『スポーツとは何か』が古今東西の古典と同格の名著だって!?
スポーツライター・玉木正之氏の代表的な著作ではあるが、しかし実のところはトンデモ本である『スポーツとは何か』(講談社現代新書,1999年)が、九州大学附属図書館が選ぶ【九大100冊】に選ばれたという知らせを聞いて愕然としている。
2023年4月22日(土)つづき
書き忘れましたけど拙著『スポーツとは何か』(講談社現代新書)が九州大学付属図書館の「九大100冊」に選ばれています!!これは《九州大学の先生方の推薦をもとに選ばれた100冊.時を経ても色あせないパワーを持った本ばかりです》とのことで何と!!ソフォクレスの『オディプス王』〔ママ〕から始まって『ハムレット』『罪と罰』『若きウェルテルの悩み』『武器よさらば』『変身』『異邦人』から『徒然草』『方丈記』『奥の細道』『こころ』『羅生門』『金閣寺』などが並んでいます!!それに『ビーグル号航海記』『ファーブル昆虫記』『ガロアの生涯』さらに『論語』『ソクラテスの弁明』『方法序説』『野生の思考』『武士道』『夜と霧』『きけわだつみのこえ』『きみたちはどう生きるか』『苦海浄土』など並んで小生〔玉木正之〕が書いた一冊『スポーツ〔と〕は何か』が97番目に紹介されているのです!!どの先生が推薦してくださったのか知りませんがコレほど嬉しいことはありません!!お礼を言うのもオカシイですがありがとうございました。このホームページを教えてくださった小野俊太郎さんにもサンキュー・ベリベリーマッチです!!100番目に選ばれている本がビアスの『悪魔の辞典』というのも嬉しいですね。玉木正之「タマキのナンヤラカンヤラ バックナンバー 2023年4月」http://www.tamakimasayuki.com/nanyara/bn_2304.htm
- 参照:九州大学附属図書館「九大100冊: no.81 - no.100」https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/qu100/qu100_5
狂気! 絶句! 九州大学は本邦の最高学府の中でも特に高い格式を持つ旧帝国大学の一角をなす大学である。その九州大学が、それこそ「どの先生が推薦してくださったのか知」らないけれども、『スポーツとは何か』などというトンデモ本を「ソフォクレスの『オイディプス王』から始まって『ハムレット』『罪と罰』『若きウェルテルの悩み』」……等々、古今東西の古典や名著と同格の著作として紹介することには暗澹たる思いがする。
九州大学および九州大学附属図書館の知性すら疑いたくなる話でもある。
ラグビー史研究家・秋山陽一氏による『スポーツとは何か』批判
『スポーツとは何か』のどこがトンデモ本なのか?
この本を刊行当時から批判していた人にラグビー史研究家の秋山陽一氏がいる(氏は,知的に誠実で実証的なラグビー史研究家である)。秋山陽一氏は、自身のウェブサイト「日本フットボール考古学会」で『スポーツとは何か』を次のように痛罵していた。
The severe heat of late summer〔夏の終わりの厳しい暑さ〕
話は変わるが、講談社現代新書の新刊に〔ママ〕『スポーツとは何か』はひどい本だ。ナンバーの書評で誉めているが中身を読んで論評しているのか疑ってしまう。本の宣伝文句は、「スポーツ後進国・日本への直言!」となっているが、こんな内容が25年にわたつて〔ママ〕スポーツライターを続けてきた筆者〔玉木正之氏〕の総決算なら、その25年は無駄なものだったと断言しよう。都合のいい結論のために史実が歪め〔られ〕ていいというのだろうか。蒸し暑い9月が一層不快になる。1999年9月15日 常任幹事 A-QUI〔秋山陽一〕[リンク先]
秋山陽一氏がズバリ指摘したように、玉木正之氏とは「自身にとって都合の良い結論のために史実を歪曲するスポーツライター」なのである。中でも、その代表的著作である『スポーツとは何か』は史実の歪曲だらけ、だからトンデモ本なのである。
順を追って説明する。
アメリカ人にとって野球は「演劇」の代替文化である???
【史実の歪曲 その1】野球やアメリカンフットボールなどのアメリカ生まれの球技スポーツは、サッカーやラグビーなどイギリス・ヨーロッパ生まれの球技スポーツと違って「中断」が多い。その理由は、開拓時代に劇場を建てられなかったアメリカでは演劇文化に乏しく、アメリカ人が演劇やオペラの代わりにプレーの最中に観客の想像の余地を残す「ドラマ」を求めたからである。『スポーツとは何か』34頁より
この説のオリジナルは作家・評論家の虫明亜呂無である(『虫明亜呂無の本(3)時さえ忘れて』)。虫明亜呂無は今のなおカリスマ視されるスポーツライターでもあるのだが、彼のことを崇拝・盲信する玉木正之氏は、その考えが絶対的に正しいのだと信じ切って拡散している。
しかし、これは端的に間違い。理由は少しも実証的ではないからである。この点については、プロの学者であり、プロの野球史研究家でもある鈴村裕輔氏(野球文化學會会長,名城大学外国語学部准教授)も次のような苦言を呈している。
野球などの米国生まれの球技が〔サッカーやラグビーなど英国・欧州生まれの球技と違って〕「作戦タイム」を設けてまで試合を中断させるのは、開拓時代に劇場を建てられなかったため演劇や歌劇の代わりにスポーツの中に「ドラマ」を求めたからという説が唱えられているものの、こうした説は野球史の研究において実証的に支持されているものではありません。いわば珍奇な説があたかも定説であるかのように紹介されることは、読み手に不要な誤解を与えかねないものです。鈴村裕輔「隔靴掻痒の感を免れ得なかった玉木正之氏の連載」(2021/03/02)https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/76353/9a7f93942afb88bf7cbe9f37ae33d509?frame_id=435622
勘違いも多い。虫明亜呂無や玉木正之氏は、アメリカ生まれの球技にばかり「中断」があると考えている。だが、イギリス生まれの球技には、イギリス本国や、オーストラリア、インドといった英連邦諸国で人気があるクリケット、すなわち野球の親戚のような球技(バット・アンド・ボール・ゲーム)が存在していることを忘れている。この球技には「中断」が頻繁にある。
また、ハリウッドの映画やブロードウェイのミュージカルなどが盛んなアメリカが、ヨーロッパと比べて演劇文化が乏しいなどとはとても信じられない。イギリス生まれの喜劇俳優・映画俳優チャールズ・チャップリンは、アメリカの演劇や映画に大きな可能性を見出して渡米したはずだ。
つまり、玉木正之氏と氏が依(よ)る虫明亜呂無の説は正しいとは言えない。
日本野球の「応援団」は邪道である???
【史実の歪曲 その2】日本のプロ野球(NPB)の観客には騒がしく耳障りな「応援団」が存在するけれども、アメリカの大リーグ野球(MLB)の観客には存在しない。この日米の観戦流儀の違いは、アメリカの野球にはきちんとしたルールが定まる近代以前からの長い歴史がある一方で、日本は近代(明治)に入ってから野球を「輸入」したという歴史の違いである。『スポーツとは何か』42~46頁より
この説のオリジナルはスポーツ社会学者・中村敏雄である(『メンバーチェンジの思想』,遺憾ながら当ブログ未読)。中村敏雄もまた、日本のスポーツ論壇でカリスマ視される人である。虫明亜呂無の場合と同様、中村敏雄をこれまた崇拝・盲信する玉木正之氏によると、その詳細はつぎのようなものである。<A>
アメリカの野球、イギリスのサッカーやラグビー、日本の相撲(大相撲)など、近代以前、近代的なルール制定以前から長い歴史があるスポーツには、見物人の「飛び入りの自由」が許された長い歴史があった。そのために見物人=観客は「応援」などという、選手がそのスポーツを競技することとは直接関係ないパフォーマンスに興じることはない。
しかし、アメリカンフットボールやバスケットボールなど19世紀末に創られたスポーツや、日本のように近代(明治)に入ってからスポーツ(野球など)が伝来した国のスポーツ文化には、選手と見物人が最初から分かれている。そのため「見るだけの人」の欲求不満が募り、独自のパフォーマンスを行う「応援団」を生みだすのだ。
【玉木正之「スポーツに応援団は不要?!」】
【玉木正之「スポーツに応援団は不要?!」】
何とも不可思議な説だが、これも端的に間違い。人や物や情報の国際的な交流が盛んになって、世界各国のスポーツの観戦文化、応援文化が変容しているからだ。
前近代、観客の「飛び入り自由」の歴史や文化があるはずのアメリカ大リーグ野球にも、「トマホークチョップ」(アトランタ・ブレーブス)や「ベイビーシャーク」(ワシントン・ナショナルズ)といった、「スポーツの試合で(集団的に)歌を歌ったり声をかけたりして味方のチーム・選手を元気づけること」すなわち「応援」の文化が存在する。
イギリスのサッカーも、昔はアメリカ大リーグ野球と同様、観客に「応援」の文化は存在しなかったが、欧州大陸や南米のサッカー文化に影響されてサポーター(応援団)の文化が醸成された(デズモンド・モリス『サッカー人間学』)。
大相撲の観戦でも、最近では観客が「朝乃山」や「御嶽海」といった贔屓(ひいき)の力士の四股名がプリントされた手ぬぐいを掲げ、四股名をコールする場面が目立っている。これなどは、サッカーのサポーターやNPBの応援団に影響されたものだろう。
そこに、各々スポーツ競技の「近代/前近代」の違い、または「飛び入りの自由/不自由」の違いなどというものは存在しない。
つまり、玉木正之氏が依る中村敏雄の説は正しいとは言えない。
大化の改新のキッカケは「蹴鞠」じゃない???
【史実の歪曲 その3】古代日本史上の一大事件「大化の改新」(645年)。この改革を主導した中大兄皇子と中臣鎌足が知己を得たのはボールを足で蹴る「蹴鞠」の会であるとされてきた。しかし、これは間違いであり、正しくはフィールドホッケー風の球技である。『スポーツとは何か』82頁より
この逸話を記した『日本書紀』皇極天皇紀には、中大兄皇子と中臣鎌足が邂逅した古代日本の球技は「打毱」の会と表記されている。この「打毱」は、マリ(ボール)と一緒に靴が脱げていったと記述にあることから、従来は「蹴鞠」であると思われてきた。
ただし、これには異議があり「打毱」はスティックでボールを打つフィールドホッケー風の「打毬」または「毬杖」と呼ばれる球技ではないかと唱える人もいる。この異論の存在自体は間違いではない。この「打毱」は訓詁注釈によって解釈に違いがあり、岩波文庫版の『日本書紀』では蹴鞠、小学館版の『日本書紀』では打毬と解説している。どちらが正しいか、あくまで学問的には未決着である。
玉木正之氏が疑わしいのは、学問的には判別されていない「打毱」の正体を、彼自身の独善的な思い込みと都合のいい結論のために蹴鞠説を退け、打毬=フィールドホッケー風球技説の方が絶対的に正しいと思って拡散していることだ(次のリンク先参照)。
- 参照:大化の改新と蹴鞠(40)~玉木正之説の総括,批判,あるいは超克(2017年10月26日)https://gazinsai.blog.jp/archives/26512149.html
氏の知名度から彼の主張を信じてしまいそうだが、その説は正しいとは言えない。
もともと日本人はサッカーより野球を好む国民性だった???
【史実の歪曲 その4】明治初期の日本で野球(ベースボール)の人気がサッカーやラグビー(といったフットボール系の球技)の人気よりも先行した理由は、日本人が集団での戦い(フットボールのようなチームプレー)よりも1対1の対決(野球のおける投手vs打者の対決)を歴史的・文化的にも好んでいたからである。『スポーツとは何か』168頁より
この説のオリジナルは宗教学者の中沢新一氏(月刊誌『現代』1988年10月号での発言,次に掲げる写真を参照)で、これを面白いと思った玉木正之氏がさかんに拡散した。しかし、これも端的に間違い。なぜなら、日本で他の球技スポーツに先んじて野球が普及し始めた頃、明治10~20年(1877~1887年)頃の野球のルールは現在のそれとは大きく違っていたからである。
当時の野球のルールでは、投手はボールを投げるのではなく、ベルトの下から下手投げで速度の遅い球を抛(ほう)らなければならず、ストライクゾーンは極端に狭く……。投手は打者が打ちやすい球をひたすら抛り続けなければならなかった。明治時代の文人・正岡子規が野球選手だった当時はこのルールでプレーされていたのである。
とにかく、このルールでは、打者の方が圧倒的に有利で、投手が自身の技量力量で打者を抑え込むということは非常に難しい。だから野球を「投手vs打者の1対1の対決」のスポーツと見なすことも難しい。
つまり、玉木正之氏が依る中沢新一の説は正しいとは言えない。
玉木正之氏のスポーツ「学」は似非学問である
俗耳には、玉木正之流のスポーツ史観やスポーツ文化論は面白いのかもしれない。しかし、それは事実(史実)や実証という学問的観点からはほとんど疑わしい。
これまであげつらってきたに、玉木正之氏のスポーツ「学」はほとんど似非学問である。その似非学問を、よりによって九州大学と九州大学附属図書館がお墨付きを与えてしまった。
このことは、日本において実は「スポーツ」なり「スポーツ学」というものが非常に軽んじられているということを表している。
嘆かわしい話だ。
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