- 前回のおさらい:VAR判定がフットボールをダメにする?~今福龍太と上野俊哉(3/4)(2023年01月14日)https://gazinsai.blog.jp/archives/48256010.html
現代思想とカルスタによるカタールW杯論
カタールW杯が終わったすぐ後の2022年12月21日、和光大学で今福龍太氏(特任教授,文化人類学,現代思想家,批評家)と上野俊哉氏(教授,カルチュラルスタディーズ)による、カタールW杯にちなんだ講義(トークイベント?)が行われた。
今福龍太+上野俊哉「2022W杯を学び逸〔そ〕れる」2022年12月21日(水)
フランス大会くらいからだろうか。今福龍太と上野俊哉はW杯のたびにパブリックビューイングの場をもったり、フットボールの試合や文化の細部について言葉を交わしてきた。コロナ以降、和光大学でなかなか即興的対話の機会を公的にもてなかった二人が2022W杯を語る。日時・場所2022年12月21日(水)First Half:13:00~14:30 J201Second Half:14:40~16:10 J401https://www.wako.ac.jp/news/2022/12/1221-2022wc.html
やれやれ、またまた現代思想(今福龍太氏)とカルスタ(上野俊哉氏)による現代サッカー批判、勝利至上主義批判、近代主義批判、現代文明批判、ナショナリズム批判、国民国家批判……か。
……とも思ったが、まぁ、いろんな意味で(笑)面白そう! しかし、この講義(トークイベント?)は学生以外には非公開のものらしく、YouTube等の動画配信でも一般の人が視聴することは叶(かな)わない。残念なことだ。
ブラックパワーサリュートからBLMへ
もっとも講義(トークイベント?)のフライヤー(チラシ)はネットで公開されている。
今福龍太氏と上野俊哉氏がこの講義(トークイベント?)で、実際に何を話したのかは分からない。けれども、フライヤーに書かれてある煽り文句だけでも、読んでいて何だかいろいろ茶々を入れたくなってくるではないか。
>アスリートが政治的な主張、表現をして何が悪いの?
従来、アスリートがスポーツの場で政治的な主張・表現をすることはタブー視されてきた。有名な出来事として、1968年メキシコ五輪における「ブラックパワーサリュート」という事件があるが、当事者であるアメリカの黒人選手2名はすぐさま選手村を追放され、アメリカ選手団からも外されている。
当時は、米ソ対立の東西冷戦時代(1945年~1989年)の真っただ中であり、スポーツを政治から切り離そうという共通理解が存在していた。アスリートの政治的な主張・表現を許容していたら、各国、各立場の政治スローガンやイデオロギーの発露の場になって最終的には収拾がつかなくなるからである。
ところが最近になって、直接のきっかけは2020年にアメリカで勢いを得たBLM(Black Lives Matter,黒人差別反対運動)だと思われるが、女子テニスの大坂なおみやモータースポーツ(F1)のルイス・ハミルトンなどのように、BLMへの共感・賛同の意をスポーツの場でさかんに表現するアスリートが出てきた。
それはアスリートの政治的な主張・表現以外の何物でもない。タブーが緩んできているのである。
山本敦久氏(成城大学教授,スポーツ社会学,カルチュラルスタディーズ)という、今福龍太氏の舎弟みたいな人がいるが、この人は〈彼ら彼女らは,権力や資本主義による支配と戦い,抵抗を表現し,声を挙げることに目覚めた〉……といった具合に、かかる風潮を煽っている。
今福龍太氏や上野俊哉氏のくだんの講義(トークイベント?)では、この流れに棹(さお)差して「アスリートが政治的な主張,表現をして何が悪いの?」という議題設定をしたようである。
政治的主張・表現をして試合に負けたドイツ代表
もちろん、アスリートが個人として政治的な関心や思想を持ってはいけないという人などいない。アスリートは権力の支配に従順であれと言っているわけでもない。
しかし、それをスポーツの場で主張・表現することや、今福龍太氏や上野俊哉氏あるいは山本敦久氏のようにその実践を称揚したりすることには、さまざま矛盾をはらんでいるため、否定的な考えを持つスポーツファンは少なくない。なぜなら……。
第一に、アスリートたちは一義的にスポーツをしに来ているはずであって、政治的な主張や表現に来ているのではないからである。スポーツファンも一義的にスポーツを見に来ているのであって、彼ら彼女らの政治的な主張や表現を拝みに来ているわけではないからである。
2022年カタールW杯のドイツvs日本戦では、ドイツ代表がキックオフ直前に、開催国カタールに対する政治的な主張・表現(人権問題批判のパフォーマンス,キックオフ直前の集合写真で口をふさぐ行為)をしたが、肝心の試合では格下の日本に逆転負けを食らってしまう……といった出来事があった。
これは何ともバツが悪かった。
同じくカタールW杯に出場していたベルギー代表の主将エデン・アザールは、この話題に感想を求められて「彼ら(ドイツ代表)はそんな行為をせず,(試合に)勝ったほうが良かっただろう.我々はサッカーをするためにここにいるのであって,政治的なメッセージを送るためにここにいるのではない」と答えた。
- 参照:サッカーダイジェストWeb「ベルギー代表主将エデン・アザール,FIFA批判→日本に足をすくわれたドイツ代表をチクリ〈我々は政治的なメッセージを送るためにいるのではない〉【カタールW杯】」(2022年11月25日)https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=121257
まさか、ドイツは日本に負けるとは思っていなかったのかもしれない。が、この結果では、ドイツ代表はサッカーの試合をしに来たのか、政治的な主張・表現をしに来たのか、どっちなのだ? ……という批判や揶揄の声は出てくる。
ドイツのダブルスタンダード,あるいは差別
第二に、この手の政治的な主張・表現は偽善的だと見なされることがあるからである。カタールW杯でも、そのような出来事がいくつかあった。
サッカードイツ代表は、カタールW杯でイスラム教国カタールの人権問題を批判するパフォーマンス(政治的な主張・表現)を行った。だが、同時期、ドイツは産油国カタールの国営エネルギー会社からLNG(液化天然ガス)を購入、2026年から15年間、年間最大で200万トンの供給を受けることになった……という発表があった。
- 参照:ロイター「ドイツ,カタール産LNG購入へ 経済相〈15年契約に満足〉」(2022年11月29日)https://jp.reuters.com/article/climate-change-germany-idJPKBN2SJ0TT
- 参照:NHK「ドイツ カタールから長期間LNG供給 ロシア依存から脱却に向け」(2022年11月30日)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221130/k10013907911000.html
これには当然、一方でカタールの人権問題をさんざん批判しておきながら、一方でカタールからエネルギーの供給を受ける。これはドイツのダブルスタンダードであり、偽善ではないかとの批判が出てくる。
あるいは、カタールW杯スペインvsドイツ戦のスタンドでは、元ドイツ代表メスト・エジルの写真や似顔絵を掲げ、加えて自分の口を手でふさぐ行為をしたカタールのファンがいた。
お前たちドイツも、トルコ系ドイツ人でイスラム教徒のメスト・エジルをさんざん差別しただろう……という当てこすりのパフォーマンスである。
- 参照:日刊スポーツ「【W杯】ドイツ代表の口元隠し行為へカタールのファン〈反撃〉「移民」エジル写真掲げる」(2022年11月28日)https://www.nikkansports.com/soccer/qatar2022/news/202211280000526.html
さらに……、これは気分が悪くなる。日本vsドイツ戦でドイツが敗れた後、ドイツのテレビのニュース番組で、ドイツ人の解説者が、そのときに日本についてお辞儀をしているような素振りを見せ、東アジア人(中国,韓国,日本ほか)を差別する用語「チンチャンチョン」という言葉を発した……というものだ。
- 参照:ドイツニュースダイジェスト「ドイツのサッカーコメンテーターが日本人差別発言~メディアからの謝罪は不十分?」(2022年12月7日)http://www.newsdigest.de/newsde/news/panorama/13337-2022-12-07/
【[チンチャンチョン]ドイツテレビメディアによる日本人差別発言[ナチス]/Discriminatory statements against Japanese by German TV media】
余所様(よそさま)の差別的行為や言動に厳しい姿勢で臨むというならば、自分たち(ドイツ)こそそのような言動や行為をしてはならないはずだ。
カタールW杯で「アメリカvsイラン」が成立した理由
ひょっとしたら「政治的」な問題ではなく「人権問題」ならば、スポーツの場の運営ルールを破ってでも主張・表現してもいい……という日本人が、前述の大坂なおみやルイス・ハミルトンの行動あたりから増えているのかもしれない。
それならば、今後、日本で行われるスポーツの国際大会では「日本は人権侵害国!」「入管の外国人差別!」「技能実習生虐待!」「死刑存置国!」「同性婚を認めろ!」「慰安婦問題!」……などと、アスリートが会場で騒ぐのを許容するということになる。
「人権問題」だから。
それはともかく、大なり小なり人権問題はどこの国でもあるから、欧米の意識高い系「人権大国」のスポーツの場でも「〇〇系移民の人権を認めろ!」くらいのパフォーマンスは出てくるだろう。だから……。
……第三に、スポーツの国際大会でアスリートによるこの手の人権パフォーマンス(実はそれは「政治的な主張・表現」以外の何物でもない)を許容すると、だんだん、どこからどこまでの抗議が正当化できるのか正当化できないかの線引きができなくなる。
そして、各国、各立場の政治スローガンやイデオロギーの発露の場になってしまい最終的には収拾がつかなくなるからである。
結局、この問題は、前述の「ブラックパワーサリュート」の昔から変わっていない。
政治的な主張や表現を禁じて切るからこそ、スポーツでは政治的に対立しているインドとパキスタン、日本と北朝鮮、アメリカとイランが同じ場に立てる。
2022年カタールW杯では、その「アメリカvsイラン」の試合が実現した。試合前、英国メディアの一部は「代理戦争だ」などと煽り立て、不穏な空気も漂ったという。
しかし、実際の試合では両国の選手はアスリートとして互いをリスペクトし、フェアプレーに徹した。両国のサポーターも互いを称えあう様子が見られた。両国の間に反感のようなものは見られなかった。
- 参照:サッカーダイジェストWeb「アメリカvs.イランの一戦,両国サポの交流に中東メディアが感嘆〈国歌ではお互いにリスペクト〉〈ファン同士はセルフィ―を撮っていた〉【W杯】」(2022年11月30日)https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=121789
この試合を無事に終えることができたのは、サッカーでは政治的主張・表現が禁じられていたからだ。そうでなかったら、試合は殺伐となりラフプレーが横行し、冗談抜きでスタンドではサポーター同士による流血沙汰の乱闘・暴動が起こっていたかもしれない。
実際に過去、サッカーではワールドカップ大陸予選の試合がきっかけとなって戦争が勃発したこともあり、特に後者について、FIFA(国際サッカー連盟)としてはそれは避けなければならなかった。
FIFAの妥当な判断
もちろん、アスリートがスポーツの場を離れて個人として発信するなら話は別である。
しかし、サッカーファンは、ワールドカップでサッカーが見たいのであって、(偽善的な?)政治的主張・表現が見たいのではない。
たとえ国際社会の問題だったとしても、サッカーやワールドカップとは別の機会に語るべきだし、それはサッカーやワールドカップのついでに語れるほど軽い話でもない。
カタールW杯でのFIFAの判断は妥当なものであった。
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