スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

タグ:星野智幸

 ドイツ、スペイン……。サッカー日本代表は、カタールW杯本大会で非常に厳しいグループに入ってしまった。日本のスポーツマスコミは「死の組」と言うが、国際的な評価では2強2弱の「無風区」<1>である。

 カタールと言えば「ドーハの悲劇」だが、仮に日本代表がこのグループステージ(1次リーグ)を勝ち上がったら「ドーハの奇跡」と呼ばれるかもしれない(森保一監督は「ドーハの歓喜」を…と言っているが)。

 一番あってはならないことは、ドイツやスペイン相手に途中で集中力が切れてしまって3点、4点、5点……と大量失点を重ねることだ。これでは「ドーハの悲劇」どころか「ドーハの惨劇」になってしまう。

 もしドイツやスペイン相手に「惨敗」したら、否、下馬評通り順当に敗退しても、必ず出てくるだろう言説は、「農耕民族の日本人は,狩猟民族である欧米人やアフリカ系黒人にサッカーでは勝てない」だとか、「本質的に日本人はサッカーに向いていない」といった類の、驚くほど愚劣で自虐的なサッカー文化論、日本人論である。

 もうこれは必ず出てくる。長年この種の言説を追いかけてきた人間として断言できる。
  • 参照:日本のサッカー文化だけが特異なのか?~有元健・山本敦久編著『日本代表論』から(2020年10月30日)https://gazinsai.blog.jp/archives/42152939.html
 なぜなら、1998年フランスW杯、2006年ドイツW杯、2014年ブラジルW杯といった、日本代表が1次リーグで敗退したワールドカップの後、サッカー論壇にはそうした自虐的なサッカー文化論、日本人論で溢れかえってきた歴史があるからだ(例えば文芸誌「エンタクシー」42号に掲載された小説家・星野智幸氏のエッセイなど)。

 理解力、集中力、勤勉さ、協調性、持続力、俊敏性、高度な組織化、チーム全員のハードワーク……。公益財団法人日本サッカー協会(JFA)自身がこれらを「日本サッカーのストロングポイント」と呼び、トップダウンで対外的に標榜するようになっている「Japan's Way」。

 これもまた、ドイツやスペインといった「世界」のサッカーの「個の力」の前には無意味なものとして吹っ飛び、JFAの施策に影響を与えるかもしれない。

 「平時」にあっても、例えばSNSには自虐的なサッカー文化論、日本人論で溢れている。





 いわんや、これが「戦時」(=W杯)であれば、なおさら……。

 とまれ日本代表は、結果の如何にかかわらず、カタールW杯で「爪痕」(つめあと)を残す戦いぶりであったと評価される試合をしなければならない。

(了)




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 サッカー女子日本代表「なでしこジャパン」が、東京オリンピック2020の第2戦、対イ
ギリス戦のキックオフ前、そのイギリス女子代表の習慣に倣って、メンバー全員が「片膝付き」のポーズをした。「反=人種差別」のアピールなのだという。

 サッカーファンでもある小説家・星野智幸氏は、朝日新聞のウェブサイトで「なでしこ」たちの行為を無邪気に称揚している。
星野智幸さん(作家)
 〔2021年7月〕24日に行われたオリンピック(五輪)の女子サッカー、日本―イギリス戦のキックオフ直前、私〔星野智幸〕はかたずをのんで画面を見守っていた。イギリスの選手たちが片ひざをつくのと同時に、日本の選手たちも片ひざをついた。ちょっと涙ぐみそうになった。

 日本のスポーツで、選手が自分の意思で人種差別に抗議を表した瞬間だった。日本の選手たちはそれをとても自然な行動として示した。とうとう、日本の女子サッカーもここまで来たんだな、という感慨があった。その後の、両チームの魂のこもった試合展開まで含めて、特別なものを見たという気持ちの高ぶりがあった。

 なぜ、この行為が重要かというと、人種差別をスルーしたら、サッカーの現場が差別の応酬になって、サッカーが成り立たなくなるからだ。自分たちが人生を賭けているサッカーを守るためには、人種差別への反対を人任せにするのではなく、選手が個人として意思表示することが鍵となる。そのことで、差別の対象になる選手もそうでない選手も、互いが味方なのだと思えるから。選手たち個人の信頼を失わないためにも大切なのだ。サッカーに政治を持ち込んでいるのではなく、サッカーを暴力から守る行為なのである。〔以下略〕

朝日新聞「欺瞞に満ちた東京五輪」ファンだからこそ考える参加選手の責任(2021年7月30日)https://www.asahi.com/articles/ASP7Y7G4XP7PUTQP01Y.html
 星野智幸氏の「なでしこ」への賛辞には素直に共感できない。

 * * *

 この「片膝付き」ポーズは、アジア人への差別を含めた、あらゆる差別に反対することを必ずしも意味しない。「片膝付き」ポーズが大きく喧伝されるようになったのは、アメリカ合衆国(米国)における黒人差別反対運動「ブラック・ライブズ・マター」(Black Lives Matter,略称「BLM」)を象徴する行為と見なされたからである。

 「BLM」の内実を探ってみれば、それはかなり米国固有の事情であり、その運動には酷い暴力・暴動をも伴い、だから、アジアや日本を含めた他の世界での理解には限度がある。例えば「BLM」は米国以外の欧米の人(英国人ジャーナリストのコリン・ジョイス氏のような人)ですら違和感を感じるものらしい。
  • 参照:コリン・ジョイス「イギリス版〈人種差別抗議デモ〉への疑問」(2020年6月13日)https://www.newsweekjapan.jp/amp/joyce/2020/06/post-192.php?page=1
 その「片膝付き」ポーズを、アフリカ系黒人でも欧米系白人でもないアジア人であるところの「なでしこジャパン」の選手たちが行ったことには違和感を覚える人はいる。

 他人の差別に同調しているくらいならば、「なでしこ」たちは「アジア人であり,また一方の差別される側」ってことも忘れるな……という批判もあるわけだ。

 「なでしこ」たちの行為はそこまで考えた上での判断なのか、どうか。

 * * *

 星野智幸氏が語るように「なでしこ」たちの行為が、本当に「自分の意思で」「選手が個人として意思表示すること」なのかは分からない。選手たちは「自分たちで決めた」と語ったが、それは本当に「自分の意思で」「選手が個人として意思表示すること」なのは分からない。

 語弊を言えば、反アジア人差別運動はファッショナブルではないが、「BLM」はファッショナブルでありうる。「なでしこジャパン」の選手たちは、その欧米のファッショナブルな風潮に安易に乗っかっただけなのではないか。

 その場合、普通は「自分の意思で」「選手が個人として意思表示すること」とは言わない。「同調圧力」に屈したと言うのだ。


 むろん「同調圧力」なるものは欧米にも存在する。

(PC版は「続きを読む」につづく)




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男女日本代表敗退で再び火が付いた自虐的日本サッカー観
 1年前の今頃、2018年6月は……。サッカー日本代表はロシアW杯で惨敗するだろう。そして、またぞろネット世論を含めたサッカー論壇は、自虐的な日本サッカー観(日本人論・日本文化論から見たネガティブな日本サッカー観)で溢(あふ)れかえるだろう……などと、すっかり悲観的になり、喚(わめ)きたてていた。


 ところが、西野ジャパンは下馬評を覆(くつがえ)して1次リーグを突破した。本当に恥ずかしい。

 2018年ロシアW杯では、日本代表が一定の成果を収めたために、奇妙キテレツで自虐的な「サッカー日本人論」の類は、あまり流行(はや)らかなったように思われる(もっとも,NHKのドキュメンタリー番組「ロストフの14秒」での,イビチャ・オシム氏の首を傾げたくなるような発言はあったけれども)。


 しかし……。

 2019年6月になって、日本女子代表「なでしこジャパン」がフランス女子W杯のベスト16で敗退、男子日本代表がコパアメリカ(南米選手権)の1次リーグで敗退(さらに20歳以下の男子日本代表が,U20ワールドカップのベスト16で敗退)……という、各カテゴリーの日本代表が「不完全燃焼」で終わる事態が続き、前年は不発だった「火薬」=自虐的な日本サッカー観が、サッカー論壇で「再着火」している気配がある。

「決定力不足」という「日本人」の病!?
 男女の日本代表とも、共通の課題があるとされていて、例えば「決定力不足」である。


 宇都宮徹壱氏は次のように語る。
 もっとも、決定力不足に関しての森保一監督の認識は……決して森保監督のオリジナルではなく、最後の外国人指揮官である〔「現時点で最後」と書くべきでは?〕ヴァイッド・ハリルホジッチ監督も、繰り返し述べてきたことだ。


 さらにさかのぼればジーコ監督時代の15年くらい前にも、日本の「決定力不足」は盛んに指摘されていた。今となっては信じられないだろうが、〔2006年〕W杯ドイツ大会に出場していた時にも、試合前に繰り返しシュート練習が行われていたのである(結局、この大会で日本は2ゴールしか記録していない)。このように「決定力不足」は、日本代表にとって根深い歴史的な課題であり、そこだけをクローズアップしてしまうと問題の本質を見失う危険性をはらんでいる。

 宇都宮徹壱氏が「〈決定力不足〉は,日本代表にとって根深い歴史的な課題」と言っているのは、単純に昔からそうだという意味ではなく、文脈上、一朝一夕に変えようがない日本(人)の国民性や文化といった次元で「根深い歴史的な課題」という意味である。これは「サッカー日本人論」である。どうしても宇都宮徹壱氏は、日本人論・日本文化論の「まなざし」で日本サッカーを見てしまう傾向がある。

 だから、あのジーコの名前とエピソードも登場する。ジーコは、その経歴を見る限り、特別優秀なサッカーの監督・コーチとは言えない。けれども、日本人の自虐的な日本サッカー観を大いにくすぐる人なのである。宇都宮徹壱氏や西部謙司氏は、熱烈なジーコ信奉者のそぶりは見せないが、しかし、どうしてもジーコを見限れないという人でもある。



 そんな折も折、ジーコが来日して、昨今の日本サッカーの決定力不足を嘆き、「これを改善しない限り,日本のサッカーは2020年の東京オリンピックでもよい結果を残せないだろう」とか何とか、また宣(のたま)ったのだという。*


 アンタにだけは言われたくはないわ……というサッカーファンもいると同時に、ジーコの発言に過剰反応する幼気(いたいけ)なサッカーファンもいる。


 ジーコ発言にこうした反応を見せることで、自身のサッカー観の賢しらを誇示する。その発言が日本人論がかっている。これこそ「自虐的サッカー観」である。こういう人たちに対しては、やはり、藤島大氏の「ジーコのせいだ」をあらためて援用せざるを得ない。


 2006年のドイツW杯の期間中、にジーコ監督が日本人の選手たちにシュート練習をさせていたことは、むしろ、ジーコの監督能力を疑わせるエピソードである。本来、いわゆる「日本サッカーの決定力不足」とは別問題なのに、いっしょくたにしてしまっている宇都宮徹壱氏などを見ていると、やはりジーコ・ジャパンとは日本のサッカー評論、サッカー観のリトマス試験紙なのだと感じてしまう。

「脳科学」的に「日本人」監督の采配能力は著しく劣っている!?
 もうひとつの共通の課題は監督の采配、より具体的には「監督の消極的な交代策」である。男女のサッカー日本代表(森保一氏,高倉麻子氏)とも、例えば、選手の交代が遅い、1試合の交代枠(3人)を余らせてしまう、選手を交代させても試合の流れを積極的に変えるものではない……等々の理由で、勝てる試合を失い、日本代表は早々と敗退したというものである。

 この件について、何か面白いネタがネット上にあるかもしれないと思って検索をしていたら、とても興味深いツイートが釣れた。「日本人」の監督は脳科学的(!)に、そして統計的(!)に能力が劣っていることが明らか(!)なのだという。


 しかし、ここでいう「脳科学」とは、誰の、どういう研究・学説なのだろうか? どうせ中野信子みたいな俗流なんじゃないのか……とか、「日本人」と他の人類を分ける(自然科学的な?)定義ってあるのだろうか……とか、その「日本人の脳」をどうやって分析したのか……とか、いろいろツッコミたくなるところではある。

 こうした「脳科学」による日本サッカーの「分析」には、デジャブ(既視感)がある。日本代表が「惨敗」した2014年ブラジルW杯の3か月後、テレビ東京系のサッカー番組「FOOT×BRAIN」が(疑似科学だと批判されている)脳科学者・中野信子を出演させてしまったことがある。
FOOT×BRAIN「目からウロコ!脳科学から見るサッカー上達法!」
2014年9月27日

中野信子_サッカー_フットブレイン1

中野信子_サッカー_フットブレイン2

中野信子_サッカー_フットブレイン3


 くだんのツイートは、中野信子をゲストに迎えた時の「FOOT×BRAIN」を思い出させる。一方、中野信子のような「脳科学者」にはいろいろと疑義が提出されている。

 「日本人がサッカーで弱いのは科学的にも証明されている」という話。要は、日本サッカーが「世界」で負けると頻出する疑似科学的日本人論の一種である。

いよいよ「なでしこジャパン」言説まで日本人論化するのか?
 またまた、話はサッカー日本代表が「惨敗」した2014年のブラジルW杯になる。

 小説家で、サッカー関連の著作もある星野智幸氏が「日本のサッカーのうち,男子日本代表は〈日本的〉であるがゆえに愚劣だが(ただし本田圭佑のような〈日本人離れ〉したキャラクターを除く),女子日本代表〈なでしこジャパン〉は誇るべきものである」といった意味合いの、自虐的日本サッカー観に満ちたエッセイを書いていた(星野智幸「ガーラの祭典」@『エンタクシー』42号掲載,下記リンク先参照)。

 つまり、サッカー女子日本代表「なでしこジャパン」は、自虐的な日本サッカー観やサッカー日本人論の「枠の外」に置かれてきた。しかし、2019年フランス女子W杯の意外に早い敗退を受けて、またその評価を受けて、いよいよ日本女子サッカー&なでしこジャパン言説も、いよいよそうした風潮に呑み込まれてしまったかのような反応が散見される。

 現時点(2019年6月)の時点では、それはハッキリとは見極めがつかない。「要経過観察」といったところか。そのように「発症」してしまったと確信できたら、あらためて論考したい。

 いずれにせよ、こういう思考や精神は、日本サッカーの批評にも創造にもつながらない。

(了)



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 小説家・星野智幸氏のエッセイから、サッカー日本代表がW杯で惨敗するたびに頻出する「日本人ダメダメ論」のパターンを解説します。
星野智幸ポートレート
【星野智幸氏】

文学・思想畑のスポーツ評論
 権威があった頃の昔のスポーツ新聞の記者は、虫明亜呂無(むしあけ・あろむ)の小癪なスポーツ評論など馬鹿にしていたらしい(参照:武田薫「長嶋ジャパンを援護せよ」)。

 しかし、時代が変わり関係は逆転した。文学界・思想界の住人が、時々思い出したかのようにドヤ顔でスポーツの領域に踏み入ってきては、勿体(もったい)づけの激しいスポーツ評論をまき散らす。スポーツ界やスポーツマスコミ、スポーツファンは、それを過剰なまでに有難がる……という風潮が、むしろ当然のようになっている。

 文芸誌『en-taxi〔エンタクシー〕』第42号(扶桑社,坪内祐三ほか責任編集)が2014年に掲載されたサッカー・ブラジルW杯の特集は、そんなドヤ顔企画のひとつだった。タイトルは「[特集]サッカーの詩学~〈ブラジル〉のあとに思うこと」

 どこかで聞いたことがあると思ったら、カルスタ系学者たちの手による『サッカーの詩学と政治学』という本があった。「○○の詩学」……とは、いかにもな命名である。


今福龍太と佐山一郎の悪ノリ
 ご多分にもれず『en-taxi』のブラジルW杯特集のコンテンツは、どれも酷い。
特集「サッカーの詩学」エンタクシー42号
【エンタクシー第42号「特集 サッカーの詩学」の扉】

 今福龍太氏は、例によって、過剰な思い入れ、閉鎖的な美意識、勿体ぶった修辞で、思わず鼻をつまみたくなる、自己陶酔のきつい、批評の形(なり)をした散文詩である(参照:今福龍太「フチボルの女神への帰依を誓おう」,題名からしてナルシズム臭がただよう)。

 佐山一郎氏は、例によって、サッカーにおける「日本人ダメダメ論」「自虐的日本サッカー観」の放埓な佐山ワールドを炸裂(さくれつ)させる(参照:佐山一郎「SANURAIとカナリア、その苦痛へのまなざし」,この「まなざし」自体が翻訳調のインテリ臭い言い回しである)。

 今回、なかんずく俎上(そじょう)に載せるのは小説家・星野智幸氏の「ガーラの祭典」である。

「ガーラの祭典」と招かざる客ニッポン
 ところで「ガーラ」とは何か? 「garra」、スペイン語である。もともとは「爪」を意味する単語だが、スペイン語圏、南米ウルグアイ発祥の「勇敢さと不屈の精神力」を意味する概念として伝えられる。

 日本のサッカーファンには、「ゲルマン魂」と呼ばれたドイツ代表(かつての西ドイツ代表)の驚異的な勝負強さや精神力になぞらえて、「ウルグアイ版ゲルマン魂」として紹介されたことがある。
 星野智幸氏は言う。ブラジル大会を見れば見るほど、W杯が「ガーラの祭典」であることを感じる。ウルグアイのみならず、ブラジル、アルゼンチン、チリ、コロンビア、コスタリカ、メキシコと、名勝負を見せてくれたチームには、皆この「ガーラ」が輝いていた。

 中南米だけでなく、アメリカ合衆国やアフリカのアルジェリア(余談だが,このチームの監督がハリルホジッチ氏だった)なども、私(星野智幸)は「ガーラ」を見た。

 「ガーラ」こそ、サッカーの神髄である。しかし……。

 ……ひるがえって日本代表を思い返すと、最も欠けていたのが「ガーラ」だった。そもそも「ガーラ」を日本語にするのは難しい。ガッツ、気合い、根性、気迫、闘魂等々。どれも、しっくりこない。以下、原文から引用すると……。
 日本でいう根性、気合いといった言葉の裏には、精神主義が張りついている。それは、上からの指示への絶対服従(己を殺せ)と、失敗したときの自己責任論(おまえの根性が足りなかったせいだ)が、もたれ合いながら作られた、体育会系的な価値観だ。

 ガーラは、まず何よりも個人の意志から始まる。集団の力が発揮されるのはその後だ。ガーラを待った者たちが集まり、意志の交換を通じて信頼を築き上げたとき、有機的なチームとなる。勝とうという集団的な熱狂だけで、自分の主体が覚醒していない状態であるならば、どうして状況の変化に個々人が機敏に対応できるだろうか。

 私〔星野〕は日本の初戦、対コートジボワール戦を、現地のスタジアムで観戦した。選手たちに気合いは入っていただろう。でもガーラは発動していない選手が多かった。ガーラを見せていたのは、本田〔圭佑〕と内田〔篤人〕だった。〔中略〕

 日本のサッカー文化の中には、まだガーラが育っていないのだ。それを選手にだけ求めるのは酷というものだ。

 「ガーラ」はサッカーの神髄である。しかし、日本のサッカー、日本のスポーツ、否、体育会的な価値観=精神主義は「ガーラ」とは似て非なるものである。日本のサッカー文化の中には、まだガーラが育っていない。つまり、日本人は「ガーラ」を、すなわちサッカーを理解することができない……。

 また「ガーラ」とは「何よりも個人の意志から始まるもの」である。ひるがえって日本人は「精神主義」と「集団的な熱狂だけで、自分の主体が覚醒していない状態」でしかない。日本のサッカー文化の中には、まだガーラが育っていない。つまり、日本人は「ガーラ」を、すなわちサッカーを理解することができない……。

日本サッカー論壇における「構造主義」
 ……こういう話の持っていき方に既視感(デジャヴ)を覚えたのだとしたら、その読者の感覚はまったく正しい。星野氏は、独自性ある見解を示したのではなく、日本のサッカー論壇の「お作法」に従ってこのエッセイを書いたにすぎないからだ。

 日本のサッカー論壇には「日本的であること,日本人であること」はサッカーというスポーツにとって非常に不適格なことである、という考えが根深くある。反面、サッカー的であるということは、それ自体「日本的ではない」のである。

 日本サッカー界は「日本的=非サッカー的/非日本的=サッカー的」という本質主義と二元論の思想に拘束されている。これは大変な劣等感であり、日本人の自虐的な日本サッカー観の基になっている。つまるところ、サッカーにおける「日本人ダメダメ論」と「自虐的日本サッカー観」である。

 日本のサッカー論壇は、1970~80年代の日本サッカー低迷時代から、この図式にのっとって日本サッカーを自虐的に、かつ飽くことなく論じてきた。そうすることで論者は、サッカーへの理解と批評精神の表明をしたとされてきたのである。

 「ガーラ」なる概念を持ってきた星野氏の「まなざし」は、一読するとユニークに思える。が、その実「日本的=非サッカー的/非日本的=サッカー的」なるものの表象を「ガーラならざるもの/ガーラ」として論じてみせただけである。

 また、もうひとつ星野氏が使った「日本的=集団(的な熱狂)=非サッカー的/非日本的=個人(の意志)=サッカー的」の対比の図式は、日本のサッカー論壇が長年にわたり頻々と多用してきた表象である。

 要するに、星野氏は、サッカー論壇の常套句を、少しばかり目先を変えて書いてみせただけにすぎない。あまりにもベタな展開に、読んでいる方がウンザリさせられる。

反動形成として本田or中田を称揚
 加えるに「日本的であること,日本人であること」への度し難い劣等感の反動形成(?)として、「日本人離れ」している(とされる)日本人サッカー選手への度し難い称揚がある。星野智幸氏の場合は本田圭佑であった(もう1人いるが省略)。

 同様の前例として、村上龍氏や島田雅彦氏と中田英寿の関係がある。
中田英寿(左)と本田圭佑
【中田英寿(左)と本田圭佑】

 村上氏は『フィジカル・インテンシティ』ほか、島田氏は『中田語録』(ただし単行本のみ)に書いた序文「ゴールの向こうに」ほか(参照:島田雅彦vs玉木正之 ドイツW杯特別対談「選手を自由にさせたら高校生になっちゃった」)で、中田英寿をひたすら称揚していた。

中田語録
文藝春秋
1998-05

 こうした太鼓持ちは、サッカー選手への評価として正しくないばかりか、日本サッカーをさまざまな形で歪ませる。それが2006年ドイツW杯や2014年ブラジルW杯での日本代表の惨敗や、2018年のハリルホジッチ氏日本代表監督解任事件の遠因でもある。

サッカー言説の凡庸さについてお話させていただきました
 文学者や思想家といえば、高尚で個性的な視点で、私たちのサッカー観に新鮮な刺激を与えてくれると思いがちだが、大間違いである。陳腐な二元論の思想のテンプレートをなぞり、目先の表象や過剰な思い入れの対象を変えて読者に提供するだけなのである。

 文学者ほどサッカーを語れない。呆れるばかりの凡庸さである。

(了)


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 初めにことわってくと「電通型スターシステム」ではなく「『電通』型スターシステム」である。電通ではなく、「 」付きの「電通」である。つまり、実在する大手広告代理店の電通ではなく、日本サッカーにおけるある現象の記号としての「電通」なのである。

『電通…は何をしているのか?』を読む
 2018年4月9日のヴァイッド・ハリルホジッチ氏のサッカー日本代表電撃解任以来、ネットを中心に「ハリルを解任に追い込んだのは、日本代表や日本サッカー協会とかかわりの深い電通の陰謀である」との風説が流布している。

 電通は広告業界1位、ガリバーとまで呼ばれる、大変な力を持った会社である。マスコミから、原発から、オリンピックから、サッカーW杯から……。社会のあらゆる部分にかかわり、牛耳る、日本の陰の支配者=電通。したがって、電通を批判することはいかなるジャーナリストにとってもタブーである……。こんなイメージが先行してきた。



 それでは、電通は今回のハリル氏解任に関与したのか、していないのか。実際のところはどうなのだろう? そう思って、業界2位の広告代理店=博報堂出身で、広告業界の内情に詳しい中川淳一郎氏(PRプランナー,ネットニュース編集者)の著作『電通と博報堂は何をしているのか』を読んでみることにしたのである。



 この本の中に「サッカー日本代表のスタメンは電通が決めているのか?」と題された文章があるからだ。このテーマにこそ、ハリル氏解任の謎を解くカギがあると考えられている。

 すなわち、日本代表のスタメンを決める権限は監督にはない。日本サッカー協会にもない。その権限は、日本代表のスポンサーや広告を取りまとめる電通にある。ハリル氏はそれを拒み、本田圭佑や香川真司といった「スター選手」の招集や起用しなかった。だから、ハリル氏は、電通の圧力を受けた日本サッカー協会によって解任された……と、ネットではもっぱらの噂だからである。

 著者・中川氏自身は、「陰謀論」については全面否定の立場をとる。


 『電通…は何をしているのか?』の方も、その線で解説されている。なるほど、広告業界の内側にいた人だからこそ分かる陰謀論否定の理由が述べられており面白い……。

 ……しかし、あの程度ではまだまだ足りない。底なし沼のような疑心暗鬼に陥ったハリル氏解任陰謀論者たちを黙らせるには、もっと緻密で徹底した論述が必要になる。

 中川氏は『電通…は何をしているのか?』の話のマクラとしてサッカーの話をしているのだから、文量が足りないのは仕方がない。中川氏には、いずれ機会を改めて「サッカー日本代表のスタメンは電通が決めているのか?」について、じっくりと論じてほしい。

スターシステムの条件とは?
 それでも『電通…は何をしているのか?』の「…スタメンは電通が決めているのか?」には、いろいろ興味深い話が登場する。中川氏曰く、過去、ネット上で「電通がスポンサー契約を盾に日本代表への選出を強要」していると噂されたサッカー選手は、次の4人がいる。
  • 中田英寿 中村俊輔 本田圭佑 香川真司
 彼らは、いやらしい言い方をすると「電通」に愛された選手たちである。換言すれば、日本サッカーの特異な風習「スターシステム」に祭り上げられた選手である。むろん、無能なのにマスコミに煽(あお)られることはない。皆、サッカー選手としての才能なり実績なりを示してきたから、こうした地位につくことができる。

 4人のうち、中村俊輔と香川真司はサッカー日本代表の公式スポンサーにして、ユニフォームのサプライヤーであるところのアディダスジャパンの契約選手である。この2人に関する陰謀論は非常にわかりやすい。いわばアディダス型スターシステムである。

 それでは、中田英寿と本田圭佑はいかなる意味でのスターシステムなのか? 他にもスター候補生はいただろうに、なぜ、この2人が祭り上げられたのか?

 「…スタメンは電通が決めているのか?」には、本田圭佑が電通に見捨てられ、柴崎岳(しばさき・がく)に取って代わられるのではないか……と、インターネットの大型電子掲示板「2ちゃんねる」(現・5ちゃんねる)に書き込まれた話が登場する。

 2016年12月、日本で行われた世界クラブ選手権の決勝で、スペインの名門レアルマドリードに大善戦し、準優勝したJリーグの鹿島アントラーズ。その鹿島で大活躍をしたのが柴崎だったからである。
〈新たなスターの誕生で本田さんは完全に終わったな。
 もう電通からは相手にされなくなる。
 逆に柴崎は電通に祭り上げられて戸惑うだろうな。〉
〔2ちゃんねるの書き込み〕

 この書き込みの意図は、とにかく商売っ気たっぷりな電通は常にスターを探し続け、所属先のACミラン〔当時〕でも出場機会が少ない本田の時代がもう終わりだと見切りをつけるということを予想したものである。そして、次世代のカネのなる木(CM出演や興行の企画などの主役)として柴崎を利用するのでは、ということだ。

 だが、これは完全に邪推しすぎである。通常、人気のスポーツ選手は……〔以下略〕

中川淳一郎『電通と博報堂は何をしているのか』20~21頁

 しかし、果たして2018年5月時点で、日本サッカーのスターシステムに君臨しているのは柴崎岳ではなく本田圭佑である。なぜ、柴崎は本田を押しのけてスターシステムに乗れないのか? スターシステムとは、ネット民が憶測するような形、つまり電通が恣意的に決めるものではないからだ。

 柴崎岳と本田圭佑(あるいは中田英寿)、いったい何が違うのか?

「電通」型スターシステム(仮称)
 まず第1に、本田圭佑と中田英寿の2人は、日本代表にとって最も重要な試合、すなわちワールドカップでの本当の意味での「絶対に負けられない戦い」で、日本を勝利に導く活躍をしていることである。すなわち、本田は2010年南アフリカW杯初戦の対カメルーン戦。中田は1997年11月のW杯アジア第3代表決定戦、いわゆる「ジョホールバルの歓喜」だ。

中田英寿(左)と本田圭佑
【中田英寿(左)と本田圭佑】

 どちらも絶体絶命にあった日本代表の救世主となった試合である。

 第2に、これはさらに大切な要素だが、2人とも「言動・立ち居振る舞いが『日本人離れ』」していることである。日本サッカーの文脈では「日本的であること・日本人であること」はサッカーというスポーツにとって非常に不適格なことであるとされる。反面、サッカー的であるということは、それ自体、日本的ではないことなのである。

 つまり、日本サッカーは「日本的(日本)=非サッカー的/非日本的(世界)=サッカー的」という二元論の思想に拘束されている。これは大変な劣等感であり、日本人の自虐的な日本サッカー観の基になっている。

 しかし、本田圭佑や中田英寿は「日本人離れ」しているのである。だから(それだけでも?)サッカー選手として優れているのである。彼らの言動・立ち居振る舞いは、「日本的であること・日本人であること」の根深い劣等感にさいなまれている日本のサッカー関係者の心の襞(ひだ)を刺激するのである。

 加えて第3に、本田も中田もマスコミ向けの自己演出に非常に巧妙であること。これには、彼らのイメージを煽り立てる提灯持ちライターの存在もある。中田ならば金子達仁と小松成美、本田ならば木崎伸也である。金子達仁と木崎伸也は師弟関係にあるから、中田英寿⇒本田圭佑というスターシステムの系譜はつながっているのである。


 柴崎岳にはこういった要素がない。これらの条件がそろって、初めて日本サッカーのスターシステムが動き出す。この類型については適切な呼称が思い浮かばないが、アディダス型スターシステムに対して、便宜的に「電通」型スターシステムと呼ぶこととする。

「世界」…欧州から遠く離れて
 「電通」型スターシステムが発動すると、ひたすらその選手への称揚が止まらなくなる。マスコミの「批評」「批判」はまったく機能しなくなる。

 本田や中田はサッカー選手として全知全能であり、他の日本人選手とは隔絶している。日本代表が勝てるのも、これすべて本田や中田のおかげである。彼らの発する言葉は、より高い視点から発せられた日本サッカーの助言であり、警句である。さらにメッシやネイマール、クリスティアーノ・ロナウドらに準じるワールドクラスの選手である。……かのように、マスコミは賛美し、いたいけなサッカーファンもそれは信じ込む。

 本田も中田も「日本代表の絶対的エース」と見なされているが、2人とも「世界」と戦う、「世界」に勝つ……などという面倒くさいことはしない。否、そんなことはする必要はない。なぜなら、先に掲げた「日本/世界」の二元論の図式において、すでに彼らは「世界」の側にいるからである。愚鈍な「日本」の選手とは違うのである。

 彼らのビジネスの主戦場は、サッカーの本場=ヨーロッパ……ではなく、そこから遠く離れてのガラパゴス=日本である。このマーケットでは、「世界」の位置にある(とされる)本田圭佑なり中田英寿なりを、いかにして「日本」と差別化するかが主眼となる。

サンドニの悲劇と「世界」のNAKATA
 その差別化が実際の試合で表れることがある。中田英寿でいえば、2001年3月、アウェーで日本が、当時の世界王者フランスに0対5で大敗した国際試合である。日本代表は、前年のアジアカップを圧倒的な内容で優勝しており(ただし,中田はこの大会には不参加)、アジア王者として勇躍フランスに挑んだが、鎧袖一触。鼻っ柱をへし折られた。

 この試合を、1993年10月の「ドーハの悲劇」になぞらえて「サンドニの悲劇」と命名されているらしい(もっとも,この呼称はあまり定着していないようだが)。

 あいにく、この試合は土砂降りの雨に「重馬場」と、ほとんどの日本選手が苦手とするピッチコンディションだった。こんな中でいわゆる「フィジカルが強い」とされる中田英寿だけは評価されるプレーをしたとされる。少年少女向けに書かれた本郷陽一氏の著作『黄金のカルテット 中田英寿物語』には、この試合の中田の描写がある。
 ……サッカー選手としては、けっして恵まれているとは言えない体格で、〔中田英寿は〕はるかに大きい選手とぶつかり合い、ボールを奪い合い、鋭いシュートを放っていた。

 試合後、あまりに厳しい現実に意気消沈する〔日本代表の〕チームメイトのかたわらで、中田はこうコメントした。

 「本当に強い選手と戦うことの楽しさを満喫できた」

 やはり、世界に通用するのは「NAKATA」しかいなかった。

本郷陽二『黄金のカルテット 中田英寿物語』2~3頁

 「世界」のNAKATA(中田英寿にはローマ字表記の「NAKATA」が多用された)とサッカーならざる「日本」との対比が、いかにも鮮やかだ。「日本」が惨めに負ければ負けるほど、「世界」のNAKATAは光り輝く。実際、低迷気味にあった中田は、この試合で再び日本代表に君臨するようになった……。

 ……いかにも自虐的な日本人の日本サッカー観を刺激する、こうした評価のされ方には、やはり違和感がある。中田英寿は、あのフランス戦でゴールしたわけではないし、あくまで日本代表なのであって「敗者」であることに変わりはないからだ。

 しかし、「電通」型スターシステムは、何としても「世界」の側にいる中田英寿とサッカーならざる「日本」とを分け隔てるのである。

 中田にせよ、本田圭佑にせよ、いわゆる「フィジカルが強い」という定評がある。それは平均的な日本選手にないプレースタイルであって、時として試合で発揮される。これも「電通」型スターシステムに祭り上げられる条件である「日本人離れ」の一形態である。

ドイツW杯における中田英寿の猿芝居
 「電通」型スターシステムに乗った選手をマスコミが賛美し、メディア上の露出(CM出演など)が増えれば、その選手には自ずと「権力」が集中する。そして、監督者がブレーキをかけなければその選手は増長し、日本代表では我が物顔に振る舞うようになる。2006年ドイツW杯ジーコ・ジャパンにおける中田英寿、2014年ブラジルW杯ザッケローニ・ジャパンにおける本田圭佑がそうである。

 中田英寿は、時の日本代表監督ジーコの寵愛によって日本代表のレギュラーの座が確約されていた。中田は「世界」の立場から「日本」代表のチームメイトに、マスコミを通じて辛辣な批判を発信するようになっていった。曰く「仲良し集団では『世界』に勝てない」「走る基本ができていない」「もっと自己主張しろ」「戦う準備が足りない」等々。

 だが、中田本人も所詮は日本代表の一兵卒に過ぎない(キャプテンですらなかった)。しかも、すでにワールドクラスの選手への階梯からは脱落しており、イタリアの所属クラブでは控えメンバーだった。にもかかわらず、こんな上から目線で居丈高な態度がとれるのは、権力……すなわちジーコの優遇と「電通」型スターシステムのためである。

 日本サッカーにとって非常に不幸だったのは、ジーコが、少なくとも日本代表監督として甚(はなは)だ適性を欠いていたことである。また、よく言われる、組織や戦術を選手たちに強要した前任者のフランス人フィリップ・トルシエに対し、ブラジル人ジーコは「自由や自主性・個の力を重んじるサッカー」を掲げていた……という対比の図式は完全に間違いである。
 意外かもしれないが、ジーコ本人は、自らが率いた日本代表について自らの言葉で語るとき「自由や自主性・個の力を重んじるサッカー」云々の話はしない。こういう場合のジーコの言い分は「(クラブチームと違って)代表チームの監督は時間がとれないからチームが熟成しなかった」という、拍子抜けするほど単純なものである。ジーコ本来のサッカー観については、著者が本人名義になっている『監督ジーコ 日本代表を語る』で読める。

監督ジーコ 日本代表を語る
ジーコ
ベースボールマガジン社
2006-02


 果たして、ジーコ・ジャパンは2006年ドイツW杯で惨敗する。だが、ジーコは免罪された。なぜなら「日本/世界」の二元論の世界観に従えば、自由・自主性・個の力を重んじるサッカーを目指したジーコは「世界」の側に位置しているからである。

 反面、「日本」の選手は自由や自主性あるいは個の力に大きく劣っており、ジーコの理想には応(こた)えられなかった。だから「日本」はジーコに惨敗の責任を問うことはできないのである。

 ただし、「世界」の側にいる「日本人離れ」した中田英寿は免罪された。「日本」が惨めに負ければ負けるほど、「世界」の中田英寿は光り輝く。
 「日本」の中で唯一、NAKATAだけがジーコに期待に応えられた。NAKATAだけが「世界」と戦うレベルにあった。NAKATAだけが真に戦う気持ちをもって試合に臨んだ……。マスコミはそんなナイーブな物語を喧伝した。

 1次リーグ第3戦(最終戦)の対ブラジル戦、1対4の大敗で終了後、中田はピッチ中央で倒れこんだ(その直後,現役引退を表明した)。

小松成美『中田英寿 誇り』表紙(上半分)
【英紙も酷評したドイツW杯における中田英寿のパフォーマンス】

 このふざけた行為には、植田朝日氏のように「日本代表の敗退が、中田英寿引退という個人的な話にすり替えられた!」と、ひどく立腹し、批判した真っ当な意見もあったが(参照:国書刊行会刊『日本サッカー狂会』)。しかし、大方には「世界」の流れにあって、遅れた「日本」を叱咤し続け、疲れきった痛ましい姿として受容された。



 見え透いた猿芝居だが、中田英寿はこういう日本向けの自己演出は本当に巧みである。W杯という「公」の大会、日本代表という「公」のチームは、引退後のビジネスをにらんだ中田のパフォーマンス
によって私物化
されてしまった。

 日本代表が惨敗したにもかかわらず、否、日本代表が惨敗したからこそ、中田英寿だけは日本という市場を標的に焼け太り(大儲け)したのである。

 こんなワガママ身勝手を許してきたことが、後に本田圭佑を台頭させることとなる。

歪んだ日本社会のアンチテーゼ
 それでは、本田圭佑は如何? 2014年ブラジルW杯1次リーグの初戦、日本vsコートジボワール戦の各種論評を観察していく。

 ノンフィクションライター・林壮一氏は、その著書『間違いだらけの少年サッカー』の中で、2014年ブラジルW杯における本田をひたすら礼賛する。
 確かに2014-15年の本田〔圭佑〕は、一皮剥けた感があった。1勝も挙げられなかったブラジルワールドカップでも、彼〔本田圭佑〕は日本の支柱だった。コートジボワール戦のゴールも美しかったが、同じように印象的だったのは、ボールを持ったドログバ〔コートジボワール代表のエース〕が縦に突破していくところを、〔本田圭佑が〕体を寄せてディフェンスしたシーンである。

 ドログバの存在感に、日本代表は完全に呑まれていた。足も止まりつつあった。ブルーのユニフォームの〔日本代表の〕面々に消極的なプレーが目立つなか、本田のスピリッツは生きていた。しかし、日本にはそれしか武器がないように見えた。

 ブラジルワールドカップにおける本田はけっしてベストコンディションではなかった。が、惨敗を受け入れ〔?〕、直〔す〕ぐに次の目標を見据えたのだ。キレをもたらすのに、どれほどの思いで己と向き合ったのか。2014-15年シーズン序盤の〔ACミランでの〕戦いぶりはそれを物語っていた。メンタルの強さこそが、本田圭佑を日本最強のフットボーラーとしている。

林壮一『間違いだらけの少年サッカー』22~23頁

 惨敗した「日本」にあって、本田だけは「世界」のレベルにあった。美しいゴールをした。本田だけが戦う気持ち、メンタルの強さ(?)を持っていた。フィジカルの強さも「世界」と比べて遜色なかった。本田圭佑が日本最強のサッカー選手たる所以(ゆえん)はそこにある……。

 ……つまり、サンドニの悲劇やドイツW杯における中田英寿礼賛が再現されている。

 『間違いだらけの少年サッカー』を読んでいると、著者・林壮一氏が過剰なまでに本田圭佑に思い入れを抱く理由が分かる。林氏は、さる大学の体育会サッカー部でプレーしていたが、これがすこぶる悪いスポーツ経験(思い出)だったらしい(この辺は,大西鐵之祐氏の下でラグビーをしていた藤島大氏とは対照的である)。


 林氏にとって日本の体育会とは、「悪しき日本の伝統」(同書17頁)にして「歪んだ日本社会」(同書18頁)の象徴。このアンチテーゼとして「日本人離れしたメンタルを持った本田〔圭佑〕のような若者」(同書240頁)を称揚するというシンプルな論理だ。これにも「日本」と「日本人離れ」の二元論の構造がある。

小説家・星野智幸のサッカー観の凡庸さ
 2014年、文芸誌『en-taxi〔エンタクシー〕』(扶桑社,坪内祐三ほか責任編集)が、サッカー・ブラジルW杯の特集をした(第42号)。タイトルは「[特集]サッカーの詩学~〈ブラジル〉のあとに思うこと」。どこかで聞いたことがあると思ったら、カルスタ系学者たちの手による『サッカーの詩学と政治学』という本があった。「○○の詩学」……いかにもな命名である。

エンタクシー42号 (ODAIBA MOOK)


 『en-taxi』のブラジルW杯特集のコンテンツは、佐山一郎氏も、今福龍太氏も、どれも酷いが、ここでは小説家・星野智幸氏の「ガーラの祭典」を取り上げる。「ガーラ」あるいは「ガラ」とは「garra」、スペイン語である。もともとは「爪」を意味する単語だが、スペイン語圏、南米ウルグアイ発祥の「勇敢さと不屈の精神力」を意味する概念として伝えられる。

 日本のサッカーファンには、「ゲルマン魂」と呼ばれたドイツ代表(かつての西ドイツ代表)の驚異的な勝負強さや精神力になぞらえて、「ウルグアイ版ゲルマン魂」として紹介されたこともある。
 星野智幸氏は言う。ブラジル大会を見れば見るほど、W杯が「ガーラの祭典」であることを感じる。ウルグアイのみならず、ブラジル、アルゼンチンチリ、コロンビア、コスタリカ、メキシコと、名勝負を見せてくれたチームには、皆この「ガーラ」が輝いていた。

 中南米だけでなく、アメリカ合衆国やアフリカのアルジェリア(余談だが,このチームの監督がハリルホジッチ氏だった)なども、私(星野智幸)は「ガーラ」を見た。

 「ガーラ」こそ、サッカーの神髄である。しかし……。

 ……ひるがえって日本代表を思い返すと、最も欠けていたのが「ガーラ」だった。そもそも「ガーラ」を日本語にするのは難しい。ガッツ、気合い、根性、気迫、闘魂等々。どれも、しっくりこない。以下、原文から引用すると……。
 日本でいう根性、気合いといった言葉の裏には、精神主義が張りついている。それは、上からの指示への絶対服従(己を殺せ)と、失敗したときの自己責任論(おまえの根性が足りなかったせいだ)が、もたれ合いながら作られた、体育会系的な価値観だ。

 ガーラは、まず何よりも個人の意志から始まる。集団の力が発揮されるのはその後だ。ガーラを待った者たちが集まり、意志の交換を通じて信頼を築き上げたとき、有機的なチームとなる。勝とうという集団的な熱狂だけで、自分の主体が覚醒していない状態であるならば、どうして状況の変化に個々人が機敏に対応できるだろうか。

 私〔星野〕は日本の初戦、対コートジボワール戦を、現地のスタジアムで観戦した。選手たちに気合いは入っていただろう。でもガーラは発動していない選手が多かった。ガーラを見せていたのは、本田〔圭佑〕と内田〔篤人〕だった。〔中略〕

 日本のサッカー文化の中には、まだガーラが育っていないのだ。それを選手にだけ求めるのは酷というものだ。

 ……林壮一氏の場合と同様、日本のスポーツ、否、体育会の、いわば「悪しき日本の伝統」と「歪んだ日本社会」のアンチテーゼとして本田圭佑が、ここでも登場する(もう1人いるが省略)。本田だけには「ガーラ」が宿っているのである。

 「ガーラ」はサッカーの神髄であると当時に、「サッカー的なるもの」の表象である。それは「日本的なるもの」ではない。日本人であり、日本的である以上は「ガーラ」を、すなわちサッカーを理解することはできない。「日本人離れ」した本田圭佑や中田英寿のような奇跡的な例外を除いては。

 また「ガーラ」とは「何よりも個人の意志から始まるもの」である。反面、日本人は「精神主義」で「集団的な熱狂だけで、自分の主体が覚醒していない状態」でしかない。つまり、日本人は「ガーラ」を、すなわちサッカーを理解することはできない。「日本人離れ」した本田圭佑や中田英寿のような奇跡的な例外を除いては。

 こういう話の持っていき方に既視感(デジャヴ)を覚えたのだとしたら、読者の感覚は正しい。星野氏は「日本的=非サッカー的/非日本的=サッカー的」の図式を、主に「ガーラならざるもの/ガーラ」として論じた。一方、サッカー論壇は、1970~80年代の日本サッカー低迷時代から、この表象を「日本的=集団(主義)=非サッカー的/非日本的=個人(主義)=サッカー的」として飽くことなく、かつ自虐的に論じてきた。

 その裏返しとしての「個人主義」で「日本人離れ」したサッカー選手の礼賛……。要するに、星野智幸氏の本田圭佑礼賛は、かつての村上龍氏の中田英寿礼賛と本質的に変わりがない。さらには島田雅彦氏とも変わりがない(先のリンク先参照)。



 文学者といえば、個性的な視点で、私たちのサッカー観に新鮮な刺激を与えてくれると思いがちだが、大間違いである。陳腐な世界観(二元論)のテンプレートをなぞり、目先の表象や過剰な思い入れの対象を変えて読者に提供するだけなのである。

 文学者ほどサッカーを語れない。呆れるばかりの凡庸さである。

本田圭佑だけが現実を見ていた
 こんな歪(いびつ)な情況は、サッカー専門ジャーナリズムでも変わりがない。サッカー専門サイト「フットボールチャンネル」の植田路生氏も、2014年6月15日付「夢うつつ精神的に脆かったザックジャパン。コートジボワール戦、必然の敗北。本田だけが見ていた現実」なる一文で、本田圭佑を評している。
 ……日本代表は本田圭佑のゴールで先制するも後半に2失点。その後、リズムを取り戻すことができず、そのまま敗れた。〔中略〕

 〔日本は〕精神的に弱いと言わざるを得ない。まるで自己分析ばかりしている就職活動中の学生のようだ。面接官の鋭い質問に、本意でないことを口走ってしまう。〔中略〕

 〔しかし〕この試合、戦っていのは本田圭佑だけだった〔出ました!〕。コンディションをこの試合に合わせ、ぬかるんだピッチにも足をとられず振り抜いた左足から先制点を生んだ。状況に合わせて上下左右に動きまわり、ティオテ〔コートジボワール代表〕ら中盤の激しいプレスをどうかわすかを考えていた。
この試合、戦っていのは本田圭佑だけだった
【「フットボールチャンネル」のWEBページから】

 ビハインドの状態でも本田はボールをキープすることができたが、如何せん仲間がついてこなかった。〔中略〕

 気付いたら追い詰められていた。そして負けた。〔日本の中で〕今のところ現実を見ているのは本田だけだ〔また出ました!〕。チームとして夢の世界から帰ってこなければ、ギリシャ戦も危うい。

 またしても、本田圭佑だけが戦っていた。本田圭佑だけが通用していた、本田だけは現実を見ていた(高い意識を持っていた)……で、ある。「日本」が惨めに負ければ負けるほど、「日本人離れ」した本田圭佑は光り輝く。

 ひとつの目安として、オリコンニュースの「本田圭佑のCM出演情報」を見てみる。すると、2014年ブラジルW杯以降、本田のCM出演は、サッカー関連のスポンサー企業以外にもバラエティが増している。

 日本代表が惨敗したにもかかわらず、否、日本代表が惨敗したからこそ、本田圭佑だけは日本という市場を標的に焼け太り(大儲け)したのである。

簒奪(さんだつ)されたサッカー日本代表
 さすがに最後の植田路生氏による提灯記事については、本田圭佑信者からも異論が出ている。ブログ「サッカー講釈」で知られる武藤文雄氏が苦言を呈している。


 理由は不明だが、くだんの植田氏の「フットボールチャンネル」WEB記事は現在ネット上から削除されている(先の引用文はWayback Machineから復元したもの)。


 例えば野球のようなバット・アンド・ボール・ゲームならば、全日本選抜(日本代表?)の先発投手が世界最強アメリカ大リーグ選抜に孤軍奮闘、惜敗して「部族の神話的英雄」になるということはあるだろう(沢村栄治さんゴメンナサイ)。

 しかし、11人1チームで有機体をなす攻守一体のフットボール=サッカーで、1人だけ惨敗の責任を免れ、数段高いレベルのプレーしたなどということはない。しかも、2014年ブラジルW杯のサッカー日本代表は、何から何まで本田圭佑のために誂(あつら)えられたチームだったのである。

 時の日本代表監督アルベルト・ザッケローニが初め志向していた、いわゆる「縦に速いサッカー」。これをポゼッションとパスワークでゴールに迫る、選手たちが好んだ、いわゆる「自分たちのサッカー」に舵を切るようザッケローニに要望したのは、本田圭佑・長谷部誠・遠藤保仁の3人であったとされる。



 それも含めて本田は批評を受けるべきだった。にもかかわらず、日本代表の中で本田だけがワールドクラスのパフォーマンスをしたかのようなバイアスが流布している。

果てしなく膨張する本田圭佑の「個」
 日本代表チームの同僚に上から目線の言動をしたがる悪癖も、中田英寿から本田圭佑に継承されている。有名なものが、2013年6月5日、ブラジルW杯アジア予選突破翌日の共同記者会見での発言である。
――(本田に)W杯優勝、そしてコンフェデ杯優勝を目標にしているが、チームとして、そして個人として何が必要か?〔記者の質問〕

本田 シンプルに言えば個だと思います。というのは、昨日GKの川島選手がしっかりと1対1を止めたところをさらに磨く。今野(泰幸)選手がケーヒルに競り勝ったところをさらに磨く。(長友)佑都と(香川)真司がサイドを突破したところ、そこの精度をさらに高める。ボランチの2人がどんな状況でも前線にパスを出せるように、そして守備ではコンパクトに保ち、ボール奪取を90分間繰り返す。岡崎選手や前田遼一選手が決めるところをしっかり決める……。

やたらマウンティングしたがるサル山のサル「本田圭佑」20130605
【膨張する「個」は「力」ではなく「欲望」】

 結局、最後は個の力で試合が決することがほとんどなので、むしろ日本のストロングポイントはチームワークですが、それは生まれ持った能力なので、どうやって自立した選手になって個を高められるかというところです。自分が前に出るという強い気持ちで集まっているのが代表選手だと思うので、この1年短いですが、考え方によっては1年もあるとも言えます。真司や佑都みたいにトップクラブでやってる選手もいると思いますし、ただそうでない選手もいます。でも、そうでない選手もやれることはあると思います。そこを今野選手みたいに憧れみたいな気持ちでいられると困りますが、同じピッチに立っていますし、大先輩なんでそこはアドバイスをくれればと思っています。


 コメント後段の、特に今野泰幸選手を貶めるかのような発言は不遜きわまりないものだ。だが、「電通」型スターシステムにドップリ浸かったマスコミなどは、「公開説教」などと面白おかしく伝えた。今野選手はじめ名指しで侮辱された選手たちは気の毒だった。
 本田の発言を分析してみると、面白いことが分かる。

 サッカーにおいて「日本のストロングポイントはチームワークで」「それは生まれ持った能力」であるが、しかし、「最後は個の力で試合が決する」。(そして、日本は生来「個」を備えていない)だから「自立した選手になって個を高められるか」……。

 ……つまり、ここにも「日本的=チームワーク(集団)=非サッカー的/非日本的=個・自立(個人)=サッカー的」の二元論の図式がある。非日本的にしてサッカー的という特権的な地位にある本田圭佑は、その立場から日本的で非サッカー的な他の日本代表選手を公の場で「説教」できるのである。

 本人の口から語ってくれると非常に分かりやすい。本田圭佑は、これだけの放埓が許されるだけの「権力」がある。

金で買ったミランの背番号10
 他人様に「個の力を高めよ」とご高説を垂れる本田圭佑の「個の力」は、実際いかほどのものか。前出の林壮一氏は『間違いだらけの少年サッカー』の中で、「日本人選手で最も高い地位まで上り詰めた本田圭佑」(同書22頁)。ACミランという「トップチームに名を連ねる本田圭佑がどれだけ険しい山を登ったのかが分かる」(74頁)などと、絶賛している。

 しかし、欧州サッカーの傍流を歩んできた本田が、イタリアの超名門ACミランに背番号10というエースナンバー付きで移籍できたのは、純粋に実力を評価されたからではない。日本企業のスポンサーマネーを持ち込み、アジア市場からの収入を期待されたからである。事実、前所属クラブからの移籍金はゼロだった。これには日本の大手広告代理店・電通も1枚噛(か)んでいると言われる。
 モーターレーシングF1の世界では、実力には乏しいが持参金やスポンサーをチームに持ち込んで出場機会を得るレーサーがたくさんいて、そんな人のことを「ペイドライバー」と呼ぶ。ACミランにおける本田圭佑の立場は、まさにペイドライバーである。
 低迷中とはいえ、ACミランはとても本田圭佑の身の丈に合ったクラブではない。イタリアのマスコミは、本田のことをミランの「マーケティングマン」と冷ややかに呼び、背番号10にもかかわらずパンキナーロ(イタリア語で「ベンチウォーマー」の意)が多いことを嘲(あざけ)った。にもかかわらず、「電通」型スターシステムに染まった日本のマスコミは、本田の「活躍」を針小棒大して伝えた。

本田圭佑_東洋タイヤCM
【ACミラン 本田圭佑 東洋タイヤCM】

 中田英寿も同様。もっとも、さすがにNAKATAは実力でF1のレギュラーの地位(イタリアのペルージャからASローマの移籍)をつかんだ人である。

 しかし、そこから伸び悩んだ。1~2度、表彰台でシャンパンファイトはした。だが、世界チャンピオン(バロンドール?)になった、その座を争った、グランプリで優勝した……とは言い難い。イタリアの所属クラブでは控えに甘んじるなど、スランプ状態にあった。それでも、「電通」型スターシステムに染まった日本のマスコミは、NAKATAの「活躍」を針小棒大して伝え、いかにも「世界」のスーパースターであるかのように扱った。

 時の日本代表監督フィリップ・トルシエは、そのことを不思議がっていたという。

スターシステムの克服
 これらの現象は、世界サッカーの標準とは全く違う次元で動いている。

 「日本のサッカーは『世界』と比べてレベルが低い」という場合、本来、その日本サッカーの中には本田圭佑も中田英寿も含まれる。本田や中田が切り離されて、はるか上位に位置するということはない。しかし、「電通」型スターシステムは、何が何でも「世界」の本田、「世界」のNAKATAを「日本」から切り離し、差別化する。

 「日本」と差別化され、スターシステムに乗った本田圭佑や中田英寿には「権力」が集中する。それは日本サッカー協会(JFA)も、日本代表監督もコントロールが利かなくなる。むしろ、JFAなどはスターシステムに阿(おもね)るようになる。

 それが日本サッカーをさまざまに歪曲させる。2018年4月9日、ハリルホジッチ氏が日本代表監督を突如として解任されたのは、多分に以上のような背景がある。むろん……。
  • スターシステムに乗った本田圭佑(や香川真司)といった一部の選手、大手広告代理店の電通、キリンやアディダスジャパンなどのサッカー日本代表のスポンサー企業が、田嶋幸三JFA会長に命令してハリルホジッチ監督を解任させたなどと言うような、マンガみたいな「陰謀」はなかったかもしれない。
 ……しかし……。
  • スターシステムに乗った本田圭佑(や香川真司)といった一部の選手、大手広告代理店の電通、キリンやアディダスジャパンなどのサッカー日本代表のスポンサー企業の存在が、ハリルホジッチ監督を解任した田嶋幸三JFA会長の判断に何がしかの影響を与えた蓋然性はある。
 ……ぐらいは言えるかもしれない。真相は白か黒かという問題ではない。

 本田圭佑や中田英寿にまつわる「電通」型スターシステムは、大手広告代理店の電通が、特定の選手を「ご指名」して祭り上げられるものではない。それはある条件を満たした場合に偶発的に出現する。これが当ブログの長い長い彷徨の果ての、ひとつめの結論である。

 人為的なものではないからこそ、その弊害は大きく、なおさら克服は難しい。

 サッカージャーナリストや評論家の中には、日本サッカーにまつわる陰謀論など信用しない、スポンサーシップの悪影響(圧力)など存在しない……という人がいる(小澤一郎氏,川本梅花氏,清水英斗氏,西村健氏ほか)。たしかに「陰謀論」などという、いかがわしい代物に首を突っ込むのは物書き(や評論家,研究者)にとってプライドを損ねることであろう。

 だが、スターシステムとスポンサーシップの問題ならば、現前と存在する。2014年ブラジルW杯の日本代表キャンプ地選定の問題(キリンのブラジル法人本社のある都市イトゥ.地理的にコンディションの調整が難しく,W杯本大会の日本惨敗の原因のひとつとされた)、アディダスジャパンの意向で日本代表の背番号10が指定されていること(香川真司や中村俊輔)、同じく選手の集合写真の並びが決まっている問題……等々。

背番号10はアディダスの選手
【『朝日新聞』電子版から】

 ハリルホジッチ解任事件を「陰謀論」ではなく「日本サッカーとスターシステム,またはスポンサーシップ」の問題とすれば、堂々とジャーナリズム・評論・アカデミズムの対象になりうる。

 現実に噛み付かないジャーナリズム・評論の方こそ、信用できない。ハリル氏解任事件の真相、あるいは「電通とJFA」「電通と日本サッカー」の裏面史を、有志のどなたかに調査報道してほしいと思う。

 大手広告代理店の電通というと、ハリル氏解任陰謀論の世界観では、本田圭佑とともに、日本サッカーを食い物にする悪の総本山といったイメージがある。しかし、昔は不人気な日本サッカーを何とかしようと、チアホーンや日章旗を観客に配ったりしていたのだ。それが30~40年でどう変容したのか?

 ジャーナリズムだけでなく、アカデミズムの視点、スポーツ社会学やカルスタスポーツ学(カルスタ)からも、本田圭佑や中田英寿のスターシステムに斬り込んでほしい。とかくカルスタは、ナショナリズム批判、ジェンダー論、2020年東京オリンピック批判といったある種の「政治性」がないと興味・関心がわかないともいわれるのだが……。

山本敦久@a2hisa
【成城大学・山本敦久准教授のツイッターから】

 ……しかし、本田圭佑は、ツイッターなどでは自己責任論的で新自由主義的な意見を発信し、一説に政治家への野心もあると言われている。その政治志向は明らかだろう。だからこそ、本田(あるいは中田)にメスを入れるべきなのである。

 ハリルホジッチ氏をめぐる一連の騒動は、「陰謀論」の問題ではない。日本サッカーについてまわるスターシステムとスポンサーシップの問題を顕在化させたのである。その批判と克服こそは日本サッカーの重要課題である。

 これが当ブログの長い長い彷徨の果ての、もうひとつの結論である。

(了)


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