スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:ドイツ

今福龍太氏による単純な図式化と微妙なサイレント修正
 文化人類学者の今福龍太氏は、その文学的で現代思想的なブラジルサッカーへの思い入れ過剰から時おり奇妙なことを言ったり書いたりする。例えば、2014年のブラジルW杯準決勝で地元ブラジル代表が、あのドイツ代表に1対7で大惨敗した。いわゆる「ミネイロンの惨劇」である。

 今福龍太氏は、これは「美しいサッカーを奉じるブラジル」が「醜い勝利至上主義サッカーのドイツ」に大敗したことを意味し、なおかつ現代文明の危機=「世界の危機」であるとしてサッカーファンやスポーツファンを煽った。そして「美しいサッカーを奉じるブラジルは貪欲に大量得点を狙いに行く試合などやらない」と大見得を切った。

 しかし、それは今福龍太氏によるあまりにも単純な図式化であり、いくつもの事実に照らし合わせて正しくないんぢゃないですかね~ぇ? ……と、以前、当方は疑問を投げかけた。
  • 参照:今福龍太氏のサイレント修正~2014年ブラジルW杯と『サッカー批評原論』をめぐって/2020年10月22日(https://gazinsai.blog.jp/archives/42088864.html)
 すると、氏は貪欲に大量得点を狙うサッカーは「ブラジルではあり得ない」から「ブラジルの国内リーグで見たことは一度もなかった」に微妙にサイレント修正していたのである(2020年刊『サッカー批評原論』210頁より)。

 当方、失礼と知りつつ読んでいて笑ってしまった。ブラジル国内サッカーの不文律は、あくまでブラジル国内の不文律でしかない。今福龍太氏には、物事の現実的側面が見えていないのではないか。

ブラジルW杯反対デモを見る今福龍太氏の奇妙な「まなざし」
 現実が見えていないといえば、2014年W杯に際してブラジル各地で頻発したW杯反対デモについても同じことが言える。あれだけのサッカー大国なのになぜ? ……この問題でも今福龍太氏は何となく奇妙なことを述べている。
 今回ブラジルでは自国でのワールドカップ開催に反対するデモや抗議行動が各地で起きた。サッカー王国ブラジルでのワールドカップ開催に反対運動が起きたことに違和感を覚えた方もいたかもしれない。

 しかし、今福〔龍太〕氏はあのデモはワールドカップがFIFA(国際サッカー連盟)や大手スポンサーにお金で買われてしまったことに抗議するデモだった面が大きいと指摘〔!〕する。自分たちがこよなく愛するサッカーをカネで売り渡してなるものかというブラジル市民の意思表示だった〔!〕というのだ。

 これには唖然とした。むろん、現実は今福龍太氏の奔放な拡大解釈とは隔たりがある。W杯反対デモ頻発の理由は、何よりもブラジル社会の極端な格差と貧困、庶民の生活の苦しさである。サッカーW杯に巨額な費用を注ぐくらいなら、教育・医療・福祉などに予算を割いて私たちの生活を少しは良くしてくれ! ……というブラジル庶民の切実な声である。

 2015年、NHKは「BS世界のドキュメンタリー」(俗称:世ドキュ)で「巨大スタジアムは誰のため?~FIFAワールドカップ〈負の遺産〉」という番組を放送した。
巨大スタジアムは誰のため?~FIFAワールドカップ〈負の遺産〉:NHK-BS世界のドキュメンタリー
 サッカーのW杯が開催される国で新たに建設される巨大スタジアム。FIFAの基準を満たすためだが、それがいかに当事国の〈負の遺産〉となっているかを検証する。

 2014年、サッカー大国ブラジルにおける64年ぶりの開催となったW杯。しかし、今、新たに建てられた8つのスタジアムは〈白いゾウ〉と呼ばれる無用の長物と化し、国民の多くは、インフラ整備や医療・教育に使われるべき税金が投入されたことに憤っている。2010年の開催国・南アフリカでは、高額な維持費のためスタジアムの運営が行き詰まっている。FIFAの方針の元に作られるスタジアムは、一体誰のためにあるのか?


松尾貴史さん(タレント)
 我々から見ると地球の裏側ですけど、とても示唆に富んだ話だな、と思いました。出てる人の顔は濃いけど、これ日本のことじゃない?と。大きなイベントをすることで必ず恩恵はあると思います、でも人によって恩恵の大きさが違ったり、時間がかかったりする。貧富の差が拡大しているのに、政治家やメディアから「国のため・あなたのためにやるんだ」と言われてしまうと異を唱えにくい環境になってしまう。でも、ブラジルの若者たちが行動を起こしたことなどを見て、そんな中でも自分たちの意思の表明をしていくことで何か変わるかもしれない、と思ったり。僕たちの現在・未来につながるテーマで、いろんなことを学ぶことができると思いました。
*本編の前に、松尾貴史さんによる短い番組紹介があります。

原題:The March of the White Elephants
制作:FIREWORX MEDIA(南アフリカ 2015年)
初回放送:2015年11月10日(火)午後11時00分~
再放送:2015年11月18日(水)午後5時00分~
再放送:2016年6月22日(水)午前0時00分~ <2>
 このドキュメンタリー番組を見る限り、とても今福龍太氏のような太平楽は口にできない。こちらでも、以前、当方は、氏の認識はいくつもの事実や現象と照らし合わせて必ずしも正しくないんぢゃないですかね~ぇ? ……と、疑問を投げかけたことがある。
  • 参照:今福龍太氏はサッカーにとってそんなに有難い存在だろうか?/2018年07月23日(https://gazinsai.blog.jp/archives/32947677.html)
 今福龍太氏は、それでも自身の思い入れに拘泥するのだろうか?

『サッカー批評原論』冒頭に出た今福龍太氏の思わぬ本音?
 ……そんな底意地の悪い興味をもって、今福龍太氏の『サッカー批評原論』を紐解(ひもと)いてみた。
 1年以上も前から続いていたワールドカップ開催反対デモは、たんに社会インフラや教育・福祉への予算配分を求めるという経済的に逼迫した民衆の生活を映しだすだけでなく、よりおおもとでは、自己同一性の根拠ですらある内なるフチボル〔サッカー〕の美学を守ろうとする民衆の心が、勝敗原理〔勝利至上主義〕と利潤追求に特化したゲームの興行から離反していることの正確な反映なのだ。〔以下略〕

今福龍太『サッカー批評原論』215頁
 奔放すぎる拡大解釈、翻ってこれまた微妙なサイレント修正。同時に、今福龍太氏はどうしても「サッカー=スポーツにおける〈勝利至上主義〉批判」という話に持っていかないと気がすまないのだなと思い知る。ずいぶんと浮世離れした氏のモノの見方・考え方に心の中で苛立つ人はいる。

 それもそのはず。『サッカー批評原論』冒頭には、こんなエピグラムが掲載されていた。
 ブラジル【Brazil / brəzíl /人間の下半身のゆらぎとボールの偶然性のあいだに一つの美学を打ち立てようとする、ある精神共同体の名。あらゆる固定的イデオロギーの規則はこの符牒をして戴くことで相対化され、無化される。南アメリカに位置する一国家の名称との類似は偶然の一致に過ぎない。

今福龍太『サッカー批評原論』4頁
 今福龍太氏にとって「ブラジル」とは自身のサッカー美学を語る縁(よすが)とする「おとぎの国」であり、実存する「ブラジル連邦共和国」の特に貧しい庶民の生活は関知しない……。そんな風に読み取れなくもない。

 それまでにも、今福龍太氏は、自身の思い入れのある対象を、深刻な事実・現実をボカしてまで何かとロマンチックに美化して語る傾向があって、ブラジル社会の貧困問題などについて語るときなどはそうであった(今福龍太『スポーツの汀〔なぎさ〕』114~130頁)。

スポーツの汀
今福 龍太
紀伊國屋書店
1997-11T


 個人の趣味なのだから、それはそれでよいだろう。しかし、そんな今福龍太氏の修辞的な思想や発言を、凡百なサッカージャーナリストによるサッカーに関する発言よりも、さらに高尚なものだと見なすのは危険である。

 氏を重用した『季刊サッカー批評』初代編集長・半田雄一氏ですら、今福龍太氏の「サッカー批評」はあくまで「文学」だとことわっていた。だから、サッカーファンの善男善女は、あくまでそれを「今福龍太サッカー文学」として読むべきなのである。

(了)




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サッカーは今なお「測り知れざる〈知〉への熱狂」を望む?
 1980年代、いたいけな野球ファンを「測り知れざる〈知〉への熱狂」症候群へと駆り立てた、草野進=蓮實重彦氏(フランス文学者)や、その茶坊主である渡部直己(セクハラ親父の文芸批評家)らによる「プロ野球批評」であるけれども、21世紀の昨今、この流儀を継承する野球の語り手や、それを好んで読む人が少なくなったという説がある。

 翻ってサッカーは如何? 草野進=蓮實重彦氏や渡部直己の衣鉢をサッカーで継承した今福龍太(文化人類学者)の「サッカー批評」は、現在でも羽振りはいい。1998年創刊『季刊サッカー批評』に連載され、2008年に出版された『ブラジルのホモ・ルーデンス~サッカー批評原論』が、今年2020年になって書名の正副を入れ替え『サッカー批評原論~ブラジルのホモ・ルーデンス』として改訂版が上梓されたくらいだからだ。



 ……ということは、サッカーファンの読書人の中には「測り知れざる〈知〉への熱狂」を望む人が今もなお多いのだろうか? まあ、少なくとも山本敦久氏(スポーツ社会学者,成城大学教授)などはそうなのであろう(当方,街の書店で予約して『サッカー批評原論~ブラジルのホモ・ルーデンス』を購入しました)。

今福龍太氏が説くブラジルの惨敗と世界の危機
 2008年に『ブラジルのホモ・ルーデンス~サッカー批評原論』を出した後も、今福龍太氏はサッカーについての発言を続けた。……というより、も、凡百なサッカーライターどもの上に立って、「文化人類学」という高い次元の視点から、サッカーにまつわる現象・事象を分析し、その本質を私たちサッカーファンの前に示してくれるという期待がなされた上で、メディアからサッカーについて発言する場を与えられ続けられてきた。

 特に大きな露出の機会となったのは、2014年ブラジルW杯準決勝で地元ブラジル代表があのドイツ代表に1対7という信じられないスコアで大惨敗した試合「ミネイロンの惨劇」である。

ミネイロンの惨劇(ドイツ7-1ブラジル)
【ミネイロンの惨劇(ドイツ7-1ブラジル)2014年W杯】

 さらにドイツは決勝でもアルゼンチンに勝って4回目の優勝を遂げる。

 このブラジルの大惨敗とドイツの優勝。これこそブラジルサッカーの危機のみならず、サッカーの危機、スポーツの危機、それどころか「世界の危機」の反映なのだ……と、今福龍太氏はさまざまな場所で発言した。氏が考えている「世界の危機」を強引に要約すると、次のような感じになる。
 勝利至上主義に徹した膨大なデータの集積と科学的な分析、高度に統制された戦術、そして近現代的な「合理性」を重んじるドイツサッカー。

 一方、ラテン的な即興性や遊戯性、美しさといった数字に表れない、勝敗を超越した価値を尊(たっと)ぶ、「偶然性」にあふれたブラジルサッカー。

 2014年のブラジルW杯で、ブラジルはドイツに惨敗し、ドイツは優勝した。

 今回、顕在化したのは、この2つの価値観、「合理性」対「偶然性」の対立である。それは実際はサッカーの枠を遙かに超え、今日われわれの社会生活の至るところで衝突している価値対立と共通している。

 効率、スピード、コンビニエンス、収益性といった合理的な(ドイツ的な)価値を無批判に受け入れるあまり、私たちは、社会からも、人生からも、(ブラジル的な)偶然性や非合理性という「別の大切なもの」を消し去ってはいないか。

 それは果たして本当に私たちの生活を豊かにすることにつながっているのか。いや、そもそも豊かさとは何なのか?

 それこそが「世界の危機」なのだ。

 ちなみに、ここで言う「勝利至上主義」とは、一般的に思われているような「勝つためには時にアンフェアになっても手段を選ばない」といった軽い意味ではない。サッカーや野球など競技スポーツにおいて「勝ち負けを争うこと,勝利を求めること」それ自体を意味する。だから今福龍太氏はこれを時々「勝敗原理」と呼び変えることもある。スポーツにとって「勝利至上主義」または「勝敗原理」は「原罪」らしいのである。

 「近代」になって成立した文物であるスポーツ。その「勝利至上主義」を「抑圧」とみなし、「近代」または現代文明の「抑圧」を重ね合わせ、これを徹底して否定し、嫌悪し、断罪する。文化人類学者・今福龍太氏は、そうした近代主義や現代文明を批判する現代思想的な立場から「サッカー批評」を続けてきた。

 今福龍太氏(や氏のオトモダチである細川周平氏=音楽学者,フランス現代思想家)にとって、特にドイツのサッカーは「勝利至上主義」の権化であるとして、執拗なまでの否定の対象であった。そんな今福龍太氏が憎んでやまないドイツが、同じく今福龍太氏が愛してやまないブラジルを嬲(なぶ)り殺しにするように惨敗させた「出来事」。それが「ミネイロンの惨劇」だったのである。

ボリビア代表を嬲(なぶ)り殺しにしたブラジル代表
 「ミネイロンの惨劇」に象徴されるように、2014年サッカーW杯ブラジル大会では、醜い「勝利至上主義」が横行していたと今福龍太氏は言う。

 「勝利至上主義」と科学的サッカーに徹したドイツは、美しいサッカーを重んじるブラジルから大量7得点を奪い取った。また、オランダは体力と体格に飽(あ)かせた野蛮なカウンターサッカーで、華麗なパスワークを身上とする前回王者のスペイン(そのスタイルを「ティキタカ」と呼ぶ)から5得点をあげて大勝した。

 サッカーというゲームの意味を度外視して、手段を選ばず貪欲に得点を狙いに行く醜いサッカーがまかり通っていた大会だった。ブラジルではこんなことありえない……と今福龍太氏は言うのだが、この認識は正しいものとはいえない。

 だいたい、昨今の高度に科学化、データ化されたサッカーというのはドイツだけがやっているのではない。ブラジルだって、スペインだって、当然やっている(ドイツは他国よりも優秀で精確なシステムを用いたらしいのではあるが)。「ドイツの合理性vsブラジルの偶然性」の対立といった見立ては、今福龍太氏による単純な図式化にすぎない。

 「ミネイロンの惨劇」の試合自体も、前半早々に1~2失点する間にブラジル守備陣が完全なパニックに陥り、負のスパイラルから更なる失点を重ねたものだ。主力選手2人(ネイマールとチアゴ・シウバ)の欠場という不運はあったが、この惨劇はブラジルが自壊自滅して招いたもので、ドイツに八つ当たりする性格のものではない。

 今福龍太氏は、ドイツの勝利至上主義の背景には勝利することによって得られる莫大な経済的利益があるとも言う。しかし、それを言うならば、サッカードイツ代表がビッグビジネスである以上に、サッカーブラジル代表の方こそ、動く金が大きいビッグビジネスである(だからブラジルは審判の判定でいろいろ贔屓=ひいき=されてきたのだ)。

 ブラジル代表は貪欲に大量得点を狙いに行くようなサッカーはやらないのかというと、記録を見る限りこれも怪しい。例えば、2016年6月8日、コパアメリカ・センテナリオ(大陸選手権)でブラジルはハイチに7対1で大勝している。また、同年10月6日のロシアW杯南米予選では、ホームのブラジルはボリビアに5対0で大勝している(次のリンク先を参照)。
  • 参照:FIFA Ranking.net「2016年のブラジル代表の試合結果・成績」(https://fifaranking.net/nations/bra/results/season.php?y=2016)
 後者については説明が必要であろう。当時、ブラジル代表はW杯予選の成績不振でロシア本大会出場が危うい状況にあった。そこでそれまでのドゥンガ監督を解任し、チッチ監督に交代。巻き返しに必死の状況にあり、ブラジル代表は是が非でも勝たなければならなかった。しかも、W杯予選はリーグ戦だから得失点差で1点でも上乗せが必要だった……。

 ……つまり、ブラジルはブラジルで勝利至上主義なのである。よもやブラジル代表がロシアW杯本大会の出場を逃せば、それこそ莫大な経済的損失が出る。今福龍太氏には、サッカーブラジル代表のそうした現実的側面が見えていないのだ。

 加えて「最近の〈科学的サッカー〉と称するものは面白くない」だとか「最近のサッカーはフィジカル重視,守備重視でつまらない」だとか……。勝つことに拘泥するあまり現代のサッカーは駄目になっているといった類の「現代サッカー批判」ならば、今福龍太氏のはるか以前、既に1960年代のエリック・バッティ(英国の有名サッカー記者)らによって、さんざん唱えられてきた繰り言なのである。

サイレント修正(?)とフェア/アンフェアの境界
 2020年版『サッカー批評原論~ブラジルのホモ・ルーデンス』(コトニ社)は、2008年版『ブラジルのホモ・ルーデンス~サッカー批評原論』(月曜社)の本文や目次・書籍構成を一新、「新しい論考」や写真・図版を多数加えた改訂版である。

 追加された「新しい論考」には、上記のように2014年ブラジルW杯と「ミネイロンの惨劇」を論じ、さらにドイツサッカーを「勝利至上主義」と罵った「フチボルの女神への帰依を誓うこと」がある。この論考の初出は、2014年に刊行された文芸誌『エンタクシー』第42号に掲載された「フチボルの女神への帰依を誓おう」で、これをさらに改稿したものである。

 さて、上記のように当ブログはこれまでも何度か「対戦相手から貪欲に大量得点を狙いに行くサッカーはブラジルではあり得ない」という、2014年のブラジルW杯に際して説いた今福龍太氏の説は、さまざまな事実と照らし合わせて正しくないのではないか? ……という疑問を投げかけてきた。

 それでは、2020年に刊行された単行本の『サッカー批評原論~ブラジルのホモ・ルーデンス』では、その辺をどのように言及しているのかな~~~ぁと、底意地の悪い関心をもって該当箇所を読んでみたのである。すると、どうです……。
 ……さらに相手のスキをついて1点でも2点でもとりに行こうという、得点への抑圧の産物でしかない。勝つことだけがすり込まれたように選手の身体を支配し、サッカーというゲームの美的な均衡を受け止めて攻守を譲り合うという優雅な感覚は完全に否定されているのである。このような行為を、私〔今福龍太〕はブラジルの国内リーグで見たことは一度もなかった。

 遊戯的なサッカーの女神への冒涜。〔以下略〕

今福龍太「フチボルの女神への帰依を誓うこと」@『サッカー批評原論』210頁
 「ブラジルサッカーではあり得ない」から「ブラジルの国内リーグで見たことは一度もなかった」に今福龍太氏は微妙にサイレント修正(?)がしてあって、当方、失礼と知りつつ読んでいて笑ってしまった。

 それにしても、サッカーの公式ルールには「サッカーというゲームの美的な均衡を受け止めて攻守を譲り合う」などという条文などない。これなどはブラジルサッカーの国内リーグのみで通用する「不文律」である。ちょうど野球におけるアメリカ・メジャーリーグ(MLB,大リーグ)の「アンリトンルール」(不文律)みたいなものだ。

 しかし、不文律はどこまで行っても不文律なのであって、世界的で絶対的な拘束性などない。日本のNPB(プロ野球)や高校野球でのプレーがMLBのアンリトンルールに適っていないからといって、ただちにアンフェアなプレーだとは言わないように(まあ,広尾晃=濱岡章文氏のような困った日本人もいるがw)、サッカーの国際試合で(それもW杯で)ドイツ(やオランダ)がブラジルの不文律に従わなければならない道理などない。

 後藤健生氏(サッカージャーナリスト)が説いているように、フェアプレー/アンフェアプレーの境界は、国や地域により、時代により、一定ではない。大差がついたら勝っている側が手抜きをするのがフェアなのか、最後まで手抜きをしないのがフェアなのか。考え方が対立するが、これまた国や地域により、時代により、一定ではない。

 繰り返すに「ミネイロンの惨劇」自体は、あくまでブラジルの自壊自滅である。一方的にドイツが責められる謂(いわ)れはない。

衒学で自身のブラジルサッカー愛を押し付ける?
 今年度「UEFAチャンピオンズリーグ 2019-20」の準々決勝では、いわば「ティキタカ」の本家であるFCバルセロナ(スペイン)が、激しいプレッシングサッカーのFCバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)に2対8のスコアで、文字通り粉砕された。

 これまた、今福龍太氏がかつて力説したように、美しいサッカーの危機……のみならず、サッカーの危機、スポーツの危機、それどころか「世界の危機」なのだろうか? 後藤健生氏の考えは少し違うようである。
 僕〔後藤健生〕が期待するのは、あのバイエルンの激しいプレッシャーをテクニックの力で出し抜くような次世代のサッカー〔の登場〕だ。

 サッカーの歴史は、そうやってある時代の主流だったスタイルを違うやり方で打破していくことによって動かされてきた。

 ほんの数年前、FCバルセロナのポゼッション・スタイル〔ティキタカ〕が全盛を極め、世界中で持てはやされた時代があった。

 だが、僕〔後藤健生〕はもし世界中のチームがすべてバルセロナになってしまったら、中盤では相手ボールを奪うことが不可能になってしまって、ハンドボールのように相手がボールを持ったらゴール前に引いて守るしかなくなってしまう。中盤での攻防、中盤でのボールロスト=ターンオーバーというサッカーというゲームの特徴が失われてしまうのではないかと心配したものだった。

 そうしたら、ポゼッション・スタイルの真逆の、プレッシング・サッカーがたちまち世界を席巻したのだ。

 時代の移り変わりの速さは、1960年代の頃以上に速くなっている。バイエルン・ミュンヘンの激しいプレッシング・サッカーに対して同じプレッシングの強度で対抗するのではなく、別のやり方でそれを打ち負かすサッカーを模索している指導者が世界のどこかにいるに違いない。

後藤健生「バイエルンのサッカーは面白かったか? プレッシング・スタイルを凌ぐ新たな動きに期待」2020年8月31日(https://news.jsports.co.jp/football/article/20190310219022/)
 つまり後藤健生氏は「ティキタカ」みたいなサッカースタイルばかりになっても、サッカーはその「ゲーム性」が損なわれてしまうと言っている。今福龍太氏とは対照的だ。

 あくまで後藤健生氏はサッカージャーナリストとしてサッカーに発言している。対して、今福龍太氏は衒学的な文化人類学者なおかつ現代思想家として、閉鎖的な論理を弄(もてあそ)んでは自身のサッカーの好みを語り、その論理の外にあるものを強迫的に断罪しているのである。

 とどのつまり、今福龍太氏は、現代思想や「文化人類学」を操りつつ、氏自身が愛してやまないブラジルサッカーに対して贔屓の引き倒しをやっているだけなのである。

(了)




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今福『薄墨色の文法』:思わせぶりな修辞の本。
今福の文はすべてそうだけれど、オリエンタリズム的なエキゾチズムを、青少年を堕落させる気取った修辞に包んだ本。叙情的な書きぶりは、ときにいいなーと思えることもあるんだけれど、それはむしろオカルト的な方向に流れる不健全な叙情性で、読んでるうちにだんだんうでを思いっきりのばして、あまりこの文がすり寄ってこないようにしたくなる感じ。自分でもそうなので、書評なんかして人に勧めたいとはなおさら思わない。



ミネイロンの惨劇と今福龍太氏の再登場
 ジャーナリスト・神保哲生氏と社会学者・宮台真司氏が主宰する、ニュース専門インターネット放送局「ニュース専門ネット局 ビデオニュース・ドットコム」の番組『マル激トーク・オン・ディマンド』の第692回、2014年7月19日、ブラジルW杯の時に放送された「今福龍太氏:ブラジルサッカー惨敗に見る〈世界の危機〉」が再放送されている(下記リンク先参照)。


【YouTube版より】

 ブラジルW杯といえば、印象的なのが準決勝のドイツvsブラジル戦。ブラジルがドイツに1対7という信じられないスコアで大惨敗した試合「ミネイロンの惨劇(または悲劇,衝撃)」である。

ミネイロンの惨劇(ドイツ7-1ブラジル)
【ミネイロンの惨劇:メスト・エジル(左,ドイツ)とダビド・ルイス】

 日頃、息をひそめて生活しているアンチ・ブラジルのサッカーファンも痛快……を通り越して呆気にとられる試合であった。ドイツは決勝でもアルゼンチンに勝って4回目の優勝を遂げる。

 このブラジルの大惨敗とドイツの優勝。同番組のゲストで文化人類学者(東京外国語大学教授)の今福龍太氏が語るところでは、これこそブラジルサッカーの危機……のみならず、サッカーの危機、スポーツの危機、それどころか「世界の危機」の反映なのだという。
今福龍太「ビデオニュースドットコム」(小)
【今福龍太氏(番組より)】

 それは、一体どういうことなのだろうか。

今福龍太氏が言わんとするところ
 動画サイトで見られる今福龍太氏のインタビューはプレビュー(導入部分)だけで、課金しない限り全体を視聴することはできない。

 それでも番組ウェブサイトのイントロダクションの文章だけでも十分な情報量がある。加えて2014年7月に刊行された文芸誌『en-taxi〔エンタクシー〕』第42号に掲載された今福氏のエッセイ「フチボルの女神への帰依を誓おう」とを読み合わせてみれば、今福氏が番組で何を言わんとしていたかは、おおよそ分かる(いずれも下記リンク先参照)。
 詳しくはリンク先の文章をじっくり読んでいただくとして、今福氏の言う「世界の危機」を強引に要約すると、次のような感じになる。
 勝利至上主義に徹した膨大なデータの集積と科学的な分析、高度に統制された戦術、そして近現代的な「合理性」を重んじるドイツサッカー。

 一方、ラテン的な即興性や遊戯性、美しさといった数字に表れない、勝敗を超越した価値を尊(たっと)ぶ、「偶然性」にあふれたブラジルサッカー。

 2014年のブラジルW杯で、ブラジルはドイツに惨敗し、ドイツは優勝した。

 今回、顕在化したのは、この2つの価値観、「合理性」対「偶然性」の対立である。それは実際はサッカーの枠を遙かに超え、今日われわれの社会生活の至るところで衝突している価値対立と共通している。

 効率、スピード、コンビニエンス、収益性といった合理的な(ドイツ的な)価値を無批判に受け入れるあまり、私たちは、社会からも、人生からも、(ブラジル的な)偶然性や非合理性という「別の大切なもの」を消し去ってはいないか。

 それは果たして本当に私たちの生活を豊かにすることにつながっているのか。いや、そもそも豊かさとは何なのか?

 それが「世界の危機」なのだ。
 いかにももっともなことを述べているが、今福龍太氏の言い分をよくよく読んでみるとおかしなところだらけなのである。

世界の危機,嫌ドイツ思想,科学的サッカー批判…
 そもそも今福龍太氏は、遅くとも1990年代からサッカーの危機だ、スポーツの危機だ、時代や社会の(延いては「世界」の)危機だという話を、オオカミ少年よろしく繰り返してきたのである(参照:今福龍太『フットボールの新世紀』94~123頁)。



 1990年代は守備的サッカーの時代で、W杯やユーロなど主要な国際大会ではスコアレスドローやPK戦が頻出した。だから、今福氏の言い分ももっともらしく聞こえた。それが解消された2000年代以降、今度は国際大会でコンスタントに好成績を上げるドイツを、勝利至上主義、近代合理主義、科学主義などの象徴として非難の対象とするようになったのである。

 いわば「嫌ドイツ思想」であるが、その更なる源流は、1989年刊、現代思想系の音楽学者・細川周平氏の『サッカー狂い』まで遡(さかのぼ)ることができる。細川氏と今福氏はオトモダチ同士であり、この2人のサッカー評論のテイストはとても近しい。そして、今福氏がサッカー論壇で重用されているのと同様、『サッカー狂い』は一部でカリスマ・サッカー本扱いされている。



 だが、「日本人は農耕民族だからサッカーでは……」という与太話から始まり、自虐的な日本サッカー観を繰り返し吐露している『サッカー狂い』過剰に賛美することは危うい。

 日本サッカー界の本流は1960年代から「親ドイツ」であった。その成果で日本代表は1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得する。しかし、その後、1970年代初めから1992年ごろまで日本サッカーは長い長い低迷期に入る。細川氏の「嫌ドイツ思想」は、そうした時代背景、サッカー界主流への反動の表出も勘案するべきである。だから『サッカー狂い』を「サッカー冷遇時代のひがみ根性丸出しの一冊」と辛辣に評価する向きもある。

 さらに「最近の〈科学的サッカー〉とやらは、守りを固くして逃げ切るサッカーなので面白くない」という程度の話なら、実は1966年(!)のW杯イングランド大会の頃からある(参照:堀江忠男『わが青春のサッカー』123~124頁)。



 つまり、今福龍太氏の持論は昔から存在する陳腐なネタなのである。

サッカーブラジル代表の現実的側面
 勝利至上主義(ちなみに今福氏が言う「勝利至上主義」とは,競技スポーツにおいて勝敗を争うことそのものを指す)と科学的サッカーに徹したドイツは、美しいサッカーを重んじるブラジルから大量7得点をあげた。また、オランダは前回王者のスペインから5得点をあげて大勝した。ブラジルW杯では、サッカーというゲームの意味を度外視して、手段を選ばず貪欲に得点を狙いに行く醜いサッカーが横行している……。

 ……ブラジルではこんなことありえない、と今福龍太氏は言うのだが、これはいずれも正しい指摘とは言えない。

 だいたい、昨今の高度に科学化・データ化されたサッカーというのはドイツのだけがやっているのではない。当然、ブラジルだって、スペインだって……やっている。「〈ドイツの合理性〉対〈ブラジルの偶然性〉の対立」といった単純な図式は成り立たない。

 「ミネイロンの惨劇」の試合自体も、前半に1~2失点する間にブラジル守備陣が完全なパニックに陥り、負のスパイラルから更なる失点を重ねたものだ。
 主力選手2人(ネイマールとチアゴ・シウバ)の欠場という不運はあったが、この惨劇はブラジルが自壊自滅して招いたもので、ドイツをに八つ当たりする性格のものではない。

 今福氏は、ドイツの勝利至上主義の背景には勝利することによって得られる莫大な経済的利益があるとも言う。しかし、それを言うならば、サッカードイツ代表がビッグビジネスである以上に、サッカーブラジル代表の方こそ、動く金が大きいビッグビジネスである。

 ブラジル代表は貪欲に大量得点を狙いに行くようなサッカーはやらないのかというと、記録を見る限りこれも怪しい。例えば、2016年6月8日、コパアメリカ・センテナリオ(大陸選手権)でブラジルはハイチに7対1で大勝している。また、同年10月6日のロシアW杯南米予選では、ホームのブラジルはボリビアに5対0で大勝している。
 後者については説明が必要であろう。当時、ブラジル代表はW杯予選の成績不振でロシア本大会出場が危うい状況にあった。そこでそれまでのドゥンガ監督を解任し、チッチ監督に交代。巻き返しに必死の状況にあり、ブラジル代表は是が非でも勝たなければならなかった。しかも、W杯予選はリーグ戦だから得失点差で1点でも上乗せが必要だった……。

 ……ブラジルはブラジルで勝利至上主義なのである。そして、よもやブラジル代表がロシアW杯本大会の出場を逃せば、莫大な経済的損失が出る。

 今福氏には、サッカーブラジル代表のそうした現実的側面が見えていないのではないか。

ブラジルW杯反対デモに見る今福龍太氏の問題点
 現実が見えていないといえば、2014年W杯に際してブラジル各地で頻発したW杯反対デモについてもそうである。あれだけのサッカー大国なのになぜ……。この問題でも今福龍太氏はおかしなことを述べている。
 今回ブラジルでは自国でのワールドカップ開催に反対するデモや抗議行動が各地で起きた。サッカー王国ブラジルでのワールドカップ開催に反対運動が起きたことに違和感を覚えた方もいたかもしれない。しかし、今福氏はあのデモはワールドカップがFIFA(国際サッカー連盟)や大手スポンサーにお金で買われてしまったことに抗議するデモだった面が大きいと指摘〔!〕する。自分たちがこよなく愛するサッカーをカネで売り渡してなるものかというブラジル市民の意思表示だった〔!〕と〔今福氏は〕いうのだ。

 これには唖然とした。

 むろん、現実は今福氏の解釈とは違う。W杯反対デモ頻発の理由は、ブラジル社会の極端な格差と貧困、庶民の生活の苦しさである。サッカーW杯に巨額な費用を注ぐくらいなら、教育・医療・福祉などに予算を割いて私たちの生活を少しは良くしてくれ! ……というブラジル庶民の切実な声である。
 この人は、自身の思い入れのある対象を、事実・現実を歪曲して何かとロマンチックに美化して語る傾向があって、ブラジル社会の深刻な貧困問題などについて語るときなどは特にそうである(参照:今福龍太『スポーツの汀〔なぎさ〕』114~130頁)。

スポーツの汀
今福 龍太
紀伊國屋書店
1997-11


 この点は、今福氏の深刻な問題点ではないか。

今福龍太氏の「研究」と「意見」
 2018年のロシアW杯に際して、今福龍太氏の登場回を再放送するにあたり、神保哲生氏は「4年前のW杯時の番組の再放送です。今回ドイツもダメっぽいのはなぜだろう」などと、何とも呑気な(失礼ながら)ことを述べている(先に引用したツイート参照)。

 こんなコメントが出るのも、起用する側が今福龍太氏を買いかぶりすぎているからである。今福氏の言う通り「世界の危機」なら、2014年ブラジルW杯以降もあらゆる国際大会でドイツ代表が勝ち続けるはずである。

 しかし、2018年ロシア大会でドイツは1次リーグで敗退した。世界最大級のイベントとはいえ、FIFAワールドカップは所詮はサッカー、所詮はスポーツにすぎない。サッカーなり、W杯なりは、今福氏が思っているような意味での「世界の縮図」ではないのである。
 日本人の間に、人文学における「研究」と「意見」の区別ができていない……。カントからフッサール、ハイデッガーに至る面々は、哲学者、フィロソファーであって、哲学という学問をやっている。ニーチェやキェルケゴールになると、これは学問というより、自分の考えを述べている人たちである。

 日本人は、どうも「事実」と「意見」の区別が苦手らしく、ために時おり、混乱が起こる。

小谷野敦「評論家入門」27~28頁

 サッカージャーナリズムやサッカー論壇で、文化人類学者の今福龍太氏は何かと重用される。凡百なサッカーライターの上に立って、あたかも「文化人類」という高い次元の「研究」成果や学識から、サッカーにまつわる現象・事象を分析し、その本質を私たちの前に示してくれる……という期待がなされている。

 しかし、これは期待外れの間違いである。

 この場合、今福氏は学者というより、良くも悪くも「思想家」なのであって、自分の考え(意見)、自分の過剰な思い入れ(意見)を述べているにすぎない。「ビデオニュース・ドットコム」の2014年のブラジルW杯の評価に関して言うと、今福氏は実際にあることを「思想」によって捻(ね)じ曲げて解釈し、ブラジル贔屓の引き倒しをしているだけなのだ。

 この時に、今福龍太氏を起用したひとり、神保哲生氏はリアルなジャーナリストであり、名門・桐蔭学園でラグビーにいそしんだリアルなフットボーラーである。その神保氏が、今福氏の「知の欺瞞」(言い過ぎだろうか)に突っ込めないのは、何とも残念である。

 ありていに言えば、今福龍太氏はミスキャストである。

サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07











 それでも「ワールドカップ,サッカー,そして世界」などという大風呂敷な議論をしたいなら、慶応の大学院で政治学を修めたサッカージャーナリスト・後藤健生氏の方が適任だったのではないか。

(了)



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