- 前回のおさらい:誤爆の筆誅で「日本の野球の祖=平岡熈」の功績を貶めた玉木正之氏(2020年04月26日)
玉木正之氏の勇み足,濡れ衣
明治初期、日本で最初につくられた野球専用グラウンドは「保健場」と名付けられた。これをもって玉木正之氏は、自著の中で次のように論(あげつら)った。
ベースボールの行われる場所はボールパーク(ballpark=野球公園)と呼ばれ、野球の行われる場所は野球場と呼ばれている。すなわち、ベースボールをプレイする場所は公園のように〈楽しい場所〉だが、野球をやるのはただ野球をやる場所にすぎない。また、明治時代初期に日本ではじめて生まれた野球チームである新橋アスレチックスが野球をやるためにつくった野球場は「保健場」と呼ばれた。当時から、野球は理屈抜きで楽しむために行われたのではなく、「保健」(健康を保つ)という〈理屈〉がつけられていたのである。『ベースボールと野球道』(1991年)188頁
当時、玉木正之氏は、明朗なアメリカ野球のイメージに対して(ベースボールと呼ばなきゃならんのか?)、日本(人)の野球観を抑圧的な「教育的野球観」だと呼び、しつこく批判していたが、この文章にもそれが表れている。
ところが、野球評論家としても有名な慶應義塾大学・池井優名誉教授(政治学,外交史ほか)の『白球太平洋を渡る』の説くところでは、「保健場」とはレクリエーション・パーク(receration park)の翻訳したものであった。
「レクリエーション」(receration)、その定義は「日常生活の疲れや憂いから離れ,これを癒すための自発的な気晴らしや娯楽のこと」であって、実は玉木正之氏が事あるごとに講釈している「スポーツ」(sports)の語源や本来の意味とほとんど変わらない。
すなわち、玉木氏の「保健場」の命名に関する解釈と非難は勇み足、濡れ衣、あるいは「誤爆の筆誅」であった。
のみならず、玉木正之氏は、日本野球の黎明時代、明治10年代(1877~1886ごろ)に活動した新橋アスレチック倶楽部、なかんずくその創設者にして主宰者である平岡熈(ひらおか・ひろし)についてよく知らない、少なくとも積極的に評価したくはないのではないか……という「疑い」が生じるのである。
日本の野球の祖・平岡熈(ひらおか・ひろし)
そもそも、平岡熈とは何者なのか? むしろ、この人については世間一般では「平岡吟舟(ひらおか・ぎんしゅう)」の雅号として知られているのかもしれない。ここはきちんとした文責のあるコトバンク掲載の「20世紀日本人名事典」の解説から引用する。
平岡 吟舟(読み)ヒラオカ ギンシュウ
明治~昭和期の実業家、邦楽作曲家、平岡鉄工場経営者、東明流初代家元。
- 生年 安政3年(1856)
- 没年 昭和9年(1934)年5月6日
- 出生地 江戸
- 本名 平岡熈(ヒラオカ ヒロシ)
経歴 明治4年16歳で渡米、ボストン機関車製造所に勤め、技術・工程を学んで10年帰国。工部省技官となり、16年新橋鉄道局汽車課長に就任。日本に初めて野球とローラースケートをもたらし、11年新橋駅で野球チーム・新橋アスレチックス倶楽部を結成。32歳のとき車両製造工場・平岡鉄工場を設立、巨利を得た。米国から最新の野球用具やルールブックを輸入し、野球の発展に多大な影響を及ぼした。昭和34年には特別表彰として野球殿堂入り。一方、父は幕府目付役で宝生流謡曲をよくし、母は都以中の妹で邦楽に堪能という家に育ったので趣味は豊か、音曲、遊芸に通じ、散財したので〈平岡大尽〉といわれた。明治35年以来長唄、清元、河東など諸派の粋を集め、自ら「向島八景」「大磯八景」「都鳥」などを作詞作曲、三味線の東明流(東明節)を創始した。また小唄「三つ車」「半染」「春霞」「逢ふて別れて」なども作った。先祖は徳川家康のお庭番。出典 コトバンク/日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)
日本で最初に野球を伝えたのは、ホーレス・ウィルソンやアルバート・ベーツといったアメリカ人のお雇い外国人教師である。しかし、野球を(サッカーやラグビーに先んじて)日本人に普及させ、人気スポーツとさせたのは、日本人・平岡熈の功績である。
なぜなら、平岡熈は、コトバンク「20世紀日本人名辞典」にあったように、日本最初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成し、米国から野球用具やルールブックを輸入し、また、池井優教授が『白球太平洋を渡る』で書いたように、野球の専用グラウンド「保健場」をつくって、野球の普及につとめたからである。
「スポーツ」という概念も乏しい明治時代前半、これだけの物理的準備をしないと、特に野球やサッカーなど、多くの人数を必要とする球技スポーツは普及しない。野球人としての平岡熈が日本で活動を始めたのが明治11年(1878)頃だとすると、サッカーやラグビーの本格的な普及が始まるのは、野球から20~25年くらい遅れる。
何より、日本の野球殿堂博物館における殿堂入り第1号のひとりが平岡熈である。その顕彰文には「日本の野球の祖」とある。
- 参照:平岡熈~米から指導書を持ち帰り,初の野球チームを結成(野球殿堂博物館)
けだし、その評価は正しい。
なぜ玉木正之氏は粋人の平岡熈を無視するのか?
趣味は豊かで、音曲や遊芸といった「遊び」に通じた粋人、後半生、花柳界で〈平岡大尽〉と呼ばれるほど散財した。そんな吟舟平岡熈だからこそ、アメリカから野球というスポーツ(遊び)を持ち帰り、日本に野球を(サッカーやラグビーに先行して)普及させ得たのだと言える。
こうした考え方は、きわめて虫明亜呂無(むしあけ・あろむ)的であり、虫明亜呂無を崇拝し、弟子筋を任ずる玉木正之氏の価値観に近い。
また、玉木正之氏は、精神主義的で抑圧的とされる川上哲治や王貞治を軽侮し、それとは対照的な価値観を体現していると語られる大下弘や長嶋茂雄を称揚している。氏の著作『プロ野球大事典』には、そうした「傾向」がハッキリと滲み出ている。
そんな玉木正之氏にとって、平岡熈は、大下弘や長嶋茂雄のように、むしろ思い入れの対象になって当然の人物である。にもかかわらず、なぜ、玉木氏は平岡を軽視するのか?
玉木正之氏にとっての不都合な真実=平岡熈
答えは簡単。玉木正之氏は、日本で野球の人気が(サッカーやラグビーよりも)先行して出た、普及した理由として、それは文化的に長い歴史を持つ日本人の国民性に由来する……という固い固い信念の持ち主だからである。
日本では自然発生的に野球が普及した、人気が出た……ということにしないと、抑圧的な日本野球、抑圧的な日本スポーツを批判する玉木正之氏のスポーツジャーナリズム・スポーツ評論が成立しないからである。
- 参照:大化の改新と蹴鞠(28)~Jリーグからの風(2017年03月31日)
しかし、これは端的に間違いであって、明治初期、アメリカ人のお雇い外国人教師アルバート・ベーツが開拓使仮学校(北海道大学の前身)に伝えた野球は、バットやボールなどの道具が調達できなかったり、ベーツ本人が若くして日本で客死したせいで、これがついに定着しなかった例がある。<1>
本当に「日本人」が心の底から野球が好きだというなら、このようなことは起こらない。
現在の日本の野球の直接の系譜は、アメリカ人のお雇い外国人教師ホーレス・ウィルソンが現在の東京大学に伝え、これを前述のように平岡熈が継承し発展、普及させたものである。平岡熈がいなかったら、日本で野球は人気スポーツになっていなかった。日本も普通にサッカーの国になっていた。
玉木正之氏の日本の野球史観・スポーツ史観にとって、平岡熈の存在は「不都合の真実」である。存在してはいけない人、できるだけ存在を軽くしなければならない人である。だから、玉木氏は平岡を軽視するのである。
この辺に「自分にとって都合のいい結論のために史実を歪曲するスポーツライター」だとラグビー史研究家・秋山陽一氏が酷評した、玉木正之氏の性格が表れている。
日本野球の歴史を知らない(?)玉木正之氏
一方、玉木正之氏は、最近の野球ファン(およびスポーツファン)は「日本野球の歴史」を知らないと嘆き、憤り、悲しむ。
例えば、野球の枠を超えた戦後日本最大のスーパースター・長嶋茂雄を知らない。特に立教大学の学生が偉大なOBである長嶋茂雄を知らないことには愕然とした(←たしかに由々しい問題である)。
- 参照:玉木正之「長嶋茂雄を知らない学生たち~野球を文化にするために」(2016-10-12)
あるいは、赤バットの川上哲治・青バットの大下弘を知らない。夏目漱石『吾輩は猫である』に登場する興味深い野球のシーンを知らない。正岡子規が野球について詠んだ短歌や俳句を知らない……。<2>
……さらには、若い高校野球の記者は、「千本ノック」や「一球入魂」といった「精神修養の野球」を唱え、「学生野球の父」と呼ばれた野球指導者・野球評論家である飛田穂洲(とびた・すいしゅう,1886~1965,本名・忠順=ただより=)のことを知らない。これは長嶋茂雄を知らない以上に大問題である(←たしかに由々しい問題である)。
- 参照:飛田忠順~穂洲の筆名で健筆をふるった学生野球の父(野球殿堂博物館)
しかしながら、日本野球史にとって最も重要な人物である平岡吟舟(熈)を知らない、知ろうともしない玉木正之氏が「最近の若い野球記者は飛田穂州(忠順)のことを知らない」と嘆いても、あまり説得力がないのであるが(笑)
吟舟から穂州へ~玉木正之氏に欠けた日本野球史への「まなざし」
誤解していただきたくないのだが、私たちは何も、日本の野球に抑圧的な精神主義的傾向とその弊害が存在しないと言いたのではない。そうした問題はあるだろう。飛田穂州は、日本野球における精神主義の権化みたいに批判されている。そんな評価まで、すべて否定したりはしない。
しかし、池井優教授『白球太平洋を渡る』を読むと、日本野球界にそうした思潮が台頭するのは、明治22年(1899)ごろ以降のことである。
すなわち、この頃には平岡熈は新橋アスレチック倶楽部を解散して野球からは手を引いており、それ以前の日本野球は必ずしも精神主義的傾向を帯びていなかったのではないか、むしろ、違っていたのではないか……という仮説は立てられる。
先に紹介した通り、吟舟の雅号を持つ平岡熈は「遊び」に通じた粋人だからである。
平岡吟舟と飛田穂州、このふたりは生年ではちょうど30年の開きがある。その間、日本の野球文化がいかに変容したのか? あるいは吟舟と穂州の比較。……従前の野球評論では、そうした視点を欠いていたような気がする(詳しくは知らない)。
そんな平岡熈の存在に注目せず、日本野球界(延いてはスポーツ界)の課題を、ただ文化的に長い歴史を持つ日本人の国民性という、いかがわしい議論に入り込んでしまったスポーツライター・玉木正之氏は、何かとんでもないボタンの掛け違いをしているのではないかと、訝(いぶか)しんでしまうのである。
(了)
続きを読む