スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:カルチュラルスタディーズ

  • 前回のおさらい:VAR判定がフットボールをダメにする?~今福龍太と上野俊哉(3/4)(2023年01月14日)https://gazinsai.blog.jp/archives/48256010.html

現代思想とカルスタによるカタールW杯論
 カタールW杯が終わったすぐ後の2022年12月21日、和光大学で今福龍太氏(特任教授,文化人類学,現代思想家,批評家)と上野俊哉氏(教授,カルチュラルスタディーズ)による、カタールW杯にちなんだ講義(トークイベント?)が行われた。
今福龍太+上野俊哉「2022W杯を学び逸〔そ〕れる」2022年12月21日(水)
 フランス大会くらいからだろうか。

 今福龍太と上野俊哉はW杯のたびにパブリックビューイングの場をもったり、フットボールの試合や文化の細部について言葉を交わしてきた。

 コロナ以降、和光大学でなかなか即興的対話の機会を公的にもてなかった二人が2022W杯を語る。

  日時・場所
  2022年12月21日(水)
  First Half:13:00~14:30 J201
  Second Half:14:40~16:10 J401

https://www.wako.ac.jp/news/2022/12/1221-2022wc.html
 やれやれ、またまた現代思想(今福龍太氏)とカルスタ(上野俊哉氏)による現代サッカー批判、勝利至上主義批判、近代主義批判、現代文明批判、ナショナリズム批判、国民国家批判……か。

 ……とも思ったが、まぁ、いろんな意味で(笑)面白そう! しかし、この講義(トークイベント?)は学生以外には非公開のものらしく、YouTube等の動画配信でも一般の人が視聴することは叶(かな)わない。残念なことだ。

ブラックパワーサリュートからBLMへ
 もっとも講義(トークイベント?)のフライヤー(チラシ)はネットで公開されている。

今福龍太+上野俊哉2022W杯を学び逸れる」2022年12月21日(水)
【「2022W杯を学び逸れる」のフライヤー(チラシ)】同PDF版

 今福龍太氏と上野俊哉氏がこの講義(トークイベント?)で、実際に何を話したのかは分からない。けれども、フライヤーに書かれてある煽り文句だけでも、読んでいて何だかいろいろ茶々を入れたくなってくるではないか。

 >アスリートが政治的な主張、表現をして何が悪いの?

 従来、アスリートがスポーツの場で政治的な主張・表現をすることはタブー視されてきた。有名な出来事として、1968年メキシコ五輪における「ブラックパワーサリュート」という事件があるが、当事者であるアメリカの黒人選手2名はすぐさま選手村を追放され、アメリカ選手団からも外されている。

ブッラクパワーサリュート@1968メキシコ五輪
【ブラックパワーサリュート:1968年メキシコ五輪】

 当時は、米ソ対立の東西冷戦時代(1945年~1989年)の真っただ中であり、スポーツを政治から切り離そうという共通理解が存在していた。アスリートの政治的な主張・表現を許容していたら、各国、各立場の政治スローガンやイデオロギーの発露の場になって最終的には収拾がつかなくなるからである。

 ところが最近になって、直接のきっかけは2020年にアメリカで勢いを得たBLM(Black Lives Matter,黒人差別反対運動)だと思われるが、女子テニスの大坂なおみやモータースポーツ(F1)のルイス・ハミルトンなどのように、BLMへの共感・賛同の意をスポーツの場でさかんに表現するアスリートが出てきた。

 それはアスリートの政治的な主張・表現以外の何物でもない。タブーが緩んできているのである。

 山本敦久氏(成城大学教授,スポーツ社会学,カルチュラルスタディーズ)という、今福龍太氏の舎弟みたいな人がいるが、この人は〈彼ら彼女らは,権力や資本主義による支配と戦い,抵抗を表現し,声を挙げることに目覚めた〉……といった具合に、かかる風潮を煽っている。

 今福龍太氏や上野俊哉氏のくだんの講義(トークイベント?)では、この流れに棹(さお)差して「アスリートが政治的な主張,表現をして何が悪いの?」という議題設定をしたようである。

政治的主張・表現をして試合に負けたドイツ代表
 もちろん、アスリートが個人として政治的な関心や思想を持ってはいけないという人などいない。アスリートは権力の支配に従順であれと言っているわけでもない。

 しかし、それをスポーツの場で主張・表現することや、今福龍太氏や上野俊哉氏あるいは山本敦久氏のようにその実践を称揚したりすることには、さまざま矛盾をはらんでいるため、否定的な考えを持つスポーツファンは少なくない。なぜなら……。

 第一に、アスリートたちは一義的にスポーツをしに来ているはずであって、政治的な主張や表現に来ているのではないからである。スポーツファンも一義的にスポーツを見に来ているのであって、彼ら彼女らの政治的な主張や表現を拝みに来ているわけではないからである。

 2022年カタールW杯のドイツvs日本戦では、ドイツ代表がキックオフ直前に、開催国カタールに対する政治的な主張・表現(人権問題批判のパフォーマンス,キックオフ直前の集合写真で口をふさぐ行為)をしたが、肝心の試合では格下の日本に逆転負けを食らってしまう……といった出来事があった。

 これは何ともバツが悪かった。

 同じくカタールW杯に出場していたベルギー代表の主将エデン・アザールは、この話題に感想を求められて「彼ら(ドイツ代表)はそんな行為をせず,(試合に)勝ったほうが良かっただろう.我々はサッカーをするためにここにいるのであって,政治的なメッセージを送るためにここにいるのではない」と答えた。
  • 参照:サッカーダイジェストWeb「ベルギー代表主将エデン・アザール,FIFA批判→日本に足をすくわれたドイツ代表をチクリ〈我々は政治的なメッセージを送るためにいるのではない〉【カタールW杯】」(2022年11月25日)https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=121257
 まさか、ドイツは日本に負けるとは思っていなかったのかもしれない。が、この結果では、ドイツ代表はサッカーの試合をしに来たのか、政治的な主張・表現をしに来たのか、どっちなのだ? ……という批判や揶揄の声は出てくる。

ドイツのダブルスタンダード,あるいは差別
 第二に、この手の政治的な主張・表現は偽善的だと見なされることがあるからである。カタールW杯でも、そのような出来事がいくつかあった。

 サッカードイツ代表は、カタールW杯でイスラム教国カタールの人権問題を批判するパフォーマンス(政治的な主張・表現)を行った。だが、同時期、ドイツは産油国カタールの国営エネルギー会社からLNG(液化天然ガス)を購入、2026年から15年間、年間最大で200万トンの供給を受けることになった……という発表があった。
  • 参照:ロイター「ドイツ,カタール産LNG購入へ 経済相〈15年契約に満足〉」(2022年11月29日)https://jp.reuters.com/article/climate-change-germany-idJPKBN2SJ0TT
  • 参照:NHK「ドイツ カタールから長期間LNG供給 ロシア依存から脱却に向け」(2022年11月30日)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221130/k10013907911000.html
 これには当然、一方でカタールの人権問題をさんざん批判しておきながら、一方でカタールからエネルギーの供給を受ける。これはドイツのダブルスタンダードであり、偽善ではないかとの批判が出てくる。

 あるいは、カタールW杯スペインvsドイツ戦のスタンドでは、元ドイツ代表メスト・エジルの写真や似顔絵を掲げ、加えて自分の口を手でふさぐ行為をしたカタールのファンがいた。

 お前たちドイツも、トルコ系ドイツ人でイスラム教徒のメスト・エジルをさんざん差別しただろう……という当てこすりのパフォーマンスである。
  • 参照:日刊スポーツ「【W杯】ドイツ代表の口元隠し行為へカタールのファン〈反撃〉「移民」エジル写真掲げる」(2022年11月28日)https://www.nikkansports.com/soccer/qatar2022/news/202211280000526.html
 さらに……、これは気分が悪くなる。日本vsドイツ戦でドイツが敗れた後、ドイツのテレビのニュース番組で、ドイツ人の解説者が、そのときに日本についてお辞儀をしているような素振りを見せ、東アジア人(中国,韓国,日本ほか)を差別する用語「チンチャンチョン」という言葉を発した……というものだ。
  • 参照:ドイツニュースダイジェスト「ドイツのサッカーコメンテーターが日本人差別発言~メディアからの謝罪は不十分?」(2022年12月7日)http://www.newsdigest.de/newsde/news/panorama/13337-2022-12-07/

【[チンチャンチョン]ドイツテレビメディアによる日本人差別発言[ナチス]/Discriminatory statements against Japanese by German TV media】

 余所様(よそさま)の差別的行為や言動に厳しい姿勢で臨むというならば、自分たち(ドイツ)こそそのような言動や行為をしてはならないはずだ。

カタールW杯で「アメリカvsイラン」が成立した理由
 ひょっとしたら「政治的」な問題ではなく「人権問題」ならば、スポーツの場の運営ルールを破ってでも主張・表現してもいい……という日本人が、前述の大坂なおみやルイス・ハミルトンの行動あたりから増えているのかもしれない。

 それならば、今後、日本で行われるスポーツの国際大会では「日本は人権侵害国!」「入管の外国人差別!」「技能実習生虐待!」「死刑存置国!」「同性婚を認めろ!」「慰安婦問題!」……などと、アスリートが会場で騒ぐのを許容するということになる。

 「人権問題」だから。

 それはともかく、大なり小なり人権問題はどこの国でもあるから、欧米の意識高い系「人権大国」のスポーツの場でも「〇〇系移民の人権を認めろ!」くらいのパフォーマンスは出てくるだろう。だから……。

 ……第三に、スポーツの国際大会でアスリートによるこの手の人権パフォーマンス(実はそれは「政治的な主張・表現」以外の何物でもない)を許容すると、だんだん、どこからどこまでの抗議が正当化できるのか正当化できないかの線引きができなくなる。

 そして、各国、各立場の政治スローガンやイデオロギーの発露の場になってしまい最終的には収拾がつかなくなるからである。

 結局、この問題は、前述の「ブラックパワーサリュート」の昔から変わっていない。

 政治的な主張や表現を禁じて切るからこそ、スポーツでは政治的に対立しているインドとパキスタン、日本と北朝鮮、アメリカとイランが同じ場に立てる。

 2022年カタールW杯では、その「アメリカvsイラン」の試合が実現した。試合前、英国メディアの一部は「代理戦争だ」などと煽り立て、不穏な空気も漂ったという。

 しかし、実際の試合では両国の選手はアスリートとして互いをリスペクトし、フェアプレーに徹した。両国のサポーターも互いを称えあう様子が見られた。両国の間に反感のようなものは見られなかった。
  • 参照:サッカーダイジェストWeb「アメリカvs.イランの一戦,両国サポの交流に中東メディアが感嘆〈国歌ではお互いにリスペクト〉〈ファン同士はセルフィ―を撮っていた〉【W杯】」(2022年11月30日)https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=121789
 この試合を無事に終えることができたのは、サッカーでは政治的主張・表現が禁じられていたからだ。そうでなかったら、試合は殺伐となりラフプレーが横行し、冗談抜きでスタンドではサポーター同士による流血沙汰の乱闘・暴動が起こっていたかもしれない。

 実際に過去、サッカーではワールドカップ大陸予選の試合がきっかけとなって戦争が勃発したこともあり、特に後者について、FIFA(国際サッカー連盟)としてはそれは避けなければならなかった。

FIFAの妥当な判断
 もちろん、アスリートがスポーツの場を離れて個人として発信するなら話は別である。

 しかし、サッカーファンは、ワールドカップでサッカーが見たいのであって、(偽善的な?)政治的主張・表現が見たいのではない。

 たとえ国際社会の問題だったとしても、サッカーやワールドカップとは別の機会に語るべきだし、それはサッカーやワールドカップのついでに語れるほど軽い話でもない。

 カタールW杯でのFIFAの判断は妥当なものであった。





続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 生島淳氏の著作『箱根駅伝』(2011年)、その中で「山の神」と讃えられたランナー・柏原竜二(東洋大学―富士通)をめぐる記述で面白い箇所があった。
 スポーツの世界で人気が出る要因として、最近は「ルックス」もかなり重視されている。サッカー選手の醸し出す雰囲気は商品価値へと直結している。その点、柏原〔竜二〕は完全に競技力のみで視聴者〔ファン〕をがっちりつかんだ。

生島淳『箱根駅伝』50頁

箱根駅伝 (幻冬舎新書)
生島 淳
幻冬舎
2011-11-29


 さて、ここで言う「醸し出す雰囲気が商品価値へと直結しているサッカー選手」とは、誰だろう? 何といっても俺たちの中田英寿である。

俺たちの中田英寿1
【俺たちの中田英寿(1)】

俺たちの中田英寿2
【俺たちの中田英寿(2)】

 未だ「中田英寿」を超える日本人サッカー選手は出てこない……と言われる。あるいは、そう思われている。

 そんなことはない。

 ドイツ・ブンデスリーガで活躍した奥寺康彦はフランツ・ベッケンバウアーが絶賛した選手だし、ワールドカップ本大会での活躍ならば本田圭佑の方が上である。冨安健洋はイングランドの名門アーセナルFCのレギュラーとして現在進行形で活躍中である。

 中田英寿程度の活躍をした日本人サッカー選手ならザラにいる。

 にもかかわらず、中田英寿があたかも特権的な存在に見えてしまうのは、まさに「醸し出す雰囲気を商品価値に直結させた」からだ。

 「醸し出す雰囲気を商品価値に直結させた」ことで、実体は明らかでないのに、長い間人々によって絶対のものと信じこまれ、称賛や畏怖の目で見られてきた中田英寿。

 まったく中田英寿神話とは「神話」でしかない。
  • 参照:NAKATA神話は時々メンテナンスされる~フランチェスコ・トッティと中田英寿(2020年02月08日)https://gazinsai.blog.jp/archives/39853481.html
 そんな中田英寿の「神話」の実体を解きほぐした研究。スポーツ社会学でも、カルチュラルスタディーズでも、メディア研究でもいい。そんな著作(研究書?)があるならば、当ブログは読みたい。

 その「神話」を解体すれば、中田英寿を越える(超える)日本人サッカー選手など珍しくなくなる。

 中田英寿の公平な評価は「ジョホールバルの歓喜のプレイヤー・オブ・ザ・マッチ」……これだけで十分である。〔文中敬称略〕

(了)




このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 大晦日恒例の歌番組「NHK紅白歌合戦」(紅白)を視聴するのが苦痛になってしまって何年経つだろうか? そんなわけで、2021年の紅白も視ていない。

 なので、番組自体には何の感想もないのだが、紅組から出場したBiSHなる女性アイドルグループ(?)の歌が下手すぎた、放送事故級の音痴だったという評判が聞こえてきた。

 これも、本来は「だから何だ」とスルーして終わるのだが、BiSH音痴事件が聞き捨てならなかったのは、モモコグミカンパニーというBiSHのメンバーの人がICU=国際基督教大学の卒業で(結構な学歴ですな)、その卒論の指導教官が有元健ICU上級准教授だったということである。
  • 参照:モモコグミカンパニーの居残り人生教室「大学の恩師と語った幸せの話」(2019/05/09)https://rollingstonejapan.com/articles/detail/30797/1/1/1
 有元健氏といえば、『サッカーの詩学と政治学』や『日本代表論』などの著作で、カルチュラルスタディーズの観点からサッカーを社会学してきた人である。

サッカーの詩学と政治学
人文書院
2005-10-01


日本代表論
有元健 山本敦久
せりか書房
2020-04-15


 一応サッカーファンである当ブログは、だから、BiSHのことがほんの少しだけ気になったのだ。

 まぁ、紅白で「BiSHの放送事故級の歌下手,音痴」事件がバズったのは、BiSHとそのファンの「内輪」の間では認められてきたこと<1>が、NHK紅白歌合戦という、その外側にある「社会」(否「世間」とでも呼ばなければならないのか?)に晒(さら)されて、しかし社会的に認められずに拒絶反応が起こったということではないかと思う。

(了)




続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

カルスタとは「学問」か? はたまた「思想」か?
 せりか書房刊『日本代表論』。この本の編者は、有元健氏(国際基督教大学上級准教授)と山本敦久氏(成城大学社会教授)。ともに専門はカルチュラルスタディーズとスポーツ社会学である。

日本代表論
有元健 山本敦久
せりか書房
2020-04-15


 カルチュラルスタディーズは、ややもすると「学問」から逸脱して政治的な「思想」へと流れやすいと言われているが、両者にもそうした傾向がある。

簡単には死なないスポーツ国民性言説
 有元健氏による「第1章 サッカー日本代表と〈国民性〉の節合」は、日本のサッカー論壇に深く根付いた、日本のサッカーと日本人の「国民性」を論じる日本人論の通説との絡み合いを解きほぐした言説史である。

 有元論文は、かつて主流だった「そもそも日本人の〈国民性〉はサッカーとは愛称が悪い」といった自嘲的で否定的な論調は影を潜め、肯定的な論調へと転じ、それはまたサッカー日本代表をして日本人の排外的ナショナリズムを煽る危うさがあると指摘している。

 その指し示すところを軽視するものではないが、しかし、自嘲的で否定的な日本サッカー言説そのものは鎮火していない。事実、日本代表が「惨敗」した2014年ブラジルW杯では、これが再着火し、サッカー論壇やSNSは「やっぱり日本人の〈国民性〉はサッカーとは相性が悪いのではないか」という論調で溢れかえった(文芸誌『エンタクシー』第42号ブラジルW杯特集ほか参照)。

 有元論文が2014年ブラジルW杯の時の日本のサッカー言説事情を把握できていないことは、大きな失策である。

 否定的にせよ、肯定的にせよ、日本のサッカー言説の論調は表裏一体であり、その根本は同一である。国民国家の集合体という世界の在り方が持続し、各国代表チーム同士による試合の人気がある限り、有元論文が希望するように、2020年のうちにスポーツ国民性言説を安らかに眠らせることは出来そうにない。

 むしろ有元健氏に期待したいのは、これまでの研究成果を踏まえた上での、日本サッカーの言説やスポーツ国民性言説に対する不断の観察と批評である。

日本の「代表チーム」文化だけが特異なのか?
 山本敦久氏による「序章〈日本代表〉を論じるということ」には、非常に気になる記述がある。山本敦久氏は、本来スポーツには一時的にせよ日頃のさまざまな束縛を解き放ち、非日常や祝祭へと導く素晴らしい力があると述べている。ところが、日本だけは違うと言うのだ。
 しかし「日本代表」に歓喜し盛りあがる儀礼は、スポーツに内在する祝祭性とは異なるようだ。むしろ、それは周到にパッケージ化された現象となっている。渋谷のスクランブル交差点は、警察によって注意深く管理された空間である。そこは何台ものテレビカメラに囲まれたメディア空間でもある。盛りあがる群衆の映像は、有力なメディアコンテンツそのものである。選手の家族や地元の後援者たちの涙も「日本代表」に感動するというメディアの仕掛けに組み込まれている。

山本敦久『日本代表論』7頁
 山本敦久氏は以前から「世界」の中で「日本」だけを特異視する傾向があった<1>が、しかし、この言い分には首を傾げる点が多い。山本敦久氏が「序章」で述べる代表チーム(日本ならば日本代表)をめぐる現象の数々は、他の国でも、フランス代表でも、クロアチア代表でも、ベルギー代表でも、ブラジル代表でも……、おおむね同様のものである。日本代表はプレー同様、その社会的な在り方も「世界」を模倣するか学習するかしたのだ。

 だいたい21世紀にもなって「周到にパッケージ化された現象」でないスポーツイベントなど、日本に限らず、世界のどこにも存在しない。

 例えば、山本敦久氏は「盛りあがる群衆の映像は,有力なメディアコンテンツそのものである」と言うけれども、実はそうした映像は、Jリーグ以前、大方の日本人には想像が及ばない海外サッカーやW杯の人気ぶりや熱狂を紹介するために、日本向けにさんざん流された映像だった。日本のマスメディアはその手法を追随しただけである。

 そうした「有力なメディアコンテンツ」の中には、かつて猛威をふるった「フーリガン」=暴徒化したサッカーファンの暴動もあった。日本の当局は、2020年日韓W杯のセキュリティ担当、つまり警察の高級官僚をサッカーの本場・英国に派遣して、フーリガン対策ほか、サッカーの試合やイベントの警備のやり方を学ばせている。日本の警察にサッカー関連の警備のノウハウなど無かったのであって、これすべて「日本」が「世界」に倣ったものである。

フーリガン戦記
ビル ビュフォード
白水社
1994-06-01


 加えて、英国は国内に約420万台もの防犯カメラが設置され、世界的に最も防犯カメラの整備が進んでいる国と言われている。英国人は1人1日およそ300回も防犯カメラに撮影されるという。

 つまり、英国ロンドンのトラファルガー広場であろうと、東京・渋谷のスクランブル交差点であろうと<2>、W杯などサッカーの巨大イベントにおける群衆の盛り上がりが「警察によって注意深く管理された空間であ」り、「何台ものテレビカメラに囲まれたメディア空間でもあ」り、「有力なメディアコンテンツそのものであ」り、「周到にパッケージ化された現象となっている」ことに変わりはないのだ。

日本は「世界」とは異なり,かつ劣っている?
 自然科学の現象とは違って、文化的な現象は世界中どれひとつ同じものはない。だからこそ、社会学者や文化人類学者は、普遍性と特殊性、その「腑分け」(分析)を読者にキチンと示してみせなければならない。ところが、山本敦久氏は、いかに紙数が限られた「序章」とは言えども、スポーツの代表チームをめぐる「世界」と「日本」、両者の情況の何が違うのか? 具体的な説明をしてくれないのである。

 その点には大いに不満がある。

 サッカーにせよ、野球にせよ、スポーツジャーナリズムや通俗スポーツ評論の世界では「日本は〈世界〉とは異なる,かつ劣っている」というクリシェ(常套句)がまかり通っていた(玉木正之氏とロバート・ホワイティング氏の共著『ベースボールと野球道』ほか)。あるいは今なおまかり通っている。

 山本敦久氏の「序章」を読むにつれ、まさかスポーツ社会学やカルチュラルスタディーズのスポーツ学の界隈でも、そうした言説が何の学問的吟味もなしにそのまま暗黙の了解で通ってしまうのだろうか? それは学問として問題ではないのか?

創られた伝統(?)としてのスポーツ日本代表史
 W杯や五輪ともなれば各種スポーツ競技の日本代表は「世界」に挑む。「世界」と戦う。だが、惨敗すれば、そこには「世界」の壁がある。こうした世界観は、幕末・明治この方の日本人の心性と合致していた。……そんなイメージは、実は正しくない。「スポーツで日本代表に熱狂する日本人,そのナショナリズム」という現象は歴史的に新しい。

 なぜなら、明治時代(19世紀)より長らく日本で人気随一のスポーツだった「野球」では、代表チームによる国際試合や世界大会が、事実上、存在しなかったからである。21世紀の今日、一応WBC=ワールドベースボールクラシックというイベントは存在するが、サッカーやラグビーのW杯と違って全くオーソライズされていない。

TEST MATCH
宿沢 広朗
講談社
1991-12T


 1964年バレーボール女子日本代表(東洋の魔女)や1972年スキージャンプ男子日本代表(日の丸飛行隊)といった、その時々で注目される「日本代表」はあったが、恒常的に国民的関心を集める日本代表となると、Jリーグとほぼ同時期にスタートしたオフト・ジャパン(1992~1993年)のサッカー日本代表以降に定着した新しい現象である。

 スポーツ社会学の論文集である『日本代表論』には、こうした基本的な事柄に触れた論考がなかった。これは残念なことである。コレコレという物事は実は歴史的に新しい……といった議論が多いとされるカルチュラルスタディーズの本としては、皮肉じみている。

 『日本代表論』は、専門家あるいは日本のスポーツの在り方について深く考えたいスポーツファンが、これを考えるための「たたき台」としての一冊、という位置づけだろうか。

(了)




続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

スポーツの政治利用をタブー視した理由とは?
 昨今の米国で深刻化している黒人差別反対運動(Black Lives Matter=BLM)。その「BLMにスポーツの場において共感・賛同しない日本・日本人は〈世界〉の中で後れをとっている」式の発言をしているのが、例の広尾晃氏である。
 日本の国では「アスリートが政治的発言をするのは良くない」という、西側自由主義圏では極めて特殊な観念が大きくのさばっている。

 最近ますます劣化が激しい広尾晃氏ごときに、日本をひとまとめにされて「劣化が激しい」などと否定される云(い)われもないと思うが。ともかく、氏に発言のように「アスリートが政治的発言をするのは良くない」という観念は、もともと日本独自のものではない。

 「アスリートの政治的発言・主張・行動」と言えば有名なのが、米国内で黒人の公民権運動が激化していた1968年、同年メキシコ五輪陸上男子200メートルの表彰式で抗議行動に出た米国黒人選手2名がすぐさま選手村を追放され、米国選手団からも外された「ブラックパワーサリュート」事件である。

ブッラクパワーサリュート@1968メキシコ五輪
【ブラックパワーサリュート:1968年メキシコ五輪】

 BLMの勃興と激化で、最近「ブラックパワーサリュート」事件が再脚光・再評価され、神話化すらしているが、なぜ、この米国の黒人選手2名がメキシコ五輪から追放されたのか? なぜ、アスリートが競技の場で政治的発言・主張・行動をしてはいけなかったのか?

 「そこには,〔東西〕冷戦時代〔=米ソ対立〕の真っただ中でスポーツを政治や思想から切り離そうという共通認識が存在していた」からだったと説明してくれたのが、スポーツライターの武田薫氏であった。ようやくこれで納得した。
 一方、最近「ブラックパワーサリュート」の神話化に掉(さお)差している人に、カルチュラルスタディーズ系スポーツ社会学者の山本敦久氏(成城大学教授)がいる。

 氏の著作『ポスト・スポーツの時代』で、アスリートの政治的主張について論じた「第5章 批判的ポスト・スポーツの系譜~抵抗するアスリートと〈ソーシャル〉の可能性」には、そうした東西冷戦時代という時代的・社会的背景という話は、全く出てこない。

ポスト・スポーツの時代
敦久, 山本
岩波書店
2020-03-28


 山本敦久氏は、「ブラックパワーサリュート」の当事者トミー・スミスとジョン・カーロス(あるいは2人に同調した白人豪州人選手ピーター・ノーマン)、あるいは彼らに倣(なら)ったコリン・キャパニック(アメリカンフットボール,元NFL)や大坂なおみといった、昨今の政治的主張をする黒人アスリートを、ただただ肯定するばかりである。

 もっとも、山本敦久氏にとってスポーツ社会学とは「学問」というより「思想」であり、カルチュラルスタディーズ(カルスタ)とは、多分に「思想」や政治的アジテーションを含めて語るアカデミズムの一流派なのだから、かえって説明が片手落ちになるのかもしれない(それにしても,あれではどっちが「学者」の解説なのかよく分からない)。

「白人」が黒人アスリートの発言力を強めた皮肉
 今になって、政治的主張をするアスリートが目立つようになったのは何故なのか? 山本敦久氏ならば「彼ら彼女らは,権力や資本主義による支配と戦い,抵抗を表現し,声を挙げることに目覚めた」……とでも言うのかもしれない。全く別の見方を武田薫氏は「日刊ゲンダイ電子版」で展開している。
 大坂なおみ選手のBLMアピールの行動は、その是非はともかく、これまでの常識ではスポーツの政治利用ということになる。世界にはあらゆる差別があり、(あからさまなレイシストでもない限り)人種差別を肯定する人はいない。ただ、BLMに限ればかなりの米国固有の事情で、アジアや日本での理解には限界がある。

 ちょっと脇道にそれるが、BLMは他の欧米諸国の人(例えば英国人ジャーナリストのコリン・ジョイス氏)ですら違和感を感じるものらしい。
 話を戻して、プロスポーツは(ある意味で)人種差別の舞台ではない。むしろ黒人がマジョリティーである。NBA(米国プロバスケットボール)では8割、NFL(米国プロアメリカンフットボール)では7割、マラソンではトップ100の9割を黒人を占める。黒人アスリートなしでは、現代の世界のスポーツ文化は成立しない。

 また、大坂なおみ選手をはじめ黒人アスリートの抗議行動は、現在のスポーツが持つ発信力に由来する。その源泉は、1980年代、スポーツやオリンピックにおけるアマチュア/プロフェッショナルの垣根を取り払い、アスリートのプロ化、スポーツの国際化・興行化を進め、競技レベルを飛躍的に向上させたIOC≒オリンピック・ムーブメントである。<1>

 つまり、黒人アスリートの発言力が強まったのは、スポーツや世界の「権力」や「資本主義」を牛耳る「白人」の側の働きかけの結末だったとというのだ。これは皮肉だ。山本敦久氏は複雑な思いを抱くかもしれないが、両者は糾(あざな)える縄のような関係でもあるのだ(いったい,どっちが「学者」なのか分からないですね)。

 とにかく山本敦久氏がイデオロギー的な視点から黒人アスリートの言動を語っているのに対し、武田薫氏は世界スポーツの政治的・経済的・構造的要因を語っている。
 ただし、大坂なおみが訴える人種差別問題〔BLM〕は根深く、歴史的かつ構造的で、プロ化を下支えした白人による資本主義さえ否定しかねない。どう落とし前をつけるか。コロナによる中断は新たな火種を持ち込んだ。

武田薫「大坂なおみの行動はスポーツの政治利用で五輪プロ化の帰結」
 本当に、どう落としどころ(落とし前)を持っていくのか? 例えば、2021年開催予定の東京オリンピック2020では、どうするのか?

 例えば、開会式のオリンピック宣誓の文言にアンチレイシズム(反人種差別)を盛り込むとか、サッカーFIFAの世界大会でやっているように、試合前に選手の代表者にアンチレイシズムを呼びかけるスピーチをするとか。その上で、選手独自の行動は慎むようにさせるとか。

 浅学非才な素人には、この程度しか思い浮かばない。巷間にはもっといい知恵があるのだろうけれども。そんなこと以前に、やっぱりコロナ禍で東京オリンピック2020は開催できないのではないかと思うが……。

(了)




続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ