スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

カテゴリ:サッカー > セルジオ越後

中条一雄さんを悼む
 中条一雄さん(朝日新聞)。賀川浩さん(サンケイスポーツ)、牛木素吉郎さん(読売新聞)らと並ぶ、サッカージャーナリスト第一世代の一人。その中条一雄さんが、2023年暮れ12月28日にひっそりとお亡くなりになっていたことを、つい最近知った。
  • 参照:尾崎和仁「中条一雄さんとの思い出」(2024年1月9日)https://blog.goo.ne.jp/sports-freak1960/e/fee8d4c721c3b3b825eaa55573dc735f
 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

エリック・バッティの逸話あるいは神話
 以下、文中敬称略。中条一雄の著作に『たかがスポーツ』(1984年)があるが、その中にこんな逸話が登場する。
私は非国民
 話は変わる。「ヤイヤイ、お前は非国民か」という投書をもらった。先ごろ〔1979年8月‐9月〕、東京で開かれた世界ユース・サッカー選手権〔現在のFIFA U-20ワールドカップ〕のとき、私〔中条一雄〕が新聞〔朝日新聞〕で日本チームを批判したのが気にさわったらしく、その読者はプンプン怒っている。「日本の若者は1年半青春を傾けて練習し、持てる力をせいいっぱい出し切ってがんばった。それなのに、お前、ケチをつけやがって、非国民め」。<1>

 非国民とは、これまたなつかしい。戦時中、意にそぐわぬ人物を抹殺するためにさかんに使った言葉、それをいま、若者らしいサッカー・ファンから聞こうとは……。

 日本チームは1敗2分けで、ベスト8にも入れなかった。私は率直に書いた。「日本チームが一段上のサッカーをやるためには、あまりにも欠陥が多すぎる。ウンヌン」。それがお気に召さなかったのか。一勝もできないのに、ほめろというのか。それではあまりにも夢が小さすぎやしないか。

 サッカーには偏執狂ともいうべきファンが多い。サッカーには、それだけ人を熱狂させる要素が多いということかもしれないが、熱狂することは反面視野を狭くするということでもある。〔中略〕

 1966年、イングランドがサッカーのワールドカップで初優勝し、ロンドン中が喜びに浮かれている時に、エリック・バッティという英人記者がこう書いた。「イングランドがこんな旧式の戦法を用いて地元優勝したことは、世界サッカー界にとっても、イングランドにとっても不幸なことだ」と。

 この勇気ある発言に対し、当然、英国中から非難と抗議が殺到した〔21世紀の現在で言えば「炎上」か?〕。だが数年後、彼の予言は早くも的中した。旧式サッカーから脱し切れないイングランドは'74年と'78年〔のワールドカップ〕には〔欧州〕地区予選すら突破できず、不振のドン底にあえぎ〈サッカーの母国〉という名称は今や語り草になりつつある。〔中略〕

 〔ワールドカップで〕優勝したイングランドを批判したバッティ記者、〔世界ユースで〕ベスト8にも入れない日本チームを批判した私。それなのに非国民といわれなくてはならないとは。バッティ〔≒サッカーの本場〕との差があり過ぎて泣けてくる。こんなに甘くて、やさしくて、早トチリするファンがいるようでは、日本のサッカーは永久に勝てぬと思うが、いかが。〔下線部,原文では傍点〕

中条一雄『たかがスポーツ』77~80頁


たかがスポーツ (朝日文庫 ち 3-1)
中条 一雄
朝日新聞出版
1984-07-01


 中条一雄は、折に触れてこの「エリック・バッティの逸話」を紹介していた。

 そして、この逸話は「サッカーの本場のジャーナリズムは自国のサッカーについてきわめて辛辣な(辛口な)批評をする」という俗説、すなわちセルジオ越後のようなサッカー評論を正当化する根拠とされてきた。
  • 参照:セルジオ越後 オフィシャルサイト https://www.sergio-echigo.com/
 「エリック・バッティの逸話」は、いわば「エリック・バッティの神話」でもあった。

 中条一雄自身も、賀川浩や牛木素吉郎らと比べて、先に引用文にあるように「辛口」な傾向があり、またセルジオ越後のことを非常に高く評価していた。

 セルジオ越後にお墨付きを与えたひとりが中条一雄だった……という言い方もできるのかもしれない。

セルジオ越後「辛口」サッカー評論の嘘
 ところが、セルジオ越後のサッカー評論なる代物は、単なる日本サッカーに対する誹謗中傷悪口雑言罵詈讒謗であり、とても読むに堪えない。そこからは「辛口」本来の「批評としての痛快さ」を全く感じ取ることができない。

セルジオ越後 辛口の真実
セルジオ越後
ぱる出版
2014-05-30


 セルジオ越後のような言動が許容されてきたのは、長らく「サッカー後進国」であり「冬の時代」にあった日本サッカー、その関係者の屈託の心理に付け込んできたからである。<2>

 しかし、今やインターネット・SNS全盛の時代である。嘘がだんだんバレてくる。

 吹聴していたブラジル時代のプロ選手としての華々しいセルジオ越後の経歴が実は詐称らしいとか、旧日本リーグ時代の実績も大して芳しくないとか……といった情報が、インターネット・SNSを通じて発せられるようになった。

 サッカーの本場のサッカー評論も、いつも「辛口」なのではなく、是々非々で評価している。そこで求められているものは、テレビの激辛王選手権に出てくるような「辛口」なのではなく、程よくスパイスが効いた「批評としての痛快さ」なのである……という情報も、インターネット・SNSを通じて発せられるようになった。

 これらの情報は、日本のサッカーを睥睨(へいげい)していたセルジオ越後の「権威」を失墜させる。セルジオ越後には「批評としての痛快さ」がない、ただ不快なだけだ。……という声がサッカーファンからようやく出るようになった。

 「サッカー後進国」であり「冬の時代」にあった日本サッカーという「鳥なき島」に飛来したブラジル蝙蝠(こうもり)、それがセルジオ越後だったのである。

 だが、蝙蝠はあくまで蝙蝠である。鳥ではない。ましてや「カナリア」ではないことが分かってきたのである。

エリック・バッティの「神話」は、実はいつもの繰り言?
 そこで今度は「エリック・バッティの神話」の方である。

 サッカージャーナリストの後藤健生は、自身が中高生だった頃、英和辞典を頼りに英国のサッカー誌『ワールドサッカー』を読み、英語を学びながら海外サッカーの情報を入手していたという思い出話をたびたび書いている(次のリンク先参照)。
  • 参照:後藤健生「バイエルンのサッカーは面白かったか? プレッシング・スタイルを凌ぐ新たな動きに期待」(2020年8月31日)https://news.jsports.co.jp/football/article/20190310219022/
  • 参照:後藤健生「勝点の桎梏から開放された結果の〈5対4〉 ケイン,ヴァーディーの2ゴールはイングランド代表への朗報?」(2018年5月15日)https://news.jsports.co.jp/football/article/20180515155523/
 この『ワールドサッカー』誌の名物記者がエリック・バッティだった。

 バッティが当時(1960年代後半)よく書いていたのが「昔のサッカーは面白かった。今はハードワークばかりで守備的で面白くない」だとか「最近のサッカーはフィジカル重視、守備重視で面白くない」だとかいった「辛口」評論だった。

 当時はジョージ・ベスト(マンチェスターユナイテッド所属、北アイルランド代表)の全盛期で、例えばFWのベストにボールが渡ると、彼はゆっくりと前を向いてドリブルに移り相手DFと勝負を始める。DFもベストが前を向くまではむやみに仕掛けない。

 ヨハン・クライフのアヤックスやオランダ代表のように、全員がボールハンティングに行くようなサッカーが一般的になるのはこれより後。アリゴ・サッキのACミランが、プレッシングを前面に押し立てたサッカーをするのはこれより20年数年後のことである。

 そんな時代だったのに、バッティは「昔のサッカーは攻撃的でよかった」と言っていたのである。

 この辺の話から類推すると、エリック・バッティがW杯で優勝したイングランド代表のことを「イングランドがこんな旧式の戦法を用いて地元優勝したことは、世界サッカー界にとっても、イングランドにとっても不幸なことだ」と酷評したという話も、実は彼が「いつもの繰り言」を書いただけに過ぎなかったのではないか?

 そして、中条一雄は、エリック・バッティの逸話を「サッカーの本場のジャーナリズムは自国のサッカーについてきわめて辛辣な(辛口な)批評をする」という「神話」として誤読・曲解してしまったのではないか?

 その分、日本のサッカー文化を歪めてしまったのではないか?

 ……そんなことを考えてしまうのである。





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高橋陽一先生
 サッカー漫画・アニメの金字塔『キャプテン翼』の原作者・高橋陽一先生の「日本サッカー殿堂」入り(掲額)が決まった。たいへん喜ばしいことである。
  • 参照:公益財団法人日本サッカー協会「第19回日本サッカー殿堂 掲額者決定」(2023年06月22日)http://www.jfa.jp/news/00032360/
 あらゆる日本のサッカー関係者は、高橋陽一先生に足を向けて寝ることができない。

 『キャプテン翼』といえば、思い出すことがある。

 一部でカリスマ・サッカー本扱いされている、細川周平(音楽学者,フランス現代思想家)の著作『サッカー狂い』(1989年初版)は、『キャプテン翼』のことを凡百な「熱血,スポ根,紋切り」のサッカー漫画だと酷評していた。

サッカー狂い―時間・球体・ゴール
細川 周平
哲学書房
1989-01T


 時代的制約とはいえ、『サッカー狂い』は、そのあまりに極端な「自虐的日本サッカー観」に唖然呆然とさせられるサッカー本である。

 要するに細川周平氏は、Jリーグ以前の「日本サッカー冬の時代」(1970年代初め~1990年代初めの約20年間)にあって、日本のサッカーに絶望して、欧州・南米のサッカーに「思想的亡命」をした人物である(ある意味「海外厨」と呼ばれる厭味なサッカーファンの走りでもある)。

 ところが、細川周平氏の思想的亡命先となった欧州・南米のサッカー界の、ワールドクラスのサッカー選手たち……ジネディーヌ・ジダン、ティエリ・アンリ、アレッサンドロ・デルピエロ、フランチェスコ・トッティ、リオネル・メッシ、セルヒオ・アグエロ、カカ、フェルナンド・トーレス、アンドレス・イニエスタ、シャビ、アレクシス・サンチェス、ハメス・ロドリゲス……らが、外国語に翻訳された『キャプテン翼』の影響を受け、ファンであることを公言していた。

 細川周平氏にとって、何とも皮肉な話である。

 『キャプテン翼』は、単なる「熱血,スポ根,紋切り」のサッカー漫画ではなかったのである。

セルジオ越後
 しかし一方、今回(第19回)の日本サッカー殿堂掲額者決定には、あのセルジオ越後も選ばれていた。実に残念なことだ。こっちは少しも喜ばしくはない。

 セルジオ越後のサッカー評論は、読んでいて少しも痛快ではないから。むしろ不快だからだ。

 この人物を評して「辛口評論」と言う。しかし、その実は、スパイスを効かせた美味なる料理ではなく、テレビ番組の「激辛王選手権」にでも出てくるような、ゲテモノとしての辛口(激辛)料理である。

 その代償として、私たちは「日本サッカーへの〈味覚〉」というものを、大きく後退させてしまった。完全にサッカーの批評眼が麻痺しているのである。

 こうした精神的土壌から、例えば金子達仁(セルジオ越後の弟子筋の人物)のような「電波ライター」も台頭する。

吠えるセルジオ越後『サッカーダイジェスト』1993年11月24日号より
【やけに威勢のいいセルジオ越後(1993年,ドーハの悲劇の直後)】

 元ラグビー選手、元ラグビー日本代表で、スポーツ社会学者の平尾剛氏は、2022年のカタールW杯を観察して「〈厳しい批判に晒してこそ選手やチームは成長する〉という考えは間違いである」、そして「行き過ぎた攻撃は誹謗中傷であり,控えるべきだ」という意見を発表した。
  • 参照:平尾剛「〈厳しい批判は選手のため〉は本当か…W杯で伊藤洋輝選手のバックパスを非難した人たちに伝えたいこと~アスリートはファンとの〈非対称な関係性〉に苦しんでいる」(2023/02/24)https://president.jp/articles/-/66717
 至極もっともだ。そして、そんな悪しき風潮の形成に大きく加担した人物が、セルジオ越後だ。

 セルジオ越後は、日本人のサッカー観を目茶苦茶に駄目にしたのである。





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毒をもって毒(セルジオ越後)を制す
 日本のサッカーばかりか、日本の他のスポーツ(例えばラグビー)にまで、これを貶める暴言を吐くようになったセルジオ越後にムカついて、そういや、セルジオ越後には経歴詐称疑惑があったな……と、いろいろネット検索をいじくっていたら、rulli-coco氏という人のブログに当たった。

 セルジオ越後の経歴詐称疑惑について、しつこく批判しているわけだが、まさに毒を以て毒を制す……。rulli-coco氏は癖の強い、相当変な面白い人である。

 この人のブログは、挑発的なモノ言いや、場合によってはかなり極端な主張で、これはハッキリ好悪が分かれる。むろん、その言い分に全て共感することはない。しかし、そんなおかしなことばかり言っているわけでもない……とは思う。*

サッカー「辛口批評」というフィクション
 それはともかく、そのrulli-coco氏によるセルジオ越後批判である。氏は、セルジオ越後の経歴詐称問題のみならず、セルジオ越後が日本に定着させた「サッカー強豪国,ことに南米のブラジルやアルゼンチンなどのサッカー評論は,選手や監督,チームを徹底的に批判する」という話も間違いである……と説く。
強豪国は辛口が常識というウソ。評論家によって違い、幅がある
 この男〔セルジオ越後〕は、「海外では失敗した選手を叩いている」と主張し、自分〔セルジオ越後〕が選手を攻撃するのを正当化していますが、これは大嘘です。

 日本人は、海外の新聞を原文で読まないアホが多いので大嘘がまかり通っています。

 海外の新聞を読めば優しい評論家は居り、人それぞれです(当たり前ですよね)。

 アルゼンチンの名将カルロス・ビアンチ監督(クラブ・チームで世界一3回。世界最多記録を持つ名将)などは、ミスを犯した選手にも目線が優しい人物です。

【カルロス・ビアンチ氏(写真中央の人物)】

 W杯2018年、ロシア大会のGL第2戦のクロアチア戦で、大ミスをし、クロアチアのFWに間違ってパスをしてしまい、それで失点したアルゼンチン代表のGKウィルフレード・カバジェーロに対して、日刊紙クラリンのコラムで、ビアンチは、「今は、彼のメンタルを回復させる事が最も重要だ」と述べ、失敗した選手を擁護する評論をしました

 (ビアンチは、アルゼンチンでは大尊敬されており、このコラムは敗戦翌日に見出し記事のすぐ下、まるで「クラリン」の社説のように紹介されていました。日刊紙クラリンは、アルゼンチンで最も発行部数の多い一般新聞紙です。試合は0-3の歴史的惨敗でしたが、ビアンチはGKを擁護しました。「彼は、他でピンチを救っていた」、「次の試合も絶対に彼を起用すべきだ」とも述べ、ミスを犯したGKを批判から守っていました])。

【カルロス・ビアンチ氏】

 故に、南米が誰でも(特に評論家が)「失敗した選手を叩きまくっている」などというこの男〔セルジオ越後〕の話は、大嘘ですよ。

 日本のマスコミは、ろくに海外の新聞もコラムも読まないアホが仕事しているので、セルジオ越後の話を「常識」だと信じ、それを「強豪国の常識だ」と紹介しているんです。
そして、それが日本社会にまかり通っているのです。

 (セルジオ越後が一人で環境作りをし、それに成功したという感じです)。

 この男(元3流以下選手)が日本人に対し、偉そうに侮辱や難癖を言いたいので、「叩くのが当たり前」とか、「叩くから強くなる」と主張し、自分の酷いやり方を、自己正当化しているだけに過ぎないのですが、日本人は、それを全く読み取れていません。

 これも日本人が、「ブラジル人詐欺師」〔セルジオ越後〕にだまされている事の1つでしょう。

 強豪国に厳しい評論家が居る事は事実です。

 日本でも有名なオズワルド・アルディレス(アルゼンチン代表。W杯1978優勝メンバー)はこの敗戦翌日、同じ新聞上で「史上最低のアルゼンチン代表チームだ」と猛批判しました(ビアンチよりかなり小さな扱いでしたが)。

 故に、強豪国では、この様に容赦なく批判する元選手も居ますが、(ビアンチの様に)擁護する人も居て、人それぞれです。

 つまり強豪国は、「人それぞれ」が常識で、色々な意見を各評論家が述べ、幅があります。

 この男〔セルジオ越後〕が、「叩くのが常識」と日本人に説明しているのは「大ウソ」という事です。

「セルジオ越後、史上最悪の経歴詐欺師」
(2019-03-02)
 例えば、こうした間違った「海外サッカー強豪国の常識」を鵜呑みにして出世した人物が、かの花形スポーツライター・金子達仁氏である(『激白』参照)。そして、金子達仁氏の読者たちも、セルジオ越後の影響下にある。

 金子達仁氏は、セルジオ越後の弟子筋の人間に当たる。だから、武藤文雄氏サッカー講釈師さんによる「セルジオ越後の言うことなんか誰も本気にしていない」などというセルジオ越後擁護論は的外れである。

奥寺康彦をベタ褒めするベッケンバウアー
 しかし思うに、ここでもう一押しして欲しかったのである。

 例えば、その海外の新聞(アルゼンチン「クラリン」紙)に出た、カルロス・ビアンチ氏のインタビュー記事のWEB版があったらリンクを貼ってほしかったし、紙媒体だけならば、(差し障りのない範囲で)紙面をスキャンしてアップするなり、テキストを文字起こししてほしかったのである。

 引用元・出典を明らかにして、読者が「追試」し、確認できるようにしてほしかったのである。

 しっかりした「裏付け」があれば、その分だけ説得力を増すからである。

 こういう例はほかにもある。rulli-coco氏は、日本人初のブンデスリーガ選手として長く活躍した奥寺康彦選手の再評価をライフワークにしている。中田英寿が過大評価されている一方で、奥寺康彦が過小評価されているというのは、たしかに本邦サッカー界、サッカー文化の問題である。
  • 「奥寺康彦と中田英寿。」(2019-12-02)
 では、奥寺康彦は何が凄かったのか? くだんのブログでは、サッカー界の皇帝ベッケンバウアーは、奥寺康彦を次のように高く評価したと紹介している。
皇帝フランツ・ベッケンバウアーから認められた、奥寺康彦
 フランツ・ベッケンバウアーは、ドイツのマスコミに向かって、奥寺康彦について話した。

 「残念だが、奥寺の良さは、君らには理解できないし、説明しても分からない。私や〔オットー・〕レーハーゲルのような人物にしか分からないよ」とだけ述べた。


「名将、名選手による奥寺康彦への評価。~歴史、第16回[最終回]」
(2019-10-11)
 いや、いい……。カッコイイ。男なら(女でもいいが)こんな凄いセリフを吐ける人間になってみたい。また、こんな凄いセリフで評価される人間になってみたいものだ。

 それはともかく、このベッケンバウアー発言の出典はどこだろうか? それがハッキリしないので、rulli-coco氏のエントリーの主張も、いまひとつ説得力に欠ける。疑い深い人は、該当のコメントは氏の「捏造」ではないかと勘ぐってしまうかもしれない。

ベッケンバウアー発言の元ネタはどこか?
 実は、佐波拓也(さば・たくや)氏の著作『プロフェッショナル・ドリーム~奥寺康彦サッカー・ドキュメント』(1986年)に、くだんのベッケンバウアー発言そっくりのコメントが登場する。そこで、あらためて紹介すると……。
 奥寺〔康彦〕は……ブンデスリーガで「東洋のコンピューター」とまで称されるようになった。

 あの西ドイツ〔当時〕の皇帝フランツ・ベッケンバウアーは、ブレーメン〔当時の奥寺康彦の所属クラブ〕が一躍優勝戦線に登場したとき、マスコミの取材に応じて語ったことがある。

 「残念だが、奥寺の良さは、君らには理解できないし、説明してもわからない。私やレーハーゲル〔ブレーメン監督〕のような人物にしかわからないよ」

 ある日本人――奥寺の可能性を見つけ、見守ってきた三村恪一氏〔みむら・かくいち,1931年生,サッカー指導者〕は、それをうけて言った。

 「私〔三村恪一〕は、おそれおおくてベッケンバウアーが言ったことがどういうことか、わかりません。ただ私なりに、奥寺君を見てきた経験からすると、サッカーの試合中は……〔以下略〕



 ……漢字か平仮名かという細かい用字以外は、rulli-coco氏が引用したコメントとほとんど一緒である。元ネタは佐波拓也氏の本で間違いないはずだ。

マルクスが説く「共産主義」とは,幽霊か? 妖怪か?
 なぜなら、ベッケンバウアーが奥寺康彦をこう評価した発言は、ドイツ語で発せられたものだろうから、外国語を翻訳した場合、単純な文章でも翻訳者によって日本語の文言が微妙に変わって来るものだからだ。

 カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの共著『共産党宣言』の、あの有名な冒頭部分も、翻訳者の違いによって異同がある(なお直接の引用は,呉智英の『言葉につける薬』からである)。
マスクスとエンゲルス『共産党宣言』冒頭の一節
 "Ein Gespenst geht um in Europa - das Gespenst des Kommunismus"(ドイツ語の原文)

 「ヨーロッパに幽霊が出る――共産主義という幽霊である」(大内兵衛・向坂逸郎訳,岩波文庫)

 「ヨーロッパをひとつの妖怪がゆく。共産主義という妖怪が」(相原成訳,新潮社,マルクス・エンゲルス全集)

 「一つの妖怪がヨーロッパをさまよっている――共産主義という妖怪が」(村田陽一訳,大月書店,マルクス・エンゲルス全集)

 「一つの妖怪がヨーロッパを歩きまわっている――共産主義という妖怪が」(宮川実訳,平凡社,世界教養全集)

 「一個の怪物がヨーロッパを徘徊してゐる。すなはち共産主義の怪物である」(堺利彦・幸徳秋水共訳,青空文庫

 「亡霊はヨーロッパに出没している-共産主義の亡霊」(Google翻訳)


 ことほど左様に違うわけである。

 だから、rulli-coco氏が引用したベッケンバウアー発言が、佐波拓也氏の著作のそれとほとんど同じということは、くだんの発言の元ネタが『プロフェッショナル・ドリーム~奥寺康彦サッカー・ドキュメント』と見て、まあ、間違いないのである。

本当に「革命」を起こしたいのであれば…
 ところで、rulli-coco氏の自己紹介におけるキャッチフレーズは「たった1人で,革命を起こす男」である。しかし、本当に「革命」を起こしたいのであれば、少しでもその主張の説得力を高めるべく鋭意するべきではないかと思う。

 「革命」と言えば、前出のマルクスであり、その代表作といえば『資本論』である。

 共産主義・社会主義が間違っていたのかは否かはここでは問題とはしないが、なぜマルクスの『資本論』は、20世紀の世界史をあれだけ引っ掻き回したのか? 『資本論』は観念的な理屈をこねていただけでなく、瑣末だが具体的な事実に異様なまでにこだわり、その分、説得力を高めているからだ……との指摘がある。
具体的なことを
 有名な大論文と言えば、マルクスの『資本論』などは代表的なものであろう。

 これを読んでみてもわかるように、もう全篇が具体的記述で充満している。

 イギリスの陶器製造業の労働者たちが極度に寿命が短いことの詳細な背景とか、合州国〔アメリカ合衆国〕の南北戦争のおかげでイギリスの木綿工業界はどのように機械の改良・大規模化がすすんでいったのかといったことが、実にこまかな具体的記述ですすめられる。

 あれだけの具体的記述で支えられているからこそ、世界をひっくり返すほどの説得力を持つにいたったとさえいえよう。〔以下略〕

本多勝一『日本語の作文技術』第10章より


【新版】日本語の作文技術 (朝日文庫)
本多勝一
朝日新聞出版
2015-12-07


 ましてや、マルクスでもヘーゲルでもない、一介のブロガーである。

 日本のサッカー文化に本当に「革命」を起こしたいであれば、その主張に対する裏付けをもっと徹底させるべきだろう。

(了)




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野球そのものより偉大な野球選手はいない
 野球のアメリカ大リーグには、次のような言葉がある。
どんなにベーブ・ルースが偉大であろうと野球より偉大ではない。
スパーキー・アンダーソン
 シンシナティ・レッズやデトロイト・タイガースで、MLBワールドシリーズを制した名監督による、けだし名言である。

 この発言は、スパーキー・アンダーソンの自伝『スパーキー!~敗者からの教訓』に出てきたとは思うのだが、正確には思い出せない。*

スパーキー!―敗者からの教訓
スパーキー アンダーソン
NTT出版
1991-11


 ちなみに、この本の「監修」は玉木正之氏で、あとがきでは例によって日本野球への当てこすりを書いていたような気がする。

サッカーそのものより偉大なサッカー選手などいない…はず…であるが…
 サッカーでも同様。ペレやヨハン・クライフがどんなに偉大であろうとサッカー(フットボール)そのものより偉大ではない。

 しかし、ここは世界の常識が通用しない日本である。日本には、日本サッカーそのものより偉大な人物が少なくとも2人いる。

 中田英寿(歴史的な偉人)とセルジオ越後(今回も敬称トルツメ)である。

中田英寿の「偉大」さ
 中田英寿については、ここでは深入りしない。……が、まずひとつは、時の日本代表監督にして、指導者としての資質が大いに疑われていたブラジル人=ジーコと癒着して、増長、サッカー日本代表を半ば私物化して、2006年ドイツW杯で、実に独りよがりで醜悪な現役引退パフォーマンスをおこなったこと。

小松成美『中田英寿 誇り』表紙
【英国大衆紙も酷評した中田英寿の引退パフォーマンス】

 もうひとつは、2010年にNHKが放送したドキュメンタリー番組「日本サッカーの50年」第4話で、ジーコと癒着した関係から、上から目線で「ジーコは(レベルが高すぎて)日本のサッカーには早すぎた指導者だった」などと、いけしゃあしゃあと発言したこと。

中田英寿@NHK「NHK日本サッカーの50年」第4話
【NHK「日本サッカーの50年」第4話で発言する中田英寿】

 以上の2点は、議論の余地なしに駄目である。

 前者については、ウルトラスニッポンの植田朝日氏も、国書刊行会刊の『日本サッカー狂会』の座談会で批判していた。至極真っ当な評価である。

日本サッカー狂会
国書刊行会
2007-08-01


 後者の発言が間違っているのは、その後のキャリアを見ても、ジーコが、サッカーの指導者として、とてもレベルの高いとは言えないからである。中田英寿は、番組の視聴者=サッカーファンをミスリードしている。これは中田英寿自身の利益につながるためだ。

 こんなデタラメが許容されるのは、ある種のサッカー関係者にとって、中田英寿が日本のサッカーそのものよりも「偉大」だと認識されているからである。

セルジオ越後による「サッカー評論」の実態はDVまたはハラスメントである
 それでは、セルジオ越後は如何?
DV(ドメスティックバイオレンス)の特徴
 DVには、殴る蹴るといった肉体的暴力だけでなく、モラハラ(モラルハラスメント)と呼ばれる精神的暴力も含まれます。

 被害者・加害者共に、DVの当事者であるという自覚がないことが多いのが、DVの特徴のひとつです。

 双方が、暴力の原因は被害者側にあると思い込んでおり、加害者は自己を正当化し、被害者は、恐怖感や無力感から、問題解決への意欲を喪失してしまいます。

 ……時間が経てばおさまるということはほとんど期待できません。被害者はどんどん追い込まれて、精神障害を引き起こしたり、最悪の場合、暴力によって死亡したり、自殺してしまう危険もあります。

みお綜合法律事務所「DV・ハラスメント特集」
 サッカー評論家(?)のセルジオ越後は、日本のサッカーに対して数多(あまた)の放言を繰り返してきた。巷間、それを「日本サッカーへの愛情を込めた厳しい〈辛口〉評論」などと誉めそやす。大嘘である。

 実態は、単なる無節操な日本叩きである。この関係を個人と個人の家族内の関係として置き換えてみるとよく分かるが、セルジオ越後の言動は、日本サッカーに対する、モラルが崩壊した、言語的・精神的なドメスティックバイオレンス(DV)である。

 すなわち、この特殊なDVの「加害者」はセルジオ越後であり、「被害者」が日本サッカーである。両者ともに、これがDVであるという自覚がない。そして「加害者」のセルジオ越後は全面的に正しく、「被害者」の日本サッカーは全面的に間違っているとされる。

DV「被害者」の告発と「加害者」を正当化する第三者のツイート
 このセルジオ越後によるDVの「加害」に耐えかねた、「被害者」であるところのサッカー日本代表・乾貴士選手、そして岡崎慎司選手が、ささやかな反発を発信した。




 彼らがセルジオ越後を批判したというから、いったいどんな過激で不穏当な発言をしたのかと、私たちは訝(いぶか)った。だが、それ自体は非常に抑制の利いたものだ。むしろ、不穏当な放言を繰り返してきたのはセルジオ越後の方なのだが。

▼ラグビー「静岡の衝撃」にまでセルジオ越後を登場させる日本人の愚かな体質(2019年10月07日)

 ところが、巷間の「サッカーファミリー」には、乾選手や岡崎選手の方が一面的に悪いかのような、倒錯した「空気」が存在する。

 DVの特徴のひとつに、家族の第三者も巻き込んで、この第三者が「被害者」に苦痛を与えるというパターンがある。セルジオ越後と日本サッカーをめぐる「DV」もまた、「サッカーファミリー」の第三者の人間が、「加害者」のセルジオ越後に加担して、「被害者」たる日本サッカーの方を責め立てるのである。**

 例えば、有名なサッカーブロガーでオールドファンのサッカー講釈師さんが、セルジオ越後による日本サッカーに対する数々の不穏当な放言を擁護し、乾貴士選手を非難するかのようなツイートをしている。


 この、サッカー講釈師さんの言い分には首を傾げる点が多い。

 ほんの少しばかり「自分たちはDVの〈被害者〉ではないのか?」と気づき、あくまで控え目に声を上げた乾貴士選手や岡崎慎司選手……。

 ……それに対して、本来、第三者であるサッカー講釈師さんは、「これはDVであり,セルジオ越後は〈加害者〉である」という自覚もないまま、DVの加害者=セルジオ越後と同一化、かつ正当化し、真の問題解決から事を遠ざけようとしているのである。

セルジオ越後の「批評」は無節操という「パターン」
 とにかく、このサッカー講釈師さんのツイートは全部おかしい。気になったところを論(あげつ)っていく。

 >>セルジオ爺さんのパタン化〔ママ〕した批評……

 まず、ここで言う「爺さん」という表現は、サッカー講釈師さん独特の表現。尊敬する同年配以上のサッカー人に対して用いる敬称である。例えば「オシム爺さん」とか「マテウス爺さん」などと言う(ベトナム語に似たような用法があったかもしれない)。同年配以下には適用しないので「本田圭佑爺さん」とは言わない。

 セルジオ越後にこういう「敬称」を用いていることで、すでに第三者として評価しようというのではなく、無意識的にセルジオ越後側に立って発言していることを示している。

 カタカナ語の表記が「パターン」ではなく、音引き抜きの「パタン」なのは、サッカー講釈師さんが理工系の人だからである。セルジオ越後が下す評価は、いつも無節操な日本叩きという「パタン」だが、それはおよそ「批評」の名に値しない。

セルジオ越後にならった金子達仁ら電波ライター
 >>誰も参考にはしないし……

 これは端的に間違い。なぜなら、セルジオ越後の影響を受けた(参考にした)人物に、あの金子達仁氏がいるからだ(仮に,誰も参考にしないなら,セルジオ越後の放言が許されるのかという問題もあるが)。

 金子達仁氏は、毀誉褒貶が激しい。サッカーライター(?)、スポーツライターとして「スタア」になった一方で、徒(いたずら)に日本のサッカーを、蔑(さげす)んで自身の賢しらを気取るサッカー評論の風潮に、大きく棹(さお)を差した「電波ライター」であると、さんざん批判されてきた。

 エピゴーネン(弟子)は、オリジナル(師匠)の悪いところを拡大する。金子達仁氏はセルジオ越後氏の悪いところを参考にしたのである。

 つまり、多くのサッカーファン、スポーツファンがセルジオ越後の作った流れの影響下にある。誰もがサッカー講釈師さんのように、セルジオ越後に免疫のある、サッカーの見巧者ではないのだ。

セルジオ越後の放言がサッカーの現場に与えたストレス
 >>「ああ、お元気だな」と予定調和を楽しむべきコンテンツ……

 これも違う。セルジオ越後の放言を「楽しむべきコンテンツ」などと言うサッカー講釈師さんは、よほど感覚が鈍麻している。

 フィリップ・トルシエ(サッカー日本代表監督,任期1998~2002)は、私に「日系ブラジル人だか何だか知らないが,あの〈セルジオ越後〉とかいう奴は何者なんだ?」と、質問してきた……。フットボールアナリスト・田村修一氏が、初代サポティスタ・浜村真也氏が催したトークイベントでこんな裏話を紹介していた。

 その場では、笑い話になった。……が、実際には、笑い話ではなかったかもしれない。セルジオ越後の数々の放言は、歴代の日本代表をはじめとする、サッカーの現場に不必要なストレスを与えていた可能性がある。それがサッカーのパフォーマンスに好ましい影響を与えることはない。つまりセルジオ越後の放言は「批評」とはとても呼べない。

セルジオ越後ほど日本人の自虐的サッカー観に

 その中には、サッカー講釈師さんが尊敬してやまない「オシム爺さん」のチームもあったかもしれない。そのように傍証できるかもしれない材料は、ないわけではない。

サッカー講釈師さんの偏向ジャッジ
 >>にもかかわらず、真摯に反応した乾は大したものだったが、ドリブルと異なり、あまりに切り返しが下手くそだった……

 セルジオ越後がいつも悪質な反則タックル(DV,ハラスメント)を仕掛けてくることを、サッカー講釈師さんは(あるいは「サッカーファミリー」の多くは)見逃し、乾貴士選手の方を「あまりに切り返しが下手くそだった」などと言う。

 このジャッジは、アンフェアだ。

 もとより、前述のように、サッカー講釈師さんは、真っ当な第三者の立場に立った審判の「まなざし」など、持ち合わせていないのであるが。

被害者への「セカンドレイプ」に加担するサッカー講釈師さん
 >>とは言え、乾は文筆や言論が付加価値ではないから、傷は浅い。

 サッカー講釈師さんは、こんな上から目線の発言で、これで乾貴士選手をフォローしてみせたつもりなのである。

 しかし、乾貴士選手の立場上精一杯の「つぶやき」を浅薄であると切って捨てることが、この特殊なDVの「被害者」に対する更なる加害、すなわち「セカンドレイプ」であるとに自覚がない。唖然とするばかりだ。

セルジオ越後に対しては正式な形で批判するべき
 そもそも、ツイッターを含めたSNSは「付加価値を持った文筆や言論」を展開する場ではない。だからこそ、乾貴士選手たちは、SNSや地上波テレビのバラエティ番組(当ブログ未見)ではなく、セルジオ越後を正式な本格的な形で批判するべきである。

 例えば、理路整然とした文章にして批判を公開する。むろん、自身の思想がきちんと反映されていればゴーストライターに書かせても構わない。サッカー講釈師さんによると「乾は文筆や言論が付加価値ではない」らしいから、なおさら、そうするべきだ。

 あるいは、その上でセルジオ越後に公開の場での対談を申し込む。セルジオ越後は、逆に自分が突っ込まれるとシドロモドロになる(岡田武史氏が軽くツッコミ返したら,そうなっていた)。ちゃんとしたアドバイザーに付けば、セルジオ越後は論破できる。対談を断ってきたり、期限を定めていつまでも応じないようなら、その経緯を喧伝すればよい。

 乾貴士選手や岡崎慎司選手のセルジオ越後に対するささやかな発言(批判)を、筋違いというサッカーファンがいる。しかし、仮にそうだとしても、事の本質は「筋違い」なことをしなければならないほど、日本のサッカー界は限りなく不健全で「異常」な情況になっている。

 セルジオ越後の影響で、日本の「サッカーファミリー」のほぼ総体が「狂気」していると、ごく少数の正常者(乾貴士選手や岡崎慎司選手)が「狂気」として扱われてしまうという古典的命題を、これほど明確に現した事例も少ない。

 それくらいやらないと、情況はあらたまらない。

セルジオ越後「辛口批評」の正当性を疑う
 少しコストがかかるかもしれないが、しかるべき探偵社に依頼して、経歴詐称という重大な疑惑を抱えているセルジオ越後(高い蓋然性でその指摘は正しい)の、ブラジル時代の選手時代の実績(真相)を暴いて本人に突き付けてもいいし、日本時代の成績の(かなり悪いという)を明らかにして本人に突き付けてもいい。

 そうなのである。セルジオ越後のサッカー選手としての実績は、乾貴士選手や岡崎慎司選手より、はるかに下なのである。そもそも、セルジオ越後は「サッカー評論家」(?)としての正当性・信憑性が、きわめて疑わしい人物なのである。

 また「サッカー強豪国,ことに南米のブラジルやアルゼンチンなどのサッカー評論は,選手や監督,チームを徹底的に批判する」という「神話」があるが、これも間違いらしい。実際には、論者によってスタンスは是々非々であり、幅があるという。むしろ、アルゼンチンで尊敬されているサッカー人は、評論対象を過剰に責め立てることはしないし、セルジオ越後のようにつまらない揚げ足をとったりしない。

 セルジオ越後に象徴される「サッカーというスポーツに関する〈神話〉」がある。だが、これは「虚構」であり、打破されるべきだ。

セルジオ越後…その「偉大」さの源泉
 これらのデタラメが許容されるのは、ある種のサッカー関係者にとって、セルジオ越後が日本のサッカーそのものよりも「偉大」だと認識されているからである。

 世界の舞台に立ち、世界の強豪にいかにに立ち向かうか……というテーマで、長年戦ってきた日本のサッカーには、一方で「欧米」列強に対する劣等感が常についてまわる。そうした「日本人の心のスキマ」に入り込んだのが、あるいは中田英寿であり、あるいはセルジオ越後という「商売人」もしくは「詐欺師的人物」だった。

 セルジオ越後を過剰に有難がってきたのは、日本のいたいけなサッカーファンたちであるが、その中には、本来はいたいけではありえない、サッカーの見巧者である、オールドファンのサッカー講釈師さんも含まれる。

 昔の日本サッカーは弱く、選手個人の技術も大きく劣っていた。そんな中、日系ブラジル人のセルジオ越後が旧JSLにやってきた。この人物は、ブラジル本国のみならず、旧JSLでも選手としての成績は惨憺(さんたん)たるものだった(らしい)。

 しかし、記録には残らないことだが、技術が大きく劣っていた当時の日本人選手のなかにあって、セルジオ越後はブラジル仕込みのテクニックを見せた(らしい)のである。サッカー講釈師さんをはじめとしたサッカーのオールドファンもまた、あの時のセルジオ越後の幻惑の中にまだいるである。

セルジオ越後による「暴力」が容認される日本社会の異常
 ドメスティックバイオレンス(DV)やハラスメントが、日本でも社会問題になっている。中でも、サッカー、相撲、野球、ラグビー等々、日本のスポーツ界の暴力やハラスメントの横行と、その克服が問題になっている……。

 ……してみると、セルジオ越後による「日本サッカー」に対する言葉を使った精神的なDVまたはハラスメントが、日本の社会で、日本の「サッカーファミリー」の間で、ここまで放置=容認されている。興味深くもあり、また異常なことである。

吠えるセルジオ越後『サッカーダイジェスト』1993年11月24日号より
【吠えるセルジオ越後】(『サッカーダイジェスト』1993年11月24日号より)

 日本の「サッカーファミリー」の精神や思考が、奴隷化・家畜化していることの悲喜劇である。

(了)




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〈ラグビーの虚構〉の崩壊,〈サッカーの虚構〉の継続と呪縛?
 ノーサイドの文化。ワン・フォー・オール,オール・フォー・ワンの精神。紳士のスポーツ。アマチュアリズム。対抗戦思想……等々、従来、ラグビーフットボールというスポーツには、以上のような仰々しくも重苦しい修飾≒〈虚構〉がついてまわった。

 むしろ、それがために、ラグビーは、日本ではコアなファン以外は見向きもされないスポーツになる原因を作ってしまった。しかし、この度のラグビーワールドカップで〈ラグビーに関する虚構〉は完全に崩壊した。多くの人々がラグビーフットボールそのものの面白さに触れた。


 その上で、改めてラグビーの持つ特徴的な文化を知るところとなった


 サッカーとは違うフットボールカルチャーがあることを、日本の多くの人々が新鮮に感じている。反面、〈サッカーに関する虚構〉は未だ継続し、日本のスポーツ界やメディアを呪縛している。

 例えば。応援するチームが屈辱的な負け方をすると、選手や監督はファンやサポーターがに罵声を浴びせられ、場合によっては水やら生卵やら腐ったトマトやらが投げつけられる……などという誇張された話。

 敗れたアイルランド代表フィフティーンが、勝った日本代表のフィフティーンに対し、花道を作って出迎えた「静岡の衝撃」の退出の場面。……とほぼ同時期に、天皇杯で格下相手に敗れた浦和レッズのサポーターが、いわゆる「バス囲み」事件が起きたことは、何とも対照的なピクチャーではある。

 むろん、不甲斐ないチームを叱咤すること自体がイケナイと言っているのではない。そして、今回のテーマはそこにはない。

 例えば。欧米のサッカー強国では、サッカー評論家の評価は選手・監督・チームに対しても、極めて厳しい。その口調もまた極めて「辛口」である。サッカー強国の評論家はチームが勝つまで(場合によっては英国のエリック・バッティ記者のように,勝っても)、選手・監督・チームを批判し続ける。その国のサッカーは、厳しく「辛口」で批判し続けることで成長する……などという誇張された話

 「静岡の衝撃」という日本ラグビーの快挙に対する反応で、最も不快にして、かつ呆れ果てた事件は、先に掲げた「誇張された話」=〈サッカーに関する虚構〉を日本で吹聴し、実行してきた、あの「セルジオ越後」(少なくとも今回は敬称トルツメ)が出しゃばってきたことである。

目に余るセルジオ越後の放言とその間違いの数々
 2019年9月30日、テレビ東京スポーツの公式サイトが、サッカー評論家(?)のセルジオ越後による「静岡の衝撃」に対するコメントを動画とテキストで配信した。
セルジオ越後がラグビー日本代表に提言~継続的に勝たないと意味がない
――2大会連続の大金星について

セルジオ越後 強いチームに勝っている間のフィーバーはまだ強くないということだと思う。今日は座布団飛んだね〔たまさか平幕が横綱に勝った程度の試合という意味〕。日本が負けてニュースになるということがまだまだ宿題じゃないかと思う。

 競合〔強豪〕に勝った・負けたとか、予選〔1次リーグ〕突破したとか〔ラグビーも,サッカーも〕両方とも似てるところがある。ラグビーも予選だけじゃなくもっともっと上〔優勝〕を狙っやってほしい。〔以下略〕

セルジオ越後「テレビ東京/追跡LIVE!SPORTSウォッチャー」(2019.9.30)
 いや、これは本当に酷い。セルジオ越後の放言は、極めて醜悪で、ラグビーフットボール、そして日本のラグビーに対する最大級の侮辱になっている。

 だいたい、ラグビーの国際試合レベルで世界的に継続的に勝ち続けているチームは、ニュージーランド代表=オールブラックスだけである。負けてニュースになるのも、オールブラックスと、あとは南アフリカ(南ア)代表=スプリングボクスあたりか(だから,2015年ラグビーW杯で日本が南アに勝ったら世界中で大騒ぎになった)。

 たいていのラグビー国は、普通のテストマッチでも、オールブラックスに勝ったら大喜びする。イングランドでも、アイルランドでも、皆そうである。そして、勝ったり負けたりしながら、4年に一度のラグビーW杯を目指す。

 2015年ラグビーW杯以降の、ラグビー日本代表=ジェイミー・ジャパンは、継続的な成績・成果……と言ってよくないならば、相応の「手応え」をつかんできた。その延長線上でのアイルランドからの勝利である。

 その流れを、海外のラグビーメディアは的確に評価している。2015年ラグビーW杯の日本vs南アフリカ戦(34-32)=「ブライトンの奇跡(The Miracle of Brighton)から、2019年ラグビーW杯の日本vsアイルランド(19-12)=「静岡の衝撃(The Shock of Shizuoka)へ。ニュアンスを違えた海外メディアの命名は、けだし絶妙である。

 セルジオ越後は、国際ラグビー界の実情を全く知らないで放言している。

ラグビー3等国の人間=セルジオ越後が2等国による対1等国勝利を見下す愚
 また「勝っても喜んではいけない」式のセルジオ越後の「辛口批評」であるが、スポーツは難行苦行ではない。こういう時に喜ばなくて、いつ喜ぶのか?

 ……と言うのは、この人物は、いわゆる「日本のスポーツ界の悪しき抑圧性」を批判してきたからである。ところが一方で、先のように「日本のスポーツ界を抑圧する悪しき放言」をしている。皮肉である。矛盾している。

 あるいは。今回のラグビーW杯では、南米ウルグアイも有力ラグビー国のフィジーを破る、殊勲の星を挙げた。ここで、日系ブラジル人のセルジオ越後が、ウルグアイのラグビー関係者に「継続的に勝たなければ意味がない」だの「勝っても喜ぶな」だの放言したら、どうなるか。

 ウルグアイのラガーマンから「テメエは何様のつもりだ.いい加減にしろ!」と当然ボコられる。なぜなら、ブラジルはW杯に出場したこともないラグビー弱小国(ティア3=発展途上国)だからである。

 セルジオ越後は、国際ラグビー界にはナショナルチームの強さによる格付け(ティア1>ティア2>それ以下ティア3=発展途上国)があることが分からない。国際ラグビー界のティア2(2等国,日本が属する)の国が、ティア1(1等国,アイルランドが属する)の国に勝つことがどれだけ大変かということも、分からない。

 しかし、日本のスポーツメディアは、ラグビー弱小国(=ティア3)のブラジル出身のセルジオ越後による、日本ラグビーの快挙を貶(おとし)める放言を「批評」として有難がっている異常な情況である。ダサい。

多様なスポーツ中継のパイオニア=テレビ東京の変節
 もともと、テレビ東京(旧東京12チャンネル)は、かつてのプロ野球人気全盛にあって、ラグビーやサッカーを積極的に取り上げてきたテレビ局であった。サッカーは言わずもがな。ラグビーでは、1973年の日本代表の英仏遠征を、金子勝彦アナウンサーによる実況、大西鐡之祐氏(!)による解説で中継している。

 ところが、現在のテレビ東京はあの当時の「志」を忘れ、変節してしまった。同局は、「FOOT×BRAIN」(フットブレイン)というサッカー情報・啓蒙番組を持っているが、この番組は、脳科学者(自称)の中野信子氏や、運動科学者(自称)の高岡英夫氏といった、素性がハッキリしない人物を登場させてきた。
▼なでしこジャパンと森保ジャパンの敗退で再着火する自虐的日本サッカー観(2019年06月29日)

▼やっぱり高岡英夫はいかがわしい???(2018年01月21日)

 素性がハッキリしないといえば、経歴詐称が噂されるセルジオ越後である。

▼「セルジオ越後、史上最悪の経歴詐欺師」(2019-03-02)

▼「セルジオ越後、史上最悪の経歴詐欺師 2」(2019-03-02)

 何とテレビ東京「FOOT×BRAIN」は、本当は三流のプロサッカー選手にすぎなかった(と言われている)セルジオ越後が、ブラジル本国ではいかに凄い選手であったかのように視聴者を騙(だま)す「ヤラセ」を放送したとの由である。

サッカーの現場に不要なストレスを与えるセルジオ越後
 実態と違うといえば、「サッカー強豪国,ことに南米のブラジルやアルゼンチンなどのサッカー評論は,選手や監督,チームを徹底的に批判する」というのも間違いであるらしい。実際には、そのスタンスは是々非々であり、論者によって幅があるという。

 ブラジル時代の経歴が疑わしいセルジオ越後がもたらした「間違った常識」は、サッカーの現場に不要なストレスを与えている。

 フィリップ・トルシエ(サッカー日本代表監督,任期1998~2002)は、私に「あの〈セルジオ越後〉とかいう奴は何者なんだ?」と、質問してきた……。フットボールアナリスト・田村修一氏が、初代サポティスタ・浜村真也氏が催したトークイベントでこんな裏話を紹介していた。

 その場では、笑い話になった。……が、実際には、笑い話ではなかったかもしれない。セルジオ越後の放言は、歴代のサッカー日本代表の現場に無駄なストレスを与えていた可能性がある。

セルジオ越後ほど日本人の自虐的サッカー観に

 要するに、セルジオ越後の数々の放言は「批評として全く機能していない」のである。

セルジオ越後をツケ上がらせたオールドサッカーファンたち
 同様のストレスは、日本代表の選手たちも感じている。セルジオ越後の日本サッカーに対する放言に対して、業を煮やした日本代表・乾貴士選手や岡崎慎司選手が些(いささ)かな反発を発信してみせた。




 彼らがセルジオ越後を批判したというから、いったいどんな過激で不穏当な発言をしたのかと思いきや……。それ自体は抑制の利いたものだ。むしろ、放埓で不穏当な発言を繰り返してきたのはセルジオ越後の方なのだが。

 では、なぜ、乾選手や岡崎選手の方が一面的に悪いかのように、評されるのか? この倒錯した「空気」は何なのか? 例えば、有名なサッカーブロガーでオールドファンの「サッカー講釈師」さんが、セルジオ越後の日本サッカーに対する放言を、擁護するかのようなツイートをしている。


 この「サッカー講釈師」さんの「セルジオ越後の発言など〈誰も参考にはしない〉」という指摘は、端的に間違っている。なぜなら、この人物の弟子筋の人間に、セルジオ越後を本気で参考にした人間に、あの金子達仁氏がいるからだ。

 金子達仁氏については、スポーツライターとして売れっ子になった一方で、日本人のサッカー観・スポーツ観を大きく歪めた、いわゆる「電波ライター」だとして、さんざん批判されてきた。その金子達仁氏の師匠筋がセルジオ越後である。

 えてして「弟子」は「師」の悪いところを拡大する。すなわち、金子達仁氏はセルジオ越後の悪いところを拡大したのである。

 後藤健生さんなどもそうだが、こうしたオールドサッカーファンの鷹揚な態度が、セルジオ越後を付け上がらせ、暴走させたのだ。

 少なくとも、この人物の「流儀」をラグビーにまで越境させるのは間違っている。

妖怪的人物「セルジオ越後」を生んだ日本人の深層心理
 ラグビーとサッカー、ふたつのフットボールで、両方とも(それなりに)応援しがいのあるナショナルチーム(代表チーム)を持っている国というのは意外に少なく、その意味で日本はなかなか素敵な国である。

 これまでは、ラグビー日本代表が好調だとサッカー日本代表が不調だったりした。例えば、1989年~1991年の宿沢ジャパン平尾組と横山全日本の時代である。あるいは、その逆の時代も長く続いた。

▼後藤健生「日本は世界一流のフットボール・ネーション? サッカーとラグビーと、ともに世界王者を目指そうではないか」(2019年10月5日)

 2019年ラグビーワールドカップ日本大会は、ラグビーとサッカー、ふたつのフットボールの国民的期待が並び立った、画期となったイベントかもしれない(ちなみに,同時期にサッカー日本代表のW杯アジア予選も行われる)。

 世界の舞台で、世界の強豪に立ち向かう日本代表……という図式は、幕末・明治このかたの日本の歴史とも重なり、国民的な感情移入がしやすい(余談ながら,これが出来ないのが「野球」である)。

 しかし、その場合、「欧米」列強に対する劣等感をどうするか? ……という思想的大問題があり、そうした「日本人の心のスキマ」に入り込んだのが、セルジオ越後という「商売人」もしくは「詐欺師的人物」だった。セルジオ越後を過剰に有難がってきたのが、日本のいたいけなサッカーファンたちだった。

 この人物を評して「辛口」と言う。しかし、その実は、スパイスを効かせた美味なる料理ではなく、テレビ番組の「激辛王選手権」にでも出てくるような、ゲテモノとしての辛口料理である。

 その代償として、私たちは「日本サッカーへの〈味覚〉」というものを、大きく後退させてしまった。完全に批評眼が麻痺しているのである。

 私たちサッカーファンは、このポストコロニアルな時代に、セルジオ越後に象徴される卑屈なコロニアル根性に、一体いつまで浸(ひた)り続けるのだろうか?

(了)




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