スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:佐山一郎

佐山一郎さんと宇都宮徹壱さんの対話から…
 サッカーライターでもあった佐山一郎さんは、自らその集大成と位置付けていた『日本サッカー辛航紀~愛と憎しみの100年史』(2018年)を執筆・上梓するにあたり、宇都宮徹壱さん(佐山さんのサッカーライターとしての弟子に相当する)との対談で、次のような気炎を上げていた。
宇都宮徹壱による佐山一郎インタビュー
【インタビューを受ける佐山一郎氏.宇都宮徹壱ウェブマガジンより】


――今日はよろしくお願いします。本題に入る前に、佐山さんの近況と言いますか、現在執筆されている著書についてお話を伺いたいと思います。タイトルが『日本サッカー辛航紀』。辛い本なんですか(笑)?〔聞き手:宇都宮徹壱氏〕

佐山 ネタをバラすと、2つの書籍からアイデアをもらっています。ひとつは、〔2016年〕8月に亡くなられた柳瀬尚紀〔やなせ・なおき〕さんの『フィネガン辛航紀』(河出書房新社)。これは柳瀬さんが、ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を翻訳するのがいかに大変であったかというお話。辛いどころか、歯ごたえありすぎのご本。もうひとつが、ロナルド・ドーアの『幻滅』(藤原書店)。ドーアさんはイギリス人の社会学者で、90(歳)超えしています。日本を研究してきた「親日派」社会学者が、くまなく見てきた戦後日本70年がテーマの本で、いろんな時代の転換期をとらえながらも、最後に行き着いたのは「幻滅」の境地だったという。でも2冊ともユーモアを失ってはいませんし、そこがとても良いところ。

――つまり『フィネガン辛航紀』からタイトルを借りながら、ドーアの『幻滅』のように佐山さんの実体験を重ねつつ、日本サッカーの来し方を振り返るという作品になるんでしょうか?

佐山 そうなんですけど、予備考察としての蹴鞠の話から1964年東京五輪までの道のりも少しは押さえなければいけないですからね。1936年ベルリン五輪で日本がスウェーデンに勝った話ばかり〔「ベルリンの奇跡」〕でしょ。その次の試合でイタリアに0-8という大差で敗れてしまったことも、それ以上に重要なんじゃないでしょうかね。

――それ、私〔宇都宮徹壱〕も感じていました! そうした前史というか、佐山さんが生まれる前の日本サッカー史を掘り起こした上で、ご自身〔佐山一郎〕のサッカー体験をプレーバックしていくと。やはり起点は、64年の東京五輪なんですね?

佐山 そうですね。だいたい10年ずつくらいで章を立てていて、ようやく〔19〕70年代の終わりくらいまで来ました。〔以下略〕

(2016年11月02日)
 なるほど。ロナルド・ドーアの『幻滅』にインスパイアされたと言うだけあって、「ベルリンの奇跡」だけでなく、次の対イタリア戦の惨敗についても考えていくべきだと。日本サッカーの明るくない側面にも着目するのは、いかにも佐山一郎さんらしい。

 ベルリン五輪のサッカー競技、なかんずく日本代表に関して、何か、新しいネタの発掘・発見があったのかもしれない。……と、当ブログは期待して待った。

 はたして、佐山一郎さん渾身の一冊『日本サッカー辛航紀』は刊行された。

 ところが……。あにはからんや! 『日本サッカー辛航紀』には、ベルリン五輪の話は、ほんの数行しか書かれていなかった。いわゆるベルリンの奇跡=「日本がスウェーデンに勝った話」が、ほんの少し出てきただけだった。

 つまり、佐山一郎さんが事前に予告した「ベルリン五輪サッカー競技 日本vsイタリア戦論」は、実際には書かれることなく本になってしまったのである。

 何か、肩透かしを食らった気分だった。

後藤健生さんが語る対イタリア戦=日本惨敗の真相?
 2019年11月、サッカージャーナリストの大御所・後藤健生さんが『森保ジャパン 世界で勝つための条件~日本代表監督論』を上梓した。*

 この本は、サッカー日本代表の歴史。すなわち日本サッカーのプロ化(Jリーグ=1992~93年)以降の歴史、そしてプロ化以前=アマチュア時代のサッカー日本代表の歴史を、歴代監督ごとに言わば「紀伝体」の体裁を取りながら、簡潔に記述した興味深い一冊である。

 この著作の中で、後藤健生さんは、ベルリン五輪(1936年)当時のサッカー日本代表監督=鈴木重義に触れている(236~237頁)。

 対イタリア戦での、日本大敗の真相や、如何に?

 何のことはない。日本代表は1回戦でスウェーデンに逆転勝ちして「世界」に衝撃を与えたが、疲労困憊しており、そのために次戦=2回戦では、当時世界最強のイタリア代表(1934年,1938年とW杯連覇中)に0-8のスコアで大敗してしまった。

 それでも、後半30分くらいまでは、0-3とそれなりに戦うことができていた……という、実にアッサリとしたものであった。

 何事につけ、日本サッカーについてあまり明朗ではない叙述をしたがる傾向のある佐山一郎さんは、対イタリア戦の日本惨敗について掘り下げて書いて、他の凡百な日本サッカー史と「差別化」をしたかった。

 しかし、資料(史料)は少ないし、長年懇意にしている後藤健生さんの理解するところでは、大した中身もないので、その「差別化」は挫折してしまった。

 邪推になるが、意外に実態はそんなところではないのか。

(了)




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はじめに…
 ラグビーワールドカップ2019日本大会まで、あと10日となりました。

 まず、はじめに……。当ブログの趣旨は、ラグビーフットボールというスポーツそのもの、また日本におけるラグビーフットボールそのものを貶めるものではありません。

 かつて、Jリーグ以前、1970年代初めから1990年前後にかけて、国内スポーツシーンにおける人気や日本代表の国際的な活躍の度合いについて、ラグビーがサッカーを上回っていた時期がありました。

日本ラグビー激闘史 2010年 12/8号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2010-11-24


日本ラグビー激闘史 2011年 2/9号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2011-01-26



 サッカーとラグビーは、同じ「フットボール」を祖としています。しかし、片や、サッカーはいち早いプロフェッショナル化やワールドカップ(世界選手権)の創設。こなた、ラグビーは従前のアマチュアリズムの維持や選手権制度の原理的否定(対抗戦思想)……と、大きく思想を異にしていました。

 その当時、一部の心ないラグビー関係者が、ラグビーへの歪んだ愛情のあまり、時勢に乗じて、自身たちとスポーツの在り方に関する考え方が違うサッカーに対し、悪口雑言罵詈讒謗を放つことが間々ありました(逆の例もありましたが)。


 今回のエントリーの目的は、こうした言説の一部をインターネット上に保存し、後学のための覚書とすることです。その意図を斟酌(しんしゃく)の上で、ご笑覧いただけると、幸甚であります。

日本サッカーは未来永劫ワールドカップに出られない!?
前回のエントリーから…
▼日本サッカーは未来永劫ワールドカップに出られない!?~ラグビー狂会=中尾亘孝の放言(2019年09月01日)

 1991年、サッカー日本代表は未来永劫ワールドカップ本大会には出られない! と断言した反サッカー主義のラグビー評論家・中尾亘孝。その「ご託宣」は全く外れたわけだが…。
 1991年秋、サッカー日本代表(横山謙三監督)が不振にあえいでいた頃、ラグビー日本代表(宿沢ジャパン平尾組)は、アジア・オセアニア予選を突破して第2回ラグビーW杯本大会に進出。国民的な期待を集めていた。

日本ラグビー激闘史 2011年 3/9号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2011-02-23



 ちょうどその頃、ラグビーW杯の話題に当て込んで刊行されたラグビー評論書が、「日本ラグビー狂会」を自称する中尾亘孝(なかお・のぶたか)の『15人のハーフ・バックス~オレたちにも言わせろ!〈ジャパンはこうすれば強くなる〉』だった。

 一方、時を同じくして、20年来の低迷を打破するべく日本サッカー協会(JFA)が国内リーグのプロ化(現在のJリーグ)を発表した。目的は、サッカー人気の再興、そしてサッカー日本代表をワールドカップ本大会に出場させることである。

 中尾亘孝は、悪質な反サッカー主義者でもあり、とにかくサッカーが嫌いで嫌いでしょうがない。特に日本のサッカー(Jリーグと日本代表)には茶々を入れずにはいられない。サッカー日本代表はアジア予選を勝ち進んで、W杯本大会に出場できるのか? 中尾亘孝は『15人のハーフ・バックス』の中で居丈高に答える。
サッカーはW杯に出られるか
 ……〔日本の〕サッカーがW杯に出られるかどうかという疑問に答えておきましょう。まことにご同情にたえない次第ですが、ノーです。ジャパン〔ラグビー日本代表〕がオールブラックス〔ラグビー・ニュージーランド代表〕に勝つより確率は低いといえそうです。それはどうしてか、現場に限って原因を追究すると、
  1. 日本独自の理論がない。
  2. 人材が揃わない。
  3. 学閥、派閥の足の引っ張り合いが激しい。
 日本サッカー唯一の成功が、メキシコ五輪〔1968年〕銅メダル獲得です。しかし、五輪のサッカーが選手権としてはマイナーである事実は、当のサッカー関係者が一番よくわかっていることです。その上、指導者は西ドイツ(当時)人のクラマー氏でした。ファースト・ステップとしてはこれでいいでしょう。でもその後、日本独自の理論が生まれたという話は聞きません。人材については、決定力のあるプレーヤーが釜本邦茂以来出ていません。現有の数少ない才能〔海外組〕を外国プロ・チームから呼び戻すことすらできません。最後の派閥争いに関しては、ただただお疲れさまというしかありません。

中尾亘孝『15人のハーフ・バックス』237~238頁


中尾亘孝2
【中尾亘孝】
 時勢に乗じた、まことに傲岸不遜な放言であった。

 ところが、周知にとおり、この「ご託宣」は「未来永劫」どころか、1997年11月の「ジョホールバルの歓喜」で、たった6年で覆(くつがえ)されてしまったのである

岡野雅行_ジョホールバルの歓喜
【ジョホールバルの歓喜】

 本当は1993年の「ドーハ」で達成されるべきだった(先のリッチリンクを参照)というのは、ひとまず措(お)くとしても……。

他人事のように「ジャケvsレキップ」を語る中尾亘孝
 ……中尾亘孝に求められたのは、ラグビーファン、サッカーファン、スポーツファンの読者に対する潔い謝罪であった。

 とにかく横柄が過ぎる中尾亘孝は、ラグビーフットボールおよびラグビーファンにまつわるある種のイメージ、すなわち「ラグビーを偏愛し,不遜で,他の競技なかんずくサッカーを敵対的に見下している……」というステレオタイプを煽っている。しかし、ここで「私が間違っていました」の一言が出るかどうかで、人としての器量がはかられる。

 ところが、中尾亘孝の取った対応は、読者の予想の斜め上をいくものだった。

 「ジョホールバルの歓喜」後の、中尾亘孝のサッカーに対する本格的な言及は、1998年12月刊行の『リヴェンジ』である。

 はじめに「まえがき」であるが、真面目なラグビーファンやサッカーファンの読者は、いきなり狐(きつね)につままされたような気分にさせられる。
まえがき
 ヴェトナム(ヴィエト・ナム)戦争は、アメリカン・ジャーナリズムが勝利した戦争として有名です。〔1998年の〕サッカー・ワールド・カップ・フランス大会は、フランス最大のスポーツ・ジャーナリズム『レキップ』紙(ツール・ド・フランスの元締め)が完全敗北したことで歴史に残るでしょう。考えてみると、今の世の中、かくも明快に物事の白黒が判明するというのは極めて稀〔ま〕れなわけで、その意味では歴史に残るケース・スタディだと思います。『レキップ』紙は優勝した〔サッカーの〕フランス代表を率いるエメ・ジャケ監督に対し、終始一貫して批判的立場をとりながら「優勝」という結果を出したことで、ジャケ監督に全面謝罪したのです。それでも、新聞が売れ続けたことで「批判は正しかった」と開き直ることを忘れていないところがジャーナリスト魂を感じさせます。〔略〕

 一方、岡田〔武史〕監督率いる〔サッカー〕日本代表の場合は、フランス代表ほど簡単には分析できません。それは、「誰が監督をやろうと結果は同じ」だったろうと多くのファンには分かっていたからです。ところが未だに監督が違う人だったら……〔以下略〕

中尾亘孝『リヴェンジ』2頁(原文ママ)

 あれ? あれ? あれれ??? 中尾亘孝は、自分の「間違い」を省みることは、しないのか? 何で「ジャケvsレキップ」の一件を、他人事みたいに語ることができるんや?

 ……というのは、ちょうど中尾亘孝が、サッカー・フランスW杯におけるエメ・ジャケ仏代表監督と『レキップ』紙の話題を出していたので、これに譬(たと)えてみる。

 日本サッカーは「サッカー・フランス代表を率いるエメ・ジャケ監督」の立場であり、日本サッカーは未来永劫ワールドカップに出られないなど日本サッカーにさんざん悪口雑言罵詈讒謗を放言してきた中尾亘孝は『レキップ』紙の立場である。

 日本サッカーは「W杯本大会出場」という結果を出した。だから「完全敗北」した中尾亘孝こそ日本サッカーに対して「全面謝罪」しなければならない。今の世の中、かくも明快に物事の白黒が判明するというのは極めて稀〔ま〕れなわけで、その意味では日本スポーツジャーナリズム史に残る一大事件でもある。

 しかし、自分の論評は正しかったと開き直ることを忘れていないイヤラシサが、反サッカー主義者のラグビー者(もの)=中尾亘孝の本性なのである。

20世紀末,中尾亘孝はすでに「謝ったら死ぬ病」だった
 「謝ったら死ぬ病」は21世紀に入ってから流行り始めた奇病だと言われているが、次に紹介する中尾亘孝の強弁的言い訳は、この症例が20世紀末(1998年)には既に存在していたことを明らかにしている。
 今を去る7年前〔1991年〕、フットボール・アナリストを自称するおやぢ〔オヤジ=中尾亘孝〕は、「〔日本の〕サッカーは未来永劫ワールド・カップ〔本大会〕には出られない」と断定したことがあります。軽率のそしりはまぬがれない放言であります。周知のように、J-リーグ→ドーハの悲劇→ジョホール・バルの歓喜という風にステップ・アップして、目出たくワールド・カップ・フランス大会に出場したわけです。活字だけでなく、文章も読める人が読めば分かることですがこれには前提があったのです。それは、
  1. 日本独自の理論がない。
  2. 人材が揃わない。
  3. 学閥、派閥の足の引っ張り合い。
 以上の三点がクリアされない限り、世界の檜舞台〔W杯〕には絶対立てないという結論は、今でも正しかった〔!?〕と思っているし、現時点でも同じことを書けば、「4.運、ツキに恵まれる」と、もう一項目付け加える必要さえあるとさえ考えています。

 〔日本〕サッカーの場合、理論面では「〔19〕90年以降新しい理論は生まれていない」と断言する岡田武史監督の誕生があり〔出典不明〕、中田英寿の登場で人材面はクリア〔いつも過大評価がついて回る人〕、そしてJ-リーグのダイナミズムは派閥をバラバラにして、協会内の既得権益集団へと転向させた〔関東大学ラグビー対抗戦の慶應義塾大学,早稲田大学,明治大学の三校こそ本当の「既得権益集団」だが〕。以上の変革の結果、ヨレヨレヘロヘロの状態だったとはいえ、ワールド・カップ〔本大会〕出場への道を拓いたのだと思う。

中尾亘孝『リヴェンジ』11~12頁(原文ママ)

 「ヴィエト・ナム」とか、「おやぢ」とか、ハイフンが入った「J-リーグ」とか、中黒が入った「ワールド・カップ」とか「ジョホール・バル」とか……は、中尾亘孝の文章表現上の実につまらない拘泥である。つまり、中尾亘孝は独りよがりで矮小な人間である(だから書名も『リベンジ』ではなく『リヴェンジ』なのである)。

 それはともかく、「日本サッカーは絶対W杯本大会に出場できない」と「予想」はしたものの、しかし「事実,現実」はこれを覆(くつがえ)してしまった。それでも、なおかつ中尾亘孝は自身が下した「結論は、今でも正しかった〔!?〕と思っている」などと言い逃れするのは、どう考えても辻褄(つじつま)が合わない。

 要するに、俺は間違ったことは書いていない。それが分からないのは読解力のないお前ら読者がバカだからだ……と、中尾亘孝は見苦しく居直り、責任を転嫁したのだ(こういう,ナチュラルな憎まれ口を平然と書くのが中尾亘孝の品性の下劣さである)。

 こんな感じで過去の「ご託宣」の間違い、その「みそぎ」をチャチャっと済ませた(つもりの)中尾亘孝は、今度は『リヴェンジ』で、1998年サッカー・フランスW杯で3戦3敗1次リーグ敗退に終わったサッカー日本代表=岡田ジャパンや日本人サポーターを愚弄し、嘲笑する「ご高説」を垂れるようになったのである。

 サッカー、なかんずく日本サッカーを、しつこくヘイト(hate)し、ハラスメント(harassment)する、その中尾亘孝の「ご高説」の逐一は細かくは紹介しないの。物好きなサッカーファンやラグビーファンは現物に当たってほしい(目次のみPDFのデータにしたので参照されたい)。
 こんな言動は、インターネット全盛の21世紀ならば炎上必至である。……ばかりか、個人情報を特定されて、中尾亘孝一個人が報いを受けても、誰からも同情されないという事態すら起こりうる。

中尾亘孝は日本語の読み書きができない与太郎である
 それでは、日本語の読解力がない(活字ではなく文章が読めない)バカなのは、読者(サッカーファンやラグビーファン)なのか、あるいは反サッカー主義者の中尾亘孝なのか、軽く検証してみる。

 先の引用文だけでなく、中尾亘孝『15人のハーフ・バックス』の該当部分については、PDFデータでもアップしたので、そちらも参照されたい。
 1991年の『15人のハーフ・バックス』では、日本サッカーがW杯本大会に出られるかどうかについては、完全に「ノー」だと断言している。そして、その「原因」として例の3か条を挙げている。
  1. 日本独自の理論がない。
  2. 人材が揃わない。
  3. 学閥、派閥の足の引っ張り合いが激しい。
 ところが、これが1998年の『リヴェンジ』では、この3か条は、日本サッカーがW杯本大会出場を「クリア」するべき「前提」に話をスリ替えて(!)いる。自身の言行一致を取り繕うために、おかしな自己弁護に走っているのは、サッカーファンやサッカー関係者に「謝ったら死ぬ病」に罹(かか)った中尾亘孝の方である。

 ついでに、中尾亘孝が追加した「4.運、ツキに恵まれる」の項目についても説明しておくと……。1997年のフランスW杯アジア最終予選では、たしかアウェーのウズベキスタン戦で、試合終了間際の偶発的なゴールで同点に追いついたことがあり、この得点がグループリーグの最後に効いてくる……ということがあった。

 これなどは、中尾亘孝が言うように「運、ツキに恵まれ」た実例なのかもしれない。

 しかし、日本サッカー狂会を出身母体を持つサッカージャーナリストの後藤健生さんの「理論」に従えば、サッカーの場合、局面局面では偶発的な出来事が起こっても、リーグ戦(ラウンドロビンとでも言わなきゃならんのか?)の最後には、おおむね実力通りの結果に収斂されてくる。

 この「理論」は、後藤健生さんの著作『アジア・サッカー戦記』や『ワールドカップの世紀』などに出てくる話である。


 つまり、サッカー日本代表=加茂&岡田ジャパンは、1997年のフランスW杯アジア最終予選において、少なからず迷走はしたが「おおむね」実力通りの結果を出したのである。だいたい「運、ツキに恵まれ」ただけで、1998年から2018年まで、サッカー日本代表は6回連続してW杯本大会に出場などできない。

 中尾亘孝は、実は日本のサッカーのことをよく知らない。自称「日本ラグビー狂会」の中尾亘孝の本を読んでいて不思議に思うのは、反サッカー主義者にもかかわらず、「狂会」の名前をサッカーからパクっているにもかかわらず、しかし、日本サッカー狂会の後藤健生さんの著作を、まったく(ほとんど)参照していないことだ。

 このことは、中尾亘孝のことを「ラグビーの後藤健生」などというトンデモない紹介をした、佐山一郎さんも気が付いていないようである(佐山一郎さんの中尾亘孝評は「兄弟フットボールライターからの助言」として,佐山一郎著『サッカー細見』に所収)。

サッカー細見―’98~’99
佐山 一郎
晶文社
1999-10-01


 中尾亘孝は、後藤健生さんの著作を意図的に参照しないことで、日本サッカーの伸長を認めないという詐術を用いる卑劣漢なのである。

ラグビーファン=〈観客〉から見放された中尾亘孝
 なにより、中尾亘孝の、この卑怯未練な言動に嘆き悲しんだのは、他でもない、真面目で善良なラグビーファンたちだった。『リヴェンジ』における逆ギレの一件は、読者=ラグビーファンが中尾亘孝から離反していく決定的なキッカケになっていく。

 これ以降、中尾亘孝のラグビー本体の評論の質も大きく、ますます下がった。『ラグビーマガジン』や文春『ナンバー』ラグビー記事への執筆の機会も減った(たまに間違って起用されては,読者のヒンシュクを買うが)。

 中尾亘孝が編集を周旋している「狂会本」と通称されるアンソロジー形式のラグビー本からは、小林深緑郎さん、大友信彦さん、永田洋光さん、藤島大さんといった有為な常連執筆者が去っていった。昨今の「狂会本」は、ラグビーファンからは、中尾亘孝主宰の「同人誌」などと揶揄されるほど、コンテンツの質が下がった。

 このことは、本人も意識しているのかもしれない。かつて、中尾亘孝は自身の著作のプロフィール欄には「〈観客〉の立場から独自のラグビー評論を展開」するとあった。

 ところが、『リヴェンジ』の少し後から「〈観客〉の立場」を自ら放棄し、「フルタイムのラグビー・ウォッチャー」とか、先の引用文にあったように「フットボール・アナリスト」などという不思議な肩書を自称するようになっていく。

 〈観客〉たるラグビーファンから見放され、自らも〈観客〉と決別した中尾亘孝。そのラグビー観や反サッカー主義は、さらにさらに歪んだものになっていった。

つづく




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はじめに…
 ラグビーワールドカップ2019日本大会まで、あと1か月となりました。

 まず、はじめに……。当ブログの趣旨は、ラグビーフットボールというスポーツそのもの、また日本におけるラグビーフットボールそのものを貶めるものではありません。

 かつて、Jリーグ以前、1970年代初めから1990年前後にかけて、国内スポーツシーンにおける人気や日本代表の国際的な活躍の度合いについて、ラグビーがサッカーを上回っていた時代がありました。

日本ラグビー激闘史 2010年 12/8号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2010-11-24


 サッカーとラグビーは、同じ「フットボール」を祖としています。しかし、片や、サッカーはいち早いプロフェッショナル化やワールドカップ(世界選手権)の創設。こなた、ラグビーは従前のアマチュアリズムの維持や選手権制度の原理的否定(対抗戦思想)……と、大きく思想を異にしていました。

 その当時、一部の心ないラグビー関係者が、ラグビーへの歪んだ愛情のあまり、時流に乗じて、自身たちとスポーツの在り方に関する考え方が違うサッカーに対し、悪口雑言罵詈讒謗を放つことが間々ありました(逆の例もありましたが)。


 今回のエントリーの目的は、こうした言説の一部をインターネット上に保存し、後学のための覚書とすることです。その意図を斟酌(しんしゃく)の上で、ご笑覧いただけると、幸甚であります。

ラグビー評論家・中尾亘孝(なかお・のぶたか)とは何者か?
 ラグビーフットボールに関心は薄くとも、サッカーファンがラグビー評論家・中尾亘孝の名前を憶(おぼ)えているとしたら、1998年フランスW杯の少し後、佐山一郎さんが『サッカーマガジン』誌の連載コラムの中で「ラグビーの後藤健生」だなどと評して、中尾が同年に出した著作『リヴェンジ』を推奨していたことではないだろうか(「兄弟フットボールライターからの助言」として,後に佐山一郎著『サッカー細見』に所収)。

サッカー細見―’98~’99
佐山 一郎
晶文社
1999-10-01


 この「ラグビーの後藤健生」を本気にして『リヴェンジ』を読んだら、著者・中尾の、サッカーに対する、なかんずく同年のフランスW杯で1次リーグ3戦3敗で終わったサッカー日本代表=岡田ジャパンに対する悪口雑言罵詈讒謗があまりにも酷くて著しく不快となり、当ブログ(の中の人間)に問い合わせの電話をかけてきたサッカーファンが2人いる(いずれも界隈では相応のポジションにあるサッカーファンである)。

 事ほど左様、この人物こそは、ラグビーへの歪んだ愛情のあまり、サッカーに対して悪口雑言罵詈讒謗をさんざんぱらぱら放言してきたインチキラグビー評論家であり、札付きの反サッカー主義者なのである。

 それでは「中尾亘孝」とは何者なのか? 1950年、愛知県生まれ。ラグビー評論家。早稲田大学商学部中退(らしい)。ラグビーブームの時代の最後半、1989年に『おいしいラグビーのいただきかた』でデビュー。主な著作に『15人のハーフ・バックス』『リヴェンジ』『英国・フランス楕円球聖地紀行』ほか。

中尾亘孝(プロフィール付き)
【中尾亘孝】

中尾亘孝『おいしいラグビーのいただきかた』(1989)表紙
 1990年ごろから、反サッカー主義者にもかかわらず、鈴木良韶(すずき・りょうしょう)和尚率いる日本最古のサッカーファン・サポーター集団「日本サッカー狂会」の許しもなく、勝手に「日本ラグビー狂会」を名乗り始める。

日本サッカー狂会
国書刊行会
2007-08-01


 以後、この「狂会」を事実上「主宰」し、他の「会員」とともに、ラグビーファンから「狂会本」と言われるアンソロジーのラグビー本を、実に20冊以上刊行してきた。主な著作に『頭にやさしいラグビー』『ラグビー黒書』『ラグビー・サバイバー』『ラグビー構造改革』ほか。

ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12


ラグビー・サバイバー
日本ラグビー狂会
双葉社
2002-11


ラグビー構造改革
日本ラグビー狂会
双葉社
2001-12


 現在は、愛知県豊橋市の、東海道新幹線・東海道本線と蒲郡街道が立体交差する付近のアパート1階を「寓居」とし、ブログを中心に放言している。

中尾亘孝のブログ「楕円系萬週報」
【中尾亘孝のブログ「楕円系萬週報」】

 この辺りの情報は、中尾のブログ自身にそれとなく分かるように書いてある。ラグビーが好きな人は、直接、中尾にラグビー談義を聴きに行くのも一興であろう。

サッカーこそラグビーの矮小な傍流にすぎない?
 その中尾亘孝の反サッカー言説の代表例が、「サッカーから枝分かれしたラグビー」という世間一般のイメージを逆転させた、ラグビーこそが英国前近代のフットボールの正統なる継承者であり、サッカーはその矮小な傍流にすぎないとするフットボール正閏(せいじゅん)論「ラグビー本流/サッカー傍流」説である。

 1823年のある日、英国の名門パブリックスクール「ラグビー校」でのフットボール(サッカーと誤記されることが,間々ある)の試合中、ウィリアム・ウェッブ・エリスなる生徒が、プレーに熱中するあまりボールを抱えて走る(ランニングイン)という「反則」をしでかした……。

ウィリアム・ウェブ・エリス(肖像画)
【ウィリアム・ウェブ・エリス(肖像画)】

 ……しかし、ラグビー校ではその「反則」プレーの精神を尊重し、ゲームの骨子として受け入れ、新たな独自の球技「ラグビーフットボール」の誕生を促(うなが)した……。

 ……というのが、ラグビーの創世物語「エリス神話」である。

 対して、中尾亘孝のラグビー・サッカー正閏論では、英国のラグビー関係者の所説などを参照しつつ、「エリス神話」は事実ではなく、捏造・デッチ上げによる虚構、あるいは政治的プロバガンダ(英国エリート的なスポーツの価値観を護持するための?)にすぎないと断定した。そして、フットボールの正統をサッカーに簒奪(さんだつ)された……などと繰り返し扇動してきた。

 この当時(1989年~1990年代初め)は、ラグビーの人気や日本代表の活躍の度合い(ラグビー日本代表=宿沢ジャパン平尾組)がサッカーに優越していた時代であり、風潮に気圧されるというか、勢いに乗じた中尾亘孝の説ももっともらしく聞こえた。

日本ラグビー激闘史 2011年 2/9号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2011-01-26



日本ラグビー激闘史 2011年 3/9号 [雑誌]
ベースボール・マガジン社
2011-02-23


 「ラグビー本流/サッカー傍流」説を読者(スポーツファン)に焚(た)き付けることで、サッカーに対して優位性を誇示しようとしてきたのである。

中尾亘孝説がラグビージャーナリズムに与えた影響
 中尾説の影響は、侮れない。2000年に出た永田洋光さんの『ラグビー従軍戦記』では、近代フットボール制定の経緯が、一般の常識とは正反対の視点、中尾のラグビー・サッカー正閏論に則って、いわばラグビー中心史観で描かれている(167~169頁)。

ラグビー従軍戦記
永田 洋光
双葉社
2000-06


 通説では、1863年、共通のフットボールルールを制定する会議で、ルールをサッカー式にするかラグビー式にするかで揉めた時、サッカー式に反対して退席していったのはラグビー側ということになっている。ところが『ラグビー従軍戦記』では、何とサッカー側が退席したことになっている(え!?)。

 しかも、新興の「サッカー」は、競技人口が劣勢であり、それを拡大する必要性に迫られて選手権大会=FA杯をスタートさせた……とか、選手のプロ化を容認した……とか。一方のラグビーは競技人口の大半を占める英国のエリート層が、厳格なアマチュアリズム規定を定め、選手権大会を否定するいわゆる対抗戦思想にこだわり……などと書かれてある。

 従来のフットボール史は、なるほどサッカー寄りだったかもしれないが、永田さんの叙述の方はラグビーに寄りすぎ……と言うよりは、完全に中尾亘孝説に「洗脳」されたものである。

 そういえば、ラグビー史研究家の秋山陽一さんにも、どことなくサッカーへの敵愾心を感じるところがある。秋山さんその「海軍兵学寮で行われたフットボールはサッカーではなくラグビーである」という問題提起もまた、中尾が仕掛けたラグビー・サッカー正閏論のバリエーションのようにも読める(秋山さん自身はそれを否定しているが)。

中尾亘孝の「ラグビー・サッカー正閏論」を疑う
 ラグビーが「サッカー」から分派したものではないこと、サッカー「だけ」が英国前近代のフットボールを「正統」に継承したものでないことは、多くのサッカー関係者も(例えば後藤健生さんも)認めている。

 しかし、中尾亘孝が主張しているのは、ラグビー「だけ」が英国前近代のフットボールを「正統」に継承したものであり、サッカーもアメフトもオーストラリア式もゲーリック式も、これすべてラグビーの傍流である……という極端なものだ。容易に納得はできない。

 しかも、中尾説にはひとつの疑問がある。

 例えば、ボールを前に投げてはいけないという「スローフォワード」という反則。ボールを手で叩いて前に進めてはならないという「ノックオン」という反則。これらはサッカーでいう「ハンドリング」の反則に相当する、その球技をその球技たらしめる重要なルールだ。

 ラグビーにとっては「オフサイドはなぜ反則か」よりも「ノックオンはなぜ反則か」や「スローフォワードはなぜ反則か」の方が重要な課題なのである。



 この2つの反則は、前近代の英国のフットボールに広範に存在したのだろうか? そこが証明されない限り、中尾説は妥当とはいえない。ところが、中尾の「ラグビー本流/サッカー傍流」説は「ノックオン」や「スローフォワード」がなぜ反則なのか……という疑問に対する解答=論証が弱い。

 もうひとつの疑問は、本当にラグビー「だけ」が英国前近代のフットボールを「正統」に継承したものであり、他のフットボールがその傍流にすぎないと言うならば、最初からラグビー関係者が、そう主張すればよいのである。

 なぜ「エリス神話」なるものが存在するのか? 中尾もあれこれ述べているが、この件に関しては歯切れがよいとは言えない。

自爆する「ラグビー本流/サッカー傍流」説
 2006年ドイツW杯を当て込んで刊行されたサッカーの蘊蓄(うんちく)本に、加納正洋(かのう・まさひろ)著『サッカーのこと知ってますか?』がある。著者・加納の正体は、まさに中尾亘孝のことで、だから、文面には中尾の反サッカー主義があちこちに滲(にじ)み出ていて、肝心の読者であるサッカーファンが読んでいてかえって不快な思いをするという、実に奇妙なサッカー本である。

 加納正洋=中尾亘孝は、『サッカーのこと知ってますか?』の中で、サッカーファンを挑発するかのように、フットボール正閏論「ラグビー本流/サッカー傍流」説で一席ぶっている(100~116頁)。

 しかし、一方で「19世紀初頭のラグビー・スクールのフットボールは、ランニングイン(ボールを持って相手ゴールに走ること)は許されていなかった」ことは認めている(103頁)。認めざるを得ない。……と言うか、それを「ラグビー」と呼ぶのである。

 『サッカーのこと知ってますか?』は、サッカー式ルールを定めたFA創設後も傘下のクラブを含めて各フットボールクラブは、独自のルールで試合をしていた……という(157~158頁)。しかし、それは全部が全部掛け値のない「ラグビー式」なのか? ノックオンとスローフォワードの反則はどうなっていたのか?

 また、英国前近代のフットボールには、例えばシェフィールド式やオーストラリア式のルールなど、「オフサイド」のないものも存在した(71頁)という。しかし、それではノックオンとスローフォワードを認めることになり、ランニングインを旨とするラグビーフットボールにはならないのではないか?

 中尾亘孝は、実は「ラグビーフットボール」のことをキチンと定義できていないのである。サッカーでなく、何らかの形で「手」を使っているフットボールがあったら、みんなラグビーの仲間に入れている感がある(ひょっとしたら、それは意図的なものかもしれない)。

 サッカーは「ラグビーとは違うフットボールだという差異を強調するあまり、手の使用禁止、厳格なオフサイド・ルールなど……が出すぎた感があった」(102頁)などと中尾(加納)は言う。

 それならば「ラグビーは、ノックオンとスローフォワードを反則とし、サッカーよりもさらに厳格なオフサイドルールを採用することで、〈ランニングインのフットボール〉として他のフットボールにはない独自性を強調している」のである。

 それで、ノックオンやスローフォワードは、いつ、どのように反則として成立したのか? 例によって中尾亘孝(加納正洋)は説明不足である。

再評価される「エリス神話」の史実性
 「エリス神話」についても、ラグビー評論界の良心、小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)さんが、独自の取材調査で、19世紀前半、ラグビー校でラグビー式のフットボールを行った最初の世代で唯一名前が判明している生徒がウィリアム・ウェッブ・エリスであるとしている(小林深緑郎『世界ラグビー基礎知識』)。つまり「エリス神話」にも一定の史実性があることを認めているのである。

世界ラグビー基礎知識
小林 深緑郎
ベースボールマガジン社
2003-10


 要するに、「サッカーからラグビーが派生した」という世間一般の認識は間違いだが、「ラグビーだけが英国前近代フットボールの正当な継承者」であるという中尾説も正しくない。「エリス神話」より、むしろ「ラグビー本流/サッカー傍流」説の方こそ、ラグビー派の反サッカー主義者(中尾亘孝)による政治的プロパガンダなのである。

 サッカーも、ラグビーも、いくつもあるフットボールのローカルルールのひとつに過ぎなかった。

 老舗和菓子の元祖・本家争いのような、唯一の正統なるフットボールとは何かを標榜する中尾亘孝のアジテーションこそ意味がない。

つづく




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「明治」をスルーした日本サッカー史?
 2021年は公益財団法人日本サッカー協会(JFA)の創立100周年である。JFAは「正史」として大型本の『JFA 100年史』(仮称)を公刊するはずだ(JFAは創立50周年の時も,75周年の時も「正史」を刊行している)。

財団法人日本サッカー協会 75年史―ありがとう。そして未来へ
財団法人日本サッカー協会75年史編集委員会
日本サッカー協会
1996-10-01



 しかし、いかに本が売れない時代とはいえ、有為な書き手による、手ごろな一冊のサイズにまとまった日本サッカー通史を、サッカーファンやスポーツファンに送り出す企てはないのだろうか。

 相撲(「大相撲」に限定されない格闘技としての相撲)や、マラソン・駅伝などには優れた通史は存在するのだから、サッカーでもそういった、いい意味での「外史・稗史・野史」を当然読みたいのである。

相撲の歴史 (講談社学術文庫)
新田 一郎
講談社
2010-07-12


相撲の歴史
新田 一郎
山川出版社
1994-07-01


マラソンと日本人 (朝日選書)
武田 薫
朝日新聞出版
2014-08-08


 果たして、その先駆けなのか、佐山一郎さんによる『日本サッカー辛航紀』が上梓された。

 もっとも、この著作は「私小説」的な性格が色濃いうえに、日本サッカー史を謳(うた)いながら、日本サッカー界は歴史を大事にしていないと批判しながら、そして蹴鞠も話題まで採り上げながら、しかし、肝心要の明治時代、草創期の日本のサッカー事情について全く触れていないという、実に不思議な一冊である。

 やっぱり、明治時代、海外から日本へのサッカーの伝来、普及、野球やラグビーなど他競技との関係等々について全く言及しないというのは、違うのではないか。

 それこそが、日本サッカーの原点だからである。日本のサッカーの文化や歴史などの総体を理解するためには、原点である「明治」を知らなければならない。書名が『日本サッカー辛航紀』であるならば、なおさら、その「辛」い「航」海の船出が明治時代だったからである。

明治最初のフットボールはサッカーか? ラグビーか?
 意地の悪いことを言うと、『日本サッカー辛航紀』はこの重苦しいテーマから逃げたのではないかと邪推する。野球に普及や人気でサッカーが先んじられたこともある。もうひとつは、そもそも日本で最初に行われたフットボールが、サッカーなのか、ラグビーなのか、最近になって論争になっているためでもある。迂闊(うかつ)なことが書けないのだ。

 今でも、JFAの公式サイトの「沿革・歴史」、1873年(明治6)の項には「イングランドサッカー協会(The FA)創設から10年後、英国海軍教官団のA・L・ダグラス少佐(中佐とも)と海軍将兵が来日。東京築地の海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)で日本人の海軍軍人に訓練の余暇としてサッカーを教えた(これが、日本でサッカーが紹介された最初というのが定説になっている)」とある。これが従来の定説というか、通説であった。

▼日本サッカー協会(JFA)沿革・歴史

 後藤健生さんも『日本サッカー史 代表編』では、特に吟味することもなく、この通説を掲載した。


秋山陽一
【秋山陽一氏】

 秋山さんの主張をまとめたのが、日本ラグビー狂会編『ラグビー・サバイバー』所収の「フットボールの憂鬱」という論考である。

ラグビー・サバイバー
日本ラグビー狂会
双葉社
2002-11


 後藤さんは、ある程度、秋山さんの批判を受け入れている。当時の海軍兵学寮の様子を調べていくうちに、なるほど、これが完全なるサッカーだったとは言い難い。もっとも、それがラグビーだったと証明することもできないのだが……。

 後藤さんの後の著作『サッカー歴史物語』では、持論が修正されてある。

 イングランドでFAルール(サッカー)が普及するのは、実は「The FA」が創設された1963年よりも少し後のことだ。また、イングランドのラグビー協会(RFU)の創設も1871年である。あの当時は、サッカーとラグビーはそれほど隔たりのある球技ではなかった。

 当ブログから加えるに、当時は、サッカー、ラグビー以外のルールのフットボールもいくつか混在していた。フットボールが両者どちらかに収斂(しゅうれん)していくのも、後々のことである。

 明治初期の海軍兵学寮では、キッチリしたルールではなく、フットボールの真似事のような遊びを英国海軍将兵と日本人学生らはやっていたのではないか。

 後藤さんといっしょに「日本サッカー史研究会」を主宰している牛木素吉郎さんも、この立場を支持している。

 牛木さんは、明治初期に日本で行われたフットボールを「サッカー」でも「ラグビー」でもなく、「フットボール」と表記しようと提案している。FAルールで行われたことが確実なものだけを「サッカー」と呼び、RFUルールで行われたことが確実なものだけを「ラグビー」と呼ぶ。

▼牛木素吉郎「明冶初期のフットボール@日本サッカー史研究会」(2007年2月19日)

 そうすることによって、無意味な論争を避けることができる。

後藤・牛木説をあくまで突っぱねる秋山陽一氏
 しかし、秋山陽一さんは、この後藤・牛木説にもあくまで異を唱える立場をとる。

 秋山さん曰く……。後藤健生氏は『サッカー歴史物語』で、当時のルールについて、相変わらず「サッカーともラグビーとも特定しがたく」という見解を披歴しているが、根拠を示していない(これは指摘どおりかもしれない)。一方、イギリスの研究者(誰?)は海軍兵学寮のフットボールについてラグビーとしている。

A_Footbll_Match_in_Japan
【A Football Match in Japan(19世紀)】

 イギリス人の特徴としてスポーツ組織を作るときにそこで行われるルールを何にするかを決めずに行動を起こさない(本当か?)。論拠となる資料はある(それが知りたい)。

 後藤健生氏と牛木素吉郎氏の説を支持するサッカーファンが理解できない。

 ……。何というか。秋山さんのスタンスからは、サッカーファンに対して「マウントを取りに行く」感じをヒシヒシと感じる。さすがに最近はそんな人も少なくなったが、どうして日本のラグビー関係者はサッカーを目の敵にするのだろうか。

 いちど「日本サッカー史研究会」の会合で後藤さんと秋山さんの「直接対決」があったというが、秋山さんの態度がかなり挑発的だった、との噂もある。

 秋山さんがいう「イギリスの研究者」が誰かは分からないが、2019年6月に英国の歴史学者、ラグビー史研究家のトニー・コリンズ(Tony Collins)による『ラグビーの世界史~楕円球をめぐる二百年』が上梓された。

 現時点で未読だが、この著作では海軍兵学寮の「フットボール」を「ラグビー」としているかもしれない。確認できれば当ブログで紹介するかもしれない。

工部大学校の「フットボール」は「サッカー」
 もうひとつ、秋山氏が批判・指摘しているのは、明治初期の海軍兵学寮とはほぼ同時期に「フットボール」が行われていた工部省工学寮(工部大学校)は、昭和初期に刊行された当時の学生の回顧談にハッキリと「アソシエーション式」(サッカー)であることだ。

 これについては、サッカー史研究ブログの「蹴球本日誌」が詳しい。『旧工部大学校史料』(1931年)、『旧工部大学校史料・同附録』(1978年復刻)を参照しながら、次のように説明する。
 古川阪次郎〔OB〕「工部大学に於ける運動其他」には、

 〈…それから上の組の頭が玉木弁太郎君及田辺朔郎君であったと記憶して居るが、玉木君は丈が高い(後には肥ったが)ので、フットボールの時分には、いつでも玉木君がゲートキーパーであった。〉(p.137)

 とあり、GKを置いた「サッカー」だったことがわかります。弱冠20代で琵琶湖疎水を完成させるという偉業をなしとげた田辺朔郎もサッカーをしていたようです。

 門野重九郎〔OB〕「工部大学に於けるスポーツ」には、

 〈四、フートボール

 此のゲームは溜池運動場にて盛なりしが今日のアッソシエーション〔FAルール=サッカー〕の前身とも云ふべく其のルールも至って簡単にして今日の如く前営〔FW〕、中堅〔HBまたはMF〕、後営〔BKまたはDF〕などと確然と定まった陣営も無く唯早く球をゴールに蹴込むに勉めたるものなり。〉(p.142)

 とあり、「サッカー」だったことを〈証言〉しています。

蹴球本日誌「『旧工部大学校史料』におけるサッカー」July 09, 2005


▼旧工部大学校史料~国立国会図書館デジタルコレクション

▼旧工部大学校史料・同附録(青史社)1978|書誌詳細|国立国会図書館
 後藤健生さんは、なぜか工部大学校の「フットボール」にしても、サッカーなのかラグビーなのか曖昧にしている。海軍兵学寮と違って、こちらは「サッカー」であることがほぼ確定しているのだから、堂々とサッカーと書いてもいいのではないかと思う。

 後藤さんは、わざと曖昧にしているのだろうか。

海軍兵学寮=ラグビー説の矛盾
 ブログ「蹴球本日誌」は、サッカーかラグビーかという論争に、別の立場から「参戦」している。「蹴球本日誌」は、秋山陽一さんと同じ史料、沢鑑之丞著『海軍兵学寮』(1942年)などを参照しながら、しかし、海軍兵学寮のフットボールは「サッカー」であるという立場をとる。

 該当するエントリー「秋山陽一『フットボールの憂鬱』を読んで」(2005年7月18日)では、秋山さんの史料の見落としや持説の矛盾点を突いている(引用文は,読みやすいように適宜編集してある)。
 秋山陽一氏の著作「フットボールの憂鬱」@『ラグビー・サバイバー』p.212に〈澤鑑之丞の別の著書「海軍兵学寮」でも、午後に毎日砲術訓練が取り入れられた当初、生徒たちは身体が大いに疲労を感じたが、後には次第に活気を増し愉快に外業を学ぶようになったと述べている。〉とあり、澤(沢)の『海軍兵学寮』(興亜日本社,1942)を読んだことが記されています。

 この本(『海軍兵学寮』)の明治7年〔1874〕の部分に〈また、「フットボール」(蹴球)もイギリス教師より教を受けて、寮内馬場に於て、甲乙両部にわかれ仕合を致しました。〉という一行があり(p.248-250のうちのどこか)、1874年当時の在籍者が〈フットボール(蹴球)〉をしていたとの「証言」があるのですが、不思議なことに(笑)秋山氏はこの部分に言及していません。

 また秋山氏は、「フットボールの憂鬱」で〈日本では、明治から大正時代にかけてア式とラ式といういい方で2つのフットボールを区別してきたが、昭和に入ると、ア式は蹴球を名乗り、一方は単にラグビーとなった。〉(『ラグビー・サバイバー』206頁)とも述べています。1942(昭和17)年に出版された『海軍兵学寮』に〈「フットボール」(蹴球)〉と記されていて、〈「フットボール」(ラグビー)〉でないのは、秋山氏の説に従えば、海軍兵学寮はサッカーをしていたことになってしまいます。これは秋山氏のオウン・ゴール……(笑)。

蹴球本日誌「秋山陽一『フットボールの憂鬱』を読んで」July 18, 2005


▼海軍兵学寮(興亜日本社):1942|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
 読んでいて、当ブログも笑ってしまった。

 秋山さんの「フットボールの憂鬱」は、私も読んだが、何というか、あれを確実にラグビーであるとするには、今ひとつ決定打に書くのではないかという気はした。

もっと活発な議論の応酬を!
 話を戻すと、秋山陽一さんは「イギリス人の特徴としてスポーツ組織を作るときにそこで行われるルールを何にするかを決めずに行動を起こしません.論拠となる資料はあります」と唱える。

 一方、後藤健生さんは「YC&AC〔横浜カントリー・アンド・アスレチック・クラブ,外国人居留地のクラブ,かつての通称「横浜外人クラブ」〕で、アソシエーション式(つまりサッカー)にするか、ラグビー式にするかという議論が行われたのは1880年代になってからのことだ」と唱える(『サッカー歴史物語』143頁)。

 これは重要な指摘だ。何がしかの根拠=資料(史料)がなければならない。

 ここでも、後藤さんと秋山さんの意見の相違は争点になる。野次馬としては、このサッカーvsラグビー論争で、もっと活発な議論の応酬を見たい。そうすることが、むしろお互いをよく知ることになり、お互いのためになる……のではないか。邪馬台国論争や、法隆寺再建論争みたいに、もっと派手にやってほしいのである。

 そのためには後藤健生さんvs秋山陽一さんのセカンドレグを、ぜひとも実現させるべきであろう。

(了)



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デズモンド・モリス『サッカー人間学』の装丁への不満
 佐山一郎氏の『日本サッカー辛航紀』を読んでいると、1983年に邦訳・刊行された、英国の動物行動学者デスモンド・モリスの著作『サッカー人間学 マンウォッチングII』(原題:THE SOCCER TRIBE,岡野俊一郎監修,白井尚之訳)の話が出てくる。

サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02


 モリスには既に『マンウォッチング』という有名な著作があり、まだ日本サッカーが「冬の時代」だった1983年に、あれだけサッカーの浩瀚な著作が刊行できたのは、その続編という位置付けだったからではないかと考えていた。

 佐山氏の『日本サッカー辛航紀』の解するところでは「新種の学術書として受け入れられたようだ」(138頁)とのことである。

 ところで、佐山一郎氏は『サッカー人間学』の装丁(表紙のデザイン)が、ひどく気に入らないようである。
 問題は(『サッカー人間学』の)装丁です。たとえ裏事情があるにせよ、写真カバーに日本リーグ〔Jリーグ以前の旧JSL〕の、三菱重工‐ヤンマーディーゼル戦を持って来るセンスに目まいがしました。

 今でいう浦和対セレッソ大阪戦なのかもしれないけれど、ヤンマーFW堀井美晴のドリブルを赤いゲームシャツの三菱DF斉藤和夫キャプテンが左から止めにかかる図でよいものかと。カバー写真はもっと選びようがあったはずです。〔以下略〕



 ちなみに、当ブログが所有している英語の原書『THE SOCCER TRIBE』の表紙がある(ペーパーバック,マスマーケット版かもしれないが)。あらためて日本語版と比べてみる。

「The Soccer Tribe」cover
【『THE SOCCER TRIBE』表紙】

デズモンド・モリス『サッカー人間学』表紙
【『サッカー人間学』表紙】

 原書の表紙は、イングランドのリバプールFCが欧州チャンピオンズ杯(当時)で優勝した時の写真である。比べてみると、たしかに日本語版は見劣りするかもしれない。

「知の再発見」双書『サッカーの歴史」装丁への不満
 同じような不満なら、当ブログにもある。

 フランスのガリマール出版社の「ガリマール発見叢書」(Decouvertes Gallimard)を、日本の出版社である創元社が翻訳出版権を獲得して、1990年から『「知の再発見」双書』としてシリーズ刊行した。

知の再発見双書_創元社(1)
【「知の再発見」双書(創元社のウェブサイトより)】

 さすが、この双書は知的好奇心をくすぐるテーマが多い。当ブログとしては、紋章学者ミシェル・パストゥロー著『紋章の歴史 ヨーロッパの色とかたち』(原題:Figures de l'heraldique)が面白かった。

 フットボール(サッカー,ラグビー)のデザインと、紋章学のデザインが深く結びついていることについて、ヒントになるところがいろいろあったからである。
 2002年、ワールドカップの年、同双書から『サッカーの歴史』(原題:La balle au pied:Histoire du football)が出た。原著者はフランスのサッカー史家アルフレッド・ヴァール(Alfred Wahl)、日本語版監修は大住良之氏。書店で、この本の背表紙を見た途端「これは買わねば!」と手を伸ばした。が、しかし……。

 ……表紙を見て脱力した。な、なんでやねん……。

サッカーの歴史 (「知の再発見」双書)
アルフレッド ヴァール
創元社
2002-01


 問題は「知の再発見」双書『サッカーの歴史』の装丁です。たとえ裏事情があるにせよ、写真カバーに中田英寿を持って来るセンスに目まいがしました。

 当時、サッカー日本代表のエース格だったのかもしれないけれど、サッカーの世界史的な深遠さも、サッカーの全世界的な熱狂の広がりもまったく感じない、中田英寿みたいなちょっと前に台頭した程度の、それも日本の若手選手でよいものかと。

 カバー写真は、ペレでも、クライフでも、マラドーナでも、ベッカムでも、昔のワールドカップの名場面でも……、もっと選びようがあったはずです。

 ちなみに、アマゾンに〈La balle au pied:Histoire du football〉の書誌情報があった。

 詳しい事情は調べなかったが、「知の再発見」双書は、フランスのガリマール出版社と日本の創元社では表紙の装丁が違うのかもそれない。そうだとしても……。

 ……創元社のウェブサイトに、「知の再発見」双書の各書の表紙を並べた集合写真がある。チンギス・ハン、オスマン帝国、イースター島、シルクロード、アンコール・ワット等々の装丁(表紙デザイン)と比べると、中田英寿が表紙の『サッカーの歴史』(左下)だけは、明らかに違和感があり、フランス書からの邦訳という有難みがなく、かえって安っぽいのである。

知の再発見双書_創元社(2)
【「知の再発見」双書の表紙(創元社のウェブサイトより)】

 で、結局、その本は買いませんでした。

(了)



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