スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:中田英寿

 先ごろ亡くなったプロレスラー、アントニオ猪木は最初から「元気ですかー!元気があれば何でもできる!」や「1、2、3、ダー!」の人ではなかった。

 昔、アントニオ猪木のモノマネの定番の台詞といえば、アゴを突き出しての「何だ!コノヤロー!」だった。

 それが証拠に……。プロレス・ブームの1983年に『激突!馬場派vs猪木派』という本が出ているが、この本の表紙に書かれてあるアントニオ猪木の言葉は、やはりこの「コノヤロー!!」である(次のリンク先を参照)。

激突!馬場派VS猪木派
群雄社出版
1983-01T


 「元気ですかー!元気があれば何でもできる!」や「1、2、3、ダー!」は、アントニオ猪木が「ネタキャラ化」した、キャリアの後半以降の文言である。


【アントニオ猪木「こうして〈1、2、3、ダー!〉は完成した」】

 * * *

 さて、キャリアの後半に「ネタキャラ化」した日本のスポーツ関係者といえば、もうひとり、日本野球界の「ミスター」こと長嶋茂雄がいる。

玉木正之「遠藤忠~長嶋茂雄ヘルメット飛ばす」日経20210301
【遠藤忠撮影「長嶋茂雄、ヘルメット飛ばす」】

 長嶋茂雄が「ネタキャラ化」したキッカケは、ひとつには、驚異的な売り上げを記録して出版界では語り草になっているスポーツ誌「文春ナンバー」通巻第10号、1980年8月の長嶋茂雄特集「SOS! 長島茂雄へラブコールを!」である。
  • 参照:Sports Graphic Number 10号「SOS! 長島茂雄へラブコールを!」(1980年8月20日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/60
 もうひとつのキッカケが、スポーツライター・玉木正之による啓蒙(≒洗脳?)である。



 * * *

 他のメディアやライターはともかく、玉木正之による長嶋茂雄のキャラ付けには明確な目的があった。それは「〈チマチマして抑圧的な日本野球〉を批判すること」、歪んだ日本のスポーツのアンチテーゼだった。

定本・長嶋茂雄 (文春文庫)
玉木 正之
文藝春秋
1993-03-01




 当時は「浪人中」「充電期間」だった長嶋茂雄だが、日本のプロ野球界に復帰すれば「チマチマして抑圧的な日本野球」を打破してくれる。そんな期待感を玉木正之は煽った。

 果たして、長嶋茂雄は1993年、古巣の読売ジャイアンツ(巨人軍)の監督として復帰した。2001年まで9シーズン、第2次長嶋政権である。

 もっとも、藤島大氏が「〈日本のスポーツは歪んでいる〉と批判している人も実は歪んでいる」と玉木正之を揶揄したように、玉木正之が期待をかけたスポーツ関係者=歪んだ日本のスポーツのアンチテーゼというのは、たいてい「失敗」している。

 サッカー日本代表=ジーコ・ジャパン(2002年~2006年)がそうだった(次のリンク先を参照)。
  • 参照:藤島大「ジーコのせいだ」(2006年7月27日)https://www.suzukirugby.com/column/column984
 日本の「ミスターラグビー」こと平尾誠二(故人)もそうだった(次のリンク先を参照)。
  • 参照:「スポーツ」と「遊び」の区別がつかない玉木正之氏(2021年02月10日)https://gazinsai.blog.jp/archives/43032155.html
 断っておくが、これらは単なる勝ち負けの問題ではなく「スポーツ」の実践として「失敗」なのである。

 * * *

 それでは、第2次政権時代の長嶋巨人軍は如何?

 何度かセ・リーグの公式戦や日本シリーズで優勝しているが、連覇はしていない。この点は、後任の原辰徳の実績に劣っている。

 毎年のように大型補強をするが、それはいわば大艦巨砲主義であり、「チマチマして抑圧的な日本野球」を打破するプレーぶりだったかどうかは怪しい。長嶋茂雄の采配の拙さもあって、優勝を逃したり、シーズンで苦戦することがよくあった。

 しかし、カリスマ・長嶋茂雄に責任を負わせられないので(長嶋大元帥!)、毎年、配下のコーチが辞めさせられる……などということが、専門誌『週刊ベースボール』にも書かれていた。

 あるいは。長嶋茂雄は、結局のところ巨人軍を通じてしか日本プロ野球界と関わり合いを持たなかった、持てなかった人でもある。


 しかし、日本の野球人気(日本のプロ野球人気)の在り様が、もはや長嶋茂雄の現役時代、あるいは長嶋第1次政権時代とは大きく変容していった。

 読売ジャイアンツ(巨人軍)がその絶対的な中心にあり、周囲を牽引するという図式ではなくなっていた。日本プロ野球は、地域密着を掲げたプロサッカー・Jリーグのいわば「いいとこ取り」をすることで人気を延命させているのである。

 * * *

 振り返ってみると、プロレスのアントニオ猪木のネタキャラ化はともかく、長嶋茂雄のネタキャラ化が日本野球界にとって良かったのかどうか……。それは微妙だ。


 少なくとも、玉木正之が目論んでいたような「長嶋茂雄のネタキャラ化による〈チマチマして抑圧的な日本野球〉の批判と打破」、これはやはり失敗だったのではないか……。

(下につづく)




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 2022年6月は2002年日韓ワールドカップから20年ということで、各所で回顧記事が見られた。2002年W杯というと、楽しい思い出もあったが、韓国代表の「疑惑のベスト4」など、思い出したくない記憶もあり、なかなか複雑な気分になる。

2002年W杯「韓国vsイタリア」戦
【2002年W杯,韓国代表「疑惑のベスト4」】

 そんな中で、多くの人が忘れているだろうトピックとして「中田英寿(ヒデ)代表引退報道事件」というのがあった(詳細は次のリンク先を参照されたい)。
  • 参照:【日刊?日韓W杯10】「ヒデ引退」報道2(2002年06月13日)https://plaza.rakuten.co.jp/suzukitatam/diary/200206130000/?scid=wi_blg_amp_diary_next
 あの事件は、いったい何だったのだろうか?

 まずもって、中田英寿にとってサッカー日本代表とは「勝たせる必要のないチーム」である。日本代表を率いて海外の強豪に勝つ、勝ってみせる、勝てないまでも善戦・健闘に持ち込む……といったことは、中田英寿にとって意味はない。それでは、他の日本人選手と差別化できないからだ。

 そうではなくて、日本サッカーはクソだが、中田英寿だけは世界レベルで本物だ……と、いたいけな日本サッカーファンに信じ込ませた方が、中田英寿にとって利益になる。

 中田英寿は、実は日本のガラパゴス的なサッカー環境こそマーケットだからだ。

 日本のサッカーファンの根源的な劣等感の心の襞(ひだ)を、巧妙に刺激したのが中田英寿というサッカー選手なのである。

 だから差別化の対象は、海外のワールドクラスのサッカーやサッカー選手ではなくて、他の日本人サッカー選手、あるいは「日本サッカー」そのものである。自身も日本人のサッカー選手でもあるにもかかわらず……だ。

 1998年フランスW杯がそうであった。アウェーで大敗した国際試合、2000年のフランスvs日本戦もそうであった。極めつけは、無能なブラジル人ジーコ率いるジーコ・ジャパン(2002~2006年)における傍若無人の振る舞いだった。

フットボールサミット第2回「中田英寿という生き方」表紙
【英国紙は酷評した2006年W杯、中田英寿の引退パフォーマンス】

 しかし、地元で開催される2002年W杯はそのような行動はとり難い。日本代表は勝たなければならない。そこで、それでも2002年W杯において中田英寿(と中田英寿の所属会社サニーサイドアップ)が「日本サッカー」そのものとの差別化するべく図って仕掛けられた陽動作戦が「中田英寿(ヒデ)代表引退報道事件」だったのである。

 まぁ、野球の江川卓とか、ラグビーの平尾誠二とか、日本のスポーツ環境において、才能あるアスリートがその競技に秀でていることで多大なメリットを得ているのにもかかわらず、その競技そのものを邪険にし、現役生活に固執しない例は、結構見られる。

 サッカーの中田英寿もその系譜に連なる人物である。そんな、いかにも中田英寿らしい陽動作戦「中田英寿(ヒデ)代表引退報道事件」だったが、2002年日韓ワールドカップの盛り上がりに水を差した。きわめて不快なトピックであった。

(了)




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サッカー版「江夏の21球」(!?)こと『28年目のハーフタイム』
 書評とブックガイドの専門月刊誌『本の雑誌』、2022年4月号の特集は「スポーツ本の春!」で、その目玉が座談会「スポーツ本オールタイムベスト50が決定!」であった。
  • 参照:『本の雑誌』2022年4月号(特集 スポーツ本の春!)https://www.webdoku.jp/honshi/2022/4-220303152432.html

本の雑誌466号2022年4月号
本の雑誌社
2022-03-10


 驚いたのは、このベスト50の名著の中でも選りすぐりの「金字塔」(いわば「殿堂」入り)のカテゴリーに、山際淳司の『スローカーブを、もう一球』(「江夏の21球」所収)や、沢木耕太郎の『敗れざる者たち』と並んで、金子達仁の『28年目のハーフタイム』が選ばれていたことだ。

敗れざる者たち (文春文庫)
沢木 耕太郎
文藝春秋
2021-02-09


28年目のハーフタイム (文春文庫)
金子 達仁
文藝春秋
2012-09-20


 え゛~~~~~~~~~~ッ!

 しかも『本の雑誌』2022年4月号は、『28年目のハーフタイム』のことを「『江夏の21球』のサッカー版」とまで絶賛するのだ。

 え゛~~~~~~~~~~ッ!

 ……と、こういう反応が出てくるのは、『28年目のハーフタイム』の著者・金子達仁氏が、コアなサッカーファンから見て毀誉褒貶の激しい人だからである。いわゆる「電波ライター」だからである。

「電波ライター」とは何者か?
 WEB上にある情報によると「電波ライター」とは次のような人々である。
電波ライター【でんぱらいたあ】[名](海外サッカー板)
 一般的定義として、「取材を元にした記事を書かず、第三者からの伝聞や自分の脳内で完結した結論を、自分の好悪や感情をそのままに捏造、妄想、邪推などを盛り込んで記事を書く」ライターのことを指す言葉。主にサッカー評論家に多く、スポーツ新聞や自身のWEBサイトで日本代表等に対するネガティブキャンペーンを張り、2ちゃん(2ちゃんねる,現5ちゃんねる)をはじめとするサカヲタの反発と突っ込みを受けている。
 これを、サッカーに絞り込んでみると……。
  1.  サッカーライター・評論家として極めてバランスを欠いた発言や評価をする。
  2.  「厳しい批判」と称して、ひたすら日本のサッカーを貶める。特に日本代表が負けたらこれを過剰に貶め、勝ったら勝ったでこれを不当に貶める。
  3.  同じく「厳しい批判」と称して、フィリップ・トルシエ、加茂周、岡田武史など、日本サッカーに関わる特定の人物をひたすら否定し(正しい意味での「批判」とは言えない)、一定の成果を上げた後もこれを認めることがない。
  4.  反対に、自分と仲の良いサッカー関係者には評価が甘くなり、提灯持ちとなって、これをダシにして他を否定するところがままある。
 ……等々、こんなところだろうか。

 金子達仁はこの電波ライターの代表的人物とされてきたのである。

『28年目のハーフタイム』でも金子達仁は電波を発している
 金子達仁は、フリーになる前の「サッカーダイジェスト」記者時代、ガンバ大阪担当の頃から既に電波ライターだったという説がある。少なくとも「ドーハの悲劇」の時点では電波ライターだった。その電波ライターぶりは『金子達仁べストセレクション〈1〉 激白』に収録されている<1>

 『28年目のハーフタイム』は、まったくの悪書と言い切るのは難しい。でも、まったくの良書と言い切るのも難しい。抑制は効いているが、しかし、やっぱり金子達仁はこの著作のアチラコチラで電波を発している。

 アトランタ五輪世代とそれ以前のドーハの悲劇世代、サッカー日本代表の世代による断絶を無駄に煽った。中田英寿が増長するキッカケを作った。怪しげな日本人論・日本文化論などさまざまな謎理論で日本のサッカーを論評するようになった……

 ……等々、そうした電波ライター的発言を外して『28年目のハーフタイム』を一面的に絶賛するというのはあり得ない。

 とにかく、スポーツファン、サッカーファンの読書人は、『本の雑誌』の言うことを鵜呑みにはしない方がいいと思う(文中敬称略)。

(了)




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 生島淳氏の著作『箱根駅伝』(2011年)、その中で「山の神」と讃えられたランナー・柏原竜二(東洋大学―富士通)をめぐる記述で面白い箇所があった。
 スポーツの世界で人気が出る要因として、最近は「ルックス」もかなり重視されている。サッカー選手の醸し出す雰囲気は商品価値へと直結している。その点、柏原〔竜二〕は完全に競技力のみで視聴者〔ファン〕をがっちりつかんだ。

生島淳『箱根駅伝』50頁

箱根駅伝 (幻冬舎新書)
生島 淳
幻冬舎
2011-11-29


 さて、ここで言う「醸し出す雰囲気が商品価値へと直結しているサッカー選手」とは、誰だろう? 何といっても俺たちの中田英寿である。

俺たちの中田英寿1
【俺たちの中田英寿(1)】

俺たちの中田英寿2
【俺たちの中田英寿(2)】

 未だ「中田英寿」を超える日本人サッカー選手は出てこない……と言われる。あるいは、そう思われている。

 そんなことはない。

 ドイツ・ブンデスリーガで活躍した奥寺康彦はフランツ・ベッケンバウアーが絶賛した選手だし、ワールドカップ本大会での活躍ならば本田圭佑の方が上である。冨安健洋はイングランドの名門アーセナルFCのレギュラーとして現在進行形で活躍中である。

 中田英寿程度の活躍をした日本人サッカー選手ならザラにいる。

 にもかかわらず、中田英寿があたかも特権的な存在に見えてしまうのは、まさに「醸し出す雰囲気を商品価値に直結させた」からだ。

 「醸し出す雰囲気を商品価値に直結させた」ことで、実体は明らかでないのに、長い間人々によって絶対のものと信じこまれ、称賛や畏怖の目で見られてきた中田英寿。

 まったく中田英寿神話とは「神話」でしかない。
  • 参照:NAKATA神話は時々メンテナンスされる~フランチェスコ・トッティと中田英寿(2020年02月08日)https://gazinsai.blog.jp/archives/39853481.html
 そんな中田英寿の「神話」の実体を解きほぐした研究。スポーツ社会学でも、カルチュラルスタディーズでも、メディア研究でもいい。そんな著作(研究書?)があるならば、当ブログは読みたい。

 その「神話」を解体すれば、中田英寿を越える(超える)日本人サッカー選手など珍しくなくなる。

 中田英寿の公平な評価は「ジョホールバルの歓喜のプレイヤー・オブ・ザ・マッチ」……これだけで十分である。〔文中敬称略〕

(了)




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 1996年の日本サッカー協会(JFA)創設75周年には分厚い『財団法人日本サッカー協会 75年史~ありがとう。そして未来へ』が出た。

 はたして100周年の2021年、JFAの100周年記念本が刊行する気配はあまり無かったのだが、意外にも総合スポーツ誌『スポーツグラフィック ナンバー』の特集として出た。
  • Sports Graphic Number 1036号〈日本サッカー協会100周年記念特集〉日本代表、百年の先へ。(2021年9月24日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/849835
 なるほど、そういう手があったのね。JFAの経費も浮いたでしょう(笑)。

 とにかく、この特集号の目次、特集記事の数々を見ているといろいろ分かってくることがある。

 まずは、中田英寿への過剰な高評価である。何と当代のJFA会長・田嶋幸三氏と対談している。中田英寿は大変な特権の持ち主なのである。
●スペシャル対談 中田英寿×田嶋幸三「日本らしいサッカーとは何か?」
 しかし、中田英寿の評価については「〈ジョホールバルの歓喜〉のプレイヤー・オブ・ザ・マッチ」だけで十分なのだが。それにもかかわらず、人はありとあらゆる言辞を用いて中田英寿に過剰な高評価の尾鰭を付けたがる。

 中田英寿の言動・立ち振る舞いが「日本的ではなかった」からである。

 日本サッカー界の観念体系では「日本的であること」は「サッカー的でないこと」であるとされている。反対に「サッカー的であること」は「日本的でないこと」とされている。

 言動・立ち振る舞いが「日本的ではなかった」中田英寿は、日本サッカー界のこの二元論の度し難い劣等感を巧妙にくすぐった。これで中田英寿に過剰な高評価の尾鰭がついて回ることになった。

 それが日本サッカーを不幸にした。中田英寿は増長した。

 英国の大衆新聞からも酷評された2006年ドイツW杯における中田英寿の実に見苦しい引退パフォーマンス。サッカーというスポーツやワールドカップ、サッカー日本代表といった【公】の存在を【私物化】したワガママな行為であり、絶対に許してはならない振る舞いである。

フットボールサミット第2回「中田英寿という生き方」表紙
【2006年ドイツW杯における中田英寿の見苦しい引退パフォーマンス】

 もうひとつ、元ブラジル代表のジーコが対談記事に登場したこと。
●鹿島30周年記念対談 ジーコ×小笠原満男「次の〈ダイヤ〉を育てるために」
 これは、JFAの「公的史観」では今なおサッカー日本代表ジーコ・ジャパン(2002年~2006年)は間違っていなかったことになっているという意味である。2006年のドイツW杯ではさんざん嫌な目にあわされたというのに……。

 ラグビー畑のスポーツライター・藤島大氏は「シュートの下手なフォワード(柳沢敦)を監督(ジーコ)が選んでおいて,しかし緻密な戦術もなしにピッチに送り込んで,柳沢敦がシュートを外した! ……とジーコが柳沢敦を非難したら,それはアンフェアだ」と、よくジーコを批判し得た(次のリンク先参照)。
  • 藤島大「ジーコのせいだ」(2006年7月)https://www.suzukirugby.com/column/column984
QBK直後のジーコ(左)と柳沢敦
【ジーコ(左)とシュートを外した柳沢敦】

 しかし、サッカー畑のスポーツライターはこれができない。ジーコは、監督として無能だったが、先に出た二元論的な日本サッカーの観念体系では、緻密な戦術は「日本的であること」であるが「サッカー的でないこと」であり、ジーコの無能は「日本的でないこと」すなわち「サッカー的であること」と、無理やり変換されたからだ。

 中田英寿の神話、ジーコの神話……。このふたつは日本サッカーの悪い意味での「神話」である。これを打破するスポーツ評論、あるいは「スポーツ学」の登場を願ってやみません。

(了)




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