スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:井上章一

『スポーツとは何か』はトンデモ本である
 玉木正之氏(スポーツライター)の主著であり、九州大学附属図書館が選定した「九大100冊」にまで選ばれた『スポーツとは何か』(1999年)。

スポ-ツとは何か (講談社現代新書)
玉木 正之
講談社
1999-08-20

  • 参照:九州大学附属図書館「九大100冊: no.81 - no.100」(2009年7月)https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/qu100/qu100_5
 しかし、この本は「トンデモ本」であり、日本のスポーツ界・日本のスポーツ文化を大きく惑わす一冊である。なぜか……。

「野球(またはアメリカンスポーツ)=演劇文化代替物」説
 玉木正之氏のスポーツ史論・スポーツ文化論にはいくつかの定番ネタ(珍説)があるが、そのひとつに「野球(またはアメリカンスポーツ)=演劇文化代替物」説、あるいは「野球(またはアメリカンスポーツ)=中断のスポーツ」説ともいうべきものがある。

 それはどういうものか? まず、この珍説のオリジナルは虫明亜呂無(作家,評論家ほか,故人)の「芝生の上のレモン~サッカーについて」(『時さえ忘れて~虫明亜呂無の本3』所収,初出『スポーツへの誘惑~現代人にとってスポーツとは何か』1965年)である。
 アメリカ〔合衆国〕ではサッカーも、ラグビーもさかんではない。

 さかんなのは、アメリカン・フットボール、野球、そしてゴルフ。

 いずれもゲームの合間合間に時間を必要とするスポーツである。合間はスポーツをスポーツとしてたのしませるよりも、むしろ、ドラマとしてたのしませる傾向に人を持ってゆく。合間の、間のとりかたに、選手はいろんなことを考える。彼の日常の倫理がすべて投入される。間をいれることで、ゲームはクライマックスにちかづいていく。観客はそれをたのしむ。実際、無造作にポン、ポン、ポンと投手が投げて、打者がバッティング・マシンのように、そのボールを打ちかえしていたのでは、およそ、つまらない野球になってしまうであろう。

 反面、間の取りかたに、不必要な思いいれが入ってくる余地をのこしている。プロのように、見せることが第一条件のスポーツでは、その傾向が特に強調される。スポーツとしての要素よりも、芝居としての要素がどうしても強く要望されるわけである。

 野球やアメリカン・フットボールは芝居の伝統のない国〔アメリカ合衆国〕が作った。土や芝生のうえの、脚本も背景も、ストーリーも必要としない単純な芝居ではないだろうか。演劇の文化的基盤のない国〔アメリカ合衆国〕、それがプロ野球を楽しむ。スポーツとしてではなく、ドラマとしての野球を。それも素人の三流芝居を。

 日本のプロ野球も、この傾向を追っている。〔以下略〕

虫明亜呂無「芝生の上のレモン」@『時さえ忘れて』162~163頁


時さえ忘れて (虫明亜呂無の本 3)
虫明 亜呂無
筑摩書房
1991-06-01


 玉木正之氏は、この珍説を無批判に踏襲し、さまざまな著作や大学・大学院の講義、テレビやネット動画の番組などで吹聴している。虫明亜呂無氏を深く崇拝し、学問的・実証的な思考ができない玉木正之氏にとって、彼の言葉は「科学的真実」なのである。

 しかし、『つくられた桂離宮神話』『法隆寺への精神史』などの著作があり、NPB・阪神タイガースのファンとしても有名な井上章一氏(建築史,風俗史,国際日本文化研究センター所長)も、著書『阪神タイガースの正体』の中で「虫明亜呂無の説はあまりにも文学的すぎて(学問的ではなく)社会史などの資料(史料)として扱うことは危うい」と警鐘を鳴らしている。

阪神タイガースの正体
井上 章一
太田出版
2001-03-01


 つまり、虫明亜呂無氏の「野球(またはアメリカンスポーツ)=演劇文化代替物」説は、そもそも与太話であり、学問的・実証的な裏付けの無い珍説にすぎない(これは改めて後述する)。

 しかし、玉木正之氏は進撃を止めない。

ドラマと「間」とアメリカンスポーツ
 アメリカンフットボールやバスケットボールでは、ルール上、タイムアウトやハドルといった作戦会議の時間を取ることが認められており、プレーが絶えず動き続けるサッカーやラグビーのような英国生まれヨーロッパ育ちのスポーツとは違って、プレーの中断、インターバル、言い換えれば「間」(ま)が非常に多い。

 また野球(ベースボール)では、ピッチャーが投げる投球ごとの「間」、バッターから次のバッターへの「間」、イニングとイニングの「間」、選手交代の「間」、作戦タイムの「間」などがある。NPB日本シリーズやMLBワールドシリーズ、早慶戦などの大学野球ともなると、試合と試合との「間」というものまである。

 こうしたアメリカとヨーロッパのスポーツ文化の違いを、玉木正之氏は『スポーツとは何か』の中で、虫明亜呂無氏の「芝生の上のレモン」を援用しつつ、次のように述べる。
 これほど「間」が多いのは、アメリカが〈演劇の文化的基盤のない国〉だったから、という指摘がある。開拓時代は原住民との闘い等で劇場を造る余裕がなく、演劇が発達しなかった。演劇を楽しめなかった分、その役割を広場でプレイされるボールゲームに求めた。観客は、プレイがとぎれる「間」のうちに、プレイヤーが何を考えているのか、次は何をしようとしているのか、といったことを想像し、頭の中でドラマを楽しんだ。

 一方ヨーロッパでは、シェークスピアやモリエール以来の演劇、モーツァルトやロッシーニ以来のオペラが、大衆に楽しまれていた。そこでドラマは演劇やオペラにまかせ、スポーツでは「間」がなく、終始動きつづけるプレイ〔サッカーやラグビー〕が好まれるようになった。

玉木正之「〈間〉でドラマを楽しむ」@『スポーツとは何か』34頁
 引用文中の「開拓時代は原住民との闘い等で劇場を造る余裕がなく、演劇が発達しなかった」云々のくだりは、虫明亜呂無氏のオリジナル説には無く、玉木正之氏によるさらなる付け足し(創作)である。また「一方ヨーロッパでは、シェークスピアやモリエール以来の……」云々のくだりも、玉木正之氏の付け足し(創作)である。

 これが2020年刊の玉木正之氏の著作『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』になると、話はこうなる。
 このヨーロッパとアメリカの違いは、劇場文化の有無によるもの、とされている。ヨーロッパでスポーツが誕生・発達したころは、すでに劇場文化も存在し演劇やオペラが日常的に上演されていた。

 古代ギリシア〔ギリシャ〕では、アイスキュロス、ソフォクレス、アリストパネスといった悲劇作家や喜劇作家が数多く活躍していた。またラシーヌ、コルネイユ、モリエール、シェイクスピア、ボーマルシェ、モーツァルトなどを挙げるまでもなく、ルネサンス以降のヨーロッパでも、演劇やオペラの上演が盛んだった。

 しかし、インディアンと呼ばれたアメリカ先住民との戦いや、開拓のための労働に明け暮れたアメリカ大陸の街や都市では、教会は建設されても劇場の建設にまでは手が回らなかった。

 アメリカの人々は、ドラマの楽しみを広場さえあれば行うことのできるスポーツの中に求めるようになった。その結果、アメリカ生まれのスポーツにはドラマ(演劇,芝居)のような「間(ま)=試合の中断」が多くなったというのだ。

 劇場でドラマを楽しむことの少なかったアメリカの人々は、ピッチャーが投球動作に入り投げるまでのあいだに様々なことを思い浮かべた。あのピッチャーは最近調子が悪い。何があったのか? 新聞によると恋人にフラれたそうだ。だったらその悔しさをぶつけろ! バッターは恋人に逃げられるようなピッチャーなんかに抑えられるなよ……。

 スポーツ映画は、ベースボール〔野球〕やアメリカンフットボール、バスケットボールやアイスホッケーなど、アメリカのスポーツがほとんどだ。それに比べてヨーロッパ生まれのボールゲームは、試合の中にドラマを入れることが難しいのだ。

 『巨人の星』の主人公の星飛雄馬は、ピッチャーズマウンドで目の中でメラメラと炎を燃やし、「俺はオヤジに負けない!」などと叫びながら投球する。その時間、ドラマを演じる時間はタップリある。それに比べて、『キャプテン翼』の大空翼……〔以下略〕

玉木正之「星飛雄馬は、なぜ投球の時に目から炎を出すのか?」@『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』58~60頁


 劇画『巨人の星』の主人公・星飛雄馬は父(星一徹)のことを「父ちゃん」と呼ぶのではなかったか? ……とか、細かいツッコミはさておき。

 今度は「古代ギリシャ」の悲劇・喜劇にまで話が拡大している。要は、読者は玉木正之氏の衒学に付き合わされているのだ。

ベースボールの日本普及と「間」の日本文化
 さらに重要なのは、玉木正之氏が、明治時代、日本でサッカーよりもラグビーよりも野球の人気が先行した理由のひとつに、野球が「間」のスポーツであることと、大いに関係があると主張していることだ。
 欧米から日本にスポーツが伝播したのは明治時代初期。文明開化の明治4〔1871〕~20〔1877〕ごろに、西洋の様々なスポーツが伝わってきたと言われている。〔中略〕

 ありとあらゆるスポーツ競技が、文明開化の波に乗って日本に雪崩れ込んできたが、庶民のあいだで瞬く間に圧倒的な人気を獲得したのが、ベースボール〔野球〕だった。〔中略〕

 なぜ日本では多くのスポーツ(ボールゲーム)の中で野球〔ベースボール〕だけが突出した人気を博したのか?〔中略〕

 本書をお読みの読者は気づかれたと思うが、野球のように試合中の中断〔間=ま=〕の多い球技は、その時間を利用して観客が様々な「ドラマ」〔演劇,芝居〕を思い浮かべることができる。

 だから少々野球のルールがわからなくても、苦しんでいると思われる打者に「がんばれ!」と声援を送ったり、チャンスだと思える打者に「それいけ!」と励ましたりすることができる。

 つまりベースボールのようなアメリカ型のドラマ性の高い球技は、競技のルールや選手の技術、試合の戦略や戦術などを知らない人々にとっても、とっつきやすいスポーツと言えるのだ。〔以下略〕

玉木正之「アメリカの球技とヨーロッパの球技は、どこが違うのか?」@『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』60~62頁
 一方、日本にも、有名な日本文化論として剣持武彦氏(比較文学者,故人)の『「間」の日本文化』という著作がある。日本人には「間」を愛(め)で、楽しむ文化がある。

間の日本文化 (講談社現代新書 495)
剣持 武彦
講談社
1978-01-01


 「間」のアメリカンスポーツ文化と、「間」の日本文化。まさに野球は、日本人の国民性や民族性、歴史、文化、伝統、精神とピッタリ相性のいいスポーツなのである???

プロの学者・鈴村裕輔氏による玉木正之批判
 玉木正之氏のこの持説は、2021年2月に連載された『日本経済新聞』のシリーズ「美の十選」でも展開された。
 野球だけでなく、アメリカン・フットボール、バスケットボール、バレーボールなど、アメリカ生まれの球戯ボールゲームは、総じて試合の中断が多い。ヨーロッパ生まれのサッカーやラグビーやホッケーはできるだけ試合を継続させる。が、アメリカの球戯〔球技〕は、作戦タイムを設けてまで試合を中断させる。

 それは長かった開拓時代に、なかなか劇場を建てることができなかったからとされている。ドラマやオペラを劇場で楽しむことができなかった代わりに、スポーツのなかにドラマを求めたアメリカ人は、ゲームの中断中に様々なドラマを想像するようになったのだ。

 「最近、あの選手の調子がいいのは恋人ができたからだろう」「あの選手の調子が悪いのは監督と喧嘩〔けんか〕したからか?」……〔以下略〕

玉木正之「日経 美の十選/アート・オブ・ベースボール(7)ベン・シャーン〈National Pastime〉」(2021-08-11)http://www.tamakimasayuki.com/nongenre/bn_220.html
 しかし、これはおかしい! ……と批判した人こそ、プロの学者である鈴村裕輔氏(名城大学外国語学部准教授,野球史研究家,法政大学博士=学術=ほか)である。
 ……野球などの米国生まれの球技が〔サッカーやラグビーなどイギリス・ヨーロッパ生まれの球技と違って〕「作戦タイム」を設けてまで試合を中断させるのは、開拓時代に劇場を建てられなかったため演劇や歌劇の代わりにスポーツの中に「ドラマ」を求めたからという説が唱えられているものの、こうした説は野球史の研究において実証的に支持されているものではありません。

 いわば珍奇な説があたかも定説であるかのように紹介されることは、読み手に不要な誤解を与えかねないものです。

鈴村裕輔「隔靴掻痒の感を免れ得なかった玉木正之氏の連載~アートオブベースボール十選」https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/76353/9a7f93942afb88bf7cbe9f37ae33d509?frame_id=435622
 左様、「野球(またはアメリカンスポーツ)=演劇文化代替物」説は、学問的な吟味と実証を経ていない、読者(スポーツファン)に不要な誤解を与える与太話なのである。<1>

学問的吟味が必要な玉木正之氏の「学説」
 玉木正之氏は(虫明亜呂無氏も)、アメリカ生まれの球技のみに「中断」があると考えているが、イギリス生まれの球技には、イギリス・英連邦諸国で人気があるクリケットという、野球の親戚である「バット・アンド・ボール・ゲーム」が存在していることを忘れている。この球技には頻繁に「中断」がある。

クリケット
クリケット

野球
野球(ベースボール)

 事実誤認が多い玉木正之氏はともかく(笑)、イギリスの国技クリケットという「中断」の多いスポーツを忘却した虫明亜呂無氏は相当な失当をおかしたのではないだろうか。

 また、ハリウッドの映画やブロードウェイのミュージカルなどが盛んなアメリカが、ヨーロッパと比べて演劇文化が乏しいなどとはとても信じられない。イギリス生まれの喜劇俳優・映画俳優チャールズ・チャップリンは、アメリカの演劇や映画に大きな可能性を見出して渡米したはずだ。

チャップリン自伝: 若き日々 (新潮文庫)
チャップリン,チャールズ
新潮社
2017-03-29


 何より、野球(ベースボール)固有のゲーム性と日本人固有の国民性が見事に合致したからこそ、野球がサッカーやラグビーなどに先んじて日本で国民的人気を得た……という玉木正之氏の「学説」は疑わしい。

 そもそも球技スポーツの伝播や普及が、明治時代初め(1872年頃)のお雇い外国人の一時的な紹介でごく自然に達成されたかのような、玉木正之氏が吹聴するイメージは間違いだ。

 日本における野球の普及の第一歩は1878年(明治11)、平岡凞(アメリカ留学帰りの鉄道技師)による新橋アスレチック倶楽部の創設から。
  • 参照:平岡凞「我国初の野球チームを結成」(野球殿堂博物館)https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/hof-002/
 また、日本におけるサッカーの普及の第一歩は1896年(明治29)、東京高等師範学校(現在の筑波大学の前身)のフートボール部(蹴球部)の創設から。そして、日本におけるラグビーの普及の第一歩は1899年(明治32)、慶應義塾が蹴球部(ラグビー部)の創設から……である。

 どれも、それなりの人手と手間暇を掛けなければ普及しなかったのである。そして、野球とサッカー・ラグビーには20年くらいの時間的な開きがある。野球の人気が日本で先行したのは、以上のような事情で説明できる。けして、玉木正之氏が主張するような理由からではない。

 ちなみに玉木正之氏のスポーツ史論・スポーツ文化論には、平岡凞のような草創期日本野球の最重要人物の名前が全く出てこない。このような人物が筑波大学や立教大学、国士舘大学といった高等教育機関で「スポーツ学」を講じたことは、滑稽にすら思える。

 一説に、玉木正之氏は肝心なスポーツ学界(学会)からはマトモな「学者」扱いされていないという。しかし、むしろ(鈴村裕輔氏の批判のみならず)玉木正之氏のスポーツ「学説」には、学問的な吟味とその公開の必要があるだろう。





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 スポーツライター……おっと、最近はスポーツ文化評論家と名乗っているのか。しかし、玉木正之氏の言うことは、たいていデタラメである。
2021年1月4日(月)
 ……午前中にアメリカのスポーツとヨーロッパの球戯〔球技〕の違い(ゲーム中に休みが多い=人間ドラマを楽しむのがアメリカの型の球戯〔球技〕で純粋にスポーツを楽しむのがヨーロッパ型の球戯〔球技〕)をまとめ直して(だから星飛雄馬の目が燃えたりするのですね)……<1>

玉木正之の「ナンヤラカンヤラ」2021年1月http://www.tamakimasayuki.com/nanyara/bn_2101.htm


玉木正之「ナンヤラカンヤラ」2021年1月4日
【玉木正之「ナンヤラカンヤラ」2021年1月4日(月)】
 ま~た、懲りもせずにこんなデタラメを書いているのね、玉木正之氏は!

 >アメリカ型の球技=ゲーム中に休みが多い=純粋にスポーツを楽しむヨーロッパ型球技とは違って演劇のように「人間ドラマ」を楽しむ……。 by 玉木正之

 この珍説の元祖は、玉木正之氏が深く崇拝する虫明亜呂無(故人)の「芝生の上のレモン」(ちくま文庫『時さえ忘れて』所収)である。
 アメリカ〔合衆国〕ではサッカーも、ラグビーもさかんではない。

 さかんなのは、アメリカン・フットボール、野球、そしてゴルフ。

 いずれもゲームの合間合間に時間を必要とするスポーツである。合間はスポーツをスポーツとしてたのしませるよりも、むしろ、ドラマとしてたのしませる傾向に人を持ってゆく。合間の、間のとりかたに、選手はいろんなことを考える。彼の日常の倫理がすべて投入される。間をいれることで、ゲームはクライマックスにちかづいていく。観客はそれをたのしむ。実際、無造作にポン、ポン、ポンと投手が投げて、打者がバッティング・マシンのように、そのボールを打ちかえしていたのでは、およそ、つまらない野球になってしまうであろう。

 反面、間の取りかたに、不必要な思いいれが入ってくる余地をのこしている。プロのように、見せることが第一条件のスポーツでは、その傾向が特に強調される。スポーツとしての要素よりも、芝居としての要素がどうしても強く要望されるわけである。

 野球やアメリカン・フットボールは芝居の伝統のない国〔アメリカ合衆国〕が作った。土や芝居のうえの、脚本も背景も、ストーリーも必要としない単純な芝居ではないだろうか。演劇の文化的基盤のない国〔アメリカ合衆国〕、それがプロ野球を楽しむ。スポーツとしてではなく、ドラマとしての野球を。それも素人の三流芝居を。

 日本のプロ野球も、この傾向を追っている。〔以下略〕

虫明亜呂無「芝生の上のレモン」@『時さえ忘れて』162~163頁


時さえ忘れて (虫明亜呂無の本)
虫明 亜呂無
筑摩書房
1991-06T


 >「……だから野球を題材にした劇画『巨人の星』の主人公・星飛雄馬は目から炎が出たりするんですね」。 by 玉木正之


 しかし、この虫明亜呂無の、玉木正之氏の考えは全くおかしい。なぜか……。

 ……例えば、玉木正之氏も、虫明亜呂無も、英国や英連邦諸国(オーストラリアやインド,ニュージーランドなど)に「クリケット」という野球の親戚のような球技があり、高い人気を誇っていることをド忘れしているからである。<2>

野球
【野球(ベースボール)】

クリケット
【クリケット】

日本国某所で行われた「クリケット」の練習風景(2019年)
【日本国某所で行われたクリケットの光景】

 そして、玉木正之氏は日本の野球劇画『巨人の星』(原作:梶原一騎)を、インドのクリケット界に置き換え、翻案したアニメーション「スーラジ ザ・ライジングスター」というテレビ「ドラマ」作品がある……などといった自身に都合の悪い話は無かったことにしている。
  • 参照:スーラジ ザ・ライジングスター:インド版『巨人の星』https://ch.nicovideo.jp/suraj
スーラジ:ザ・ライジングスター
【スーラジ ザ・ライジングスター:インド版『巨人の星』】

 とどのつまり、虫明亜呂無が唱え、玉木正之氏が真面目になって拡散している「アメリカ生まれの球技である『野球』は休みが多い分、観客はそれを純粋なスポーツとしてではなく『人間ドラマ』として楽しんでいる」という仮説は真っ赤なウソである。

 また、『つくられた桂離宮神話』『法隆寺への精神史』などの著作があり、プロ野球・阪神タイガースのファンとしても有名な井上章一氏(建築史家,風俗史研究者,国際日本文化研究センター所長・教授)も、著書『阪神タイガースの正体』の中で「虫明亜呂無の説はあまりにも文学的すぎて社会史の学説として採り入れることは危うい」と警鐘を鳴らしている。

阪神タイガースの正体 (朝日文庫)
井上章一
朝日新聞出版
2017-02-06


阪神タイガースの正体
章一, 井上
太田出版
2001-03T


 あと、これはかなり確かな筋から聞いた話であるが、玉木正之氏が唱えている数々のスポーツ史・スポーツ文化の「学説」(それは虫明亜呂無の所説でもある)は、肝心の日本のスポーツの「学界」からは全く相手にされていない。つまり、デタラメである。

 スポーツファンは、その辺をしっかり「わきまえて」おかなければならない。

(了)




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日本人に合っているのはサッカーではなく野球である!?
 スポーツライター・玉木正之氏のWEB連載「スポーツって、なんだ?」。その第15回で、玉木氏は「日本で野球が人気なのはなぜ?」という、香ばしいネタをブッ込んできた。
玉木正之の「スポーツって、なんだ?」#15 日本で野球が人気なのはなぜ?
2020年の東京オリンピックに向けて、スポーツを知的に楽しむために──
数多くのTV番組に出演し、多岐に渡って活躍するスポーツ評論家の玉木正之さんが、文化としてのスポーツの魅力を解き明かす。
第15回では、西洋から日本に伝わったスポーツのなかで、なぜ野球が人気を得たのか、その歴史的・文化的背景に迫ります。
(詳細は下記ツイッターのリンク先参照)



 要するに、玉木正之氏は、野球は日本人の「歴史的・文化的背景」に適していた。しかし、サッカーは適していない。サッカー日本代表が弱い(?)のも、Jリーグがプロ野球に人気で勝てない(?)のも、そのせいだ……ということが言いたいのである。

tamaki_masayuki1
【玉木正之氏】

 こんなことを言われると、多くのサッカーファンはビビってしまう。しかし、心・配・御・無・用! 玉木説は全部デタラメなので、簡単かつ徹底的に反駁できる。

玉木正之氏の持説「野球=ドラマ論」
 玉木正之氏の「日本で野球が人気なのはなぜ?」という問いには、常に奇妙な「疑似回答」がついて回る。それは次のようなものだ。
 ではなぜ日本では、多くのスポーツ(ボールゲーム)のなかで、野球(ベースボール)だけが突出した人気を博したのか?〔中略〕

 本連載〔玉木正之の「スポーツって、なんだ?」〕をお読みの読者は気づかれたかとも思うが、野球のように試合中の中断〔間=ま〕の多い球技は、その時間を利用して観客がさまざまな「ドラマ」を思い浮かべることができる。

 だから少々野球のルールがわからなくても、苦しんでいると思われる投手に「がんばれ!」と声援を送ったり、チャンスだと思える打者に「それいけ!」と励ましたりすることができる。

 つまりベースボール〔野球〕のような、アメリカ型のドラマ性の高い〔中断の多い=間の多い〕球技は、競技のルールや選手の技術、試合の戦略や戦術などを知らない人々〔日本人?〕にとっても、とっつきやすいスポーツと言えるのだ。〔以下略〕

 野球以外の他のスポーツ、例えば、サッカーやラグビーなどは純粋に「スポーツ」だが、中断(間=ま)の多い野球というスポーツは、その中に「ドラマ」を見出せる。

 玉木正之氏に言わせると、日本人はスポーツの本質を理解できない国民ないし民族らしい。日本人は「スポーツ」ではなく「ドラマ」を好む。だから、日本人の間では、サッカーやラグビーといった「スポーツ」よりも、「ドラマ」として楽しめる野球の人気が出た……という論法を、玉木氏は唱えている。

 これまた「玉木正之スポーツ学」(学?)の根本をなすもので、玉木氏の実にざまざまな著作でお目にかかれる。それにしても、こんな奇々怪々な持説「野球=ドラマ論」は、いったいどこから来たのだろうか?

「野球=ドラマ論」の淵源
 1999年刊、著者・玉木正之氏が「25年間のスポーツライター人生の総決算」「スポーツ後進国・日本への直言!」と銘打った『スポーツとは何か』という本には、アメリカ合衆国とヨーロッパのスポーツ文化を比較した、次のような(これも不思議な)「野球=ドラマ論」が載っている。
 〔野球に〕これほど「間」〔ま〕が多いのは、アメリカが〈演劇の文化的基盤がない国〉だったから、という指摘がある。開拓時代は原住民との闘い等で劇場を造る余裕がなく、演劇が発達しなかった。演劇を楽しまなかった分、その役割を広場でプレイされるボールゲームに求めた。観客は、プレイがとぎれる「間」のうちに、プレイヤーが何を考えているのか、次は何をしようとしているのか、といったことを想像し、頭の中でドラマを楽しんだ。

 一方、ヨーロッパでは、シェークスピアやモリエール以来の演劇、モーツァルトやロッシーニ以来のオペラが、大衆に楽しまれていた。そこで、ドラマや演劇やオペラにまかせ、スポーツでは、「間」がなく、終始動きつづけるプレイが好まれるようになった。

玉木正之『スポーツとは何か』34頁

 引用文中の部分には後注があり、その出典は《玉木正之・編/虫明亜呂無『時さえ忘れて』(「芝生の上のレモン」ちくま文庫)》(同書195頁)とある。

 どうやら「野球=ドラマ説」の淵源は、虫明亜呂無(むしあけ・あろむ,1923~1991)らしいのである。

そもそも虫明亜呂無とは「誰」なのか?
 それでは、虫明亜呂無は「芝生の上のレモン」で何を語っているのだろうか?
 アメリカ〔合衆国〕ではサッカーも、ラグビーもさかんではない。

 さかんなのは、アメリカン・フットボール、野球、そしてゴルフ。

 いずれもゲームの合間合間に時間を必要とするスポーツである。合間はスポーツをスポーツとしてたのしませるよりも、むしろ、ドラマとしてたのしませる傾向に人を持ってゆく。合間の、間のとりかたに、選手はいろんなことを考える。彼の日常の倫理がすべて投入される。間をいれることで、ゲームはクライマックスにちかづいていく。観客はそれをたのしむ。実際、無造作にポン、ポン、ポンと投手が投げて、打者がバッティング・マシンのように、そのボールを打ちかえしていたのでは、およそ、つまらない野球になってしまうであろう。

 反面、間の取りかたに、不必要な思いいれが入ってくる余地をのこしている。プロのように、見せることが第一条件のスポーツでは、その傾向が特に強調される。スポーツとしての要素よりも、芝居としての要素がどうしても強く要望されるわけである。

 野球やアメリカン・フットボールは芝居の伝統のない国〔アメリカ合衆国〕が作った。土や芝居のうえの、脚本も背景も、ストーリーも必要としない単純な芝居ではないだろうか。演劇の文化的基盤のない国〔アメリカ合衆国〕、それがプロ野球を楽しむ。スポーツとしてではなく、ドラマとしての野球を。それも素人の三流芝居を。

 日本のプロ野球も、この傾向を追っている。〔以下略〕

虫明亜呂無「芝生の上のレモン」@『時さえ忘れて』162~163頁

 「開拓時代は原住民との闘い等で劇場を造る余裕がなく、演劇が発達しなかった」といった細かい事情や、シェークスピアだのモーツァルトだのといった具体名は、玉木正之氏による話の増幅のようである。それでは、虫明亜呂無とは何者なのか?
虫明亜呂無(むしあけ・あろむ)
 1923年(大正12)、東京生まれ。文芸批評、映画、スポーツ評論、エッセイなど幅広く活動。小説『シャガールの馬』で1979(昭和54年)の直木賞候補。情感のある独得の文体で知られる。著書に『スポーツ人間学』『私の競馬教室』『スポーツへの誘惑』『クラナッハの絵』『ロマンチック街道』『時さえ忘れて』など。また記録映画『札幌オリンピック』のシナリオも担当した。1991(平成3年)、死去。

虫明亜呂無(肖像)
【虫明亜呂無】
 さまざまな分野で健筆をふるってきた人であるが、特に、いわゆる「スポーツライター」の走りであるということ、「情感のある独得の文体」だったことを、まずは押さえておきたい。

 1983年に病に倒れた後、ずっと闘病生活にあったので、実際に活動していた時期はずっと短い。虫明亜呂無は、同時代には非常に著名であるが、世代によっては馴染みの薄い人物かもしれない。

 玉木正之氏は虫明亜呂無に深く私淑している。亡くなった1991年に、彼のスポーツライティングを蒐集した『虫明亜呂無の本』全3巻を編集、筑摩書房からで刊行している。


 21世紀の今日、私たちが、虫明亜呂無のスポーツライティングを、まとまった形で比較的簡単に読めるのは、玉木正之氏の功績である。公平を期すために、この点はアピールしておきたい。

 スポーツライターとしての玉木正之氏の思想・人格は、虫明亜呂無や蓮實重彦(草野進名義を含む)、あるいは鈴木武樹といった人たちの影響を受けて形成されている。

虫明亜呂無&玉木正之説(野球=ドラマ説)への素朴な疑問
 それにしても、「野球=ドラマ説」とは、ずいぶんと安易な論理の飛躍としか思えない。虫明亜呂無と玉木正之氏の所説には、素朴な疑問がいくらでも出てくる。

[競技の分かりやすさ] 玉木正之氏は「ベースボール〔野球〕のような、アメリカ型のドラマ性の高い〔中断の多い=間の多い〕球技は、競技のルールや選手の技術、試合の戦略や戦術などを知らない人々〔日本人?〕にとっても、とっつきやすいスポーツと言える」などと断定する。が……。

 ……しかし、実際には、野球よりサッカー(フットボール系の球技)の方が、細かいルールや試合の戦術など分からなくても楽しめる競技ではないか。

 お気に入りのチームが、敵陣のゴールに迫れば脈拍が上がり、ゴールすれば歓喜する。自陣のゴール近くまで攻め込まれれば悲鳴を上げ、ゴールされれば落胆する。その簡潔な面白さを、ふだんはJリーグにも欧州サッカーにも関心のない日本国民も、2018年のロシアW杯で存分に味わったはずだ。

 一方、野球は、投手が投げる球を打者が売ったら、「なぜ」打者側から見て右に走らなければならないのか? 打者が球を遠くに飛ばしても、一度は地面につかないと「なぜ」駄目なのか? ……等々、野球はそこから覚えなければならない。

 野球は日本人の「歴史的・文化的背景」に適していた……という前提で逆算して論じるから、どこかで話が破綻する。むろん、日本人の「歴史的・文化的背景」に適していたから、日本で野球の人気がサッカーやラグビーより人気が出たというのは、間違いである。

 当ブログは、野球とサッカーの「面白さ」の優劣を論じているのではない。そんなものは存在しない。野球にせよ、サッカーにせよ、それぞれの競技の面白さは、それぞれ固有のものである。だから、両者を比べることはできない。

[演劇文化とクリケット] 欧州にはシェークスピアを筆頭に演劇の文化が確立しているから、野球(やアメフト)のような中断=「間」(ま)の多いスポーツは人気が出ない。一方、米国は「演劇の文化的基盤がない国」なので、野球(やアメフト)のような中断=「間」の多いスポーツに人気が出る……というのが「野球=ドラマ説」である。

 しかし、その偉大な劇作家シェークスピアの国=英国で(さらに英連邦諸国で)、「クリケット」という、野球と同類である「バット・アンド・ボール・ゲーム」(フットボール系の球技などに対して,このように呼称する)の人気があるのは、なぜだろうか? クリケットはフットボール(サッカー,ラグビー)と並ぶ、英国の「国技」である。

クリケット
【クリケット】

野球
【野球】

 こうした事実の見落としだけでも「野球=ドラマ説」は、たやすく壊れてしまう。この手の事実誤認が多い玉木正之氏はともかく(笑)、虫明亜呂無がこんな簡単なことを忘却するのは、相当な失策ではないだろうか。

 たいていの「日本で野球が人気なのはなぜ?」という問いの疑似回答は、「だから,サッカーではなく野球だったのだ」という理屈が圧倒的に多い。しかし、なぜ「クリケットではなく,野球だったのか」という説明が足りない。明治初期、クリケットも西洋から日本に紹介されているのであり、「野球=ドラマ説」は論理的欠陥を抱えている。

 ついでながら、ブロードウェーの舞台演劇(ミュージカルなど)、ハリウッドの映画やテレビドラマなど、世界的なコンテンツ産業を抱えるアメリカ合衆国が、「演劇の文化的基盤がない国」だとは、素人にはとても思えないのだが。

虫明亜呂無説は学問的検証に堪えられるのか?
 「野球やアメリカン・フットボールは芝居の伝統のない国〔アメリカ合衆国〕が作った。土や芝居のうえの、脚本も背景も、ストーリーも必要としない単純な芝居ではないだろうか」……と、虫明亜呂無は事も無げに述べるが、その根拠はいったい何だろうか?

 だいたい、特定の国に「演劇の伝統,文化的基盤」があるだの、ないだの、どうやって証明(統計? 数値化?)するのか? そんなものがあったとして(あるのか?)、その国のスポーツ文化とどう関係があるのか? そんなことが本当に証明できるのだろうか?

 虫明亜呂無をして「情感のある独得の文体」と解説した。俗っぽく言えば、虫明亜呂無は他のスポーツライター、スポーツ評論家と比べても非常に「文学的」である。その「文学性」、背後にある思考・思想は「学問的」な吟味とは、相性がよくない。

 井上章一氏(評論家.文化史,建築史,意匠論)は、著書『阪神タイガースの正体』で、虫明亜呂無が少年時代に観戦した、戦前の日本プロ野球(職業野球)の回顧録(?)を引用しつつ、次のような感想を書いている。
 「球場には頽廃〔たいはい〕と淪落〔りんらく〕の風情がたちこめていた。だから、僕〔虫明亜呂無〕は職業野球にひかれた……子供心に、職業野球が好きなようでは、自分はいつか世の中から遠ざけられ、拒まれていくだろうと思った」

〔虫明亜呂無「忘れじの〈巨-神戦〉名場面あれこれ」@『現代』1974年8月号〕


 一種の反俗的な陋巷〔ろうこう〕趣味というべきか。世の中から逸脱したデカダンスな芳香にひきよせられる。それで自分も堕落していくだろうという予想に、ナルシズムを抱いている。〔虫明亜呂無は〕ずいぶんませた少年ではあった。

 もちろん、こういう文章を、社会史的な資料〔史料〕としてあつかうことには、問題があろう。頽廃の美を初期プロ野球に仮託して語りたい。そんな作文上の要請で、プロ〔野球〕の一面が誇張されている。また、早熟な少年〔虫明亜呂無〕の幻想が投影された部分も、ないとは言えないからである。

井上章一『阪神タイガースの正体』206頁

阪神タイガースの正体
井上 章一
太田出版
2001-03


阪神タイガースの正体 (朝日文庫)
井上章一
朝日新聞出版
2017-02-06


 井上氏は、虫明のスタンスに留保をつけているが、そのことを傍証する「実例」がある。

 近年、1936年(昭和11)のプロ野球日本一決定戦「巨人vs阪神」の試合の映像が発見され、幻の大投手・沢村栄治が投げる動画が見つかった! ……と、大変な話題になった。この試合の映像を見ると、小さい野球場(今は亡い洲崎球場)だが、観客はかなり入っているし、試合後(興奮のあまり?)観客が座布団を投げるシーンまである。

【洲崎球場 昭和11年12月11日「東京ジャイアンツvs大阪タイガースの優勝決定戦」繁岡ケンイチ】
 これを見る限り、当時のプロ野球が、一面的に「球場には頽廃〔たいはい〕と淪落〔りんらく〕の風情がたちこめていた」とも言い難い。つまり、虫明亜呂無の回顧談は、一種の「文学」であり、創作であって、「こういう文章を、社会史的な資料〔史料〕としてあつかうことには、問題があ」るのではないだろうか。

玉木正之氏の源流=虫明亜呂無こそ批判するべし
 虫明亜呂無を批判する人は、なかなかいない。粋人(すいじん)なのは確かだから、下手に批判すると、虫明を批判した側が「無粋」呼ばわりされかねないからである。玉木正之氏を揶揄(やゆ)したことがある藤島大氏も、その源流に位置する虫明亜呂無に関しては称揚している。

 しかし、虫明亜呂無と玉木正之氏は「師弟」関係にある。エピゴーネンは「師匠筋」の良いところを鵜呑(うの)みにし、悪いこところを拡大するのが常であるから、玉木正之氏の持説を批判しようと思ったら、虫明亜呂無を分析・批判しなければならない。

 虫明亜呂無は「情感のある独得の文体」がやはり問題であって、「文学的」な、余りにも「文学的」な文体や思想は、これをもってスポーツ社会学・スポーツ人類学などの「学説」とするには、少なからず危険である。

 同様、虫明亜呂無が唱え、玉木正之氏が継承・拡大した「野球=ドラマ説」は、あくまで両者の「文学的」感性から生じた説であり、これまた非常に危うい説である。「野球=ドラマ説」に基づいた「だから日本人はサッカーより野球が好き」という思想も間違っている。

 要するに、玉木正之説は間違っている。




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