今福龍太氏による単純な図式化と微妙なサイレント修正
文化人類学者の今福龍太氏は、その文学的で現代思想的なブラジルサッカーへの思い入れ過剰から時おり奇妙なことを言ったり書いたりする。例えば、2014年のブラジルW杯準決勝で地元ブラジル代表が、あのドイツ代表に1対7で大惨敗した。いわゆる「ミネイロンの惨劇」である。
今福龍太氏は、これは「美しいサッカーを奉じるブラジル」が「醜い勝利至上主義サッカーのドイツ」に大敗したことを意味し、なおかつ現代文明の危機=「世界の危機」であるとしてサッカーファンやスポーツファンを煽った。そして「美しいサッカーを奉じるブラジルは貪欲に大量得点を狙いに行く試合などやらない」と大見得を切った。
しかし、それは今福龍太氏によるあまりにも単純な図式化であり、いくつもの事実に照らし合わせて正しくないんぢゃないですかね~ぇ? ……と、以前、当方は疑問を投げかけた。
- 参照:今福龍太氏のサイレント修正~2014年ブラジルW杯と『サッカー批評原論』をめぐって/2020年10月22日(https://gazinsai.blog.jp/archives/42088864.html)
すると、氏は貪欲に大量得点を狙うサッカーは「ブラジルではあり得ない」から「ブラジルの国内リーグで見たことは一度もなかった」に微妙にサイレント修正していたのである(2020年刊『サッカー批評原論』210頁より)。
当方、失礼と知りつつ読んでいて笑ってしまった。ブラジル国内サッカーの不文律は、あくまでブラジル国内の不文律でしかない。今福龍太氏には、物事の現実的側面が見えていないのではないか。
ブラジルW杯反対デモを見る今福龍太氏の奇妙な「まなざし」
現実が見えていないといえば、2014年W杯に際してブラジル各地で頻発したW杯反対デモについても同じことが言える。あれだけのサッカー大国なのになぜ? ……この問題でも今福龍太氏は何となく奇妙なことを述べている。
今回ブラジルでは自国でのワールドカップ開催に反対するデモや抗議行動が各地で起きた。サッカー王国ブラジルでのワールドカップ開催に反対運動が起きたことに違和感を覚えた方もいたかもしれない。しかし、今福〔龍太〕氏はあのデモはワールドカップがFIFA(国際サッカー連盟)や大手スポンサーにお金で買われてしまったことに抗議するデモだった面が大きいと指摘〔!〕する。自分たちがこよなく愛するサッカーをカネで売り渡してなるものかというブラジル市民の意思表示だった〔!〕というのだ。
これには唖然とした。むろん、現実は今福龍太氏の奔放な拡大解釈とは隔たりがある。W杯反対デモ頻発の理由は、何よりもブラジル社会の極端な格差と貧困、庶民の生活の苦しさである。サッカーW杯に巨額な費用を注ぐくらいなら、教育・医療・福祉などに予算を割いて私たちの生活を少しは良くしてくれ! ……というブラジル庶民の切実な声である。
2015年、NHKは「BS世界のドキュメンタリー」(俗称:世ドキュ)で「巨大スタジアムは誰のため?~FIFAワールドカップ〈負の遺産〉」という番組を放送した。
巨大スタジアムは誰のため?~FIFAワールドカップ〈負の遺産〉:NHK-BS世界のドキュメンタリー
サッカーのW杯が開催される国で新たに建設される巨大スタジアム。FIFAの基準を満たすためだが、それがいかに当事国の〈負の遺産〉となっているかを検証する。2014年、サッカー大国ブラジルにおける64年ぶりの開催となったW杯。しかし、今、新たに建てられた8つのスタジアムは〈白いゾウ〉と呼ばれる無用の長物と化し、国民の多くは、インフラ整備や医療・教育に使われるべき税金が投入されたことに憤っている。2010年の開催国・南アフリカでは、高額な維持費のためスタジアムの運営が行き詰まっている。FIFAの方針の元に作られるスタジアムは、一体誰のためにあるのか?gazinsai@gazinsai巨大スタジアムは誰のため?~ FIFAワールドカップ“負の遺産”~|BS世界のドキュメンタリー|NHK BS1 サッカーのW杯が開催される国で新たに建設される巨大スタジアム。FIFAの基準を満たすためだが、それがいかに当事国の“負… https://t.co/HSF71Pzpjt
2020/10/19 19:49:17
松尾貴史さん(タレント)我々から見ると地球の裏側ですけど、とても示唆に富んだ話だな、と思いました。出てる人の顔は濃いけど、これ日本のことじゃない?と。大きなイベントをすることで必ず恩恵はあると思います、でも人によって恩恵の大きさが違ったり、時間がかかったりする。貧富の差が拡大しているのに、政治家やメディアから「国のため・あなたのためにやるんだ」と言われてしまうと異を唱えにくい環境になってしまう。でも、ブラジルの若者たちが行動を起こしたことなどを見て、そんな中でも自分たちの意思の表明をしていくことで何か変わるかもしれない、と思ったり。僕たちの現在・未来につながるテーマで、いろんなことを学ぶことができると思いました。*本編の前に、松尾貴史さんによる短い番組紹介があります。原題:The March of the White Elephants制作:FIREWORX MEDIA(南アフリカ 2015年)初回放送:2015年11月10日(火)午後11時00分~再放送:2015年11月18日(水)午後5時00分~再放送:2016年6月22日(水)午前0時00分~ <2>
このドキュメンタリー番組を見る限り、とても今福龍太氏のような太平楽は口にできない。こちらでも、以前、当方は、氏の認識はいくつもの事実や現象と照らし合わせて必ずしも正しくないんぢゃないですかね~ぇ? ……と、疑問を投げかけたことがある。
- 参照:今福龍太氏はサッカーにとってそんなに有難い存在だろうか?/2018年07月23日(https://gazinsai.blog.jp/archives/32947677.html)
今福龍太氏は、それでも自身の思い入れに拘泥するのだろうか?
『サッカー批評原論』冒頭に出た今福龍太氏の思わぬ本音?
……そんな底意地の悪い興味をもって、今福龍太氏の『サッカー批評原論』を紐解(ひもと)いてみた。
1年以上も前から続いていたワールドカップ開催反対デモは、たんに社会インフラや教育・福祉への予算配分を求めるという経済的に逼迫した民衆の生活を映しだすだけでなく、よりおおもとでは、自己同一性の根拠ですらある内なるフチボル〔サッカー〕の美学を守ろうとする民衆の心が、勝敗原理〔勝利至上主義〕と利潤追求に特化したゲームの興行から離反していることの正確な反映なのだ。〔以下略〕今福龍太『サッカー批評原論』215頁
奔放すぎる拡大解釈、翻ってこれまた微妙なサイレント修正。同時に、今福龍太氏はどうしても「サッカー=スポーツにおける〈勝利至上主義〉批判」という話に持っていかないと気がすまないのだなと思い知る。ずいぶんと浮世離れした氏のモノの見方・考え方に心の中で苛立つ人はいる。
それもそのはず。『サッカー批評原論』冒頭には、こんなエピグラムが掲載されていた。
ブラジル【Brazil / brəzíl /】人間の下半身のゆらぎとボールの偶然性のあいだに一つの美学を打ち立てようとする、ある精神共同体の名。あらゆる固定的イデオロギーの規則はこの符牒をして戴くことで相対化され、無化される。南アメリカに位置する一国家の名称との類似は偶然の一致に過ぎない。今福龍太『サッカー批評原論』4頁
今福龍太氏にとって「ブラジル」とは自身のサッカー美学を語る縁(よすが)とする「おとぎの国」であり、実存する「ブラジル連邦共和国」の特に貧しい庶民の生活は関知しない……。そんな風に読み取れなくもない。
それまでにも、今福龍太氏は、自身の思い入れのある対象を、深刻な事実・現実をボカしてまで何かとロマンチックに美化して語る傾向があって、ブラジル社会の貧困問題などについて語るときなどはそうであった(今福龍太『スポーツの汀〔なぎさ〕』114~130頁)。
個人の趣味なのだから、それはそれでよいだろう。しかし、そんな今福龍太氏の修辞的な思想や発言を、凡百なサッカージャーナリストによるサッカーに関する発言よりも、さらに高尚なものだと見なすのは危険である。
氏を重用した『季刊サッカー批評』初代編集長・半田雄一氏ですら、今福龍太氏の「サッカー批評」はあくまで「文学」だとことわっていた。だから、サッカーファンの善男善女は、あくまでそれを「今福龍太サッカー文学」として読むべきなのである。
(了)
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