「サイモン・クーパーの誤算(前編)~続・外国人監督の日本人論をありがたがる日本サッカーの悪癖」よりつづく
サッカー文化なんか数か月で変えられる?
サイモン・クーパーとステファン・シマンスキーが著したサッカー本『「ジャパン」はなぜ負けるのか』(2010年,森田浩之訳,原題:英国版Why England Lose,米国版Soccernomics)日本語版の第2章は、書名と同じ「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」。日本サッカーが国際舞台でなかなか勝てない理由を「日本人の国民性,文化」に求める風潮をデタラメだと批判する意欲的な論考である。
この話のマクラとして、非常にわかりやすい話の入り口として「サッカーにおける日本人の決定力不足」が登場する。日本の人たちは、永久に変えようがない日本人の国民性や文化の影響下にあり、自分たちは「決定力不足」だと信じ込んでいる……。
……しかし、こんな議論は誤りだと、クーパーとシマンスキーは喝破する。もっとも、2人は「決定力不足」言説そのものを批判しない。その代わり、日本サッカー本来の素質(秘めた実力)を統計を使って諄々(じゅんじゅん)と諭すという方法をとる。サッカーそれ自体の実力を上げ、実績を積むことは、必然的に「決定力不足」の克服になるわけだ。
すなわち、その国のサッカーの実力は「国の人口」「国民所得」「代表チームの経験値」という3つの要素に左右される(国民性や文化ではない)。実は、日本はこの点で非常に有望である。アメリカ合衆国,中国とならんで将来的に最も有望な国であろう。
優れた代表選手を輩出する母体となる「国の人口」の多さ(日本:およそ1億2千万人)。「国民所得」とは早い話が強化のためのカネ=経済力である(身体能力に優れているとされるアフリカ諸国は、この点で期待薄らしい)。そして「代表チームの経験値」を積むことは国際試合,国際大会における強さにつながる。
歴史の浅い日本サッカーにとって一番不利な点が、3番目の「代表チームの経験値」である。だが、それもまったく問題はない。世界サッカーの最先端地域である西ヨーロッパ(ドイツ,オランダ,イタリア,フランスなど)から優れた指導者(監督,コーチ)を招聘(しょうへい)し、その知識を吸収すればよいのである。
西ヨーロッパの優れたサッカー指導者ならば、その国のサッカーを悪い意味で規制している独自の「文化」など、ほんの数か月で変えられる。事実、オランダ人のフース・ヒディンクは、上下関係の厳しい韓国、だらしないオーストラリア、卑屈で冒険心のないロシア、これら各国の代表チームを変革し、素晴らしい結果を上げてきた……。
あざやかなロジックについてまわる不安や疑問
……胸がすくような論理が次々と展開される。日本のサッカーファンならば、日本人ならば『「ジャパン」はなぜ負けるのか』をぜひ読むべきである。しかし。この著作の小気味の良さには、表裏一体で不安や疑問もわいてくる。
ひとつは、日本における日本人論の存在があまりにも強固なこと。日本人は日本にやってきた外国人による日本人論の類(ロラン・バルトほか)を過剰にありがたがる風潮があり、特にスポーツは、そうした日本人論に素材を提供し続けてきた。この分野は海外との人的交流が盛んであり、かつ大衆的な文化として人々の目に触れやすいからだ。
サッカーでは、総合スポーツ誌『ナンバー』が2010年12月9日号(通巻768号)で「外国人監督が語る日本サッカー論 ニッポン再考。」という、外国人のサッカー指導者の言葉を日本人論として受容する特集を出している。
【ナンバー768号「外国人監督が語る日本サッカー論 ニッポン再考。」(2010年12月9日号)】
西ヨーロッパから指導者を招聘することは、日本人論にもとづいた日本人のネガティブなサッカー観を払拭するためでもある。しかし、それは新たな「サッカー日本人論」を再生産する危うさもまた孕(はら)んでいるのだ。
著者のクーパーとシマンスキーにとって、あるいは『「ジャパン」はなぜ負けるのか』の邦訳者にして、「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」の重要なインフォーマント(情報提供者)であった森田浩之氏のとって、このことは想定外だったのではないか。
ザッケローニジャパン,その上昇と転落
もうひとつ。『「ジャパン」は…』では、オランダ人のヒディンク、トルコのクラブ「カラタサライ」を指導したドイツ人のユップ・デアバル、ギリシャ代表を率いた同じくドイツ人のオットー・レーハーゲルといった指導者が、赴任した国々の「文化」を変革し、サッカーチームに成果をもたらした事例が紹介されている。
いずれも成功例である。当然、失敗だってあるのではないか。2010年~2014年こそサッカー日本代表は、まさに失敗例だったのではないか。
2010年8月、日本サッカー協会は日本代表監督として、イタリア人コーチのアルベルト・ザッケローニ(ザック)を招聘した。クーパーとシマンスキーが推奨したサッカー最先進地域,西ヨーロッパからの、待望の、監督就任である。
ザッケローニの日本代表(ザッケローニジャパン,またはザックジャパン)は、同年10月、親善試合で南米のサッカー超大国アルゼンチンにいきなり勝利する金星をあげる。翌年1月、アジアカップでは苦しみながら最後は劇的に勝利、優勝した。ザックジャパンは順調だった。これを受けて『「ジャパン」はなぜ負けるのか』の邦訳者,森田浩之氏は自信に満ちたツイートを発した。
本田圭佑がまたぞろ増長し始めたことも、その理由のひとつである。チーム内に「権力の多重構造」が発生した場合、よほどの戦力がない限りそのチームは必ず負ける(参照:藤島大「ジーコのせいだ」)からだ。
余談ながら、本田といい、中田英寿といい、マスメディアがむやみやたらに称揚する一部選手への「スターシステム」をそろそろ研究や評論の対象としていいと思うのだが。
果たして、ザックジャパンは2014年ブラジルW杯で惨敗してしまった。こうなると世上には再び「サッカー日本人論」がはびこる。ツイッターには、その当時、文化論的で自虐的なサッカー観が蔓延(まんえん)していたこと。しかし一方で、そうした風潮に懐疑的な人たちもまた少なからずいたことを示す痕跡が残されている。
「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」はなぜ負けたのか
ザッケローニはブラジルW杯でかなり重要な采配ミスをおかしている。あるいは、「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」で紹介されたフース・ヒディンクは、ロマーリオ(ブラジル),エドガー・ダービッツ(オランダ),安貞桓(アン・ジョンファン:韓国)という、扱いの難しい選手をよく御してチームに生かしてきた。一方のザッケローニは、本田圭佑の度の過ぎた高慢を制することができなかった。
ザッケローニの失敗は、後学のためにももっと多面的に検証,批判されるべきである。
ここで再び、宇都宮徹壱氏の「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。だが、私はそこに〈幸運〉を感じた」(2015年6月19日)からの引用,援用を例にとる(繰り返すが当ブログは宇都宮氏に対して何の他意もない)。
【「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。」より】
宇都宮徹壱氏は、ザッケローニのことはほとんど不問にする。むしろ、ザックが「それにしても、日本人がワールドカップのピッチに立ってなお、死に物狂いで戦わないとは思わなかった」などと他人事みたいに言っていたことに対して、日本人として「ただただ当惑するよりほかにない」に慨嘆する。
監督よりも選手である日本人の側に問題があるのだ。
あるいは、当代日本代表監督ヴァイッド・ハリルホジッチ(在任2015‐)が、W杯予選での苦戦を受けて、「私〔ハリルホジッチ〕の長いサッカー人生で、これだけ点が入らない試合を見たの初めてだ」などと発言したのを紹介する。では、そこでハリルホジッチはどうするのかという問題になるのだが、「サッカー日本人論」の影響下にある宇都宮氏の考えはそうした方向には向かわない。
むしろ宇都宮氏は、日本選手の、否、日本人の決定力不足の方を問題にする。
それは「日本固有の病」にして日本人の「国民的な悪しき伝統」であり、ハリルホジッチやジーコ,イビチャ・オシムなど「歴代の外国人監督を悩ませてきた宿痾(しゅくあ)」であると、あらためて宇都宮氏は「サッカー日本人論」に思い耽る。
とどのつまり、日本サッカー界のおいて外国人監督とは、日本人論ないし「サッカー日本人論」を払拭するのではなく、その触媒として機能する存在でしかないのだ。
厳しい表現になるけれども、ハッキリ言えばこれは「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」を書いた側の敗北であろう。サイモン・クーパーやステファン・シマンスキー,森田浩之氏の期待は実現していない。
もちろん今後とも、スポーツの場における日本人論や「サッカー日本人論」の批判はこれからも続けてほしい。特にクーパーとシマンスキー両氏には「決定力不足の統計学」みたいな分析を行って「日本人の決定力不足」の実態を明らかにしてほしい。
ただ、残念ながら『「ジャパン」はなぜ負けるのか』は、それを打破する「決定力」にはならなかった。
サッカー文化なんか数か月で変えられる?
サイモン・クーパーとステファン・シマンスキーが著したサッカー本『「ジャパン」はなぜ負けるのか』(2010年,森田浩之訳,原題:英国版Why England Lose,米国版Soccernomics)日本語版の第2章は、書名と同じ「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」。日本サッカーが国際舞台でなかなか勝てない理由を「日本人の国民性,文化」に求める風潮をデタラメだと批判する意欲的な論考である。Simon Kuper
Nation Books
2014-04-22
この話のマクラとして、非常にわかりやすい話の入り口として「サッカーにおける日本人の決定力不足」が登場する。日本の人たちは、永久に変えようがない日本人の国民性や文化の影響下にあり、自分たちは「決定力不足」だと信じ込んでいる……。
……しかし、こんな議論は誤りだと、クーパーとシマンスキーは喝破する。もっとも、2人は「決定力不足」言説そのものを批判しない。その代わり、日本サッカー本来の素質(秘めた実力)を統計を使って諄々(じゅんじゅん)と諭すという方法をとる。サッカーそれ自体の実力を上げ、実績を積むことは、必然的に「決定力不足」の克服になるわけだ。
すなわち、その国のサッカーの実力は「国の人口」「国民所得」「代表チームの経験値」という3つの要素に左右される(国民性や文化ではない)。実は、日本はこの点で非常に有望である。アメリカ合衆国,中国とならんで将来的に最も有望な国であろう。
優れた代表選手を輩出する母体となる「国の人口」の多さ(日本:およそ1億2千万人)。「国民所得」とは早い話が強化のためのカネ=経済力である(身体能力に優れているとされるアフリカ諸国は、この点で期待薄らしい)。そして「代表チームの経験値」を積むことは国際試合,国際大会における強さにつながる。
歴史の浅い日本サッカーにとって一番不利な点が、3番目の「代表チームの経験値」である。だが、それもまったく問題はない。世界サッカーの最先端地域である西ヨーロッパ(ドイツ,オランダ,イタリア,フランスなど)から優れた指導者(監督,コーチ)を招聘(しょうへい)し、その知識を吸収すればよいのである。
西ヨーロッパの優れたサッカー指導者ならば、その国のサッカーを悪い意味で規制している独自の「文化」など、ほんの数か月で変えられる。事実、オランダ人のフース・ヒディンクは、上下関係の厳しい韓国、だらしないオーストラリア、卑屈で冒険心のないロシア、これら各国の代表チームを変革し、素晴らしい結果を上げてきた……。
あざやかなロジックについてまわる不安や疑問
……胸がすくような論理が次々と展開される。日本のサッカーファンならば、日本人ならば『「ジャパン」はなぜ負けるのか』をぜひ読むべきである。しかし。この著作の小気味の良さには、表裏一体で不安や疑問もわいてくる。ひとつは、日本における日本人論の存在があまりにも強固なこと。日本人は日本にやってきた外国人による日本人論の類(ロラン・バルトほか)を過剰にありがたがる風潮があり、特にスポーツは、そうした日本人論に素材を提供し続けてきた。この分野は海外との人的交流が盛んであり、かつ大衆的な文化として人々の目に触れやすいからだ。
サッカーでは、総合スポーツ誌『ナンバー』が2010年12月9日号(通巻768号)で「外国人監督が語る日本サッカー論 ニッポン再考。」という、外国人のサッカー指導者の言葉を日本人論として受容する特集を出している。
【ナンバー768号「外国人監督が語る日本サッカー論 ニッポン再考。」(2010年12月9日号)】
西ヨーロッパから指導者を招聘することは、日本人論にもとづいた日本人のネガティブなサッカー観を払拭するためでもある。しかし、それは新たな「サッカー日本人論」を再生産する危うさもまた孕(はら)んでいるのだ。
著者のクーパーとシマンスキーにとって、あるいは『「ジャパン」はなぜ負けるのか』の邦訳者にして、「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」の重要なインフォーマント(情報提供者)であった森田浩之氏のとって、このことは想定外だったのではないか。
ザッケローニジャパン,その上昇と転落
もうひとつ。『「ジャパン」は…』では、オランダ人のヒディンク、トルコのクラブ「カラタサライ」を指導したドイツ人のユップ・デアバル、ギリシャ代表を率いた同じくドイツ人のオットー・レーハーゲルといった指導者が、赴任した国々の「文化」を変革し、サッカーチームに成果をもたらした事例が紹介されている。いずれも成功例である。当然、失敗だってあるのではないか。2010年~2014年こそサッカー日本代表は、まさに失敗例だったのではないか。
2010年8月、日本サッカー協会は日本代表監督として、イタリア人コーチのアルベルト・ザッケローニ(ザック)を招聘した。クーパーとシマンスキーが推奨したサッカー最先進地域,西ヨーロッパからの、待望の、監督就任である。
ザッケローニの日本代表(ザッケローニジャパン,またはザックジャパン)は、同年10月、親善試合で南米のサッカー超大国アルゼンチンにいきなり勝利する金星をあげる。翌年1月、アジアカップでは苦しみながら最後は劇的に勝利、優勝した。ザックジャパンは順調だった。これを受けて『「ジャパン」はなぜ負けるのか』の邦訳者,森田浩之氏は自信に満ちたツイートを発した。
森田浩之@hiroyuki_morita少し楽観的にすぎないかと、当ブログ(の中の人間)はかえって不安を感じてしまった。とにかく、ザックジャパンはブラジル・ワールドカップのアジア予選も無難に勝ち抜いた。しかし、この直後から日本代表の雲行きが怪しくなってくる。TLを見てると、日本の新しい「サッカー文化論」が生まれつつある気がする。この間まで、日本は「決定力不足」の国と言われてた。それは国民性によるものとも言われていた。もうそんなこと誰も言わないじゃん。だったら国民性と関係ないわけでしょ。「日本人」だからどうのこうのじゃないでしょ。
2012/06/08 23:56:32
本田圭佑がまたぞろ増長し始めたことも、その理由のひとつである。チーム内に「権力の多重構造」が発生した場合、よほどの戦力がない限りそのチームは必ず負ける(参照:藤島大「ジーコのせいだ」)からだ。
余談ながら、本田といい、中田英寿といい、マスメディアがむやみやたらに称揚する一部選手への「スターシステム」をそろそろ研究や評論の対象としていいと思うのだが。
果たして、ザックジャパンは2014年ブラジルW杯で惨敗してしまった。こうなると世上には再び「サッカー日本人論」がはびこる。ツイッターには、その当時、文化論的で自虐的なサッカー観が蔓延(まんえん)していたこと。しかし一方で、そうした風潮に懐疑的な人たちもまた少なからずいたことを示す痕跡が残されている。
与太郎日記@tokyosukatreeW杯日本代表の苦戦を観て自虐的なツイートしているのは何なんだ?日本人は~って単純に日本人論に結び付けないで欲しい。それともっと楽しくサッカー観ましょう。
2014/06/21 13:34:16
チンポよしよしリベラル@Ponkom相変わらずサッカーごときで全称的に語れるとは到底思えない日本人論や日本社会論をぶっちゃってなんの疑問も抱いていないみなさん!
2014/06/25 09:00:41
ウルトラジェッター@UltraJetter岡田、サッカーの負けで日本人論とか語るなや。 #nhk
2014/06/25 21:33:07
楽天@Rak2525_Tenサッカー日本代表で日本人論語るのやめたほうがいいんじゃね
2014/06/26 12:27:50
D-Stone@d_stonestone日頃、サッカーに見向きもしない「知識人」たちが、W杯の時だけはサッカーについての記事を書いたりする。自分の頭の良さをもってすれば、ちょっとテレビで観戦すれば本質をついた意見が書けるという自惚れがミエミエ。日本代表の敗因を日本人論や教育、日本社会と結びつけて三流コラムを書く。
2014/06/26 16:38:53
柳田 悠@YUUU_0910ザックジャパンでは「サッカー日本人論」は克服されなかった。新しい「サッカー文化論」も生まれなかった。日本はやっぱり「決定力不足」だったし、日本代表は「日本人」だからこそW杯で惨敗した。日本の成績が悪かったことで、サッカーをめぐる言説は、結局、日本人論や「サッカー日本人論」の常套句を繰り返す場となったのである。コートジボワール戦の敗戦で、普段代表どころかサッカーにも興味無い手合い、”他人が騒ぐから意識高い俺様は嫌い”系の手合いが、雑な日本人論を交えて「だから日本はダメなんだ」系のtweetを流すのを眺める。
2014/06/15 12:57:22
「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」はなぜ負けたのか
ザッケローニはブラジルW杯でかなり重要な采配ミスをおかしている。あるいは、「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」で紹介されたフース・ヒディンクは、ロマーリオ(ブラジル),エドガー・ダービッツ(オランダ),安貞桓(アン・ジョンファン:韓国)という、扱いの難しい選手をよく御してチームに生かしてきた。一方のザッケローニは、本田圭佑の度の過ぎた高慢を制することができなかった。ザッケローニの失敗は、後学のためにももっと多面的に検証,批判されるべきである。
ここで再び、宇都宮徹壱氏の「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。だが、私はそこに〈幸運〉を感じた」(2015年6月19日)からの引用,援用を例にとる(繰り返すが当ブログは宇都宮氏に対して何の他意もない)。
【「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。」より】
宇都宮徹壱氏は、ザッケローニのことはほとんど不問にする。むしろ、ザックが「それにしても、日本人がワールドカップのピッチに立ってなお、死に物狂いで戦わないとは思わなかった」などと他人事みたいに言っていたことに対して、日本人として「ただただ当惑するよりほかにない」に慨嘆する。
監督よりも選手である日本人の側に問題があるのだ。
あるいは、当代日本代表監督ヴァイッド・ハリルホジッチ(在任2015‐)が、W杯予選での苦戦を受けて、「私〔ハリルホジッチ〕の長いサッカー人生で、これだけ点が入らない試合を見たの初めてだ」などと発言したのを紹介する。では、そこでハリルホジッチはどうするのかという問題になるのだが、「サッカー日本人論」の影響下にある宇都宮氏の考えはそうした方向には向かわない。
むしろ宇都宮氏は、日本選手の、否、日本人の決定力不足の方を問題にする。
それは「日本固有の病」にして日本人の「国民的な悪しき伝統」であり、ハリルホジッチやジーコ,イビチャ・オシムなど「歴代の外国人監督を悩ませてきた宿痾(しゅくあ)」であると、あらためて宇都宮氏は「サッカー日本人論」に思い耽る。
とどのつまり、日本サッカー界のおいて外国人監督とは、日本人論ないし「サッカー日本人論」を払拭するのではなく、その触媒として機能する存在でしかないのだ。
厳しい表現になるけれども、ハッキリ言えばこれは「〈ジャパン〉はなぜ負けるのか」を書いた側の敗北であろう。サイモン・クーパーやステファン・シマンスキー,森田浩之氏の期待は実現していない。
もちろん今後とも、スポーツの場における日本人論や「サッカー日本人論」の批判はこれからも続けてほしい。特にクーパーとシマンスキー両氏には「決定力不足の統計学」みたいな分析を行って「日本人の決定力不足」の実態を明らかにしてほしい。
ただ、残念ながら『「ジャパン」はなぜ負けるのか』は、それを打破する「決定力」にはならなかった。
(了)