明治最初のフットボール…サッカーか? ラグビーか?
日本人による日本のラグビーのルーツが慶應義塾なのは異論のないところだ。1899年(明治33)の秋、在日英国人の教師エドワード・B・クラークと、その学友・田中銀之助が学生たちにラグビーを教えたとある。
- 日本ラグビーのルーツ~慶應義塾体育会蹴球部の歩み 2019/06/27
それでは、日本人による日本のサッカーのルーツは? これが意外と難題である。
一般に信じられているのは、日本サッカー協会(JFA)公式サイトの「沿革・歴史」にあるように「1873年(明治6)に英国海軍のダグラス少佐(中佐説あり)と将兵が来日し,東京・築地の海軍兵学寮で学生たちにサッカーを教えた.これが日本でサッカーが紹介された最初というのが定説になっている」というものである。
- 日本サッカー協会(JFA)沿革・歴史
ところが、この「通説」に物言いを付け、「海軍兵学寮で行われたフットボールは、サッカーではなくラグビーである!」と強硬に異論を唱えてきたのが、ラグビー史研究家の秋山陽一さんであった。秋山さんの主張は、日本ラグビー狂会編『ラグビー・サバイバー』所収の「フットボールの憂鬱」という論考にまとめられている。
この論争は甲論乙駁。詳細は省くがサッカー側からも反論があって、つまり、日本人による日本における最初のフットボールが、サッカーなのか、ラグビーなのか、分からなくなってきているのである(この件は,いずれ当ブログで採り上げたい)。
そして、サッカーにせよ、ラグビーにせよ、ここで行われたフットボールは、後が続かず途絶えている。
工部大学校で行われた「サッカー」もその後途絶えた
もうひとつ、日本サッカーの「ルーツ」の候補として挙げられているのが、海軍兵学寮とほぼ同時期にフットボールが紹介されていた、東京大学工学部の前身「工部大学校」である。
これに関してはOBが「アッソシエーション」式と証言しているので、アソシエーションフットボール、すなわちサッカーであることがほぼ確定している(詳しくは下記リンク先参照)。
- 蹴球本日誌「日本におけるサッカーの伝来に関する一考察(未完)」October 02, 2010
- 蹴球本日誌「『旧工部大学校史料』におけるサッカー」July 09, 2005
しかし、ここに伝えられたサッカーは、後に途絶えてしまった。
日本ラグビーのルーツは前述のとおり、慶應義塾のE・B・クラークと田中銀之助である。日本野球のルーツは、はじめ米国人教師ホーレス・ウィルソンが東京大学の学生たちに伝え、米国留学から帰国した日本人の鉄道技術者・平岡熈(ひらおか・ひろし)が、その人士を引き継いでさらに発展・拡大して全国に広まった。
- ホーレス・ウィルソン~殿堂入りリスト|公益財団法人野球殿堂博物館
- 平岡熈~港区ゆかりの人物データベースサイト
平岡が活動していた時代に野球に熱中した有名人に、例えば文豪の正岡子規がいる。
- 正岡子規~殿堂入りリスト|公益財団法人野球殿堂博物館
これらに比べると、日本サッカーの起源譚は何となく華々しさに欠くところがある。
草創期「日本サッカー史」の曖昧さ
前掲、日本サッカー協会(JFA)の「沿革・歴史」のページにある草創期の日本サッカー史の記述を見ても、今ひとつ明晰ではなく記述が混乱している印象がある。
日本サッカー協会(JFA)の沿革・歴史 | ||
1863 | 文久3 | The Football Association(The FA/英国サッカー協会)設立。 |
1873 | 明治6 | イングランドサッカー協会(The FA)創設から10年後、英国海軍教官団のA.L.ダグラス少佐と海軍将兵が来日。東京築地の海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)で日本人の海軍軍人に訓練の余暇としてサッカーを教えた(これが、日本でサッカーが紹介された最初というのが定説になっている)。 |
1878 | 明治11 | 体操伝習所(のちの東京高等師範学校体操専修科)が創設され、教科の一つにサッカーが取り入れられる。 |
1885 | 明治18 | 坪井玄道らが著した『戸外遊戯法―名戸外運動法』が刊行。書内第17項で「フートボール(蹴鞠の一種)」に競技のやり方が紹介。これが日本語でサッカーを紹介した最初の文献であると言われている。 |
1896 | 明治29 | 東京の高等師範学校(東京高師)にフートボール部が設立される。 |
https://www.jfa.jp/about_jfa/history/ より作成 |
例えば、上記の年表では、1878年(明治11)の項目で「体操伝習所」の教科のひとつにサッカーが取り入れられたとあり、一方で1885年(明治18)に日本語の文献で初めてサッカーが紹介されたとある。
この辺はかなり曖昧で、それでは1885年以前の「体操伝習所」の内部では「サッカー」はどのような形で行われていたのだろうか? そして「サッカー」に関する情報はどのような形で共有されていたのだろうか?
年表では次いで、1896年(明治29)に東京の高等師範学校(東京高師)にフートボール部(後の蹴球部=サッカー部)が設立されるとある。要するに、日本サッカーの実質的なルーツは、海軍兵学寮でもなく、工部大学校でもなく、旧制東京高等師範学校(東京高師)すなわち、現在の筑波大学である。
前掲の通り、慶應義塾が日本ラグビーのルーツなのは自他ともに認めるところであるが、東京高師=筑波大学が日本サッカーのルーツだというのは、今ひとつ巷間に浸透していない。こういった史実は、関係者であってもひっそりと語られることが多い。
- 参照:サロン2002「日本サッカーのルーツを語ろう!~東京高等師範学校の足跡を中心に」(サロン2002の理事長・中塚義実氏は筑波大学蹴球部=サッカー部のOBである)
ちなみに、慶應義塾で「蹴球部」といえばラグビー部のことで、東京高師=筑波大学で「蹴球部」といえばサッカー部のことである。この辺は、両フットボールの日本における来し方を示しているようで興味深い。
後藤健生さんによる中村覚之助の再評価
2020年の東京オリンピックを1年後にひかえ、雑誌『東京人』は2019年8月号で「近代スポーツことはじめ」という特集を組んだ。
この企画で、サッカージャーナリストの後藤健生さんによる「発展の陰に、〈この人〉あり」と「さきがけは、〈学校〉から」という、明治時代初期~中期の日本のスポーツ事情を紹介した記事が2本掲載されている。
当然、明治時代の日本のサッカー事情にも触れているのだが、これらの記事では、現代の日本サッカーの直接のルーツ、画期となった人物として、旧制東京高等師範学校の学生・中村覚之助(なかむら・かくのすけ)のことを再評価している。
【中村覚之助】
中村覚之助については、これまでにも日本サッカー史に重要な役割を果たした人物として、たびたび採り上げられてはいた。
- 和歌山県ふるさとアーカイブ「サッカー紹介者~中村覚之助(なかむら・かくのすけ)」より
- 和歌山県那智勝浦町「八咫烏と日本サッカーの生みの親~中村覚之助について」2012年11月27日
すなわち、洋書を翻訳して『アッソシェーション.フットボール』として刊行し、東京・大塚にあった土地を整地して蹴球部(サッカー部)の練習場とし、横浜居留地の外国人クラブ(横浜カントリー&アスレチッククラブ,YC&AC)と日本初の対外試合をの実現に尽くした人物が中村覚之助である。
後藤健生さんは、読者(サッカーファン)にあらためて中村覚之助を紹介したのである。
中村覚之助が殿堂入りできない日本サッカー界
ところが、これだけの功労者が、2019年7月時点で日本サッカー殿堂に掲額されていないのである。牛木素吉郎氏のように、この人を日本サッカー殿堂に入れようという声は、これまでにもあった。
- 牛木素吉郎「中村覚之助を殿堂に」2011年08月24日
しかし、なぜ、中村覚之助は無視されるのか?
前述のラグビー史研究家・秋山陽一さんも指摘しているところであるが、日本サッカー協会および日本サッカー界の歴史観は、1974年に出たJFAの50年史『日本サッカーのあゆみ』に示された歴史観を乗り越えていないところがある。
『日本サッカーのあゆみ』では、中村覚之助の功績はあまり大きく取り上げられていない。前掲JFAの「沿革・歴史」のページでも、日本サッカー殿堂の掲額者にしても、古い人の顕彰については『日本サッカーのあゆみ』に依拠している印象がある。
- 日本サッカー殿堂│掲額者一覧(個人)|JFA|日本サッカー協会
中村覚之助が歴史上、公的な評価を受けていないのは、どうも、こうした事情があるのではないか。
来たる2021年には、日本サッカー協会も創設100周年を迎える。あれから日本サッカー史などに関する研究は進んでいる(はずだ)し、日本サッカー殿堂に掲額される人もそれを反映させるべきではないか。
個人的には、この中村覚之助と、マンガ『キャプテン翼』の原作者・高橋陽一氏、ヤタガラス(八咫烏)の日本サッカー協会旗をデザインした彫刻家・日名子実三の3人は、是非とも日本サッカー殿堂で顕彰するべきである。
違いますかね? JFAの田嶋幸三会長?
(了)