スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:ロストフの14秒

前回「林舞輝さん,河内一馬さんについて」から

 林舞輝さん(はやし・まいき)さんは、2018年ロシアW杯の日本vsベルギー戦「ロストフの14秒」について「試合前からほとんど勝負はついていた」、日本は戦う前からベルギーに負けていたと、ツイッターで断定して波紋を呼んだ。


 しかし、林さんの発言の方こそ「後出しジャンケン」であり、それは、かつて「電波ライター」と呼ばれた俗悪なサッカージャーナリストたちと同じ手口ではないのか。

 むしろ、林さんは、往年の日本のラグビー指導者・故大西鐡之祐(おおにし・てつのすけ)がそうだったように「では,どうやってあのベルギーに日本が勝つか? 勝てるようになるか?」という視点と方向性で、問題提起するべきではなかったか。

「互角」から「15年」で差がついた日本とベルギー
 林舞輝さんの、続くツイートでさらなる波紋を……あえて大げさに悪く言えば「炎上」を招いた。
林舞輝 @Hayashi_BFC 2018年12月30日
〔2002年の〕日韓W杯で引き分けてから、たった15年。日本もベルギーも同じように時は進んだはずなのに、なぜここまで差がついたのか。
本当に検証するべきは、「あの14秒がなぜ起きたのか」「14秒間に何があったのか」ではなく、「この15年の総力戦でなぜこんな差ができたのか」「この15年間に何があったのか」だ。



 2002年日韓W杯の1次リーグ初戦で引き分けた日本とベルギー。その時、両国は「互角」だった。しかし、あれからあれから15年(16年?)。同じ時間を過ごしたはずなのに、なぜ、2018年ロシアW杯で日本とベルギーはこんなに差がついてしまったのか?

 あのロストフの「14秒」はあくまで表徴に過ぎず、本当に問うべきなのは2002年から2018年までの「15年」(16年?)の間に、日本とベルギー両国のサッカー界がどんな取り組みをしてきたか、その「違い」ではないのか? 林舞輝さんはそう難じたのだ。

 2002年日韓W杯で日本とベルギーが引き分けたのは事実だが、違和を感じるのは、前段のツイートで林さんが両国を「互角」だったと評価していることである。それは違う。別に日本サッカーが駄目だと言っているわけではなくて、日本が属するアジアとベルギーが属するヨーロッパとでは、同じサッカーでも状況が大きく異なるから単純な比較ができないからである。

 それを「互角」だったと評価することは、むしろ、2018年時点の両国のサッカーの格差を徒(いたずら)に強調する印象付けになってはいないか。むろん、こんな指摘は瑣末な揚げ足取りかもしれない。しかし、林舞輝さんの連作ツイートについては、もっと別に気になることがある。それは……。

それでは「ジーコ・ジャパン」の検証をリクエストします
 ……それは、林舞輝さん自身は、2002年から2018年までの間の15年(16年?)に日本サッカーに何があったのか、日本とベルギーでなぜこんなに差がついたのか、具体的に検証したことがあるのかどうかである。

 隗より始めよ。しかし、何も全期間の検証をしてもらう必要はない。2002年日韓W杯終了直後から2006年ドイツW杯までの「ジーコ・ジャパン」時代の4年間だけでもいいのだ。ツイッターやグーグルで「林舞輝,ジーコ」で検索しても、それらしい言及にヒットすることはないので、そのようなものであるとして話を進める。

 「ジーコ・ジャパン」の4年間とは何か。真面目なサッカー関係者やサッカーファンにとって、この時代は「痛恨の極み」としか言いようのない時間だった。

ジーコ(JFA)
【ジーコ「日本サッカー殿堂」掲額者より】

 そもそも、ブラジル代表のスター選手ではあったが、監督・コーチのライセンスを持たず、その経験も乏しかったジーコ(Jリーグの鹿島アントラーズでは,監督・コーチと言うよりも「グル」=導師=とでも呼ぶべき存在だった)。あえてこの人を日本代表の監督に推(お)したのは、時の日本サッカー協会(JFA)川淵三郎会長の独断専行に近い、強い意向であったというのが通説である。むしろ、ファンは不安を覚える人事だった。

 果たしてジーコ・ジャパンは……何とも煮え切らない日本代表だった。遣(や)らずもがなの苦戦をしては何とか勝つという不安定なチームだった。事実、危うくドイツW杯アジア1次予選で敗退しかけた。その時、2004年2月には、業を煮やしたサッカーファンに、ジーコの更迭要求をJFAにアピールする街頭デモまで起こされてまでいる。


 ジーコは、少なくとも日本代表の監督としての適性に欠いていた。

 その理由……。曰く、特定の選手ばかりをレギュラーに固定して固執したこと。それは「海外組」と呼ばれた選手に多く、特に中田英寿とはズブズブの関係にあった。曰く、選手やチームのコンディショニングに関してはまるで無頓着で、体調の悪い選手でもお気に入りに選手ならば起用してはわざわざ苦戦したこと。曰く、試合中の采配、選手交代なども稚拙で、積極的に試合の流れを変えるものではなかったこと。……等々。

 また、ジーコとJFAの契約も不思議なもので、1年の半分以上の時間をブラジルに帰国していてよいことになっていた。税金対策のため(!?)だと言うが、日本代表の国際試合の前に合宿のためにパッと来日して、試合が終わるとサッサとブラジルに帰国する感じだった。つまり、ジーコは日本のサッカーの状況をきちんと把握できていなかったのである。

 特に問題視されていたのは、ジーコは、自らやろうとするサッカーの具体的な方向性を理論化して示さなかった、というよりも示せなかったことである。それを「戦術」でも「組織」でも何と読んでもいいが、選手たちに共有させることが監督の仕事であり、腕の見せどころである。そうしないとチーム作りに非常に時間がかかり、全体としてチグハグな試合になってしまう。

 日本代表が苦戦を続けた理由もそこにあった。それでもジーコ・ジャパンは、幸運な展開や選手たちの奮闘に何度も助けられ、2004年にアジアカップで優勝し、2005年のドイツW杯最終予選を突破した。しかし……。肝心な2006年ドイツW杯でジーコ・ジャパンは惨敗。1次リーグで敗退してしまう。ジーコへ向けられた不安が最悪の形で実現してしまったのである。

 2002年日韓W杯日本代表の主力選手は、ドイツW杯でキャリアのピークを迎えるはずだった。しかるべき指導の下、ドイツW杯に臨んでいたら、日本代表はどんな チームになっていたか。世界の檜舞台で、世界の強豪に対してどんな戦いを挑んでいたか。むろん、これは単純な勝ち負けの問題ではない。そこで積むことができた経験は、将来の日本サッカーにとって大きな財産(経験値)になっただろう。

 しかし、ジーコ・ジャパンによってその期待と可能性は砕かれてしまった。その4年間で、日本サッカーが得たものはほとんど何もない。失ったものの方がはるかに大きい。ただただ、そのことが残念でならない。

戦犯を免罪する論理=ジーコ擁護論
 常識では、日本代表監督たるジーコの責任がまず第一に問われる。しかし、ここは常識が通用しない日本サッカー界だ。ジーコには、根強く、侮りがたい擁護論・支持論・免罪論、「ジーコ擁護論」が存在した。その中核は先述の批判の反論、「ジーコは,自らやろうとするサッカーの具体的な方向性を理論化して示さなかった、というよりも示せなかった」ことを正当化するまやかしの論理である。

 すなわち、これまで日本のサッカー、特に日本代表は「組織」や「戦術」に頼ったサッカーをしてきた。それは「集団主義」や「権威への従順さ」あるいは「型」の重視といった「日本人の国民性」に適うものだった。しかし、本来サッカーとは「個人」の「自由」な判断や「創造性」、すなわち「個の力」によってプレーされるスポーツである。日本人に「それをやれ」と言うとそれしかできなくなる。

 つまり、日本サッカーが世界レベルに達するためには、このままでは限界がある。だから、ジーコはそれを打破するために細かい戦術の指示を与えよう、組織を固めようとはしないのだ。それは日本のサッカーがいつかは通らなければならない道なのである……。こうした文脈はいずれも一貫していた(一例として下記のリンク先を参照されたい)。
「型」のないジーコ・ジャパンは大丈夫?
 この論理は、日本人のサッカー(スポーツ)に関する欧米(人)への劣等感を巧みに刺激するから、たやすく日本サッカー界に蔓延(まんえん)する。だから、サッカージャーナリズムはジーコを批判しにくくなる。そして、責任はジーコ(やジーコを半ば強引に日本代表監督に起用した川淵JFA会長)ではなく、ジーコの期待に応えられなかった日本人選手の側にある(!)という、驚くべき倒錯が生じる。

 一方、ジーコとはズブズブの関係にあり、ジーコに贔屓(ひいき)され、言動や立ち振る舞いが「日本人離れ」しているとされた中田英寿は例外で、ジーコと同じ立場にあるとされた(この辺りの理屈については、一例として下記のリンク先を参照されたい)。
 ジーコは悪くなかった。責任があるのは、ジーコが期待する「自由なサッカー」に応えられなかった(中田英寿を除く)日本人の選手の側だ……という物語は、日本サッカー界の半ば公的な見解、天下の公論になっている。例えば、2010年にNHK-BS1で放送されたドキュメンタリー番組「証言ドキュメント 日本サッカーの50年」では、そのように総括されている。


 また、同番組では、ジーコ・ジャパンの日本人選手の中にあって、唯一、特権的な立場にあった中田英寿が「ジーコは,当時の日本代表のレベル(むろん,中田英寿本人を除く)にあっては早すぎる指導者だった」などと、いけしゃあしゃあと上から目線とコメントしていた。

ジーコ擁護論の嘘
 しかし、このジーコ擁護論は嘘(うそ)の物語である。詭弁である。

 嘘だと言い切れる理由は、いくつもある。

 例えば、意外なことかもしれないが、ジーコは、自分が手掛けたサッカー日本代表を、ジーコ自身の言葉で語る時、すなわち、取材者やインタビュアーによる話の誘導(前掲の玉木正之氏によるインタビューなど)が無い時は「個の力や創造力に基づいた〈自由なサッカー〉を目指しているから,戦術や組織について指示しなかった」というニュアンスの発言はしない。

 そのことに気が付いたのは、ドイツW杯の数か月前、2006年2月に刊行された『監督ジーコ 日本代表を語る』という本である。まだジーコ・ジャパンの是非をめぐって、甲論乙駁が交わされていた時だ。この時点でこそ、ジーコは「自由なサッカー」や「個の力」と「日本人」の関係について、滔々(とうとう)と語らなければならない。

監督ジーコ 日本代表を語る
ジーコ
ベースボールマガジン社
2006-02


 しかし、この本でジーコで述べていたのは「選手たちで一緒に練習する時間が,あまりにも短かったからチームが熟成しなかった」という回答だった。

 練習といっても、戦術的な指導ではなく、紅白戦やミニゲームを繰り返して、チームの熟成を待つという悠長なものだ。が、あまりにも間の抜けたジーコ発言には脱力する。ナショナルチーム(代表チーム)は合宿や練習に時間が取れないのが前提である。ジーコは、自分の仕事についてきちんと理解していなかったのではないか……と絶望的な気分になる。この人には、そもそも方法論も思想もないのだ。

 同様の発言は、2017年8月にゲスト出演したテレビ東京系のサッカー番組「FOOT×BRAIN」(下記リンク先参照)でもしているから、これがジーコの本音ということになる。


 2002年7月の就任会見でジーコが述べていたのは「攻撃的なサッカー」であり、2006年6月の退任会見で述べていたのは「体格の差」であった。いずれも「自由なサッカー」「個の力」などとはニュアンスが違う。ジーコ擁護論の論理で力説されていたのは、体格(フィジカル)の差の克服ではなく、メタフィジカルな能力の「差」の克服だったのである。

 ドイツW杯から1年近く経った2017年5月に刊行された『ジーコ備忘録』では、今度はまったくジーコ擁護論の論理を用いて、ジーコ自身の責任を日本代表の選手たちの「未熟さ」や「プロ意識の欠落」に転嫁するようなことを書いている。しかし、この本を「邦訳」したのは、ジーコの日本語通訳を務めていた鈴木國弘氏であり、だから『ジーコ備忘録』の内容の信憑性には疑いを持っている。



 何より、こんな無責任な言い訳が通用してしまうのが、日本のサッカー界の非常識さ(ダサさ)なのである。

ラグビー平尾ジャパン=ジーコ・ジャパンの原型
 ジーコ自身はジーコ擁護論をあずかり知らぬ……が、しかし「従来のやり方では〈個の力〉が伸びず,日本は世界に勝てない.だから私は〈型〉や〈戦術〉に選手をはめ込む〈日本的〉な指導はしない」と実際に公言し、実践した人がいる。1997~2000年にラグビー日本代表(ジャパン)の監督を務めた故平尾誠二(ひらお・せいじ,1963~2016)の、いわゆる「平尾ジャパン」である。

 平尾ジャパンこそはジーコ・ジャパンの原型である。

型破りのコーチング (PHP新書)
平尾 誠二
PHP研究所
2009-12-16


 平尾誠二は「選手全員が自由にアドリブで動き,選手全員がそれをフォローするラグビーが最高」だと、生前、本当に話していた(下記リンク先参照)。この論理はジーコ擁護論とまったく同じである。ちなみに、こうした雰囲気に煽られた日本のスポーツマスコミが「〈史上最強〉の日本代表」と持てはやしたことも、サッカーのジーコ・ジャパン、ラグビーの平尾ジャパンともに共通している。
 ジーコ・ジャパンと同様、当然、こちらでも甲論乙駁となった。これは俗に「型にはめる・はめない論争」と呼ばれる。もっとも、ラグビージャーナリズムはサッカーよりはリテラシーがあるので、平尾に批判的なジャーナリストも多かった。

 果たして平尾ジャパンは1999年ラグビーW杯で惨敗。スタッフは「日本人の〈個の力〉の劣勢」に敗因を求めたが、ラグビーはサッカーと違って自虐的な総括は少なく、監督たる平尾誠二も、ジーコと違ってかなり辛辣な批判にさらされた(以下の著作などを参照)。その後の国際試合でもジャパンは成績不振で、事実上、平尾誠二は監督を更迭される。

ラグビーの世紀
藤島 大
洋泉社
2000-02


ラグビー従軍戦記
永田 洋光
双葉社
2000-06


 日本のスポーツ界は、日本人のサッカー(スポーツ)に関する欧米(人)への劣等感もあり、とにかく歪んでいて「抑圧的」であるというイメージがある。ラガーマン平尾誠二の体育会批判的な言動は、「歪んだ日本のスポーツ」を克服するためのアンチテーゼとして期待されていた。ジャパン監督としての平尾の「指導方針」も、自身に課せられた期待に沿ったものだった。

 しかし、平尾ジャパンには批判的だったラグビージャーナリストの藤島大氏は、そうした「〈歪んだ日本スポーツのアンチテーゼ〉も,また歪んでいるのだ」と鋭く批判している。平尾誠二は、勝負師としてのリアリティを欠いていたのだとも(下記リンク先参照)。
 ジーコ擁護論も同様、日本人のサッカー(スポーツ)に関する欧米(人)への劣等感が投影され、形成された虚構である。ジーコの言動や立ち振る舞いのごく一部が恣意的に抜き出され、誇張され、意味付けがなされ、ジーコ擁護論となった。それもまた「歪んだ日本スポーツのアンチテーゼ」なのだが、やはり歪んでいるのである。

ジーコを一刀両断したラグビージャーナリスト
 ジャパン監督たる平尾誠二を批判した藤島大氏は、サッカージャーナリストたちがこぞって尻込みする中、敢然と日本代表監督たるジーコを一刀両断した。
藤島大「ジーコのせいだ〈友情と尊敬〉第45回」
「ジーコのせいだ」藤島大
 すべてジーコのせいだ。とりあえず、それでいいのだと思う。

 もちろんジーコを選んだ者〔川淵三郎JFA会長〕も悪い。ジーコの能力の限界を放置した者も悪い〔ジーコ擁護論のサッカージャーナリストたちも共犯〕。それはそれで検証されるべきだが、まず先に、グラウンド、グラウンドのまわり、ミーティングの部屋において何がまずかったのを確かめるべきである。

 サッカー日本代表〔ジーコ・ジャパン〕のどこか淡いような〔2006年ドイツ〕ワールドカップ(W杯)での敗退を眺めて、やけに既視感に襲われた。1999年W杯キャンペーンのラグビー代表に似ている。元オールブラックス〔ニュージーランド代表〕、その候補、フィジー代表経験者など6人もの強力な外国人を次々にチームに加えながら、いざ本大会では吹き飛ばされた。負けただけでなく「ジャパンのラグビー」を世界に印象づけられなかった。現場から細々と発信された総括は「個人の能力差」であったと記憶している。

 ジーコのジャパンは「日本人のサッカー」を表現できなかった。公正に述べて「失敗」だった。ブラジルのような才気はなく、韓国のきびきびした活力もなく、つまり、輪郭がぼんやりとしていた。何者でもなかった。ジーコその人は東京に帰っての会見で「体格の違いを強く感じた」と述べた。

 ジーコが悪い。ジーコがしくじったから負けた。なぜか。チャンピオンシップのスポーツにおいて敗北の責任は、絶対にコーチ〔監督〕にあるからだ。「コーチ」とは、この場合、監督であり、指導の責任者を示す。シュートの不得手なFW〔柳沢敦選手〕を選んで、緻密な戦法抜きの荒野に放り出して、シュートを外したと選んだコーチ〔監督たるジーコ〕が非難したらアンフェアだ。〔以下略〕
 憤懣(ふんまん)やるかたない真面目なサッカー関係者・サッカーファンの留飲も下がる、実に痛快な啖呵(たんか)である。「シュートの不得手なFW〔柳沢敦選手〕を選んで……」のくだりは、1次リーグ第2戦「日本vsクロアチア」で、柳沢敦選手がゴール前の決定機を外してしまった、いわゆる「QBK」と呼ばれた出来事のことを指す。

QBK直後のジーコ(左)と柳沢敦
【ジーコ(左)と柳沢敦:急に(Q)ボールが(B)来たので(K)】

 QBKは、日本サッカーの決定力不足、否、「日本人の決定力不足」を印象付けた。これなど、特に日本人のサッカー(スポーツ)に関する欧米(人)への劣等感を強烈にくすぐるテーマだから、宇都宮徹壱氏のように、それでもジーコは間違っていないのだと信じ込んでいるサッカージャーナリストもいる。


 まぁ、宇都宮氏は師匠筋が佐山一郎氏なのがダメなところなんだが……。宇都宮氏が何を言おうとジーコは正しくないのだ。

「それからのジーコ」で考える擁護論のまやかし
 ジーコという監督の真贋を見きわめる最も手っ取り早い方法は、ジーコの「日本代表以後」のキャリアを確認することである。ジーコは、日本代表の監督を退任した後も、何度か監督業に就(つ)いている。それらを検証していくと……。

 ズブズブの関係にあった中田英寿が言うように「ジーコは日本のレベルには早すぎるサッカー指導者だった」のであれば、UEFAチャンピオンズリーグ(欧州チャンピオンズリーグ)で優勝する。そこまではいかないもでも、現状の日本人選手には手の届かないような、ヨーロッパ一流国のトップクラブで指揮をとるくらいはやってほしいものである。

 しかし、実際ジーコが監督に就いた国(代表チーム,クラブチーム)はトルコ、ウズベキスタン、ロシア、ギリシャ、イラク、カタール、インド……。失礼ながら、現状の日本サッカーでは、まるで勝ち目がないというサッカー国はない。しかも、上層部との意見の対立で辞めたとか、あるいは事実上のものも含め成績不振での解任・更迭が多い。

 とても「ジーコは日本のレベルには早すぎるサッカー指導者だった」とは言い難い。

 日本と違って、これらの国々はジーコを解任できるのである。ジーコが駄目ならば駄目だと言えるのである。選手の力量がジーコの求めるレベルに足りていなかった(中田英寿を除く)、などというバカバカしい論評が堂々とまかり通るのは、日本だけなのである。それが日本のサッカー界の非常識さ(ダサさ)なのである。

 ドイツW杯における日本代表の惨敗は「ジーコのせい」なのである。

「ジーコ・ジャパン」という物語を克服できるのか?
 小ネタのつもりが、ずいぶんと脱線してしまった。

 林舞輝さんは「ロストフの14秒」ではなく、2002年日韓W杯から2018年ロシアW杯までの15年(16年?)を検証するべきだと問うた。それならば、ぜひとも、2002年7月から2006年6月まで、元ブラジル代表のエース「ジーコ」が率いたサッカー日本代表「ジーコ・ジャパン」を検証するべきではないか……と考えた。

 ジーコ・ジャパンの4年間は、現代日本サッカー史の中で最も異常な時間だった。河内一馬(かわうち・かずま)さんの好む表現を援用すれば、1992~93年の「オフト・ジャパン」**以降のサッカー日本代表の中では、最も「ダサい」チームであった。

 ただし、単に「ダサい」と言っているだけでは検証にならない。何がどうダサいのか、諄々(じゅんじゅん)と振り返っているうちに、話が長くなってしまった。

 20代で若い林舞輝さん、河内一馬さん、どちらも、ジーコ・ジャパンの時代にこんな込み入った裏事情があったことなど、あるいは覚えていないかもしれない。

 ジーコ・ジャパンの時代は、「黒歴史」ですらない。誤った歴史=物語が、詭弁やカルトじみた迷信によって正当化されているという点で、むしろ異常なのである。

 そんな日本サッカー界・サッカーファンの集団催眠状態、あるいは「ジーコ・ジャパン」という物語を喝破(かっぱ)するサッカー評論が出てくるようであれば、それこそ凄いことである。

 そして、そんな知恵と蛮勇を持った人が、林舞輝さん、河内一馬さんならば、日本のサッカーの将来も頼もしい。

(了)



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留学の成果は陳腐なサッカー談義だった???
 日本の若いサッカーコーチが「サッカー先進国」に留学して、コーチングやマネジメントについて学ぶことは素晴らしいことだ。


 インターネットの時代だから、彼(彼女)らはSNSでさまざまに情報を発信して、その成果を表現する。しかし、そのメッセージは、日本サッカーを徒(いたずら)に卑下することをもって「批評」となす、陳腐なサッカー談義に堕(だ)してはいないだろうか。

 ここで具体的に言及するのは、河内一馬(かわうち・かずま)さんや林舞輝(はやし・まいき)さんのことだ。むろん、この2人の思想や発言について短絡的に評価することは、すべからく慎むべきである。ただ、当ブログが目に付いたその「断片」がどうにも引っ掛かるのだ。

 例えば、河内一馬さんの「一神教を信仰しないことがサッカーに与える影響」は、あまりにも出来が悪いサッカー談義なので、(河内さんが日本に一時帰国してトークイベントを開く2018年12月19日までに)徹底的に筆誅を加えざるを得なかった。


 河内さんの主張が、実は1970~80年代からさんざん語られてきた、しかし、間違いだらけの「サッカー日本人論」(この命名は森田浩之さん)の焼き直しに過ぎないからだ。効果の程度はともかく、しっかりとハッキリとそれを指摘しておく必要があった。

 本来、サッカージャーナリズムは、河内さんの言い分の矛盾に気が付く程度のリテラシーは持っていなければならないが、実態は真逆である。

 せいぜい、後藤健生さんが自身の過去の発言を時折に省(かえり)みてこんな浅薄な議論は止めにしましょうと述べたり、森田浩之さんが当世風ナショナリズム批判の一環として「サッカー日本人論」への違和感を論じたりする程度である。

試合前から勝負がついていた(!?)日本vsベルギー戦
 さて、林舞輝さんである。今回取り扱うのは、NHKが「ロストフの14秒」または「ロストフの死闘」と命名した、なんとなくこの呼称が定着しつつある、あの2018年ロシアW杯決勝トーナメント1回戦「日本vsベルギー」戦。林さんのツイッターでの言及だ。

NHKスペシャル~ロストフの14秒
【NHKスペシャル「ロストフの14秒」】

NHK-BS1スペシャル「ロストフの死闘」トップ
【NHK-BS1スペシャル「ロストフの死闘」】

 林さんのツイートは、(返信を読むと分かるように)賛否両論さまざまな波紋を読んだ。
林舞輝 @Hayashi_BFC 2018年12月30日
日本はこの14秒で負けたんじゃない。試合前からほとんど勝負はついていた。それはメンバーを見れば歴然。約15年前、日本はベルギーと互角だった。日本が負けたのは14秒の戦いではなく、15年間の長期総力戦だ。ロストフの14秒はこの15年の差の一つの現れでしかない。


 あの試合は実は「試合前からほとんど勝負はついていた」のだと言う。本当に大胆な断定である。これを洋行帰り(非礼承知)である林舞輝さんの「自信」と見るか「不遜」と見るかで、受容したサッカーファンの賛否が分かれてくる。

 「賛」については、ツイッターの返信やリツイートなどに沢山あるので、ここでは紹介しない。むろん、それは第一に日本のサッカーに強くなってほしいという素朴な願いの表出、そして林舞輝さん(や河内一馬さん)に対する期待の表出だろう。

 しかし、それも度が過ぎれば「日本サッカーを徒(いたずら)に卑下することをもって〈批評〉となす、陳腐なサッカー談義」になってしまう。林舞輝さんのツイートを「非」とする人は、漠然(ばくぜん)ではあるが、それを感じ取っている。

「電波ライター」の衣鉢を継ぐ林舞輝さん???
 くだんの林舞輝さんのツイートを、世間一般では「後出しジャンケン」という。そして「日本サッカーを徒(いたずら)に卑下することをもって〈批評〉となす、陳腐なサッカー談義」に耽(ふけ)るサッカーライター・評論家のことを、ほとんど死語であるが、かつては「電波ライター」と呼んで、ネット界隈ではさんざん批判されていた。

 その電波ライターの中でも代表的人物とされた金子達仁(かねこ・たつひと)さんは、殊(こと)に後出しジャンケンを多用する人だった。すなわち、林舞輝さんは往年の電波ライターたちの衣鉢を継いでしまっているのである。

 もちろん「電波ライター」に関しては、否定的に批判するサッカーファンの層以上に、共感するサッカーファンの層の方が多い。だから、「日本サッカーを徒(いたずら)に卑下することをもって〈批評〉となす」人たちは、むしろ日本のサッカージャーナリズムの主流なのであって、そこから駆逐されることはない。

 ところで、日本ラグビーの名将・故大西鐡之祐(おおにし・てつのすけ,1916~1995)は、留学経験こそないが、ダニー・クレイブン(南アフリカ)ほか海外の優れたラグビー指導書を紐解(ひもと)いては、その研究と実践にいそしんできた人である。ある意味では、林舞輝さんや河内一馬さんの大先輩にあたる。

 しかし大西は、ラグビー日本代表(ジャパン)が世界クラスの強豪国にどんなに惨めな敗北を喫しても、論評に「では,どうやってあの国にジャパンが勝つか? 勝てるようになるか?」という視点を忘れない人だった。

 1987年、ジャパン日本選抜(日本B代表ぐらいの位置づけのチーム)があの強い強いオールブラックス(ニュージーランド代表)に大敗した時も「いかに相手がオールブラックスとはいえ……」云々かんぬんいくらオールブラックスが強力とはいえ、使ってくる戦法は四つしかないんだ。なのに、やられすぎだ。指導者はラグビーを研究してないんじゃないか」と、気炎を上げていた。大西の評伝、藤島大さんの『知と熱』の冒頭場面である。

 翻(ひるがえ)って、林舞輝さんの問題のツイートからは大西のような「まなざし」がない。感じられるのは上から目線の嫌らしさ(非礼承知)である。

 【追記】むしろ、林さんは、大西鐡之祐がそうだったように「では,どうやってあのベルギーに日本が勝つか? 勝てるようになるか?」という視点と方向性で、問題提起するべきではなかったか。

 ツイッターは、日本語で140字しか書けないから、行間を読むとか、余韻を感じるとか、明示されていないニュアンスを嗅(か)ぎとって読むには、あまり相応(ふさわ)しくないメディアである。

つづく



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「ロストフの14秒」から「ロストフの死闘」への変更
 2018年12月8日、地上波の総合テレビで放送したNHKスペシャル「ロストフの14秒 日本vs.ベルギー 知られざる物語」。放送当初から傑作の呼び声高く、同年12月30日、衛星波のBS1スペシャルで、放送時間を2倍に延長した「完全版」(ディレクターズカットとの説もあり)として放送されると触れ込みだった。

 しかし、サブタイトル(副題)等、なかなか決定が出ず、12月25日にようやく「ロストフの死闘 日本vs.ベルギー 知られざる物語」とネット上で発表された。テレビの電子番組表(EPG)にその情報が反映されたのは、さらに1日経ってからである。
12月30日(日) 午後9時00分
BS1スペシャル「ロストフの死闘 日本vs.ベルギー 知られざる物語」
7月、ロシア・ロストフアリーナで行われたサッカーW杯ベルギー戦。日本は2点を先制するが、終了間際の超高速カウンターでベスト8の夢を打ち砕かれた。選手や監督の証言から浮かび上がってきたのは、一瞬のうちに交錯した判断と世界最高峰の技術、巧妙なワナと意外な伏線。人生を賭けた男たちが全力を尽くし生まれた壮絶なドラマだった。NHKスペシャル「ロストフの14秒」に未編集素材を加えた完全版であの死闘を再現する。

【語り】松尾スズキ

NHK-BS1スペシャル「ロストフの死闘」トップ
【BS1スペシャル「ロストフの死闘」ウェブサイトより】
 サブタイトルは「ロストフの14秒」から「ロストフの死闘」に変更となった。番組のナレーション担当も「14秒」の山田孝之氏(俳優)から、「死闘」では松尾スズキ氏(俳優)に変わった。

 二番煎じな感じを逸(そ)らすためなのか? 「14秒」では、最後の失点ばかりに視聴者の注目がいくと制作側が判断して「死闘」と変えたのか? 「ロストフの14秒」というタイトルは、かつてのNHK特集のスポーツドキュメンタリーの傑作「江夏の21球」のオマージュだと言われたが、実は制作側にそのような意図はなく、あえて敬遠したのか?

 いずれにせよ、この辺の事情は外部の一介の視聴者にはよく分からない。

「ロストフの14秒」の過大視は日本サッカーのミスリードを招く???
 それにしても、2018年ロシアW杯のサッカー日本代表を、決勝トーナメント1回戦のベルギーvs日本戦「ロストフの14秒」のみをクローズアップしてしまうのは、実は危ういのではないか。日本サッカーにミスリードを招くのではないかと、余計な心配をしてしまう。

 思い出してほしいのだが、2018年のサッカー日本代表は(柳澤健氏みたいだね)、4月、フランス国籍の外国人監督ヴァイド・ハリルホジッチ氏が突然更迭されるという「事件」から始まった。ハリル氏更迭の裏には「陰謀」があったのではないか? その力学に担い手は、日本サッカー協会? 電通? アディダスジャパン? キリン? KDDI? 本田圭佑? 香川真司? ……??? サッカーファンはみんな疑心暗鬼になった。

 事の真偽はともかく、ともかくこの一件で熱心なサッカーファンほど白けてしまった。ロシアW杯でも、前回の2014年ブラジルW杯のように3戦全敗するだろう。日本代表は、どうせ惨敗して逃げ帰ってくるさ(本田圭佑は,また逃亡するさ)。1次リーグの対戦相手、コロンビアも、セネガルも、ポーランドも、みんな日本を圧倒する。敵国のエース、ハメス・ロドリゲスも、マネも、レバンドフスキも、みんな日本の守備陣をズタズタにするだろう。みんな、そう思っていた。

 ところが、日本代表は下馬評をくつがえし、初戦コロンビアに勝ち、次戦でセネガルと引き分け、第3戦ポーランドとは一か八かのギャンブルと驚くべき「ゲームズマンシップ」を発揮して、1次リーグを突破した。その延長線上に、あのベルギー戦「ロストフの14秒」が来るのである……。

 ……だとすれば、2018年ロシアW杯のサッカー日本代表(西野ジャパン)の総括と検証の対象は、1次リーグ3試合+ベルギー戦であるべきだ。個人的には、ベルギー戦よりポーランド戦の方がずっと興奮した。あのポーランド戦の「談合試合」は、スポーツマンシップとゲームズマンシップがせめぎ合う非常に興味深い試合だった。NHKスペシャルは、この試合も採り上げるべきだった。

 この「談合試合」には、いろんな意見があっていい。しかし、日本代表はスポーツマンシップに悖(もと)ると一面的に避難している日本の有識者たちは、「ゲームズマンシップ」という概念を、そもそも知らずに論評しているのではないかと思う。

 また、日本はポーランドに勝ち切る力量がなかったと、自嘲気味に日本代表を非難している日本の有識者たちは、そもそもポーランドが既に2敗していて「せめてもの1勝」を確保するために、日本との談合に応じたことを忘れている。

 話を戻して、ベルギー戦は日本にとって「兵站線〔へいたんせん〕が伸びきった試合」であった(1936年ベルリン五輪の「日本vsイタリア」戦も同様の情況)。両国の位置づけも、車のレースにたとえれば、片やベルギーは本気で総合優勝を狙ってくるプロトタイプのワークスマシン、こなた日本は市販車改造クラスでエントリーするプライベーターくらいの違いがあった。

 つまり、「ロストフの死闘」とは言うが、1970年メキシコW杯の「イタリアvs西ドイツ」戦、1982年スペインW杯の「西ドイツvsフランス」戦、1986年メキシコW杯の「フランスvsブラジル」戦のような、ワールドクラス同士の「死闘」とはまた違うのである。

 やはり、2018年ロシアW杯のサッカー日本代表(西野ジャパン)の検証は、1次リーグ3試合+ベルギー戦であるべきではなかったか。ベルギー戦のみの過大視は日本サッカーのミスリードを招きかねないのではないか。

 次回のW杯、カタール大会の本大会には出場すると仮定しても、日本代表は1次リーグを突破できる確度は、まだまだ低いからである。

「オシムの言葉」は正しくないと言ったら正しくない
 NHKスペシャル「ロストフの14秒」、BS1スペシャル「ロストフの死闘」では、いろんな人がコメントしていたが、最も印象強く、しかし違和感があったのはイビチャ・オシムさんのコメントだった。

 試合終了間際、ベルギーのカウンターアタックを受けた時、守りに入っていた日本代表の山口蛍選手がなぜファウル覚悟でタックルに行かなかったのか? ……という問題のシーンについてのオシムさんの発言である。

 以下、該当する発言を「ロストフの14秒」の字幕からテキストに起こす。
〔山口蛍は〕足元に飛び込んで ファウルするしかなかった
それはスポーツマンシップに反する行為で レッドカードになったと思うが
故意のファウルは日本人らしくない
確かにフェアプレーを重視することで 日本人は損をすることが多い
多すぎるかもしれない いや 間違いなく多いだろう
望ましい結果〔勝利〕が得られなくても それが日本人なのだ

元日本代表監督 イビチャ・オシム

イビチャ・オシム「ロストフの14秒」から
【イビチャ・オシム「ロストフの14秒」から】
 日本人はスポーツにおいてフェアプレー(スポーツマンシップ)重視で、「ゲームズマンシップ」が欠落しており、それで損をすることが多い。これは日本人の国民性である(だから,克服できない?)というのだ。

 しかし、2011年女子W杯で優勝した「なでしこジャパン」の岩清水梓(いわしみず・あずさ)選手のように、実に感慨深い「ゲームズマンシップ」(故意のファウル)を発揮して、日本を勝利に導いた例がある。

 こうした事例を検証することなく、オシムさんは「間違いなく多い」などと断言してしまうのだ。

 もっと深刻なのは、ツイッターなどを観察すると、オシムさんの発言を鵜呑みにしている日本人が多いことだ。これこそ「権威に従順な日本人の国民性」で、サッカーにふさわしくないメンタリティである。

 日本の将来が心配になる。

 日本人はコレコレといった国民性、日本人らしく、日本人らしさ……という決め付けが、かえって日本サッカーの可能性を狭めている(狭めてきた)のだ。

 オシムさんの発言を批判した人がはいないのかと思って探したら、少なくとも1人いた。サッカーファンのたまり場としても有名だった、ペルー料理店「ティアスサナ」の江頭満店長である。
オシム監督、それって日本人に対する観察が浅くないですか?




 流石である。いかに「オシムの言葉」でも「日本人」はもう少し、それを批評的に受容するべきではないのか。

 ティアスサナは、2018年いっぱいで閉店してしまう。実に残念なことである。

(了)



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「ロストフの14秒」と「江夏の21球」
 2018年12月8日にNHK総合テレビで放送したNHKスペシャル「ロストフの14秒~日本vs.ベルギー 知られざる物語」は、スポーツドキュメンタリー番組の傑作として早くも評判が高い。年末12月30日には、BS1スペシャルとして放送時間拡大の完全版として放送されるという。一説に、そのタイトルは1983年に放送したNHK特集「スポーツドキュメント~江夏の21球」を意識した命名だと言われいている。

 NHK特集「江夏の21球」は、ドキュメンタリー番組の傑作としての評価が非常に高く、これまで何十回も再放送され、また市販のソフト化も何度もなされてきた。

NHK特集 江夏の21球 [DVD]
ドキュメンタリー
NHKエンタープライズ
2010-10-22


江夏の21球 [VHS]
江夏豊
ポニーキャニオン
1989-11-21


 何の因縁か、今年2018年もまた「江夏の21球」は、10月28日にNHK総合テレビ「あの日あのときあの番組~NHKアーカイブス」の枠で再放送された。しかも、あの江夏豊氏本人がゲストとしてNHKの番組に出演、コメントするという素晴らしい特典つき。これは絶対に視聴せねばならないとならぬと、録画予約をした。


 実際「江夏の21球」は何度見ても面白い。視聴した後、ツイッターで番組の反応を見てみた。すると、おそらく初回放送当時は知らない若い人だと思うが「こんな凄いスポーツドキュメンタリー番組は、NHKだから制作できるのであって、民間放送(民放,特に地上波)には出来ないのではないか」というツイートがあった。


 おっしゃる通り。「江夏の21球」」でも「ロストフの14秒」でも、(少なくとも昨今の)地上波民放テレビは、これだけの番組は作れなくなっている。それが証拠に……。

日本のテレビ局は「事実上」ロシアW杯総集編を放送しなかった
 それが証拠に……。あなたは今年2018年のサッカーW杯ロシア大会の「総集編」を、テレビで御覧になりましたか? いや、そう言えば見ていないな、という人が多いはずだ。日本のテレビ局は「事実上」ロシアW杯総集編を放送しなかったからである。





 サッカーファン・視聴者の中には、実際にNHKにW杯総集編の放送をしないのか問い合わせた人がいる。しかし、帰ってきた返事は「ワールドカップの総集編につきましては、総合的な判断から、今回放送する予定はございません」という冷淡なものだった。


 NHKは何をやっているのか! 否、そもそも今回のロシアW杯、大会総集編番組を割り当てられたのは、公共放送たるNHKではなく民放のTBSテレビだったのである(えっ!?)。NHKの言う「総合的な判断」とは、担当局がNHKではなかったからということである。

 通常、サッカーW杯やオリンピックといったスポーツのメガイベントは、NHKの民放が連合した「ジャパンコンソーシアム(Japan Consortium)」という体制でFIFA(国際サッカー連盟)やIOC(国際オリンピック委員会)などと放映権料等の交渉にあたる。そして、どの局がどの試合を担当し放送するかは、かなり早い時点で決まっている。いかなる理由かは不明だがロシアW杯総集編の担当局はTBSテレビに決められた。

 大会直前には発行させるテレビ情報誌の「W杯観戦ガイド」の類に掲載される番組表は、テレビ局側から内々に提示された放送予定を反映したものである。

 当ブログは、ロシアW杯のテレビ視聴と録画に関しては、テレビ雑誌『月刊ザテレビジョン』増刊の観戦ガイド「ロシアワールドカップ2018テレビ観戦パーフェクトBOOK」に掲載された「番組表」を参考にした。こういう時はインターネットではなく、パッケージ化された紙媒体の方がまだまだ役に立つ。値段が手ごろで、読み応えもありました(感謝)。

 このムックの付録の番組表には、ロシアW杯総集編番組はTBSテレビが放送すると書かれていた(下記,掲載写真参照)。

ザ・テレビジョン「ロシアW杯特集号」放送予定表
【『月刊ザテレビジョン』増刊W杯パーフェクト番組表(部分)】

 この時点で、実にイヤ~な予感がした。

 果せるかな、TBSテレビは本来放送するべき「ロシアW杯総集編」を放送しなかった。放送当日、W杯決勝翌日の2018年7月16日、公共の電波で全国に流されたのは「緊急放送!西野Jも生登場!日本人が選んだ歴代カッコいいサッカー選手ランキング」(以下,適宜「サッカー総選挙」と略す)なる、何ともふざけた番組であった(下記,掲載写真参照)。

TBSテレビ_ロシアW杯サイトより「サッカー総選挙」
【TBSテレビ「サッカー総選挙」ロシアW杯公式サイトより】

TBS「日本人が選んだ歴代カッコいいサッカー選手ランキング」
【TBSテレビ「サッカー総選挙」】

 これには視聴者のサッカーファンも口あんぐり、ドッチラケ。ワールドカップはどこへ行った? 4年に1度のサッカーの感動も台無しになる。いずれにせよ、場違いな感じは否めなかった。サッカーファン・視聴者が本当に見たかったのはこんな番組じゃない。

 番組司会で、サッカーには相当の心得のあるタレント・加藤浩次氏(と俳優・竹内涼真氏)ですら、番組冒頭で語気を強めて不満と違和感を隠さなかった。
加藤浩次 ……ということで、ねえ、今日フランスが優勝決まったんですけれど、TBSはトリッキーな企画から始まりました。今日、僕、総集編全体みられると思っていたんですけど、こういったトリッキーな企画で、竹内君ビックリしているんだよねえ。

竹内涼真 ビックリしていますね。

加藤浩次 ねえ、ビックリなんだよ。こんな企画を最後にやるかっていうのは。私、今日聞いて本当にビックリしているんですよ! なぜなんだ!? ワールドカップの凄いプレーが見たかったんだ! ……っていうのがあるんですけど、TBS的にはこれで行こうということになっております。皆さんよろしくお願いします。〔以下略〕」

TBSテレビ「サッカー総選挙」録画より文字起こし
 この時、スタジオ内の出演者はゲラゲラ笑っていたが(これまたふざけた話だ)、これは加藤氏の本音であろう。

 いろいろ調べてみると、TBSテレビは深夜のレギュラー番組「スーパーサッカー」の中でアリバイ的に放送はしたらしい。ネット上にその痕跡が残っていた。
 当ブログは未見。しかし、あくまでレギュラー枠扱いであり、CMなどで放送時間が正味30分にも満たず、他の話題(フェルナンド・トーレス選手来日会見)も取り上げたらしく、本当にロシアW杯の総集編にふさわしいコンテンツだったのか、非常に疑わしい。しかも、深夜枠だから地方によっては放送されない地域があったかもしれない。

 日本のテレビ局は、民放地上波テレビは、なかんずく担当局のTBSテレビは、2018年サッカーW杯ロシア大会の総集編を「事実上」放送しなかったのである。

TBSテレビの「A級戦犯」プロデューサーたち
 当ブログはFIFAとジャパンコンソーシアムとの映像使用権などをめぐる取り決めだとか、NHKと各民放の関係だとかは掘り下げない。一介の視聴者には知りようがないことだし、これら問題はあくまでテレビ局をはじめとした送り手の都合であって、受け手である視聴者(=サッカーファン)には知ったことではないからだ。

 ロシアW杯は面白い大会だった。フランスが2度目の優勝。若きスター、Mbappeも輝いた。ブラジルもドイツも負けた。日本代表は、大会直前にハリルホジッチ監督を更迭して大騒ぎになったが、下馬評を覆して1次リーグを突破した。日本は大いに盛り上がった。テレビ中継は、日本代表だけでなく、他国同士の試合でも高い視聴率を獲得した。

 このロシアW杯の総集編ならば、1か月にわたった大会の面白さを凝縮した番組ならば、確実に視聴率が取れるコンテンツになる。それが、なぜ「サッカー総選挙」に差し替えられてしったのか? 「TBSはトリッキーな企画」でいい。「TBS的にはこれで行こう」と決めたのはいったい誰なのか?

 番組情報をみると、「サッカー総選挙」制作のチーフプロデューサー(CP)はTBSの横山英士氏、プロデューサー(P)は同じく御法川隼斗氏である(名前で察しの通り,この人はフリーアナウンサーみのもんた氏の令息.多分にコネ入社である)。

TBSテレビ「横山英士チーフプロデューサー」ツイッターより
【TBS「横山英士チーフプロデューサー」ツイッターより】

 第一義的に批判されるべきなのは、この人たちなのであろう。横山CPは同局の「炎の体育会TV」という番組を手がけている。これまたスポーツではあるがバラエティ色の強い番組だ。一方、「ロシアW杯総集編」はドキュメンタリー番組としての性格が強くなる。

 この横山CPや御法川Pといった人たちは「バラエティ」番組は作れても、真面目な「ドキュメンタリー」番組は作れなくなっている。昨今の民放地上波テレビに対する視聴者の「テレビ離れ」が進み、制作者たちの番組(コンテンツ)制作能力が著しく劣化している。だから「ロシアW杯総集編」ではなく「サッカー総選挙」になったのだ。

「サッカーW杯総集編」を作る能力を喪失した民放地上波テレビ
 現在5つある民放地上波テレビのキー局を再編成し「民放3 NHK1の4大ネットワーク」への大転換を提唱する、元テレビ東京常務・石光勝(いしみつ・まさる)氏の著作『テレビ局削減論』は、なかなか興味深い。これを元に昨今の「テレビ離れ」の原因を図式化すると、だいたい次の通りになる。
 インターネットやBS・CSなどの台頭などによって……、

 [1]CM広告費など収入が減る⇒[2]番組制作予算が減る⇒[3]安直な番組作りが増える⇒[4]良質の番組を作るスタッフが育たなくなる⇒[5]ますます番組がつまらなくなる⇒[6]視聴率が低下する⇒[7]ますます視聴率獲得に躍起になるが⇒[1]に戻る……という悪循環、負のスパイラル。

 こうして地上波テレビ、特に民放のコンテンツの質はますます落ちていく。

 かくして地上波テレビは、長丁場の放送時間を使って、タレントが空騒ぎする「ひな壇バラエティ」(まさに「サッカー総選挙」がそうしたノリだった)か、「喰ってばかり」の番組か、そうでなければ通販番組が大半を占めるようになる。

 他方、報道番組や硬派のドキュメンタリー番組はコストがかかる割には、視聴率が取れないとされ、特に後者は民放キー局では敬遠される。おまけに民放のテレビ制作者は、こんな難しいコンテンツには喰いつかないだろうと視聴者のことを馬鹿にしている。かつて民放の雄、報道のTBS、民放のNHKとまで言われたTBSテレビには、もはやドキュメンタリー番組を作る能力やノウハウが喪失している。

 さらに『テレビ局削減論』が指摘するところでは、「テレビ界には,柳の下に5匹の泥鰌〔どじょう〕がいる」(85頁)という。5匹とは民放キー局5局のこと。つまり、視聴率を取る番組を作る手っ取り早い方法は、他局でヒットした番組をまねることだ。

 そもそも「プロレス総選挙」とか「高校野球総選挙」とか、「○○○○総選挙」という人気投票番組はテレビ朝日の企画・番組だった。TBSテレビ「サッカー総選挙」は、テレビ朝日のパクリなのである。

テレビ朝日系「高校野球総選挙」番組ホームページから
【テレビ朝日「高校野球総選挙」番組ウェブサイトから】

 ドキュメンタリー番組としての「ロシアW杯総集編」を作る能力もノウハウもない。企画はテレビ朝日のパクリ……。こうしてTBSテレビに割り当てられた貴重な放送枠は、「ロシアW杯総集編」から「サッカー総選挙」に差し替えられたのである。

 やる気も能力もないのであれば、TBSテレビはNHKに権利を譲渡するべきだった。あるいは、サッカー関連のドキュメンタリーでは実績のある番組制作会社「テレビマンユニオン」とタッグを組み(元々この会社はTBS出身者によって設立された)、これを委ねるという手段だってあった。

 放送局としての責務を放棄した番組を作り、流したTBSテレビには怒りを禁じえない。

「サッカー総選挙」の弊害~スターシステムの温床
 TBSテレビが「サッカー総選挙」を制作・放送したということは、日本のサッカー界とサッカーマスコミのある種の体質を表している。「サッカー総選挙」は、サッカーそれ自体よりも選手個人に焦点を当てる番組である。こうした体質は、例えばサッカー日本代表ならば、チームよりも特定の選手に焦点が当てられ、その知名度が優先される、日本サッカーに特異な現象「スターシステム」の温床になる。

 今年2018年4月、日本代表監督ヴァイド・ハリルホジッチ氏(フランス国籍)が突然解任された。ロシアW杯本大会、日本の初戦まで2か月あまりしかない! 日本サッカー界は騒然となった。なぜ、ハリル氏は解任されたのか? 一説にハリル氏は香川真司や本田圭佑といった、日本サッカーの「スターシステム」に乗っかった選手を、ロシアW杯日本代表から外しかねなかったからだという。

 日本サッカーの「スターシステム」においては、W杯本大会で日本が勝つことよりも、否、日本が勝とうが負けようが、たくさんのスポンサーを抱えた「スターシステム」の選手が試合に出る方が重要なのである。そこで「スターシステム」の力学が働き、日本サッカー協会(JFA)田嶋幸三会長を動かし、ついにハリル氏は解任されたというのである。

 その力学の中心にいたのは、JFAやサッカー日本代表と深いかかわりがあり、これらを「牛耳る」大手広告代理店=電通であるとの、もっぱらの「噂」であった(電通陰謀論,電通はFIFAともつながりが深い)。これら一連の事の真偽については何とも言いかねるが、少なくとも日本サッカーに「スターシステム」という現象は存在する。

 例えば、日本代表の公式スポンサー兼サプライヤーの「アディダスジャパン」は、日本代表メンバーからエースナンバー「背番号10」の選手を、事実上指名している。このことは「スターシステム」の表れであり、広い意味でのスポンサーの圧力である。

 ここでひとつ冗談。もし、TBSテレビが真面目に「ロシアW杯総集編」を制作し放送してしまうと、日本代表のハリルホジッチ氏更迭にまつわるゴタゴタを、あらためて「国民」に思い出させてしまう。そこで「電通」は、国民がハリル氏更迭事件を忘れるように、TBSテレビに命じて「サッカー総選挙」という場違いな番組を作らせた……などというのは、むろん冗談である

ビジネスとしての「サッカー総選挙」の欠陥
 テレビ局は、国民の財産である「公共の電波」を預かる、きわめて公共性の高い企業であって、その免許数も限定されている。だから、他のメディアにない格段の「責務」が求められるわけで、TBSテレビが「ロシアW杯総集編」を制作・放送しないで「サッカー総選挙」などというフザケタ番組を流したことはケシカラン……というのは、きれいごとの建前論なのかもしれない。

 しかし、「サッカー総選挙」という番組はテレビ局のコンテンツビジネスとしても、非常によろしくないのである。

 これも石光勝氏の『テレビ局削減論』からの援用になるが、日本以外の諸外国、アメリカ合衆国や韓国などのテレビ界では、番組(コンテンツ)の2次利用・3次利用……が盛んで、それでより儲かる仕組みになっているのである。具体的には、テレビ放送後のネット配信、DVDの発売、コンテンツ市場に出品しての再放映権の売買などである。

 当然、そのビジネスモデルが成立するためには、番組(コンテンツ)が面白くなければならない。それこそNHK特集「江夏の21球」のように、あるいはこれもNHKだが、DVDとして発売された「伝説の名勝負 '85ラグビー日本選手権 新日鉄釜石vs.同志社大学」のようにである。

 ハッキリ言えば、「サッカー総選挙」などという番組は1回見れば充分。何度も見返す価値もない、刹那的な番組である。横山CPや御法川Pも、せっかくのチャンスを与えられたのだから後々まで残る、2次利用・3次利用が可能なコンテンツを作るべきだったのに、この人たちはその気も能力もなかったのである。

 2018年、ロシアW杯の総集編が日本のテレビにおいて「事実上」制作・放送されなかったことは、日本のサッカー文化において大きな損失である。ただ、それは日本のサッカー文化が一面的に劣っているというよりは、昨今の民放地上波テレビの駄目さ加減、そのトバッチリを受けたものだと言えよう。そう思えば、日本のサッカーファンも少しは心が楽になる。

 TBSテレビのスポーツ部門、なかんずく横山英士CPや御法川隼斗Pが因果応報を食らっても、サッカーファンからは同情されないだろう。

(了)



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NHKスペシャル
「ロストフの14秒~日本vs.ベルギー 知られざる物語」
今年、あなたの心に最も残ったスポーツの場面は何だろうか。おそらく、多くの人がこのシーンを挙げるのではないだろうか。ワールドカップ決勝トーナメント1回戦、ロシア・ロストフアリーナで行われた、「日本VSベルギー」。後半アディショナルタイムに生まれた14秒のプレー。日本のベスト8進出の夢を打ち砕くとともに、大会ベストゴールのひとつとして世界から絶賛された、ベルギーの超高速カウンターである。

私たちは、日本、ベルギー双方の選手、かつての日本代表監督など、20人以上のキーマンを世界各地に訪ね、この14秒のプレーがどう生まれたのか、答えを探した。浮かび上がってきたのは、一瞬のうちに交錯した判断と世界最高峰の技術、そしてこの瞬間に至るまでの巧妙な罠と意外な伏線…。この一戦に人生を賭けた男たちが、全力を尽くしたからこそ生まれた14秒のドラマだった。

2018年、私たちの記憶に鮮烈に残る、あの瞬間の知られざる物語である。

NHKスペシャル~ロストフの14秒


ロストフの14秒,「オシムの言葉」への強い違和感と異論
 NHKスペシャル「ロストフの14秒」には、リトバルスキーや、ザッケローニなど、いろんな人がコメントしていたが、最も印象強く、しかし違和感があったのはイビチャ・オシムさんのコメントだった。試合終了間際、ベルギーのカウンターアタックを受けた時、守りに入っていた日本代表の山口蛍選手がなぜファウル覚悟でタックルに行かなかったのか? ……という問題のシーンについてのオシムさんの発言である。

 以下、該当する発言を番組の字幕からテキストに起こす。
〔山口蛍は〕足元に飛び込んで ファウルするしかなかった
それはスポーツマンシップに反する行為で レッドカードになったと思うが
故意のファウルは日本人らしくない
確かにフェアプレーを重視することで 日本人は損をすることが多い
多すぎるかもしれない いや 間違いなく多いだろう
望ましい結果が得られなくても それが日本人なのだ

元日本代表監督 イビチャ・オシム

イビチャ・オシム「ロストフの14秒」から
【イビチャ・オシム「ロストフの14秒」から】
 このオシム発言には、例えば武藤文雄氏のように異論を唱える人もいる。


 ちなみに、武藤文雄氏は同年配以上の尊敬するサッカー人に対して、特別に「爺さん」という敬称を付ける。だから「オシム爺さん」とか「マテウス爺さん」とは言う。しかし、以上の理由によって「本田圭佑爺さん」とは言わない。

オシムさんの言う「日本人」に女子は入っていないのか?
 閑話休題。当ブログの異論は別の角度からである。オシムさんの「フェアプレーを重視することで 日本人は損をすることが多い 多すぎるかもしれない いや 間違いなく多いだろう」という指摘は、どれだけ妥当なのか? 実はオシムさんの指摘こそ間違いではないのか。

 この手の「日本人は国民性からして,スポーツ(なかんずくサッカーにおける)マリーシア(ずる賢さ)が足りない」式の話、換言すると「日本人は国民性からして,スポーツマンシップは尊重するが(なかんずくサッカーにおいて)ゲームズマンシップの意識は低い」式の話は、さんざんパラパラ聞かされ、または読まされてきた。そして、その種の発言者がオシムさんだろうが、誰だろうが、みんなうんざりさせられる。

 オシムさんの指摘が正しくない例を「日本人」なら知っている。


 サッカーファンやサッカー関係者なら皆が覚えている。2011年女子W杯決勝「日本vsアメリカ合衆国」戦で、延長後半終了間際、日本女子代表(なでしこジャパン)の岩清水梓(いわしみず・あずさ)選手が、実に「ゲームズマンシップ」あふれるプロフェッショナルファウルで一発レッドカードを食らいながらも、日本は試合をPK戦まで引きずり込み、結果、日本はW杯で優勝したことを。

 オシムさんの基準で言う「日本人」の中に、女子または女性は、なでしこジャパンは、なかんずく岩清水選手は、含まれるのか含まれないのか?

 オシムさんが「ロストフの14秒」で語っていたことは、サッカーそれ自体の議論ではなく、まさしく「日本人論」または「サッカー日本人論」に他ならない。「オシムの言葉」も、最初は「ウサギは肉離れを起こさない」的なウィットが多かったものが、だんだん通俗的な「日本人論」で日本人向けに説教を垂れるような話にシフトしている。

考えよ! ――なぜ日本人はリスクを冒さないのか? (角川oneテーマ21 A 114)
イビチャ・オシム
角川書店(角川グループパブリッシング)
2010-04-10


 その方が商品としては売れるのだろうが、むしろ新鮮味に乏しくなっている。有り体に言えば「オシムの言葉」はつまらなくなっている。

 「日本人論」通念・通説の鋭利な批判で知られるオーストラリア在住の社会学者・杉本良夫教授は「〈日本人論〉の立論において観察対象となるのは,もっぱら男性(男性社会)であって,女性は無視される」と指摘している(次の著作参照)。



 同様に「サッカー日本人論」の世界では、今回のオシムさんの発言がそうであるように、女子サッカーの存在はほとんど無視される。

ラグビー竹山選手の「疑惑のトライ」あるいはゲームズマンシップ
 ラグビーファンならば、全国大学ラグビーフットボール選手権9連覇(2018年12月現在)の帝京大学ラグビー部・竹山晃暉(たけやま・こうき)選手の「あのプレー」を覚えているだろう。

 帝京大ラグビー部8連覇目にあたる大学選手権決勝「帝京大学vs東海大学」戦。試合後半の勘所で、竹山選手は勝負を決定づけるトライを決めた……??? ところが、報道写真を見ると、東海大の選手が先にボールを確保してインゴールに抑えた(=ノートライ)かのように見える。

ラグビー竹山晃暉選手「疑惑のトライ」産経新聞
【竹山選手「疑惑のトライ」産経新聞・電子版2017年1月9日付より】

 それにもかかわらず、この試合でビデオ判定(ラグビーではTMO=テレビジョン・マッチ・オフィシャル)が採用されていないのを幸いに(?)、竹山選手は派手なガッツポーズを作って喜んでみせて、最終的に彼の「トライ」は認められたのであった。

ラグビー竹山晃暉選手「疑惑のガッツポーズ」産経新聞
【竹山選手「ガッツポーズ」産経新聞・電子版2017年1月9日付より】

 一連のプレーは「疑惑のトライ」とも呼ばれた。

 オシムさんの基準で言う「日本人」の中に、竹山晃暉選手は含まれるのか含まれないのか?

オシムさんの「日本人観」はステレオタイプ
 竹山選手の振る舞いは「スポーツマンシップに反する行為」だったかもしれないし、場合によっては反則を取られたかもしれない。そういう批判はあっていい。しかし、竹山選手は「日本人らしくない」などと非難するのは適切ではない。

 当ブログは竹山選手を責める気はまったくない。むしろ「日本人」でも、こんなに「ゲームズマンシップ」または「マリーシア」あふれるアスリートがいることに、不思議な感慨を覚えたのであった。

 オシムさんの「確かにフェアプレーを重視することで 日本人は損をすることが多い 〔しかし〕望ましい結果が得られなくても それが日本人なのだ」という日本人観は、邪気は無くともステレオタイプの偏見といえる。


 要するに、ドイツのサッカーといえば「驚異的な勝負強さと精神力の〈ゲルマン魂〉」、サブサハラ系アフリカ諸国のサッカーといえば「黒人選手の驚異の〈身体能力〉」等々と同じものである。これらの常套句にはある種の偏見が潜んでいる……などと批判される。

 最近はこうした発言には慎重になるのが「世界」の潮流ではなかったか。

 NHKスペシャル「ロストフの14秒」は大変好評だという(当ブログは,ロシアW杯全体の「総集編」や,世紀の談合にして大博打「日本vsポーランド」戦の検証番組も見たい.むろん肯定的な意味で)。ただ、オシムさんの解説は番組のクオリティをほんの少し下げている。

権威に従順な日本人の国民性?
 もっと気になるのが、オシムさんの発言を鵜呑みにしている「日本人」が多いことだ。






 話が矛盾するが、これこそ「権威に従順な日本人の国民性」で、サッカーにふさわしくないメンタリティである。いかに「オシムの言葉」でも「日本人」はもう少し、それを批評的に受容するべきであろう。

 日本人はコレコレといった国民性……という決め付けが、かえって日本サッカーの可能性を狭めている(狭めてきた)からだ。


(了)



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