スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:ザッケローニ

「サイモン・クーパーの誤算(前編)~続・外国人監督の日本人論をありがたがる日本サッカーの悪癖」よりつづく

サッカー文化なんか数か月で変えられる?
 サイモン・クーパーとステファン・シマンスキーが著したサッカー本『「ジャパン」はなぜ負けるのか』(2010年,森田浩之訳,原題:英国版Why England Lose,米国版Soccernomics)日本語版の第2章は、書名と同じ「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」。日本サッカーが国際舞台でなかなか勝てない理由を「日本人の国民性,文化」に求める風潮をデタラメだと批判する意欲的な論考である。



 この話のマクラとして、非常にわかりやすい話の入り口として「サッカーにおける日本人の決定力不足」が登場する。日本の人たちは、永久に変えようがない日本人の国民性や文化の影響下にあり、自分たちは「決定力不足」だと信じ込んでいる……。

 ……しかし、こんな議論は誤りだと、クーパーとシマンスキーは喝破する。もっとも、2人は「決定力不足」言説そのものを批判しない。その代わり、日本サッカー本来の素質(秘めた実力)を統計を使って諄々(じゅんじゅん)と諭すという方法をとる。サッカーそれ自体の実力を上げ、実績を積むことは、必然的に「決定力不足」の克服になるわけだ。

 すなわち、その国のサッカーの実力は「国の人口」「国民所得」「代表チームの経験値」という3つの要素に左右される(国民性や文化ではない)。実は、日本はこの点で非常に有望である。アメリカ合衆国,中国とならんで将来的に最も有望な国であろう。

 優れた代表選手を輩出する母体となる「国の人口」の多さ(日本:およそ1億2千万人)。「国民所得」とは早い話が強化のためのカネ=経済力である(身体能力に優れているとされるアフリカ諸国は、この点で期待薄らしい)。そして「代表チームの経験値」を積むことは国際試合,国際大会における強さにつながる。

 歴史の浅い日本サッカーにとって一番不利な点が、3番目の「代表チームの経験値」である。だが、それもまったく問題はない。世界サッカーの最先端地域である西ヨーロッパ(ドイツ,オランダ,イタリア,フランスなど)から優れた指導者(監督,コーチ)を招聘(しょうへい)し、その知識を吸収すればよいのである。

 西ヨーロッパの優れたサッカー指導者ならば、その国のサッカーを悪い意味で規制している独自の「文化」など、ほんの数か月で変えられる。事実、オランダ人のフース・ヒディンクは、上下関係の厳しい韓国、だらしないオーストラリア、卑屈で冒険心のないロシア、これら各国の代表チームを変革し、素晴らしい結果を上げてきた……。

あざやかなロジックについてまわる不安や疑問
 ……胸がすくような論理が次々と展開される。日本のサッカーファンならば、日本人ならば『「ジャパン」はなぜ負けるのか』をぜひ読むべきである。しかし。この著作の小気味の良さには、表裏一体で不安や疑問もわいてくる。

 ひとつは、日本における日本人論の存在があまりにも強固なこと。日本人は日本にやってきた外国人による日本人論の類(ロラン・バルトほか)を過剰にありがたがる風潮があり、特にスポーツは、そうした日本人論に素材を提供し続けてきた。この分野は海外との人的交流が盛んであり、かつ大衆的な文化として人々の目に触れやすいからだ。
菊とバット〔完全版〕
ロバート ホワイティング
早川書房
2005-01-01

和をもって日本となす
ロバート ホワイティング
角川書店
1990-04

 サッカーでは、総合スポーツ誌『ナンバー』が2010年12月9日号(通巻768号)で「外国人監督が語る日本サッカー論 ニッポン再考。」という、外国人のサッカー指導者の言葉を日本人論として受容する特集を出している。
外国人監督が語る日本サッカー論ニッポン再考
【ナンバー768号「外国人監督が語る日本サッカー論 ニッポン再考。」(2010年12月9日号)】

 西ヨーロッパから指導者を招聘することは、日本人論にもとづいた日本人のネガティブなサッカー観を払拭するためでもある。しかし、それは新たな「サッカー日本人論」を再生産する危うさもまた孕(はら)んでいるのだ。

 著者のクーパーとシマンスキーにとって、あるいは『「ジャパン」はなぜ負けるのか』の邦訳者にして、「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」の重要なインフォーマント(情報提供者)であった森田浩之氏のとって、このことは想定外だったのではないか。

ザッケローニジャパン,その上昇と転落
 もうひとつ。『「ジャパン」は…』では、オランダ人のヒディンク、トルコのクラブ「カラタサライ」を指導したドイツ人のユップ・デアバル、ギリシャ代表を率いた同じくドイツ人のオットー・レーハーゲルといった指導者が、赴任した国々の「文化」を変革し、サッカーチームに成果をもたらした事例が紹介されている。

 いずれも成功例である。当然、失敗だってあるのではないか。2010年~2014年こそサッカー日本代表は、まさに失敗例だったのではないか。

 2010年8月、日本サッカー協会は日本代表監督として、イタリア人コーチのアルベルト・ザッケローニ(ザック)を招聘した。クーパーとシマンスキーが推奨したサッカー最先進地域,西ヨーロッパからの、待望の、監督就任である。

 ザッケローニの日本代表(ザッケローニジャパン,またはザックジャパン)は、同年10月、親善試合で南米のサッカー超大国アルゼンチンにいきなり勝利する金星をあげる。翌年1月、アジアカップでは苦しみながら最後は劇的に勝利、優勝した。ザックジャパンは順調だった。これを受けて『「ジャパン」はなぜ負けるのか』の邦訳者,森田浩之氏は自信に満ちたツイートを発した。
 少し楽観的にすぎないかと、当ブログ(の中の人間)はかえって不安を感じてしまった。とにかく、ザックジャパンはブラジル・ワールドカップのアジア予選も無難に勝ち抜いた。しかし、この直後から日本代表の雲行きが怪しくなってくる。

 本田圭佑がまたぞろ増長し始めたことも、その理由のひとつである。チーム内に「権力の多重構造」が発生した場合、よほどの戦力がない限りそのチームは必ず負ける(参照:藤島大「ジーコのせいだ」)からだ。

 余談ながら、本田といい、中田英寿といい、マスメディアがむやみやたらに称揚する一部選手への「スターシステム」をそろそろ研究や評論の対象としていいと思うのだが。

 果たして、ザックジャパンは2014年ブラジルW杯で惨敗してしまった。こうなると世上には再び「サッカー日本人論」がはびこる。ツイッターには、その当時、文化論的で自虐的なサッカー観が蔓延(まんえん)していたこと。しかし一方で、そうした風潮に懐疑的な人たちもまた少なからずいたことを示す痕跡が残されている。





 ザックジャパンでは「サッカー日本人論」は克服されなかった。新しい「サッカー文化論」も生まれなかった。日本はやっぱり「決定力不足」だったし、日本代表は「日本人」だからこそW杯で惨敗した。日本の成績が悪かったことで、サッカーをめぐる言説は、結局、日本人論や「サッカー日本人論」の常套句を繰り返す場となったのである。

「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」はなぜ負けたのか
 ザッケローニはブラジルW杯でかなり重要な采配ミスをおかしている。あるいは、「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」で紹介されたフース・ヒディンクは、ロマーリオ(ブラジル),エドガー・ダービッツ(オランダ),安貞桓(アン・ジョンファン:韓国)という、扱いの難しい選手をよく御してチームに生かしてきた。一方のザッケローニは、本田圭佑の度の過ぎた高慢を制することができなかった。

 ザッケローニの失敗は、後学のためにももっと多面的に検証,批判されるべきである。

 ここで再び、宇都宮徹壱氏の「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。だが、私はそこに〈幸運〉を感じた」(2015年6月19日)からの引用,援用を例にとる(繰り返すが当ブログは宇都宮氏に対して何の他意もない)。
ハリルホジッチを唖然とさせた「日本固有の病」。
【「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。」より】

 宇都宮徹壱氏は、ザッケローニのことはほとんど不問にする。むしろ、ザックが「それにしても、日本人がワールドカップのピッチに立ってなお、死に物狂いで戦わないとは思わなかった」などと他人事みたいに言っていたことに対して、日本人として「ただただ当惑するよりほかにない」に慨嘆する。

 監督よりも選手である日本人の側に問題があるのだ。

 あるいは、当代日本代表監督ヴァイッド・ハリルホジッチ(在任2015‐)が、W杯予選での苦戦を受けて、「私〔ハリルホジッチ〕の長いサッカー人生で、これだけ点が入らない試合を見たの初めてだ」などと発言したのを紹介する。では、そこでハリルホジッチはどうするのかという問題になるのだが、「サッカー日本人論」の影響下にある宇都宮氏の考えはそうした方向には向かわない。

 むしろ宇都宮氏は、日本選手の、否、日本人の決定力不足の方を問題にする。

 それは「日本固有の病」にして日本人の「国民的な悪しき伝統」であり、ハリルホジッチやジーコ,イビチャ・オシムなど「歴代の外国人監督を悩ませてきた宿痾(しゅくあ)」であると、あらためて宇都宮氏は「サッカー日本人論」に思い耽る。

 とどのつまり、日本サッカー界のおいて外国人監督とは、日本人論ないし「サッカー日本人論」を払拭するのではなく、その触媒として機能する存在でしかないのだ。

 厳しい表現になるけれども、ハッキリ言えばこれは「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」を書いた側の敗北であろう。サイモン・クーパーやステファン・シマンスキー,森田浩之氏の期待は実現していない。

 もちろん今後とも、スポーツの場における日本人論や「サッカー日本人論」の批判はこれからも続けてほしい。特にクーパーとシマンスキー両氏には「決定力不足の統計学」みたいな分析を行って「日本人の決定力不足」の実態を明らかにしてほしい。

 ただ、残念ながら『「ジャパン」はなぜ負けるのか』は、それを打破する「決定力」にはならなかった。

(了)


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日本人_決定力不足

決定力不足の「なぜ」と「いかに」
 日本サッカーは「なぜ」決定力不足なのか? ……という問題意識では、それは「日本固有の病」だとか、克服することは「永遠の課題」だとか、日本人論,日本文化論のような話、「サッカー日本人論」ばかりになってしまう。
リトバルスキー「なぜ日本にストライカーが育たないのか」
【リトバルスキー「なぜ日本にストライカーが育たないのか」(聞き手:加部究)】

 これでは事の本質は分からないのではないか。そうではなくて、日本サッカーは「いかに」決定力不足なのか? どれだけ、どれほど決定力不足なのか? ……という視点での論考はないものだろうか。

 要はサッカーにおける「決定力」なるものを定義したうえで数値化,統計化し、いろいろ比べてみるのである。日本は決定力が不足しているというが、それでは他の国では決定力が充足しているのか、あるいは日本同様に不足しているのか。

 そもそも、サッカーは点(ゴール)が入りにくいスポーツと言われてきた。日本に限らず、サッカーで点が入らないときは本当に入らない……。

 ……では、サッカーそれ自体が持つ点の入りにくさ、またはサッカーにおける世界平均の点の入りやすさ/入りにくさと、あるいは他の国の「決定力」と、日本サッカー独特の点の入りにくさとの間では、一体どれだけの差があるのか? それとも、ないのか?

 サッカーにおける「決定力」の統計調査をしてみたところ、やっぱり日本サッカーは「決定力不足」でしたということになるかもしれない。
QBK直後のジーコ(左)と柳沢敦
【ジーコ(左)と柳沢敦:急に(Q)ボールが(B)来たので(K)】

 しかし、人々が何となく抱いている印象が統計学によって覆ったということが、よくある。例えば、最近、少年による凶悪犯罪が増えていると思われがちだが、統計をとると実際には一貫して減り続けていることが分かるといったことなどである。

 意外にも……。日本と他国の「決定力」を統計学的に比べたらその差は小さかった。日本サッカー固有のものと思われた「決定力不足」とは「サッカー発展途上国」のありふれた現象,悩みでしかなかった。あるいは「決定力不足」だと思われていたものは、実はサッカーそのものの点の入りにくさだった……などということがあるかもしれない。

 とにかく、サッカーにおける「決定力」とは何か? あるいは、日本サッカーの「決定力不足」とは何なのか? 統計学的に調査したものを、少なくとも当ブログは知らない。

 ためにする議論に陥りがちな「なぜ」ではなく、「いかに」という視点で迫ってこそ、「決定力不足」問題の把握と解決につながるのではないか。

「決定力」は統計化できるか?
 サッカーは、ゲーム内容や選手のプレー内容を数値化しにくい「アナログ型スポーツ」の典型とだとされていた。この点、数値化が容易な「デジタル型スポーツ」だとされ、数字で楽しめる野球やアメリカンフットボールとは対照的で趣が異なるとされている(後藤健生氏も若かりし頃、日本サッカー狂会のミニコミ誌にそのような趣旨を書いていた)。

 サッカーの中で数少ないデジタル型の局面であるペナルティキック(PK)であれば、統計学の優れた論考がたくさんある。

 しかし、やはり、インプレーからの得点(流れの中での得点)、その「決定力」についてのような統計をとるのは難しいのかな……と思っていたら、2014年W杯のテクニカルリポートに興味深いデータ分析があった。
サッカーの「決定力」ってなに?
参考:サッカーの「決定力」ってなに?(2016年7月27日)

 この論考では、ありがちな個人的なシュート技術や精神論,文化論に傾いていない。それがいい。こうした方法からデータベースを蓄積し、資料をうまく処理して、サッカーの「決定力」あるいは日本サッカーの「決定力不足」の正体に統計学から迫ってほしい……。

 ……サイモン・クーパー(サッカージャーナリスト)のと、ステファン・シマンスキー(スポーツ経済学者)のコンビなら、ひょっとしたらやってくれるのではないか、などと勝手に夢想するのである。

ステファン・シマンスキー(左)とサイモン・クーパー
【ステファン・シマンスキー(左)とサイモン・クーパー】



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外国人監督が語る「日本人論」を必要以上にありがたがるのは日本サッカー界の悪い癖である(前編) : スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

宇都宮徹壱氏のコラムから「サッカー日本人論」を読む企て
  1. 日本人は(特に欧米出身の)外国人が書いた「日本人論」をありがたがる。
  2. サッカーは「日本人論」あるいは「サッカー日本人論」のネタになりやすい。
  3. サッカー日本代表監督は(欧米出身の)外国人が務めることが多い。
  4. 外国人監督の発言は「日本人論」「サッカー日本人論」としてありがたく受容される。
  5. 外国人監督は「監督」から「評論家」へと変化(へんげ)する。
  6. サッカーメディアは「評論家」になった外国人監督に対して批評精神が働かなくなる。
  7. 結果として日本サッカーに悪い意味でさまざまな影響を与える。

 実際に日本サッカー界が「日本人論」「サッカー日本人論」からどんな影響を受けているのかを具体例で読んでいく。今回、注目したのは宇都宮徹壱氏のコラム「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。だが、私はそこに〈幸運〉を感じた」(2015年6月19日)である。

 タイトルからして外国人監督の言葉をありがたがった「サッカー日本人論」の感がある。
ハリルホジッチを唖然とさせた「日本固有の病」。
【「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。」より】

 むろん、当ブログは宇都宮徹壱氏に何の他意もない。当エントリーの目的は宇都宮氏を貶めることではない。

 リンク先を読めばわかる通り、宇都宮氏はまぎれもなく「サッカー日本人論」のビリーバーであり、かつ発信者である。サッカーファンはその受容者である。もちろん、日本サッカー界の住人のほとんどが「サッカー日本人論」のビリーバーであり、発信者,受容者である。それ以前に、日本人のほとんどが「日本人論」のビリーバーである。大げさに言えば日本人のほとんどすべてが「サッカー日本人論」のビリーバーなのである。

 あくまで、その「サッカー日本人論」のワン・オブ・ゼムとして、今回は宇都宮氏のコラムを取り上げるということである。この点、ご了解いただければと思う。

惨敗した調教師の言い訳を鵜呑みにするお人好しの馬主=日本サッカー界
 まず宇都宮徹壱氏は、元サッカー日本代表監督アルベルト・ザッケローニ(在任2010‐2014)が、同じく元日本代表監督,岡田武史(在任1997‐1998,2008‐2010)に対して「それにしても、日本の選手が〔日本人が?〕ワールドカップのピッチに立ってなお、死に物狂いで戦わないとは思わなかった」と慨嘆していた……というエピソードを紹介して、驚いてみせる。
 さらりと言っているが、〔この発言は〕実に恐るべき内容である。ザッケローニに率いられた日本代表は、〔…2014年のブラジル・ワールドカップ〕本大会は戦えるはず、と多くの人々が(そして指揮官や選手たちも)楽観していた。〔しかし、結果は惨敗した〕

 昨年のブラジル〔W杯〕における敗因について、ここで多くを語るつもりはない。が、ここで注目すべきは「W杯のピッチに立って、死に物狂いで戦わない選手がいる」ことにザック自身が驚いたという事実である。死に物狂いで戦わない(あるいは、戦えない?)選手がいたことはもちろん問題だが、〔日本人とは?〕そういう選手〔「国民」または「民族」、ないしは「人種」?〕であることを気付かずにザックが23名のリストに選んでしまっていたこと、そしてかように〔日本人の?〕致命的ミスが本大会の試合になって初めて露見したということについては、われわれ〔日本人?〕はただただ当惑するよりほかにない。
 ここですでに、サッカー日本代表の「監督」を日本人論の「評論家」にしてしまい、その発言をありがたがり、批評に曇りが生じ、評価の方向が「監督」から「われわれ日本人」へと逆転してしまう「サッカー日本人論」の現象を見て取ることができる。

 ザッケローニは、自分が手掛けたチーム(2014年サッカー日本代表)を何か他人事のように語っている……かのように読める。日本人である宇都宮氏は、「評論家」ザックの日本人論をありがたく頂戴し、「監督」ザックにはさして落ち度はなく、むしろ問題は選手の側にあったかのように論じている……かのように読める。

 これには違和感がぬぐえない。

 例えれば、それまでのレースで良い成績を残し、期待をされながら肝心のダービーでは惨敗してしまった競走馬がいたとしよう。ザッケローニは、いわばその競走馬を担当した「調教師」である。その「調教師」はレース後、「それにしても、この馬がダービーのターフに立ってなお、死に物狂いで走らないとは思わなかった」などと嘯(うそぶ)く。

 そんな「調教師」のふざけた言い訳を鵜呑みにする、お人好しで間抜けな「馬主」が日本サッカー界なのである。

 つたない記憶によれば、イタリア語で(イタリアはザッケローニの母国である)サッカーの「監督」と競馬の「調教師」は同じ単語「アレナトーレ」であったはずだ。

 しかし、調教師=監督の責任は、「サッカー日本人論」の作法のしたがって、不問に付されたのである。

「日本人の決定力不足」いちばんの解決法とは?
 ザックの次は、当代日本代表監督ヴァイッド・ハリルホジッチ(在任2015‐)である。2015年6月現在、日本代表はワールドカップ・ロシア大会アジア予選で苦戦していた。その理由は……点が取れないからである。またしても日本サッカーの、否、「日本人の決定力不足」である。

 ハリルホジッチは「日本人」のあまりの決定力不足を見て愕然としたのだという。ハリルの指摘を受けた宇都宮徹壱氏は、これを日本人の、「日本固有の病」であるとして、くだんのコラムで以下のような「サッカー日本人論」を展開する。
 日本人選手は……結果が求められる試合で……決定的な場面でシュートを外しまくったり……ということを繰り返す。……これはある種、国民的な悪しき伝統といっても過言ではないだろう。そしてそれは、歴代の外国人監督を悩ませてきた宿痾(しゅくあ)でもあった。
 1998年フランスW杯でシュートを外しまくった城彰二選手、2006年ドイツW杯の「QBK」で絶好のシュートチャンスを外してしまった柳沢敦選手などの事例から、いかにも日本のサッカー選手は、否、「日本人は決定力不足」であるとのイメージが人々の間に沁(し)みついている。


QBK直後のジーコ(左)と柳沢敦
【ジーコ(左)と柳沢敦:急に(Q)ボールが(B)来たので(K)】


 宇都宮氏は「日本人は決定力不足」のイメージを、(欧米出身の)外国人監督ハリルホジッチによる「日本人論」または「サッカー日本人論」という権威付けで語っているのだ。もちろん、その分、ハリルの責任は軽減される。

 ところで、「日本人は決定力不足」という通念は、宇都宮徹壱氏が言うように(宇都宮氏だけではないのだが)本当に「日本固有の病」なのだろうか?

 サッカージャーナリストの後藤健生氏がこんなことをコラムで書いている(「ヨーロッパで鍛えられる日本人FW 日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ」2017年5月1日)。

 2017年、、欧州のサッカーリーグの日本人の若手FWがとても元気だ。大迫勇也、久保裕也、原口元気、武藤嘉紀。2000年代、欧州リーグで通用する日本人選手といえば、中田英寿、中村俊輔,小野伸二と、まずMFと思われていたのに……だ。

 フィジカルコンタクトが激しいゴール前のプレー=FWよりも、日本人には中盤でのプレー=MFの方が向いているのかとも思われた。

 集団主義的な社会,文化である日本からはエゴイスティックな(決定力のある?)FWは育たないとも言われ、画一的な日本の学校教育が原因ではないかとも言われた。さらには「農耕民族の日本人には狩猟民族の欧米人がふさわしいポジション=FWは無理だ」などと馬鹿げた話まで言い出す人までいた。
後藤健生コラム「日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ」
【後藤健生「日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ】

 しかし、「日本人」のイメージもすっかり様変わりしてしまった。2022年のカタールW杯の時には「日本には優れたFWはいくらでもいるのに、もう少しMFがいたら……」と言われるようになっているかもしれない……。

 ……では、後藤氏をはじめとするオールドサッカーファンは、1970年代には何と考えていたのか? 「日本人からは他人に使われるFWの好選手,釜本邦茂のような決定力のあるストライカーは出てきても、他人を使うようなポジション=MFの好選手は出てこない」などと語り合っていたのである。

 サッカーにおける「日本人」のイメージは、かくもいい加減で、時代によりこれだけ「ゆらぎ」がある。「日本人だから○○」などと安易に決めつけるべきではないのだ。

 それでも、W杯の大舞台で活躍できない限りは「決定力不足」という「日本固有の病」の克服にはならないと「サッカー日本人論」のビリーバーたちは言うかもしれない。

 宇都宮徹壱氏は、そうした立場に立って、くだんのコラムで「メンタルの弱い日本人」「本番に弱い日本人」「決定力不足の日本人」の対策として、メンタル面でケアの出来るスタッフを日本代表に常駐させるべきだ……という具申をしている。

 しかし、日本のサッカー選手にとって、否、日本人にとって一番のメンタルケアは「サッカー日本人論」の通念通説を批判して、その呪縛を解いてあげることではないだろうか。

それでも、やっぱりジーコのせいだ
 宇都宮徹壱氏は「日本人の決定力不足」には大変な屈託があるらしく(むろん宇都宮氏だけではないはずだが)、くだんのコラムを書いた約1年後、2016年9月6日の時点でこんなツイートをしている。

 この「つぶやき」の数日前、2016年9月1日、サッカー日本代表はロシアW杯アジア最終予選の対UAE腺でまさかの敗戦を喫した。苦杯の理由は、追加点がなかなか取れなかったこと。またしても日本サッカーの、否、「日本人の決定力不足」である。

 思い返すに……。ジーコ(在任2002‐2006)は、日本代表の監督としては戦術的指導をほとんど行わず、選手たちにミニゲームやシュートを中心とした練習メニューを課していた。無為無策ではないかと批判されていたジーコは、実は「決定力不足」という日本人の弱点を十分に理解しており、むしろ、正しかったのではないか……。

 宇都宮氏が嘆息したのはそういう含みである。

 こうした思考自体が、宇都宮氏が「サッカー日本人論」に絡めとられていることを意味する。悪いのは監督ジーコではない。決定力不足の日本人の方だ。実際にジーコは「サッカー日本人論」の作法に従い、2006年ドイツW杯で惨敗した責任を不問に付されている。

 それは違う。やはり責任はジーコにあるのだ……と喝破し、サッカージャーナリストよりも筆鋒鋭くジーコを批判したのは、ラグビー系のスポーツライター藤島大氏であった。
「ジーコのせいだ」 藤島大
すべてジーコのせいだ。ジーコが悪い。ジーコがしくじったから負けた。なぜか。チャンピオンシップのスポーツにおいて敗北の責任は、絶対にコーチ〔監督〕にあるからだ。シュートの不得手なFW〔柳沢敦〕を選んで、緻密な戦法抜きの荒野に放り出して、シュートを外したと選んだコーチ〔監督〕が非難したらアンフェアだ。
 藤島大氏は、「〈監督〉が〈評論家〉になってはいけない」と日本スポーツ界を戒めていた、ラグビーの名将,名伯楽,大西鐡之祐(おおにし・てつのすけ:1916‐1995)の直弟子である。サッカー側が尻込みするなか、藤島氏がこの風潮に抗い、鋭くジーコを批判できたのも、けして偶然ではなく、大西とのつながりが関係がある。

自己成就と矛盾の連鎖
 藤島大氏がわざわざ力説しなければならなかったように、サッカーの勝敗において第一に問責されるべきは監督である……という原則が、日本サッカーにおいては、特に日本代表に関してはなかなか働かない。これまで何度も述べているように、日本では、私たちは外国人監督の発言を「サッカー日本人論」としてありがたがってしまうからである。

 日本のサッカー関係者がありがたがる「サッカー日本人論」は、日本人が日本人であるがゆえにサッカーというスポーツへの適性を著しく欠いている……という、きわめて自己否定的,自虐的な日本サッカー観である。こうしたサッカー観が繰り返し語られ、私たちの自己イメージが刷り込まれる。

 そして、その自己イメージを成就させるかのように、私たち日本人を「代表」するサッカー選手たちは、決定機でシュートを外し、肝心なワールドカップの大舞台で負ける。

 そうした「日本人の決定力不足」や「日本人の勝負弱さ」の克服を……と、サッカージャーナリストたちは唱えるが、それらの主張にはたいてい外国人監督への無答責と、外国人監督の言葉による「サッカー日本人論」がセットで付いてくるので、日本サッカー自己否定的なイメージの刷り込みはかえって繰り返される。そして、日本人の決定力不足や勝負弱さもまた繰り返される。

 こうした矛盾の連鎖が「サッカー日本人論」と日本サッカーの関係にはある。

 外国人監督が語る「日本人論」を必要以上にありがたがるのは日本サッカー界の、やはり悪い癖である。サッカージャーナリストたちは矛盾の連鎖に気が付かないのだ。

(了)


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読んではいけない本ブックガイドより

ロラン・バルト『表徴の帝国』
 外国人が日本論を書くと必要以上にありがたがるのは日本人の悪い癖である。
小谷野敦『バカのための読書術

表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)
ロラン バルト
筑摩書房
1996-11-01



ラグビーの名将が問う「監督」と「評論家」
 日本ラグビーの名将,名伯楽だった大西鐡之祐(おおにし・てつのすけ:1916‐1995)は「監督が評論家になってはいけない」と語っていたらしい。

 なぜなら、スポーツにおいて監督とは、チームを作り、試合においてはチームを指揮する、あくまで「実践者」「責任者」だから。自身が手掛ける対象(チーム)を、あたかも「評論家」のように他人事として語るのはそもそもおかしいし、いろいろ弊害が出るからだ。

 かえりみるに「監督」を「評論家」にしてしまう現象はラグビーよりもサッカーに顕著である。

スポーツの「監督」を日本文化の「評論家」にしてしまう日本サッカーのカラクリ
  1. 前掲、小谷野敦氏のロラン・バルト評のように、日本人は(特に欧米出身の)外国人による日本人論を必要以上にありがたがる。
  2. 日本人は日本人論を好み、日本のサッカー関係者は、サッカーを日本人論で語り、サッカーで日本人論を語る「サッカー日本人論」を好む。
  3. なかんずく、サッカー日本代表は「サッカー日本人論」のネタにされやすい。
  4. 日本代表の監督は、(欧米出身の)外国人が務めることが多い。
  5. すなわち、日本代表の外国人監督が発する言葉、日本観,日本人観のようなものが日本人論として受容され、読まれるようになる。
  6. すると、適切なスタンスと距離感を保って評価するべきサッカーの「監督」が、日本人論という託宣を賜(たまわ)る外国人の「評論家」に変化(へんげ)してしまう。
  7. 日本サッカー界は、その「監督」を「評論家」として奉ってしまう。
  8. 当然、日本のサッカー関係者の批評眼に曇りが生じる。
  9. 結局のところ、日本サッカーは悪い方向へと向かってしまう。
 ……と、こんな仮説を立ててみた。

 実際、歴代の外国人のサッカー日本代表監督は、日本人論と「サッカー日本人論」の素材を日本人に提供してきのである。
外国人監督が語る日本サッカー論ニッポン再考
【ナンバー768号「外国人監督が語る日本サッカー論 ニッポン再考。」(2010年12月9日号)】

赤信号文化論~フィリップ・トルシエ
 フィリップ・トルシエ(在任1998‐2002)といえば赤信号文化論である。
 組織のために自己を犠牲にする〔日本人の〕精神は、日本社会の大きな力になっているのは間違いない。

 ただその特性が日本人から自らの責任において判断する力を奪っている。赤信号の例などは、まさにその典型であろう。車が来ないことがわかっていても、多くの日本人は赤信号では決して横断しようとはしない。しかし信号を守るのは身の安全を確保するためであって、規則を守ること自体が目的ではないはずだ。秩序・規範は社会が定めるものであるが、自己の価値判断とのせめぎあいは常に存在する。それが市民として社会を生きるということなのだから。

 サッカーは自己表現のスポーツだ。そして自己表現のためには、自ら判断し責任を引き受ける人間の成熟が求められる。サッカーは大人のスポーツなのである。

――フィリップ・トルシエ『トルシエ革命』

トルシエ革命
フィリップ トルシエ
新潮社
2001-06


 よく知られるように、もともと赤信号文化論は後藤健生氏の持ちネタだった。後藤氏は、後になって2012年にこの文化論を自己批判し、否定している(「ポーランドサッカー弱体化は、赤信号で道路を横断しないから?」)。

 後藤氏も否定したことだし、もうこの話は出てこないのかと思っていたら、元『フットボリスタ』誌編集長の木村浩嗣氏が、2016年に赤信号文化論を展開していた(「赤信号を渡る国で自己責任について考える スペイン暮らし、日本人指導者の独り言〔3〕」)。

 これには驚いた。同時にガッカリさせられた。赤信号文化論は不滅の定番なのだろうか?

自由? むしろフィジカル~ジーコ
 ジーコ(在任2002‐2006)は、組織,戦術を選手たちに強要したトルシエに対して、個の力を重んじた自由なサッカーを理念としていた……と、されている。だから、あえて日本代表の選手たちに戦術を落とし込まなかったのだ……と、されている。

 こうした論点自体が「日本人=組織,戦術に従順なサッカー<欧米人=自由,自主性,個の力のサッカー」という、昔からある自虐的な「サッカー日本人論」の観念が投影されたものだ。この図式においては、日本サッカーが負けてもジーコには責任はなく、自由が苦手で個に劣った日本人が悪いのだという理屈になってしまう。

 つまり、ジーコにはあらかじめ逃げ道が用意されていた。事実、2006年ドイツW杯で日本は惨敗したものの、「監督」であるジーコの責任を問う声は少なかったのである。

 もっとも、本当にジーコが以上のようなことを考えていたのかは、実は怪しい。

 明らかなジーコの発言としては、2006年6月26日に行われた退任会見がある。ここで、有名な「日本は体格,フィジカルで劣っていた。それがドイツW杯の敗因だ」とった趣旨の発言が出る。
 しかし、前提を敗因としてはいけないはずだ。日本のサッカー選手が体格,フィジカルで劣っているというのであれば、それを前提としたスタイルのサッカーをしなければならない。ジーコはそれがしようとしなかったし、できなかった。

 前提であるはずの要素を敗因としたジーコの言は「監督」のそれではなく、まったく「評論家」のものである。思い返すに在任中のジーコの日本代表に関する発言は、いつも何か他人事のようなものでまさに「評論家」だった。

 ジーコの言い訳を鵜呑みにし、批評することを忘れてしまった日本サッカー界は将来にわたって悪い前例を残すことになった。

イビチャ・オシムはロラン・バルトである
 ジーコの尻ぬぐいをすることになったイビチャ・オシム(在任2006‐2007)は、健康を害してしまったために1年あまりで日本代表監督の座から退くことになった。しかし、以降も日本サッカー界,日本のサッカーマスコミとの関係が切れることはなかった。

 その理由とは? ……オシムを有名にしたのは、Jリーグ,ジェフユナイテッド千葉・市原監督時代の機知に富んだ哲学的なコメントだった。悪く表現すれば持って回った晦渋な言い回しであるが、むしろ人はそこに深遠な魅力を感じとる。

 だから、彼の発言はメディアにこぞって取り上げられるようになる。日本代表監督退任後も多くの書籍や雑誌に掲載され続けることになった。
  • ライオンに追われたウサギが逃げ出す時に肉離れを起こしますか? 要は準備が足らない。
  • 休みから学ぶものはない。
  • アイデアのない人間もサッカーはできるが、サッカー選手にはなれない。
 アフォリズムとして編集されて読者に届けられる「オシムの言葉」は、やがてサッカーから日本人論へと拡張していく。
  • 日本人は、誰もが責任を回避しようとする。
  • 日本の選手たちは、誰かに何かを言われないと1人で行動できない。
  • 日本人は他人に依存する性質があり、自分で考えて質問する機会はあまり多くない。
 オシムは日本人論の発信者として読まれるようになる。
日本人よ!
イビチャ オシム
新潮社
2007-06

 出版社,編集者も「オシムの言葉」を、あるいはロラン・バルトやルース・ベネディクトらのように外国人が書いた日本人論の著作として読まれたいかのような本の作り方をする。そうすれば広い層から読者を取り込めるのだ。

 日本人論として浸透した「オシムの言葉」は、あらためて日本のサッカー界に下っていき、少なからず影響を与える。



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