スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:今福龍太

[文中敬称略]

 1970年代から1990年代にかけて、欧州を中心に世界サッカー界で猖獗(しょうけつ)を極めた「フーリガン」。

フーリガンの社会学 (文庫クセジュ)
ドミニック・ボダン
白水社
2005-11-25


 フーリガンに関しては、かつて近代以前の古いフットボール、暴力的な性格もはらんでいたマス・フットボール(群衆のフットボール)の伝統を継承した存在や現象として、いささかロマンチックにとらえる人がいた。
  • 参照:街全体が競技場、英国一クレイジーなフットボール大会(2009年2月26日)https://www.afpbb.com/articles/-/2575865
 例えば、有名な『オフサイドはなぜ反則か』(初版1985年)の著者であり、今なおカリスマ視されるスポーツ学者・教育学者である中村敏雄(1929年-2011年)がそうである。

 中村敏雄がフーリガンへの共感(?)を展開している著作は『メンバーチェンジの思想~ルールはなぜ変わるか』(初版1989年)の方である。

 実は、中村敏雄がこの著作の中で「メンバーチェンジ」というルールの思想や文化背景以上に、そして執拗に拘っていたのは、次のような話である。
 近代以前のスポーツ(例えばマス・フットボール)は競技者と観客の境界が曖昧であった。競技は屋外の〈自然〉な条件のもとで行われ、人々は出入り自由、すなわち競技への参加と離脱が自由であり、そこには両者が喜びや楽しみを共有する共同体の親近感・一体感があった。

 しかし、近代スポーツ(サッカーやラグビーなど)が成立されるに従い、競技は〈人工〉の競技場で行われるようになり、競技者と観客が明確に分断されるようになった。共同体は後退し、両者の間にあった親近感・一体感は希薄になってしまった。

中村敏雄「〈ライン〉の周辺」@『メンバーチェンジの思想』より要約
 中村敏雄のスポーツ評論は現代思想的な「近代文明批判」に通じる要素があり(例えば,近代スポーツで勝敗を争うこと,あるいは勝利を求めることを相対化するかのような発言をする)、それだけ論壇などのウケも良かったようなところがある。

 その上で、この評論文の最後の部分になって著者が1985年のフーリガンの絡んだ大惨事「ヘイゼルの悲劇」に言及した箇所が登場する。
 1985年5月、ベルギーのエーゼル〔ヘイゼル〕競技場で行われたサッカーのヨーロッパ・カップ〔UEFAチャンピオンズカップ〕の試合〔決勝〕で、〔イングランドのリヴァプールとイタリアのユヴェントスの〕応援団の対立から死者39名、負傷者425名を出すという惨事〔ヘイゼルの悲劇〕があった。

 ロンドン高裁はイギリス〔イングランド〕側の応援団の26名に対して執行猶予の判決を下したが、ベルギーの司法当局は彼らの出頭を命じ、ローマの検察局は殺人と傷害の罪で逮捕状を出している(朝日新聞,1986年4月17日)。

 この事件は「暴動」とも呼ばれているが、しかしそれはまた、観衆とプレーヤーの親近感・一体感の共有・共感を分断するという抑圧に対する、十分には「文明化」されていない観衆の反乱、またスポーツで進行している「人工性・人為性」に対する人間的「自然」の名状しがたい、あるいはそれとは自覚されていない報復と見ることもできなくはない。

 換言すれば、現代のコロシアムのなかでプレーする剣闘士たちに、人間への復帰を呼びかける行為であったかもしれないと見ることもできる。

中村敏雄「〈ライン〉の周辺」@『メンバーチェンジの思想』111~112頁
 えーーーーーーーーーーッ!? ……と、まず、一読してこのフーリガン理解には驚愕し、そして、しばし唖然とした(何だか今福龍太が書きそうな内容だなぁ~とも思ったが)。

 「……と見ることもできなくはない」とか、「……であったかもしれないと見ることもできる」とか、あくまで断定を避けた遠回しな表現ではある。

 ……だが、中村敏雄は、近代以前の古いフットボール(マス・フットボール)の競技者と観客の境界さの曖昧さ、観客の競技への参加の自由……を理由に、その歴史や伝統を引きずっているものとして、ある意味でフーリガンを称揚している。

 しかし、このフーリガンへのロマンチックな思い入れは、2024年時点の常識では、これは十分に「不謹慎」なものである。

 サッカーの本場であるヨーロッパは、中村敏雄のフーリガン観を受け入れないだろう。

 フーリガンの実態を、また「ヘイゼルの悲劇」の実態を知れば知るほど、それは「人間(人間性)への復帰」ではなく「人間(人間性)の否定」でしかないからだ。

 観客の競技への参加の自由……というけれども、フーリガンの中には暴れることそれ自体が目的であって、試合の観戦はどうでもいいという層すら存在する。

 こうした連中はサッカーファンではない。フーリガンはサッカー文化の一部(の継承)ではなく、サッカー文化から完全に逸脱してしまっているのである。

 『メンバーチェンジの思想』の初版は1989年である。まだ、Jリーグのスタート(1993年)以前のことであり、世界のサッカーに関する十分な情報が日本では行き渡らなかった。その分、中村敏雄のようなフーリガンへの奇妙でロマンチックな思い入れが存在しえた。

 しかし、さすがに現在では許されなくなっている。





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 細川周平著『サッカー狂い~時間・球体・ゴール』(1989年初版)。絶賛的なレビューがあちらこちらで目立つが、当ブログは以前からこの本にどうしても納得いかない点があり、Amazonにかなり否定的なレビューを書いた。

 それはいちど採用され、しばらくの間、掲載されていた。その内容は、当ブログで公開した者とだいたい同じである。
  • 参照:そんなに名著か? あのサッカー本(2)細川周平『サッカー狂い』(2022年12月03日)https://gazinsai.blog.jp/archives/47935544.html
 ところが、それはいつの間にか、何の通知もなく削除されていた。

 そこで先日、表現を変えて少しマイルドにして(?)再投稿を試みた。以下は、その文章である。

 *・゜゚・*:.。..。.:*・゜

サッカー本の歴史的名著とまで言われる『サッカー狂い』のもうひとつの顔
 細川周平著『サッカー狂い』の初版は1989年(写真参照)。ドゥルーズ=ガタリをはじめとした晦渋なフランス現代思想を引用・援用しつつ、「サッカーそのもの」の美やサッカーへの愛を語った歴史的「名著」としてきわめて高い評価を得てきた。

細川周平『サッカー狂い』初版表紙(1989)
細川周平著『サッカー狂い』初版表紙(1989年)

 これが『サッカー狂い』の【表の顔】である。しかし、この本には【裏の顔】がある。それは……。

 ……フランス現代思想のような思想に没入し、特定の対象(サッカーなど)に耽溺するようになると、その対象の外にあるものは強迫的に憎むようになる。著者が考える「サッカーならざるもの」を徹底的に悪罵するのだ。

 例えば、野球、ラグビー、アメリカンフットボール(著者は蔑称のように「アメラグ」=アメリカンラグビーの略=と呼ぶ)といった他の球技スポーツへの誹謗である。

 また、著者が考える「サッカーならざるもの」への憎しみは、同じサッカーの中にも及ぶ。ドイツのサッカーを勝利至上主義の権化、あるいは「愚鈍なサッカー」として執拗に中傷し出したのも『サッカー狂い』からの風潮である。

 さらに、著者の憎しみの矛先は、Jリーグ以前のまだ「冬の時代」(1970年代初めから1990年代初めの約20年間)だった日本サッカーにも及ぶ。

 とにかく、折に触れては日本のサッカーを執拗なまでに貶し、卑下する。著者曰く「サッカーを愛すれば愛するほど,ぼくは日本から遠ざかっていく気がする.サッカーはもしかすると反日本的な競技なのかもしれない」。

 まるで、そのように断定することが、自身のサッカー観の確かさやサッカーへの批評精神を誇示することであるかのように……である。

 これらはいずれも読むに堪えない。

 この本には、日本のサッカーファンの良くないところも表出しているのである。

 『サッカー狂い』を賛美するサッカーファンは、しかし「この本は知的に高尚で深遠であるはず」「自分は頭が悪いとは思われたくない」と自らを強迫しているので、こうした点に触れたがらない。

 その上で、この本を一面的に肯定してきた。

 実際には『サッカー狂い』という本には【表の顔】【裏の顔】があり、そこを心得て読まないと、真面目なサッカーファンや読者は面食らうだろう。

 *・゜゚・*:.。..。.:*・゜

[PC版は【続きを読む】に進む]




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[文中敬称略]

漫画と日本スポーツ
 日本のスポーツ文化の面白いところは、サブカルチャーでありフィクションであるところの漫画のヒット作品が、虚実の境を越えて現実のスポーツの在り様に影響を与えたところにある。

 すなわち、高橋陽一のサッカー漫画『キャプテン翼』であり、井上雄彦のバスケットボール漫画『SLUM DUNK』である。

 サッカーもバスケットボールも、元来、日本では人気が無く国際的な実力も弱小だっが、『キャプテン翼』や『SLUM DUNK』といった漫画のヒットの影響で大きく変わった。

 プロリーグ(Jリーグ,Bリーグ)が出来て人気スポーツになり、日本人選手は海外の一流リーグでプレーするようになり、日本代表の実力も大いに向上したのである。

高橋陽一,そして細川周平
 その高橋陽一『キャプテン翼』の連載が、原作者の体力の衰えなどを理由に終了するというニュースが入ってきた。
  • 参照:朝日新聞「『キャプテン翼』漫画連載終了へ~物語はネームなどで制作継続」(2024年1月5日)https://www.asahi.com/articles/ASRDX3STCRDWUCVL03L.html
 今後はネーム(絵コンテのような下書き)のような形で物語の制作を続けていくという。

 高橋陽一の名前を聞くと、なぜか個人的に思いだすのは、『サッカー狂い』(1989年初版)の著者・細川周平(音楽学者,フランス現代思想家,日系ブラジル史研究ほか)のことである。なぜなら……。


  • 参照:細川周平(国際日本文化研究センター=日文研=名誉教授)https://www.nichibun.ac.jp/ja/research/staff/s006/
 『サッカー狂い』は、ドゥルーズ=ガタリをはじめとした晦渋なフランス現代思想を引用・援用しつつ、「サッカーそのもの」の美やサッカーへの愛を語った「名著」として過剰なまでに高く評価されてきた。

 だから、今でもカリスマ本扱いされている。これが『サッカー狂い』の「表の顔」である。

 ……話を戻して、なぜなら、『サッカー狂い』では『キャプテン翼』のことを、凡百なサッカー漫画と並べて「熱血漫画,スポ根,紋切り型」として一面的に否定していたからである。

『サッカー狂い』の「裏の顔」と深層
 しかし、はたして、そもそも『キャプテン翼』は熱血漫画やスポ根として受容され、評価されてきたのか? 否、である。

 むしろ『キャプテン翼』は、同じスポーツ漫画でも、努力や根性、重圧、暑苦しさ……といった要素から離れたところで読者を獲得し、評価されてきたはずなのだ。

 細川周平のサッカー漫画観は、単なる好き嫌いの問題ではない。これから説明するのは『サッカー狂い』の「裏の顔」である。

 フランス現代思想のような観念に没入し、特定の対象(サッカーなど)を耽溺するようになると、その対象の外にあるものは強迫的に嫌悪するようになる。

 『サッカー狂い』も同様。例えば、野球、ラグビー、アメリカンフットボール(細川周平は蔑称のように「アメラグ」=アメリカンラグビーの略=と呼ぶ)といった他の球技スポーツへの悪罵である。

 あるいは、細川周平が考える「サッカーならざるもの」への憎しみは、同じサッカーの中にも及ぶ。ドイツのサッカーを勝利至上主義の権化「愚鈍なサッカー」として執拗に嫌悪し出したのも『サッカー狂い』である(今福龍太も同様である)。

細川周平『サッカー狂い』初版表紙(1989)
細川周平『サッカー狂い』初版(1989年)表紙

 さらに、細川周平の嫌悪の矛先は、まだ「冬の時代」(1970年代初め~1990年代初めの約20年間)だった日本サッカーにも及ぶ。

 とにかく折に触れては日本のサッカーを執拗なまでに貶し、卑下する。曰く「サッカーを愛すれば愛するほど,ぼく〔細川周平〕は日本から遠ざかっていく気がする.サッカーはもしかすると反日本的な競技なのかもしれない」……などとスマして語る。

 これにはウンザリさせられる。こういう話を『サッカー狂い』を称揚するサッカーファンはしたがらないが、細川周平は「日本サッカー冬の時代」にあって、日本のサッカーに絶望して「自虐的日本サッカー観」に取り憑(つ)かれていたのだ。

 この人が『キャプテン翼』を酷評したのは、こうした自身の日本サッカーへの嫌悪あるいは「自虐的日本サッカー観」の発露なのである。

サッカーへの沈黙の意味と理由は?
 細川周平は、1990年代初めまではサッカーに関する発言をしていた。例えば、次のリンク先では、1990年イタリアW杯でベスト8まで躍進し、大いに話題になったアフリカのカメルーン代表のサッカーを賛美している。
  • 参照:Sports Graphic Number Special Issue September 1990 ITALIA'90 QUESTO E IL CALCIO! イタリア・ワールドカップの21人(1990年9月11日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/398
 自由奔放なイメージのアフリカのサッカーを讃える辺り、いかにも細川周平らしい(ここでもドイツのサッカーを貶していたが)。

 しかし、その後はサッカーへの言及をほとんどしなくなった。その理由は?

 1998年、『季刊サッカー批評』創刊号で、田村修一(ひっとしたらこの人もフランス現代思想家になっていたのかもしれない)が『サッカー狂い』の絶賛書評を書いた。その中で細川周平が長らくサッカーに関して沈黙していることを、さも意味ありげに書いている。

 ……話を戻して、その理由、何のことは無い。細川周平が『サッカー狂い』であれだけ強迫的に否定した、隆盛することはあり得ないと断じていた日本のサッカーが、本の刊行から3年後にして勃興したからである。

 すなわち、1992年のサッカー日本代表(オフト・ジャパン)のアジアカップ初制覇、1993年のJリーグの開始、1997年のジョホールバルの歓喜、1998年のW杯本大会(フランス大会)初出場……と続く。昨今の森保ジャパンの活躍に関しては言うまでもない。

 細川周平はバツが悪くなったのである。

 2023年、高橋陽一は、日本サッカーの興隆に大いに貢献したとして、日本サッカー殿堂への掲額が決まった。

 実際に日本(や世界)のサッカーに大きな影響を与えたのは、『キャプテン翼』の方だった。正しかったのは細川周平ではなく高橋陽一の方だった。

 細川周平は、ここ30年余りの日本サッカーの成長を素直に認めて何かコメントするべきだ。個人的にそれを知りたい。





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 100周年を迎える日本ラグビー伝統の一戦「早明戦」(早稲田大学vs明治大学)の前夜にしたためる。
  • 参照:村上晃一「100周年を迎えたラグビー早明戦~ライバル対決の行方は?」(2023年12月1日)https://news.jsports.co.jp/rugby/article/20190310226229/
 2003年のラグビーワールドカップ(オーストラリアで開催)、優勝したのはイングランドだった。ちなみにイングランドがスポーツの主要な世界大会で優勝したのは、1966年のFIFAワールドカップ(サッカーW杯)以来とのこと。国中が沸いたそうだ。
  • 参照:時事通信「特集ラグビーW杯プレーバック~2003年決勝ENG-AUS」https://www.jiji.com/jc/v2?id=20110808rugbywc_playback_07
 このラグビーワールドカップ、準決勝か決勝の試合の前の記者会見で、記者のひとりから「イングランドのラグビーは面白くないですね」と批判的な質問が出た時、イングランド代表監督のクライブ・ウッドワードが「もっと面白くないラグビー見せようか?」と答えたのだという。いや、素晴らしい。

 イングランドは、「閃(ひらめ)きのラグビー」(Flair Rugby)と呼ばれた、芸術的なラグビー、美しいラグビー、スペクタクルなラグビーをやった、ある時期のウェールズやフランスと違って、「面白くないラグビー」をする国だという世上の定評がある。

 1991年のラグビーワールドカップ(英国,アイルランド,フランスで開催)では、その「面白くないラグビー」(テンマン・ラグビー=Ten-man Rugby)で勝ち上がり、決勝まで進出した。

 当地のスポーツマスコミは、イングランドの「面白くないラグビー」を執拗に批判した。<1>

 決勝戦、ワラビーズ(オーストラリア代表)との試合に臨んだイングランド代表は、マスコミの批判に応えてか、それまでの「面白くないラグビー」とは打って変わって、スペクタクルな「展開ラグビー」に豹変。一部で肯定的な評価はされたが、結果はワラビーズに一蹴された。
  • 参照:時事通信「特集ラグビーW杯プレーバック~1991年決勝AUS-ENG」https://www.jiji.com/jc/v2?id=20110808rugbywc_playback_12
 慣れないことは、やるもんじゃない。

 そんな伏線もあってのクライブ・ウッドワードの「もっと面白くないラグビー見せようか?」発言である。いや、素晴らしい。なぜなら……。

 日本のスポーツ評論では、スポーツにおいて勝ち負けを争うこと、勝利を求めること、それ自体を過剰なまでに卑しめ、プレーに垣間見える「美しさ」(面白さ……をさらに尖らせた概念)を専ら称揚する現代思想系のスポーツ評論を、過剰なまでに評価してきたからである。

 例をあげれば、野球では蓮實重彦(草野進)やセクハラオヤジこと渡部直己、サッカーでは今福龍太や細川周平……と言った人たちが、その担い手である。

 さらにそれを一般向けに煽ったのは、私は日本で初めて「スポーツライター」を名乗ったと嘯(うそぶ)きながら、実はその肩書には屈託があり、現代思想方面にコンプレックスを抱えた玉木正之である。
  • 参照:玉木正之「草野進のプロ野球批評は何故に〈革命的〉なのか?」(2004-02-02)http://www.tamakimasayuki.com/sport_bn_6.htm
 それを嘲笑うかのようなクライブ・ウッドワードの発言なのである。いや、素晴らしい。

 現代思想系のスポーツ評論というのは、あくまで狭い内輪の世界の「お作法」でしかない。実はスポーツ評論ではなく、いわばスポーツの文芸批評であり、あるいはスポーツ(野球やサッカーなど)を種にした現代思想の展開にすぎない。

 それを、玉木正之(や武田徹といった人たち)は称揚してきたのだ。

 スポーツにおける「美しさ」はその「面白さ」の一部ではあるが、全ての「面白さ」ではない。また、他の要素を差し置いて「面白さ」の前面に立たせる至上の価値でもない。

 スポーツにおける「面白さ」の一部に過ぎない「美しさ」のみに固執することは、かえってスポーツ観を狂わせ、かえって貧しくする。

 勝つか負けるかは、どうしたってスポーツの醍醐味なのである。

 そのことを思い出させてくれた、クライブ・ウッドワードのウィットとユーモアであった。





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このとき虎は美しくなかった?
 2023年のプロ野球、阪神タイガースは実に堂々たる勝ちっぷりで18年ぶりのセントラルリーグ優勝を成し遂げた。

 ところが、この快挙に狭い料簡からケチをつけているのが玉木正之(スポーツライター,スポーツ文化評論家)である。
  • 参照:日刊ゲンダイDIGITAL「スポーツ文化評論家・玉木正之氏が憂う〈勝利至上主義〉~ただの強いだけの阪神なんてオモロない」(2023/10/02)https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/329789
 まず、玉木正之が駄目だと言っているのは、1985年優勝時の阪神タイガースの勝ち方と比べてである。
 今年みたいな勝ち方じゃあ、熱狂できません。タイガースは巨人のような、ただ勝ちゃええチームと違う。「勝ち方」が問題。それこそがタイガースの値打ちです。

 忘れられない試合が、その年の5月20日の巨人戦です。巨人が二回から六回まで、きれいに1点ずつ取って0-5で迎えたタイガースの七回の攻撃。佐野の満塁ホームランで1点差に迫ると、真弓の2ランが飛び出し、1イニングに一挙6点を奪って大逆転!

 まさに何が起こるか分からない。85年の優勝はただ勝つだけじゃなく、豪快ハチャメチャな勝ち方で熱狂を巻き起こした。

 メディアも「個性派時代の幕開け」と浮かれたけど〔西武ライオンズの「管理野球」に代表される〕管理強化に向かう社会の大きな趨勢に個は逆らえません。しょせん、時代のあだ花。一発の大花火だったからこそ、あの時の虎は美しかったのです。

玉木正之「スポーツ文化評論家・玉木正之氏が憂う〈勝利至上主義〉~ただの強いだけの阪神なんてオモロない」より
 玉木正之はこんな批判を言っているが、阪神タイガースは「豪快ハチャメチャ」で「美し」い勝ち方ばかりしてきたワケではない。

 1962年と1964年のセ・リーグ優勝は、打線の弱さを投手力(小山正明と村山実,または村山実とジーン・バッキー)でカバーして達成したものだった。

 1985年の優勝にしても、今度は「バックスクリーン3連発」に代表される強力打線ばかりが注目されるが、一方で投手力の弱さを継投継投また継投でしのぎ切って勝利を手繰り寄せた試合がかなりあった。

 後者については、NHKがNHK特集(NHKスペシャルの前身)で「エースなき優勝~阪神21年目の栄冠」(出演:野村克也ほか)という番組を制作、放送したほどである。
  • 参照:NHK特集「エースなき優勝~阪神21年目の栄冠」(1985年)https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009040223_00000
 つまり、1985年の阪神タイガースの優勝は「勝敗にこだわらない結果の美しい勝利…….」(玉木正之『タイガースへの鎮魂歌(レクイエム)』プロローグ)だったのではなく、人一倍勝利にこだわった末の栄冠でもあったのである。

 玉木正之は、阪神タイガースの優勝を、その一面でしか見ていない。

阪神タイガースに対する「勝利至上主義」批判とその淵源
 さらに玉木正之は、2023年の阪神タイガースを「勝利至上主義」だとして否定する。
 だから、今年のタイガースらしくない勝ち方では熱狂は望むべくもない。一番腹が立つのは、七回までパーフェクトを続けていた村上頌樹〔むらかみ・しょうき〕投手を、あとアウト6つで岡田監督が降板させたことです。

 ファンも怒らないかん。

 アホくささの極みやね。虎ファンまで勝ちゃええ野球を尊ぶなんて。勝ち負けを超越した面白さを理解できないのは野球の見方が枯れている証拠。勝たなければ誰も評価しない。

 WBCの侍ジャパンも優勝したから騒がれた。準決勝で村上の逆転打が出なかったら、あんな打てないやつをなぜ代えない、どうしてバントさせないんだと栗山監督への非難が渦巻いたはずです。

 采配批判は勝利至上主義の上に成り立つ。采配なんて気にせず、選手が自分の考えで勝手に動けばいいんです。

 とにかく、勝ちゃええ風潮は間違っています。慶応高校のエンジョイベースボールも優勝したから注目されたけど、勝たんでも評価すべき。世の中には勝つことよりも大事なものがある。それを実感できるのがスポーツ本来の醍醐味です。

玉木正之「スポーツ文化評論家・玉木正之氏が憂う〈勝利至上主義〉~ただの強いだけの阪神なんてオモロない」より
 玉木正之は「勝利至上主義」という言葉を用い、例えば、阪神タイガースの、途中まで完全試合をしていた村上頌樹投手を岡田彰布監督が「チームの勝利のため」に降板させてしまったことに立腹している。

 しかし、注意深く読んでいると、玉木正之が言う「勝利至上主義」とは「試合に勝つためには時にアンフェアになっても手段を選ばない」といった程度の軽い意味ではない。

 もっと極端に、野球やサッカーなどのスポーツにおいて「勝ち負けを争うこと,勝利を求めること」それ自体を反スポーツ的な「勝利至上主義」だとして批判している(!)のである。

 先の発言中の「勝ち負けを超越した面白さ」だとか「世の中には勝つことよりも大事なものがある」だとか「あの時の虎は美しかった」だとかいった文言が、それを表している。

 こうした玉木正之のスポーツ観に深い影響を与えたのは、1980年代に一世を風靡した蓮實重彦(時に「草野進」名義を用いる.フランス文学者,フランス現代思想家,文芸評論家,東京大学総長ほか)の現代思想的「プロ野球批評」である。

 その「プロ野球批評」には、独特の流儀があり、「勝利至上主義」に埋没した従来のプロ野球とスポーツ報道の在り方を、流麗かつ、しかし晦渋な文体で否定。翻って、野球における「乱闘」や「爽快な失策」「豪快な三振」といった出来事の勃発を積極的に肯定し、それらに「美」を見出し、称揚した……というものである。


世紀末のプロ野球 (角川文庫)
草野 進
角川書店
1986-08T


 玉木正之は「私は日本で初めて〈スポーツライター〉を名乗った」と豪語する割には、実はスポーツという分野にはあまり自信が持てず、文学・思想方面に強いコンプレックスがある。だから、たやすく蓮實重彦=草野進に洗脳されてしまった。
  • 参照:玉木正之「草野進のプロ野球批評は何故に〈革命的〉なのか?」(2004-02-02)http://www.tamakimasayuki.com/sport_bn_6.htm
 そんな玉木正之にとって、阪神タイガースがいわゆる「ダメ虎」と言われる情況は「勝利至上主義」批判という立場からは、ある意味で好ましいものだった。

 むしろ、勝ってしまうとかえって悪態をつきたくなる。それが今回の日刊ゲンダイのインタビュー記事でなのである。

どうしたって,勝つか負けるかはスポーツの醍醐味である
 ところが蓮實重彦らが依ってきた現代思想(フランス現代思想)というものは、いたずらに衒学的で晦渋なだけで、世の中の実際の在り様に真摯に対応していない「絵空事」ではないか……と、しばしば批判されてきた代物でもある。

ミシェル・フーコー
ミシェル・フーコー(写真と本文は関係ありません)

 そして、蓮實重彦のような、この種のフランス現代思想やそれに触発された文芸批評に乗じた「スポーツ批評」というのは、あくまで狭い内輪の世界の「お作法」でしかない。スポーツ評論ではなく、いわばスポーツの文芸批評であり、あるいはスポーツ(野球やサッカーなど)を種にしたフランス現代思想の展開にすぎない。

 その辺の事情がよく分かっている藤島大(スポーツライター,ラグビー解説者ほか)は、スポーツ評論における玉木正之や蓮實重彦らの「勝利至上主義」批判の胡散臭さを見抜き、揶揄し、批判している。
 よく「勝敗ばかり追うスポーツ・メディアは下等だ」式の批判が、「スポーツライター」を名乗る者〔玉木正之〕からも展開される。

 あれは嘘である。1980年代、他分野の一級批評家〔蓮實重彦=草野進〕が余技に遊んだ「ゲームそのものの美こそが絶対」の視点を、ナイーブにも真に受けた。

 スポーツ・メディアが下等なのは、勝敗ばかりを追うせいでなく、追い方が拙いからだ。「ばかり」の限度はともかく、勝つか負けるかは、どうしたってスポーツの醍醐味なのである。<1>

藤島大『スポーツ発熱地図』141~142頁

スポーツ発熱地図
藤島 大
ポプラ社
2005-01T


 勢古浩爾(評論家,エッセイスト)も、蓮實重彦らの現代思想的「スポーツ批評」を批判している。
 けっこうである。たしかに人生は勝負ではない。だがスポーツは一から十まで勝負である。美しくない勝利というものはあるが、それを是とするのがスポーツである。そんな時に「美しさ」のみを顕彰するのは、オレたちだけが本質的だというイヤミでしかない。


思想なんかいらない生活 (ちくま新書)
勢古 浩爾
筑摩書房
2004-06-08


 スポーツにおける「美しさ」はその「面白さ」の一部ではあるが、全ての「面白さ」ではない。また、他の要素を差し置いて「面白さ」の前面に立たせる至上の価値でもない。

 まぁ、蓮實重彦や、彼の衣鉢をサッカーで継いだ今福龍太(文化人類学者,批評家)のような浮世離れした生業の人が、スポーツにおける「勝利至上主義」批判に耽溺している分にはまだいい。しかし、スポーツライター・スポーツ文化評論家を名乗る玉木正之が「勝利至上主義」批判を展開することは実害がある。

日本ラグビーを駄目にした「勝利至上主義」批判
 例えば、日本でミスターラグビーと呼ばれた平尾誠二(故人,伏見工業高校―同志社大学―神戸製鋼)は「ラグビーは遊びだ,ラグビーを楽しむ」と公言する人だった。

NHK「全国大学ラグビー選手権」名勝負
同志社大学時代の平尾誠二

 これは玉木正之の説く「勝利至上主義」批判にも叶ったことである。

 玉木正之と平尾誠二、同じスポーツ思想の持ち主同士、同じ京都人同士で意気投合。取材者と被取材者の関係を超えた親交を重ねた。

 「勝利至上主義」に埋没した日本のスポーツの現状にあって、平尾誠二は(掃き溜めの鶴のように)素晴らしいラグビー文化、スポーツ文化を開花させたのである……と玉木正之は賛美したのだった。

 しかし……。玉木正之に煽られてしまったのか「世界的には弱小な日本ラグビー,特にジャパン(ラグビー日本代表)が海外の強豪国にいかにして勝つか?」という重要なテーマ=「勝利を求めること」(勝利至上主義)を平尾誠二は忘れてしまったらしい。

 だからこそ、平尾誠二は日本ラグビーを奈落の底に導いてしまったのである。日本代表が大惨敗した1995年の第3回ラグビーワールドカップ、ジャパンの選手兼「事実上の監督」として参加した平尾誠二の「責任」は免れない

 この大会、ニュージーランド(オールブラックス)戦におけるジャパンの失点が145(!)。国際試合でも100失点というのはたまにあるが、前後半80分の間にさらに45失点を重ねるのは史上空前にして絶後の世界的な恥辱。この試合は、開催都市の名を冠して「ブルームフォンテーンの悪夢」と俗称される。

ブルームフォンテーンの悪夢(RWC1995 日本vsニュージーランド)
ブルームフォンテーンの悪夢(RWC1995 日本vsニュージーランド)

 この時の経緯、特に平尾誠二の行状や「責任」については1995年刊『ラグビー黒書』に詳しい。

ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12T


 「ブルームフォンテーンの悪夢」は、平尾誠二が「勝利至上主義」(勝利を求めること)を忘れたために招いた大惨事である。その後、日本ラグビーは20年にわたって低迷してしまう。

 ところが、同じ1995年に出た玉木正之著『平尾誠二 八年の闘い』には、ラグビーワールドカップでのジャパン大惨敗からまだ半年足らず、日本ラグビー界が茫然自失としていた時期にもかかわらず、その深刻な問題には全く触れていない。

 なおかつ(ワールドカップ大惨敗の「責任」者である)平尾誠二をただただ礼賛している。まともなラグビーファン、スポーツファンならば唖然とさせられる内容である。

 玉木正之氏は現代思想的な「勝利至上主義」批判のスポーツ観にかぶれすぎて、日本代表がどんな惨めな敗北を喫しても何の痛痒も感じない鈍感な人物になってしまった。

 玉木正之は「勝ちゃええ風潮は間違っています」と言う。なるほど「勝利至上主義」にはスポーツを駄目にする要素があるのかもしれない。しかし「勝利至上主義」を全否定してもスポーツは駄目になるのである。日本ラグビーを駄目にしたのは「勝利至上主義」(勝利を求めること)の放棄である。

 そんなワケもあって、玉木正之は、永田洋光、美土路昭一、秋山陽一、藤島大、中尾亘孝……など、特にラグビー界隈からは嫌われている。

 先の引用文のように、藤島大が蓮實重彦(草野進)と玉木正之を当て擦るようなことを書いたのは、以上のような理由による。

阪神タイガースファンは2023年の優勝を誇っていい
 今回、1988年初版の『タイガースへの鎮魂歌(レクイエム)』をパラパラと読み直してみたが、玉木正之の「勝利至上主義」批判的な阪神タイガース観は、2023年までこの35年間、全くアップデートされていない。これまた唖然とする話である。

 スポーツにおいて「勝ち負けを超越した面白さ」だとか、「世の中には勝つことよりも大事なものがある」だとかは、実は「勝利を求めること」(勝利至上主義)によってしか得られないという逆説を、ついに玉木正之は理解していない。

 スポーツ評論における「勝利至上主義」批判などというものは、文学青年の戯言にすぎない。玉木正之は、蓮實重彦にかぶれた永遠の大学一年生なのである。

 こんな玉木正之に話を聞きに行く日刊ゲンダイも時代錯誤だ。

 プロ野球の在り方も変わった。1980年代、玉木正之らが批判の対象にした西武ライオンズの「管理野球」も、広岡達朗が推奨していた玄米(食べにくいと言われる)を常食とするかどうかは別にして、あの程度の「管理」は今のスポーツ界では常識になっている。

 阪神タイガースのファンは、玉木正之のような外野の声に惑わされることなく、心置きなく2023年のセントラルリーグの優勝を誇っていいのである。

 日本シリーズも楽しんでください。





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