スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:クドカン

 ちなみに当ブログは2020東京オリンピックには一貫して反対の立場であります。

いだてん信者の声高な叫び
 壊滅的低視聴率(平均視聴率,関東地区8.2%)、超駄作、 #史上最低大河 ……とまで酷評されている、2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)」(作:宮藤官九郎)の再放送が、BSプレミアムとBS4Kで、2020年4月6日から始まった。
  •  参照:再放送情報「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)」全47回を一挙放送! BSプレミアム・BS4K同時放送が決定!(2020年02月13日)
 狂気! 絶句! 日本の公共放送たるNHKは、だからこそ貴重な【波】と【枠】をもっと大切に使ってほしい。こんな調子だから、元NHK職員の立花孝志率いる「NHKから国民を守る党」(N国党)みたいなキワモノ政党が議席を獲ったりしてしまうのだ。

 「いだてん」が #史上最低大河 なのは、何よりその内容が壊滅的にツマラナイからに尽きる。

 それなのに、否、だからこそ「いだてん」は、カルト映画のテレビドラマ版として、ごく一部の視聴者の熱狂的な、異様な人気を獲得している。あれだけ壊滅的な低視聴率に喘(あえ)いでいたにもかかわらず、ネットには「いだてん」に対する熱烈な提灯記事が、SNSにはカルト的な擁護や礼賛の発信が不思議と目立った。

 むろん、そうした情報の発信で「いだてん」の視聴率が向上した事実はない。

 もちろん、彼ら彼女ら、すなわち「いだてん信者」が狭いサークルの中で勝手に盛り上がっている分には、全く構わない。誤解していただきたくないのだが、私たちは何も「〈いだてん〉はツマラナイから見るな」と言ってきたわけではない(ツマラナイのは間違いないが)。

 ところが、いだてん信者たちは、自分たちの狭いサークルを飛び出しては「視聴率は低いけれども内容は面白い大傑作だ」などと耳障りに叫んできた。そこまではまだいい。いだてん信者たちは、次第にエスカレートして、挙句の果てに「〈いだてん〉を見ろ! コレを見ないお前らは愚鈍だ!」と、上から目線で私たちを罵倒すらしてきた。

 私たちは、そのことをとても騒々しく、鬱陶しく、苦々しく感じている。

大河ドラマ「いだてん」は何故つまらないのか?
 こういった反比例的な怪奇現象は、いかに解釈すればよいのか?

 作品として「いだてん」の何が駄目なのか。それでも、否、それゆえ「いだてん」を偏愛・称揚してしまう視聴者が出てきてしまうのは何故か。キチンと分け入った論考は多くはない。その希少例が、宝泉薫氏(ほうせん・かおる,アイドルや時代劇など幅広く芸能界を論評)による「〈いだてん〉が数字をとれない,不毛にして当然な理由」である。
 詳しくはリンク先を参照していただくとして、その論評を煎じ詰めると、いくつかの理由に絞られてくる。
  •  そもそも「いだてん」は、大河ドラマとしては馴染みの薄い時代(近現代)、なじみの薄い人物(金栗四三,田畑政治など)を扱っているうえに、狂言回しが何人も登場したり(落語家の5代目古今亭志ん生など)、時代が行ったり来たりがするなど、分かりにくい作品である。
  •  しかし、いだてん信者は、フェミニズム(フェミ)や反差別、反戦、リベラリズム、反ナショナリズムといった、最近流行りのポリコレ的感覚(ポリティカルコレクトネス=政治的正しさ)を「いだてん」の作中に見出し、これを高評価する。
  •  いだてん信者は、そのことなどで「いだてん」を非常にレベルの高い作品と見ており、これまでの大河ドラマを見下げる。しかし、実際の視聴率は低迷しており、いだてん信者は、そういう現実に大いに不満である。
  •  そんないだてん信者の不満は、昨今「右傾化」が著しいとされる日本政治へ不満と、その情況を覆せないも野党的な人々による現実への苛立ちとも重なっている。
  •  ただでさえ分かりにくい上に、「いだてん」からはフェミやポリコレの説教臭さまで漂ってくる。現代的な「政治的正しさ」など忘れて愉しめるのが大河ドラマ(歴史劇)なのに、このテレビドラマの視聴者は上から目線でそれをアピールする。
  •  だから「いだてん」から脱落する視聴者が続出する。
 だしかに。これでは、少なくとも右ではない普通の日本人である私たちですら「いだてん」を敬遠したくなる。

悲しきカルスタ・スポーツ学
 そんなところに、何とも奇妙な「ポリコレ的〈いだてん〉評論」が出た。神戸大学大学院教授で、カルチュラルスタディーズのスポーツ学者・小笠原博毅(おがさわら・ひろき)教授の「『いだてん』は五輪に負けた 開催契約解除への道」である。
  •  参照:小笠原博毅「『いだてん』は五輪に負けた 開催契約解除への道~オリンピックは〈やり方〉ではなく,〈やること〉が間違っている」(2019年12月31日)
 ところで、小笠原教授が依(よ)る「カルチュラルスタディーズ」(cultural studies)とは何か? 直訳すると「文化研究」。しかし、その意味するところはもっと深い。

 コトバンクの説明。デジタル大辞泉の解説では「異なる文化領域にまたがって比較研究する,文化論の方法」とある。大辞林第三版の解説では「近代国民国家の属性であるナショナリズムをとらえ直し,国家・国民・民族にまとわりつく虚偽性をえぐり出し,それを乗り越えようとする学問の思潮.植民地化以後の第三世界,性・民族・階層による集団間の差異や力関係などを,音楽・文学・映画を含む幅広い対象から分析する」とある。

 当然、フェミニズムや反ナショナリズムといったポリコレ的テーマとも親和性が高い。

 略して「カルスタ」。もっとも、これはカリスマ文芸評論家・柄谷行人氏の命名による蔑称であるとされている。比較文学者・小谷野敦氏も「カルスタは学問上の一分野なのか,広義の政治的イデオロギーなのか,よく分からん」みたいなことをどこかで書いていた。カルスタには、それだけ批判も多いということである。

 私たちも、カルスタ・スポーツ学(者)に対して度し難い偏見がある。小笠原博毅教授の舎弟(←我ながら失礼な表現ですね)である成城大学・山本敦久(やまもと・あつひさ)准教授が、2010年サッカーW杯南アフリカ大会で1次リーグを突破した日本代表=岡田ジャパンに対して、これを酷く侮辱するツイートを連発しことがあったからだ。

 その痕跡は、今でも一部ネット上に残されている。
 詳しくはそちらを読んでいただくとして、山本敦久准教授の連作ツイートには、落ち度がいくつもある。

 日本のサッカージャーナリズムには、洪水のような「ニッポンガンバレ!」的報道・放送とは別に、日本のサッカーを(場合によっては佐山一郎氏のように自虐的に)殊更に貶めて自身の賢しらを誇示する「電波ライター」評論という「カルチャー」が存在しているいうこと(主な担い手に、金子達仁、杉山茂樹、村上龍らがいる)。

 山本敦久准教授が高く評価した馳星周(はせ・せいしゅう,小説家)の朝日新聞でのコメントは、代表的な電波ライターのひとりによる電波サッカー評論にすぎず、すなわち「異端」ではなく、ある種の「正統」だったということ。

 山本敦久准教授自身が、電波ライターとして発信(ツイート)を連発していたということ(ミイラ取りがミイラだったという皮肉)。

 日本のカルスタ・スポーツ学などというものは、所詮、理論や方法を欧米から輸入した輸入学問にすぎず、電波ライターという日本サッカーの足元にある不思議な、しかし、あからさまな「カルチャー」の存在に気が付かなかったこと。見落としていること。

 滑稽で悲しい。

いだてん信者と小笠原教授の「思い入れ」共有部分
 長い前振りが終わったところで、カルスタ小笠原博毅教授の「いだてん」評、「現代的な政治的正しさ」を捨てきれない言及を見ていく。

 >>もはや今後、嘉納治五郎について考えるときは役所広司の顔が浮かぶだろうし……

 これこれ小笠原センセ。役所広司演じた嘉納治五郎は悪くなかったが、あんな低視聴率大河ドラマ「いだてん」ごときで、それはありえない。渡辺謙の伊達政宗や、岩下志麻の北条政子、高橋幸治の織田信長などと一緒にしないでほしい。小笠原博毅教授が「いだてん」を相応の思い入れで見ていたことは、この文言などからもうかがえるが。

 >>しかし一方で、大河ドラマはやはり男子の物語になってしまうという点が物足りなかった。『草燃える』、『おんな太閤記』、『花の乱』、『春日局』、『八重の桜』、あとは忘れてしまったが、これらの数少ない例外を除いて、大河は結局ほぼ男たちの物語で占められてきた。

 これこれ小笠原センセ。大河と並ぶNHKの看板ドラマ「朝ドラ」(連続テレビ小説)の方は、ほとんど「女子の物語」であり、知名度はそれほど高くないが、実在の女性をモデルにした主人公であることが多かったではありませんか。結果論かもしれないが、NHKは、大河(男)と朝ドラ(女)で性別のバランスをとってのではありませんか。

 実際には、特に21世紀に入って、フェミやポリコレといった風潮「現代的な政治的正しさ」を反映して、無理やり女主人公の物語を乱発しては「スイーツ大河」と揶揄され、駄作を連発し、視聴者離れを起こしてきたのが大河ドラマの歴史だったのである。
  •  参照:ピクシブ百科事典【スイーツ大河】スイーツ大河とは駄作の大河に呼ばれる蔑称である。
 カルスタ小笠原博毅教授の認識は、事実とは違う。この辺に小笠原教授による「現代的な政治的正しさ」があぶり出されて、私たちはシラケてしまう。

 >>女子体育の礎を築いた二階堂トクヨ(寺島しのぶ)……「東洋の魔女」川西〔河西〕昌枝(安藤サクラ)をはじめ、全体の役の半数近くを女性が占めていたにもかかわらず、鬼の大松〔大松博文バレーボール女子日本代表監督〕(徳井義実)最後のセリフは、「お前ら嫁にいけ」だった。

 鬼の大松の「お前ら嫁にいけ」発言。いかにもフェミが目くじらを立てそうな発言だが、しかし、スポーツ社会学者・新雅史(あらた・まさふみ)氏の『「東洋の魔女」論』(イースト新書)<1>などを読むと、事態はそう単純なものではない。

「東洋の魔女」論 (イースト新書)
新雅史
イースト・プレス
2013-07-10


 大松監督は会社での昇進の遅れ、河西昌枝主将をはじめとする当時のバレーボール女子日本代表選手たち(いわゆる「東洋の魔女」たち)は、当時の結婚適齢期の年齢をオーバーしてしまうという悩みを抱えていた。彼と彼女らは、1964東京オリンピックに勝つ(金メダル)ことで、そうした問題から解放されたいと願っていたのだ。

 こうした背景をキチンと説明しないと、小笠原教授の指摘も「現代的な政治的正しさ」の表明にしか読めない。何より当時の価値観として、しかるべき年齢に結婚することが女の幸せをつかむ道だとされていたわけだし。

 >>決定的なのは、数多い女性の中でも最も光る演技を見せていた人見絹枝(菅原小春)が、最終回の回想シーンで現れなかったことだ。アムステルダムでの人見絹枝を見せずして、なにが『いだてん』か?

 #史上最低大河 の「いだてん」だが、菅原小春が演じた日本女性初の五輪メダリスト・人見絹枝の登場場面に関しては評価が高い。こういったところは、小笠原教授の「まなざし」と、宝泉薫氏が指摘した「いだてん信者」の「上から目線」、両者の思い入れが共有できているところではある。

今度は「いだてん信者」を説教し始めた小笠原博毅教授
 ところが、小笠原博毅教授は、同じ文章の中で、今度は「いだてん信者」たちを上から目線で説教し始めるのである。いわば「二段階的上から目線」である。

 >>大河ドラマは、登場人物や出来事を虚実取り混ぜ、主人公にありえないものを「期待」させることで、現代の世界とは切り離された歴史物語を作り上げる。

 >>戦国から安土桃山時代なら「戦乱の世を終わらせる天下統一」や「民のための平和な世」、幕末なら「身分のない自由な世界」や「世界に追いつく日本」。若者の成長や人間模様の背後には、このような大きな物語が用意されているのが大河の常道だ。<2>

 それでは、NHK大河ドラマ「いだてん」の制作者たちが、物語の主人公・金栗四三(演:中村勘九郎)と田畑政治(演:阿部サダヲ)に込めた「期待」とは何なのか? それは……。

 >>……まさに「公的」な五輪〔オリンピック〕の理念を真に受けて、その〔現実の〕歪みを正し、理想的な形で東京で〔1964年のオリンピックを〕開催するために身を粉にして働いた、その姿が描かれている。彼らは五輪ではない「もう一つの視点をかたちづく」るのではなく、五輪に「期待」したのだ。

 しかし。それは、あくまで「現実の世界とは切り離された歴史物語」でしかない。

 >>なぜそれが五輪でなければならないのか? もちろん説明は……〔以下略〕

 小笠原博毅教授と、その舎弟(←我ながら失礼な表現ですね)山本敦久准教授は、断固とした2020東京オリンピック反対派(返上派,中止派)である。岩波ブックレット『やっぱりいらない東京オリンピック』のような著作を、何冊か上梓している。

反東京オリンピック宣言
テリエ・ハーコンセン
航思社
2016-08-17


 小笠原博毅教授(や山本敦久准教授)は、当然のこととして2020東京オリンピックの積極的推進派を断罪する。一方、批判的でありながらも、それでも少しでも「よりよい」形での建設的な提言をして東京五輪を受容しようという人たち、小笠原教授・山本准教授は「どうせやるなら派」と呼んでいるが、こちらの立場も断罪する。
 だが、悪いところを批判して「よりよい」オリンピックにしようという態度は、2020年東京大会を開催することの矛盾や問題を覆い隠すだけでなく、むしろ開催の推進力となる。……いくら批判的なジェスチャーを見せてはいても、「どうせやるなら派」はオリンピック積極的推進派と同じである。

小笠原博毅・山本敦久『やっぱりいらない東京オリンピック』14頁
 つまり、絶対的な2020東京オリンピック反対派の小笠原博毅教授は、所詮「いだてん」は東京五輪のための国策大河ドラマ、いだてん信者たちも「どうせやるなら派」の一部、2020東京オリンピック開催の補完勢力だとして、これを非難しているのである。

 これが小笠原博毅教授の「いだてん」に対する「二段階的上から目線」である。

2020東京オリンピック潜在的反対派の声なき声を聞け
 小笠原博毅教授の、くだんの「いだてん」&2020東京オリンピック評論「『いだてん』は五輪に負けた」の居心地の悪い読後感の正体がこれである。

 しかしながら、カルスタ・小笠原博毅教授は2019年NHK大河ドラマ「いだてん」に関して、肝心要なことを忘れている。

 #史上最低大河 と酷評される最も大きな原因となった「いだてん」の壊滅的低視聴率である。平均視聴率は関東地区で8.2%(!)、関西はじめ他の地域はもっと低い。ノモンハン事件、ミッドウェー海戦、インパール作戦並みの大惨敗である。

 笛吹けど踊らず。それが国策大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)」、そして、その背後に控えている2020東京オリンピックに対する視聴者(≒国民)の本音である。こういう「声なき国民の声」はなかなか政治的に表面化しない。

 その「声なき声」を聞き、すくい上げられないカルスタ・スポーツ学って何なの? ……というのが素朴な疑問のひとつ。

 「いだてん」への共鳴と、「いだてん信者」への非難という矛盾を抱えた論考。

 この辺が日本のカルスタ・スポーツ学の限界なのだろうか。……などと嫌味な事を考えてしまったのである。

 ちなみに当ブログは2020東京オリンピックには一貫して反対の立場であります。

(了)




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存続すら危ぶまれた(!?)NHK大河ドラマ
 NHKの看板番組である大河ドラマは、2019年の「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)」が内容も視聴率も酷すぎたので、そのシリーズとしての存続すら危ぶまれた。


 そのことが本当にNHKの内部で議論されていたのかもしれない。2021年の大河ドラマ、渋沢栄一が主人公の「青天を衝(つ)け」に決まるまで、かなり時間がかかった。


 しかし、意外にも「2022年の大河ドラマ」*はかなり早く、あっさり決まった。主演は小栗旬だという。ところが、脚本が三谷幸喜だというので、ひどくガッカリした。


三谷幸喜なる人物への極私的偏見
 その昔、実の弟を自殺に追い込んだとまで噂されている、海外サッカー厨(海外厨)の明石家さんま(本名:杉本高文)のサッカー番組に「サッカーファン」として登場したが、言っていることが全く面白くないのにもかかわらず「どうです? ボクって面白いでしょ!」的な態度が鼻についた……。

 ……以来、三谷幸喜なる人物には、極私的な偏見が拭(ぬぐ)えない。

 クドカンこと宮藤官九郎が脚本を書いた「いだてん」が史上最低大河とまで言われるくらいに大失敗作・大駄作だったのに比べて、三谷幸喜が脚本を書いた2016年大河ドラマ「真田丸」は成功作だと言われている。間違いである。

 「真田丸」の平均視聴率は15%台だったという。しかし、極私的な記憶では、初めは平均視聴率20%くらいを期待されていたはずだ。課せられたテーマは「大河ドラマの復権」。当時の感覚では、天下のNHK大河ドラマの平均視聴率が15%台で満足していいのだろうか……であった。

(その後の大河ドラマ,特に大愚作「いだてん」のせいで,かなり感覚が麻痺してしまったけれども)

 内容・出来も必ずしも良かったとはいえない。歴史学者の渡邊大門先生は「歴史リアルWEB」の週刊大河ドラマ批評で非常に辛辣な評価を下していた。


 そんな「真田丸」は、なぜ成功作であるかのように印象付けられたのか? 脱落した視聴者がいた一方で、残った視聴者が「信者」化してSNSでさんざんバズった(インターネット上の口コミで話題にした)からだ。

 平均視聴率20%に足らない平均視聴率15%。そのマイナス5%分を、NHKはそのバズったことで埋め合わせをして「成功」と総括した。間違いだった。その間違った総括の「なれの果て」が「いだてん東京オリムピック噺(ばなし)」という大失敗作だった。


 三谷幸喜の2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」**もまた、SNSで「信者」たちにバズらせて、誤用マスコミに提灯記事を書かせ、ステマ(ステルスマーケティング)して、NHKは人々に人気番組だと「洗脳」するのだろうか?

どうしたって「草燃える」には敵わない
 「鎌倉殿の13人」の主人公は、鎌倉幕府の第2代執権の北条義時である。この時代……平安末の動乱期~鎌倉幕府草創期を舞台にし、北条義時が重要な登場人物となる大河ドラマといえば、1979年(昭和54年)の、あの「草燃える」がある。

NHK大河ドラマ・ストーリー 草燃える
藤根井 和夫
日本放送出版協会
1979-01-10


 「草燃える」は、歴代のNHK大河ドラマの中でも傑作である。

 石坂浩二の源頼朝は良かった。国広富之の空気が読めない源義経も良かった。友里千賀子のふくよかな静御前も良かった。郷ひろみのボンクラな源頼家も良かった。尾上松緑の老獪な後白河院も良かった。特に松平健のだんだんと変貌していく北条義時は素晴らしかった。何より岩下志麻以上の北条政子はいない……。



 ……要するに全部いいのである。「鎌倉殿の13人」の視聴は、「草燃える」がいかに素晴らしい歴史劇であったかを確認する作業となるだろう。


 NHK大河ドラマの希望は過去にしかない……のだろうか?

(了)




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ジリ貧が続くNHK大河ドラマ「いだてん」
 2019年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)」(毎週日曜日20:00~20:45,脚本・宮藤官九郎)の視聴率の低迷ぶりが、いよいよトンデモないことになっている。

▼NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)』

 当ブログが「〈いだてん〉視聴率惨敗! このままいくと歴代最低視聴率大河ドラマになるッ!」と煽ったのは、今年の2月初頭。その直前の放送回、1月最終週の第4回の関東・首都圏の視聴率は、それでも2ケタの11.6%はあった(下記リンク先参照.これはこれでNHKの看板番組=大河ドラマとしては,あってはならない酷い数字なのだが)。

▼NHK大河ドラマ「いだてん」に漂う玉木正之的スポーツ観と,その克服(2019年02月03日)

 それが2月に入って、視聴率が1ケタに下がる。こんなに早い時期の1ケタ転落も、NHK大河ドラマとしては壊滅的な出来事で人々を驚かせた。さらにその後もジリジリと下がって、8月11日放送分では、関東・首都圏の視聴率がついに5.9%(関西地区では5.2%)まで下がった。

 しかも、「いだてん」の前枠の動物番組「ダーウィンが来た!」(19:30~20:00)と、「いだてん」終了直後に放送される「NHKニュース」(20:45~21:00)の視聴率が良好なのに対して、「いだてん」だけが目に見えて視聴率が低いのである。

▼「いだてん」最低視聴率でクドカンも大ピンチ 大河で脚本家が降板したのは1回だけ(2019年5月12日)

 これは、もう、明らかに視聴者が「いだてん」を避けていることがハッキリと分かる。

 このまま視聴率が下がり続けると、民放(民間放送)では「打ち切り」が検討されるという。けれども、視聴者からの受信料で成り立つNHK(公共放送)では、そのような事態はなさそうである。

「日本人とオリンピック」のはずが落語家の人生を見せられる
 「いだてん」の視聴率が悪いのは、ひとえに「つまらない=面白くない」ことに尽きる。その理由は、これまでさんざん論じられてきたので、多くはここで繰り返さない。が……。


 ……視聴者は、初め、この大河ドラマは「日本人と近代スポーツの歴史,日本人とオリンピックの歴史」を描くものだと思っていた。そのナレーションを、ビートたけしが演じるところの往年の落語の名人・古今亭志ん生(5代目)が担うのだと思っていた……。

 ……ところが、「いだてん」の物語は、日本の近代スポーツ史と全く接点のない落語家・古今亭志ん生(5代目)の、まるで自堕落な人生の描写に大きく時間を割(さ)き、この2つが並行して描かれていた。

古今亭志ん生(5代目)
【古今亭志ん生(5代目)】

 ほとんどの視聴者は、これには完全に面食らった。そして「いだてん」の視聴から脱落していった。

 このドラマの脚本担当・宮藤官九郎(クドカン)の本当の狙いは、「日本人と近代スポーツの歴史,日本人とオリンピックの歴史」の大河ドラマに事寄せて、志ん生(5代目)の一代記を描くことにあったとまで邪推されるほどである。

 誰も、少なくともこの大河ドラマで志ん生(5代目)の人生を視たいとは思わない。それは別の枠のドラマで描けばいいし、その方がもっと良いテレビドラマができるはずだ。

 それならば。クドカン宮藤官九郎が、視聴者を置いてきぼりにしてまで執拗に拘(こだわ)っている、この「落語」の視点から「いだてん」の「つまらなさ」の理由(わけ)について斬り込んでいけるのではないか……と、ふと思い当たることがあった。

本多勝一の「落語論」から
 今回、参照するのは、落語評論家の評論文ではなく、ジャーナリストで元「朝日新聞」記者・本多勝一氏の著作『日本語の作文技術』である。この本に「自分が笑ってはいけない」という小見出しの箇所がある。

 「いだてん」は、なぜ面白くないのだろうか……。
自分が笑ってはいけない
 ……なぜおもしろくないのだろうか。この説明は落語を例にとるとわかりやすいと思う。

 中学生のころ私〔本多勝一〕はラジオで落語ばかり聞いていて、よく「また落語!」と父に怒鳴られたけれど、いくら叱られてもあれは魅力的な世界だった。ずっとのちに都会へ出て実演を見たとき驚いたのは、落語家たちの実力の差だ。ラジオでもちろんそれは感じたけれど、実演で何人もが次々と競演すると、もうそれはまさに月とスッポン、雲と泥にみえる。私が見た中では、やはり桂文楽〔8代目〕がとびぬけてうまかった。全く同じ出し物を演じながら、何がこのように大きな差をつけるのだろうか。もちろん一言でいえばそれは演技力にちがいないが、具体的にはどういうことなのか。

 落語の場合、それは「おかしい」場面、つまり聴き手が笑う場面であればあるほど、落語家は真剣に、まじめ顔で演ずるということだ。観客が笑いころげるような舞台では、落語家は表情のどんな微細な部分においても、絶対に笑ってはならない。眼〔まな〕じりひとつ、口もとひとつの動きにも「笑い」に通じるものがあってはならない。逆に全表情をクソまじめに、それも「まじめ」を感じさせないほど自然なまじめさで、つまり「まじめに,まじめを」演じなければならない。この一点を比較するだけでも、落語家の実力の差ははっきりわかる。名人は毛ほどの笑いをも見せないのに対し、二流の落語家はどこかに笑いが残っている。チャプリンはおかしな表情をクソまじめにやるからこそおかしい。落語家自身の演技に笑いがはいる度合いと反比例して観客は笑わなくなっていく。

 全く同じことが文章についてもいえるのだ。おもしろいと読者が思うのは、描かれている内容自体がおもしろいときであって、書く人がいかに面白く思っているかを知っておもしろがるのではない。美しい風景を描いて、読者もまた美しいと思うためには、筆者がいくら「美しい」と感嘆しても何もならない。美しい風景自体は決して「美しい」と叫んではいないのだ。その風景を筆者が美しいと感じた素材そのものを、読者もまた追体験できるように再現するものでなければならない。〔以下略〕

本多勝一『日本語の作文技術』第8章「無神経な文章」より


【新版】日本語の作文技術 (朝日文庫)
本多勝一
朝日新聞出版
2015-12-07


 本多氏は、古今亭志ん生(5代目)よりも桂文楽(8代目)がお好みだったようだ。それはともかくとして、「いだてん」のつまらなさは、この引用文を少し改変しただけで、ほとんど説明できてしまうのだ。

二流の落語家=クドカン宮藤官九郎
 脚本のクドカン宮藤官九郎は、「笑い」や「ペーソス」、言い換えれば「おかしさ」をも込めて、大河ドラマ=歴史を「面白く」描きたい。

 その是非は別としても、これが大河ドラマの場合、それは「おかしい」場面、つまり視聴者が「笑い」や「ペーソス」を感じ入る場面であればあるほど、脚本家や演出家は「笑わず」真剣に、まじめに描かなければならない。

 他人(ひと)を「笑わせてやろう」というに時こそ、「笑わせてやろう」という素振りは見せてはいけない。

 優れた作り手は毛ほどの「笑い」をも見せないのに対し、二流の作り手はどこかに「笑い」が残っている。

 「面白い」と視聴者が思うのは、描かれている「ドラマの内容自体が面白い」ときであって、「脚本(宮藤官九郎)や演出がいかに面白く思っているか」を知って面白がるのではない。

 「脚本(宮藤官九郎)や演出がいかに面白く思っているか」の表れが、例えばドラマの演出に見られる小細工の数々だ。けれども、脚本や演出に「笑い」が入っている。「笑わせてやろう」という素振りが見えてしまっているので「面白くない」。とどのつまり「いだてん」は「面白くない」。

 脚本や演出に「笑い」が入る度合いと反比例して、視聴者は「笑わなく」なっていく。すなわち、視聴者の多くは「いだてん」の視聴から脱落していく。

「あまちゃん」は大ヒット作ではない!?
 いわば「自分から笑いだしている」二流の落語家が、「いだてん」脚本のクドカン宮藤官九郎である。落語に憧憬(どうけい)しながら、しかし、落語への真の敬意が欠落しているのが、「いだてん」脚本のクドカン宮藤官九郎なのである。

 「いだてん」のテーマは、大河ドラマよりも、むしろ朝ドラ(朝の「連続テレビ小説」毎週月~土8:00~8:15)の方がよかったのではないか……との声もある。だが、クドカンのあの「自分から笑いだしている」作風では、やはりダメである。

 同じクドカン脚本の朝ドラ「あまちゃん」はヒットしたではないか……という人がいる。しかし、すでに繰り返し指摘されていることだが、「あまちゃん」の視聴率は他の朝ドラと比べても相対的に低い。新しい視聴者を開拓したというけれども、既存の視聴者に視聴から逃げた層がかなりいるので、トータルの視聴率は高くないのである。

 それでも、この世界の片隅には、「自分から笑いだしている」二流の落語をさも面白いものであるかのように有難がる、声のデカい、スノッブな「層」が一定程度存在する。「あまちゃん」が、いかにも歴史的に傑出した朝ドラであるかのように煽ったのは、この人たちである。

 例えば、それは「ギョーカイ」といわれる世界の住人に多い。インターネットのポータルサイトを覗(のぞ)くと、これほどの低視聴率にもかかわらず「いだてん」の礼賛記事が未だに多い。そうした記事をこの人たちが書いているからである。

 この人たちには「バカな人にはとうめいで見えない布」が見える。

▼アンデルセン「はだかの王さま」青空文庫

 むろん、実際にはそんな「布」など実在しない。「あまちゃん」の正しい総括ができなかった、そんな「はだかの王さま」たち(クドカンやNHKの制作陣)が勘違いしたまま作ってしまったのが、大爆死の大河ドラマ「いだてん」なのである。

落語界こそ宮藤官九郎と「いだてん」を批判するべき
 「いだてん」が古今亭志ん生(5代目)に異常にフィーチャーすることで、かえってイメージが悪くなったのは、実は落語(落語界)の方である。

 「いだてん」の視聴を避けた視聴者は、落語に悪い印象を抱いてしまったいる。これが、まずひとつ。

 もうひとつは、「いだてん」が、ある意味で壮大な「落語」なのだとしても(クドカンは,さまざまに張り巡らした「伏線」を最後に「回収」して,壮大な「オチ」を付けるつもりなのだとも……)、前述のとおり、あれは「二流の落語」にすぎない。

 宮藤官九郎と「いだてん」は、落語の面汚しなのだ。

 落語界の住人こそ、宮藤官九郎と「いだてん」を批判するべきである。

 それとも、落語界もまた、クドカン的なるものを有難がるスノビズムに頭をやられているのか、はたまた「いだてん」を放送する公共放送=NHKに対する忖度があって、これを批判できないでいるのだろうか。

(了)



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国策大河ドラマ「いだてん」の視聴率惨敗
 鳴り物入りで始まった2019年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)」(脚本・宮藤官九郎)の視聴率が壊滅的に低迷している。

 第1回が関東・首都圏で15.5%の低視聴率、地方になると軒並み「爆死」状態。その後も視聴率低落が続き、1月最終週の第4回の関東・首都圏の視聴率は11.6%まで下がった。「花燃ゆ」(2015年)や「平清盛」(2012年)といった視聴率ワースト作品を、さらに下回る歴代最低視聴率大河ドラマになるという観測がなされている。


 つまり「いだてん」は大失敗作である。この作品は、脚本の宮藤官九郎(クドカン)がNHKに企画を持ち込んだということになっているが、事実上、翌2020年の東京オリンピックを盛り上げるための「国策」に、NHKが迎合・忖度した大河ドラマであることは衆目の一致するところである。

 国策大河ドラマに傑作なし。明治維新100年にあやかった1967~68年の「三姉妹」しかり、「竜馬がゆく」しかり。松下村塾のユネスコ世界遺産登録に当て込んだ2015年の「花燃ゆ」しかり。明治維新150年に当たる2018年の「西郷どん」しかり。視聴率でも(コンテンツとしても?)みな失敗している(以上、歴史学者・一坂太郎氏の指摘による.下記リンク先参照)。
 同じく国策大河である「いだてん」も、ご多分にもれず、すでに大コケの烙印を押されている。そればかりか、「いだてん」の視聴率を通じて、2020年の東京オリンピックに関する全国的・国民的関心が、実はまったく無い(薄い)ことが暴露されてしまった。

 とんだヤブヘビであった。

大河ドラマより面白い(?)歴史リアルの「大河ドラマ批評」
 21世紀に入ってからの、なかんずく2010年代の大河ドラマは、軒並みつまらない作品が多い。ああ、今年の大河もつまらない。さりとて民放の裏番組を見る気もしない。なぜツマラナイのか? それを理解して納得したい。あるいは、どうせ面白くないのならば、いろいろツッコミを入れながら見てみたい。

 そんな視聴者のために、大河ドラマのサブテキストの役割りを果たしてきたのが、洋泉社・歴史リアルWEBサイトのブログ、週刊「大河ドラマ批評」の辛口コラムであった(下記リンク先参照)。
 主な書き手は、平安時代末期の源平争乱期や、戦国・安土桃山時代は歴史学者の渡邊大門氏、幕末・明治維新は同じく歴史学者の一坂太郎氏。どちらも学者としては在野に近い。大河ドラマ各週のストーリーにある史実と虚構(創作)の違いをきちんと指摘したうえで、鋭い批評を展開していく。味気ない料理(=出来の悪い大河ドラマ)にスパイスを効かせてくれるのである(下記リンク先参照)。
 むろん、史実と違うからダメだというのではない。傑作ぞろいの往年の大河ドラマは、史実とは違っていたり、史実の空白を埋めたりしていた部分(創作=虚構)が、物語世界をより豊かにしてくれた。しかし、昨今の駄作大河は、史実から逸脱している部分(創作=虚構)が、物語をますますツマラナクしている元凶であることの方が多い。


 その結果、渡邊大門氏(「平清盛」「軍師官兵衛」「真田丸」「おんな城主 直虎」)や一坂太郎氏(「花燃ゆ」「西郷どん」)の大河ドラマ批評の方が、大河ドラマそのものよりも面白くなるという、興味深い逆転現象が生じる。

大河ドラマと時代考証
 ところが、歴史リアルは、今年の大河ドラマ「いだてん」では大河ドラマ批評の連載をやらないようである(2019年2月3日現在)。まったく残念なことだ。

 大河ドラマは、歴史リアル(洋泉社)や歴史街道(PHP研究所)といった歴史系出版社、歴史学者・歴史作家にとって、飯のタネでもあった。例えば、2008年の大河ドラマは「篤姫」だったが、その前後には、番組枠の知名度などに当て込んで、主人公である「天璋院」や物語の舞台となる「江戸城大奥」の関連本がたくさん刊行される……といった具合にである。

 「いだてん」は時代が近現代であり、かつテーマがオリンピックやスポーツである。歴史系出版社の守備範囲とは見なされなかったのか? それでも「いだてん」の登場人物である金栗四三や嘉納治五郎、田畑政治の関連本は、他の版元からいろいろ出ているし、歴史リアルも「いだてん」やオリンピック関連のムックを出しているのだが。

 歴史劇である大河ドラマといえば、時代考証(監修)を担当する歴史学者がいる。小和田哲男氏とか、本郷和人氏とか、原口泉氏とか、磯田道史氏とか……。「いだてん」は、スポーツ人類学で、オリンピックの歴史などを研究する真田久氏と大林太朗氏。ともに筑波大学。筑波は旧制東京高等師範学校(東京高師)だから、ドラマ前編の主人公・金栗四三は両先生の遠い遠い先輩、嘉納治五郎はその当時の校長であった。


 ところで、渡邊大門氏や一坂太郎氏の立ち位置から考えると、NHK大河ドラマの作品批評は、学界・学会の主流にいない人の方がいいのかもしれない。さらに言えば、何も学者である必要もない。ジャーナリストでもいいのだ。

 つらつら考えていくと、「いだてん」の辛口批評コラムの担い手として、スポーツライターの武田薫氏が適任ではないかと思い当たった。

武田薫氏のプロフィールと『朝日ジャーナル』
 武田薫。1950年、宮城県仙台市出身。1974年に報知新聞社に入社し、野球、陸上、テニスを担当、1985年からフリー。著書に『オリンピック全大会』『サーブ&ボレーはなぜ消えたのか』『マラソンと日本人』など。……というのがネット上にあるプロフィールであるが、これでは不十分な説明である。

 フリーランスとしては、週刊誌『朝日ジャーナル』が主催するノンフィクション朝日ジャーナル大賞で、ポルトガルのマラソンランナー カルロス・ロペス(1984年ロサンゼルス五輪金メダル)を題材にした作品で佳作となる。以後、『朝日ジャーナル』の常連となり、1980年代後半から、廃刊する1993年まで、同誌でスポーツ時評やスポーツノンフィクションを担当した。

 ちなみに『朝日ジャーナル』とは、ある意味で最も『朝日新聞』的であるが、しかし、決して『朝日新聞』そのものではないという、朝日新聞社が発行する週刊誌である。同社が発行する週刊誌『AERA(アエラ)』の前身という認識は間違い。

 それ以前の『朝日ジャーナル』のスポーツ時評と言えば、セクハラ文芸評論家の渡部直己あたり出てきては「清原和博はシニフィエ=記号内容=なきシニフィアン=記号表現=である」みたいな、やたらポモ臭え評論を掲載していた(『朝日ジャーナル』1986年10月31日号)。

 そんな文言を嬉々として紹介していたのが、文学・思想方面にコンプレックス丸出しのスポーツライター玉木正之氏だったりする(玉木正之『プロ野球の友』403頁,416頁)。

プロ野球の友 (新潮文庫)
玉木 正之
新潮社
1988-03


 それに比べれば、武田薫氏の起用によって『朝日ジャーナル』のスポーツジャーナリズムは随分とマシになったと言える。

サッカーと武田薫氏の因縁
 日本のサッカーやJリーグの悪口をいろいろ書いてきたので、サッカーファンは武田薫氏にいい印象を持っていない。しかし、かつてはポルトガル語を使える数少ないスポーツライターだったため、サッカー関連の仕事もいくつかしている。

 『朝日ジャーナル』のスポーツノンフィクションの連載では、日本に帰ってきたばかりの、あの水島武蔵選手(マンガ『キャプテン翼』の主人公のモデル)、あるいは同じく風間八宏選手について書いている。このうち水島選手のルポルタージュは、連載をまとめた、朝日新聞社刊行の『ヒーローたちの報酬』に収録されている。

ヒーローたちの報酬
武田 薫
朝日新聞社
1990-10


 1987年、日本で開催されていたトヨタカップにFCポルトが出場した。その時、かつて同クラブの陸上競技部門に所属していた、ポルトガルの往年のマラソン女王ロザ・モタ選手に、武田氏がコメントを取りに行った。するとモタ選手、「ポルトガルでは男性がサッカーに熱中しすぎて家庭に金を落とさない.サッカーは女を不幸にする.ポルトガルでサッカーが強くなっても,いいことはひとつもない」と言い放った。

 トヨタカップのテレビ中継を担当していた日本テレビの依頼だったと思うが、日本のメディアは、モタ選手の「FCポルト,がんばれ!」的なコメントを希望していた。しかし、その意図にかなったものではなく、やむなくボツにしたという。この話は『ロザ・モタ~ソウル五輪マラソンの女王』に登場する。


 ポルトガルの近現代はかなり複雑な歴史を歩んでいるし、かつては男尊女卑の習慣も強かったとも聞いている。21世紀の現在も同じような状況なのかは、分からない。また『ロザ・モタ~ソウル五輪マラソンの女王』には、サッカーが第一であるFCポルトとマラソン選手であるロザ・モタ選手とは、いろいろ諍(いさか)いがあったようにも書いてある。

 とかく日本では理想化され、Jリーグが目標にし、玉木正之氏がひたすら称揚する「地域に根差した総合スポーツクラブ」であるが、「本場」ヨーロッパではさまざまな実相があるようだ。

「いだてん」の辛口批評にふさわしい理由
 今年の大河ドラマ「いだてん」は、すでにあれこれ酷評されている。話が取っ散らかりすぎている。古今亭志ん生(5代目)役のビートたけしの演技や滑舌が悪すぎる。宮藤官九郎の脚本に散りばめられた小細工の類がかえって白ける……。要するにつまらない。それは視聴率に表れている。ツマラナイからこそ「いだてん」の辛辣な批評が読みたい。

 その担い手に、武田薫氏が適任である理由はいくつかある。

[理由その一]武田薫氏は、オリンピックの通史『オリンピック全大会』を書いていて、五輪大会の歴史に通暁している。番組後編の主人公・田畑政治のパートの解説もできる(はず)。

[理由その二]武田薫氏は、マラソン・駅伝が専門分野のひとつであり、マラソンランナーたちの優れたノンフィクションをいくつも書いている。また『マラソンと日本人』という本も上梓している。番組前編の主人公・金栗四三にも詳しい。

マラソンと日本人 (朝日選書)
武田 薫
朝日新聞出版
2014-08-08


 どちらの著作も版元が朝日新聞社なのは、かつての『朝日ジャーナル』のコネだと思われる。ネットを検索していたら、日刊ゲンダイDIGITALのサイトに武田氏の連載があり、金栗四三と「いだてん」について解説していたコラムがあった(下記リンク先参照)。
 こういうことが書けるスポーツライターは少ない。そして当ブログが武田氏を推す、もうひとつの理由がある……。

「いだてん」のとっても「スイーツ大河」な場面
 最近の大河ドラマをつまらなくしている大きな要因が、封建社会で戦乱の時代であるにもかかわらず、きわめて現代的な平和主義・民主主義・自由主義あるいは恋愛至上主義で物語が描かれてしまうことだ。

 例えば、戦国時代の武将が「儂(わし)の願いは,戦(いくさ)のない平和な世の中を作ることじゃ」と宣(のたま)ったり、その奥方が「戦は嫌でござります」とか宣ったりするヤツ。こういう大河ドラマは「スイーツ大河」などと呼ばれて、熱心な大河ドラマ視聴者には非常に軽蔑される。

 果たして「いだてん」第1回にも、そんな「スイーツ」なシーンがあった。

 平和と「スポーツ」の意義を説き、1912年ストックホルム五輪への日本代表選手派遣に向けて奔走する嘉納治五郎(演:役所広司)と、富国強兵のため日本人の体力・体格向上を重視する「体育」の立場から、これに反対する加納久宜(演:辻萬長)や、永井道明(演:杉本哲太)とが対立する場面である。

 「スポーツ」は「遊び」で解放的、「体育」すなわち抑圧的な「教育」とは違うもの。あるいは「スポーツ」と「体育」の概念を過度に対立的なものと見なし、前者を称揚し、後者を否定する考えは、多分に現代的な価値観である。例の玉木正之氏が再三にわたって力説・啓蒙してきた価値観である。

「スポーツ」か「体育」か…は,玉木正之的スポーツ観の影響
 この場面が疑わしいことは、ネットでも議論になっていた。
409日曜8時の名無しさん2019/01/27(日) 18:54:24.99ID:94KkDt2Q>>412>>426
今更だけど嘉納治五郎が「スポーツ」で、文部省が「体育」という描写って完全な間違いだな。
嘉納は「国民体育」という概念を使って水泳と陸上の普及を説いているし、
「個人は心身を練磨し、社会に貢献することを期す」と言ってる。

412日曜8時の名無しさん2019/01/27(日) 19:17:32.57ID:GDczlAXz>>423
>>409
間違いではなく脚色ってやつじゃないの。大河ではよくあるよ

423日曜8時の名無しさん2019/01/27(日) 21:01:26.52ID:94KkDt2Q
>>412
「体育」を国家統制色が強いものとして描き、
嘉納自身は精神論と無縁みたいに言ってる点で違うだろ。

426日曜8時の名無しさん2019/01/27(日) 22:06:33.62ID:+dVZ6OpD>>436
>>409
嘉納治五郎は国民体育を推奨したけど、同時にそれを続けるためには楽しみの要素の必要性も説いている
面白みがなければ、学校教育が終わってしまえば続ける者がいないため意味がないと
ストックホルムオリンピックの翌年には、柔道でも慰心法と言う楽しむことも目的とする概念も唱えている
まあ、体育とスポーツの対立ではなく両方の必要性を説いている

427日曜8時の名無しさん2019/01/27(日) 22:50:56.34ID:twaNzqLW
体育もスポーツも平和のためではなく、
体力ある兵士を育成するためだったはずだけどな。

436日曜8時の名無しさん2019/01/28(月) 16:56:03.59ID:bVtVkuMW
>>426
いずれにせよ嘉納治五郎が「体育」を叩く描写は筋違いだよね。
 あらためて「いだてん」の時代考証(スポーツ史考証)は筑波大学の真田久氏で、同氏は嘉納治五郎の研究者でもある。少し探してみたら「オリンピックと嘉納治五郎」という、真田氏の講演録のPDFファイルが見つかった(下記リンク先参照.於:平成29年度 第14回 東京都高等学校体育連盟研究大会)。
 これを読む限り、嘉納治五郎が「スポーツ」と「体育」をに類別するような人だったとは思えない。また、真田久氏がそのような二項対立的な価値観の持ち主とも思えない。

 大河ドラマで時代考証を担当する学者には、脚本の内容を指図する権限はない。「ドラマを面白くするため,そうしたいというものもある」「違うという証拠もない.可能性がゼロではないものは修正しない」と、真田久氏も話している。歴代の大河ドラマ監修の学者たちもだいたい同じことを述べている。


 「体育」ではなく「スポーツ」だと主張する「いだてん」の嘉納治五郎像は、史実というよりも、多分に脚本家の宮藤官九郎の意向、現代的な価値観を反映した創作(虚構)と憶測する。そのクドカンの意向に大きく影響を与えた価値観とは、玉木正之氏が啓蒙したスポーツ観である。これはまず間違いない。

嘉納治五郎,クーベルタン男爵の思想
 当の玉木正之氏は、問題の「いだてん」の場面をどう見ていたか?
玉木正之「ナンヤラカンヤラ」2019年1月6日
1月6日(日)
 ……NHK大河ドラマ『いだてん』の第1回目。五輪関連のドラマですから見なければ。宮藤官九郎の脚本はチョットバタバタしすぎかなぁ。嘉納治五郎はこんな剽軽だったのかなぁ。志ん生の若い時ってこんなだったのかなぁ。明治時代の嘉納のスポーツ論(体育ではないという認識)がこんなに確固としていたのかなぁ。イロイロ首を傾げながら見ましたがまだマァ1回目ですよねぇ。〔以下略〕

 だから、それは、おそらくは史実ではなく創作で、玉木氏自身が啓蒙したスポーツ観の反映なのはないのか。何とも呑気な反応である。

 嘉納治五郎は、必ずしも「スポーツ」と「体育」を類別する人ではなかった。これは日本だけではない。そもそも、嘉納をIOC(国際オリンピック委員会)委員に引き入れた、近代オリンピックの創設者であるフランスのクーベルタン男爵もそうであった。さらに、そのクーベルタン男爵に影響を与えたのは、英国パブリックスクールのスポーツを採り入れた教育である(下記リンク先参照)。
 クーベルタン男爵は、特に英国のパブリックスクール「ラグビー校」でラグビーフットボールの魅力に取りつかれ、ラグビーのレフェリーの資格を取り、試合で笛を吹いたこともある。これは割とよく知られた話だ。

 日本サッカーはアマチュアリズムを克服するのにかなり大変な思いをしたが、15人制ラグビーユニオンとオリンピックのアマチュアリズムの重視は、クーベルタン男爵でつながっているのではないか、などと邪推したこともある

 いずれにしても「スポーツ」が善で「体育」が悪という人たちではない。

 玉木正之氏は、もともと野球畑のスポーツライターで、野球(ベースボール)はフットボール系の球技(サッカー,ラグビー,アメフト)と違って、歴史的に教育の場から生まれたスポーツではない。だから、何かと「スポーツ」と「体育」区別したがるのだろうか?

玉木正之氏には「同業者」のアンチが多い
 玉木正之氏が「スポーツ」と「体育」を概念操作するのは、日本スポーツ界の旧弊を「体育」という記号に込めて、これを批判し、克服した地平を「スポーツ」として表徴せんがためである。

 しかし、玉木氏の価値観は、そんなに素晴らしい、いいものなのだろうか。

 なぜなら、玉木正之氏が従来の「体育」を乗り越え、日本に「スポーツ」をもたらしてくれると期待した存在は、たいていスポーツとして失敗で、日本のスポーツをかえって混迷させてしまったからである。野球の「長嶋茂雄」しかり、ラグビーの「平尾誠二」および「平尾ジャパン」しかり、サッカーの「ジーコ・ジャパン」しかり。

 もう、この辺は、当ブログがしつこく書いてきたことだから、ここでは繰り返さない。詳しくは下記のリンク先等を参照して、じっくり読んでいただければ幸甚である。
大化の改新と蹴鞠(39)~体育の日,スポーツの日,玉木正之


続・林舞輝さん,河内一馬さんについて~あるいはジーコ・ジャパンの総括


 つまり、玉木正之氏は「〈スポーツ〉そのもの」を唱えながら、しかし「〈スポーツ〉そのもの」を理解していないのではないかと、根本的な疑念が生じるのである。

 実は同様の理由で、玉木正之氏にアンチの念を抱くスポーツライターの「同業者」は多い。たしかに玉木氏の、あの中学二年生のような青臭い議論は、かえって敬遠したくなる。分かっている範囲で名前を挙げると、藤島大氏、岡邦行氏、永田洋光氏、美土路昭一氏、秋山陽一氏、牛木素吉郎氏、梅田香子氏(順不同)。その他、ここでは名前が出せない大物など。

 ……ようやく、伏線を回収できそうだ。

これでは「いだてん」の視聴率,ますます下がる?
 そのアンチ玉木正之陣営のスポーツライターのひとりに、武田薫氏がいるからである。

[理由その三]武田薫氏は、玉木正之氏を批判できる。「いだてん」を批評するためには、玉木氏のスポーツ観を相対視できるリテラシーも必要になる。

 武田氏は、これまでにも玉木氏を揶揄する文章を何度も書いており、実名で批判したこともある。それを面白がって読んできた人もいる。あらためていろいろ探してみたら、「激辛スポーツ歳時記~長嶋ジャパンを援護せよ」という文章が見つかった。
武田薫「長嶋ジャパンを擁護せよ」2003年6月2日

 ある人〔玉木正之氏〕が「日本で最初にスポーツライターを名乗ったのは自分」と自慢げに書いているのを見て笑ってしまった。知らないのは怖いものだ。かつては虫明亜呂無などを相手にしない書き手が、スポーツ紙〔報知新聞など〕にはゴロゴロしていた。目は鋭く物怖じせず物知りで、金も家庭も頭にない無頼の輩の理詰めの主張――近寄り難いほど迫力があった。かと思えば、酒好きなロマンチスト。「スポーツライター」などという肩書きが流布するようになって、スケールが小さくなった。若い人が、新聞記者ではなくスポーツライターを憧れるとは、嘆かわしい時代だ。

 虫明亜呂無は、玉木正之氏のスポーツ観に絶大な影響を与えた評論家である。しかし、玉木氏の批判はするが、その川上に位置する虫明亜呂無の批判をするという人となると、なかなかいない。ところが、権威があったころの昔のスポーツ新聞の記者は、虫明亜呂無の小癪なスポーツ評論を小馬鹿にしていた。これは、ちょっとした驚きである。

 玉木正之氏はクラシック音楽やオペラの評論もやるが、武田薫氏はジャズの話をよく書く。上のリンク先のコラムには、古今亭志ん生(5代目)が、若い頃、ジャズ喫茶に足繁く通っていた話も出てきた。志ん生と言えば「いだてん」のもうひとりの主人公のような人だから、歴史リアルが「いだてん」の批評コラムに武田薫氏を起用したら、なかなか面白くなっただろう。

 繰り返すが、歴史系出版社にとって大河ドラマは飯のタネである。今年の作品「いだてん」の批評記事を連載しないのは、もったいない。その適任者もいる。「いだてん」自体は駄作だが、ツッコミのツールすらないのでは視聴率はますます下がる。来年以降の大河ドラマを鑑みても、それは歴史系出版社にとって、かえってマイナスではないだろうか。

 今カラデモ遅クナイカラ……。

(了)



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