スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:池井優

  •  前回のおさらい:誤爆の筆誅で「日本の野球の祖=平岡熈」の功績を貶めた玉木正之氏(2020年04月26日)
玉木正之氏の勇み足,濡れ衣
 明治初期、日本で最初につくられた野球専用グラウンドは「保健場」と名付けられた。これをもって玉木正之氏は、自著の中で次のように論(あげつら)った。
 ベースボールの行われる場所はボールパーク(ballpark=野球公園)と呼ばれ、野球の行われる場所は野球場と呼ばれている。

 すなわち、ベースボールをプレイする場所は公園のように〈楽しい場所〉だが、野球をやるのはただ野球をやる場所にすぎない。また、明治時代初期に日本ではじめて生まれた野球チームである新橋アスレチックスが野球をやるためにつくった野球場は「保健場」と呼ばれた。当時から、野球は理屈抜きで楽しむために行われたのではなく、「保健」(健康を保つ)という〈理屈〉がつけられていたのである。

『ベースボールと野球道』(1991年)188頁

 当時、玉木正之氏は、明朗なアメリカ野球のイメージに対して(ベースボールと呼ばなきゃならんのか?)、日本(人)の野球観を抑圧的な「教育的野球観」だと呼び、しつこく批判していたが、この文章にもそれが表れている。

 ところが、野球評論家としても有名な慶應義塾大学・池井優名誉教授(政治学,外交史ほか)の『白球太平洋を渡る』の説くところでは、「保健場」とはレクリエーション・パーク(receration park)の翻訳したものであった。

 「レクリエーション」(receration)、その定義は「日常生活の疲れや憂いから離れ,これを癒すための自発的な気晴らしや娯楽のこと」であって、実は玉木正之氏が事あるごとに講釈している「スポーツ」(sports)の語源や本来の意味とほとんど変わらない。

 すなわち、玉木氏の「保健場」の命名に関する解釈と非難は勇み足、濡れ衣、あるいは「誤爆の筆誅」であった。

 のみならず、玉木正之氏は、日本野球の黎明時代、明治10年代(1877~1886ごろ)に活動した新橋アスレチック倶楽部、なかんずくその創設者にして主宰者である平岡熈(ひらおか・ひろし)についてよく知らない、少なくとも積極的に評価したくはないのではないか……という「疑い」が生じるのである。

日本の野球の祖・平岡熈(ひらおか・ひろし)
 そもそも、平岡熈とは何者なのか? むしろ、この人については世間一般では「平岡吟舟(ひらおか・ぎんしゅう)」の雅号として知られているのかもしれない。ここはきちんとした文責のあるコトバンク掲載の「20世紀日本人名事典」の解説から引用する。
平岡 吟舟(読み)ヒラオカ ギンシュウ
 明治~昭和期の実業家、邦楽作曲家、平岡鉄工場経営者、東明流初代家元。
  • 生年 安政3年(1856)
  • 没年 昭和9年(1934)年5月6日
  • 出生地 江戸
  • 本名 平岡熈(ヒラオカ ヒロシ)
 経歴 明治4年16歳で渡米、ボストン機関車製造所に勤め、技術・工程を学んで10年帰国。工部省技官となり、16年新橋鉄道局汽車課長に就任。日本に初めて野球とローラースケートをもたらし、11年新橋駅で野球チーム・新橋アスレチックス倶楽部を結成。32歳のとき車両製造工場・平岡鉄工場を設立、巨利を得た。米国から最新の野球用具やルールブックを輸入し、野球の発展に多大な影響を及ぼした。昭和34年には特別表彰として野球殿堂入り。

アメリカ在留時代の平岡熈
【アメリカ在留時代の平岡熈(吟舟)】

 一方、父は幕府目付役で宝生流謡曲をよくし、母は都以中の妹で邦楽に堪能という家に育ったので趣味は豊か、音曲、遊芸に通じ、散財したので〈平岡大尽〉といわれた。明治35年以来長唄、清元、河東など諸派の粋を集め、自ら「向島八景」「大磯八景」「都鳥」などを作詞作曲、三味線の東明流(東明節)を創始した。また小唄「三つ車」「半染」「春霞」「逢ふて別れて」なども作った。先祖は徳川家康のお庭番。

出典 コトバンク/日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)
 日本で最初に野球を伝えたのは、ホーレス・ウィルソンやアルバート・ベーツといったアメリカ人のお雇い外国人教師である。しかし、野球を(サッカーやラグビーに先んじて)日本人に普及させ、人気スポーツとさせたのは、日本人・平岡熈の功績である。

 なぜなら、平岡熈は、コトバンク「20世紀日本人名辞典」にあったように、日本最初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成し、米国から野球用具やルールブックを輸入し、また、池井優教授が『白球太平洋を渡る』で書いたように、野球の専用グラウンド「保健場」をつくって、野球の普及につとめたからである。

新橋アスレチック倶楽部の集合写真
【新橋アスレチック倶楽部の集合写真】

 「スポーツ」という概念も乏しい明治時代前半、これだけの物理的準備をしないと、特に野球やサッカーなど、多くの人数を必要とする球技スポーツは普及しない。野球人としての平岡熈が日本で活動を始めたのが明治11年(1878)頃だとすると、サッカーやラグビーの本格的な普及が始まるのは、野球から20~25年くらい遅れる。

 何より、日本の野球殿堂博物館における殿堂入り第1号のひとりが平岡熈である。その顕彰文には「日本の野球の祖」とある。
  •  参照:平岡熈~米から指導書を持ち帰り,初の野球チームを結成(野球殿堂博物館)
 けだし、その評価は正しい。

なぜ玉木正之氏は粋人の平岡熈を無視するのか?
 趣味は豊かで、音曲や遊芸といった「遊び」に通じた粋人、後半生、花柳界で〈平岡大尽〉と呼ばれるほど散財した。そんな吟舟平岡熈だからこそ、アメリカから野球というスポーツ(遊び)を持ち帰り、日本に野球を(サッカーやラグビーに先行して)普及させ得たのだと言える。

三味線を弾く平岡熈
【三味線を弾く平岡熈(吟舟)】

 こうした考え方は、きわめて虫明亜呂無(むしあけ・あろむ)的であり、虫明亜呂無を崇拝し、弟子筋を任ずる玉木正之氏の価値観に近い。

 また、玉木正之氏は、精神主義的で抑圧的とされる川上哲治や王貞治を軽侮し、それとは対照的な価値観を体現していると語られる大下弘や長嶋茂雄を称揚している。氏の著作『プロ野球大事典』には、そうした「傾向」がハッキリと滲み出ている。

プロ野球大事典 (新潮文庫)
玉木 正之
新潮社
1990-03T


 そんな玉木正之氏にとって、平岡熈は、大下弘や長嶋茂雄のように、むしろ思い入れの対象になって当然の人物である。にもかかわらず、なぜ、玉木氏は平岡を軽視するのか?

玉木正之氏にとっての不都合な真実=平岡熈
 答えは簡単。玉木正之氏は、日本で野球の人気が(サッカーやラグビーよりも)先行して出た、普及した理由として、それは文化的に長い歴史を持つ日本人の国民性に由来する……という固い固い信念の持ち主だからである。

 日本では自然発生的に野球が普及した、人気が出た……ということにしないと、抑圧的な日本野球、抑圧的な日本スポーツを批判する玉木正之氏のスポーツジャーナリズム・スポーツ評論が成立しないからである。
  •  参照:大化の改新と蹴鞠(28)~Jリーグからの風(2017年03月31日)
 しかし、これは端的に間違いであって、明治初期、アメリカ人のお雇い外国人教師アルバート・ベーツが開拓使仮学校(北海道大学の前身)に伝えた野球は、バットやボールなどの道具が調達できなかったり、ベーツ本人が若くして日本で客死したせいで、これがついに定着しなかった例がある。<1>

 本当に「日本人」が心の底から野球が好きだというなら、このようなことは起こらない。

 現在の日本の野球の直接の系譜は、アメリカ人のお雇い外国人教師ホーレス・ウィルソンが現在の東京大学に伝え、これを前述のように平岡熈が継承し発展、普及させたものである。平岡熈がいなかったら、日本で野球は人気スポーツになっていなかった。日本も普通にサッカーの国になっていた。

 玉木正之氏の日本の野球史観・スポーツ史観にとって、平岡熈の存在は「不都合の真実」である。存在してはいけない人、できるだけ存在を軽くしなければならない人である。だから、玉木氏は平岡を軽視するのである。

 この辺に「自分にとって都合のいい結論のために史実を歪曲するスポーツライター」だとラグビー史研究家・秋山陽一氏が酷評した、玉木正之氏の性格が表れている。

日本野球の歴史を知らない(?)玉木正之氏
 一方、玉木正之氏は、最近の野球ファン(およびスポーツファン)は「日本野球の歴史」を知らないと嘆き、憤り、悲しむ。

 例えば、野球の枠を超えた戦後日本最大のスーパースター・長嶋茂雄を知らない。特に立教大学の学生が偉大なOBである長嶋茂雄を知らないことには愕然とした(←たしかに由々しい問題である)。
  •  参照:玉木正之「長嶋茂雄を知らない学生たち~野球を文化にするために」(2016-10-12)
 あるいは、赤バットの川上哲治・青バットの大下弘を知らない。夏目漱石『吾輩は猫である』に登場する興味深い野球のシーンを知らない。正岡子規が野球について詠んだ短歌や俳句を知らない……。<2>

 ……さらには、若い高校野球の記者は、「千本ノック」や「一球入魂」といった「精神修養の野球」を唱え、「学生野球の父」と呼ばれた野球指導者・野球評論家である飛田穂洲(とびた・すいしゅう,1886~1965,本名・忠順=ただより=)のことを知らない。これは長嶋茂雄を知らない以上に大問題である(←たしかに由々しい問題である)。
  •  参照:飛田忠順~穂洲の筆名で健筆をふるった学生野球の父(野球殿堂博物館)
 しかしながら、日本野球史にとって最も重要な人物である平岡吟舟(熈)を知らない、知ろうともしない玉木正之氏が「最近の若い野球記者は飛田穂州(忠順)のことを知らない」と嘆いても、あまり説得力がないのであるが(笑)

吟舟から穂州へ~玉木正之氏に欠けた日本野球史への「まなざし」
 誤解していただきたくないのだが、私たちは何も、日本の野球に抑圧的な精神主義的傾向とその弊害が存在しないと言いたのではない。そうした問題はあるだろう。飛田穂州は、日本野球における精神主義の権化みたいに批判されている。そんな評価まで、すべて否定したりはしない。

 しかし、池井優教授『白球太平洋を渡る』を読むと、日本野球界にそうした思潮が台頭するのは、明治22年(1899)ごろ以降のことである。

 すなわち、この頃には平岡熈は新橋アスレチック倶楽部を解散して野球からは手を引いており、それ以前の日本野球は必ずしも精神主義的傾向を帯びていなかったのではないか、むしろ、違っていたのではないか……という仮説は立てられる。

 先に紹介した通り、吟舟の雅号を持つ平岡熈は「遊び」に通じた粋人だからである。

 平岡吟舟と飛田穂州、このふたりは生年ではちょうど30年の開きがある。その間、日本の野球文化がいかに変容したのか? あるいは吟舟と穂州の比較。……従前の野球評論では、そうした視点を欠いていたような気がする(詳しくは知らない)。

 そんな平岡熈の存在に注目せず、日本野球界(延いてはスポーツ界)の課題を、ただ文化的に長い歴史を持つ日本人の国民性という、いかがわしい議論に入り込んでしまったスポーツライター・玉木正之氏は、何かとんでもないボタンの掛け違いをしているのではないかと、訝(いぶか)しんでしまうのである。

(了)




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日本的で抑圧的な野球の場=「保健場」?
 梅田香子(うめだ・ようこ)氏が「ジョークの羅列」と喝破した、玉木正之氏とロバート・ホワイティング氏の『ベースボールと野球道』だが、あらためて読み直してみると、なかなかトンデモないことが書いてある。
ボールパークと野球場
 ベースボールの行われる場所はボールパーク(ballpark=野球公園)と呼ばれ、野球の行われる場所は野球場と呼ばれている。

 すなわち、ベースボールをプレイする場所は公園のように〈楽しい場所〉だが、野球をやるのはただ野球をやる場所にすぎない。また、明治時代初期に日本ではじめて生まれた野球チームである新橋アスレチックスが野球をやるためにつくった野球場は「保健場」と呼ばれた。当時から、野球は理屈抜きで楽しむために行われたのではなく、「保健」(健康を保つ)という〈理屈〉がつけられていたのである。

『ベースボールと野球道』188頁


講談社公式サイトより『ベースボールと野球道』
 同様なことが、玉木正之氏のパロディ野球事典、1990年刊『プロ野球大事典』にも登場する。
やきゅうじょう【野球場】
  1.  明治時代、日本にベースボールが伝わった直後は、「保健場」と呼ばれていた。その名前が野球場にかわったのは、野球が必ずしも健康を保つためにふさわしいものではないとわかったからか?
  2.  アメリカ大リーグ〔メジャーリーグ〕の野球場は、〈ボールパーク〉ball-parkと呼ばれることが多い。そこは苦しむ場所ではなく、本質的に楽しい場所なのだ。
玉木正之『プロ野球大事典』545頁


 ダウト! もうこれは、完全に間違い。

「保健」は堂々たるスポーツである
 玉木正之氏は、「日本=野球=抑圧=非スポーツ的/アメリカ=ベースボール=明朗=スポーツ的」という、一面的な日米善悪二元論に従って、こうした評価を下している。だが、明治初期の日本最初の野球場「保健場」についての認識は、完全に間違っている。

 日本最初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を創設したのは、アメリカ留学から日本に野球を持ち帰り、野球人気を(サッカーやラグビーよりも先行して)定着させた平岡熈(ひらおか・ひろし,鉄道技術者・実業家・邦楽作曲家ほか)である。

アメリカ在留時代の平岡熈
【アメリカ留学時代の平岡熈】

 何より、日本の野球殿堂博物館における殿堂入り第1号のひとりが平岡熈である。その顕彰文には「日本の野球の祖」とある。
  • 参照:平岡熈~米から指導書を持ち帰り,初の野球チームを結成(野球殿堂博物館)
 けだし、その評価は正しい。

新橋アスレチック倶楽部の集合写真
【新橋アスレチック倶楽部の集合写真】

 そして、野球評論家としても有名な、慶應義塾大学・池井優(いけい・まさる)教授(政治学,外交史ほか)が、『白球太平洋を渡る』の中で平岡熈がつくった「保健場」についても、キチンと書いてある。
 ……平岡熈が、〔日本初となる野球の〕専用グラウンドをつくったのは明治15年(1882年)であった。場所は新橋駅に近い、品川の八ツ山下の車庫のそばで、これにレクリエーション・パークを訳し「保健場」と名づけた。<1>

池井優『白球太平洋を渡る』20頁


 「レクリエーション」(recreation)とは何か? コトバンクやWeblioなどのインターネット事典(辞典)を引いて、意味を簡潔にまとめると次のようになる。
レクリエーション【recreation】
 re-create、再創造。壊れたものが作りなおされること、人が病から回復すること、仕事の疲れをいやして元気を取り戻すこと。

 転じて、仕事や勉強などの日常生活の疲れをいやすための休養や気晴らし、娯楽のこと。自由時間に行われる自発的・創造的な人間活動
 一方、「スポーツ」(sports)の語源や本来の意味はどうか? この講釈は玉木正之氏のライフワークでもあるのだが、氏の最新刊『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』の一節から紹介してみると……。
 ……スポーツは、元々も語源が、ラテン語のデポルターレ(deportare)。日常生活の労働から離れた、遊びの時空間、余暇、余技、レジャーといった意味。その言葉が、中世にはディスポルト(disport)に変化。「dis」も「port」(港,持ち運ぶ)も基本的に「離れる」という意味で、やはり日常生活の労働から離れることを意味する。〔略〕

 その言葉が「スポーツ(sports)」と変化した。そこのは、冗談、慰み、気晴らし、戯れ、巫山戯〔ふざけ〕、遊び半分……といった意味も加わり、あくまでも自発的で命令されないことが、スポーツの大原則と言える。

玉木正之「スポーツと体育はまったく別物、ということをご存じですか?」
@『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう』


 すなわち、レクリエーションとスポーツは言わば類義語であり、「スポーツとはまったく別物」ではない。玉木正之氏は、草創期の日本野球について一知半解であることを露呈してしまった上に、誤爆の筆誅を加えてしまったのである。

玉木正之氏は誰のおかげでマンションを買えたのか?
 仕事や勉学など日常生活の憂いから離れ、野球(ベースボール)というレクリエーションに興じて、心と体の「健(すこ)やかさを保つ,回復させる」こと=保健の、いったい何が悪いというのだろうか?

 玉木正之氏が「野球」についてさまざま書いてきて、鎌倉市にマンションを買うことができたのも、これ全部、平岡熈先生のおかげである。

 偉大な先人に対して失礼ではないか。

つづく





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スポーツの世界史,スポーツの日本史
 2018年の刊行、『スポーツの世界史』(一色出版)は、スポーツを研究テーマにした学者たちによる、650頁を超える浩瀚なアンソロジーである。編者は、専門家向けの論文集でも、また事典や教科書でもなく、読み物として面白い一般読者向けの「スポーツで読む世界史」を目指したという。

 何より、一定のクオリティを保った上で、英・仏・独・西・東欧・露・米・カリブ・南米・豪・アフリカ・イスラム・印・アジア・中・朝韓・日……といった、世界各国・各地域・各文化圏のスポーツ史・スポーツ文化を大づかみに読めるのは、なかなか有難い。

 そこで気になるのは、この本の中で「スポーツの日本史」について、どのように書かれてあるのか? ……ということである。

坂上康博教授の記述の曖昧さ
 なかんずく、日本のスポーツ史・スポーツ文化を考える上では「なぜ日本では,世界中で人気があるサッカーではなく,野球の人気が先行してしまったのか?」という難問がついてまわる。その疑問に『スポーツの世界史』は、いかなる「答え」を捻(ひね)り出しているかという点で(少々意地が悪いが)大変興味がそそられた。

 該当章の執筆担当は、一橋大学大学院・坂上康博(さかうえ・やすひろ)教授。もっとも、その章題「第21章 日本│スポーツと武術/武道のあゆみ150年」とあるように、坂上教授の記述は、野球を含む西洋スポーツよりも、日本伝来の武術・武道に重心が置かれている。

 坂上教授のアプローチは、日本の高等教育機関でいち早く「体育会」を設立した慶應義塾を中心に話を進めていく。そこに、少しばかり野球の話が登場する。
 スポーツ〔…略〕戦前、1912年から36年までに日本は計6回夏季オリンピックに参加し派遣された選手は計389人にのぼるが、うち258人(66%)が学生であり、その半分以上が早稲田、慶応、明治の3大学の学生で占められている。これらの学校の中で最も早く体育会を設立した慶応を中心にして、どんなスポーツがいつ行なわれるようになったのかを見てみよう。〔略〕

 慶応に体育会が設立されたのは1892年、明治25年であり、この時に剣術、柔術、弓術、野球、ボート、操練(兵式体操)、徒歩の7つの部が設置された。〔略〕

 〔…〕慶応の運動部の動向は、どのようなスポーツがいつ日本に定着していったのか、その最先端のトレンドを示すものと言っていいだろう。その特徴を見てみよう。

 第1の特徴は、その当初から剣術、柔術、弓術という日本の伝統的な武術が運動部として登場していることである。〔略〕

 第2の特徴は、体育会の設立当初から、武術各部とならんで、野球とボートが部活動としてすでに存在していたことである。野球とボートは、1890年に設立された第一高等学校(後の東京大学)の校友会でも、その当初より運動部の一角を占めていた。こうした事実は、様々な興味を掻き立てる。例えば、日本では、なぜ野球がこれほど早く学生たちに愛好されるようになったのか?

 この疑問に対しては様々な回答があると思うが、世界史的に見て重要なのは、鎖国によって生まれた時間的なギャップではないだろうか。もし鎖国がなかったら、イギリスのスポーツの方が先に輸入されていて、その後からアメリカのスポーツが入ってきたはずだ。ところが、日本のばあいは鎖国のために、明治維新以降、イギリスとアメリカのスポーツがほとんど同時に入ってくるという世界的に見て異例の事態が起こった。野球はアメリカ生まれのスポーツだが、第一大学区第一番中学校(後の東京大学)で、アメリカ人教師ホーレス・ウィンルソンが学生たちに野球を教えたのは1872年、明治維新からわずか5年後のことだった。

坂上康博「第21章 日本│スポーツと武術/武道のあゆみ150年」
@『スポーツの世界史』535~538頁
 やっぱり、この坂上教授の説明も首を傾げる点が多い。

日本における「武術」と「野球」の親和性?
 「イギリスのスポーツの方が先に輸入されていて,その後からアメリカのスポーツが入ってきた」ならば、サッカーなどイギリス生まれのスポーツが、野球などアメリカ生まれのスポーツよりも人気が出るだろうこと、これは多分に考えられる。

 しかし、「イギリスとアメリカのスポーツがほとんど同時に入ってくるという〔…〕事態が起こった」ら、アメリカ生まれの野球の方が、イギリス生まれのサッカーよりも、なかんずく日本では人気が出る……??? どこがどういう理屈でそうなるのか、坂上教授の説明が、今ひとつ曖昧なのである。

 まさか、ひょっとしたら、坂上教授は、投手vs打者が1対1で勝負する「野球」と、剣術(剣道)や柔術(柔道)のような1対1で格闘する日本の「武術」(武道)との間での「親和性」を感じ取っているのだろうか?

 こうした考え方は昔から見られるものである。この説を、奇形的かつ最高度に極めると、玉木正之氏の例の「1対1の勝負説」になる。だが、論理の飛躍や安易な断定に満ちたこの説は、学問的な検証に値せず、欠陥だらけで成り立たないものだ。
  •  参照:中沢新一氏の片言隻句から日本スポーツ史を歪曲した玉木正之氏(2020年03月31日)
 その辺をハッキリ書いてしまうと「学者」としての見識が疑われてしまう。それを分かっていて、なおかつ学者としてのギリギリの良心で、坂上教授は肝心なところをボカシて書いたのだろうか?

中国ではいち早く野球が紹介されながら定着しなかった
 邪推はこれくらいにして……。何のことはない、坂上康博説に反論するヒントは、実は『スポーツの世界史』の中にある。中国では、他のスポーツに先駆けて、いち早く野球が紹介されながら、それは廃れてしまったという話を、京都大学大学院・高嶋航(たかしま・こう)教授が書いている。
 意外なことに、中国人が最初に手掛けたスポーツは野球であった。上海の外国人は1860年代から野球をしていたが、中国人に影響を与えることはなかった。1872年から、清朝政府はアメリカに留学生を派遣した。その多くは12歳前後の少年で、野球に熱中するものもいた。例えば、ハートフォードの学校に留学していた学生は1876年にオリエンタルベースボールクラブを結成している。清朝政府は、彼らのような西洋文化にかぶれた留学生たちを学業半ばで強制的に帰国させた。

 中国で中国人が野球をした比較的早い事例として、1891年のパブリックスクール(上海の西洋人の学校)とセントジョンズ書院〔中国のミッションスクール〕との試合を挙げることができる。この時セントジョンズは23対38で敗れている。1904年〔明治37年〕には東亜同文書院と初の日中野球戦を行なうが、こちらも2対21で大敗した。華北では1895年に北京の匯文書院、通州の協和書院で野球が始まったと言われている。野球は中国人にあまり人気がない競技で、セントジョンズでもすぐに廃れるが、アメリカの外交関係者や軍隊が駐在する北京、天津では盛んだった。

高嶋航「第19章 中国│〈東亜病夫〉からスポーツ大国へ」
@『スポーツの世界史』482頁
 それならば、日本と中国における野球の受容の違いは、両国の「国民性」の違いとでも言うのだろうか? これも違う。

 坂上教授は「アメリカ人〔のお雇い外国人〕教師ホーレス・ウィンルソンが学生たちに野球を教えたのは1872年,明治維新からわずか5年後のことだった」とかいているが、ホーレス・ウィルソンだけが、先んじて西洋スポーツを日本人に紹介したわけではない。

 これも坂上教授が言うように、実際に明治初期、日本では野球とサッカーはほとんど同時期に紹介されている。それには次のような例がある。
  1.  明治5年頃(1872)、現在の東京大学に当たる学校で、アメリカ人教師ホーレス・ウィルソンが、日本人の学生たちに野球を教えた。
  2.  明治6年頃(1873)、北海道大学の前身に当たる開拓使仮学校で、アメリカ人教師アルバート・G・ベーツが、日本人の学生たちに野球を教えた。
  3.  明治6年頃(1873)、海軍兵学校の前身・海軍兵学寮で、イギリス海軍のアーチボルド・L・ダグラス少佐(中佐とも)と将兵が、日本人の学生たちにサッカーを伝えた(ラグビー史研究家・秋山陽一氏が唱えるラグビー説もあり)。
  4.  明治6年頃(1873)、東京大学工学部の前身に当たる工部省工学寮という学校で、イギリス人教師のリチャード・ライマー=ジョーンズ(ヘンリー・ダイアーとも)が、日本人の学生たちにサッカーを教えた。
 1~2年の違いは誤差と言っていい。それでは、1.~4.までのうち、現在の日本に存在する野球またはサッカーと、直接、系譜がつながっているのは、どれとどれでしょうか?

 答えは、意外にも「1.」だけである。3.と4.のサッカーが途絶えてしまったことはともかく、問題なのは「2.」である。2.の野球伝来の系譜が、日本人が心底大好きなはずの野球が途絶えてしまっていたとは、一体どういうことなのか?

ベーツ先生とその「不肖なる」弟子たち
 この辺の事情は、野球評論家でも有名な慶應義塾大学・池井優(いけい・まさる)名誉教授(政治学,外交史ほか)の『白球太平洋を渡る』が紹介している。開拓使仮学校(北海道大学の前身)で学んだ伊藤一隆の回想として、大島正建著『クラーク先生とその弟子たち』に登場する逸話である。<1>
 明治6年(1873)頃、まだ東京にあった開拓使仮学校に、アルバート・G・ベーツというアメリカ人の英語教師がやってきた。彼は好球家で、1本のバットと3個のボールも持参してきた。生徒たちを2チームに分け、野球の試合をさせたが、選手の〔日本人〕生徒たちは、ルールや技術の要点をなかなか理解できず、ベーツは苦心した。

 幸いにも、アメリカに留学していた開拓使仮学校の生徒3人が帰国して、彼らの指導によって野球の試合も少しは様になるようになった。そのうち、ボール2個が破損してしまった。代用品のボールは日本の靴工場で、バットは棒屋で作らせたが、出来ばえは不完全だった。だから、実際に野球の試合をするには苦心した。

 やがてベーツが注文した野球道具が届き、生徒たちの士気も上がった。しかし、ベーツは来日2年足らずで急死してしまい。生徒たちの野球熱も消えてしまった。

池井優『白球太平洋を渡る』5~8頁より大意・要約


クラーク先生とその弟子たち
大島 正健
教文館
1993-05T


クラーク先生とその弟子たち
大島 正健
新地書房
1991-02T


 あえて孫引きなのは意図的なものであるが、道具の調達がうまくいかなかったこと、アメリカ人お雇い外国人教師ベーツの急死が、開拓使仮学校(北海道大学)からの野球普及が挫折した主な理由である。

球技スポーツが日本に定着するセオリーとは?
 この逸話からは、ある国(少なくとも日本で)で特定の球技スポーツを「普及」させるための仮説や経験則がいくつか導き出せる。
  •  たとえ野球であっても(むろんサッカーでも)、外国人が持ち込んで現地の人たち(日本人たち)にちょっとプレーさせてみたくらいでは、現地の人たちがその球技スポーツの面白さを理解することはない。したがってその国には「普及」しない。
  •  ボールやバットなど、そもそも道具が揃わないと、その球技スポーツ自体ができない。本物がない場合は輸入するか地元で代用品を作ることになるが、輸入できなかったり出来が悪かったりすると「普及」に支障が出る。
  •  熱心な指導者がいて継続的に活動しないと、その球技スポーツは「普及」しない。その人に任期が来て帰国したり、客死したりすると「普及」活動が後々まで続かない。
 付け足すと、その球技をプレーできる広い場所の用意も必要になる。高嶋航教授も、前出の『スポーツの世界史』該当章の中で、中国で最初にスポーツの普及を担ったのはミッションスクールであったが、その理由として、そこにはスポーツ好きの西洋人教師の存在や、グラウンドや用具などスポーツをする条件が整っていたことを上げている。

 「道具」「場所」「指導者」といった「3条件」を整えたうえで、現地の人たちがその球技スポーツ(野球にせよ,サッカーにせよ)の面白さを理解する。こうした環境が整って、その球技スポーツはその国で普及し始める。

 神戸市外国語大学・山田誠元教授は(スポーツ学)は、日本クリケット協会会長として,日本におけるあらためてのクリケットの普及に尽力した人であるが、自らの実践体験から、この条件を「ニューカレドニアンクリケットの研究-2-」という紀要論文の中で、理論化している。
  •  参照:山田誠「ニューカレドニアンクリケットの研究-2-」『神戸外大論叢』第39巻第5号
 いずれにせよ、野球なり、サッカーなりの特性と思しきものと、その国の国民性や文化と思しきものとの相性の良さで、その国の国民的スポーツが決まるなどという考え方(前出の玉木正之氏の「1対1の勝負説」など)は、すべて眉唾である。

平岡熈の業績をあらためて評価する
 実は、日本に最初に野球を伝えたアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンは、1877年(明治10)に帰国している。アルバート・G・ベーツとの場合と同様、そこで日本の野球の系譜は途絶えていたかもしれない。そうはならなかったのは、ウィルソンと入れ替わるようにアメリカ留学から帰朝した、鉄道技術者の平岡熈(ひらおか・ひろし)の存在があったからである。

 平岡熈。1871年(明治4)に16歳でアメリカ留学。留学中は鉄道技術者として勉学に励む。同時に野球にも傾倒して、プロ化が進んでいたアメリカの最先端の野球を吸収するとともに、アメリカ人の元プロ野球選手で、スポーツ用品メーカー「スポルディング社」を創設するアルバート・G・スポルディングとも知遇を得た。

 1877年(明治10)、アメリカ留学から日本に戻る。帰国早々、東京の練兵場などで、ホーレス・ウィルソンから野球を教えられた「東京大学」の学生や人士たちと野球に興じる。翌1987年(明治11)、平岡は鉄道技術者として工部省(官営鉄道)に出仕する。平岡はそこで野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成する。

 ルールブックなどの情報や、バットやボールなどの「道具」は、友人である「スポルディング社」のスポルディングが、アメリカから無償で提供してくれた。プレーする「場所」としては新橋鉄道局構内に「保健場」という専用の野球場も作り、そろいのユニフォームを仕立てた。

 平岡熈と「新橋アスレチック倶楽部」の活動期間は、1978年(明治11)から1887年(明治20)頃にかけてである。その交流の中から、野球の面白さに目覚めた学生たちが増えた。そして現在の東京大学、慶應義塾、明治学院、青山学院、立教大学、一橋大学に「野球部」が設立された。その後、さらに全国に野球人気が拡散した。
 野球がたんに少数のお雇い外国人教師の紹介に終わっていたら、ここまで発展したかどうか。平岡〔熈〕による再紹介と、将来日本のリーダーの地位を約束されている開成学校〔東京大学〕生徒と旧大名などの理解と関心、さらには体操伝習所〔筑波大学の前身のひとつ〕で学んだ教師の卵たちが全国各地の小、中学校に赴任したことも初期の野球の国内伝播に有力な役割を演じたのである。

池井優『白球太平洋を渡る』26頁
 この時代の野球に熱中した第一高等学校(東京大学)の学生に、かの正岡子規がいる。

野球人・正岡子規
【野球のユニフォームを着用した正岡子規】

 一方、当時の日本におけるサッカーの事情はどうだったのか。

中村覚之助を日本サッカー殿堂で顕彰しよう
 同時期のサッカー(アソシエーション・フットボール)は、野球のような普及のための条件には恵まれていなかった。先に書いたように海軍兵学寮や工部省工学寮の「フットボール」は後が続かず途絶えている。

 日本においてサッカーの普及がようやく軌道に乗り始めるのは、1902年(明治35)、東京高等師範学校(東京高師,筑波大学の前身)学生で、フートボール部(蹴球部)の中村覚之助(なかむら・かくのすけ)が、洋書『アッソシェーション・フットボール」を邦訳したあたりからだ。

中村覚之助(胸像)
【中村覚之助】

 中村覚之助こそが明治時代の日本サッカーの画期となった人物で、その果たした役割りは、野球における平岡熈に相当する。
  •  参照:牛木素吉郎「中村覚之助を殿堂に」(2011年08月24日)
 ちなみに、平岡熈はその功績を称えられて日本野球殿堂で入っているが、中村覚之助は日本サッカー殿堂に入っていない(2020年4月14日現在)。当ブログとしては、中村覚之助に対する日本サッカー界の公的な再評価を望むものである。

 平岡熈と中村覚之助、野球とサッカーで、日本における創始はおよそ25年の開きがある。こういった条件の違いは、日本人の歴史的・文化的背景の宿命ではないし(玉木正之説ほか)、地球上で日本列島が置かれた地理的なハンディキャップ(後藤健生説)でもない。

 また、坂上康博教授の考えるように、アメリカ生まれのスポーツ=野球と、イギリス生まれのスポーツ=サッカーが、ほとんど同時に日本に紹介されたかどうか……ということは、ほとんどというか、全く関係ない。

 いずれにせよ、明治日本において、野球の人気がサッカーに先行したことは、歴史の偶然であり、必然ではない。

「独立国」明治日本における野球,サッカー…の普及
 ひっきょう、野球の平岡熈、サッカーの中村覚之助、お雇い外国人教師の紹介から一気に日本全国に普及したということはない。

 この点はラグビーも同様で、日本人実業家の田中銀之助とともに、日本の慶應義塾にラグビーを伝えたエドワード・B・クラークは、実は横浜の外国人居留地の生まれと育ち。生活も永眠も日本の「在日イギリス人」で、ホーレス・ウィルソンやアルバート・G・ベーツのようなお雇い外国人教師ではない。

 野球、サッカー、ラグビーの3球技に関しては、「日本人」の意志的な働きかけが一段階絡んでから日本に普及した。このことは、幕末・明治このかた、曲がりなりにも「独立国」であった日本のスポーツの特徴なのかもしれない。

「なぜ…を問う」から「いかに…を問う」へ
 従来のモノの見方・考え方では、明治初期にさまざまなスポーツが、ほぼ同時期に日本に紹介された。その中で、野球だけが突出した人気を得たために、それは「なぜ」なのか? そこに何か日本固有の理由があるに違いない。……という視点が多かった。

 そうした「なぜ」の問いは、結局のところ日本人論・日本文化論になってしまう。日本人論・日本文化論などというものは、およそ真っ当な学問的営為ではないから、真面目な学者ほど、踏み込んだ論及はしなくなる(坂上康博教授が『スポーツの世界史』で言葉を濁したのは,そんな理由もあるのではないかと邪推している)。

 しかし、スポーツの普及には「道具」「場所」「指導者」の「3条件」の充足が重要であるという仮説から、野球とサッカーが「いかに」日本に定着してきたのか? ……という観点、これは実証的な学問の探求に値する。

 「なぜ」野球だったのか? 「なぜ」サッカーではなかったのか? ……ではない。

 野球やサッカーやラグビーをプレーするためのバットやボール、スパイクシューズを「いかに」調達したか? 野球やサッカーやラグビーをプレーするためのフィールドを「いかに」確保したか? 整地したか? 野球もサッカーもラグビーも、その知識がゼロの人たちに、どんな人は「いかに」指導をしていったのか?

 こうした、細かい事実の「いかに」を洗い出す、地道な実証的研究を積み重ねていくことで、日本のスポーツ史・スポーツ文化の全体像が本当の意味で、おぼろげながらでも理解できるのではないだろうか。

(了)




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虫明亜呂無の片言隻句を放埓に拡張した玉木正之
 玉木正之氏は「日本人は〈スポーツ〉の本質に無知である」と、読者=スポーツファンを煽る。しかし、一方、玉木正之氏のことを「自分にとって都合のいい結論のために史実を歪曲するスポーツライター」と辛辣に批判したのは、ラグビー史研究家の秋山陽一氏であった。

 玉木氏の最新刊『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』(春陽堂書店)も、また、そうしたスポーツ史歪曲の例に枚挙いとまがない。

 長年、玉木正之ウォッチャーをやっていると、いつも同じネタばかりで飽きてくるが、今回も同様。日本のスポーツ論壇でやたらと神格化され、玉木正之氏も崇拝してやまない虫明亜呂無(故人)である。

虫明亜呂無(肖像)
【虫明亜呂無】

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【玉木正之】

 虫明亜呂無の片言隻句を、玉木氏が放埓に拡張した「野球(またはアメリカンスポーツ)=演劇文化代替物」論。そのバカバカしさである。

「間」のアメスポ文化
 野球をはじめとするアメリカンスポーツは、(プレーが絶えず動き続けるサッカーやラグビーのような英国生まれヨーロッパ育ちのスポーツとは違って)プレーの中断、インターバル、言い換えれば「間」(ま)が非常に多い。

 野球は、ピッチャーが投げる投球ごとの「間」、バッターから次のバッターへの「間」、イニングとイニングの「間」、NPB日本シリーズやMLBワールドシリーズ、早慶戦などの大学野球になると、試合と試合との「間」などというものもある。

 アメリカンフットボールは、防御側のタックルが成立する、または攻撃側のオフェンスが失敗する毎に「仕切り直し」がなされる。ハドル(作戦タイム)があり、ボールを後方にスナップするセットプレーで攻撃が再開される。バスケットボールも、勝負をかける時間帯や試合中に悪い流れを断ち切るためにタイムアウト(作戦タイム)をとる。

 これ、いずれも「間」(ま)である。
 このヨーロッパとアメリカの違いは、劇場文化の有無によるもの、とされている〔!〕。ヨーロッパでスポーツが誕生・発達したころは、すでに劇場文化も存在し演劇やオペラが日常的に上演されていた。

 古代ギリシア〔ギリシャ〕では、アイスキュロス、ソフォクレス、アリストパネスといった悲劇作家や喜劇作家が数多く活躍していた。またラシーヌ、コルネイユ、モリエール、シェイクスピア、ボーマルシェ、モーツァルトなどを挙げるまでもなく、ルネサンス以降のヨーロッパでも、演劇やオペラの上演が盛んだった。

 しかし、インディアンと呼ばれたアメリカ先住民との戦いや、開拓のための労働に明け暮れたアメリカ大陸の街や都市では、協会は建設されても劇場の建設にまでは手が回らなかった。

 アメリカの人々は、ドラマの楽しみを広場さえあれば行うことのできるスポーツの中に求めるようになった。その結果、アメリカ生まれのスポーツにはドラマ(演劇,芝居)のような「間(ま)=試合の中断」が多くなった〔!〕というのだ。

 劇場でドラマを楽しむことの少なかったアメリカの人々は、ピッチャーが投球動作に入り投げるまでのあいだに様々なことを思い浮かべた。あのピッチャーは最近調子が悪い。何があったのか? 新聞によると恋人にフラれたそうだ。だったらその悔しさをぶつけろ! バッターは恋人に逃げられるようなピッチャーなんかに抑えられるなよ……。

 スポーツ映画は、ベースボール〔野球〕やアメリカンフットボール、バスケットボールやアイスホッケーなど、アメリカのスポーツがほとんどだ。それに比べてヨーロッパ生まれのボールゲームは、試合の中にドラマを入れることが難しいのだ。

 『巨人の星』の主人公の星飛雄馬は、ピッチャーズマウンドで目の中でメラメラと炎を燃やし、「俺はオヤジに負けない!」などと叫びながら投球する。その時間、ドラマを演じる時間はタップリある。それに比べて、『キャプテン翼』の大空翼……〔以下略〕

玉木正之「星飛雄馬は、なぜ投球の時に目から炎を出すのか?」
@『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』58~60頁
 同じ「アメリカ大陸」でも、南米はサッカー人気が高いから、そこが「アメリカ」ではなく「北米」と書くべきではないのか? ……とか。星飛雄馬は父(星一徹)のことを「父ちゃん」と呼ぶのではなかったか? ……とか。細かいツッコミはさておき。

 これが「野球(またはアメリカンスポーツ)=演劇文化代替物」論、あるいは「野球またはアメリカンスポーツ=間(ま)のスポーツ」論である。

スポーツと「間」の日本文化
 重要なのは、玉木正之氏が、明治時代、日本でサッカーよりもラグビーよりも野球の人気が先行した理由のひとつに、野球が「間」のスポーツであることと、大いに関係があると主張していることだ。
 欧米から日本にスポーツが伝播したのは明治時代初期。文明開化の明治4〔1871〕~20〔1877〕ごろに、西洋の様々なスポーツが伝わってきたと言われている。〔中略〕

 ありとあらゆるスポーツ競技が、文明開化の波に乗って日本に雪崩れ込んできたが、庶民のあいだで瞬く間に圧倒的な人気を獲得したのが、ベースボール〔野球〕だった。〔中略〕

 なぜ日本では多くのスポーツ(ボールゲーム)の中で野球〔ベースボール〕だけが突出した人気を博したのか?〔中略〕

 本書をお読みの読者は気づかれたと思うが、野球のように試合中の中断〔間=ま=〕の多い球技は、その時間を利用して観客が様々な「ドラマ」〔演劇,芝居〕を思い浮かべることができる。

 だから少々野球のルールがわからなくても、苦しんでいると思われる打者に「がんばれ!」と声援を送ったり、チャンスだと思える打者に「それいけ!」と励ましたりすることができる。

 つまりベースボールのようなアメリカ型のドラマ性の高い球技は、競技のルールや選手の技術、試合の戦略や戦術などを知らない人々にとっても、とっつきやすいスポーツと言えるのだ。〔以下略〕

玉木正之「アメリカの球技とヨーロッパの球技は、どこが違うのか?」
@『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』60~62頁
 一方、日本にも、有名な日本文化論に剣持武彦(比較文学者,故人)に『「間」の日本文化』という著作がある。日本人には「間」を愛(め)で、楽しむ文化がある。

 「間」のアメスポ文化と、「間」の日本文化。まさに野球は、日本人の国民性や民族性、歴史、文化、伝統、精神とピッタリ相性のいいスポーツなのである……???

「間」のスポーツ文化論の間違い
 玉木正之氏の講釈は、全部間違ってます(笑)。

 だいたい、サッカーやラグビーといった(英国生まれの)フットボール系球技は、ゲームの原理が単純なので、競技の細かいルールや選手の技術、試合の戦略や戦術などを知らなくても楽しめる。そのことは、あれだけルールが分かり難いと言われていたはずのラグビーでも、2019年ラグビーW杯日本大会で証明してしまったではないか。

 一方、玉木正之氏に言わせれば、競技のルールや選手の技術、試合の戦略や戦術などを知らない(日本の)人々にとっても、とっつきやすいスポーツであるはずの「野球」。しかし、野球は、複雑で多量にわたるルールの最低限の勘所を理解していないと「観客が様々な〈ドラマ〉(演劇,芝居)を思い浮かべることができる」ことすらできない。

 野球に関しては、例えばこんな問題がある……。
  1.  打球がダイレクトでそのままファウルゾーンに落ちたら「ファウル」。
  2.  グラウンダー(ゴロ)の打球が一塁ベースまたは三塁ベースより〈前〉でファウルゾーンに転がっていったら「ファウル」。
  3.  グラウンダー(ゴロ)の打球が一塁ベースまたは三塁ベースから〈後〉でファウルゾーンに転がっていったら、これは「フェア」でヒット。
 ……平均的日本人男性ならば、以上の事柄の違いを皮膚感覚的に弁(わきま)えている(はずである)。

 だが、野球マイナー国の一般人は、以上の違いをなかなか呑(の)み込めない。特に[2.]と[3.]の何がどう違うのか、いざ教えてくれと言われたら、平均的日本人男性でも意外と説明に窮(きゅう)する。

 スペイン人の野球選手(男性)が自分のガールフレンドに、くだんのファイルとフェアの違いの説明を試みては四苦八苦する。しかし、そのガールフレンドはなかなか理解できず、イライラして遂には「野球なんて悪魔のスポーツだわ!」と怒り出す。

 ……という話が、放送作家で元高校球児の大辻民樹(おおつじ・たみき)氏(3年半にわたりスペインの野球リーグでプレー経験あり)の著書『僕は助っ人エース~底抜けスペイン野球に体当たり』(1992年)の中に本当に登場する。

 サッカー、ラグビー、野球……、どのスポーツがその国の国民的スポーツとなるのか? それは、玉木正之氏が説くように、その球技スポーツの特性と「思しきもの」と、その国の国民性と「思しきもの」との「相性」の良し悪しで決まるものではない。

 明治初期の日本でも、アメリカ人のお雇い外国人教師が日本人の学生に野球を伝えながら、ついにこれが定着しなかった開拓使仮学校(北海道大学の前身)の例がある(池井優『白球太平洋を渡る』、大島正建『クラーク先生とその弟子たち』参照)。

クラーク先生とその弟子たち
大島 正健
教文館
1993-05T


クラーク先生とその弟子たち
大島 正健
新地書房
1991-02T


 必要なのは、そのスポーツを行うに足る広い「場所」の確保や「道具」の調達、そのスポーツのルールや技術、面白さを熱心に伝える「指導者」といった物理的な条件を備えることである(山田誠「ニューカレドニアンクリケットの研究-2-」参照)。

 野球は、サッカーやラグビーよりもそうした物理的条件をいち早く満たしていた。具体的に言えば、明治10~20年(1877~1887)にかけて、日本における野球の普及につとめた平岡熈(ひらおか・ひろし,1856~1934)の功績である。サッカーやラグビーは、本格的な普及活動が始まったのが、20年くらい遅れる。

 ところが、玉木正之氏が語る日本野球草創史には、平岡熈の名前も、平岡が拠点とした野球クラブ「新橋アスレチック倶楽部」の名前も出てこないのである。

「野球=ドラマ」論の元祖とその間違い
 もっと素直に考えてみよう。アメリカ合衆国は演劇文化に乏しい国だろうか? むろん、違う。ブロードウェーのミュージカル、ハリウッドの映画……。映画俳優で「喜劇王」のチャールズ・チャップリンは英国ロンドンの生まれだが、舞台俳優としてアメリカに巡業中に才能を見出され、世界的なスターになった。

 すなわち、アメリカには立派な演劇文化があるのである。アメリカに立派な演劇文化があるから、チャップリンは「喜劇王」になれたのである。

 また、日本は日本で、歌舞伎や能楽(能,狂言)などの相応の演劇文化があるので、今さら「演劇文化の代替物としての野球」など必要としない。

 これらの事例だけも、「野球(またはアメリカンスポーツ)=演劇文化代替物」論、あるいは「野球またはアメリカンスポーツ=間(ま)のスポーツ」論は、前提から崩壊している。

 さて、玉木正之氏の奇説「このヨーロッパとアメリカの〔球技スポーツの〕違いは,劇場文化の有無によるもの,とされている」の元祖は誰か? 前掲の虫明亜呂無(むしあけ・あろむ,1923~1991)である。
 アメリカ〔合衆国〕ではサッカーも、ラグビーもさかんではない。

 さかんなのは、アメリカン・フットボール、野球、そしてゴルフ。

 いずれもゲームの合間合間に時間を必要とするスポーツである。合間はスポーツをスポーツとしてたのしませるよりも、むしろ、ドラマとしてたのしませる傾向に人を持ってゆく。合間の、間のとりかたに、選手はいろんなことを考える。

 彼の日常の倫理がすべて投入される。間をいれることで、ゲームはクライマックスにちかづいていく。観客はそれをたのしむ。実際、無造作にポン、ポン、ポンと投手が投げて、打者がバッティング・マシンのように、そのボールを打ちかえしていたのでは、およそ、つまらない野球になってしまうであろう。

 反面、間の取りかたに、不必要な思いいれが入ってくる余地をのこしている。プロのように、見せることが第一条件のスポーツでは、その傾向が特に強調される。スポーツとしての要素よりも、芝居としての要素がどうしても強く要望されるわけである。

 野球やアメリカン・フットボールは芝居の伝統のない国〔アメリカ合衆国〕が作った。土や芝居のうえの、脚本も背景も、ストーリーも必要としない単純な芝居ではないだろうか。演劇の文化的基盤のない国〔アメリカ合衆国〕、それがプロ野球を楽しむ。スポーツとしてではなく、ドラマとしての野球を。それも素人の三流芝居を。

 日本のプロ野球も、この傾向を追っている。〔以下略〕

虫明亜呂無「芝生の上のレモン」
@『時さえ忘れて』162~163頁


時さえ忘れて (虫明亜呂無の本)
虫明 亜呂無
筑摩書房
1991-06T


 「先住民との戦いや,開拓のための労働に明け暮れたアメリカ大陸の街や都市では,協会は建設されても劇場の建設にまでは手が回らなかった」などといった細かい事情や、アイスキュロスだのシェークスピアだのモーツァルトだのといった具体名は、玉木正之氏による話の増幅のようである(玉木氏は,他人の話に尾ヒレを付けたがる癖がある)。

 玉木正之氏や虫明亜呂無が説く「野球(またはアメリカンスポーツ)=演劇文化代替物」論、あるいは「野球またはアメリカンスポーツ=間(ま)のスポーツ」論。

 これを逆転させると、欧州には古代ギリシャの悲劇・喜劇、シェークスピアの戯曲やオペラに代表されるように演劇の文化が確立しているから、野球(やアメフト)のような中断=「間」(ま)の多いスポーツは人気が出ないということになる。

 しかし、である。

 しかし、その偉大な劇作家シェークスピアの国=欧州の英国で(さらに英連邦諸国で)、「クリケット」という、野球と同類である「バット・アンド・ボール・ゲーム」(フットボール系の球技などに対して,このように呼称する)の人気があるのは、なぜだろうか? クリケットはフットボール(サッカー,ラグビー)と並ぶ、英国の「国技」である。

クリケット
【クリケット】

野球
【野球(ベースボール)】

 こうした事実の見落としだけでも、玉木正之&虫明亜呂無説は、たやすく崩壊する。

 この手の事実誤認が多い玉木正之氏はともかく(笑)、アメリカ合衆国における演劇文化の存在、英国文化における演劇文化(シェイクスピアなど)と「間」の多いスポーツ(クリケットなどのバット・アンド・ボール・ゲーム)の併存、この2つを忘却した虫明亜呂無は、相当な失策をおかしたのではないだろうか。

虫明亜呂無批判をタブーにしてはならない
 虫明亜呂無を深く崇拝する玉木正之氏にとって、彼の言葉は「科学的真実」である。

 なるほど、虫明亜呂無のスポーツライティングは妖しい、しかし、なおかつ怪しい。

 反俗、デカダンス、自堕落、ナルシズム……、虫明亜呂無の「文学性」あふれるスポーツライティングを、スポーツにおける学問的な資料(史料)として扱うのは問題があると、井上章一氏(建築史家,風俗史研究者,国際日本文化研究センター教授)は冷静に評価している(『阪神タイガースの正体』参照)。

阪神タイガースの正体
章一, 井上
太田出版
2001-03T


阪神タイガースの正体 (朝日文庫)
井上章一
朝日新聞出版
2017-02-06


 むろん、井上章一氏が正しい。

 虫明亜呂無のスポーツライティングは、神格化されすぎている。「日本でほとんど唯一の〈スポーツライター〉といえる人物」だとか、「スポーツを人間ドラマに還元せず,スポーツそのものとして語りえた稀有な作家」だとか、云々かんぬん。

 しかし、虫明亜呂無が片言隻句で唱え、玉木正之氏が放埓に拡張した「野球(またはアメリカンスポーツ)=演劇文化代替物」論、あるいは「野球またはアメリカンスポーツ=間(ま)のスポーツ」論こそ、スポーツそのものから逸脱した与太話はないのか。

 玉木正之&虫明亜呂無説はバカバカしい。トンデモである。だから、いかに虫明亜呂無であろうと、批判するべきところは批判するべきだ。ダブーにしてはいけない。

 なぜなら、玉木正之氏は、持論のバカバカしさを、虫明亜呂無の「権威」を後ろ盾にして正当化を図ってきたからである。秋山陽一氏が鋭く批判したように、玉木正之氏は、そうして自分にとって都合のいい結論を、繰り返し力説してきたからである。

(了)




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後藤健生さんの新説への評価と疑問
 2020年の東京オリンピックを1年後にひかえ、雑誌『東京人』は2019年8月号で「近代スポーツことはじめ」という特集を組んだ。

 この企画で、サッカージャーナリストの後藤健生さんが「発展の陰に、〈この人〉あり」「さきがけは、〈学校〉から」という、明治時代初期~中期の日本のスポーツ事情を紹介した記事が2本掲載されている(うち「さきがけは…」の方は東洋経済オンラインに転載されている,下記リンク先参照)。
  • 後藤健生「明治時代にスポーツを広めた〈欧米人〉の功績~外国人に大勝したのは東大前身の一高だった」2019/07/03
 これらの記事では、東京高等師範学校の中村覚之助のことを再評価したり、なかなか重要なことが指摘されてある。しかし、一方で首を傾げたくなるような記述もある。それは前回のエントリーで書いた(下記リンク先参照)。
前回のエントリーから
明治初期のスポーツに関する後藤健生説を検証する~『東京人』2009年8月号より(1/2)

 英国人より米国人の「お雇い外国人」教師の数が多かったから、日本ではサッカーより野球の人気が先行した…という後藤健生説は、どこまで妥当なのか?
 疑問を感じるのは、実はこの件ばかりではないのである。

なぜ,日本人は欧米人のスポーツに飛び入り参加できなかったのか?
 例えば、後藤健生さんはこんなことを述べている。
 ヨーロッパや南米諸国では、英国人たちがスポーツに興じていると、現地の市民が飛び入りで参加したり、自分たちで参加したり、自分たちでクラブを作ってスポーツを始めたりしたものだ。〔幕末・明治の日本でも外国人居留地で行われた欧米人のスポーツを見物する日本人はいたが〕日本人と欧米人では、歩き方や走り方すら違ったのだから、〔日本人が欧米人と〕一緒にスポーツを楽しむことは難しかったのだろう。

後藤健生「さきがけは、〈学校〉から」@『東京人』2019年8月号


 この仮説はどこまで妥当なのだろうか? 推量形で「…だろう」と結んでいるのだから、確証には乏しいのだろう(←あ,これも推量形だ)。

 例えば、横浜カントリー&アスレチッククラブという、1968年(明治元)創設の在日外国人のためのスポーツクラブがある。略称「YC&AC」、かつての通称を「横浜外人クラブ」という。このクラブは、自尊心が高くかつ日本人に対して排他的なところがある。最近は日本人でも会員になれるらしいが、しかし、それでもハードルは高い。

 YC&ACは以前から7人制ラグビーの大会を主催しているが、最近まで「犬と黄色人は立ち入り禁止」という差別的な看板があった、大会の観客は「使用人」扱いで一般来場者は裏口・勝手口から入るようになっていた……などという話が伝わっている。インチキラグビー評論家の中尾亘孝(なかお・のぶたか)が、自身のブログで書いている。
〈第52回YC&ACセヴンズ〉
ヨコハマ・カントリー&アスレティック・クラブは、
つい最近まで「横浜外人クラブ」と呼ばれていた、
非常にプライドの高い英国系スポーツ・クラブ。

ここ数年、「犬と黄色人立ち入り禁止」なんて、
看板こそありませんが、大会の観客は使用人扱い
一般来場者は裏口・勝手口から入るようになっていた。

で、我輩〔中尾〕は、大家さん〔誰?〕のお下がりであるニコンを手に、
証拠写真を撮ろうと思っていたわけですが、
なんと今年は普通に入れます!

中尾亘孝「セヴンズ中退の言い訳」2010年04月05日
http://blog.livedoor.jp/nob_nakao/archives/51419984.html


中尾亘孝(プロフィール付き)
【中尾亘孝とそのプロフィール】
 この話の信憑性については何とも言いかねるが、しかし、「日本人と欧米人の身体の動きの違い」以前に、「人種」的な問題として日本人は欧米人のスポーツに参加することができなかったのではないか。

 外国人居留地でも、同じアジアの中国、ベトナム、インドネシアなどの事情はどうだったのか。欧米人が楽しんでいるスポーツに現地のアジア人が「飛び入り参加」できたのか、できなかったのか。仮に後者なのだとしたら、それは「アジア人と欧米人の身体の動きの違い」の問題で参加できなかったのか。「人種」的な問題として参加できなかったのか。

 これらの点からも、この問題を検討・検証するべきではなかっただろうか。

日本人の「官費留学生」はスポーツをする余裕がなかったのか?
 あるいは、後藤健生さんは……後に文豪として有名になる森鴎外や夏目漱石といった「官費留学生」は学問に追われていてスポーツをやる余裕はなかったが、平岡熈(野球)が田中銀之助(ラグビー)といった「自費(私費)留学生」はスポーツに親しむ余裕があった……と「発展の陰に、〈この人〉あり」で書いている。

 しかし、幕末期に徳川幕府の命で、維新期に明治政府の命で、二度にわたって英国に留学した数学者の菊池大麓は、留学先のケンブリッジ大学でラグビーに親しんだと伝えられている。
  • 国立国会図書館「菊池大麓│近代日本人の肖像」
 他にも、明治初年、開拓使仮学校で米国人教師をウィリアム・ベーツとともに学生たちに対して野球の指導に当たった日本人、得能通要、大山助市、服部敬次郎の3人は、開拓使から米国に留学し、帰国した学生である(大島正建『クラーク先生とその弟子』、池井優『白球太平洋を渡る』参照)。


 この人たちの留学は公的な性格のものである。つまり、官費留学だからスポーツができなかった、自費留学だからスポーツができた……という説も、一概には決め付けられず、再検証・再検討の余地があるのではないか。

2021年=JFA日本サッカー協会創設100周年のために…
 とかく日本のスポーツ評論は、日本のスポーツ史に関して何か特殊な事情があったはずだと、性急に解答を求める傾向がある。しかし、そうした安易な「答え探し」などやめて、個々の事柄に関して緻密な検証を積み重ねていくことの方が大切ではないだろうか。

 例えば、日本に野球を定着させた平岡熈はどういう条件(契約?)で工部省鉄道局の土地を利用することができたのか? 日本サッカーの発展の基を築いた中村覚之助はどうやってボールやスパイクシューズを調達したのか?

 どこかで誰かが研究しているのかもしれない。こうした話は日本のスポーツ史を理解するために非常に重要だと思うのだが、しかし、なかなか一般のスポーツファンには伝わっこない。

 そのためか、巷間にはさまざま怪しい俗説が流通している(玉木正之氏とかw)。*
  • 玉木正之の「スポーツって、なんだ?」#15 日本で野球が人気なのはなぜ?
 再来年2021年の日本サッカー協会創設100周年を控え、後藤健生さんには、むしろ、そうした通念を打破する仕事をしてほしいのである。

(この項,了)



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