきた。

 しかし、今やドイツ・ブンデスリーガ1部クラブ所属の日本人サッカー選手だけで、海外球団(アメリカのMLBおよびその傘下のMiLB)所属の日本人野球選手の人数を超えてしまったのだという。これがヨーロッパ全体だともっと多いはずである。

 この「事実」は、実は日本人は野球よりサッカーの方が向いているのではないかという、意外な「本質」を表しているのではないか。


 これで「日本人はサッカーに向いていない」と言ったら、外国人(特に欧米人)に怪訝な顔をされるのではないか。


 サッカーの世界列強から一世紀遅れてプロリーグを設立した国(日本)が、その後、ワールドカップ本大会の常連国にのしあがった。こんな芸当は日本人にサッカーが向いていなければ不可能ではないのか。

 * * *

 だが……、思い起こしてほしい。この「日本人サッカー不向き論」というネガティブな言説は、反サッカーの側からよりも、むしろ、親サッカーの側、つまり日本のサッカー論壇の住人たちが多く発してきたという「事実」である。


 ちょっと思い出しただけでも、村上龍、金子達仁、後藤健生、湯浅健二、佐山一郎、細川周平、寺田農、ジョン・カビラ、星野智幸、中条一雄……等々、枚挙にいとまがない。

 サッカーに向いていない……それが日本人の「本質」であると。

 これらの人々は、このような発言をすることで、自身のサッカー観の確かさやサッカーに関する批評精神の高さを誇示してきたのである。だから、なかなか無くならない。

 そして、その火種は今なお燻(くすぶ)り続けている。否、ためしに今でもGoogleで「日本人,サッカー,向いていない」と検索を書ければいい。自虐的な「日本人サッカー不向き論」の類がウジャウジャ出てくる。これは何かあれば、再着火し、炎上する。


 当代サッカー日本代表=森保ジャパンの気勢がなかなか上がらない。悲観的になるが、2022年カタールW杯での森保ジャパンの結果如何によっては、ネガティブな「日本人サッカー不向き論」はたやすく復活するだろう。

 ザック・ジャパンで惨敗した2014年のブラジルW杯の時、ジーコ・ジャパンで惨敗した2006年のドイツW杯の時がそうだったから。

 「日本人サッカー不向き論」は、もっぱら親サッカー=日本サッカー論壇の内側から出てきたのであって、反サッカーはその風潮に棹を指しているだけだ。

 けして「反サッカーvs親サッカー」という単純な図式には収まらないのである。

(了)




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 12月14日といえば、「忠臣蔵」=赤穂浪士の討ち入りの日。

忠臣蔵 [DVD]
竹脇無我
バップ
2000-12-06


 最近のアイドルとは比較にならないほど人気があった2人組アイドル「ピンク・レディー」に、『ザ・忠臣蔵 '80』というカップリング曲があった。
  • 参照:ピンク・レディー「ザ・忠臣蔵 '80」https://recochoku.jp/song/S20061772/
 ルパン三世のテレビ版第2シリーズでも「作戦名は忠臣蔵」とサブタイトルされた回もあった。

 それくらい「忠臣蔵」という時代劇は「国民的ドラマ」として老若男女を問わず人口に膾炙していたのだが……。

赤穂浪士 [DVD]
里見浩太朗
東映
2003-12-05


 昨今、12月になっても「忠臣蔵」は最近あまり話題に上らなくなった。本当に時代劇というジャンルが衰退していることを感じる。

 ところで、「忠臣蔵」は(かつては)国民的ドラマであるがために、「忠臣蔵」から日本人の国民性を読む……という「日本人論」のネタになりやすいという側面があった。

 これまた日本人論のネタになりやすいスポーツ=「サッカー」のジャーナリズムでも、やはり「忠臣蔵」が登場した。マガジンハウス刊『BRUTUS』(ブルータス)1992年12月15日号、サッカー特集での佐山一郎氏のエッセイである。
 『忠臣蔵』を見たあるブラジル人は、「俺たちなら、陣太鼓叩くような形式にこだわる間もなくマフィア雇って背中から一発ズドンさ」と言い切ったという。切腹文化は形から入るぼかりで非創造的というわけだ。〔略〕たしかに形式こそが重要なのだ。熱狂さえ鋳型にはめられやすい。〔下の写真参照〕

12人目のフィールドプレイヤー。●佐山一郎『BRUTUS』1992年12月15日号92頁


佐山一郎「12人目のフィールドプレイヤー。」92頁
【佐山一郎「12人目のフィールドプレイヤー。」見開き右】
 要するに、佐山一郎氏は「日本人はサッカーに向いていない国民である」という自虐的なサッカー版日本人論を、「忠臣蔵」という日本人の「国民的ドラマ」をテコに論じているのだ。

 しかし、あれからおよそ30年、日本のサッカーは十分に伸長した。佐山一郎氏は怪しげなトンデモ議論を展開していたに過ぎなかったのである。

 同様、その昔「忠臣蔵」を素材にした「日本人論」がかなり流行ったけれども、その「忠臣蔵」が国民的に忘却されている昨今では、そんな議論が成立するのかどうかすら疑わしい。

(了)




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野球ファンの文春ナンバーに対する憤懣
 還暦を迎えたと思ったら、ディエゴ・マラドーナはその翌月に急逝してしまった。
  • 参照:マラドーナ還暦!(2020年10月29日)https://gazinsai.blog.jp/archives/42145369.html
 本邦「総合スポーツ誌」の権威たる文藝春秋ナンバーは、これに機敏に対応。2020年12月3日発売のプロ野球日本シリーズ特集の予定を急遽差し替え、マラドーナを表紙とし、前半を同選手の追悼特集とした。

 この差し替えは野球ファン、特に今回の日本シリーズで優勝した福岡ソフトバンク・ホークスのファンには非常に不評だった。マラドーナが偉大なサッカー選手だったのは理解できるが、この仕打ちはないだろう……と。

 当方、熱烈な野球ファンではないが、この憤懣やる方ない気持ちは分からんでもない。マラドーナ最高の殊勲といえば1986年メキシコW杯優勝だが、文春ナンバーがリアルタイムではメキシコW杯を「ほとんど黙殺」してしまった一件を思い出してしまったからだ。

日本スポーツジャーナリズムの神話的存在=文春ナンバー
 1980年創刊。その創刊号に掲載されたのが有名な山際淳司のノンフィクション「江夏の21球」だったとか、通巻第10号で有名な「ヘルメットが吹っ飛ぶ空振り」の写真を表紙にして長嶋茂雄を特集したら増刷に増刷を重ねてバカみたいに売れたとか……。

江夏の21球 (角川新書)
山際 淳司
KADOKAWA
2017-07-10




プロ野球の友 (新潮文庫)
玉木 正之
新潮社
1988-03T


(長嶋茂雄の「ヘルメットが吹っ飛ぶ空振り」のイメージ)

 ……あるいは、各マスコミの内部事情については何かとエゲツナイ評価を下していたスキャンダル雑誌『噂の真相』ですら、文春ナンバーだけは絶賛していたとか……。
  • 参照:あの『噂の真相』が文藝春秋『スポーツグラフィック ナンバー』だけは絶賛していた!(2020年05月11日)https://gazinsai.blog.jp/archives/40679338.html
 ……等々、当時から文春ナンバーは本邦スポーツジャーナリズムの神話的存在ではあった。その分、雑誌の作り手=編集部には自惚れや自己陶酔も強く、それがメキシコW杯があった1986年に心ある読者やスポーツファン、特にサッカーファンの不興を買うことになってしまう。

 文春ナンバーが初めてサッカーを特集したのが1984年の釜本邦茂引退特集(フルタイマーになる前の後藤健生さんも記事を執筆している)。

文春ナンバー107号釜本邦茂引退特集
【文春ナンバー釜本邦茂引退特集1984年9月20日号】

 ところが、当時の日本サッカー長期低迷期のこととて、この特集は売れなかった……という逸話。個人的に伝え聞いてはいた<1>が、2018年刊の佐山一郎さんの著作『日本サッカー辛航紀』にも登場する。

 これで文春ナンバーはサッカーでは雑誌が売れないと高をくくってしまったらしい。

サッカーやワールドカップを黙殺し続けた文春ナンバー
 1986年サッカーW杯メキシコ大会の開催期間は5月31日から6月29日。当時、サッカーW杯の放送権を保有していたNHKは、生中継こそ決勝戦のみであったが、ほぼ毎日1試合は録画中継している(テレビ局はこういうイベントの放送予定はマスコミ向けには早めに発表する)。また当時の文春ナンバーは毎月5日と20日発売だった。

 ならば「総合スポーツ誌」たる文春ナンバーは、5月5日ごろの発売号か5月20日の発売号に、メキシコW杯の大会予想記事くらい出してもよさそうなものだった。6月発売の2つの号では、メキシコW杯の大会途中経過が載ってもよさそうなものだった。そして7月には大会の総決算を特集する。……のだろうと読者やスポーツファンは思っていた。

 ところが、5月になっても6月になっても、文春ナンバーはメキシコW杯のことを全く一言も触れなかった。本当にサッカーの「サ」の字も、ワールドカップの「ワ」の字も出てこないのである。この異様までのガン無視ぶりはいったい何なのか。

 一方、いかに日本サッカーが低迷しているとはいえ、日本の他のマスコミはメキシコW杯のことはかなり話題にしていた。大方の日本人の知らないところで、ワールドカップなる何かとんでもない物凄いイベントをやっているという好奇心がある。来日経験のあるジーコやプラティニ、何といってもマラドーナという、分かりやすいスター選手もいる。

 ……にもかかわらず、「総合スポーツ誌」であるいうのに文春ナンバーだけは我関せず。サッカーW杯メキシコ大会について本当に一言も触れないのである。編集部はいったい何を考えているのか? 心ある読者やスポーツファンは訝(いぶか)しさを感じた。

 1986年7月5日発売のプロ野球特集にもなって、文春ナンバーは、ようやく7月20日発売の次号でメキシコW杯を取り上げますとアナウンスしたが、時すでに遅し。内容は実に貧相だった。メイン特集はモータースポーツ2輪の鈴鹿8時間耐久レース(えッ!?)の話題だった(たしかに8耐も本邦2輪界のクラシックなイベントではあるけれども)。

文春ナンバー1986年7月21号表紙
【文春ナンバー1986年8月5日(7月21日発売)号表紙】

 脇に追いやられた文春ナンバーの1986年メキシコW杯の報道は、いかにもその場しのぎのヤッツケ仕事、アリバイ闘争(古い)といった感じのやる気のない態度として読み手に受容されたのである。

文春ナンバー1986年7月21号目次
【文春ナンバー1986年8月5日(7月21日発売)号目次】

 これは心ある読者やスポーツファン、特にサッカーファンの顰蹙を買った。

サッカーW杯より「猫の写真集」が大事だった文春ナンバー
 バックナンバーを調べると、文春ナンバーの1986年メキシコW杯報道のボリューム自体は、実は1982年スペインW杯と大差はない(だからといって,スペインW杯の時とメキシコW杯の時では情況が変わってきており,同じでいいということはないのだが)。

 しかし、そして本当に心ある読者やスポーツファンの顰蹙を買ったのは、当時、文春ナンバーはメキシコW杯の最中に「猫の写真集」(えッ!?)を制作、発売(1986年7月15日)という奇妙な編集方針を採っていたことである。

文春ナンバー_バックナンバー1986年7月
【文春ナンバーのバックナンバー1986年7月の刊行物】

文春ナンバー別冊ネコと友達物語
【文春ナンバー別冊「ネコと友達物語」1986年7月15日発売】

 猫の写真集? ……と言っても理解できない読者やスポーツファンが多いだろう。当方だって理解できない。

 当時はマスコミ主導の「猫ブーム」らしきものがあった。本当にそんなブームがあったのかどうかは不明。文春ナンバーはそのブームらしきもの(?)に便乗した。編集部曰く、文春ナンバーはビジュアルに力を入れている。だから「総合スポーツ誌」であっても猫の写真集を編集・制作・刊行することがあるのだと弁明していた。<2>

 しかし、それって「総合スポーツ誌」がスポーツの世界的なイベント=サッカーW杯を黙殺してまで、予算や手間暇をかけてまでやることですか!? 答えは「否」である。直接メキシコW杯に取材陣を送り込むことはなくとも、いくらでも出来ることはあったはずだ。

 スポーツファン一般の関心と文春ナンバー編集部の関心にズレが生じていた。文春ナンバーは「世間」の「空気」を決定的に読み誤ったのである。

文春ナンバーにとってスポーツとスポーツでないもの
 サッカーはマイナースポーツだから、たとえW杯でも文春ナンバーはサッカーを黙殺してしまったのか? これも答えは「否」である。同誌は、1980年代前半は暴走族と同一視され、マイナースポーツだったモータースポーツを積極的に採り上げ、後のF1ブームに先行している。当時の文春ナンバー編集長(一原雅之氏)は、そのことを自慢していた。

 当時の文春ナンバーは「サッカー不毛の国」と呼ばれていたアメリカ合衆国の専門誌スポーツイラストレイテッド=Sports Illustrated(スポイラ誌)と提携していた。文春ナンバーにとって海外スポーツ情報とは、もっぱらMLB=大リーグ野球ほかアメリカンスポーツの紹介であった。だから、たとえW杯でも文春ナンバーはサッカーを黙殺してしまったのか? これまた答えは「否」である。

 スポイラ誌は、メキシコW杯をフォローしていた。米国は前年に北米サッカーリーグ(NASL)が破綻、消滅しているにもかかわらず、である。

sports_illustrated_maradona1986
【Sports Illustrated誌の1986年メキシコW杯特集】

 文春ナンバーはスポイラ誌のメキシコW杯記事の逐次翻訳掲載でもよかったと思うのだが、それすらしなかったのである。

 もちろん、本来スポーツとは普通の日本人が思っているよりは幅広い概念である。だから「総合スポーツ誌」たる文春ナンバーが、ポルシェやフェラーリといったスポーツカーの、ホンダやヤマハなどのスポーツバイクの特集をする。これは「スポーツ」だろう。昨今でも、若くて才気あふれる将棋棋士・藤井聡太二冠が台頭すれば「総合スポーツ誌」たる文春ナンバーは将棋界の話題を特集する。これも「スポーツ」だろう。

 よく、文春ナンバーの珍企画としては1990年の「石原裕次郎と加山雄三」が言及される。だが、これも日本映画の中に描かれた「スポーツ」も話題にしたとすれば読者やスポーツファンも了解できる。むしろ暇ネタとしてはよく出来た企画である。


 オールド・サッカーファンの中には加山雄三主演の映画・若大将シリーズ「リオの若大将」で、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアムを初めてカラー動画で見たという人がいる。

 しかし、猫の写真集は、どうしたってスポーツではない。

 その後の文春ナンバーを見ると、1986年サッカーW杯メキシコ大会を黙殺してしまった「失態」を編集部の人たちも少しは後悔していたようである。もっとも……。

 ……ラグビー贔屓の文春ナンバーは翌1987年の第1回ラグビーW杯は大々的に特集した。それはいいのだが、その中でサッカーの嫌いな共同通信のラグビー記者(大西 郷 記者)にサッカーのディスり記事を書かせ掲載させるなどという、サッカーへのデリカシーの無さも相変わらずではあったが。

文春ナンバーが野球ファンから恨まれる…隔世の感
 ようやく文春ナンバーがサッカーを真っ当なスポーツとして認知したのは、1989年、イタリアのスター軍団・ACミランが来日し、コロンビアのアトレチコ・ナシオナルとトヨタカップでクラブ世界一を争った試合のあたりからか? この時の文春ナンバーの観戦レポートは後藤健生さんと佐山一郎さんの対談記事であった。

 以後、バブル時代の1990年イタリアW杯、三浦知良の帰朝、オフト・ジャパンのアジア杯優勝、Jリーグ誕生、ドーハの悲劇、さらにジョホールバルの歓喜……と続く。ついに文春ナンバーは、表紙と特集をサッカーに差し替えられたと野球ファンから恨みを買うまでに変わった。まったく隔世の感がある。

 しかし、文春ナンバーは1986年メキシコW杯を「ほとんど黙殺」してしまったので、マラドーナ追悼特集でも、自分たちがマラドーナ最高の栄誉をリアルタイムでいかに報じてきたか振り返ることができない。当時の記事の復刻ということは出来ないでいるのだ。

 あるいは触れたくない過去……なのかもしれない。ディエゴ・マラドーナの急逝で、ついこんな話を思い出してしまった。

 いちいち昔のことを根に持つ嫌な奴だな~と、思われるかもしれない。

 しかし、ドイツ人は1966年の「疑惑のゴール」を60年も根に持っている。ニュージーランド人に至っては1905年の「幻のトライ」を120年も根に持っている(後者の執念深い歴史的経緯は小林深緑郎著『世界ラグビー基礎知識』に詳しい)。

世界ラグビー基礎知識
小林 深緑郎
ベースボールマガジン社
2003-10T


 だとしたら日本はまだまだ甘ちゃんだ。(笑)

(了)




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東大生による草野進=蓮實重彦氏の評判
 草野進(くさの・しん)。フランス現代思想にも深く通じた前衛的女流華道家、しかしてプロ野球「批評」家。そのプロ野球「批評」には独特の流儀があり、勝利至上主義(近代合理主義)に埋没したプロ野球とスポーツ報道の在り方を、流麗かつ、しかし晦渋な文体で否定。翻って、野球における「乱闘」や「爽快な失策」「豪快な三振」といった出来事の勃発を積極的に肯定し、それらに「美」を見出し、称揚した……。

 ……というプロフィールになっているが、実は「彼女」は覆面作家であり、正体は高名なフランス文学者の蓮實重彦氏(はすみ・しげひこ.映画評論家,文芸批評家,東京大学総長ほか)である。その蠱惑(こわく)と権威たるや、いかに凄かったのか? 小谷野敦氏(比較文学者,評論家)が『軟弱者の言い分』で書き記してある。
 今東大総長をしている蓮實重彦は、昔、草野進という変名で「プロ野球批評」をしていたことがあり、草野は女性で、華道の先生だとか、「まことしやかな」プロフィールが流布されていた。私〔小谷野敦〕の周囲には、なぜかこの草野進という不在の人物に異常な興味を示す連中がいて、「草野進が実在しないなら,生きる希望を失う」などというわけの分からないことを言ったりしていた。ラジオに蓮實が出演して電話で草野と話すというあざとい仕掛けもあった。「あの声は金井美恵子〔かない・みえこ.小説家,エッセイスト,映画評論家ほか〕ではないか」などと友人と話したものだ。

 まあ、それはいい。ところで蓮實は、自身の名義でもプロ野球批評をしており……〔以下略〕

小谷野敦「〈現場主義〉について」@『軟弱者の言い分』


軟弱者の言い分
小谷野 敦
晶文社
2001-03T


新編 軟弱者の言い分 (ちくま文庫)
小谷野 敦
筑摩書房
2006-11T


 ふつう、日本のスポーツ論壇の人間は、草野進=蓮實重彦氏についてこんなに遠慮のないことは書けない。なぜ小谷野敦氏はここまで踏み込んだことが書けたのか?

 ひとつは、氏はふだん、大相撲以外のプロスポーツには関心がない人だからである。だからこそ、わざわざ小谷野敦氏がプロ野球「批評」家の話を書いたことで、逆説的に草野進=蓮實重彦氏の威勢というのも理解できよう。

 もうひとつは、氏が東京大学文学部卒業、博士号も東大大学院で取得したから。さらにもうひとつは、氏がフランス現代思想に懐疑的なスタンスの持ち主だからでもある。つまり、小谷野敦氏は蓮實重彦氏の知的権威にビビる必要もないのだ。

 それにしても、この「草野進が実在しないなら,生きる希望を失う」という人物がいたという逸話には仰天させられる。小谷野敦の周辺の人物というから東京大学の学生だろうか? 東大生の頭が悪いはずはないのだが、特に人文学系の場合、頭が良すぎて馬鹿げた方向に傾倒してしまうという悲喜劇はたまに聞く話である。

 これなどは要するに、草野進の正体が当初は不明だったことも含めて、深遠なこと=ワケの分からないことを言っているにもかかわらず、否、だからこそ多くの「信者」を生んでしまう「測り知れざるもの(=知)への熱狂症候群」というヤツの一変形だろう。

ラカン現象
マルク レザンジェ
青土社
1995-02T


 ちなみに、この「測り知れざるもの(=知)への熱狂症候群」という言葉は、もともとはフランス現代思想の哲学者・精神科医にして、きわめて深遠・晦渋な文体で知られたジャック・ラカンを批判した『ラカン現象』なる著作の惹句である。

「草野進」を絶賛・推奨していた玉木正之氏
 さて、1980年代後半、草野進=蓮實重彦氏のプロ野球「批評」を大絶賛しつつ、ふつうのスポーツファンたる善男善女を薦(すす)めていたのは、当時、脂の乗り切ったスポーツライターで、興味深いプロ野球コラムをさまざまな媒体に書いて知名度も高かった玉木正之氏であった。例えばこんな具合……。
 当時、フリーランスのスポーツライターとして約4年間の経験を積み、ようやくいくつかの雑誌で署名原稿を書き出していたわたし〔玉木正之氏〕は、東京吉祥寺にある駅前の本屋で、いつものように金を出してまでは買う気になれない同人誌的文芸誌のあれやこれやを、それでも何かおもしろい読み物に巡り合わないものかという思いで、ひたすら趣味的に片っ端から立ち読みしていた。

 そんなとき、偶然手にした『海』〔中央公論社の純文芸誌〕に掲載されていた草野進さん〔蓮實重彦氏〕の文章が目にとまり、けっして大袈裟にいうわけではなく、雑誌をもつ手がぶるぶるとふるえだし、周囲が真っ暗になり、足腰の力が抜けてその場にへなへなと座り込んでしまいそうになったのだった。彼女〔草野進=蓮實重彦氏〕の文章は、身長180センチ体重80キロの男〔玉木正之氏〕を、そこまで腰抜けにしてしまうほどのパワーに充ち満ちていたのである。

玉木正之「草野進のプロ野球批評は何故に〈革命的〉なのか?」2004-02-02(http://www.tamakimasayuki.com/sport_bn_6.htm)
 ……玉木正之氏は「革命だ!」などと叫んではいるが、しかし、この種のフランス現代思想やそれに触発された文芸批評に乗じたスポーツ「批評」というのは、あくまで狭い内輪の世界の「お作法」にすぎない。そのことが分かっているから、同じくスポーツライターの藤島大氏は、玉木正之氏と蓮實重彦氏のことをキッチリ批判している。
 よく「勝敗ばかり追うスポーツ・メディアは下等だ」式の批判が、「スポーツライター」を名乗る者〔玉木正之氏〕からも展開される。

 あれは嘘である。1980年代、他分野の一級批評家〔蓮實重彦氏=草野進〕が余技に遊んだ「ゲームそのものの美こそが絶対」の視点を、ナイーブにも真に受けた。

 スポーツ・メディアが下等なのは、勝敗ばかりを追うせいでなく、追い方が拙いからだ。「ばかり」の限度はともかく、勝つか負けるかは、どうしたってスポーツの醍醐味なのである。

藤島大『スポーツ発熱地図』141~142頁


スポーツ発熱地図
藤島 大
ポプラ社
2005-01T


 それにしても、同じスポーツライターとはいいながら、藤島大氏と玉木正之氏のこの違いは何なのか?

虫明亜呂無と草野進=蓮實重彦を結ぶ「線」としての玉木正之
 その藤島大氏も、さすがに虫明亜呂無(むしあけ・あろむ.作家,評論家ほか.故人)となると批判できない。どこかの本で虫明亜呂無を賛美していた(まあ,早稲田大学ラグビー部を賛美するラグビー本を書いたからでもあろうが)。玉木正之氏は、スポーツライターでもあった虫明亜呂無もまた崇拝しており、彼が亡くなった1991年に、そのスポーツライティングを蒐集した『虫明亜呂無の本』全3巻を編集、筑摩書房から刊行している。

肉体への憎しみ (虫明亜呂無の本 (1))
虫明 亜呂無
筑摩書房
1991-07T


野を駈ける光 (虫明亜呂無の本)
虫明 亜呂無
筑摩書房
1991-05T


時さえ忘れて (虫明亜呂無の本)
虫明 亜呂無
筑摩書房
1991-06T


 散逸していた虫明亜呂無のスポーツライティングを、21世紀の今日、私たちがまとまった形で比較的簡単に読めるのは、玉木正之氏の功績である。例えば、佐山一郎氏の『日本サッカー辛航紀』に、虫明亜呂無の「芝生の上のレモン」という文章が、1964年東京オリンピック以前の日本サッカー事情をうかがい知る「史料」として登場するが<1>、これが引用できたのは玉木正之氏の仕事のおかげであろう。

 公平を期すために、この点はアピールしておきたい。

 スポーツライターとしての玉木正之氏の思想・人格は、虫明亜呂無と蓮實重彦氏(草野進名義を含む)の影響を受けている。両者とも、近代スポーツには欠かせない「勝敗」や「記録」に拘泥しないスポーツ観や、独特の詩的美的文体など、玉木正之氏を線として日本のスポーツ評論のひとつの系譜として結び付けられるのかもしれない。

虫明亜呂無のスポーツ評論は軽侮されていた?
 それでは、蓮實重彦氏以上に虫明亜呂無は神聖不可侵なのか? ……というと、そんなことはない。今度はスポーツライターの武田薫氏が、玉木正之氏と虫明亜呂無のことをセットで批判している。
 ……笑わせながらピシッと言い、その上でウソが悪いとは言わないあたりが味噌である。ベテランの味だ。昔は、こうしたベテランの味を感じさせるスポーツ記者がいた。

 ある人〔玉木正之氏〕が「日本で最初にスポーツライターを名乗ったのは自分」と自慢げに書いているのを見て笑ってしまった。知らないのは怖いものだ。かつては虫明亜呂無などを相手にしない書き手が、スポーツ紙〔報知新聞など〕にはゴロゴロしていた。目は鋭く物怖じせず物知りで、金も家庭も頭にない無頼の輩の理詰めの主張――近寄り難いほど迫力があった。かと思えば、酒好きなロマンチスト。「スポーツライター」などという肩書きが流布するようになって、スケールが小さくなった。若い人が、新聞記者ではなくスポーツライターを憧れるとは、嘆かわしい時代だ。

 わざわざ虫明亜呂無の名前を出してくるのは、武田薫氏による玉木正之氏への当てこすりである。虫明亜呂無など相手にしないならば、当然、草野進=蓮實重彦氏だって相手にしないだろう。

 玉木正之氏はスポーツライターとして大変有名なので、藤島大氏のように他の「同業者」からよく批判される。しかし、玉木正之氏の批判はするが、その川上に位置する虫明亜呂無の批判をするという人となると、なかなかいない。ところが、武田薫氏によると、権威があったころの昔のスポーツ新聞の記者は、虫明亜呂無の小癪なスポーツ評論など軽侮していたというのだ。これは、ちょっとした驚きである。

スポーツノンフィクションは安易な「人間ドラマ」か?
 玉木正之氏は、いわゆるスポーツノンフィクションライターの仕事を安易な「人間ドラマ」と呼んで蔑む。そんな玉木正之氏は、スポーツライターとは言いながら、実はノンフィクションなりルポルタージュなりといった分野の仕事はあまりしていない。それでは、氏のスポーツノンフィクションはどんな出来だったのか? 月刊誌『現代』(講談社,廃刊)1992年9月号に珍しい氏のスポーツノンフィクションが載っている。
  • 参照:玉木正之「無名の日本人がアメリカ野球に挑戦! ナックルボールに憑かれた男」(https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001180562-00)
 日本野球界の主流にはいなかった若い野球選手(投手)が、ナックルボールという日本の野球投手があまり使わない変化球をモノにして、米国プロ野球のマイナーリーグに加入、メジャーリーグを目指すという話だった。

 素材としては面白い! ……のだけれども、玉木正之氏は「日本野球界の抑圧性」を批判したいあまり、取材した事実で話を押していかなければならないところを、その投手をダシにして氏自身の思想やらイデオロギーやらで語る場面が目立って、肝心なスポーツノンフィクションの「作品」としては今ひとつ面白くなかった印象がある。

 それこそ、藤島大氏とか、武田薫氏とか、梅田香子氏とか、岡邦行氏とか、スポーツノンフィクションライターとして定評のある人物に書かせれば、コンテンツとしてはもっと面白くなるのにと感じた。<2>

実はスポーツライター志望ではなかった(?)玉木正之氏
 とどのつまり、玉木正之氏は「日本で初めて〈スポーツライター〉を名乗った」と誇りながら、その割には実は「スポーツライター」であることに大変な屈託があり、本当は文学や映画などの「批評」を書く「批評家」になりたかったのではないか? ……などと、どうしても疑ってしまうのである。

 その分、スポーツ「ノンフィクション」ライターとして評価される仕事はあまりない。あとは頭ごなしの「正論」を叫び続けるしかないが、それではいずれ行き詰ってしまう。だから玉木正之氏は一時「スポーツライター廃業宣言」をしていた

 広尾晃氏(本名:手束卓,別名:濱岡章文ほか)は、玉木正之氏は、現場取材に関してNPB当局からパージされたと主張している。しかし、もともとスポーツライターとしての芸風でいうと、玉木正之氏はあまり「スポーツの現場」の匂いがする人ではなかった(むろん,ある選手の不祥事を隠蔽しようとした読売ジャイアンツ=巨人軍の広報と激突した氏の硬骨漢ぶりは誰も否定できないが)。

 どうしたってスポーツライターには知識や教養が必要である。しかし、玉木正之氏の豊かで優れた才能は、日本のスポーツ論壇の中では「測り知れざる知」とも言うべき、蓮實重彦や虫明亜呂無といった人たちに熱狂的に傾倒してしまった。

 これがスポーツライターとしての玉木正之氏への極私的な評価である。

 しかし、スポーツを語るための知識や教養は衒学のためにあるのではないはずなのだ。

(了)




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