スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:なでしこジャパン

 FIFA女子ワールドカップ2023(オーストラリア&ニュージーランド共催)は、大会を主催するFIFA(国際サッカー連盟)と各国のテレビ局との間で放映権料についての軋轢が生じ、開催直前まで本大会を放送するテレビ局が決まらないという異常な事態となった。

 特にFIFAと欧州主要5か国(ドイツ,イギリス,フランス,スペイン,イタリア)、FIFAと日本との交渉は難航をきわめた。<1>

広末涼子「大スキ!」(MV)
【広末涼子「大スキ!」MVより(写真と本文は関係ありません)】

 当初、FIFAは放映権による収入を3億ドル(約417億円)と見込んでいたという。

 しかし、実際には各国のテレビ局との交渉において当初の提示額を下回る金額での契約が相次ぎ、アメリカの経済紙であるウォール・ストリート・ジャーナルは「目標額を1億ドル(約139億円)以上も下回った可能性が高い」と報じている。

 同じサッカーでも男子と女子では、競技レベルに大きな格差がある。

 女子ワールドカップの本大会に出場するナショナルチームでも、U-18の男子のクラブチームに負ける。それもかなりの大差で。

 何よりスピードやパワーが全然違う。男と女(生物学的な男と女のことね)では筋肉の量が違うからだ。

 その競技レベルの格差は、エンターテインメントとしての価値の格差にもつながる。

 つまり、男子サッカーと女子サッカーの報酬には格差がある。平等ではない。

 ちょうど、それはプロボクシングで体重が軽い階級よりも重い階級の方が報酬が多いことと似ている。

 あるいは、同じサッカー・JリーグでもJ1、J2、J3で報酬に格差があることと似ている。

 女子サッカーはフィールドのサイズを男子より小さくするとか、ボールを小さく軽くするとか、1チーム11人から12人に増やさないと面白くならない……と言われることがある。

 とにかく、FIFA女子ワールドカップ2023のテレビ放映権交渉は、FIFAの目論見通りに行かなかった。目標額を大きく下回った。

 ……ということは、欧米のマスコミ企業は、ビジネスとしては女子サッカーや女子ワールドカップの価値を金額相当のモノであると冷徹に評価したということになる。

 ところが、欧米のマスコミ企業は、ジャーナリズム・評論としては競技レベルも違う、エンタメとしての価値も違う男女のサッカー、男女のワールドカップ、その報酬平等化を「一面的に正しいモノ」として、これを後押しするかのよう報じるのである。
  • 参照:Bloomberg(Jennah Haque記者)「男女平等報酬へのキックオフ~サッカー女子W杯,20日豪とNZで開幕」(2023年7月18日)https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-07-18/RXRMKVT0AFB4
  • 参照:CNN.co.jp「サッカー女子W杯~仏代表の拡散動画が発信する力強いメッセージ,豪代表は賞金の男女同額を要求」(2023.07.20)https://www.cnn.co.jp/showbiz/35206762.html
 一方で女子サッカーの価値を低く見積りながら、一方で男女サッカー間の報酬格差をジェンダーフリーの問題としてその平等化を求める。

 この欧米のマスコミ企業のダブルスタンダードは実に面妖である。あるいは唖然とさせられる。

 女子サッカーや女子ワールドカップというと、ジェンダーフリーやLGBTQに代表されるようなポリコレ的な話(行き過ぎた「政治的公正さ」のこと)が付いて回って、それでかえって鼻白むというサッカーファンがかなりいる。

 こういう批判はSNSではかなり論じられているが、既存メディアで発言すると女性差別主義者呼ばわりされるという、とても窮屈な情況にある。

 繰り返しになるが、そのくせ欧米のマスコミ企業は女子サッカー・女子ワールドカップへは男子サッカー・男子ワールドカップほどには金を出せないと(事実上)言っている。<2>

 女子サッカー選手の待遇をもっとよくしようという話も、もっと事実を踏まえた議論が必要なのではないかと思う。





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 サッカー女子日本代表「なでしこジャパン」が、東京オリンピック2020の第2戦、対イ
ギリス戦のキックオフ前、そのイギリス女子代表の習慣に倣って、メンバー全員が「片膝付き」のポーズをした。「反=人種差別」のアピールなのだという。

 サッカーファンでもある小説家・星野智幸氏は、朝日新聞のウェブサイトで「なでしこ」たちの行為を無邪気に称揚している。
星野智幸さん(作家)
 〔2021年7月〕24日に行われたオリンピック(五輪)の女子サッカー、日本―イギリス戦のキックオフ直前、私〔星野智幸〕はかたずをのんで画面を見守っていた。イギリスの選手たちが片ひざをつくのと同時に、日本の選手たちも片ひざをついた。ちょっと涙ぐみそうになった。

 日本のスポーツで、選手が自分の意思で人種差別に抗議を表した瞬間だった。日本の選手たちはそれをとても自然な行動として示した。とうとう、日本の女子サッカーもここまで来たんだな、という感慨があった。その後の、両チームの魂のこもった試合展開まで含めて、特別なものを見たという気持ちの高ぶりがあった。

 なぜ、この行為が重要かというと、人種差別をスルーしたら、サッカーの現場が差別の応酬になって、サッカーが成り立たなくなるからだ。自分たちが人生を賭けているサッカーを守るためには、人種差別への反対を人任せにするのではなく、選手が個人として意思表示することが鍵となる。そのことで、差別の対象になる選手もそうでない選手も、互いが味方なのだと思えるから。選手たち個人の信頼を失わないためにも大切なのだ。サッカーに政治を持ち込んでいるのではなく、サッカーを暴力から守る行為なのである。〔以下略〕

朝日新聞「欺瞞に満ちた東京五輪」ファンだからこそ考える参加選手の責任(2021年7月30日)https://www.asahi.com/articles/ASP7Y7G4XP7PUTQP01Y.html
 星野智幸氏の「なでしこ」への賛辞には素直に共感できない。

 * * *

 この「片膝付き」ポーズは、アジア人への差別を含めた、あらゆる差別に反対することを必ずしも意味しない。「片膝付き」ポーズが大きく喧伝されるようになったのは、アメリカ合衆国(米国)における黒人差別反対運動「ブラック・ライブズ・マター」(Black Lives Matter,略称「BLM」)を象徴する行為と見なされたからである。

 「BLM」の内実を探ってみれば、それはかなり米国固有の事情であり、その運動には酷い暴力・暴動をも伴い、だから、アジアや日本を含めた他の世界での理解には限度がある。例えば「BLM」は米国以外の欧米の人(英国人ジャーナリストのコリン・ジョイス氏のような人)ですら違和感を感じるものらしい。
  • 参照:コリン・ジョイス「イギリス版〈人種差別抗議デモ〉への疑問」(2020年6月13日)https://www.newsweekjapan.jp/amp/joyce/2020/06/post-192.php?page=1
 その「片膝付き」ポーズを、アフリカ系黒人でも欧米系白人でもないアジア人であるところの「なでしこジャパン」の選手たちが行ったことには違和感を覚える人はいる。

 他人の差別に同調しているくらいならば、「なでしこ」たちは「アジア人であり,また一方の差別される側」ってことも忘れるな……という批判もあるわけだ。

 「なでしこ」たちの行為はそこまで考えた上での判断なのか、どうか。

 * * *

 星野智幸氏が語るように「なでしこ」たちの行為が、本当に「自分の意思で」「選手が個人として意思表示すること」なのかは分からない。選手たちは「自分たちで決めた」と語ったが、それは本当に「自分の意思で」「選手が個人として意思表示すること」なのは分からない。

 語弊を言えば、反アジア人差別運動はファッショナブルではないが、「BLM」はファッショナブルでありうる。「なでしこジャパン」の選手たちは、その欧米のファッショナブルな風潮に安易に乗っかっただけなのではないか。

 その場合、普通は「自分の意思で」「選手が個人として意思表示すること」とは言わない。「同調圧力」に屈したと言うのだ。


 むろん「同調圧力」なるものは欧米にも存在する。

(PC版は「続きを読む」につづく)




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 サッカーでは、欧州選手権(EURO2020)や南米選手権(コパ・アメリカ2021)といったナショナルチーム(代表チーム)による国際大会がたけなわ。しかし、1990年代後半から2000年代初めにかけて、FIFAワールドカップを筆頭に、ナショナルチーム(代表チーム)による試合や大会が衰退するのではないか? ……と言われていた時代があった。

サッカーと想像の共同体
 ナショナリズムとサッカーの関係をいち早く論じたのは、やはりサッカージャーナリストの後藤健生氏であった。『サッカーの世紀』(1995年)の第6章や第8章では、欧州の主要国、例えばイタリアやドイツ、スペイン、フランスといった国々が実は歴史的に新しい「国民国家」であると説く。

サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07T


 それは、いま現在のこれらの国々がはるか昔から本質的に存在したのではなく、かなり最近になって構築されたものであるというほどの意味である。みんなバラバラだったものから「私たちは(ひとつの)○○国の○○人である」という「想像の共同体」に意識が変容したのは、かなり最近になってからなのだと言う。従来のナショナリズム論や国民国家論では、その意識の基盤が言語の共通化(共通語)だったとしていた。



定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)
ベネディクト・アンダーソン
書籍工房早山
2007-07T


 まさしく、慶應義塾大学・大学院で(野球評論家としても有名な政治学者)池井優教授の指導の元で政治学を学んだ後藤健生氏らしい解説である。しかし、『サッカーの世紀』がユニークなのは、大衆文化=サブカルチャーであるサッカーのナショナルチーム(代表チーム)もまた、そうした国民国家意識の形成に一役買っていると指摘しているところである。

 同書の第9章でも、多くの民族・部族、言語、宗教が入り乱れたアフリカ(ナイジェリア)やアジア(マレーシア)といった第三世界の方が、むしろ国民国家意識の形成にサッカーのナショナルチーム(代表チーム)が大きな役割を果たしていると論じている。

 もちろん、こういう話は、日本人は「私たちは日本人である」という意識が余りにも自明すぎて、サッカーのような国民国家の意識形成ツールをあらためて必要としない……という、否定的で自虐的な日本サッカー観と表裏一体になっている。

サッカー細見―’98~’99
佐山 一郎
晶文社
1999-10-01


 かつての後藤健生氏はそのような考えの持ち主であったし、特に佐山一郎氏(作家,編集者)などは、この手のサッカー日本人論が大好きだった。

国民国家=代表チームによる試合は衰退する?
 一方で『サッカーの世紀』は、欧州では地方分権と超国家統合(EU=欧州連合)が進んで国民国家の枠組みが崩れているとしている。同じ後藤氏の『世界サッカー紀行』(1997年)に至ると、第1章ヨーロッパの序文が「崩れる国民国家の枠組み~どうなるヨーロッパ・サッカーの将来」というタイトルになっている。

世界サッカー紀行
後藤 健生
文藝春秋
1997-09-01


 移籍の自由をサッカー選手に認めた「ボスマン判決」(1995年)の影響もあって、ナショナルチームの国際試合は、その意義も含めて、この後かなりの変容が予想されると解説するようになっている。これには、ナショナルチームによる国際試合や国際大会(W杯など)は、これから衰退していくかもしれないという含みがある。

 人文思想界(特に日本の)では、1990年あたりから、このままグローバリズムが進めば、いずれ国民国家は解体すると盛んに言われていた(昨今,よく炎上する劇作家の平田オリザ氏もよくそんなことを述べていたらしい)。後藤健生氏の『サッカーの世紀』や『世界サッカー紀行』が述べたところは、そうした時代の風潮を反映したものであった。

黄金時代―日本代表のゴールデン・エイジ
フローラン ダバディー
アシェット婦人画報社
2002-10-01


 今回は本の実物が手元にないので曖昧な記憶に頼って書いてしまうが、フローラン・ダバディー氏(ジャーナリスト,サッカー日本代表フィリップ・トルシエ監督の日本語通訳など)の『黄金時代』(2002年)でも、著者ダバディ―氏は、オリンピックやナショナルチームの世界大会であるサッカーW杯は今後衰退する……と語っていたと記憶している。

反ナショナリズムはかえって右傾化を煽る
 しかし……。あれから30年あまり。2021年の時点では国民国家が解体する気配はほとんどなく、ナショナルチームによるサッカーの国際試合の価値が特に下がった気配もない。2018年のサッカーW杯ロシア大会は楽しかった(2019年のラグビーW杯日本大会も楽しかった)。

 昨今のコロナ禍(COVID-19=新型コロナウイルス感染症のパンデミック)にあっても、EUの陰は薄い。対策の前面に立つのは各々の構成国(国民国家)である。その国境意識がなかなか消えないことも分かった。今後は、世界的にも国民国家という在り方を肯定的な形で見直す動きも出てくるという予想もある。

 国民国家の思想(ナショナリズム)とは、簡潔には「国家は私たち国民のものであり,国民によって国民のために運営されなければならない」というものである。そこからは国民主権や民主政治、立憲主義の論理も引き出せるし、国家は私たち国民の生活を保障しなければならないという論理も引き出せる(そこにコロナ禍において国民ひとり当たり10万円を給付するという政策も正統性を持つ.ずいぶんな政権の不手際だったが)。

 「では〈国民〉とはいったい誰のことなのか?」という問題になった時に、ナショナリズムは国家主義や国粋主義、排外主義などへと傾きやすい。もっとも、特に左派系の知識人などが、ナショナリズムのこうした方面の危険性のみを批判するだけでは片手落ちであり、昨今の日本の右傾化をかえって煽(あお)るだけである。

 いわんやスポーツで日本代表が一定の成果を上げた時、例えば、2010年サッカー南アフリカW杯において悲観的な予想を覆して岡田ジャパンが1次リーグ突破した時の国民的な盛り上がりに無理矢理な難癖をつけてコレを貶しまくっていた山本敦久氏(スポーツ社会学者,成城大学教授)のような言動も、これまたかえって右傾化を煽るという意味で、この人たちの「戦略」としてもマズイことである。

スーパーリーグ構想と「ヨーロッパ人」のナショナリズム
 だから(?)、2021年のコロナ禍にあっても、サッカーはEURO2020やら、コパ・アメリカ2021やらを開催してしまう。ラグビーは、4年おきに結成されるブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズ(イングランド,スコットランド,アイルランド,ウェールズの4協会による合同代表チーム)を結成。南アフリカに遠征してテストマッチを行う。

 スポーツにおけるナショナルチーム(代表チーム)の試合は、そこまで人々を夢中にさせる<1>。……と、そこへ、2021年4月、突如「サッカー欧州スーパーリーグ」構想が発表された。

 しかし、この構想は、ファン、選手、監督、政治家、他のクラブ、英国王室関係者、そしてFIFA、UEFA、各国政府からほぼ全面的に反対され、3日足らずの間に頓挫した。
  • 参照:時事通信「サッカー欧州スーパーリーグ構想はなぜ頓挫したのか? 見切り発車と〈米国流〉に反発、火種残る」https://www.jiji.com/jc/v4?id=20210503eusuperleague0001
 これが実現して、なおかつ成功してしまうようだと、本稿がここまでつらつら述べてきたことが無効になってしまうのではないか……と恐れていたので、少しほっとした。

 この構想が早々と挫折したのは、欧州スーパーリーグという「米国流」のプロスポーツの在り方に反発する「ヨーロッパ人」としての「ナショナリズム」があったのだろうか。

 後藤健生氏の『世界サッカー紀行』1997年初版、第1章ヨーロッパの序文には「1990年のイタリア・ワールドカップでは,EUの〈国〉旗を振って,同じヨーロッパのドイツを応援するイタリア人〔!〕も大勢いた」そうである。

(了)




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 ブラジルやイングランド、スウェーデンなどで、サッカー代表チームの選手に支払う報酬を男女同額にするというニュースが続々と伝わってきています。はたして、競技レベルも、エンターテインメントとしての評価にも差のある、男子サッカーと女子サッカーの報酬の格差を完全に「平等」にすることは、一面的に「良いこと」なのでしょうか???

岡目八目? …あるいは素朴な疑問
 素人が抱く「素朴な疑問」ほど本質を衝(つ)いていて、玄人にとって答えにくい鋭いツッコミはない……と指摘したのは、反サッカー主義的言動の悪名でも知られた、ラグビー評論家の中尾亘孝であった(青弓社の『頭にやさしいラグビー』だったか? ……忘れた)。

中尾亘孝2
【中尾亘孝】(本当の学歴は早大中退らしい)

 その顰(ひそ)みに倣(なら)って、浅学非才な素人が玄人に「素朴な疑問」をぶつけることを企てた。

なぜスポーツに政治を持ち込んではいけないのか?
 2020年7月22日、社会学者の梁=永山聡子(やん=ながやま・さとこ,ジェンダー・フェミニズム研究,社会運動論)氏が主催する、有料コンテンツ(1500円)のトークイベント「聡子の部屋」第7回「なぜスポーツに政治を持ち込んではいけないのか? 政治を表現するアスリートの出現と『ポスト・スポーツの時代』」を視聴した。

 ゲストは、その『ポスト・スポーツの時代』の著者・山本敦久氏(成城大学教授,スポーツ社会学,カルチュラルスタディーズ)であった。
聡子の部屋 第7回「なぜスポーツに政治を持ち込んではいけないのか? 政治を表現するアスリートの出現と『ポスト・スポーツの時代』」(2020/7/22)
ゲスト:山本敦久(成城大学教授)

 「アスリートは政治に関与してはいけない、ただ人を楽しませるべきだと言われることが嫌いです。これは人権の問題です」(大坂なおみのtwitter)

 時代の権威や支配に対して従順な態度を取り続けてきたアスリートたち。そうした風潮やイメージによって、しばしばスポーツは脱政治化された領域として考えられてきた。その結果、アスリートは政治に無関心であるどころか、既存の支配的なジェンダー構造や人種関係、階級不平等、資本主義の暴挙を補強する存在だとすら考えられてきた。

 そうやって「スポーツなんて真剣に考えるものではない」という知識人やジャーナリストのスポーツ嫌いと身体的存在を侮蔑する無意識的な仕組みが出来上がってきた。そうした態度が、「スポーツに政治を持ち込んではいけない」という強力な保守言説の磁場と結託し、結果的にスポーツという政治空間を非政治化することに加担してきた。

 しかし、ここ数年、近代を貫いてきたその非政治的岩盤に亀裂が生まれている。

 「#MeToo」運動などとも呼応するミーガン・ラピノーのような男性支配やジェンダー不平等を厳しく批判する女性アスリートの登場、「#BlackLivesMatter」運動のパフォーマンスのひとつとなった「膝つき行為」のコリン・キャパニックらグローバルな反人種差別運動の起点となる黒人アスリートの台頭、スポーツ界最大の権威であるIOCに意見し、東京2020の開催を延期に持ち込んだアスリートの声。

 いまやアスリートたちは声を挙げ、抵抗を表現し、支配と闘う運動のただなかにいる。その一方で、大坂なおみや八村塁の「政治的」発言や行動への猛烈なバッシングも起きている。まさにいまアスリートの身体は、政治そのものなのだ。

 今回の「聡子の部屋」では、このような新しい時代の流れを「ポスト・スポーツの時代」として捉え返す。女性アスリートや黒人アスリートたちの表現と身体を読み解きながら、政治からもっとも離れた存在だとされてきたアスリートたちの政治表現について考えてみたい。まずは、「その魚があなたを食べてしまえばいいのに」という大坂なおみの発言から、キックオフ!

参照:聡子の部屋 第7回「なぜスポーツに政治を持ち込んではいけないのか?」(2020/7/22)

ポスト・スポーツの時代
敦久, 山本
岩波書店
2020-03-28


 このトークイベントの視聴を申し込む際、インターネットのフォームに質問欄があった。そこに素人の「素朴な疑問」を書き込んで、イベントで採用されるかボツにされるか? 採用されたら、ゲストの山本敦久氏が何と答えるか? あるいは返り討ちを食らってしまうのか? 少し意地の悪い質問を書き込んでみたのであった。

ミーガン・ラピノーとは「誰」か?
 変な意味でミーガン・ラピノーという女子サッカー選手には関心があった。どんな選手なのか? ウィキペディア日本語版の記述を信用できるものとして、今回のエントリーに関係のある略歴をざっとまとめてみると……。
ミーガン・アンナ・ラピノー
 1985年生まれ。アメリカ合衆国(米国)の女子サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。アメリカ合衆国女子代表として2012年ロンドンオリンピック、2015年FIFA女子ワールドカップと2019年FIFA女子ワールドカップで優勝。2018年より、カーリー・ロイド、アレックス・モーガンと共同で代表チームの主将を務めている。

 同性愛者であることをカミングアウトしており、自らLGBT(LGBTQ)の権利擁護活動にも参加している。また、アメリカ社会の不平等に抗議して国歌斉唱を拒否したり、アメリカ合衆国サッカー連盟に対し選手の待遇を男女平等にするよう訴えたりするなど、社会の関心を集めるような活動をしばしば行っている。

 2016年からは、男女サッカー選手の賃金格差の是正を求める申し立てに参加している。2019年3月、27人の同僚選手とともに、アメリカ合衆国サッカー連盟が性差別的な待遇を行っているとして訴訟を起こした。同年のワールドカップ期間中の記者会見においても、ワールドカップの優勝賞金の男女間格差を指摘し、国際サッカー連盟(FIFA)を批判した。

 アメリカ合衆国では「優勝」したスポーツの選手やチームは、大統領がホワイトハウスへ招待し、訪問した選手やチームは大統領を表敬する習慣がある。

 だが、当代アメリカ合衆国大統領は、性的マイノリティーを否定する、きわめて保守的なドナルド・トランプである。したがって、一方のラピノーは「W杯に勝っても,くそったれのホワイトハウスになんか行くもんか」と、これを拒絶した。

ウィキペディア日本語版などより要約(2020年9月1日閲覧)
 ……ところで、本当のところ、ミーガン・ラピノーはどのように評価されているのだろうか? 彼女の主張は、本場ヨーロッパの、特に主要サッカー国の関係者の間で、サッカーファンの間で、どれだけまともに相手にされているのだろうか。あるいはされていないのだろうか。既存の報道では、今ひとつそれが見えにくいのである。

 同じサッカーW杯でも男・女では収入に大きな差があるが、それはプレーのレベルも異なるからであり、エンターテインメントとしての価値も違うからである。したがって、それに比例して男・女では報酬が異なる。

 女子サッカー選手の収入が男子サッカー選手のそれよりも低いのは確かだが、彼女たちが抱えている問題は、男・女にかかわらず、むしろマイナースポーツ一般に共通する問題である。これは男・女の格差の是正ではない。つまりメジャースポーツとマイナースポーツの収入格差を無理やり同格にするような話で、だから話の筋が違うのではないか……。

 ……とか何とか、いろいろと「草の根」では意見があるのかもしれないのだが、LGBT(LGBTQ)やポリティカルコレクトネス(ポリコレ)、フェミニズム、ジェンダーといった昨今の思潮に公に異論を立てると、その人物の社会的立場が危うくなる。だから余計にサッカー関係者の「本音」が分からないのである。

ツイッターから読む草の根の本音
 そこで「草の根の本音」に分け入る方法として、ツイッターの検索機能を活用することにした。以下は「ラピノー,ポリコレ(ポリティカルコレクトネス)」で検索をかけて、拾い出されたツイートの要約である。
ツイッター検索「ラピノー,ポリコレ」(最新)
  •  2019年の女子サッカー・ワールドカップ終了後、ポリコレ勢が一斉にラピノー選手を持ち上げているのを見て苦笑している。
  •  もとからラピノーは「やんちゃ」な選手だったわけで、それを知っていると「またいつもの〈やんちゃ〉な発言をラピノーはしている」程度の話。しかし、それが普段は女子サッカーになど興味のないポリコレ勢のツボにはまってしまった。
  •  ラピノーの一連の発言は、ポリコレ勢を触発し、男子サッカーと女子サッカーのエンターテインメントの価値の差すら差別認定を始めるようになってしまった。
  •  ラピノーの「やんちゃ」発言で、女子サッカーというカテゴリ自体がポリコレという色眼鏡で見られるようになったらどうなるとポリコレ勢は思っているのか? 特に女性には対しては制約が強いイスラム文化圏で。
  •  ポリコレ勢からしたらラピノーの発言を「反トランプ」で消費できたら満足かもしれないが、そんなことをされたところで女子サッカーが抱える課題は何も解決しないし、女子サッカー=ポリコレと安易に結び付けられたら、女子サッカーが迷惑なだけ。
  •  ラピノーの一連の言動は、リベラルやポリコレには受けはいいだろうけれども、総合的に女子サッカーという競技にはプラスにならないどころか、かえってマイナスになってきている。
  •  ラピノーの発言に対しては「米国が嫌なら出て行け」という、米国人男子野球選手のデニス・サファテ(ちなみにNPBの球団所属)による批判も「ある意味」妥当である。なぜなら、女子サッカーの現状からすると、ラピノーの発言は相当に歪なものだし、何よりラピノーがラピノーでいられるのは、彼女が女子サッカー米国代表だからである。
……等々(2020年9月2日閲覧)
 こうしたツイートをする人たちは、普段から女子サッカーを応援し、観戦し、金を落とす人たちである。こういう人ほど、必ずしもラピノーの言動を首肯していないのだ。

女子テニス,女子ゴルフ,女子サッカー…それぞれの様相
 こうした情報をもとに質問を3項目にまとめ、視聴申し込みの際に合わせて梁=永山聡子氏と山本敦久氏のもとに送信した。以下は、その内容
 今回のトークイベントのイントロダクションで、サッカー女子アメリカ代表のミーガン・ラピノー選手についての言及がありましたので、ラピノー選手と世界の女子サッカーの関係についていくつか質問をさせていただきたいと思います。

【質問 その1】
 ラピノー選手の一連の政治的主張は、女子サッカーの大国にしてポリティカルコレクトネスの大国であるアメリカだからできることであって、それは一方で保守主義やイスラム教といった違った政治的主張や思想信条、宗教観を持つ数少なくない人々からの、女子サッカーへの偏見をかえって強め、敬遠させ、その支援や裾野が狭くなるだけで、女子サッカーが抱える問題の解決にはつながらないのではないでしょうか?

【質問 その2】
 既存のメディア報道では本当のところが今ひとつ分からないのですが、ラピノー選手の一連の政治的主張は、国際サッカー連盟の首脳陣やサッカーの本場ヨーロッパの主要サッカー国の首脳陣に、どれだけ真面目に相手にされているのでしょうか?

【質問 その3】
 ラピノー選手の一連の政治的主張からは、女子テニスのビリー・ジーン・キング選手や、女子ゴルフのアニカ・ソレンスタム選手が実践してみせたように、男子サッカーのチームと試合をする、あるいは男子選手と混じってプレーしてみせるという意図が確認できないのは何故なのでしょうか?

 以上のような疑問に対して、カルチュラルスタディーズやフェミニズムなどの立場からは、どのような解答を用意しているのか? 教えていただけると幸甚です。
 ちなみに、男女合同で行うテニスの大会(ウィンブルドン=全英ほか四大トーナメントなど)の賞金は男女同額である。女子側の「運動」により男女平等が実現したというが、女子は男子より2セット少ない3セットマッチなので、「それで賞金が同じというのはおかしい」との男子側からの批判は出ている。

 反対に、男女別々に行うゴルフの米国ツアーの賞金額は男女でかなり差がある。一方、日本のゴルフツアーは米国と比べて男女の格差は比較的ゆるく、「ある意味」で女子が男子を逆転しているという(次のリンク先参照)。
  • 参照:川野美佳「女子ゴルフの賞金、安すぎ!? 日米で異なる男子と女子の〈格差〉事情」(2019-07-12)
 サッカーのワールドカップや各国リーグ戦などは男女別々に行う。女子W杯も(それこそ,わざわざオリンピックで行う必要もないくらいに)大規模な大会にはなったが、さすがに男子W杯の報酬とは大きな差がある。

 それにしても、米国ゴルフ界の男女格差是正を訴える女子ゴルフ選手クリスティ・カー選手の謙虚さと比較して、女子サッカーのミーガン・ラピノーの言動・立ち振る舞いの何と威勢のいいことか。たしかに、ラピノーがラピノーらしく振舞えるのは、彼女が女子サッカー米国代表だからなのだ。

 こうした諸々の事情を勘案するに、ラピノーの言動を「〈#MeToo〉運動などとも呼応する,男性支配やジェンダー不平等を厳しく批判する女性アスリート」として、単純に解釈していいのかどうか少なからず不安になるのである。むろん、山本敦久氏が学問よりも現代思想や政治的アジテーションを好むのは重々承知の上だけれども……。<1>

肩透かしを食らう
 ……というところで、その山本敦久氏と梁=永山聡子氏のトークイベント「なぜスポーツに政治を持ち込んではいけないのか? 政治を表現するアスリートの出現と『ポスト・スポーツの時代』」(2020/7/22)である。

 有料コンテンツでもあるし、できるだけネタバレしない形で紹介すると、このトークイベントは2時間少し行われたのだが、個人的には、途中の1時間くらいで中だるみしてしまい、退屈になってしまった。そこでパソコンの別のアプリケーションを開いていじりながら、トークイベントの方は音声のみ聴くという形をとった。

 一般のテレビ番組だと、その辺は構成作家やディレクターがいて、番組がダレないようにするに巧妙に構成するのだろう。梁=永山聡子氏(この人には対しては何の他意もない)のトークイベント「聡子の部屋」は、いつも2時間前後やるらしいのだが、途中の1時間くらいで「質問タイム」を設けるなど、何か工夫があってもよかったのではないか?

 例えば、昔の初代サポティスタ浜村真也氏が主催していたサッカー関連トークイベントでは、オーディエンスを飽きさせない狂言回しをしていた(その点では浜村真也という人は,人徳はないが天才的であった)。

 そろそろトークイベントも終わろうかという、番組開始から2時間頃。やっぱり、送信した質問は読まれずじまいかなぁ……と思っていたら、突然、梁=永山聡子氏が「質問が来たので読みましょう」と言い、先に掲げた質問3項目を、あまり大きくない声で少し早口で読み上げた。

 聞いていた当方「おッ!?」と思ったが、梁=永山聡子氏は、質問を読んでから何か決まりが悪そうに「でも時間がないので,回答は私のnoteか何かでやりましょう」とか何とか言って、トークイベント自体がそのまま終わってしまった。その間、山本敦久氏の方は一言も発しなかったと思う。

 あれから1か月半以上経つが、グーグルで検索した限りでは回答はない。肩透かしを食らったという感がある。

 当方、山本敦久氏に返り討ちにされることも覚悟していたが、結局、素人が抱いた「素朴な疑問」に玄人の皆さんから答えが来ることはなかった。カルチュラルスタディーズやフェミニズムの界隈の方々って、あまり「他流試合」はやったことがないのだろうか。

ナショナルチームとしての価値/サッカーとしての価値
 サッカーという世界的人気スポーツにおいて一国を代表する、すなわちナショナルチームとして、その報酬を男女平等=同額にするということであるならば理解できる……という考え方はある。あるいはそれはミーガン・ラピノーらの功績かもしれない。ブラジルやイングランドの男子代表チームがいくら貰っているのかは知らないけれども、日本のそれはかなり安いと聞く。

 しかし、W杯の賞金を男女同額にしろ! ……などというのは乱暴なポリコレである。女子テニスや女子ゴルフのように、男子チームと試合をする、あるいは男子と混じってプレーするとは言わない、女子サッカー米国代表ミーガン・ラピノーには「ある意味」での「賢さ」を感じる(余談だが,本日,元なでしこジャパンの永里優季選手が神奈川県2部の男子チーム「はやぶさイレブン」に期限付き移籍することが発表された)。

 男女平等の度が過ぎて、ネイマール(男子ブラジル代表)のような、所属クラブでは何億円と稼ぐスター選手たちがFIFAワールドカップ(男子)の出場を、なんだかんだと言い訳をしてキャンセルするようになったりして、結果として、女子サッカーに下ってくるお金も少なくなる……などといった本末転倒なことにならないことを祈るばかりである。

(了)




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アディダスジャパンのマーケティングが当たった!

 ……コアなサッカーファンには、あれだけ酷評され、嫌悪されていた、アディダスジャパン(サッカー日本代表のサプライヤー兼スポンサー)デザインの、日本代表ユニフォーム最新モデル=俗称【迷彩】が、これまた酷評されていた先代モデル【ジンベエザメ,千人針などとも】の2.5倍以上(!)の売れ行きだという話が、なかなか受け入れられない。
  • 〈日本晴れ〉の日本代表新ユニは大人気! 初動売り上げがW杯モデル以外では過去最高(2020.01.15)
  • アディダスジャパンのサッカー日本代表ユニフォーム【迷彩】が売れているらしい(2020年01月16日)
 その昔、「♪コアなファンを捨ててでもタイアップでヒット曲が欲しい……」と皮肉って歌ったのは、筋肉少女帯の大槻ケンヂだった。
  • 筋肉少女帯「タイアップ」歌詞(アルバム「UFOと恋人」より)
 要は、コアなサッカーファンを切り捨ててでも、ファッション性(?)を優先し、2020東京オリンピックをも見込んだライト層向けのマーケティング(?)を敢行した、アディダスジャパンのサッカー担当=西脇大樹氏のビジネスが当たったということになる。*

サカダイ「アディダス西脇大樹氏インタビュー」2
【迷彩ユニのプレゼンに臨むアディダスジャパンの西脇大樹氏】

 西脇大樹さん、おめでとう。

 しかし、コアなサッカーファンの生き霊はなかなか成仏できないだろうが。

自衛隊広報誌『MAMOR(マモル)』のコスプレ・グラビアから
 サッカーファンは、あの青い【迷彩】ユニフォームにはどうしても馴染めない。そこで少しでも目を慣らすために、一計を案じることにした。

 産経新新聞社系の版元=扶桑社が、『MAMOR(マモル)』という防衛省・自衛隊の広報誌を月刊で出版している。

 この雑誌に「防人たちの女神」という、若手女性アイドル・モデル・女優に自衛隊の制服や作業服を着せるという、これはどう見ても「特殊な趣向を満足させる」という意図(しかし否定できない)があるとしか思えないコスプレ・グラビアページがある。

 このページの歴代モデルを探ると、前田敦子、眞鍋かをり、壇蜜……などといった大物がおり、足立梨花、逢沢りな、丸高愛実といった、サッカーファンにもなじみのある人たちも名を連ねている。

 ……で、この月刊『MAMOR(マモル)』2016年3月号に登場したのが、グラビアアイドル(今や女優と言わないと御本人の御機嫌を損ねてしまうか?)の柳ゆり菜さんだったのである。

柳ゆり菜と岩渕真奈の青い迷彩服
 ちょうど青い【迷彩】服を着た若い女性の写真を探していたら、偶然に行き当たったのが柳ゆり菜さんだった。


  • 『MAMOR(マモル)』2016年3月号(1月21日発売)FEATURE
 その中から、これは……と思う写真を選んでみる。

グラビア:柳ゆり菜『MAMOR』2016年3月号
【青い迷彩服:柳ゆり菜『MAMOR(マモル)』2016年3月号より】

 次に、なでしこジャパン(サッカー女子日本代表)の青い【迷彩】ユニフォームを着た美形の選手、例えば岩渕真奈選手の写真を選んでみる。

岩渕真奈「なでしこジャパン迷彩ユニフォーム」アディダス提供
【青い迷彩ユニフォーム:岩渕真奈(なでしこジャパン)】

 この2つを見ていくことで、少しは青い【迷彩】ユニフォームを受け入れられるのではないか……と考えたのである。

 さらに両者を並べてみた……。

迷彩ユニフォーム女子(岩渕真奈&柳ゆり菜)
【青い迷彩服:岩渕真奈(左)と柳ゆり菜】

 ……うーむ。若く美しい女性の海上自衛隊の青い作業服(右)はとても素晴らしいが、若く美しい女性フットボーラーの青い迷彩ユニフォームの方は、やっぱり受け入れられない。個人的には。

 これを南野拓実選手(!)たちが着用して、2020東京オリンピック(?)やカタールW杯アジア予選の試合でプレーするのかと思うと、どうしても気の毒に思えてしまう。

 ひとつだけ分かったのは、岩渕真奈選手が海上自衛隊の作業服を着たら、別の意味でカッコイイのではないか……ということであった。

(了)




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