当ブログでは、たびたび次のようなことを書いてきました……。
スポーツには、アメリカ野球(MLB)、ラグビーフットボール、大相撲など「応援団が存在しないスポーツ」と、日本野球(NPBほか)、バスケットボール、アメリカンフットボールなど「応援団が存在するスポーツ」に大別される。
それは、「前近代」から存在し、長い歴史を持つスポーツ、すなわちアメリカ野球(MLB)、ラグビーフットボール、大相撲などと、「近代」以後に外来文化として輸入された、あるいは人為的に作られたスポーツ、すなわち日本野球(NPBほか)、バスケットボール、アメリカンフットボールなどとの違いである。
「前近代」から存在し、長い歴史を持つスポーツは、競技者と見物人の境目は曖昧であり、見物人(観客)には「飛び入りの自由」が許された長い歴史があった。そうしたスポーツでは、見物人が「応援」などという、競技者がそのスポーツを競技することとは直接関係ないパフォーマンスに興じることはない。
だが、「近代」以後の歴史しかない新しいスポーツは、競技者と見物人(観客)が最初から区別されている。そのため「見るだけの人」(観客)の欲求不満が募り、独自のパフォーマンス(応援)を行う「応援団」を生み出したのだ。
……というものです。この説は、玉木正之氏(スポーツライター)の持説として、折に触れて主張してきたものです。
当ブログは、この「説」のさらなるオリジナルは中村敏雄氏(スポーツ学者,教育学者,故人)の『メンバーチェンジの思想~ルールはなぜ変わるか』だと紹介してきました。
しかし、当ブログは2024年2月になって初めて『メンバーチェンジの思想』を読みました。そこで確認できたのは、中村敏雄氏が言及したのは「前近代のスポーツには競技者と見物人の区別が曖昧で見物人には〈飛び入りの自由〉があった.だが、スポーツが近代化されると両者は人工的に区別されるようになってしまった」というくだりだけです。
そこから「応援団が存在しないスポーツ/応援団が存在するスポーツ」の比較文化論に発展させたのは、あくまで玉木正之氏のオリジナルです。
結果として間違ったことを書いてしまいました。ここにお詫びし、訂正をいたします。
検索で分かった過去のエントリーについては、「お詫びと訂正」の文を入れてあります。次にリンクしておきます。
- 参照:アメリカ民謡『テキサス・ファイト』に日本の「応援団」文化の原点を感じた(2019年08月04日)https://gazinsai.blog.jp/archives/38168790.html
- 参照:玉木正之氏の持論「スポーツに応援団は不要?!」を批判する(2020年08月18日)https://gazinsai.blog.jp/archives/41544016.html
- 参照:玉木正之氏のスポーツでたらめ5大学説〈爆〉(2021年04月11日)https://gazinsai.blog.jp/archives/43557884.html
- 参照:フーリガンとサポーターと応援団~玉木正之氏の奇怪な認識(2022年03月10日)https://gazinsai.blog.jp/archives/46123655.html
- 参照:九州大学附属図書館の知性を疑う~玉木正之著『スポーツとは何か』をめぐって(2023年04月25日)https://gazinsai.blog.jp/archives/49013697.html
まぁ、当ブログの読解力に問題があるのは当然だが、玉木正之氏も曖昧な書き方をするんですよねぇ……。
この原稿は2020年6月26日付『北國新聞』夕刊の月イチ連載『スポーツを考える・第53回』で書いたものです。応援団の存在については、スポーツ誕生時の「前近代/近代」という事情による……というのは、故・中村敏雄先生の展開された卓見ですが、その考えを引用しながら最近の喧しすぎる日本野球について考え直してみました。チョイと加筆(カッコ内です)して〈蔵出し〉します。玉木正之「無観客試合に応援は必要? 開幕日に思う日本野球の不思議」(2020-07-08)http://www.tamakimasayuki.com/sport/bn_329.htm
いやいや! ……中村敏雄氏はスポーツの「前近代/近代」についてはシツコク拘って論じているが、「応援団」の有無については論じていない。それは玉木正之氏のオリジナルだ。
玉木正之氏は、中村敏雄氏が論じたところと自身が考えたところを混同し、両者の区別がつかなくなっているのではないか?
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