スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:サッカー狂い

 細川周平著『サッカー狂い~時間・球体・ゴール』(1989年初版)。絶賛的なレビューがあちらこちらで目立つが、当ブログは以前からこの本にどうしても納得いかない点があり、Amazonにかなり否定的なレビューを書いた。

 それはいちど採用され、しばらくの間、掲載されていた。その内容は、当ブログで公開した者とだいたい同じである。
  • 参照:そんなに名著か? あのサッカー本(2)細川周平『サッカー狂い』(2022年12月03日)https://gazinsai.blog.jp/archives/47935544.html
 ところが、それはいつの間にか、何の通知もなく削除されていた。

 そこで先日、表現を変えて少しマイルドにして(?)再投稿を試みた。以下は、その文章である。

 *・゜゚・*:.。..。.:*・゜

サッカー本の歴史的名著とまで言われる『サッカー狂い』のもうひとつの顔
 細川周平著『サッカー狂い』の初版は1989年(写真参照)。ドゥルーズ=ガタリをはじめとした晦渋なフランス現代思想を引用・援用しつつ、「サッカーそのもの」の美やサッカーへの愛を語った歴史的「名著」としてきわめて高い評価を得てきた。

細川周平『サッカー狂い』初版表紙(1989)
細川周平著『サッカー狂い』初版表紙(1989年)

 これが『サッカー狂い』の【表の顔】である。しかし、この本には【裏の顔】がある。それは……。

 ……フランス現代思想のような思想に没入し、特定の対象(サッカーなど)に耽溺するようになると、その対象の外にあるものは強迫的に憎むようになる。著者が考える「サッカーならざるもの」を徹底的に悪罵するのだ。

 例えば、野球、ラグビー、アメリカンフットボール(著者は蔑称のように「アメラグ」=アメリカンラグビーの略=と呼ぶ)といった他の球技スポーツへの誹謗である。

 また、著者が考える「サッカーならざるもの」への憎しみは、同じサッカーの中にも及ぶ。ドイツのサッカーを勝利至上主義の権化、あるいは「愚鈍なサッカー」として執拗に中傷し出したのも『サッカー狂い』からの風潮である。

 さらに、著者の憎しみの矛先は、Jリーグ以前のまだ「冬の時代」(1970年代初めから1990年代初めの約20年間)だった日本サッカーにも及ぶ。

 とにかく、折に触れては日本のサッカーを執拗なまでに貶し、卑下する。著者曰く「サッカーを愛すれば愛するほど,ぼくは日本から遠ざかっていく気がする.サッカーはもしかすると反日本的な競技なのかもしれない」。

 まるで、そのように断定することが、自身のサッカー観の確かさやサッカーへの批評精神を誇示することであるかのように……である。

 これらはいずれも読むに堪えない。

 この本には、日本のサッカーファンの良くないところも表出しているのである。

 『サッカー狂い』を賛美するサッカーファンは、しかし「この本は知的に高尚で深遠であるはず」「自分は頭が悪いとは思われたくない」と自らを強迫しているので、こうした点に触れたがらない。

 その上で、この本を一面的に肯定してきた。

 実際には『サッカー狂い』という本には【表の顔】【裏の顔】があり、そこを心得て読まないと、真面目なサッカーファンや読者は面食らうだろう。

 *・゜゚・*:.。..。.:*・゜

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[文中敬称略]

漫画と日本スポーツ
 日本のスポーツ文化の面白いところは、サブカルチャーでありフィクションであるところの漫画のヒット作品が、虚実の境を越えて現実のスポーツの在り様に影響を与えたところにある。

 すなわち、高橋陽一のサッカー漫画『キャプテン翼』であり、井上雄彦のバスケットボール漫画『SLUM DUNK』である。

 サッカーもバスケットボールも、元来、日本では人気が無く国際的な実力も弱小だっが、『キャプテン翼』や『SLUM DUNK』といった漫画のヒットの影響で大きく変わった。

 プロリーグ(Jリーグ,Bリーグ)が出来て人気スポーツになり、日本人選手は海外の一流リーグでプレーするようになり、日本代表の実力も大いに向上したのである。

高橋陽一,そして細川周平
 その高橋陽一『キャプテン翼』の連載が、原作者の体力の衰えなどを理由に終了するというニュースが入ってきた。
  • 参照:朝日新聞「『キャプテン翼』漫画連載終了へ~物語はネームなどで制作継続」(2024年1月5日)https://www.asahi.com/articles/ASRDX3STCRDWUCVL03L.html
 今後はネーム(絵コンテのような下書き)のような形で物語の制作を続けていくという。

 高橋陽一の名前を聞くと、なぜか個人的に思いだすのは、『サッカー狂い』(1989年初版)の著者・細川周平(音楽学者,フランス現代思想家,日系ブラジル史研究ほか)のことである。なぜなら……。


  • 参照:細川周平(国際日本文化研究センター=日文研=名誉教授)https://www.nichibun.ac.jp/ja/research/staff/s006/
 『サッカー狂い』は、ドゥルーズ=ガタリをはじめとした晦渋なフランス現代思想を引用・援用しつつ、「サッカーそのもの」の美やサッカーへの愛を語った「名著」として過剰なまでに高く評価されてきた。

 だから、今でもカリスマ本扱いされている。これが『サッカー狂い』の「表の顔」である。

 ……話を戻して、なぜなら、『サッカー狂い』では『キャプテン翼』のことを、凡百なサッカー漫画と並べて「熱血漫画,スポ根,紋切り型」として一面的に否定していたからである。

『サッカー狂い』の「裏の顔」と深層
 しかし、はたして、そもそも『キャプテン翼』は熱血漫画やスポ根として受容され、評価されてきたのか? 否、である。

 むしろ『キャプテン翼』は、同じスポーツ漫画でも、努力や根性、重圧、暑苦しさ……といった要素から離れたところで読者を獲得し、評価されてきたはずなのだ。

 細川周平のサッカー漫画観は、単なる好き嫌いの問題ではない。これから説明するのは『サッカー狂い』の「裏の顔」である。

 フランス現代思想のような観念に没入し、特定の対象(サッカーなど)を耽溺するようになると、その対象の外にあるものは強迫的に嫌悪するようになる。

 『サッカー狂い』も同様。例えば、野球、ラグビー、アメリカンフットボール(細川周平は蔑称のように「アメラグ」=アメリカンラグビーの略=と呼ぶ)といった他の球技スポーツへの悪罵である。

 あるいは、細川周平が考える「サッカーならざるもの」への憎しみは、同じサッカーの中にも及ぶ。ドイツのサッカーを勝利至上主義の権化「愚鈍なサッカー」として執拗に嫌悪し出したのも『サッカー狂い』である(今福龍太も同様である)。

細川周平『サッカー狂い』初版表紙(1989)
細川周平『サッカー狂い』初版(1989年)表紙

 さらに、細川周平の嫌悪の矛先は、まだ「冬の時代」(1970年代初め~1990年代初めの約20年間)だった日本サッカーにも及ぶ。

 とにかく折に触れては日本のサッカーを執拗なまでに貶し、卑下する。曰く「サッカーを愛すれば愛するほど,ぼく〔細川周平〕は日本から遠ざかっていく気がする.サッカーはもしかすると反日本的な競技なのかもしれない」……などとスマして語る。

 これにはウンザリさせられる。こういう話を『サッカー狂い』を称揚するサッカーファンはしたがらないが、細川周平は「日本サッカー冬の時代」にあって、日本のサッカーに絶望して「自虐的日本サッカー観」に取り憑(つ)かれていたのだ。

 この人が『キャプテン翼』を酷評したのは、こうした自身の日本サッカーへの嫌悪あるいは「自虐的日本サッカー観」の発露なのである。

サッカーへの沈黙の意味と理由は?
 細川周平は、1990年代初めまではサッカーに関する発言をしていた。例えば、次のリンク先では、1990年イタリアW杯でベスト8まで躍進し、大いに話題になったアフリカのカメルーン代表のサッカーを賛美している。
  • 参照:Sports Graphic Number Special Issue September 1990 ITALIA'90 QUESTO E IL CALCIO! イタリア・ワールドカップの21人(1990年9月11日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/398
 自由奔放なイメージのアフリカのサッカーを讃える辺り、いかにも細川周平らしい(ここでもドイツのサッカーを貶していたが)。

 しかし、その後はサッカーへの言及をほとんどしなくなった。その理由は?

 1998年、『季刊サッカー批評』創刊号で、田村修一(ひっとしたらこの人もフランス現代思想家になっていたのかもしれない)が『サッカー狂い』の絶賛書評を書いた。その中で細川周平が長らくサッカーに関して沈黙していることを、さも意味ありげに書いている。

 ……話を戻して、その理由、何のことは無い。細川周平が『サッカー狂い』であれだけ強迫的に否定した、隆盛することはあり得ないと断じていた日本のサッカーが、本の刊行から3年後にして勃興したからである。

 すなわち、1992年のサッカー日本代表(オフト・ジャパン)のアジアカップ初制覇、1993年のJリーグの開始、1997年のジョホールバルの歓喜、1998年のW杯本大会(フランス大会)初出場……と続く。昨今の森保ジャパンの活躍に関しては言うまでもない。

 細川周平はバツが悪くなったのである。

 2023年、高橋陽一は、日本サッカーの興隆に大いに貢献したとして、日本サッカー殿堂への掲額が決まった。

 実際に日本(や世界)のサッカーに大きな影響を与えたのは、『キャプテン翼』の方だった。正しかったのは細川周平ではなく高橋陽一の方だった。

 細川周平は、ここ30年余りの日本サッカーの成長を素直に認めて何かコメントするべきだ。個人的にそれを知りたい。





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高橋陽一先生
 サッカー漫画・アニメの金字塔『キャプテン翼』の原作者・高橋陽一先生の「日本サッカー殿堂」入り(掲額)が決まった。たいへん喜ばしいことである。
  • 参照:公益財団法人日本サッカー協会「第19回日本サッカー殿堂 掲額者決定」(2023年06月22日)http://www.jfa.jp/news/00032360/
 あらゆる日本のサッカー関係者は、高橋陽一先生に足を向けて寝ることができない。

 『キャプテン翼』といえば、思い出すことがある。

 一部でカリスマ・サッカー本扱いされている、細川周平(音楽学者,フランス現代思想家)の著作『サッカー狂い』(1989年初版)は、『キャプテン翼』のことを凡百な「熱血,スポ根,紋切り」のサッカー漫画だと酷評していた。

サッカー狂い―時間・球体・ゴール
細川 周平
哲学書房
1989-01T


 時代的制約とはいえ、『サッカー狂い』は、そのあまりに極端な「自虐的日本サッカー観」に唖然呆然とさせられるサッカー本である。

 要するに細川周平氏は、Jリーグ以前の「日本サッカー冬の時代」(1970年代初め~1990年代初めの約20年間)にあって、日本のサッカーに絶望して、欧州・南米のサッカーに「思想的亡命」をした人物である(ある意味「海外厨」と呼ばれる厭味なサッカーファンの走りでもある)。

 ところが、細川周平氏の思想的亡命先となった欧州・南米のサッカー界の、ワールドクラスのサッカー選手たち……ジネディーヌ・ジダン、ティエリ・アンリ、アレッサンドロ・デルピエロ、フランチェスコ・トッティ、リオネル・メッシ、セルヒオ・アグエロ、カカ、フェルナンド・トーレス、アンドレス・イニエスタ、シャビ、アレクシス・サンチェス、ハメス・ロドリゲス……らが、外国語に翻訳された『キャプテン翼』の影響を受け、ファンであることを公言していた。

 細川周平氏にとって、何とも皮肉な話である。

 『キャプテン翼』は、単なる「熱血,スポ根,紋切り」のサッカー漫画ではなかったのである。

セルジオ越後
 しかし一方、今回(第19回)の日本サッカー殿堂掲額者決定には、あのセルジオ越後も選ばれていた。実に残念なことだ。こっちは少しも喜ばしくはない。

 セルジオ越後のサッカー評論は、読んでいて少しも痛快ではないから。むしろ不快だからだ。

 この人物を評して「辛口評論」と言う。しかし、その実は、スパイスを効かせた美味なる料理ではなく、テレビ番組の「激辛王選手権」にでも出てくるような、ゲテモノとしての辛口(激辛)料理である。

 その代償として、私たちは「日本サッカーへの〈味覚〉」というものを、大きく後退させてしまった。完全にサッカーの批評眼が麻痺しているのである。

 こうした精神的土壌から、例えば金子達仁(セルジオ越後の弟子筋の人物)のような「電波ライター」も台頭する。

吠えるセルジオ越後『サッカーダイジェスト』1993年11月24日号より
【やけに威勢のいいセルジオ越後(1993年,ドーハの悲劇の直後)】

 元ラグビー選手、元ラグビー日本代表で、スポーツ社会学者の平尾剛氏は、2022年のカタールW杯を観察して「〈厳しい批判に晒してこそ選手やチームは成長する〉という考えは間違いである」、そして「行き過ぎた攻撃は誹謗中傷であり,控えるべきだ」という意見を発表した。
  • 参照:平尾剛「〈厳しい批判は選手のため〉は本当か…W杯で伊藤洋輝選手のバックパスを非難した人たちに伝えたいこと~アスリートはファンとの〈非対称な関係性〉に苦しんでいる」(2023/02/24)https://president.jp/articles/-/66717
 至極もっともだ。そして、そんな悪しき風潮の形成に大きく加担した人物が、セルジオ越後だ。

 セルジオ越後は、日本人のサッカー観を目茶苦茶に駄目にしたのである。





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『サッカー狂い』への過剰な評価
 日本のサッカー界隈では、細川周平氏(音楽学者,フランス現代思想家)の著作『サッカー狂い~時間・球体・ゴール』(1989年)がカリスマ本扱いされている。

サッカー狂い―時間・球体・ゴール
細川 周平
哲学書房
1989-01T


 ドゥルーズ=ガタリをはじめとしたフランス現代思想を援用しつつ、「サッカーそのもの」の美やサッカーへの愛を語った名著として過剰なまでに高く評価されてきた。

 しかし、ハッキリ言ってそこまで賛美するほどの著作ではない。千野圭一編集長時代の旧「WEBサッカーマガジン」の匿名電子掲示板に、この本のことを「サッカー冷遇時代におけるヒガミ根性丸出しの一冊」と揶揄した書き込みがあったが、この指摘はある意味で正しい。

 そうした性格をキチンと知らないことには『サッカー狂い』の評価をかえって誤るし、日本のサッカー文化総体も理解できない。

ニューアカとスポーツ評論
 そもそもJリーグが始まる1993年より4年も前、後藤健生氏の『サッカーの世紀』が刊行された1995年より6年も前の1989年「日本サッカー冬の時代」に、何故このような本が出版できたのか?

サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07T


 まず時代背景がある。1980年代、いわゆる「ニューアカデミズム」が持てはやされており、フランス現代思想、ポストモダン哲学、ポスト構造主義……といった知的潮流が輸入され、一種のファッションとして流行していた。細川周平氏も、音楽学者として『音楽の記号論』や『ウォークマンの修辞学』その他の論考で、ニューアカ・ブームの一翼を担っていた。

音楽の記号論 (エピステーメー叢書)
細川周平
朝日出版社
1981-01T


 ニューアカからのスポーツへの言及としては、文芸・映画評論家の蓮實重彦氏(時に「草野進」名義も使用)らが行った、大胆で放埓な修辞と晦渋な文体、そして「スポーツそのものの美こそが絶対」という視点に立った「プロ野球批評」がこれまた称揚されていた。

どうしたって、プロ野球は面白い
草野 進
中央公論新社
1984-09-01


 細川周平氏が『サッカー狂い』を執筆し、上梓することができたのは、そうした時代の余恵にあずかったところが大きい。

狭い内輪の世界の「お作法」
 しかし、細川周平氏や蓮實重彦氏が依ってきたフランス現代思想というものは、いたずらに晦渋なだけで、世の中の実際の在り様に真摯に対応していない「絵空事」であると、しばしば批判されてきた代物でもある。

 だから、フランス現代思想やそれに触発された文芸批評に乗じたスポーツ「批評」というのは、あくまで狭い内輪の世界の「お作法」でしかない。スポーツ評論ではなく、いわばスポーツの文芸批評であり、あるいはスポーツを種にしたフランス現代思想の展開にすぎない。

 この種の思想に没入し、特定の対象を耽溺するようになると、その対象の外にあるものは強迫的に嫌悪するようになる。『サッカー狂い』も同様。例えば、野球、ラグビー、アメリカンフットボール(著者・細川氏は蔑称のように「アメラグ」=アメリカンラグビーの略=と呼ぶ)といった他の球技スポーツへの悪罵である。

 しかし、それぞれのスポーツは各々固有のゲーム性=面白さが当然あるわけだから、細川周平氏の言説はいかにも品がない。

日本サッカー界隈における反ドイツ主義
 あるいは、著者が考える「サッカーならざるもの」への憎しみは、同じサッカーの中にも及ぶ。ドイツのサッカーを勝利至上主義の権化「愚鈍なサッカー」として執拗に嫌悪し出したのも『サッカー狂い』である。以来、日本のサッカー界隈はドイツ・サッカーに対する好感を素直に表明しづらくなった。

 たしかに、橋本誠記者(時事通信社)もまた、時事通信社のWEBサイトで、もともと親ドイツだった日本サッカー界の反動としての、日本人サッカーファンのドイツ・サッカーへの複雑な感情を書き連ねてはいる。
  • 参照:橋本誠「だからサッカー・ドイツ代表が嫌いだった~最強チームへの敬意を込めて」https://www.jiji.com/sp/v4?id=germannationalfb0001
 だが、それと比べても細川周平氏の言説はいかにも品がない。

サッカーは「反日本的」か?
 さらに、細川周平氏の嫌悪の矛先は、まだ「冬の時代」だった日本サッカーにも及ぶ。

 とにかく折に触れては日本のサッカーを執拗なまでに貶し、卑下する。著者曰く「サッカーを愛すれば愛するほど、ぼく〔細川周平氏〕は日本から遠ざかっていく気がする。サッカーはもしかすると反日本的な競技なのかもしれない」……と。

 しかし、その自虐的な日本サッカー観の根底にあるのは何かといえば、サッカーは狩猟民族のスポーツで日本人は農耕民族なのだからサッカーに向いていない……といった類の陳腐で凡庸で、そして決定的に間違っている日本人論・日本文化論的サッカー観である。

 細川周平氏の言説はいかにも品がない。

日本の「サッカー狂い」の分断
 これら全て著者の「ヒガミ根性」なのだが、それをフランス現代思想のファッショナブルな衒学で飾っているだけに非常に厄介である。細川周平氏の『サッカー狂い』は「この本は知的に高尚で深遠であるはず」「自分は頭が悪いとは思われたくない」と自らに強迫した日本のサッカーファンによって正当化され、称揚されてきた。

 それは「日本サッカー冬の時代」の限界だろうか? その認識が正しくないのは、例えば日本サッカー狂会の鈴木良韶和尚や、久保田淳氏(著書に『ぼくたちのW杯~サポーターが見た!フランスへの熱き軌跡』ほか)、後藤健生氏(著書に『日本サッカーの未来世紀』ほか)のように、Jリーグ以前から、苦い肝を嘗めながらも日本サッカーを見捨てずに応援してきた「サッカー狂い」の層が一方で存在するからである。

日本サッカー狂会
国書刊行会
2007-08-01


日本サッカーの未来世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2001-08T


 細川周平氏に象徴されるサッカー狂、翻って鈴木和尚や久保田氏、後藤氏に代表されるサッカー狂。このふたつの日本のサッカーファン層の間には高くて長い壁が存在している。

 『サッカー狂い』は、はしたなくも日本のサッカーの精神文化を表している。後の時代の金子達仁氏や杉山茂樹氏、村上龍氏……といった、日本サッカーを殊更に蔑んでは自身のサッカー観の確かさや批評精神を誇示するサッカー関係者の先駆けと言える。

 また、日本のサッカーを敬遠するが欧州の一流どころの海外サッカーは嗜むサッカーファン層(むろん細川周平氏は日本のサッカーとドイツ以外の海外のサッカーとサッカー文化には好意的である)と、日本代表やJリーグなど日本サッカーを応援するサッカーファン層との分断の先駆けとも言える。

 どうしたって『サッカー狂い』は面白く読めない。けれども日本のサッカーやサッカーファンの屈折した精神史を、著者・細川周平氏の意図とは違った視点で興味深くたどれるトンデモない史料(資料)としては、反比例的な評価はできるのかもしれない。

(了)




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そんなに「名著」か?『サッカー狂い』
 ドゥルーズ=ガタリというフランス現代思想のコケ脅しがあるせいか、サッカーファンは、細川周平(音楽学者,フランス現代思想家)の著作『サッカー狂い』のことを、どうしたって褒(ほ)めなきゃいけない……と思い込んでいる節がある。
『サッカー狂い~時間・球体・ゴール』(2020-02-07)
 後世に残したいサッカー本の1冊をあげるとしたら、この『サッカー狂い』をあげる人は多いのではないかと思う。僕もその1人である。日本で出版されたありとあらゆるサッカー本の中で、名著中の名著〔えッ!?〕である。

 名著たらしめる理由は、サッカー専門家でない著者によって書かれた本であり、それでいながらサッカー(フットボール)を深く掘り下げている。その掘り下げ方がサッカー的で、長い年月にも耐えられる文章となっている。読後も、数年経ってからも体内に潜伏していて、突然サッカー的に湧き上がってくる何かを持っている本である。

 〔中略〕

 日本語で書かれたサッカー書物の最高峰〔えッ!?〕であり、1989年(30年以上前)に書かれた本でありながら、現在も最高峰の座を譲ることのない本である。サッカーの聖典〔えッ!?〕と言われても誰も否定はできない。

 現在、絶版となっているので、高値で取引されている本である。文庫本で復刻してもおかしくない未来につながっている普遍的なサッカー本であると思う。

https://nirasakisoccer.hatenablog.com/entry/2020/02/07/054100


 いやぁ、なんだかもう激賞・絶賛・べた褒めである。しかし……。

 >>サッカーの聖典と言われても誰も否定はできない。

 ……否、当ブログは堂々とそれを否定してきた。
  • 例:しつこく細川周平著『サッカー狂い』~劣等なる身体文化としての日本人農耕民族説(2020年10月19日)https://gazinsai.blog.jp/archives/42032679.html
 実際の『サッカー狂い』は、間違いや論理の歪みや贔屓の引き倒しの酷さなどで、とても読むに堪えない部分も多い代物でもある。そのことを当ブログはしつこく論じてきた。

細川周平氏のサッカー漫画観
 例えば、細川周平氏は『サッカー狂い』所収のサッカー漫画評論「朗らかに蹴れ~『シャンペン・シャワー』讃」で、高橋陽一の『キャプテン翼』を、その他の凡百なサッカー漫画と並べて「熱血マンガ,スポ根,紋切り型」として一面的に否定している(えッ!?)。
 これがまずぼく〔細川周平〕のカンに触る。熱血漢が嫌いなのだ。

細川周平「朗らかに蹴れ」@『サッカー狂い』初版125頁


 一方で、「朗らかに蹴れ」で細川周平氏が称揚するサッカー漫画は、かわみなみ作『シャンペン・シャワー』である
 サッカー・マンガは熱血ものに限られる。熱血マンガはだめ、ゆえにサッカー・マンガはだめという三段論法を玖保キリコさん〔女性マンガ家〕に話したら、これを読みなさい、とかわみなみの『シャンペン・シャワー』を勧められた。〔略〕

 ともかく面白い。〔以下略〕

細川周平「朗らかに蹴れ」@『サッカー狂い』初版128頁


シャンペン・シャワー 1巻
かわみ なみ
ビーグリー
2016-01-29


シャンペン・シャワー 2巻
かわみ なみ
ビーグリー
2016-01-29


シャンペン・シャワー 3巻
かわみ なみ
ビーグリー
2016-01-29


シャンペン・シャワー 4巻
かわみ なみ
ビーグリー
2016-01-29


シャンペン・シャワー 5巻
かわみ なみ
ビーグリー
2016-01-29


シャンペン・シャワー 6巻
かわみ なみ
ビーグリー
2016-01-29


 この人のサッカー漫画観は、単なる好き嫌いの問題ではない。

 細川周平氏は「日本サッカー冬の時代」(1970年代初め~1990年代初めの約20年間)にあって、日本のサッカーに絶望して「自虐的日本サッカー観」に取り憑(つ)かれ、欧州・南米のサッカーに「思想的亡命」をした人物である(ただし大嫌いなドイツ=旧西ドイツ=を除く)。要は「海外厨」と呼ばれる厭味なサッカーファンの走りである。

 かわみなみ作『シャンペン・シャワー』は、『キャプテン翼』などとは設定が異なり、エスペランサという南米の架空に国のプロサッカーリーグを題材とし、サッカー界のリアリズムの要素を描きつつも試合外の日常生活を主体とし、ナンセンスなユーモアやギャグを交えたサッカー漫画となっている。

 細川周平氏にとって、『シャンペン・シャワー』というサッカーマンガの称揚は、海外厨として思想的亡命をしたことの表出に他ならない。

欧州・南米のトップ選手が『キャプテン翼』のファンだという皮肉
 誤解していただきたくないのだが、当ブログは『シャンペン・シャワー』を悪く言う気は毛頭ない。『キャプテン翼』も『シャンペン・シャワー』も各々独立した価値を持つサッカー漫画であり、本来、両者を比べてどうこう論じるべき事柄ではない。

 問題なのは、細川周平氏の贔屓の引き倒しの方である。

 そもそも、『キャプテン翼』は熱血マンガやスポ根マンガとして受容され、評価されてきたのか? 否、である。むしろ『キャプテン翼』は、同じスポーツ漫画でも、努力や根性、重圧、暑苦しさ……といった要素から離れたところで読者を獲得し、評価されてきたのだ。

 そこを掬(すく)い上げられないところが、細川周平氏のサッカー漫画観の浅薄さであり、延いてはこの人のサッカー観の浅薄さである。そう、『サッカー狂い』のコンテンツには浅薄な部分も多いのだ。

 何より皮肉なのは、細川周平氏が思想的亡命をしたはずの欧州・南米のサッカー界の、世界クラスのサッカー選手たち……ジネディーヌ・ジダン、ティエリ・アンリ、アレッサンドロ・デルピエロ、フランチェスコ・トッティ、リオネル・メッシ、セルヒオ・アグエロ、カカ、フェルナンド・トーレス、アンドレス・イニエスタ、シャビ、アレクシス・サンチェス、ハメス・ロドリゲス……らが、外国語に翻訳された『キャプテン翼』の影響を受け、ファンであることを公言していることだ。

 細川周平氏にとっては何ともバツが悪いことである。

(PC版は下に続く)




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