スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:ラグビー

『スポーツとは何か』はトンデモ本である
 玉木正之氏(スポーツライター)の主著であり、九州大学附属図書館が選定した「九大100冊」にまで選ばれた『スポーツとは何か』(1999年)。

スポ-ツとは何か (講談社現代新書)
玉木 正之
講談社
1999-08-20

  • 参照:九州大学附属図書館「九大100冊: no.81 - no.100」(2009年7月)https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/qu100/qu100_5
 しかし、この本は「トンデモ本」であり、日本のスポーツ界・日本のスポーツ文化を大きく惑わす一冊である。なぜか……。

「野球(またはアメリカンスポーツ)=演劇文化代替物」説
 玉木正之氏のスポーツ史論・スポーツ文化論にはいくつかの定番ネタ(珍説)があるが、そのひとつに「野球(またはアメリカンスポーツ)=演劇文化代替物」説、あるいは「野球(またはアメリカンスポーツ)=中断のスポーツ」説ともいうべきものがある。

 それはどういうものか? まず、この珍説のオリジナルは虫明亜呂無(作家,評論家ほか,故人)の「芝生の上のレモン~サッカーについて」(『時さえ忘れて~虫明亜呂無の本3』所収,初出『スポーツへの誘惑~現代人にとってスポーツとは何か』1965年)である。
 アメリカ〔合衆国〕ではサッカーも、ラグビーもさかんではない。

 さかんなのは、アメリカン・フットボール、野球、そしてゴルフ。

 いずれもゲームの合間合間に時間を必要とするスポーツである。合間はスポーツをスポーツとしてたのしませるよりも、むしろ、ドラマとしてたのしませる傾向に人を持ってゆく。合間の、間のとりかたに、選手はいろんなことを考える。彼の日常の倫理がすべて投入される。間をいれることで、ゲームはクライマックスにちかづいていく。観客はそれをたのしむ。実際、無造作にポン、ポン、ポンと投手が投げて、打者がバッティング・マシンのように、そのボールを打ちかえしていたのでは、およそ、つまらない野球になってしまうであろう。

 反面、間の取りかたに、不必要な思いいれが入ってくる余地をのこしている。プロのように、見せることが第一条件のスポーツでは、その傾向が特に強調される。スポーツとしての要素よりも、芝居としての要素がどうしても強く要望されるわけである。

 野球やアメリカン・フットボールは芝居の伝統のない国〔アメリカ合衆国〕が作った。土や芝生のうえの、脚本も背景も、ストーリーも必要としない単純な芝居ではないだろうか。演劇の文化的基盤のない国〔アメリカ合衆国〕、それがプロ野球を楽しむ。スポーツとしてではなく、ドラマとしての野球を。それも素人の三流芝居を。

 日本のプロ野球も、この傾向を追っている。〔以下略〕

虫明亜呂無「芝生の上のレモン」@『時さえ忘れて』162~163頁


時さえ忘れて (虫明亜呂無の本 3)
虫明 亜呂無
筑摩書房
1991-06-01


 玉木正之氏は、この珍説を無批判に踏襲し、さまざまな著作や大学・大学院の講義、テレビやネット動画の番組などで吹聴している。虫明亜呂無氏を深く崇拝し、学問的・実証的な思考ができない玉木正之氏にとって、彼の言葉は「科学的真実」なのである。

 しかし、『つくられた桂離宮神話』『法隆寺への精神史』などの著作があり、NPB・阪神タイガースのファンとしても有名な井上章一氏(建築史,風俗史,国際日本文化研究センター所長)も、著書『阪神タイガースの正体』の中で「虫明亜呂無の説はあまりにも文学的すぎて(学問的ではなく)社会史などの資料(史料)として扱うことは危うい」と警鐘を鳴らしている。

阪神タイガースの正体
井上 章一
太田出版
2001-03-01


 つまり、虫明亜呂無氏の「野球(またはアメリカンスポーツ)=演劇文化代替物」説は、そもそも与太話であり、学問的・実証的な裏付けの無い珍説にすぎない(これは改めて後述する)。

 しかし、玉木正之氏は進撃を止めない。

ドラマと「間」とアメリカンスポーツ
 アメリカンフットボールやバスケットボールでは、ルール上、タイムアウトやハドルといった作戦会議の時間を取ることが認められており、プレーが絶えず動き続けるサッカーやラグビーのような英国生まれヨーロッパ育ちのスポーツとは違って、プレーの中断、インターバル、言い換えれば「間」(ま)が非常に多い。

 また野球(ベースボール)では、ピッチャーが投げる投球ごとの「間」、バッターから次のバッターへの「間」、イニングとイニングの「間」、選手交代の「間」、作戦タイムの「間」などがある。NPB日本シリーズやMLBワールドシリーズ、早慶戦などの大学野球ともなると、試合と試合との「間」というものまである。

 こうしたアメリカとヨーロッパのスポーツ文化の違いを、玉木正之氏は『スポーツとは何か』の中で、虫明亜呂無氏の「芝生の上のレモン」を援用しつつ、次のように述べる。
 これほど「間」が多いのは、アメリカが〈演劇の文化的基盤のない国〉だったから、という指摘がある。開拓時代は原住民との闘い等で劇場を造る余裕がなく、演劇が発達しなかった。演劇を楽しめなかった分、その役割を広場でプレイされるボールゲームに求めた。観客は、プレイがとぎれる「間」のうちに、プレイヤーが何を考えているのか、次は何をしようとしているのか、といったことを想像し、頭の中でドラマを楽しんだ。

 一方ヨーロッパでは、シェークスピアやモリエール以来の演劇、モーツァルトやロッシーニ以来のオペラが、大衆に楽しまれていた。そこでドラマは演劇やオペラにまかせ、スポーツでは「間」がなく、終始動きつづけるプレイ〔サッカーやラグビー〕が好まれるようになった。

玉木正之「〈間〉でドラマを楽しむ」@『スポーツとは何か』34頁
 引用文中の「開拓時代は原住民との闘い等で劇場を造る余裕がなく、演劇が発達しなかった」云々のくだりは、虫明亜呂無氏のオリジナル説には無く、玉木正之氏によるさらなる付け足し(創作)である。また「一方ヨーロッパでは、シェークスピアやモリエール以来の……」云々のくだりも、玉木正之氏の付け足し(創作)である。

 これが2020年刊の玉木正之氏の著作『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』になると、話はこうなる。
 このヨーロッパとアメリカの違いは、劇場文化の有無によるもの、とされている。ヨーロッパでスポーツが誕生・発達したころは、すでに劇場文化も存在し演劇やオペラが日常的に上演されていた。

 古代ギリシア〔ギリシャ〕では、アイスキュロス、ソフォクレス、アリストパネスといった悲劇作家や喜劇作家が数多く活躍していた。またラシーヌ、コルネイユ、モリエール、シェイクスピア、ボーマルシェ、モーツァルトなどを挙げるまでもなく、ルネサンス以降のヨーロッパでも、演劇やオペラの上演が盛んだった。

 しかし、インディアンと呼ばれたアメリカ先住民との戦いや、開拓のための労働に明け暮れたアメリカ大陸の街や都市では、教会は建設されても劇場の建設にまでは手が回らなかった。

 アメリカの人々は、ドラマの楽しみを広場さえあれば行うことのできるスポーツの中に求めるようになった。その結果、アメリカ生まれのスポーツにはドラマ(演劇,芝居)のような「間(ま)=試合の中断」が多くなったというのだ。

 劇場でドラマを楽しむことの少なかったアメリカの人々は、ピッチャーが投球動作に入り投げるまでのあいだに様々なことを思い浮かべた。あのピッチャーは最近調子が悪い。何があったのか? 新聞によると恋人にフラれたそうだ。だったらその悔しさをぶつけろ! バッターは恋人に逃げられるようなピッチャーなんかに抑えられるなよ……。

 スポーツ映画は、ベースボール〔野球〕やアメリカンフットボール、バスケットボールやアイスホッケーなど、アメリカのスポーツがほとんどだ。それに比べてヨーロッパ生まれのボールゲームは、試合の中にドラマを入れることが難しいのだ。

 『巨人の星』の主人公の星飛雄馬は、ピッチャーズマウンドで目の中でメラメラと炎を燃やし、「俺はオヤジに負けない!」などと叫びながら投球する。その時間、ドラマを演じる時間はタップリある。それに比べて、『キャプテン翼』の大空翼……〔以下略〕

玉木正之「星飛雄馬は、なぜ投球の時に目から炎を出すのか?」@『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』58~60頁


 劇画『巨人の星』の主人公・星飛雄馬は父(星一徹)のことを「父ちゃん」と呼ぶのではなかったか? ……とか、細かいツッコミはさておき。

 今度は「古代ギリシャ」の悲劇・喜劇にまで話が拡大している。要は、読者は玉木正之氏の衒学に付き合わされているのだ。

ベースボールの日本普及と「間」の日本文化
 さらに重要なのは、玉木正之氏が、明治時代、日本でサッカーよりもラグビーよりも野球の人気が先行した理由のひとつに、野球が「間」のスポーツであることと、大いに関係があると主張していることだ。
 欧米から日本にスポーツが伝播したのは明治時代初期。文明開化の明治4〔1871〕~20〔1877〕ごろに、西洋の様々なスポーツが伝わってきたと言われている。〔中略〕

 ありとあらゆるスポーツ競技が、文明開化の波に乗って日本に雪崩れ込んできたが、庶民のあいだで瞬く間に圧倒的な人気を獲得したのが、ベースボール〔野球〕だった。〔中略〕

 なぜ日本では多くのスポーツ(ボールゲーム)の中で野球〔ベースボール〕だけが突出した人気を博したのか?〔中略〕

 本書をお読みの読者は気づかれたと思うが、野球のように試合中の中断〔間=ま=〕の多い球技は、その時間を利用して観客が様々な「ドラマ」〔演劇,芝居〕を思い浮かべることができる。

 だから少々野球のルールがわからなくても、苦しんでいると思われる打者に「がんばれ!」と声援を送ったり、チャンスだと思える打者に「それいけ!」と励ましたりすることができる。

 つまりベースボールのようなアメリカ型のドラマ性の高い球技は、競技のルールや選手の技術、試合の戦略や戦術などを知らない人々にとっても、とっつきやすいスポーツと言えるのだ。〔以下略〕

玉木正之「アメリカの球技とヨーロッパの球技は、どこが違うのか?」@『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』60~62頁
 一方、日本にも、有名な日本文化論として剣持武彦氏(比較文学者,故人)の『「間」の日本文化』という著作がある。日本人には「間」を愛(め)で、楽しむ文化がある。

間の日本文化 (講談社現代新書 495)
剣持 武彦
講談社
1978-01-01


 「間」のアメリカンスポーツ文化と、「間」の日本文化。まさに野球は、日本人の国民性や民族性、歴史、文化、伝統、精神とピッタリ相性のいいスポーツなのである???

プロの学者・鈴村裕輔氏による玉木正之批判
 玉木正之氏のこの持説は、2021年2月に連載された『日本経済新聞』のシリーズ「美の十選」でも展開された。
 野球だけでなく、アメリカン・フットボール、バスケットボール、バレーボールなど、アメリカ生まれの球戯ボールゲームは、総じて試合の中断が多い。ヨーロッパ生まれのサッカーやラグビーやホッケーはできるだけ試合を継続させる。が、アメリカの球戯〔球技〕は、作戦タイムを設けてまで試合を中断させる。

 それは長かった開拓時代に、なかなか劇場を建てることができなかったからとされている。ドラマやオペラを劇場で楽しむことができなかった代わりに、スポーツのなかにドラマを求めたアメリカ人は、ゲームの中断中に様々なドラマを想像するようになったのだ。

 「最近、あの選手の調子がいいのは恋人ができたからだろう」「あの選手の調子が悪いのは監督と喧嘩〔けんか〕したからか?」……〔以下略〕

玉木正之「日経 美の十選/アート・オブ・ベースボール(7)ベン・シャーン〈National Pastime〉」(2021-08-11)http://www.tamakimasayuki.com/nongenre/bn_220.html
 しかし、これはおかしい! ……と批判した人こそ、プロの学者である鈴村裕輔氏(名城大学外国語学部准教授,野球史研究家,法政大学博士=学術=ほか)である。
 ……野球などの米国生まれの球技が〔サッカーやラグビーなどイギリス・ヨーロッパ生まれの球技と違って〕「作戦タイム」を設けてまで試合を中断させるのは、開拓時代に劇場を建てられなかったため演劇や歌劇の代わりにスポーツの中に「ドラマ」を求めたからという説が唱えられているものの、こうした説は野球史の研究において実証的に支持されているものではありません。

 いわば珍奇な説があたかも定説であるかのように紹介されることは、読み手に不要な誤解を与えかねないものです。

鈴村裕輔「隔靴掻痒の感を免れ得なかった玉木正之氏の連載~アートオブベースボール十選」https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/76353/9a7f93942afb88bf7cbe9f37ae33d509?frame_id=435622
 左様、「野球(またはアメリカンスポーツ)=演劇文化代替物」説は、学問的な吟味と実証を経ていない、読者(スポーツファン)に不要な誤解を与える与太話なのである。<1>

学問的吟味が必要な玉木正之氏の「学説」
 玉木正之氏は(虫明亜呂無氏も)、アメリカ生まれの球技のみに「中断」があると考えているが、イギリス生まれの球技には、イギリス・英連邦諸国で人気があるクリケットという、野球の親戚である「バット・アンド・ボール・ゲーム」が存在していることを忘れている。この球技には頻繁に「中断」がある。

クリケット
クリケット

野球
野球(ベースボール)

 事実誤認が多い玉木正之氏はともかく(笑)、イギリスの国技クリケットという「中断」の多いスポーツを忘却した虫明亜呂無氏は相当な失当をおかしたのではないだろうか。

 また、ハリウッドの映画やブロードウェイのミュージカルなどが盛んなアメリカが、ヨーロッパと比べて演劇文化が乏しいなどとはとても信じられない。イギリス生まれの喜劇俳優・映画俳優チャールズ・チャップリンは、アメリカの演劇や映画に大きな可能性を見出して渡米したはずだ。

チャップリン自伝: 若き日々 (新潮文庫)
チャップリン,チャールズ
新潮社
2017-03-29


 何より、野球(ベースボール)固有のゲーム性と日本人固有の国民性が見事に合致したからこそ、野球がサッカーやラグビーなどに先んじて日本で国民的人気を得た……という玉木正之氏の「学説」は疑わしい。

 そもそも球技スポーツの伝播や普及が、明治時代初め(1872年頃)のお雇い外国人の一時的な紹介でごく自然に達成されたかのような、玉木正之氏が吹聴するイメージは間違いだ。

 日本における野球の普及の第一歩は1878年(明治11)、平岡凞(アメリカ留学帰りの鉄道技師)による新橋アスレチック倶楽部の創設から。
  • 参照:平岡凞「我国初の野球チームを結成」(野球殿堂博物館)https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/hof-002/
 また、日本におけるサッカーの普及の第一歩は1896年(明治29)、東京高等師範学校(現在の筑波大学の前身)のフートボール部(蹴球部)の創設から。そして、日本におけるラグビーの普及の第一歩は1899年(明治32)、慶應義塾が蹴球部(ラグビー部)の創設から……である。

 どれも、それなりの人手と手間暇を掛けなければ普及しなかったのである。そして、野球とサッカー・ラグビーには20年くらいの時間的な開きがある。野球の人気が日本で先行したのは、以上のような事情で説明できる。けして、玉木正之氏が主張するような理由からではない。

 ちなみに玉木正之氏のスポーツ史論・スポーツ文化論には、平岡凞のような草創期日本野球の最重要人物の名前が全く出てこない。このような人物が筑波大学や立教大学、国士舘大学といった高等教育機関で「スポーツ学」を講じたことは、滑稽にすら思える。

 一説に、玉木正之氏は肝心なスポーツ学界(学会)からはマトモな「学者」扱いされていないという。しかし、むしろ(鈴村裕輔氏の批判のみならず)玉木正之氏のスポーツ「学説」には、学問的な吟味とその公開の必要があるだろう。





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日本人論・日本文化論への傾倒
 スポーツ研究書の中では名著と言われる『オフサイドはなぜ反則か』や、『メンバーチェンジの思想~ルールはなぜ変わるか』を書いた中村敏雄氏(1929年‐2011年,スポーツ学者,教育学者)。


 氏は、一方で、「日本」(日本人)と「欧米」または「西洋」との間に越えられない壁を構築する癖の強い人で、この点、かなり頑迷であったと思う。

 例えば、『メンバーチェンジの思想』の第2章「スポーツ・ルールの不平等性」章末の註を読んでみると、土居健郎氏(精神科医)の『「甘え」の構造』だとか、角田忠信氏(脳科学者)の『日本人の脳~脳の働きと東西の文化』だとか、何とも怪しげな日本人論・日本文化論の著作が参考文献として挙げられている。

「甘え」の構造
土居 健郎
弘文堂
1991-10-01


日本人の脳―脳の働きと東西の文化
角田 忠信
大修館書店
1978-01-01


 これらの著作(日本人論・日本文化論)は、純粋に学問的な検証には堪えられない、その妥当性はきわめて疑わしいものだとして、例えば杉本良夫氏やロス・マオア氏(ともにオーストラリア在住の比較社会学者)などから否定的な評価を受けている。

日本人論の方程式 (ちくま学芸文庫 ス 1-1)
ロス マオア
筑摩書房
1995-01-01


 これらを勘案すると、中村敏雄氏の所説もそろそろアップデートが必要なのではないかと思うのである。

『サッカー批評』誌に中村敏雄氏が登場
 その中村敏雄氏が、半田雄一編集長時代の季刊『サッカー批評』2003年7月第19号の対談に登場した。相手は永井洋一氏(サッカージャーナリスト)である。タイトルは「スポーツ(あるいはサッカー)をできる幸せ」。

季刊『サッカー批評』2003年7月第19号表紙
季刊『サッカー批評』2003年7月第19号表紙

 ここでも「日本」(日本人)と「欧米」または「西洋」との間に越えられない壁を構築する中村敏雄氏の傾向は、よく読み取れる。

 欧米人は文化的に(あるいは人種的にも?)スポーツをしなければならない必然性があるけれども、しかし、日本人にとってスポーツなど所詮は輸入文化であり、そんな必然性もエネルギーも無い……と言わんばかりの、きわめて冷淡な日本人観なのである。
 中村敏雄 日本にとって、スポーツは外来文化なんです。シュトラッツに18~19世紀イギリスの民衆スポーツに関する著作があって、陸上競技系やボールゲーム系、それにマジックのようなものまでいろいろと取り上げられているのですが、そのなかのボールゲーム系だけでも20種目もある。

 ところが酒井欣の『日本遊戯史』や増田靖弘が編集した『遊びの大辞典』で日本の庶民がどのような遊びをしていたかを見てみると、スポーツといえるものが全然ない。武士も含めると流鏑馬〔やぶさめ〕が出てくるけれども、それでも数は少ない。

日本遊戯史
酒井欣
第一書房
1983-10-01


遊びの大事典
東京書籍
1989-07-01


 永井洋一 やはり、相撲や力比べになるのですか?

 中村 ボールを使うようなものは、子供の遊戯になってしまう。庶民の大人が行事としてではなく余暇に、アウトドアで、近隣の人たちといっしょに、という条件で探すと、なにもないんです。ところが、イギリスにはあった。あちら〔欧米〕ではやっていたのに、なぜこちら〔日本〕ではなかったのか。

 それには、たとえば向こう〔欧米〕は金持ちでこちら〔日本〕は貧乏だったという理由が考えられる。それが明治時代になって、サッカーだ野球だ陸上競技だと次々と日本に紹介された。それを庶民がやったかというと、やる条件がない。やったのは子供や志賀直哉など白樺派に属した人間たち。

 つまり、国民の1パーセント以下の人数しかいなかったわけです。しかもこの伝統は続いていて、今日まで〔21世紀まで〕引きずっているのではないでしょうか。〔以下略〕

対談:中村敏雄×永井洋一「スポーツ(あるいはサッカー)をできる幸せ」@季刊『サッカー批評』2003年7月第19号


中村敏雄(季刊『サッカー批評』2003年7月第19号より)
季刊『サッカー批評』第19号で語る中村敏雄氏
 ……この対談では、中村敏雄氏のかなり冷めた日本人観が続いて、通俗的な比較文化論(日本人論・日本文化論)に懐疑的な当ブログは、かなりウンザリしてしまった……というのが正直な感想であった。

 この対談の中でも中村敏雄氏は、加藤周一氏(評論家,医学博士ほか)の『雑種文化~日本の小さな希望』だとか、増田義郎氏(文化人類学者)の「ケロリ主義」(@『日本人が世界史と衝突したとき』)などといった日本人論・日本文化論を援用している。

 中村敏雄氏の冷淡な日本人観、冷淡な「日本人とスポーツの関わり」観は、やはり日本人論・日本文化論のベストセラー・ロングセラーに大きな影響を受けているのだと思った。

「コッホ先生」から考えること
 しかし、中村敏雄氏の考えるところは案外と正しくないのではないか?

 前近代のイギリスには存在し、だが前近代の日本には存在しなかったと中村敏雄氏が言う「ボールゲーム」系のスポーツであるが、それでは前近代のドイツには「それ」は存在していたのか?

 個人的に考えさせられたのは、あらゆるスポーツが中止に追い込まれた、2020年のいわゆる「コロナ禍」のことであった。

 この時、放送するコンテンツに困った、ケーブルテレビのスポーツ専門チャンネル「Jスポーツ」が、ドイツのサッカー映画「コッホ先生と僕らの革命」(原題:Der ganz grosse Traum)を放送した。
映画「コッホ先生と僕らの革命」
 〈ドイツ・サッカーの父〉と呼ばれる実在の教師コンラート・コッホを主人公に、サッカーを通じて封建的な学園に自由と平等の精神を植え付けた型破りな教師と生徒たちとの心の交流を描く感動の学園ドラマ。主演は「グッバイ、レーニン!」のダニエル・ブリュール。



映画『コッホ先生と僕らの革命』予告編


コッホ先生と僕らの革命 [DVD]
カトリン・フォン・シュタインブルク
ギャガ
2018-11-02


コッホ先生と僕らの革命 (字幕版)
ユストゥス・フォン・ドーナニー
2013-05-15


コッホ先生と僕らの革命 (吹替版)
ユストゥス・フォン・ドーナニー
2013-05-15


 いやぁ、面白い映画だった。その昔、1960年代後半から1970年代にかけて、東宝テレビ部が制作し、日本テレビ系で放送された、熱血教師がラグビーやサッカーを通じて生徒たちに人生の生き方を教える「青春学園ドラマ」とは、こんな感じだったのかもしれない。
  • 参照:ミドルエッジ「懐かしの青春ドラマ」(2023年4月2日)https://middle-edge.jp/articles/Wjv7A
 もっと面白かったのは、スポーツや身体活動といえば「ドイツ式体操」しかなかった19世紀後半のドイツの学校で、生徒たちに、主人公のコッホ先生が「フットボール」(サッカー)という、ゲーム性にみちたボールゲーム系のスポーツの面白さや意義を伝える、そのことにかなり苦労しているところが細かく描かれていたことである。

 コッホ先生は、規律と服従を重んじる学校の校長から「(あんな)くだらん球遊び(フットボール=サッカー)は子供たちを堕落させる」だとか「あの〈遊び〉(フットボール=サッカー)を止めさせなければ……貴様はクビだ!」だとか、そんなことまで言われる。

 ドイツですら最初からフットボール(サッカー)に寛容だったわけではなかった。サッカーのナショナルチーム(代表チーム)の実績において、イギリス(イングランド)をはるかに凌駕するドイツにおいてすらそうなのである。<1>

 コンラート・コッホが活躍した時代は、19世紀後半。日本の明治時代前半である。この辺は、日本に英米のスポーツがさまざま紹介、輸入された時代とそんなに変わらない。

 明治時代の日本において、平岡熈が野球を、中村覚之助がサッカーを、田中銀之助とエドワード・B・クラークがラグビーを、それぞれ日本人に伝えていた時も、コッホ先生と似た感じだったのではないかと感じた。

 そしてスポーツ、特にフットボール(サッカーやラグビーなど)やベースボール(野球)といったボールゲームいう概念が薄い、あるいはほとんど無い国で、その面白さや意義を伝えることの大変さは、日本もドイツもそんなに変わらない。

日本人論でスポーツを考究するスポーツ学は絶滅したはず…?
 先に名前を出した、日本人論・日本文化論批判の比較社会学者 杉本良夫氏とロス・マオア氏は「西洋一元論」を批判していた。

 つまり「欧米」だとか「西洋」だとか、あれだけ広くて多様な地域を「均質な一枚岩」ととらえ、その一枚岩と「日本」と対比させる視点は間違いの元だというのである。

 「欧米」や「西洋」の諸社会をひとつひとつ個別に取り上げて比較すれば、社会によって日本と共通する点や異なる点がさまざま発見され、一元化された「西洋」や「欧米」のイメージも崩れていくというのだ(『日本人論の方程式』164~165頁)

 イギリスとドイツは「欧米」または「西洋」という一枚岩なのだから、スポーツ(特にフットボール=サッカー)が伝わる障壁が日本よりは低いというイメージは正しくない。「スポーツは外来文化」という点において、むしろ日本とドイツは似ている。

 そんなことを考えさせられた映画「コッホ先生と僕らの革命」であった。

 繰り返すが、中村敏雄氏は「日本」(日本人)と「欧米」または「西洋」との間に越えられない壁を構築する癖の強い人で、この点、かなり頑迷であったと思う。

 だが、さすがに最近は通俗的な比較文化論(日本人論・日本文化論)でモノを見るスポーツ学者・スポーツ社会学者はいなくなったと思いたい。

つづく
▼中村敏雄を疑う(2)日本のサッカー文化は「根なし草」なのか?(2024年02月22日)https://gazinsai.blog.jp/archives/51197229.html




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守田英正選手の悲痛なコメント
 2024年1~2月にカタールで行われた「アジアカップ2023」、サッカー日本代表=森保ジャパンは「日本サッカー史上最強」と呼ばれ、優勝を期待されながら、しかし準々決勝(ベスト8)で敗退してしまった。これには多くのサッカーファンの失望している。

 日本が敗れた対イラン戦は、後半、日本が防戦一方になりながら(そして後半終了直前に与えたPKを決められた)、森保一監督は選手交代や守備の指示など、何の手も打たなかった。この森保采配についても多くのサッカーファンの失望している。

 これには選手、例えば守田英正選手からも異論が出ている。
 ……後半10分に追いつかれてから我慢の時間が続き、後半アディショナルタイムにPKで決勝点を献上。そんな試合展開に守田〔英正〕は偽らざる胸中を吐露した。

 「どうすれば良かったのかはハッキリ分からない。考えすぎてパンクというか、もっとアドバイスとか、外からこうした方がいいとか、チームとしてこういうことを徹底しようとかと〔ベンチからの声〕が欲しい。チームとしての徹底度が足りなくて試合展開を握られるということがゼロじゃないし、この大会でも少なからずあった。ボランチとして、プレイヤーとして、チームのために考えないといけないし、その思考は止めないけど、そこの決定権が僕にある必要はないのかなと思う。あくまで僕は最後の微調整だけでいいのかなと。担っているものを重荷には感じないけど、もっと〔ベンチからのアドバイスが〕欲しい

 ピッチ上の選手だけで対応するのにも限界がある。劣勢の展開の中でもっとベンチからの明確な指示があっても良かったのではないか。〔以下略〕

西山紘平/ゲキサカ「苦悩を吐露した守田英正の悲痛な叫び〈考えすぎてパンク〉〈もっといろいろ提示してほしい〉」(2024/2/4)https://web.gekisaka.jp/news/japan/detail/?400971-400971-fl
 一方、これについては、次のような解釈も存在する。
 守田〔英正〕は今回の発言の際、非常に言葉を選びながら絞り出すように思いを口にしていたが、森保一監督を始めベンチ側から「もっと提示して欲しい」というのはこれまでもよく話題に上がっていたこと。〔略〕

 ただ一方で、そういった状況を分かった上で指揮官が〈動かない〉ことを選択している節もある。〔略〕目の前の勝利とともに日本サッカーの発展を考えるが故に、何もしないことで選手たちがどう反応し、どういった解決を図るかを見守っているところがある。そこは森保監督の〈ズルさ〉と表現していい。

林遼平/GOAL「なぜ優勝にたどりつけなかったのか.アジア杯を戦う日本代表にあった2つの〈問題〉」(2024年2月08日)https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/japan-asian-cup-review-20240208/blt495228c8f255efbc
 それにしても、2024年の今でもこういう奇妙な論理が出てくるのか? ……と(当ブログは)驚く。

 まず、アジアカップの準々決勝はあえて「〈動かない〉ことを選択」して勝たなくてももいいという試合ではなく、何が何でも勝ちにいかなければならない試合である。

 何より、森保一監督はあえて「〈動かない〉ことを選択」した、「ズルさ」の現れなのではなく、試合中、単純にフリーズしてしまい、適切な手が打てなかったのではないか……という批判的な指摘の方が多数派である。

日本のスポーツ界と「ボトムアップ型」の日本代表
 森保一監督はチームに戦術の仕込みをせず、試合中、選手たちに具体的な指示を送ることも少ない。これを「ボトムアップ型」の監督と呼ばれるが、別の(悪い)言い方をすると「戦術やプレーを選手たちに丸投げ」する監督ということである。

 木村浩嗣氏(元フットボリスタ誌編集長)が、小澤一郎氏(サッカージャーナリスト)が主宰するYouTube番組の中で「ボトムアップ型の監督やチームなんてスペインサッカーじゃ有り得ない!!」と語っていたが、なぜ日本にそのような類型が存在するのか?


[冒頭10分公開]スペインから見た日本代表の弱点と敗因。「監督で負けた」「ボトムアップなんてありえない」

 日本のスポーツ界、日本のスポーツ論壇には、「〈日本人〉のスポーツ選手は細かい戦術指導や指示をすると思考の柔軟性を失い、その枠をはみ出てプレーをすることが出来なくなる」という「迷信」がある。特にサッカーやラグビーなどはそう言われる。

 だから、それを乗り越えるため……と称して、日本のスポーツ界は「ボトムアップ型」の日本代表が時として登場してきた。すなわち、1997年~2000年のラグビー日本代表「平尾ジャパン」、2002年~2006年のサッカー日本代表「ジーコ・ジャパン」がそうである。

 平尾ジャパンの平尾誠二監督(故人)は、次のように述べている。
 「多様な局面に対し、多様に瞬時に対応できるのが、現代のいいプレーヤーの条件です。しかし、これは日本人が一番弱い部分。そもそも、そういう教育がされていない」「(ラグビーのゲームは)常に状況が変わり、選手がどうカオス(混とん)に対応するかが問題になる」

『日本経済新聞』1999年11月20日付
 今でこそ、森保ジャパンを鋭く批判している西部謙司氏(サッカー記者)であるが、かつてはこの論理でジーコ・ジャパン(セレクター型監督と称していた)の熱烈な支持者であった。森保一監督は「セレクター型」の監督なのだろうか?

アエラ2004年6月7日号より
ジーコ・ジャパンの風刺画:アエラ2004年6月7日号から

 前掲の林遼平氏(GOAL.COM)の言い分は、実はこの論理をなぞったものである。

「日本人」と「自己決定力」
 そもそも、森保一監督の「雇い主」であるところの田嶋幸三JFA会長(2024年3月で退任予定)自身が、そういう「迷信」を信じているのではないか? ……との見方がある。田嶋幸三会長の著作、2007年に出た『「言語技術」が日本のサッカーを変える』の冒頭にはこうある。<1>
 2007年1月、大坂で「第5回フットボールカンファレンス」が開催されました。

 メインテーマは、06年にドイツで開催されたワールドカップの分析と報告です。このカンファレンスで私〔田嶋幸三〕は「日本代表報告」を担当することになっていました。

 私が壇上に立つ直前、ハッとするような話が耳に飛び込んできたのです。

 ワールドカップの準決勝・イタリア対ドイツ――この大会で何試合かアシスタントレフェリーを務めていた廣嶋禎数〔ひろしま・よしかず〕さんが、こんな話を始めました。

 「イタリアの選手が退場させられて選手が1人減ってしまったその時、イタリアの選手たちは、誰1人として、ベンチを見なかった」

 イタリア・チーム〔2006年ドイツW杯で優勝〕は、状況からして非常に不利な局面を迎えていた。にもかかわらず、選手たちはベンチに指示を仰がなかった。その場で話し合いをはじめ、10人でどのように試合を進めていくのかを即座に決め、お互いに指示を出し合い、発生した問題を解決していった――というのです。

 ピッチ上の選手が、「ベンチを見ない」。

 そのことは、いったい何を示しているのでしょうか? サッカーにとって、どれくらい重要な意味があるのでしょうか?

 イタリアのメンバーたちは、選手が1人欠けてしまった場面に遭遇しても、自分たちで判断し難問を解決する力を持っていました。そうした能力をしっかり養ってきたからこそ、彼らはベンチに対して「指示を求めなかった」のです。

 つまり、「ベンチを見ない」ということは、ピッチ上で発生した出来事をどう処理していくのか、そのために分析力と判断力を発揮して、決定する「力」を持っていたことの「証」〔あかし〕でした。

 究極の状況下で、自ら考えて判断を下す「自己決定力」。その力を備えていない限り、世界で通用するサッカー選手になることはできない、という事実を明確に示している――そうした出来事だと、私〔田嶋幸三〕には思えたのでした。

 でははたして、日本の選手たちはどうでしょう?

 日本のサッカーは、どれくらい「自己決定力」の大切さを意識してきたでしょうか? そうした能力を養っていくための訓練をしてきたでしょうか? 学校や家庭で、そうした能力を育む努力や工夫を、重ねてきたでしょうか? 「自己決定力」を支える、論理や表現力を学ぶシステムは、確立されているでしょうか? それともそうしたことの大切さすら、まだ自覚されていないのでしょうか?

田嶋幸三「ベンチを見ないイタリア・チーム」@『「言語技術」が日本のサッカーを変える』7頁~9頁


 平尾誠二監督と田嶋幸三会長の「日本人観」は、非常によく似ている。そして、ジーコ・ジャパン(や平尾ジャパン)の擁護論として、多用された言い回しでもあった。

 ジーコ・ジャパンは(平尾ジャパンも)、肝心なワールドカップ本大会では惨敗した。しかし、それは田嶋幸三会長が述べるところの「日本人の〈自己決定力〉の欠如」の問題であって、ジーコ・ジャパンの監督であるジーコ氏の責任ではない……ということで片付けられてしまった。

 この度の守田英正選手のコメントは、彼がサッカー選手としてレベルが低いということの「証」なのだろうか? ……それは違う。

「迷信」に斬り込んだスポーツライター
 藤島大氏(スポーツライター)は、あるいは大西鐵之祐氏(ラグビー日本代表監督ほか)の薫陶を受けたためもあるのかもしれない。「ボトムアップ型」日本代表を生み出す、日本スポーツ界の「迷信」を批判してきた。
 なぜかスポーツとなると「型」〔≒指示、戦術〕と「個性」〔≒自己決定力〕の対極へと位置づけるナイーブな論調が跋扈〔ばっこ〕する。しかし、マイク・タイソン〔元プロボクシング世界ヘビー級チャンピオン〕は厳しいパターンに従って戦ったプロデビュー直後こそ、もっともタイソンらしかった。〔略〕

 つまりスポーツに型はあるものなのだ。そして型を実行する過程においても「その人らしさ」は必ず反映されるし、「ここに拠点ができたら必ず右に攻めろ」とパターン化しても、パスをするのか蹴るのか当たるのかは「個人の判断」がしばしば決定する。

藤島大「〈史上最強〉の虚実」@『ラグビーの世紀』104頁


ラグビーの世紀
藤島 大
洋泉社
2000-02-01


 型、パターン、戦術を明快に打ち立てると、個人の判断や力強さが身につかない。とらわれがちな呪縛〔じゅばく〕ではある。少年期なら自由な判断と一般的な基本技術がとことん尊重されるべきだ。しかし〔日本〕代表の具体的なチーム作りにあっては、それでは時間が足りなくなる。それに、一級の指導者は選手の個性を観察した後にふさわしい型を構築するものなのだ。

藤島大「〈史上最強〉の虚実」@『ラグビーの世紀』106頁
 以上、平尾ジャパンを総括した記事である。実に溜飲が下がる。聞いているか!? 田嶋幸三会長! そして宮本恒靖次期JFA会長! ……と言いたくなる。

 藤島大氏は該当記事で、松尾雄治氏(元ラグビー日本代表)から「戦争に行ってさ、個人の判断でいけ、なんて嫌だよ。そんなの。あっちこっちに勝手に弾打ってさ。そんなんで、どうして死ねるんだよ」という、平尾ジャパンをやんわり批判した比喩的なコメントを引き出している。

 守田英正選手のコメント(あるいは三笘薫選手のコメント)は「そんなんで、どうして死ねるんだよ」という気持ちの表明でもあったのかもしれない。

 藤島大氏の筆鋒は、ジーコ・ジャパンの総括にも向けられている。
 ジーコが悪い。ジーコがしくじったから〔サッカー日本代表は2006年ドイツW杯で〕負けた。なぜか。チャンピオンシップのスポーツにおいて敗北の責任は、絶対にコーチ〔監督〕にあるからだ。〔略〕シュートの不得手なFW〔柳沢敦〕を選んで、緻密な戦法抜きの荒野に放り出して、シュートを外したと選んだコーチ〔監督〕が非難したらアンフェアだ。

藤島大「ジーコのせいだ」(2006年7月27日)https://www.suzukirugby.com/column/column984


柳沢敦:急に(Q)ボールが(B)来たので(K)
柳沢敦のQBK:急に(Q)ボールが(B)来たので(K)
 サッカージャーナリストの多くが「迷信」の前にジーコを批判できず、沈黙してしまったのに対し、まことに胸のすく啖呵である。

 あの対イラン戦。ロングボールをゴール前に放り込まれ続けられる「荒野」の中で、しかし、しかるべき守備の指示もなく、なすがままに敗れ去ってしまったのが森保ジャパンだった。

サッカーはアップデートしている
 もうひとつ。そもそも、イタリア代表の選手たちがW杯の準決勝でピンチに陥ってもベンチ(監督)の指示を仰がなかったという逸話は、今から17年半も昔の2006年のことである。

 しかし、2024年現在、サッカーというスポーツは(好むと好まざるとにかかわらず)アップデートしている。

 すなわち、GPSやAIなどを使った膨大なデータの集積と科学的な分析。ドローンを使ったフォーメーションの練習など高度に統制された戦術。そればかりか「個の力」に頼っていた最後の崩し方すら「組織的、戦術的」に練習する。

 試合中はピッチを俯瞰したスタッフがフォーメーションを絶えず観察、状況に応じてスタッフが無線で連絡しあい、それによって選手たちは柔軟にそれを変更する。……等々。

 もはや、ピッチ上の選手たちだけで出来るゲームではなくなっているのだ、サッカーは。

 選手だけでサッカーをしていると、それこそ「考えすぎて頭がパンクする」のである。

 三笘薫、堂安律、久保建英、遠藤航、冨安健洋、守田英正……等々(順不同)、日本代表選手の「個の力」も2006年当時から大幅に向上した。結局、森保ジャパンの活躍は選手たちの「個の力」に頼ったところが大きかったのではないか? ……とまで言われている。

 その「個の力」をチームの力にまとめきれないのは、やはりベンチ(監督)の責任ではないのか? ……と。

 田嶋幸三会長が『「言語技術」が日本のサッカーを変える』の中で称揚した逸話は、昔の日本プロ野球で二日酔いで猛打賞をとったスラッガーを讃える武勇伝と同じ類のアナクロニズムである。<2>

 森保ジャパンの予想外の不振と敗退に、ジーコ・ジャパンの(そして平尾ジャパンの)亡霊を見てしまった気がする。





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スポーツ報知の「誤報」?
 2023年12月13日02時00分、スポーツ報知・電子版が「Jリーグがスポンサー企業名入りのクラブ名称を認める」というニュースを配信した。
  • 参照:スポーツ報知「来季からJリーグクラブ名称に企業名〈解禁〉へ 発足から30年 収入増へ改革実施 19日にも正式決定」(2023年12月13日 2時0分)https://hochi.news/articles/20231212-OHT1T51143.html
 Jリーグはクラブの名称に親会社やスポンサー企業の名称を入れないことを旨としてきた。それが「Jリーグの理念」だった。

 それまでの方針(理念)を大胆に変更するという報道に、SNS上でサッカーファンは大いに動揺した。

 しかし、同日11時00分、Jリーグ当局が公式サイトでスポーツ報知の報道を明解に否定。サッカーファンは(一応)安堵した。
  • 参照:Jリーグ公式「プレスリリース~一部報道について」(2023/12/13 11:00)https://www.jleague.jp/release/%e4%b8%80%e9%83%a8%e5%a0%b1%e9%81%93%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6-5/
 同時に、スポーツ報知が「誤報」を流したことを糾弾するサッカーファンもいた。

 もっとも、この度のJリーグの秋春制シーズン移行についても、最初はスポーツ新聞の「新聞辞令」から始まったこともあるし、サッカーファンはまだまだ油断するべきではないのではないか?

Jクラブの名称に企業名を入れても現状では効果なし
 スポーツ報知曰く、企業名をクラブ名に組み込めれば、絶大な宣伝効果が期待できる。特に海外の大きな資金力を持った企業がJリーグに参加することで、Jリーグはさらなる資金確保につながる可能性がある……そうだが、この認識は正しいものとは言えない。

 日本のマスコミ企業(新聞や地上波テレビ)は、例えば朝日新聞が夏の甲子園(高校野球の大会)を主催していたり、読売新聞が読売ジャイアンツ(プロ野球球団)を経営していたり……等々、野球の興行に自ら関わっている。

 つまり、野球とは利害関係者の間柄で、一蓮托生、癒着している。野球、特にプロ野球は、日本のマスコミ企業にとって「自社コンテンツ」なのである。

 そんな日本のマスコミにとって、あくまで日本のナンバーワンスポーツは「野球」でなければならない。新しく台頭した「サッカー」など他のスポーツであってはならない。

 だから、日本のマスコミは「サッカー」など他のスポーツの報道の量を「野球」の報道の量より増やすことは(絶対に)しない。

 周知のように、日本のプロ野球(NPB)は阪神タイガースや東京ヤクルト・スワローズなどのように、親会社の名前を冠することが認められている。

 日本のマスコミは、プレシーズン(オープン戦)→レギュラーシーズン(公式戦)→ポストシーズン(日本シリーズなど)とNPBをくまなく報道する。それが、阪神電鉄やヤクルト本社といったプロ野球球団の親会社の宣伝につながる。

 ……のみならず、日本のマスコミはNPBのオフシーズン=シーズン終了後、秋・冬の間も、秋季キャンプ→ドラフト会議→契約更改→自主トレ→春季キャンプ→そしてプレシーズン……(以降ループ)と手厚く報道する。

 プロ野球はどうでもいいことまでマスコミが取り上げる。NPBのオフシーズン、毎年1~2月には、プロ野球選手や監督がお寺で護摩行に参加しただとか、マグロの解体ショー(!)に参加しただとか……。
  • 参照:サンスポ「広島・会沢,金本も新井も超えた! 護摩行で絶叫90分,池口大僧正も太鼓判」(2020/01/10)https://www.sanspo.com/article/20200110-CHO5ZHMPGVIZLMBIXKSJHBRUZE/
  • 参照:参照:サンスポ「西武の新人3選手,マグロ解体ショー体験」(2020/02/01)https://www.sanspo.com/article/20200201-6N4D2TOOTVJJPAYHUZYWRXETFU/
 まるでサッカーをはじめとした他のスポーツなど存在しないかのように(大相撲は別扱いとなるが)。20世紀から比べるとプロ野球の人気はずいぶん下がっているにもかかわらず。日本におけるスポーツの人気が、ずいぶん多様化しているにもかかわらず。

 ここまでやって、プロ野球球団に親会社の名前を冠に載せる広告的意味があるのだ。

 しかし、サッカーのJリーグの報道はそのようになっていない。プロ野球の報道量に比べるとその量はずいぶんと少ない。
  • 参照:Jリーグの人気とマスコミのスポーツ報道(2023年12月09日)https://gazinsai.blog.jp/archives/50663886.html
 また、ネーミングライツということならば、Jリーグのスタジアムは企業名が入っている。ガンバ大阪の本拠地「パナソニック スタジアム 吹田」、京都サンガF.C.の本拠地「サンガスタジアム by KYOCERA」……といった具合に。

 だが、我が国の公共放送NHKはこうしたスタジアムを企業名抜きで呼称する。そして、なぜかNPBの本拠地ならばそのまま呼称する。福岡ソフトバンク・ホークスの本拠地「福岡PayPayドーム」、オリックス・バファローズの本拠地「京セラドーム大阪」……といった具合に。

 こんな状態では、Jクラブの名称に企業名に入れても、ほとんど効果が無いのではないかと思わせる。

 この図式は、日本のマスコミ界の構造が変わらない限り、なかなか変わらないのではないかと思う。<1>

 有り体に言おう。日本のマスコミはあくまで野球の味方なのであって、その座を脅かすサッカー(その他のスポーツ)の味方になどならない。

 JリーグやJFA(日本サッカー協会)は、このことを理解していないのではないか?

 やっぱりJクラブのネーミングの企業名「解禁」は止めた方がいい。

ヴィッセル神戸と楽天のチームカラーをめぐる遺恨
 Jリーグ・クラブのネーミングに親会社やスポンサーの企業名を入れてしまうと、Jクラブがそのホームタウン(地域社会)の物ではなく、企業の物になってしまうことになりかねない。

 すると、企業の意向によって、Jクラブの名称やチームカラーが、そのクラブのファンやサポーターの心を無視して変更してしまう可能性がある。

 これは、かつてヴィッセル神戸で実際に起こったことでもある。

 2023年シーズンのJ1はヴィッセル神戸の初優勝となった(Jリーグから新しいチャンピオンクラブが出たのは良いことだ)。

 ヴィッセル神戸と言えば、クラブ会長の実業家で「楽天」の経営者・三木谷浩史氏である。三木谷氏は、経営危機に陥っていた同クラブを買収してこれを救済した人である。

 しかし、一方、ヴィッセル神戸を買収するに際して、それまでのチームカラー(白と黒の縦縞)を強引に「クリムゾンレッド」(クラブ公式サイトの表現)に変更させて、サポーターに遺恨を抱かせた人でもある。
  • 参照:5分で解るクリムゾンFC(楽天)「Vヴィッセル」問題 https://www.eonet.ne.jp/~tatta/5hun.htm
  • 参照:チームカラー変更について https://www.eonet.ne.jp/~tatta/color.htm
  • 参照:ヴィッセル神戸_クラブ概要 https://www.vissel-kobe.co.jp/club/
 クリムゾン(crimson)は、黒みがかった濃い赤色で、ふつうは「臙脂色」(えんじいろ)と訳される。一橋大学のスクールカラーであり、同校アメリカンフットボール部のニックネームである。また、米国アイビーリーグのハーバード大学のスクールカラーであり、同校アメリカンフットボール部のニックネームである。
  • 参照:臙脂色(えんじいろ)https://irocore.com/enji-iro/
 三木谷浩史氏は、一橋大学とハーバード大学の両方を卒業している。だから、三木谷氏にとってクリムゾン(臙脂色)は大変に愛着のある色である。

 だから、三木谷氏が買収したヴィッセル神戸(とプロ野球NPB・東北楽天ゴールデンイーグルス)のチームカラーが「クリムゾンレッド」になったと思われる。

 この時は、せめて従来のチームカラー(白と黒の縦じま)をセカンドカラーとして残せばいいのにと個人的には思ったが、それすら叶わなかった。

 ヴィッセル神戸のサポーターが抱いた遺恨は、今回の優勝で解消されたのだろうか?

 とにかく、Jクラブのネーミングの企業名解禁は止めた方がいい。





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 2023年日本サッカーシーズンのオーラス、天皇杯決勝の日の夜(優勝:川崎フロンターレ)にしたためる。

Jリーグは「人気がない」のか?
 もう1年前の話になるが、サッカー日本代表・森保ジャパンは、2022年カタール・ワールドカップで下馬評を覆す活躍を見せた。その時、日本のマスコミ報道も大いに盛り上がった。

 しかし一方、国内サッカーのJリーグは盛り上がっていない、話題性に乏しい、「人気がない」という印象をマスコミや一般の人々に持たれている。

 FC東京所属の元日本代表・長友佑都選手が、Jリーグのマスコミ露出の少なさを不安視し、「そもそもやっていることが一般の人々に知られていない」と「すごい危機感」を抱いているという報道がされている。
  • 参照:サッカーダイジェストWeb編集部「〈すごい危機感〉長友佑都がJリーグの〈メディア露出の少なさ〉を不安視〈そもそもやっていることを一般の人が知らない〉」(2023年02月10日)https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=126317
 しかし、コロナ禍に入る2019年のことであるが、このシーズンのJ1の1試合当たりの観客動員が平均2万人の大台を超えた(2万0751人)。これは世界基準でもかなり高い数字である。

 また、スタートから30周年を迎えたJリーグ、2023年シーズンの前哨戦となった、富士フィルム・スーパーカップ「横浜F.マリノス対ヴァンフォーレ甲府」戦は、東京・国立競技場を会場に実に5万0923人の観客動員を記録した。

 かような日本サッカー・Jリーグが「人気がない」とは、どういうことなのだろうか?

マスコミとスポーツの癒着
 スポーツライター・玉木正之氏が展開する日本スポーツ批判の定番ネタのひとつに「マスコミとスポーツの癒着」という話がある。

玉木正之「欧州のサッカーにも応援団はない」
玉木正之氏

 どんな内容なのかというと……。

 本来ならばスポーツジャーナリズムがスポーツに対する真っ当な批判を展開し、日本のスポーツを正さなければならない。しかし、日本の場合(欧米とは違って)、そのスポーツジャーナリズムを発揮するべきマスコミ=新聞社やテレビ局が、スポーツから利益を得る構造になっている。

 例えば、日本のマスコミは、スポーツチームの所有者やスポーツイベントの主催者となっている。例えば、読売新聞はプロ野球球団(読売ジャイアンツ)を所有している。あるいは、朝日新聞は高校野球の大会(全国高等学校野球選手権大会=夏の甲子園)を主催している。

 だから、読売新聞はプロ野球(特に読売ジャイアンツ)への批判がタブーであるし、朝日新聞は高校野球(特に夏の甲子園)への批判がタブーである。

 その他、マラソンや駅伝大会(箱根駅伝など)の主催、女子サッカークラブの所有、高校サッカー、高校ラグビー、高校バレーなどの主催者にマスコミが名前を連ねているため、日本のスポーツ界はスポーツジャーナリズムが存在できない状態になっている。

 つまり、日本においてマスコミとスポーツは癒着している。結果、日本のスポーツ報道は歪められ、延いては日本のスポーツも堕落する。

 ……といったものである。

 こうした主張に異論はない。実際にその通りなのであろう。これは日本のスポーツ文化における【貧しさ】を表している。

 しかし……。

「スポーツ大国」としての日本
 日本のスポーツ界には、野球(NPB)、サッカー(Jリーグ)、バスケットボール(Bリーグ)と、それぞれ相応の競技レベルと相応の観客動員数を持つプロリーグがあり、それぞれ相応に応援しがいのあるナショナルチーム(日本代表チーム)がある。

 相応に応援しがいのあるナショナルチームといえば(全国リーグのリーグワンはセミプロに近いが)、もうひとつラグビーがある。サッカーとラグビー、ふたつのフットボールのワールドカップ本大会でともに1次リーグを突破したことがある国のひとつが日本である。これは、実は世界的に希少な例である。

 アメリカでもヨーロッパでもない国で、これだけのプロリーグとナショナルチームを持つ国は、実は世界的にも珍しい。つまり、日本には日本なりの成熟したスポーツ文化がある。

 日本はスポーツ後進国だと言われているけれども、実は、日本は相応に凄いスポーツ国なのだ……と、サッカージャーナリストの後藤健生氏だったと思うが、どこかで書いていた(申し訳ない,ソース忘れました。Jスポーツ公式サイトの連載コラムだった気がする)。

 玉木正之氏は、こうした、一方にある日本のスポーツ文化の【豊かさ】【多様性】を知らない。

 後藤健生氏の場合、ほとんど毎週のように現場でサッカーの取材・観戦をしている、他にもラグビーやバスケットボールなども観戦し、はては東京・両国の国技館まで大相撲本場所の見物にも出かける人である。
  • 参照:後藤健生「競争原理を強めるJリーグの新しい考え方~サッカーの世界に〈横綱〉は必要なのか?」(2023年1月23日)https://news.jsports.co.jp/football/article/20190310224334/
 対照的に、玉木正之氏はほとんどスポーツの現場を取材しない、生で観戦しないスポーツライターとして有名な人である。それが理由で玉木正之氏にはスポーツライターの同業者やスポーツファンの「アンチ」が多い。<1>

 スポーツライターのくせに現場にも行かないで何を偉そうなことを言っているのだ! ……という批判が付いて回る。

 ふたりには、こういう違いがある。

 とにかくスポーツの現場に行かない。だから、玉木正之氏の視界には日本スポーツ文化のポジティブな側面が目に入らないのである。

スポーツ報道の偏向
 玉木正之氏が、こうした日本のスポーツの【豊かさ】【多様性】に気が付かないということは、日本における「マスコミとスポーツの癒着」問題の変種である、「マスコミと野球の癒着」という問題にも気が付かないということでもある。

 どういうことか?

 新聞やテレビ(地上波)といった、オールドメディアを中心としたマスコミのスポーツ報道量において、野球=NPBや高校野球、サッカー=Jリーグ、バスケットボール=Bリーグ……は、競技人口、競技レベル、観客動員数、市場規模などに見合った配分がなされているとは、とても言えない。

 すなわち、マスコミのスポーツ報道の量は野球が圧倒的に多く、サッカーやバスケットボールなどはないがしろにされている。著しい偏向がある。

 たしかに野球の人気には歴史がある。高校野球は1915年(大正4)から、NPBは1936年(昭和11)から。対して、Jリーグは1993年から、Bリーグは2016年からにすぎない。

 ただし、野球の競技人口やテレビ視聴率は1990~2000年代になってだいぶ下がってきている。

 今でも時々、読売新聞系の日本テレビ(地上波)が読売ジャイアンツの試合を放送したりするが、ゴールデンタイムの番組の視聴率としては壊滅的なほど低い。

 マスコミがあれだけ喧伝する「二刀流」の日本人メジャーリーガー・大谷翔平選手にしても、その出場試合をNHKが地上波で生放送することが時々あるが、その視聴率も意外なまでに低い(これはイチロー選手が現役時代だったころから同様である)。

 その代わりサッカーやバスケットボールの人気が台頭しており、その分、日本のスポーツ文化は【多様性】を増したのだといえる。にもかかわらず、マスコミのスポーツ報道はこれに対応したものとは言えない。

 大谷翔平選手の活躍をマスコミは大々的に報道するが、同じ日本人でも、欧州サッカーの三笘薫選手や久保建英選手の話題は、NBAの八村塁選手や渡邊雄太選手の話題は、あまり取り上げられない。

 サッカーのカタールW杯は、大会が始まるまで、あるいは森保ジャパンが強国ドイツに勝つまでは、マスコミはきわめて冷淡だった。しかし、野球の第5回ワールドベースボールクラシック(WBC)については、開催のずっと前から煽りまくっている。

 なぜだろうか?

マスコミと野球の癒着
 その理由が「マスコミと野球の癒着」という「噂」である。

 どういうことか?

 新聞やテレビ(地上波)といったオールドメディアを中心とした日本のマスコミ企業は、プロ野球球団を所有したり、高校野球の大会を主催したりして、野球イベントの興行に深くかかわっている。

 例えば、読売新聞は読売ジャイアンツを所有している。中日新聞は中日ドラゴンズを所有している。朝日新聞は高校野球の大会(全国高等学校野球選手権大会=夏の甲子園)を主催している。毎日新聞も高校野球の大会(選抜高等学校野球大会=春のセンバツ)を主催している。

 フジテレビは東京ヤクルト・スワローズと関係が深く、TBSは横浜DeNAベイスターズと関係が深い。

 さらに日本の主な新聞社とテレビ局(地上波)は、クロスオーナーシップなどのために結び付きが深い。読売新聞と日本テレビ、毎日新聞とTBS、産経新聞とフジテレビ、朝日新聞とテレビ朝日……といった関係がそうである。

 これに、春・夏の高校野球や、アメリカのメジャーリーグベースボール(MLB)を大々的に放送している(高額の放映権料をMLBに支払っていると言われる)公共放送=NHKが加わってくる。

 つまり、オールドメディアを中心とした日本のマスコミにとって、野球こそはステークホルダー(利害関係者)であり、一蓮托生、大事なスポーツである。だから、日本のマスコミにとって、野球こそは優遇し、依怙贔屓(えこひいき)し、ゴリ押しし、手厚く庇護し、不祥事はできるだけ隠すべきスポーツである。

 一方、こうした関係を持たないスポーツは、刺身のツマ程度の存在にすぎない。むしろ、野球のプレゼンスを脅かす他のスポーツ(サッカーやバスケットボールなど)はお座なりの対応でかまわない。

 これこそ「マスコミと野球の癒着」であり、かくしてサッカーやバスケットボールはマスコミに冷遇され続ける。これはもはや構造的な問題だ。

 そして、「Jリーグは人気がない」という風説の正体が、このマスコミによるスポーツ報道の偏向だ。

 ……という「噂」である。

マグロの解体ショーはスポーツである?
 サッカーやバスケットボールには話題性がない……みたいな意見が見られるけれども、実は、マスコミが喜びそうな話はゴロゴロしている。

 例えば、2022年、女性の審判員として史上初めて男子のプロサッカーリーグ=Jリーグの試合で笛を吹き、同年開催された男子のワールドカップ=カタール大会の主審にも選ばれた山下良美氏。

 マスコミが推奨するジェンダー平等やポリティカルコレクトネスの観点からも、山下良美氏の存在は画期的なニュースであり、もっと話題になっていい。仮に男子のプロ野球リーグであるNPBに女性の審判が登場したら、大々的にマスコミは報じるだろう。

 しかし、野球ではないサッカーであるがゆえに、マスコミはあまり取り上げない。

 あるいは、2022年10月、サッカー天皇杯で優勝したヴァンフォーレ甲府。J2の地方都市の規模が小さいチームが下剋上を起こし、J1の大都市の有力チームを倒して全国制覇を成し遂げたという「物語」であり、もっと話題になっていい。

 仮に同じような「物語」が高校野球で実現したら、大々的にマスコミは報じるだろう。事実、2018年の夏の甲子園で、秋田県代表・金足農業高校が決勝に進出した際は、マスコミは沸き上がった。

 しかし、野球ではないサッカーであるがゆえに、マスコミはヴァンフォーレ甲府の快挙をあまり取り上げることはない。

 一方、野球はどうでもいいことまでマスコミが取り上げる。NPBのオフシーズン、毎年1~2月には、プロ野球選手や監督がお寺で護摩行に参加しただとか、マグロの解体ショー(!)に参加しただとか……。
  • 参照:サンスポ「広島・会沢,金本も新井も超えた! 護摩行で絶叫90分,池口大僧正も太鼓判」(2020/01/10)https://www.sanspo.com/article/20200110-CHO5ZHMPGVIZLMBIXKSJHBRUZE/
  • 参照:サンスポ「西武の新人3選手,マグロ解体ショー体験」(2020/02/01)https://www.sanspo.com/article/20200201-6N4D2TOOTVJJPAYHUZYWRXETFU/
 同時期はBリーグのシーズンの真っ最中であるが、プロ野球選手の護摩行やマグロの解体ショー(!)などの話題にかき消されて、バスケットボールの試合がマスコミのスポーツ報道に取り上げられることはほとんどない。

 だから、Jリーグのシーズンを現行の春秋制から欧州に合わせた秋春制にすると、プロ野球のオフシーズンにはマスコミがサッカーをたくさん報道してくれる……という期待はしない方がいい。

 とにかく、これはもはやスポーツではない。スポーツの報道ではない。

マスコミは野球に忖度する?
 2022年、「マスコミと野球の癒着」が単なる「噂」ではないかもしれないという出来事が起きた。どちらも女性の尊厳を踏みにじる破廉恥な行為が明るみに出たスキャンダルであるが……。

 片や、芸能界の香川照之氏(俳優)の一件は、連日のようにオールドメディアを中心とした日本のマスコミに叩かれまくり、あわや芸能界追放かというところまで追い込まれている。

 こなた、プロ野球界の坂本勇人選手(読売ジャイアンツ)の一件では、何とマスコミではほとんど報じられず、彼はそしらぬ様子で試合に出続けた。

 この両者のマスコミの扱いの違いには、マスコミの野球に対する「忖度」がやっぱり実在していたのではないかとも言われた。マスコミは利害関係者としての野球界の不祥事はできるだけ隠したいのではないか? ……と。

 インターネット掲示板やSNSでは、サッカーファンと野球ファンが、「ロミオとジュリエット」のモンタギュー家とキャピュレット家のように憎しみ合い、罵り合っている。

 これに関しては、本田圭佑選手が「なぜサッカーファンと野球ファンが言い争う必要があるのか.視野が狭い.スポーツであり.エンタメ.敵ではなくむしろ同類」と、両者を諫めるツイートをした(2023年1月21日)。


 しかし、サッカーファンはただ野球を憎悪しているのではなく、度を越したマスコミの野球優遇、あるいは「マスコミと野球の癒着」に憤懣しているのである。

「マスコミと野球の癒着」の壁
 その昔、サッカーファンの間で、Jリーグを知っているサッカーファンの若い世代が、30年くらい経ってテレビ局で経営陣や管理職など、番組編成や報道で決定権を持つようになったら、サッカーの報道量も増える。ひょっとしたらサッカーが野球を抜いているかもしてない。……などといった楽観論があった。

 しかし、Jリーグのスタートから30周年になる2023年の時点で、実態はそのようになっていない。マスコミのスポーツ報道は相変わらず野球中心(特に大谷翔平中心)である。

 Jリーグ30周年で何となぁ~く分かってきたことは、「野球の壁」の厚さ……ではなく、「〈マスコミと野球の癒着〉の壁」の厚さだった。





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