スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:オシム


「ロストフの14秒」から「ロストフの死闘」への変更
 2018年12月8日、地上波の総合テレビで放送したNHKスペシャル「ロストフの14秒 日本vs.ベルギー 知られざる物語」。放送当初から傑作の呼び声高く、同年12月30日、衛星波のBS1スペシャルで、放送時間を2倍に延長した「完全版」(ディレクターズカットとの説もあり)として放送されると触れ込みだった。

 しかし、サブタイトル(副題)等、なかなか決定が出ず、12月25日にようやく「ロストフの死闘 日本vs.ベルギー 知られざる物語」とネット上で発表された。テレビの電子番組表(EPG)にその情報が反映されたのは、さらに1日経ってからである。
12月30日(日) 午後9時00分
BS1スペシャル「ロストフの死闘 日本vs.ベルギー 知られざる物語」
7月、ロシア・ロストフアリーナで行われたサッカーW杯ベルギー戦。日本は2点を先制するが、終了間際の超高速カウンターでベスト8の夢を打ち砕かれた。選手や監督の証言から浮かび上がってきたのは、一瞬のうちに交錯した判断と世界最高峰の技術、巧妙なワナと意外な伏線。人生を賭けた男たちが全力を尽くし生まれた壮絶なドラマだった。NHKスペシャル「ロストフの14秒」に未編集素材を加えた完全版であの死闘を再現する。

【語り】松尾スズキ

NHK-BS1スペシャル「ロストフの死闘」トップ
【BS1スペシャル「ロストフの死闘」ウェブサイトより】
 サブタイトルは「ロストフの14秒」から「ロストフの死闘」に変更となった。番組のナレーション担当も「14秒」の山田孝之氏(俳優)から、「死闘」では松尾スズキ氏(俳優)に変わった。

 二番煎じな感じを逸(そ)らすためなのか? 「14秒」では、最後の失点ばかりに視聴者の注目がいくと制作側が判断して「死闘」と変えたのか? 「ロストフの14秒」というタイトルは、かつてのNHK特集のスポーツドキュメンタリーの傑作「江夏の21球」のオマージュだと言われたが、実は制作側にそのような意図はなく、あえて敬遠したのか?

 いずれにせよ、この辺の事情は外部の一介の視聴者にはよく分からない。

「ロストフの14秒」の過大視は日本サッカーのミスリードを招く???
 それにしても、2018年ロシアW杯のサッカー日本代表を、決勝トーナメント1回戦のベルギーvs日本戦「ロストフの14秒」のみをクローズアップしてしまうのは、実は危ういのではないか。日本サッカーにミスリードを招くのではないかと、余計な心配をしてしまう。

 思い出してほしいのだが、2018年のサッカー日本代表は(柳澤健氏みたいだね)、4月、フランス国籍の外国人監督ヴァイド・ハリルホジッチ氏が突然更迭されるという「事件」から始まった。ハリル氏更迭の裏には「陰謀」があったのではないか? その力学に担い手は、日本サッカー協会? 電通? アディダスジャパン? キリン? KDDI? 本田圭佑? 香川真司? ……??? サッカーファンはみんな疑心暗鬼になった。

 事の真偽はともかく、ともかくこの一件で熱心なサッカーファンほど白けてしまった。ロシアW杯でも、前回の2014年ブラジルW杯のように3戦全敗するだろう。日本代表は、どうせ惨敗して逃げ帰ってくるさ(本田圭佑は,また逃亡するさ)。1次リーグの対戦相手、コロンビアも、セネガルも、ポーランドも、みんな日本を圧倒する。敵国のエース、ハメス・ロドリゲスも、マネも、レバンドフスキも、みんな日本の守備陣をズタズタにするだろう。みんな、そう思っていた。

 ところが、日本代表は下馬評をくつがえし、初戦コロンビアに勝ち、次戦でセネガルと引き分け、第3戦ポーランドとは一か八かのギャンブルと驚くべき「ゲームズマンシップ」を発揮して、1次リーグを突破した。その延長線上に、あのベルギー戦「ロストフの14秒」が来るのである……。

 ……だとすれば、2018年ロシアW杯のサッカー日本代表(西野ジャパン)の総括と検証の対象は、1次リーグ3試合+ベルギー戦であるべきだ。個人的には、ベルギー戦よりポーランド戦の方がずっと興奮した。あのポーランド戦の「談合試合」は、スポーツマンシップとゲームズマンシップがせめぎ合う非常に興味深い試合だった。NHKスペシャルは、この試合も採り上げるべきだった。

 この「談合試合」には、いろんな意見があっていい。しかし、日本代表はスポーツマンシップに悖(もと)ると一面的に避難している日本の有識者たちは、「ゲームズマンシップ」という概念を、そもそも知らずに論評しているのではないかと思う。

 また、日本はポーランドに勝ち切る力量がなかったと、自嘲気味に日本代表を非難している日本の有識者たちは、そもそもポーランドが既に2敗していて「せめてもの1勝」を確保するために、日本との談合に応じたことを忘れている。

 話を戻して、ベルギー戦は日本にとって「兵站線〔へいたんせん〕が伸びきった試合」であった(1936年ベルリン五輪の「日本vsイタリア」戦も同様の情況)。両国の位置づけも、車のレースにたとえれば、片やベルギーは本気で総合優勝を狙ってくるプロトタイプのワークスマシン、こなた日本は市販車改造クラスでエントリーするプライベーターくらいの違いがあった。

 つまり、「ロストフの死闘」とは言うが、1970年メキシコW杯の「イタリアvs西ドイツ」戦、1982年スペインW杯の「西ドイツvsフランス」戦、1986年メキシコW杯の「フランスvsブラジル」戦のような、ワールドクラス同士の「死闘」とはまた違うのである。

 やはり、2018年ロシアW杯のサッカー日本代表(西野ジャパン)の検証は、1次リーグ3試合+ベルギー戦であるべきではなかったか。ベルギー戦のみの過大視は日本サッカーのミスリードを招きかねないのではないか。

 次回のW杯、カタール大会の本大会には出場すると仮定しても、日本代表は1次リーグを突破できる確度は、まだまだ低いからである。

「オシムの言葉」は正しくないと言ったら正しくない
 NHKスペシャル「ロストフの14秒」、BS1スペシャル「ロストフの死闘」では、いろんな人がコメントしていたが、最も印象強く、しかし違和感があったのはイビチャ・オシムさんのコメントだった。

 試合終了間際、ベルギーのカウンターアタックを受けた時、守りに入っていた日本代表の山口蛍選手がなぜファウル覚悟でタックルに行かなかったのか? ……という問題のシーンについてのオシムさんの発言である。

 以下、該当する発言を「ロストフの14秒」の字幕からテキストに起こす。
〔山口蛍は〕足元に飛び込んで ファウルするしかなかった
それはスポーツマンシップに反する行為で レッドカードになったと思うが
故意のファウルは日本人らしくない
確かにフェアプレーを重視することで 日本人は損をすることが多い
多すぎるかもしれない いや 間違いなく多いだろう
望ましい結果〔勝利〕が得られなくても それが日本人なのだ

元日本代表監督 イビチャ・オシム

イビチャ・オシム「ロストフの14秒」から
【イビチャ・オシム「ロストフの14秒」から】
 日本人はスポーツにおいてフェアプレー(スポーツマンシップ)重視で、「ゲームズマンシップ」が欠落しており、それで損をすることが多い。これは日本人の国民性である(だから,克服できない?)というのだ。

 しかし、2011年女子W杯で優勝した「なでしこジャパン」の岩清水梓(いわしみず・あずさ)選手のように、実に感慨深い「ゲームズマンシップ」(故意のファウル)を発揮して、日本を勝利に導いた例がある。

 こうした事例を検証することなく、オシムさんは「間違いなく多い」などと断言してしまうのだ。

 もっと深刻なのは、ツイッターなどを観察すると、オシムさんの発言を鵜呑みにしている日本人が多いことだ。これこそ「権威に従順な日本人の国民性」で、サッカーにふさわしくないメンタリティである。

 日本の将来が心配になる。

 日本人はコレコレといった国民性、日本人らしく、日本人らしさ……という決め付けが、かえって日本サッカーの可能性を狭めている(狭めてきた)のだ。

 オシムさんの発言を批判した人がはいないのかと思って探したら、少なくとも1人いた。サッカーファンのたまり場としても有名だった、ペルー料理店「ティアスサナ」の江頭満店長である。
オシム監督、それって日本人に対する観察が浅くないですか?




 流石である。いかに「オシムの言葉」でも「日本人」はもう少し、それを批評的に受容するべきではないのか。

 ティアスサナは、2018年いっぱいで閉店してしまう。実に残念なことである。

(了)



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NHKスペシャル
「ロストフの14秒~日本vs.ベルギー 知られざる物語」
今年、あなたの心に最も残ったスポーツの場面は何だろうか。おそらく、多くの人がこのシーンを挙げるのではないだろうか。ワールドカップ決勝トーナメント1回戦、ロシア・ロストフアリーナで行われた、「日本VSベルギー」。後半アディショナルタイムに生まれた14秒のプレー。日本のベスト8進出の夢を打ち砕くとともに、大会ベストゴールのひとつとして世界から絶賛された、ベルギーの超高速カウンターである。

私たちは、日本、ベルギー双方の選手、かつての日本代表監督など、20人以上のキーマンを世界各地に訪ね、この14秒のプレーがどう生まれたのか、答えを探した。浮かび上がってきたのは、一瞬のうちに交錯した判断と世界最高峰の技術、そしてこの瞬間に至るまでの巧妙な罠と意外な伏線…。この一戦に人生を賭けた男たちが、全力を尽くしたからこそ生まれた14秒のドラマだった。

2018年、私たちの記憶に鮮烈に残る、あの瞬間の知られざる物語である。

NHKスペシャル~ロストフの14秒


ロストフの14秒,「オシムの言葉」への強い違和感と異論
 NHKスペシャル「ロストフの14秒」には、リトバルスキーや、ザッケローニなど、いろんな人がコメントしていたが、最も印象強く、しかし違和感があったのはイビチャ・オシムさんのコメントだった。試合終了間際、ベルギーのカウンターアタックを受けた時、守りに入っていた日本代表の山口蛍選手がなぜファウル覚悟でタックルに行かなかったのか? ……という問題のシーンについてのオシムさんの発言である。

 以下、該当する発言を番組の字幕からテキストに起こす。
〔山口蛍は〕足元に飛び込んで ファウルするしかなかった
それはスポーツマンシップに反する行為で レッドカードになったと思うが
故意のファウルは日本人らしくない
確かにフェアプレーを重視することで 日本人は損をすることが多い
多すぎるかもしれない いや 間違いなく多いだろう
望ましい結果が得られなくても それが日本人なのだ

元日本代表監督 イビチャ・オシム

イビチャ・オシム「ロストフの14秒」から
【イビチャ・オシム「ロストフの14秒」から】
 このオシム発言には、例えば武藤文雄氏のように異論を唱える人もいる。


 ちなみに、武藤文雄氏は同年配以上の尊敬するサッカー人に対して、特別に「爺さん」という敬称を付ける。だから「オシム爺さん」とか「マテウス爺さん」とは言う。しかし、以上の理由によって「本田圭佑爺さん」とは言わない。

オシムさんの言う「日本人」に女子は入っていないのか?
 閑話休題。当ブログの異論は別の角度からである。オシムさんの「フェアプレーを重視することで 日本人は損をすることが多い 多すぎるかもしれない いや 間違いなく多いだろう」という指摘は、どれだけ妥当なのか? 実はオシムさんの指摘こそ間違いではないのか。

 この手の「日本人は国民性からして,スポーツ(なかんずくサッカーにおける)マリーシア(ずる賢さ)が足りない」式の話、換言すると「日本人は国民性からして,スポーツマンシップは尊重するが(なかんずくサッカーにおいて)ゲームズマンシップの意識は低い」式の話は、さんざんパラパラ聞かされ、または読まされてきた。そして、その種の発言者がオシムさんだろうが、誰だろうが、みんなうんざりさせられる。

 オシムさんの指摘が正しくない例を「日本人」なら知っている。


 サッカーファンやサッカー関係者なら皆が覚えている。2011年女子W杯決勝「日本vsアメリカ合衆国」戦で、延長後半終了間際、日本女子代表(なでしこジャパン)の岩清水梓(いわしみず・あずさ)選手が、実に「ゲームズマンシップ」あふれるプロフェッショナルファウルで一発レッドカードを食らいながらも、日本は試合をPK戦まで引きずり込み、結果、日本はW杯で優勝したことを。

 オシムさんの基準で言う「日本人」の中に、女子または女性は、なでしこジャパンは、なかんずく岩清水選手は、含まれるのか含まれないのか?

 オシムさんが「ロストフの14秒」で語っていたことは、サッカーそれ自体の議論ではなく、まさしく「日本人論」または「サッカー日本人論」に他ならない。「オシムの言葉」も、最初は「ウサギは肉離れを起こさない」的なウィットが多かったものが、だんだん通俗的な「日本人論」で日本人向けに説教を垂れるような話にシフトしている。

考えよ! ――なぜ日本人はリスクを冒さないのか? (角川oneテーマ21 A 114)
イビチャ・オシム
角川書店(角川グループパブリッシング)
2010-04-10


 その方が商品としては売れるのだろうが、むしろ新鮮味に乏しくなっている。有り体に言えば「オシムの言葉」はつまらなくなっている。

 「日本人論」通念・通説の鋭利な批判で知られるオーストラリア在住の社会学者・杉本良夫教授は「〈日本人論〉の立論において観察対象となるのは,もっぱら男性(男性社会)であって,女性は無視される」と指摘している(次の著作参照)。



 同様に「サッカー日本人論」の世界では、今回のオシムさんの発言がそうであるように、女子サッカーの存在はほとんど無視される。

ラグビー竹山選手の「疑惑のトライ」あるいはゲームズマンシップ
 ラグビーファンならば、全国大学ラグビーフットボール選手権9連覇(2018年12月現在)の帝京大学ラグビー部・竹山晃暉(たけやま・こうき)選手の「あのプレー」を覚えているだろう。

 帝京大ラグビー部8連覇目にあたる大学選手権決勝「帝京大学vs東海大学」戦。試合後半の勘所で、竹山選手は勝負を決定づけるトライを決めた……??? ところが、報道写真を見ると、東海大の選手が先にボールを確保してインゴールに抑えた(=ノートライ)かのように見える。

ラグビー竹山晃暉選手「疑惑のトライ」産経新聞
【竹山選手「疑惑のトライ」産経新聞・電子版2017年1月9日付より】

 それにもかかわらず、この試合でビデオ判定(ラグビーではTMO=テレビジョン・マッチ・オフィシャル)が採用されていないのを幸いに(?)、竹山選手は派手なガッツポーズを作って喜んでみせて、最終的に彼の「トライ」は認められたのであった。

ラグビー竹山晃暉選手「疑惑のガッツポーズ」産経新聞
【竹山選手「ガッツポーズ」産経新聞・電子版2017年1月9日付より】

 一連のプレーは「疑惑のトライ」とも呼ばれた。

 オシムさんの基準で言う「日本人」の中に、竹山晃暉選手は含まれるのか含まれないのか?

オシムさんの「日本人観」はステレオタイプ
 竹山選手の振る舞いは「スポーツマンシップに反する行為」だったかもしれないし、場合によっては反則を取られたかもしれない。そういう批判はあっていい。しかし、竹山選手は「日本人らしくない」などと非難するのは適切ではない。

 当ブログは竹山選手を責める気はまったくない。むしろ「日本人」でも、こんなに「ゲームズマンシップ」または「マリーシア」あふれるアスリートがいることに、不思議な感慨を覚えたのであった。

 オシムさんの「確かにフェアプレーを重視することで 日本人は損をすることが多い 〔しかし〕望ましい結果が得られなくても それが日本人なのだ」という日本人観は、邪気は無くともステレオタイプの偏見といえる。


 要するに、ドイツのサッカーといえば「驚異的な勝負強さと精神力の〈ゲルマン魂〉」、サブサハラ系アフリカ諸国のサッカーといえば「黒人選手の驚異の〈身体能力〉」等々と同じものである。これらの常套句にはある種の偏見が潜んでいる……などと批判される。

 最近はこうした発言には慎重になるのが「世界」の潮流ではなかったか。

 NHKスペシャル「ロストフの14秒」は大変好評だという(当ブログは,ロシアW杯全体の「総集編」や,世紀の談合にして大博打「日本vsポーランド」戦の検証番組も見たい.むろん肯定的な意味で)。ただ、オシムさんの解説は番組のクオリティをほんの少し下げている。

権威に従順な日本人の国民性?
 もっと気になるのが、オシムさんの発言を鵜呑みにしている「日本人」が多いことだ。






 話が矛盾するが、これこそ「権威に従順な日本人の国民性」で、サッカーにふさわしくないメンタリティである。いかに「オシムの言葉」でも「日本人」はもう少し、それを批評的に受容するべきであろう。

 日本人はコレコレといった国民性……という決め付けが、かえって日本サッカーの可能性を狭めている(狭めてきた)からだ。


(了)



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外国人監督が語る「日本人論」を必要以上にありがたがるのは日本サッカー界の悪い癖である(前編) : スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

宇都宮徹壱氏のコラムから「サッカー日本人論」を読む企て
  1. 日本人は(特に欧米出身の)外国人が書いた「日本人論」をありがたがる。
  2. サッカーは「日本人論」あるいは「サッカー日本人論」のネタになりやすい。
  3. サッカー日本代表監督は(欧米出身の)外国人が務めることが多い。
  4. 外国人監督の発言は「日本人論」「サッカー日本人論」としてありがたく受容される。
  5. 外国人監督は「監督」から「評論家」へと変化(へんげ)する。
  6. サッカーメディアは「評論家」になった外国人監督に対して批評精神が働かなくなる。
  7. 結果として日本サッカーに悪い意味でさまざまな影響を与える。

 実際に日本サッカー界が「日本人論」「サッカー日本人論」からどんな影響を受けているのかを具体例で読んでいく。今回、注目したのは宇都宮徹壱氏のコラム「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。だが、私はそこに〈幸運〉を感じた」(2015年6月19日)である。

 タイトルからして外国人監督の言葉をありがたがった「サッカー日本人論」の感がある。
ハリルホジッチを唖然とさせた「日本固有の病」。
【「ハリルホジッチを唖然とさせた〈日本固有の病〉。」より】

 むろん、当ブログは宇都宮徹壱氏に何の他意もない。当エントリーの目的は宇都宮氏を貶めることではない。

 リンク先を読めばわかる通り、宇都宮氏はまぎれもなく「サッカー日本人論」のビリーバーであり、かつ発信者である。サッカーファンはその受容者である。もちろん、日本サッカー界の住人のほとんどが「サッカー日本人論」のビリーバーであり、発信者,受容者である。それ以前に、日本人のほとんどが「日本人論」のビリーバーである。大げさに言えば日本人のほとんどすべてが「サッカー日本人論」のビリーバーなのである。

 あくまで、その「サッカー日本人論」のワン・オブ・ゼムとして、今回は宇都宮氏のコラムを取り上げるということである。この点、ご了解いただければと思う。

惨敗した調教師の言い訳を鵜呑みにするお人好しの馬主=日本サッカー界
 まず宇都宮徹壱氏は、元サッカー日本代表監督アルベルト・ザッケローニ(在任2010‐2014)が、同じく元日本代表監督,岡田武史(在任1997‐1998,2008‐2010)に対して「それにしても、日本の選手が〔日本人が?〕ワールドカップのピッチに立ってなお、死に物狂いで戦わないとは思わなかった」と慨嘆していた……というエピソードを紹介して、驚いてみせる。
 さらりと言っているが、〔この発言は〕実に恐るべき内容である。ザッケローニに率いられた日本代表は、〔…2014年のブラジル・ワールドカップ〕本大会は戦えるはず、と多くの人々が(そして指揮官や選手たちも)楽観していた。〔しかし、結果は惨敗した〕

 昨年のブラジル〔W杯〕における敗因について、ここで多くを語るつもりはない。が、ここで注目すべきは「W杯のピッチに立って、死に物狂いで戦わない選手がいる」ことにザック自身が驚いたという事実である。死に物狂いで戦わない(あるいは、戦えない?)選手がいたことはもちろん問題だが、〔日本人とは?〕そういう選手〔「国民」または「民族」、ないしは「人種」?〕であることを気付かずにザックが23名のリストに選んでしまっていたこと、そしてかように〔日本人の?〕致命的ミスが本大会の試合になって初めて露見したということについては、われわれ〔日本人?〕はただただ当惑するよりほかにない。
 ここですでに、サッカー日本代表の「監督」を日本人論の「評論家」にしてしまい、その発言をありがたがり、批評に曇りが生じ、評価の方向が「監督」から「われわれ日本人」へと逆転してしまう「サッカー日本人論」の現象を見て取ることができる。

 ザッケローニは、自分が手掛けたチーム(2014年サッカー日本代表)を何か他人事のように語っている……かのように読める。日本人である宇都宮氏は、「評論家」ザックの日本人論をありがたく頂戴し、「監督」ザックにはさして落ち度はなく、むしろ問題は選手の側にあったかのように論じている……かのように読める。

 これには違和感がぬぐえない。

 例えれば、それまでのレースで良い成績を残し、期待をされながら肝心のダービーでは惨敗してしまった競走馬がいたとしよう。ザッケローニは、いわばその競走馬を担当した「調教師」である。その「調教師」はレース後、「それにしても、この馬がダービーのターフに立ってなお、死に物狂いで走らないとは思わなかった」などと嘯(うそぶ)く。

 そんな「調教師」のふざけた言い訳を鵜呑みにする、お人好しで間抜けな「馬主」が日本サッカー界なのである。

 つたない記憶によれば、イタリア語で(イタリアはザッケローニの母国である)サッカーの「監督」と競馬の「調教師」は同じ単語「アレナトーレ」であったはずだ。

 しかし、調教師=監督の責任は、「サッカー日本人論」の作法のしたがって、不問に付されたのである。

「日本人の決定力不足」いちばんの解決法とは?
 ザックの次は、当代日本代表監督ヴァイッド・ハリルホジッチ(在任2015‐)である。2015年6月現在、日本代表はワールドカップ・ロシア大会アジア予選で苦戦していた。その理由は……点が取れないからである。またしても日本サッカーの、否、「日本人の決定力不足」である。

 ハリルホジッチは「日本人」のあまりの決定力不足を見て愕然としたのだという。ハリルの指摘を受けた宇都宮徹壱氏は、これを日本人の、「日本固有の病」であるとして、くだんのコラムで以下のような「サッカー日本人論」を展開する。
 日本人選手は……結果が求められる試合で……決定的な場面でシュートを外しまくったり……ということを繰り返す。……これはある種、国民的な悪しき伝統といっても過言ではないだろう。そしてそれは、歴代の外国人監督を悩ませてきた宿痾(しゅくあ)でもあった。
 1998年フランスW杯でシュートを外しまくった城彰二選手、2006年ドイツW杯の「QBK」で絶好のシュートチャンスを外してしまった柳沢敦選手などの事例から、いかにも日本のサッカー選手は、否、「日本人は決定力不足」であるとのイメージが人々の間に沁(し)みついている。


QBK直後のジーコ(左)と柳沢敦
【ジーコ(左)と柳沢敦:急に(Q)ボールが(B)来たので(K)】


 宇都宮氏は「日本人は決定力不足」のイメージを、(欧米出身の)外国人監督ハリルホジッチによる「日本人論」または「サッカー日本人論」という権威付けで語っているのだ。もちろん、その分、ハリルの責任は軽減される。

 ところで、「日本人は決定力不足」という通念は、宇都宮徹壱氏が言うように(宇都宮氏だけではないのだが)本当に「日本固有の病」なのだろうか?

 サッカージャーナリストの後藤健生氏がこんなことをコラムで書いている(「ヨーロッパで鍛えられる日本人FW 日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ」2017年5月1日)。

 2017年、、欧州のサッカーリーグの日本人の若手FWがとても元気だ。大迫勇也、久保裕也、原口元気、武藤嘉紀。2000年代、欧州リーグで通用する日本人選手といえば、中田英寿、中村俊輔,小野伸二と、まずMFと思われていたのに……だ。

 フィジカルコンタクトが激しいゴール前のプレー=FWよりも、日本人には中盤でのプレー=MFの方が向いているのかとも思われた。

 集団主義的な社会,文化である日本からはエゴイスティックな(決定力のある?)FWは育たないとも言われ、画一的な日本の学校教育が原因ではないかとも言われた。さらには「農耕民族の日本人には狩猟民族の欧米人がふさわしいポジション=FWは無理だ」などと馬鹿げた話まで言い出す人までいた。
後藤健生コラム「日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ」
【後藤健生「日本がMFの国と思われていたのは過去の話だ】

 しかし、「日本人」のイメージもすっかり様変わりしてしまった。2022年のカタールW杯の時には「日本には優れたFWはいくらでもいるのに、もう少しMFがいたら……」と言われるようになっているかもしれない……。

 ……では、後藤氏をはじめとするオールドサッカーファンは、1970年代には何と考えていたのか? 「日本人からは他人に使われるFWの好選手,釜本邦茂のような決定力のあるストライカーは出てきても、他人を使うようなポジション=MFの好選手は出てこない」などと語り合っていたのである。

 サッカーにおける「日本人」のイメージは、かくもいい加減で、時代によりこれだけ「ゆらぎ」がある。「日本人だから○○」などと安易に決めつけるべきではないのだ。

 それでも、W杯の大舞台で活躍できない限りは「決定力不足」という「日本固有の病」の克服にはならないと「サッカー日本人論」のビリーバーたちは言うかもしれない。

 宇都宮徹壱氏は、そうした立場に立って、くだんのコラムで「メンタルの弱い日本人」「本番に弱い日本人」「決定力不足の日本人」の対策として、メンタル面でケアの出来るスタッフを日本代表に常駐させるべきだ……という具申をしている。

 しかし、日本のサッカー選手にとって、否、日本人にとって一番のメンタルケアは「サッカー日本人論」の通念通説を批判して、その呪縛を解いてあげることではないだろうか。

それでも、やっぱりジーコのせいだ
 宇都宮徹壱氏は「日本人の決定力不足」には大変な屈託があるらしく(むろん宇都宮氏だけではないはずだが)、くだんのコラムを書いた約1年後、2016年9月6日の時点でこんなツイートをしている。

 この「つぶやき」の数日前、2016年9月1日、サッカー日本代表はロシアW杯アジア最終予選の対UAE腺でまさかの敗戦を喫した。苦杯の理由は、追加点がなかなか取れなかったこと。またしても日本サッカーの、否、「日本人の決定力不足」である。

 思い返すに……。ジーコ(在任2002‐2006)は、日本代表の監督としては戦術的指導をほとんど行わず、選手たちにミニゲームやシュートを中心とした練習メニューを課していた。無為無策ではないかと批判されていたジーコは、実は「決定力不足」という日本人の弱点を十分に理解しており、むしろ、正しかったのではないか……。

 宇都宮氏が嘆息したのはそういう含みである。

 こうした思考自体が、宇都宮氏が「サッカー日本人論」に絡めとられていることを意味する。悪いのは監督ジーコではない。決定力不足の日本人の方だ。実際にジーコは「サッカー日本人論」の作法に従い、2006年ドイツW杯で惨敗した責任を不問に付されている。

 それは違う。やはり責任はジーコにあるのだ……と喝破し、サッカージャーナリストよりも筆鋒鋭くジーコを批判したのは、ラグビー系のスポーツライター藤島大氏であった。
「ジーコのせいだ」 藤島大
すべてジーコのせいだ。ジーコが悪い。ジーコがしくじったから負けた。なぜか。チャンピオンシップのスポーツにおいて敗北の責任は、絶対にコーチ〔監督〕にあるからだ。シュートの不得手なFW〔柳沢敦〕を選んで、緻密な戦法抜きの荒野に放り出して、シュートを外したと選んだコーチ〔監督〕が非難したらアンフェアだ。
 藤島大氏は、「〈監督〉が〈評論家〉になってはいけない」と日本スポーツ界を戒めていた、ラグビーの名将,名伯楽,大西鐡之祐(おおにし・てつのすけ:1916‐1995)の直弟子である。サッカー側が尻込みするなか、藤島氏がこの風潮に抗い、鋭くジーコを批判できたのも、けして偶然ではなく、大西とのつながりが関係がある。

自己成就と矛盾の連鎖
 藤島大氏がわざわざ力説しなければならなかったように、サッカーの勝敗において第一に問責されるべきは監督である……という原則が、日本サッカーにおいては、特に日本代表に関してはなかなか働かない。これまで何度も述べているように、日本では、私たちは外国人監督の発言を「サッカー日本人論」としてありがたがってしまうからである。

 日本のサッカー関係者がありがたがる「サッカー日本人論」は、日本人が日本人であるがゆえにサッカーというスポーツへの適性を著しく欠いている……という、きわめて自己否定的,自虐的な日本サッカー観である。こうしたサッカー観が繰り返し語られ、私たちの自己イメージが刷り込まれる。

 そして、その自己イメージを成就させるかのように、私たち日本人を「代表」するサッカー選手たちは、決定機でシュートを外し、肝心なワールドカップの大舞台で負ける。

 そうした「日本人の決定力不足」や「日本人の勝負弱さ」の克服を……と、サッカージャーナリストたちは唱えるが、それらの主張にはたいてい外国人監督への無答責と、外国人監督の言葉による「サッカー日本人論」がセットで付いてくるので、日本サッカー自己否定的なイメージの刷り込みはかえって繰り返される。そして、日本人の決定力不足や勝負弱さもまた繰り返される。

 こうした矛盾の連鎖が「サッカー日本人論」と日本サッカーの関係にはある。

 外国人監督が語る「日本人論」を必要以上にありがたがるのは日本サッカー界の、やはり悪い癖である。サッカージャーナリストたちは矛盾の連鎖に気が付かないのだ。

(了)


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読んではいけない本ブックガイドより

ロラン・バルト『表徴の帝国』
 外国人が日本論を書くと必要以上にありがたがるのは日本人の悪い癖である。
小谷野敦『バカのための読書術

表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)
ロラン バルト
筑摩書房
1996-11-01



ラグビーの名将が問う「監督」と「評論家」
 日本ラグビーの名将,名伯楽だった大西鐡之祐(おおにし・てつのすけ:1916‐1995)は「監督が評論家になってはいけない」と語っていたらしい。

 なぜなら、スポーツにおいて監督とは、チームを作り、試合においてはチームを指揮する、あくまで「実践者」「責任者」だから。自身が手掛ける対象(チーム)を、あたかも「評論家」のように他人事として語るのはそもそもおかしいし、いろいろ弊害が出るからだ。

 かえりみるに「監督」を「評論家」にしてしまう現象はラグビーよりもサッカーに顕著である。

スポーツの「監督」を日本文化の「評論家」にしてしまう日本サッカーのカラクリ
  1. 前掲、小谷野敦氏のロラン・バルト評のように、日本人は(特に欧米出身の)外国人による日本人論を必要以上にありがたがる。
  2. 日本人は日本人論を好み、日本のサッカー関係者は、サッカーを日本人論で語り、サッカーで日本人論を語る「サッカー日本人論」を好む。
  3. なかんずく、サッカー日本代表は「サッカー日本人論」のネタにされやすい。
  4. 日本代表の監督は、(欧米出身の)外国人が務めることが多い。
  5. すなわち、日本代表の外国人監督が発する言葉、日本観,日本人観のようなものが日本人論として受容され、読まれるようになる。
  6. すると、適切なスタンスと距離感を保って評価するべきサッカーの「監督」が、日本人論という託宣を賜(たまわ)る外国人の「評論家」に変化(へんげ)してしまう。
  7. 日本サッカー界は、その「監督」を「評論家」として奉ってしまう。
  8. 当然、日本のサッカー関係者の批評眼に曇りが生じる。
  9. 結局のところ、日本サッカーは悪い方向へと向かってしまう。
 ……と、こんな仮説を立ててみた。

 実際、歴代の外国人のサッカー日本代表監督は、日本人論と「サッカー日本人論」の素材を日本人に提供してきのである。
外国人監督が語る日本サッカー論ニッポン再考
【ナンバー768号「外国人監督が語る日本サッカー論 ニッポン再考。」(2010年12月9日号)】

赤信号文化論~フィリップ・トルシエ
 フィリップ・トルシエ(在任1998‐2002)といえば赤信号文化論である。
 組織のために自己を犠牲にする〔日本人の〕精神は、日本社会の大きな力になっているのは間違いない。

 ただその特性が日本人から自らの責任において判断する力を奪っている。赤信号の例などは、まさにその典型であろう。車が来ないことがわかっていても、多くの日本人は赤信号では決して横断しようとはしない。しかし信号を守るのは身の安全を確保するためであって、規則を守ること自体が目的ではないはずだ。秩序・規範は社会が定めるものであるが、自己の価値判断とのせめぎあいは常に存在する。それが市民として社会を生きるということなのだから。

 サッカーは自己表現のスポーツだ。そして自己表現のためには、自ら判断し責任を引き受ける人間の成熟が求められる。サッカーは大人のスポーツなのである。

――フィリップ・トルシエ『トルシエ革命』

トルシエ革命
フィリップ トルシエ
新潮社
2001-06


 よく知られるように、もともと赤信号文化論は後藤健生氏の持ちネタだった。後藤氏は、後になって2012年にこの文化論を自己批判し、否定している(「ポーランドサッカー弱体化は、赤信号で道路を横断しないから?」)。

 後藤氏も否定したことだし、もうこの話は出てこないのかと思っていたら、元『フットボリスタ』誌編集長の木村浩嗣氏が、2016年に赤信号文化論を展開していた(「赤信号を渡る国で自己責任について考える スペイン暮らし、日本人指導者の独り言〔3〕」)。

 これには驚いた。同時にガッカリさせられた。赤信号文化論は不滅の定番なのだろうか?

自由? むしろフィジカル~ジーコ
 ジーコ(在任2002‐2006)は、組織,戦術を選手たちに強要したトルシエに対して、個の力を重んじた自由なサッカーを理念としていた……と、されている。だから、あえて日本代表の選手たちに戦術を落とし込まなかったのだ……と、されている。

 こうした論点自体が「日本人=組織,戦術に従順なサッカー<欧米人=自由,自主性,個の力のサッカー」という、昔からある自虐的な「サッカー日本人論」の観念が投影されたものだ。この図式においては、日本サッカーが負けてもジーコには責任はなく、自由が苦手で個に劣った日本人が悪いのだという理屈になってしまう。

 つまり、ジーコにはあらかじめ逃げ道が用意されていた。事実、2006年ドイツW杯で日本は惨敗したものの、「監督」であるジーコの責任を問う声は少なかったのである。

 もっとも、本当にジーコが以上のようなことを考えていたのかは、実は怪しい。

 明らかなジーコの発言としては、2006年6月26日に行われた退任会見がある。ここで、有名な「日本は体格,フィジカルで劣っていた。それがドイツW杯の敗因だ」とった趣旨の発言が出る。
 しかし、前提を敗因としてはいけないはずだ。日本のサッカー選手が体格,フィジカルで劣っているというのであれば、それを前提としたスタイルのサッカーをしなければならない。ジーコはそれがしようとしなかったし、できなかった。

 前提であるはずの要素を敗因としたジーコの言は「監督」のそれではなく、まったく「評論家」のものである。思い返すに在任中のジーコの日本代表に関する発言は、いつも何か他人事のようなものでまさに「評論家」だった。

 ジーコの言い訳を鵜呑みにし、批評することを忘れてしまった日本サッカー界は将来にわたって悪い前例を残すことになった。

イビチャ・オシムはロラン・バルトである
 ジーコの尻ぬぐいをすることになったイビチャ・オシム(在任2006‐2007)は、健康を害してしまったために1年あまりで日本代表監督の座から退くことになった。しかし、以降も日本サッカー界,日本のサッカーマスコミとの関係が切れることはなかった。

 その理由とは? ……オシムを有名にしたのは、Jリーグ,ジェフユナイテッド千葉・市原監督時代の機知に富んだ哲学的なコメントだった。悪く表現すれば持って回った晦渋な言い回しであるが、むしろ人はそこに深遠な魅力を感じとる。

 だから、彼の発言はメディアにこぞって取り上げられるようになる。日本代表監督退任後も多くの書籍や雑誌に掲載され続けることになった。
  • ライオンに追われたウサギが逃げ出す時に肉離れを起こしますか? 要は準備が足らない。
  • 休みから学ぶものはない。
  • アイデアのない人間もサッカーはできるが、サッカー選手にはなれない。
 アフォリズムとして編集されて読者に届けられる「オシムの言葉」は、やがてサッカーから日本人論へと拡張していく。
  • 日本人は、誰もが責任を回避しようとする。
  • 日本の選手たちは、誰かに何かを言われないと1人で行動できない。
  • 日本人は他人に依存する性質があり、自分で考えて質問する機会はあまり多くない。
 オシムは日本人論の発信者として読まれるようになる。
日本人よ!
イビチャ オシム
新潮社
2007-06

 出版社,編集者も「オシムの言葉」を、あるいはロラン・バルトやルース・ベネディクトらのように外国人が書いた日本人論の著作として読まれたいかのような本の作り方をする。そうすれば広い層から読者を取り込めるのだ。

 日本人論として浸透した「オシムの言葉」は、あらためて日本のサッカー界に下っていき、少なからず影響を与える。



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