反サッカー言説をアーカイブする
けっして日本のラグビー人は、他競技、なかんずくサッカーに敵対的な感情を抱く人たちではないのだけれど、以前は、必ずしもそうではない人がスポーツメディア上で目立っていたことも、また悲しい事実である。
gazinsai@gazinsai@augustoparty >>自分の知る限りラグビー人は他競技に対してフレンドリーだが…
2019/07/09 21:51:17
そういう人は最近の話で、1980年代はラグビーへ愛情のあまり、他競技、特にサッカーを見下した人が目立った。
当時の文春ナンバーもラグビ… https://t.co/jahUzSnBlt
当ブログは、中尾亘孝(なかお・のぶたか)という、いささかならずヘソの曲がった、反サッカー主義者のラグビー評論家の言動を洗い出してきた。
- 前回のおさらい:絶対に謝らない反サッカー主義者…あるいは日本ラグビー狂会=中尾亘孝の破廉恥_2(2019年09月17日)
今回のエントリーの目的は、こうした言説の一部をインターネット上に保存し、後学のための覚書とすることです。その意図を斟酌(しんしゃく)の上で、ご笑覧いただけると、幸甚であります。
佐山一郎氏が「ラグビーの後藤健生」と紹介した中尾亘孝
ラグビーに関心は薄くとも、サッカーファンが中尾亘孝の名前を憶(おぼ)えているとしたら、1998年サッカー・フランスW杯の少し後、佐山一郎氏が『サッカーマガジン』連載のコラム〔その後『サッカー細見』に転載〕の中で「ラグビーの後藤健生」だなどと評して、中尾が同年に出した著作『リヴェンジ』を推奨していたことではないだろうか。
中尾亘孝『リヴェンジ~強いジャパンが帰って来た!』1998/12/1
商品の説明:意気軒昂なれど、波高し! ラグビーW杯〔1999年ウェールズ大会〕の勝敗のゆくえは? 145失点のあの屈辱は雪げるか? 平尾ジャパン〔1998年当時のラグビー日本代表〕と岡田ジャパン〔1998年当時のサッカー日本代表〕を辛口に検討しながら、御存じ目利き・中尾が〔二つの〕日本代表を一刀両断に斬る。
【中尾亘孝】(本当の学歴は早大中退らしい)
兄弟フットボールライターからの助言
〔書店での〕サッカー本のコーナーが活況を呈している。ひと昔前ならすぐにコレクター・ノリで飛びついたものだが、さすがに収納にも限界が来た。これはと、ややあってから手が伸びたのは、中尾亘孝〔のぶたか〕*割注*著『リヴェンジ』(マガジンハウス)だった。49歳〔当時〕の中尾さんはラグビー〈観客〉の立場からの鋭い評論で鳴らすラグビー・フットボール界の後藤健生さんのような人。私〔佐山一郎〕は〔19〕91年に出版された『15人のハーフ・バックス』(文藝春秋)以来の愛読者で、ちょっと気になる兄弟フットボール〔ラグビー〕の動向は、だいたい中尾さん〔さん付けするほど価値のあるではないが〕の本で教わってきた。本の表紙……〈ラグビーW杯〔1999年大会〕の勝敗のゆくえは? 145失点のあの屈辱は雪〔そそ〕げるか?〉という帯コピーに目が行くばかり。……そうだったなあ、〔19〕95年の第3回〔ラグビーW杯〕南アフリカ大会ではニュージーランドに145失点も取られるギネスブック的大敗があったなあ……と。ひとりごちた直後に、小さな文字による2行が目に入った。〈平尾ジャパンと岡田ジャパンを辛口に検討しながら/御存知目利き・中尾が日本代表を一刀両断に斬る!〉おおっ! これはまたずいぶん思い切ったフルマイに、俄然興味をそそられたのである。〈なぜサッカー日本代表はワールドカップで勝てなかったのか〉という問いに対する解答は意外なことにF1レースとも通底している。〔中略〕……ゴルフの丸山茂樹プロも「日本にゴルフのツアートーナメントがあるかぎり、世界に通用するプロゴルファーは出てこない」と語ったそうだ〔出典不明〕。たしかに年がら年中正月三が日のように緊張を欠く日本(1)では、Jリーグもゴルフもじつによく似た競技環境である。サッカーはしかも11人でやる競技。今のヒデ中田〔中田英寿〕クラスが少なくともあと2人出てこない限り、いくら名監督踊れど、ワールドカップ初勝利はおぼつかない。話をラグビー・フットボールの専門家〔中尾亘孝〕からから見た〔サッカーW杯〕フランス大会に戻そう。ディティールはさておき、基調としてあるのは、〔日本のスポーツ〕ジャーナリズムがつい最近までアジア予選突破に四苦八苦していたことを忘れ、初出場という謙虚さを完全に見失っていたという考え方だ。〔黒太字は原文ママ,以下同じ〕〔中略〕専門外の場所に身を置く謙虚さゆえに、物の本質がかえってよく見えるケースが多々ある〔小林深緑郎氏や藤島大氏ならともかく,中尾亘孝に関してそれはありえない〕。本の前半を費やしたサッカー〔日本〕代表についての文章で筆者〔中尾亘孝〕は、岡田〔武史〕バッシングや中田〔英寿〕のマスコミ不信の問題にも言及し、その上でなお「サッカーをラグビーに置き換えてみた場合、自分〔中尾亘孝〕も平尾ジャパンに対して同様なことをしているのではないかとの思いがこみあげてきたのです。自戒の意味を込めて〔反省しない男=中尾亘孝が自戒だって!?〕、サッカーのワールドカップ〔1998年フランス大会〕をめぐる一連のトラブルを検証してみたというわけです」とその発端と帰結を記し、爽やかだ〔陰湿な男=中尾亘孝が爽やかって!?〕。佐山一郎『サッカー細見』(1999年)185~188頁
- *割注* 1950年生まれ。早大卒〔正しい学歴は早大中退らしい〕。観客の立場によるラグビー評論を展開
果たして、佐山一郎氏が語ったように、中尾亘孝の『リヴェンジ』は「兄弟フットボールライターからの〔ありがたい〕助言」だったのだろうか? これが違う。フランスW杯3戦3敗、1次リーグ敗退に終わった日本サッカー(岡田ジャパン)に対する嘲笑と悪口雑言罵詈讒謗で貫かれているのである。
中尾亘孝は(佐山一郎氏を除く)サッカーファンを不快にさせる
くだんの佐山一郎氏の連載コラムが掲載された少し後に、「誰だい? この中尾亘孝って奴は!」と、当ブログに問い合わせの電話をかけてきたサッカーファンが2人いる。いずれも界隈では相応のポジションにあるサッカーファンである。
「gazinsaiさん! 何なんすか? この中尾とかいうヤローは!? 酷い本ですよ! 冗談だけど殺意すら感じますよ! 中尾には(笑)」
こんな調子で息巻いて電話をかけてきたのは……本人がハンドルネームを出していいと言ったので公表すると……レイジフットボールコレクティブというサッカーファンのサークルの発起人「ミノブ」氏である。
レイジフットボールコレクティブは、ガブリエル・クーンの大著『アナキストサッカーマニュアル』の邦訳(あの浩瀚な!)に一役買った人たちである。同書巻末のサークルメンバーの座談会にも「ミノブ」氏が登場している。
もう1人……。「中尾ナントカというラグビー評論家は何者なんだ? たまたま本屋で立ち読みしたけど,この人の本はサッカーの悪口ばかりで酷すぎる」
……と、訝(いぶか)しげに電話をかけてきたオールドサッカーファン氏。この人は、1980年、香港で行われたスペインW杯アジア予選で3人だけいた日本人サポーターのうちの1人である。
佐山一郎氏が、老舗の専門誌『サッカーマガジン』で、中尾亘孝の嫌らしい部分に全く触れること無く、中尾亘孝のことを「ラグビーの後藤健生」などと紹介したものだから、2人は興味を持ち、かつ本気にして著書『リヴェンジ』を読んだ。
しかし、中尾亘孝の正体は札付きの反サッカー主義者であり、その反サッカー言説が余りにも酷すぎて、たいへんな不快感・違和感を感じた。
当ブログに直接問い合わせをしてきたのは2人である。1件のクレームの背後に100件の同様の不満があるという俗説に従えば、佐山一郎氏の「ラグビーの後藤健生」という触れ込みに「騙された!」と感じる人が少なく見積もって200人以上はいる。
とにかく中尾亘孝は、(佐山一郎氏を除く)サッカーファンを不快にさせる。
サッカー日本代表は絶対にW杯本大会には出られない!?
佐山一郎氏は、Jリーグ以前、まだラグビーがサッカーに優越していた時代、1991年刊の『15人のハーフ・バックス』から中尾亘孝を愛読してきたという。それでは『15人のハーフ・バックス』で中尾亘孝は何を書いていたのか? 例の「サッカー日本代表は未来永劫ワールドカップ本大会には出られない」という尊大な放言である。
サッカーはW杯に出られるか
ここで……看過できない問題が発生したので触れてみようと思います。それはサッカーのプロ化〔Jリーグ〕です。〔略〕……サッカー〔日本代表〕がW杯に出られるかどうかという疑問に答えておきましょう。まことにご同情にたえない次第ですが、ノーです。ジャパン〔ラグビー日本代表〕がオールブラックス〔ラグビー・ニュージーランド代表〕に勝つより確率は低いといえそうです。それはどうしてか、現場に限って原因を追究すると、
- 日本独自の理論がない。
- 人材が揃わない。
- 学閥、派閥の足の引っ張り合いが激しい。
日本サッカー唯一の成功が、メキシコ五輪〔1968年〕銅メダル獲得です。しかし、五輪のサッカーが選手権としてはマイナーである事実は、当のサッカー関係者が一番よくわかっていることです。その上、指導者は西ドイツ(当時)人のクラマー氏でした。ファースト・ステップとしてはこれでいいでしょう。でもその後、日本独自の理論が生まれたという話は聞きません。人材については、決定力のあるプレーヤーが釜本邦茂以来出ていません。現有の数少ない才能〔海外組〕を外国プロ・チームから呼び戻すことすらできません。最後の派閥争いに関しては、ただただお疲れさまというしかありません。〔中略〕当面の大問題をさし置いて、ほとんど無謀ともいえるプロ化に取り組むサッカー協会〔JFA〕は、意外な決断力と実行力を見せてくれました。これほどのリーダー・シップがどうして代表チーム強化の際に発揮できないのか、傍目からはさっぱりわからないのですが、それでも現状改革に心掛けているだけマシです。プロ化構想発表から実行までの移行期間が短すぎる点に、ナニやら公表されていない背景がありそうです。とまれここは、大いに手心を加えて前向きに考えてみましょう。サッカー界がこれほどまでに劇的な改革を必要とする理由は「もっと強くなりたい」という願望からなのはだれの目にも明らかなのですから。でも、「日本のサッカーをもっと強くして、W杯に出る」――この目標めざして、具体的な戦術、戦略を示さずに、サッカーをプロ化すればいいのだといささか飛躍した結論にとびついたかのように見えることは否めません。こうすれば、あれよあれよという間に、規格外れの天才がどんどん生まれてくるというわけでしょう。〔以下略〕
サッカーへの敵意丸出し、上から目線にはウンザリさせられる。中尾亘孝は、さらにこの後「Jリーグは必ず失敗する」という話を延々続けるが割愛(下記リンク先参照)。
- 参照:サッカー「Jリーグ」は絶対に失敗すると1991年に放言していたラグビー狂会=中尾亘孝(2019年09月14日)
時勢に乗じた、反サッカー主義者による、まことに傲岸不遜な「ご託宣」であった。
中尾亘孝の「謝ったら死ぬ病」
ところが、周知にとおり、この「ご託宣」は「未来永劫」どころか、1997年11月17日の「ジョホールバルの歓喜」で、たった6年で覆(くつがえ)されてしまったのである(本来は1993年に「証明」されるべきであった.後述)。
とにかく横柄が過ぎる中尾亘孝に求められたのは、ラグビーファン、サッカーファン、スポーツファンの読者に対する潔い謝罪であった。ところが、この人物が取った対応は、読者の予想の斜め上をいくものだった。
「ジョホールバルの歓喜」後、中尾亘孝のサッカーに対する本格的な言及が、1998年12月刊行、佐山一郎氏が無批判に紹介した、あの『リヴェンジ』だったのである。
今を去る7年前〔1991年〕、フットボール・アナリストを自称するおやぢ〔オヤジ=中尾亘孝〕は、「〔日本の〕サッカーは未来永劫ワールド・カップ〔本大会〕には出られない」と断定したことがあります。軽率のそしりはまぬがれない放言であります。周知のように、J-リーグ→ドーハの悲劇→ジョホール・バルの歓喜という風にステップ・アップして、目出たくワールド・カップ・フランス大会に出場したわけです。活字だけでなく、文章も読める人が読めば分かることですが、これには前提があったのです。それは、
- 日本独自の理論がない。
- 人材が揃わない。
- 学閥、派閥の足の引っ張り合い。
以上の三点がクリアされない限り、世界の檜舞台〔W杯〕には絶対立てないという結論は、今でも正しかった〔!?〕と思っているし、現時点でも同じことを書けば、「4.運、ツキに恵まれる」と、もう一項目付け加える必要さえあるとさえ考えています。〔日本〕サッカーの場合、……ヨレヨレヘロヘロの状態だったとはいえ、ワールド・カップ〔本大会〕出場への道を拓いたのだと思う。
要するに、俺は間違ったことは書いていない。それが分からないのは読解力のないお前ら読者がバカだからだ……と、中尾亘孝は見苦しく居直り、責任を転嫁したのだ。こういう憎まれ口を平然と書くのがこの人物の品性の下劣さなのだが、同時にこうした中尾亘孝の下劣さにまるで鈍感なのが佐山一郎氏なのである。
こんな感じで過去の「ご託宣」の間違い、その「みそぎ」をチャチャっと済ませた(つもりの)中尾亘孝は、今度は『リヴェンジ』で、1998年サッカー・フランスW杯で3戦3敗1次リーグ敗退に終わったサッカー日本代表=岡田ジャパンや日本人サポーターを愚弄し、嘲笑する「ご高説」を垂れるようになったのである(目次と「まえがき」をPDFのデータにしたので参照されたい)。
ふつうのサッカーファンが、例えば前出の「ミノブ」氏やオールドサッカーファン氏のような人物が、このような悪口雑言を読んだら当然立腹する。中尾亘孝の罵詈讒謗を「兄弟フットボールライターからの(ありがたい)助言」だと思っているのは、佐山一郎氏のような(ふつうのサッカーファンではない)いたいけなお人よしだけである。
中尾亘孝説3か条の検証
それならば、先に掲げた中尾亘孝の引用文2本をもう一度読み比べてみよう。
1991年の『15人のハーフ・バックス』では、日本サッカーが未来永劫W杯本大会に出場できない「原因」として、例の3か条を挙げている。だが、1998年の『リヴェンジ』では、この3か条は日本サッカーがW杯本大会に出場すらために「クリア」するべき条件だと、いつの間にか勝手に改変している。
つまり、読者をはぐらかし、ごまかしているのは、中尾亘孝の方だ(その他の中尾説については,バックナンバーを参照されたい)。
- 参照:カテゴリ:サッカー>反サッカー主義者&日本ラグビー狂会=中尾亘孝
今回、細かく検証するのは第2条「2.人材が揃わない」についてである。
この項目は、中尾亘孝が『リヴェンジ』で「サッカー日本代表は〈ヨレヨレヘロヘロの状態〉でフランスW杯本大会へ出場できた」と言及したこと、あるいは、佐山一郎氏による「日本サッカーは〈つい最近までアジア予選突破に四苦八苦していたことを忘れ〉ている」と言及したことにも通じる。
つまり、サッカー日本代表は大した実力もないのにW杯本大会には出場できた……という中尾亘孝(や佐山一郎氏)による誹(そし)りを批評的に検証するのである。
冬の時代の底を打った「1980年のサッカー日本代表」とは?
Jリーグ以前の日本サッカー低迷期、いわゆる「冬の時代」は、1971年(ミュンヘン五輪アジア予選惨敗)から、1992年(オフト・ジャパンの広島アジア大会優勝)まで、およそ20年余に及ぶが、その時期は、前半約10年と後半約10年に分かれる。
1970年代の前半、日本サッカー、特にサッカー日本代表は、メキシコ五輪世代以降の人材が枯渇し、技術レベルが大きく落ち込みんで、国際舞台では「蹴って走って頑張るサッカー」しか出来なくなっていった。
しかし、1980年12月末、香港で行われたスペインW杯アジア予選から、非常に緩やかな角度ではあるが上昇に転じる。全国的な少年サッカーの指導が実って、技術のある選手が育ち、少しずつではあるが「パスをつなぐサッカー」が出来るようになっていった。負けはしたものの、香港予選では日本代表は素晴らしいサッカーをした。日本サッカーの将来の光明が(少しだけだが)見えた。
その時、それを見ていた、香港のスタジアムに3人だけいた日本人サポーターの1人が、サッカージャーナリストの後藤健生氏である。氏は、この時の観戦記と感慨を1997年3月刊の『日本サッカーの未来世紀』に書いている(その1,その2.担当編集者のY氏とは柳澤健氏のこと)。中尾亘孝が『リヴェンジ』を出す2年近くも前だ。
後藤健生氏が、けして後出しジャンケンで「1980年のサッカー日本代表」(監督は川淵三郎氏!)を高評価したワケではないことは、1981年、だいたい同じ内容の観戦記を、古いサッカーファンの団体である「日本サッカー狂会」の会報『FOOTBALL』誌に、寄稿・掲載されていることからも分かる。
『FOOTBALL』誌は一般に流通しないミニコミ誌であるが、この時の後藤健生氏の観戦記「香港に日本サッカーの夜明けを見た」は、2007年に国書刊行会から出た『日本サッカー狂会』という本に再掲載され、一般のサッカーファンでも読めるようになっている。日本サッカー史を振り返る時に非常に重要な資料(史料)である。
佐山一郎氏は、後藤健生氏とも昵懇(じっこん)の関係にあり、こうした情報にいち早く接しうる立場にあった。だが、氏の日本サッカー評論にそれが反映されることはない。また、日本サッカーを肯定する気が全くない中尾亘孝は、日本サッカーを評価するための材料に後藤健生氏の著作が持ち出されることはない(少なくとも『リヴェンジ』巻末の参考文献に,後藤健生氏の名前はなかった)。
森→石井→横山→オフトの流れからサッカー日本代表を再検証する
日本サッカーは、オフト・ジャパン(1992~1993年)になってから急に強くなったようにも見えるが、これは正しくない。
1980年代、日本のサッカーは、1985年にメキシコW杯アジア最終予選まで進出した森孝慈監督の日本代表(森全日本)、1987年にソウル五輪アジア最終予選まで進出した石井義信監督の日本代表(石井全日本)……と、曲がりなりにも「良い流れ」を作っていた。ところが、これを継承した横山謙三監督のサッカー日本代表(横山全日本,1988~1992年)は「良い流れ」を停滞させてしまった。(2)
横山謙三監督は、日本の実情を無視して、欧州最先端の戦術を形式通り導入しようとして失敗した。山っ気に走らず、しかるべき指導力を発揮していれば、日本代表は1989年のイタリアW杯アジア最終予選には進出できた。
最終予選は6か国総当たりで、たとえ全敗でも5試合経験できる。それだけの「経験値」を積めば、サッカー日本代表は1993年の「ドーハの悲劇」もなく、1994年のアメリカ合衆国W杯本大会に出場できていたかもしれない。(3)
オフト・ジャパンの総括と評価については、金子達仁氏の論評(専門誌『サッカーダイジェスト』から単行本『激白』に転載)に代表される、次のような評価が半ば「天下の公論」のように定着している。
すなわち「日本サッカーは,アジアの中でも〈個の力〉が大きく劣っており,オフト・ジャパンはそれを〈組織,戦術〉で誤魔化してきたにすぎない.その限界を露呈した出来事こそが〈ドーハの悲劇〉だった」という、きわめて否定的で自虐的なものである。
むろん、佐山一郎氏の「ドーハの悲劇」の評価も、金子達仁氏らのそれに近い。
しかし、小川智史氏(成城大学サッカー部監督.余談だが佐山一郎氏は成城大学卒)の「ハンス・オフトの失敗~なぜ日本代表はワールドカップにいけなかったか?」という評論を読むと、それまでのネガティブなオフト・ジャパン観が一変する。
当時のサッカー日本代表は、W杯本大会出場に足るだけの実力も内容も備えていた。敗因=「ドーハの悲劇」の原因は、第一に監督ハンス・オフト氏の指揮官としての数々の判断のミス、そして選手たちの経験不足である……と。
小川智史氏の「ハンス・オフトの失敗」は、これも日本サッカー協会の会報『FOOTBALL』誌1995年12月号に掲載され、2007年刊の国書刊行会『日本サッカー狂会』に再掲載されている。『日本サッカー狂会』の編者は「1993年アメリカW杯アジア最終予選の戦評と敗因分析について,どの新聞・雑誌よりも的確な論評で〈ドーハの悲劇〉再考のキッカケになる」と自讃している。この表現に誇張はない。
後藤健生氏の「香港に日本サッカーの夜明けを見た」と、小川智史氏の「ハンス・オフトの失敗」。この2つの優れたサッカー評論が、一部の人しか読めないミニコミ誌から、きちんとした形で公刊されたという意味でも、国書刊行会『日本サッカー狂会』の意義は大きい。日本サッカー史を振り返る時に非常に重要な資料(史料)である。
実は、佐山一郎氏も、この辺の情報にいち早く接しうる立場にあった。だが、氏の日本サッカー評論にそれが反映されることはない。
日本のサッカー評論を陰鬱なものにした佐山一郎氏
要するに、ここで述べてきた、中尾亘孝が日本サッカーについて下した評価、また佐山一郎氏がインチキ・ラグビー評論家の中尾亘孝をサッカーファン向けに推奨したことは、全部間違っているのである。
佐山一郎氏(に限らないが)は、日本のサッカーを否定的かつ自虐的に論じれば「批評的」であると思い込んでいる節がある(例えば下記リンク先参照.しかし酷い)。
- 『サッカー細見』著者・佐山一郎インタビュー「スポーツジャーナリズムが存在しない国でサッカーの全体真実を描く」:聞き手・永江朗
しかし、例えば、前章では議論のたたき台として、1980代以降の歴代監督によるサッカー日本代表を検証してみた。その中でも特に横山全日本の不振を再検証してみた。未だ書かれざる「1989年のサッカー日本代表」……。こういった検証や想像力を働かせることこそ、本来の「批評」であろう。もっとも、佐山一郎氏には、それだけの気概も能力もないのだが。
横山全日本=横山謙三監督は、1991年、あまりの不振ぶりに、サッカーファン・サポーターから「監督更迭要求運動」を起こされた、日本で最初のサッカーチームだった。サッカーファンが「モノ言うスポーツファン」になったのは、この時以来だ。
当時の週刊誌『朝日ジャーナル』は、この「事件」を報じた数少ないメディアだった。もっともレポーターは佐山一郎氏だったが。そして、そのコンテンツは、いつもの佐山一郎氏の文学青年的こねくり回し文体だったので、第3者的には客観的に何が起こっているのかサッパリ分からないという、実に奇妙な代物だった。
この辺に、サッカージャーナリストとしての佐山一郎氏の駄目さ加減が現れている。
はっきり言って、日本のサッカー評論を陰鬱なモノにしたのは佐山一郎氏である。氏は、いかにも「日本でサッカーを語ることは,とても難しい」などと、たびたび陰鬱に書いているが、そんなことはない。
日本で「サッカー」で語ることを殊更に難しくしているのは、佐山氏自身の「体質」や「思想」そのものである。もし、佐山一郎氏の地位に故富樫洋一氏がいたら……ダジャレ厳禁という条件付きであるが(笑)……日本のサッカー評論は、もう少しは明朗になっていたのではあるまいか?
反サッカー主義者=中尾亘孝に対する佐山一郎氏の「非サッカー的」寛容さ
それにしても、中尾亘孝みたいなあからさまな反サッカー主義者に、何の痛痒も感じることがなく、全く「日本的」な寛容さで、しかも「ラグビーの後藤健生」などという誤解を生じる惹句で紹介する佐山一郎氏の感覚は、ちょっと理解しがたい。
まあ、佐山一郎氏に関しては、戦前期日本のスポーツ界ではサッカーよりラグビーの方が人気が高かったらしいことに、相当な劣等感を抱いてきたことは、これまで何度も書いては来たのだが(下記リンク先参照)。
- 参照:『日本サッカー辛航紀』を読む(4)~未だラグビーへの劣等感が抜けない佐山一郎氏(2019年02月24日)
一方、サッカーファンならば、佐山一郎氏が日本のサッカーに関して怪しい話をいろいろ書いてきたことを知っている。例えば「サッカーは欧米の厳しい契約社会・一神教社会の産物である。翻って日本は寛容な非契約社会・多神教社会である。ゆえに日本人はサッカーに適していない」……みたいな日本人論・日本文化論である。
その最たるものは「日本人は米や味噌を食べているからサッカーは強くなれない」などというトンデモ理論を雑誌『ブルータス』に書いていたことである(下記リンク先参照)。
- 参照:『日本サッカー辛航紀』を読む(5)~レイシズムと佐山一郎,島国・農耕民族・日本人(2019年05月18日)
実は、佐山一郎氏も中尾亘孝も、自虐的な日本人論・日本文化論のビリーバーであるという共通点、その上での自虐的日本サッカー観&自虐的日本ラグビー観の持ち主であるという共通点がある。
直接の面識はないだろうが、佐山一郎氏と中尾亘孝は、その意味でウマが合う関係なのだ(その精神的なズブズブ関係については,エントリーをあらためて言及する予定)。反サッカー主義者=中尾亘孝を「ラグビーの後藤健生」と呼ぶ佐山一郎氏の蒙昧は、ここから発する。
しかし、常々「サッカーならざるニッポン人」を嘆き憂いてきた佐山一郎氏が、実は最も「サッカーならざるニッポン人」だったことは、大いなる皮肉である。
(つづく)
続きを読む