スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

カテゴリ:サッカー > 佐山一郎著『日本サッカー辛航紀』を読む

デズモンド・モリス『サッカー人間学』の装丁への不満
 佐山一郎氏の『日本サッカー辛航紀』を読んでいると、1983年に邦訳・刊行された、英国の動物行動学者デスモンド・モリスの著作『サッカー人間学 マンウォッチングII』(原題:THE SOCCER TRIBE,岡野俊一郎監修,白井尚之訳)の話が出てくる。

サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02


 モリスには既に『マンウォッチング』という有名な著作があり、まだ日本サッカーが「冬の時代」だった1983年に、あれだけサッカーの浩瀚な著作が刊行できたのは、その続編という位置付けだったからではないかと考えていた。

 佐山氏の『日本サッカー辛航紀』の解するところでは「新種の学術書として受け入れられたようだ」(138頁)とのことである。

 ところで、佐山一郎氏は『サッカー人間学』の装丁(表紙のデザイン)が、ひどく気に入らないようである。
 問題は(『サッカー人間学』の)装丁です。たとえ裏事情があるにせよ、写真カバーに日本リーグ〔Jリーグ以前の旧JSL〕の、三菱重工‐ヤンマーディーゼル戦を持って来るセンスに目まいがしました。

 今でいう浦和対セレッソ大阪戦なのかもしれないけれど、ヤンマーFW堀井美晴のドリブルを赤いゲームシャツの三菱DF斉藤和夫キャプテンが左から止めにかかる図でよいものかと。カバー写真はもっと選びようがあったはずです。〔以下略〕



 ちなみに、当ブログが所有している英語の原書『THE SOCCER TRIBE』の表紙がある(ペーパーバック,マスマーケット版かもしれないが)。あらためて日本語版と比べてみる。

「The Soccer Tribe」cover
【『THE SOCCER TRIBE』表紙】

デズモンド・モリス『サッカー人間学』表紙
【『サッカー人間学』表紙】

 原書の表紙は、イングランドのリバプールFCが欧州チャンピオンズ杯(当時)で優勝した時の写真である。比べてみると、たしかに日本語版は見劣りするかもしれない。

「知の再発見」双書『サッカーの歴史」装丁への不満
 同じような不満なら、当ブログにもある。

 フランスのガリマール出版社の「ガリマール発見叢書」(Decouvertes Gallimard)を、日本の出版社である創元社が翻訳出版権を獲得して、1990年から『「知の再発見」双書』としてシリーズ刊行した。

知の再発見双書_創元社(1)
【「知の再発見」双書(創元社のウェブサイトより)】

 さすが、この双書は知的好奇心をくすぐるテーマが多い。当ブログとしては、紋章学者ミシェル・パストゥロー著『紋章の歴史 ヨーロッパの色とかたち』(原題:Figures de l'heraldique)が面白かった。

 フットボール(サッカー,ラグビー)のデザインと、紋章学のデザインが深く結びついていることについて、ヒントになるところがいろいろあったからである。
 2002年、ワールドカップの年、同双書から『サッカーの歴史』(原題:La balle au pied:Histoire du football)が出た。原著者はフランスのサッカー史家アルフレッド・ヴァール(Alfred Wahl)、日本語版監修は大住良之氏。書店で、この本の背表紙を見た途端「これは買わねば!」と手を伸ばした。が、しかし……。

 ……表紙を見て脱力した。な、なんでやねん……。

サッカーの歴史 (「知の再発見」双書)
アルフレッド ヴァール
創元社
2002-01


 問題は「知の再発見」双書『サッカーの歴史』の装丁です。たとえ裏事情があるにせよ、写真カバーに中田英寿を持って来るセンスに目まいがしました。

 当時、サッカー日本代表のエース格だったのかもしれないけれど、サッカーの世界史的な深遠さも、サッカーの全世界的な熱狂の広がりもまったく感じない、中田英寿みたいなちょっと前に台頭した程度の、それも日本の若手選手でよいものかと。

 カバー写真は、ペレでも、クライフでも、マラドーナでも、ベッカムでも、昔のワールドカップの名場面でも……、もっと選びようがあったはずです。

 ちなみに、アマゾンに〈La balle au pied:Histoire du football〉の書誌情報があった。

 詳しい事情は調べなかったが、「知の再発見」双書は、フランスのガリマール出版社と日本の創元社では表紙の装丁が違うのかもそれない。そうだとしても……。

 ……創元社のウェブサイトに、「知の再発見」双書の各書の表紙を並べた集合写真がある。チンギス・ハン、オスマン帝国、イースター島、シルクロード、アンコール・ワット等々の装丁(表紙デザイン)と比べると、中田英寿が表紙の『サッカーの歴史』(左下)だけは、明らかに違和感があり、フランス書からの邦訳という有難みがなく、かえって安っぽいのである。

知の再発見双書_創元社(2)
【「知の再発見」双書の表紙(創元社のウェブサイトより)】

 で、結局、その本は買いませんでした。

(了)



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国際的なスポーツイベントと元号との相性
 「令和」改元にちなんで、NHKは2019年4月に「もう一度見たい!平成のスポーツ中継」というシリーズ番組を放送した。夏・冬のオリンピック、ラグビーW杯(男子日本代表)、サッカーW杯(男女日本代表)、野球のアメリカ大リーグ(イチロー)と、なかなか有難い企画であった。


 だが、なでしこジャパン(サッカー女子日本代表)のW杯優勝(2011年)が「平成23年」、サッカー男子日本代表の「ジョホールバルの歓喜」(1997年)が「平成9年」と言われても、今ひとつピンと来ない。五輪もW杯も大リーグも、国際的なスポーツイベントは、みな西暦で動いているからだ。

 元号を先に出して、平成23年とか、平成9年とか言われても、はて? いつの時代だったか? ……とかえって不安になる人が、少なからずいるからだ。

十干十二支とは?
 改元は不規則である。これは一世一元制を採用した明治以降(1968年~)も、それ以前(江戸時代まで)も、変わらない。つまり、元号だけだと自分がいつの時間軸にいるのか不安になる。そこで現代では西暦を併用することになるが、それでは西暦が通用していなかった江戸時代までは、何を使っていたか? 十干十二支(六十干支)である。

 例の、辛酉(シンユウ)革命、甲子(コウシ)改元、辛亥(シンガイ)革命、甲子(コウシ)園球場、庚午(コウゴ)年籍、壬申(ジンシン)の乱、戊辰(ボシン)戦争、壬申(ジンシン)戸籍、丙午(ひのえうま)の女性は気性が荒いという迷信……などといった、十干と十二支の組み合わせで60年で一巡り(還暦)する紀年法である。
 だから、昔の古文書の日付には「文化元年甲子五月二十三日」のような形で書かれているがある。ちなみに、文化元年=甲子=西暦1804年である。

サッカーは契約社会のスポーツ?
 大学やカルチャーセンターなどで「古文書」(くずし字で書かれた古い記録・史料)の授業を受けると、そのテキストとして借金の証文が使われることが多い。借金の証文など、権利関係の文書は特に大事に保管され、現代まで伝わることが多いからである。

 ……と、ここまで書いてきて、佐山一郎氏の著作『Jリーグよ!』に所収された、佐山氏と佐山氏のご夫人との対談での「あるやり取り」を、にわかに思い出してしまった。
  要するに言いたいことは何。

 〔佐山一郎氏〕 つまりサッカーの世界〔欧米〕は、本来的に厳しい契約・対決社会の産物でもあるということなんだ……。

佐山一郎『Jリーグよ!』163頁


佐山一郎氏(ホームラン1991年2月号)
【佐山一郎氏@『ホームラン』誌1991年2月号より】


Jリーグよ!―サッカー めざめの年に
佐山 一郎
オプトコミュニケーションズ
1993-12


 佐山氏が「要するに言いたいことは何」かと言うと、翻って日本は、契約社会である欧米とは対照的な「非契約社会」=「黙約(もくやく)社会」である。すなわち日本は「契約」観念の薄い「非サッカー的」な社会である。とどのつまり「日本人はサッカーに向いていない」と言いたいのである。

 よく知られた著作に久枝浩平著『契約の社会・黙約の社会~日米にみるビジネス風土』というのがあり、日本は「契約」を重んじない「黙約」社会だという通念は、日本人の間に広く浸透している。

 ここでも、日本サッカー論壇の作法である「日本的=非サッカー的/非日本的=サッカー的」という二元論、あるいは二項対立の図式が透けて見える。サッカーと同じくらい、日本人論・日本文化論を愛好する佐山一郎氏も、『契約の社会・黙約の社会』は読んでいるかもしれない。

 しかし、である。借金とはひっきょう「契約」である。日本に古文書に借金の証文がたくさん残っているということは、つまり、歴史的・文化的に日本は「契約」を重んじない社会とは言えないのである。

 一方、「欧米」に当たるオーストラリアでは、功成り名を遂げた実業家が「自分は,いかに正規の契約書に依らずに,友人と口約束と握手=黙約=だけで何百万ドルもの事業を成功させたか」を自慢するようなテレビ番組があったという。

 以上は、オーストラリア在住の社会学者・杉本良夫氏とロス・マオア氏が『「日本人論」の方程式』(初版『日本人は「日本的」か』)で報告するところである。

 とまれ、欧米は契約社会、日本は非契約=黙約社会。サッカーは契約社会のスポーツ、だから、日本人はサッカーに向いていないなどと言った(要するに,これは「サッカーは〈狩猟民族〉のスポーツ」説の〈変数〉を変えただけの論理なのだ)、通俗的なサッカー文化論を真に受けることには、もう少し慎重になりましょう。

 それが、これからのサッカーファンのリテラシーですよ……という話である。

「横綱免許状」から読む「元号」と「十干十二支」の関係
 話を戻して、例えば、享和四年一月二十日に成立した借金の「契約書」。この日付を「享和四年甲子一月二十日」としておけば、同年、二月十一日に御上の命令で「文化」と改元されても、同じ借金の「契約」はあくまで「甲子」の年だと、その内容を曖昧ウヤムヤにされずに済む。……というメリットはある。

 しかし、残念な話だが、十干十二支は、昨今、占いや特殊な暦などを除いて重んじられなくなっている。その歴史的変遷が分かる一連のテキストはないだろうか……と考えていたら、そうだ、大相撲の横綱免許状があったとハタと思い当たった。

不知火光右衛門(錦絵)
【第11代横綱・不知火光右衛門】

 かつて、大相撲の最高位「横綱」とは「免許」されるものだった。熊本に「吉田司家」(よしだ・つかさけ)という大相撲の家元がいた。当主は代々「吉田追風」(よしだ・おいかぜ)の名を世襲し、日本相撲協会が推挙した力士を審査し、ふさわしいと判断したとき、横綱を「免許」する。こんな慣例が、第二次大戦後、しばらくの間まで続いた。

 現在では、その吉田司家が没落してしまったので、「横綱」は日本相撲協会が独自に「推挙」することになっているが。

 まずは、江戸時代の大横綱「谷風」の免許状である。
第4代「谷風」横綱免許
  免  許
 一、横綱之事
右者谷風梶之助依相撲之位授與畢以來片屋入之節迄相用可申候仍如件
  寛政元己酉年十一月十九日
        本朝相撲之司御行司十九代
               吉田追風 判 朱印

(「相撲隠雲解」より.ほかに写本あり,字句が異なる)

坪田敦緒「横綱(三十三)免許状から@相撲評論家之頁」より(以下同じ)
http://tsubotaa.la.coocan.jp/yokoki/yokoki33.html
 「谷風は相撲の品格・力量を極めたので,横綱を授与し,これを締めて土俵入りすることを免許した」くらいの文意か。年号にある寛政元年は西暦1789年、十干十二支では「己酉」(つちのととり,キユウ)ある。

 この年、ジョージ・ワシントンがアメリカ合衆国大統領に就任、フランス革命勃発など、有名な出来事が起こっている。

 次は谷風と同時に横綱を免許された「小野川」である。
第5代「小野川」証状
  證  状
        當時久留米御抱
         小野川喜三郎
右小野川喜三郎今度相撲力士故實門弟召加候仍證状如件
  寛政元十一月十九日
        本朝相撲之司御行司十九代
               吉田追風 判 朱印

(「相撲隠雲解」より.ほかに写本あり,字句が異なる)
 もっとも、その書状の題名や文言は「證状」(証状)であり、谷風とは異なっていて、この辺は好角家の間でいろいろ議論の的になっている。「このたび,小野川を(吉田司家の)大相撲の故実の門弟として召し加えることを証明する」といったところか。またこちらの日付は、十二支の「酉」(とり)年だけの表記になっている。

 次に、吉田司家と大相撲の家元の本家争いをしていた、京都の五條家という公家(最終的に吉田司家に屈服する)が、第7代横綱「稲妻」に発給した横綱免許状である。
第7代「稲妻」五條家横綱免許
   證
一、紫化粧廻し
一、注連縄
 右此度願に依り被下之仍而證状如件
   文政十一戊子年七月
          五條家役所印
 稲妻雷五郎殿

(「江戸時代の大相撲」より引用)
 文政11年は西暦1828年、十干十二支では「戊子」(つちのえね,ボシ)。この年、明治維新の三傑のひとり、西郷隆盛が誕生。

横綱免許状から十干十二支が消えた
 ところが、明治時代も後半となると、横綱免許状の日付に十干十二支が入らなくなる。明治末期~大正期に活躍した「太刀山」の免許状である。
第22代「太刀山」横綱免許
  免許状
        越中國人
         太刀山峰右衞門
右者依相撲之位横綱令授與畢以来方屋入之節迄相用可申候依而免許状如件
        本朝相撲司御行司
 明治四十四年   第二十三世
  十月二十四日   吉田追風 印 花押

(「太刀山」より)
 明治44年は西暦1911年、十干十二支では「辛亥」(かのとい,シンガイ)。この年、中国清朝が打倒された「辛亥革命」で中華民国が成立。また、ノルウェーの探検家アムンセンが、人類史上初めて南極点に到達した。

 こうした十干十二支が記載されていない日付は、昭和戦前・戦中期の大横綱「双葉山」の横綱免許状も同様である。
第35代「双葉山」横綱免許
  免許状
        豊前國
          双葉山定次
右依相撲之位横綱令免許畢以来方屋入之節迄相用可申候依而免許状如件
   昭和十二年十一月吉日
        本朝相撲司御行司
          第二十三世
           吉田追風 印 花押

(大相撲写真画報「双葉山」より)
 昭和12年は西暦1937年、十干十二支では「丁丑」(ひのとうし、テイチュウ)。この年、盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まった。

 参考までに、昭和戦後、日本相撲協会が独自に横綱を「推挙」することになった最初の例、「千代ノ山」(千代の山)の「横綱推挙状」を引用する。
第41代「千代ノ山」横綱推挙状
          千代ノ山雅信
品格力量抜群に付横綱に推擧す
     印
   昭和二十六年五月二十八日
      財團法人大日本相撲協會
       理事長取締 出羽海秀光   印
        常務取締 春日野剛史   印
        常務取締 時津風定次   印
        取  締 立浪彌右エ門  印
        取  締 伊勢ヶ濱勘太夫 印

(千代の山・千代の富士記念館蔵)
 昭和26年は西暦1951年、十干十二支では「辛卯」(かのとう,シンボウ)。この年、サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が結ばれている。

元号のみの表記は「創られた伝統」?
 大雑把な考察になってしまい、読者にはご寛恕を請うばかりであるが、文書を書く時の習わしに、江戸時代までと「御一新」の明治以降とでは断絶があり、日付から「元号」と「十干十二支」を併せて記載する習慣が衰退していったのではないか……と仮説する。

 この辺は、近代日本の来し方、近代天皇制の成立と来し方などと関係があるのかもしれない。どなたか学界で、この件に関して研究している人がいるのだろうか。論文を書かれている例があるのだろうか。ご存知の方がいらっしゃいましたら、紹介いただけると幸甚です。

 日本人の「十干十二支」という時間軸の感覚は、大正13年=西暦1924年ごろまでは残っていたらしい。このことは、同年、兵庫県西宮市に竣工した野球場「阪神甲子園球場」の命名からも推察できる。この年は、十干十二支で最初の「甲子」(きのえね,コウシまたはカッシ)の年であり、江戸時代までは、甲子の年はほぼ必ず改元されていた。

 ところが、この時間感覚は、遅くとも第二次大戦後には完全に潰(つい)えてしまった。

 「元号は,今では日本にのみ伝わる固有の文化・伝統です」と誇って語る人がいる。しかし、日付を「元号」のみで記載するのは、伝統的なやり方ではない。本当に伝統的なのは、「元号」と「十干十二支」を併記する記載である。

 「元号」のみの記載は「創られた伝統」、「元号」と「十干十二支」の併記は本来の伝統、あるいは「消えた伝統」と言えるかもしれない。

 公文書が元号と西暦で併記することをあくまで拒むならば、元号と十干十二支を併記するやりかたこそ、ぜひ復権するべきである。すなわち「令和元年 己亥(つちのとい,キガイ)」である。

 ちなみに、佐山一郎氏が、自身のサッカーライティングの有終と位置付け、西暦2018年に上梓した『日本サッカー辛航紀』の前文「はじめに」では、文末に堂々と「平成三〇年 戊戌〔つちのえいぬ〕 早春」と書かれてある。

 これこそ、あるべき紀年の表記と言える。

(了)



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自虐性~日本サッカー論壇の奇習
 教えてくださいッ!

 日本のサッカー報道って、どうしてあんなにおかしいんですかッ!?
 ある人から、唐突に、そんな質問を振られて当ブログはちょっとたじろいだ。

 記録を見直すと、それは1997年初めだったようだ。前年1996年12月のAFCアジアカップでサッカー日本代表=加茂ジャパンは準々決勝で、意外にあっさりと敗退してしまった。当初、1997年のフランスW杯アジア予選の突破が楽観視されていた、すなわちサッカーW杯本大会初出場を期待されていた日本サッカーが、急に不安視されるようになったのである。

 以前からそうであるが、サッカー日本代表が敗北する度に、日本のサッカー論壇には(オールドメディアからインターネットまで)、それまでの楽観的な気分が一変し、「自虐的な日本サッカー観」が澎湃(ほうはい)として沸き上がる。日本サッカーへの「まなざし」が、突然、手のひらを反してように悲観的になる(下記ツイッター参照)。


 日本のサッカー論壇は、悲観的・自虐的になることで「批評的」であることをアピールするという、実に奇妙な性格がある。ちなみに、この1996~97年の「批評的」な空気は、その反動として、金子達仁や中田英寿といった人たちを台頭させてしまっている。

 質問の主は、普段から特別にサッカーをのめり込んで見る人ではない。だからこそ、日本のサッカーカルチャーに距離を置いて見られる。だからこそ、日本のサッカー論壇の「奇妙な性格」に気が付く、突然の手のひら返しを不思議に思う。それは何故か? たまさか近くにいた当ブログを捕まえて、問い質したのだった。

 当ブログも、日本のサッカー論壇の「奇妙な性格」を半ば当たり前のことだと思っていたから、いきなりの「なぜ,日本のサッカー報道はおかしいのか?」という質問には、不意打ちを食らった感がある。だから、少したじろいでしまったのであった。

「ロフトプラスワン」をめぐるサッカーカルチャー人脈
 この当時、当ブログは、東京・新宿のトークライブ居酒屋「ロフトプラスワン」に出入りしていた。先の質問の主は、この店の常連客のひとりだった評論家・三浦小太郎氏である。三浦氏は、脇田敦氏らとともに「ロフトプラスワン」の常連客たちでつくる「風」というグループを作っていた。

 中でも脇田敦氏は、1993年にJリーグがスタートして以降の、対抗文化としてのサッカーカルチャーに注目しており、サッカー関連で「ロフトプラスワン」のトークライブに出演してくれそうな、誰か面白い人物はいないか探していた。そのアンテナに引っ掛かったのが、初代サポティスタ=浜村真也氏だったのである(下記リンク先参照)。
 1997年、すでに国民的な関心事となっていたサッカー日本代表。本当に「絶対に負けられない戦い」となっていたフランスW杯アジア予選を間近にひかえ、「ロフトプラスワン」界隈でも、サッカーに関心が高まっていた。

 三浦小太郎氏が、その評論家の鋭い感度をもって「日本におけるサッカーの語られ方」に疑問に感じ、当ブログに質問してきたのは、そういった背景があった。

それって「レイシズム」じゃないですか!?
 寸鉄人を刺すような質問に、当ブログもなかなかうまく答えられなかった。

 「うーん,そうですねぇ…….まあ,日本ではずっとサッカーが人気がなかったし,日本代表も国際試合ではずっと弱かった.だから,日本のサッカー関係者は自信喪失になっている……」

 「……それどころか,そもそも日本人はサッカーに向いていない.サッカー日本代表の弱さ,日本でのサッカーの不人気ぶりは,日本人の国民性や民族性や歴史や文化や伝統に根ざしているという人までいる.例えば……」

 ……こんなことをつらつら喋(しゃべ)って、少し調子づいてさらに続けた……。

 「……例えば,日本人はご飯や味噌汁を食べているから,サッカーが強くなれないみたいなことを,『BRUTUS』みたいな雑誌にまで書く人までいる……」

 ……と、ここまで話した時の質問の主のリアクションに、当ブログはかえって驚いた。
 えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!

 本当ですかッ!? 本当にそんな人っているんですかッ!?
 本当にそんな人は実在する。

 それにしても、日本サッカーが「世界」に対して劣っているのは、日本人の国民性や民族性、歴史、文化、伝統に由来しているという考え、すなわち「サッカー日本人論」の類は、日本人の皆が共有している……と、当ブログも思い込んでいた。だから、この反応は少なからず意外だった。

 その後の一言は、さらに意外だった。
 それって……。

 レイシズムじゃないですかッ!*
 左様。日本人は農耕民族で獣肉ではなく米や味噌を食べているからサッカーが弱い……というような「サッカー日本人論」は、私たち「日本人」が私たち自身「日本人」を差別する人種的偏見、レイシズム(人種主義,人種差別)の言説なのである。

 普通のレイシズムは他者を憎悪・侮蔑するが、その「まなざし」が自己に向けられる時は自虐的になる。だからこそ「自虐的な日本サッカー観」なのである。

佐山一郎氏の日本サッカー概説
 さて「日本人はご飯や味噌汁を食べているから,サッカーが強くなれないみたいなことを,『BRUTUS』(ブルータス)みたいな雑誌にまで書」いた人とは、佐山一郎氏のことである。

佐山一郎氏(ホームラン1991年2月号)
【佐山一郎氏@『ホームラン』誌1991年2月号】

 掲載誌はマガジンハウス刊『BRUTUS』1992年12月15日号、ラグビー&サッカー特集「ブルータスの蹴球概説~トライの官能 ゴールの熱狂」である。

ブルータス19921215表紙
【『BRUTUS』1992年12月15日号の表紙】

 佐山氏が、該当する『BRUTUS』誌で執筆したエッセイのタイトルは「12人目のフィールドプレイヤー。」である。まずはその該当部分を紹介する。ただし[本文]部分は、後で解説の便宜をはかるために、段落ごとに頭に数字を振ることとする。
12人目のフィールドプレイヤー。●佐山一郎
[リード文]
ピョンヤン金日成スタジアム〔北朝鮮〕に始まった世界各地闘技場めぐりの旅。
それは、12人目のフィールドプレイヤーとしての自立をめざす旅でもあった。
Jリーグの開幕は、熱狂より無常を好む日本人への自立要求なのである。

[本文]
  1.  『課長島耕作』に際立ったサッカー選手歴があるのかどうかを僕〔佐山一郎〕は寡聞にして知らない。しかしその名前からしていかにもサッカー的といえないことだけははっきりしている。
  2.  常に「あなた」にとっての「あなた」である自分が「私」である――と考えて派閥行動する日本人(ああ、ややこしい)の甘やかな夢が、例のヒーロー像〔課長島耕作〕には投影されている。極東の島国のサラリーマンでもなんとかなってしまうんだよとぱかりに「ロマン変換」されるわけだからこりゃあやっぱり気持がいい。摺〔す〕り足でもなんとかなる非サッカー的世界へのいざないはそれなりに甘美なのだ。
  3.  『短期採用大陸狩人』なんてタイトルのマンガ主人公はまだ登場のしようもないのだろう。『忠臣蔵』を見たあるブラジル人は、『俺たちなら、陣太鼓叩くような形武にこだわる間もなくマフィア雇って背中から一発ズドンさ」と言い切ったという。切腹文化は形から入るぼかりで非創造的というわけだ。クルマが往来を走っていなくても、日本人の多くは赤信号で必ず立ち止まる。横断歩遺を渡る時、一時停止してくれた機械に一礼しても運転手の一目は見ていない。たしかに形式こそが重要なのだ。熱狂さえ鋳型にはめられやすい。
  4.  事ほど左様、『島耕作』の国〔日本〕では馬鹿のひとつ覚えのようにセンタリングが強調されてきた。それだけでなんとかなったアーセナル・ゴールの時代は、はるか音の話である。同じ島国のイングランド・リーグ名物、海峡を越えるドッカン攻撃がこんなにお好きというのも珍しかった。
  5.  崇〔たた〕りとはまことに恐ろしい。戦前、英国蹴球協会(FA)から贈られた純銀製FAカップの〔軍部への〕供出を阻止できなかったことがいまだに尾を引いてか、哀れにも日本代表は国際舞台にほとんど立てずじまい。もはやこれは農耕民族のDNA遺伝子(記憶)の問題じゃないかと思いはじめて、ある時点からなるべく世界各地の闘技場に赴くことを自分〔佐山〕に課すようにした。熱狂の血しぶきを、畦道〔あぜみち〕でよっこらしょ的体液に注入し、12人目のフィールドプレイヤーとしての「自立」をめざす騎馬民族願望の旅でもある。朝の味噌汁&ごはんも全廃した。〔以下略〕
『BRUTUS』1992年12月15日号92頁


佐山一郎「12人目のフィールドプレイヤー。」92頁
【佐山一郎「12人目のフィールドプレイヤー。」見開き右】

[部分]佐山一郎「12人目のフィールドプレイヤー。」
【佐山一郎「12人目のフィールドプレイヤー。」部分】
 当ブログも、いろんなサッカー評論を読んできたが、これほどトンデモない代物は記憶にない。

日本サッカーの「無常という事」
 佐山一郎氏が先のエッセイで用いたさまざまな「ギミック」。その元ネタを理解していると、氏のサッカー評論をもっと面白く読むことができる。これから、ひとつひとつを論(あげつら)って、適宜、筆誅を加えていく。

[リード文]より:熱狂より無常を好む日本人⇒⇒⇒佐山氏に限らないが、「サッカー日本人論」とくれば、その思考の根本にあるのは「日本的=非サッカー的/非日本的=サッカー的」という二元論、あるいは二項対立の図式である。

 これは一般の日本人論・日本文化論でも同じで、農耕vs狩猟、米食vs肉食、島国vs大陸、多神教vs一神教……といった分かりやすい二元論で、日本とその他の世界をあくまで隔てて、世界の中で特異なるニッポンを人々に刷り込んでいく。当然、その特異なるニッポンは非サッカー的なるものである。

 「サッカー=世界が熱狂するスポーツ」とくれば、非サッカー的な日本は「熱狂」とは対照的な概念を引っ張り出さなければならない。そこで佐山氏は「日本的な美意識」とされる「無常」を持ち出した。同様に、もののあはれ、幽玄(ゆうげん)、わび・さび……などが登場することがある。

[リード文]より:日本人への自立要求⇒⇒⇒欧米人は個人が「自立」した個人主義、対して、日本人は個人が「自立」できていない集団主義である。サッカーは欧米の「個人主義」の原理が貫徹したスポーツであるが、しかし、日本人の国民性は、個人主義とは相容れない「集団主義」である。したがって、日本人はサッカーに向いていない。

 こういった、日本人集団主義説という日本人論・日本文化論に基づいた「日本人サッカー不向き論」こそ、「サッカー日本人論」の中でも最も流通した言説である。サッカー論壇における、その最たるイデオローグが佐山一郎氏だった。

「島・耕作」のサッカー論
 リード文の解説だけで満腹になりそうだが、佐山一郎ワールドの深遠さは、まだまだこんなものでは終わらない。
 「ちっぽけな島国」とは、欧米などの外部の脅威の前に委縮したときに、この列島の住人〔日本人〕が発明する自画像なのだといってよい。

[1.]より:『課長島耕作』……その名前からしていかにもサッカー的といえないことだけははっきりしている⇒⇒⇒あらためて説明すると、『課長島耕作』(かちょう しま・こうさく)とは、弘兼憲史(ひろかね・けんし)氏による、ある「団塊の世代」のサラリーマンを主人公に、その生き方を描いたマンガ作品である……。

 ……のみならず、『課長島耕作』は、21世紀の現代まで読み継がれるベストセラー、ロングセラーである。だから、作品世界やその主人公に着想した日本人論・日本文化論が書けそうな気がする(夏目漱石の小説から,日本人論・日本文化論を書いた人がいたように)。しかも、主人公の名前が「島・耕作」。それは「国の農耕作民」という、ニッポン人のステレオタイプを強く連想させる。

 大陸の狩猟民族の末裔(!?)である欧米人やアフリカ系黒人は、攻撃性や創造性あるいは能動性などといった、身体能力に限らないメタフィジカルな意味での「サッカーというスポーツに必要な能力」が生まれながらにして備わっている。

 だが、対照的に、「島国」の「農耕民族」の末裔(!?)でしかないニッポン人には、身体能力のみならず、メタフィジカルな「サッカーというスポーツに必要な能力」が根本的に欠落している。

 このような「日本人サッカー不向き論」も、サッカー論壇に広く流通している。佐山氏は、マンガの主人公「島耕作」に典型的なニッポン人、しかも「サッカーならざるニッポン人」の本質を「発見」した。だから「その名前からしていかにもサッカー的といえないことだけははっきりしている」と断言したのである。

網野史学から日本サッカーをよみなおす
 しかし、再検討するべきは「島国の農耕民族=ニッポン人」のイメージの方である。その手掛かりには、異端の歴史学者・網野善彦氏(故人)の著作を読むのが手っ取り早い。

 山川出版社の高校日本史の教科書に載っている、江戸時代の(現在の秋田県の)人口構成。武士(サムライ)は10%足らず、城下町などに住む「町人」は7.5%、そして「農民」は約75%。なるほど、いかにも日本は「農耕民族」に見える。

 ところが、この人口構成の原史料の表記には「農民」ではなく「百姓」とある。

 語源的に「百姓」とは農民に限定された意味はなく、単なる一般庶民のことである。むろん「百姓≠農民」であり、日本の「百姓」も稲作農耕に限定されない、山民や漁民など多彩な生業で構成されていた……と、網野善彦氏が繰り返し説いてきた。

 また日本列島の社会は、歴史的に海・湖・川の水路を使った交流や物流が大変盛んであり、それは陸路の交通を上回るものであった。しかも、その規模は「日本国」の規模をはみ出すものですらあった。これも網野氏が繰り返し説いてきたところである。

 つまり、日本人は「農耕民族」ではないし、日本は孤立した「島国」ではないのである。

 あと、「短期採用大陸狩人」などというジョークは面白くもなんともない。

日本人は「日本的=非サッカー的」か?
[2.]より:常に「あなた」にとっての「あなた」である自分が「私」である――と考えて派閥行動する日本人(ああ、ややこしい)⇒⇒⇒要するに佐山一郎氏は、ニッポン人は個人(個人主義)が確立していない「集団主義」である……と言いたいだけである。

 サッカーは欧米の「個人主義」の風土から生まれ、育まれたスポーツだ。しかし、日本人の国民性は、個人主義とはまったく相容れない、個人よりも自身が属する組織・集団に重きを置き、没入する「集団主義」である(「派閥行動」のその中に含まれる)。したがって、日本人はサッカーに向いていない……という「サッカー日本人論」を、佐山氏はやりたいだけである。

 別に「ややこしい」話ではない。話をややこしくしているのは佐山氏の方だ。

 臭いニオイは元から絶たなければならない。「日本人は集団主義だから……」という通念・通説を疑い、そのデタラメを見抜き、乗り越えるための手引きとしては、高野陽太郎著『「集団主義」という錯覚』杉本良夫とロス・マオア著『日本人論の方程式』、同じくその初版本『日本人は「日本的」か』が最適である。

 いずれも、それなりにボリュームがある本だが、中身の文章はとても平易明解である(どちらの著作も「啓蒙」を意識しているので,いたずらに衒学的な修辞に傾くことはない)。そして、これらのコンテンツを弁(わきま)おくと、日本のサッカー論壇の手口や流儀・作法に関するリテラシーが身につく。

 それは、相手が佐山一郎氏でも、村上龍氏でも、金子達仁氏でも、後藤健生氏でも、湯浅健二氏でも、杉山茂樹氏でも、山崎浩一氏でも、中村敏雄氏でも……、みな同じである。

澤穂希が蹴っ飛ばしたもの
[2.]より:摺〔す〕り足でもなんとかなる非サッカー的世界⇒⇒⇒佐山一郎氏が援用した「日本人〈摺り足〉民族論」の元祖は、武智鉄二氏(演出家,映画監督ほか,故人)の著作『伝統と断絶』である。

伝統と断絶 (1969年)
武智 鉄二
風濤社
1969


 日本人は稲作中心の農耕民族であり、地面にかかとをこすりつけて歩く水田耕作作業に由来する「摺り足」の身体文化が身に染(し)みついている。したがって、日本人は、野球ならともかく、サッカーやラグビーのようなピッチ上を走り回る「牧畜民族」(≒狩猟民族)の球技には向いていないといった要旨である。

 「日本人〈摺り足〉民族論」は、佐山氏のみならず、かなり人気のある「サッカー日本人論」だ。在野の少年サッカーの指導者として有名だった近江達(おうみ・すすむ)が自著『日本サッカーにルネサンスは起こるか?』で、あるいは音楽学者(?)の細川周平氏が同じく『サッカー狂い』で、この話を展開している。

近江達『日本サッカーにルネサンスは起こるか?』
【近江達『日本サッカーにルネサンスは起こるか?』】

 こんな俗説に対する、もっとも有効なカウンターは、2011年サッカー女子W杯決勝における、女子日本代表(なでしこジャパン)のキャプテン・澤穂希(さわ・ほまれ)選手による「事実上の決勝ゴール」だろう。

 農耕民族・稲作民族であるはずのニッポン人、摺り足民族であるはずのニッポン人=澤穂希が、コーナーキックから飛んできたボールに、右足のかかとを振り上げアウトサイドでボレーシュートをしてゴールに叩き込んだのである。

 すでに故人である近江達氏はともかく、佐山一郎氏や細川周平氏は、どう思っているのだろうか。澤穂希の、あのシュート、そしてあのゴールは、サッカー女子日本代表を世界一にするとともに「日本人〈摺り足〉民族論」をも蹴っ飛ばしたのである。

浅野内匠頭は決定力不足(?)だった
[3.]より:『忠臣蔵』を見たあるブラジル人は、「俺たちなら、陣太鼓叩くような形式にこだわる間もなくマフィア雇って背中から一発ズドンさ」と言い切ったという……切腹文化は形から入るぼかりで非創造的というわけだ⇒⇒⇒ありとあらゆる「日本的なるもの」を「サッカーならざるもの」に仕立て上げる、佐山一郎氏の薄暗い情熱には感心させられる。……と同時に、ウンザリさせられる。

 江戸時代の「殿中刃傷事件」は「忠臣蔵」の一件のみならず、何件も発生している。わりと有名なものとしては、貞享元年(1684)、若年寄・稲葉正休による「大老・堀田正俊暗殺事件」。あるいは、天明4年(1784)、旗本・佐野政言による「若年寄・田沼意知暗殺事件」。だいたい、その場で殺しているか、致命傷を負わせている。

 つまり、鉄砲でズドンではないが、刀(脇差)でブスリと殺(や)っている。

 「忠臣蔵」で知られる「元禄赤穂事件」の殿中刃傷は、加害者側(浅野内匠頭=あさの・たくみのかみ)が、例の儀礼用の長袴(ながばかま)を穿(は)いていて動きづらかった上に、これまた、儀礼用のナイフ程度の大きさの小サ刀(ちいさがたな)しか帯びていなかったので、相手(吉良上野介=きら・こうずけのすけ)を殺傷できなかっただけの話である。浅野内匠頭は決定力不足(?)だったのかもしれない。

 また、史実の「元禄赤穂事件」の討ち入りでは、赤穂浪士側は「陣太鼓」など鳴らしていない。



 佐山氏は、「忠臣蔵」または「元禄赤穂事件」の実際について、よく知らないようだ。

 歌舞伎や能楽など、日本の伝統演劇に限らず、欧米のオペラでもシェークスピアの史劇でも、歴史上の事件を作劇する場合は一定の「形式化」が必須である。これは洋の東西を問わない。

赤信号を守るポーランド人から世界的ストライカーが出た
[3.]より:クルマが往来を走っていなくても、日本人の多くは赤信号で必ず立ち止まる。たしかに形式こそが重要なのだ⇒⇒⇒これなどは「サッカー日本人論」の定番ネタ中の定番「赤信号文化論」がある。それは……。

 日本人は、赤信号だと車が来なくても横断歩道を渡らない。すなわち、日本人は「形式」や「規則」「御上の権威」「組織」、あるいは集団が醸しだす「空気」に従順である。つまり、日本人は「個人」で物事を判断することができない。

 要するに、ドリブルか、パスか、シュートか、するべきプレーを瞬時に「個人」の責任で決定しなければならない、サッカーというスポーツは日本人に向いていないのだ。いわんや、シュートしてゴールを奪うという「決定力」においては。……というものである。

 その、比較的、新しい例としては、サッカーライターの木村浩嗣(きむら・ひろつぐ)氏が2016年1月に発表したコラムがある(下記リンク先参照)。
 このタイプの「サッカー日本人論」は、サッカー論壇のあちらこちらで目にすることができる。「赤信号文化論」を、特に有名にしたのは、元日本代表監督フィリップ・トルシエであった。在任中2001年に著(あらわ)した『トルシエ革命』に、その言及が見られる。

トルシエ革命
フィリップ トルシエ
新潮社
2001-06


 いや、待て。佐山一郎氏のくだんのエッセイは1992年の昔だ。実は「赤信号文化論」は、元々、サッカーライターの大御所・後藤健生氏の以前からの持ちネタだった。氏は、例えば1995年に上梓した『サッカーの世紀』でも「赤信号文化論」を展開している。

サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07


 後藤氏とも親しい佐山氏は、ここで「赤信号文化論」を投入したのである。

 ただし、後藤健生氏は日本のサッカーが1990年代以降、大幅に伸長したことに伴い、2012年、「赤信号文化論」を自己批判したうえで、撤回した。そして「サッカー日本人論」全体にも批判的な姿勢をとるようになっている(下記リンク先参照)。
 佐山一郎氏や木村浩嗣氏と違って、後藤健生氏は「サッカー日本人論」の怪しさに気が付く鋭敏な感覚がある。恐ろしいところは、かつて持ちネタにしていた後藤氏があれだけ否定したにもかかわらず、木村氏のような人が「赤信号文化論」を無邪気に継承して得意げに展開するところにある。「赤信号文化論」の生命力の強さはあなどれない。

 木村浩嗣氏は、前掲の「赤信号を渡る国で自己責任について考える」で横断歩道で赤信号を逐一守る日本人から世界的なストライカーは生まれないと書いている。ところが、後藤健生氏は、同じく前掲の「ポーランドサッカー弱体化は、赤信号で道路を横断しないから?」で、ポーランド人も日本人並みに横断歩道で赤信号を守ると観察している。

 そのポーランド代表には、世界的ストライカー ロベルト・レバンドフスキがいる(FCバイエルン・ミュンヘン所属,2018年ロシアW杯では不発だったが)。日本人と同じく、赤信号だと横断歩道を渡らないポーランド人から、こうした選手が出てきたこと。これなどは、日本人論とサッカーのつながりを疑い、考えさせる興味深い実例であろう。

「日本人島国神話の起源」と日本サッカー
[4.]より:事ほど左様、『島耕作』の国〔日本〕では馬鹿のひとつ覚えのようにセンタリングが強調されてきた。それだけでなんとかなったアーセナル・ゴールの時代は、はるか音の話である⇒⇒⇒事ほど左様、佐山一郎氏は馬鹿のひとつ覚えのように、実にさまざまな「サッカー日本人論」と「自虐的な日本サッカー観」を垂れ流してきた。

 それだけで、日本のサッカー論壇がなんとかなった時代は、はるか昔の話である。

[4.]より:同じ島国のイングランド・リーグ名物、海峡を越えるドッカン攻撃がこんなにお好きというのも珍しかった⇒⇒⇒またしても「島国論」である。

 小熊英二氏の『単一民族神話の起源』などを読んでいると、「日本は島国で,日本人は稲作を中心とした平和な農耕民族にして単一民族」という通説が主流になったのは、第二次世界大戦後のことらしい。日本の戦後民主主義と平和主義に連動したもののようである。

 事実、第二次世界大戦敗戦まで存在した「大日本帝国」は、陸上に国境線を持った「多民族国家」だった。だから、その時代は「日本人は島国の単一民族」という説は支持を得られなかった。

 参考までに、甲子園球場で行われた戦前の中等野球(現在の高校野球)全国大会の出場枠は、日本内地19代表に、台湾、朝鮮、満州の3代表を加えて、全22代表であった。

 四方を海に囲まれた狭い島国、異文化との接触が少なく、人々は均質な文化や習慣でまとまり、農耕とくに稲作を中心とした自給自足の生活を送り、だから社会内の対立や闘争・葛藤・征服・摩擦が少ない、平和な単一民族ニッポン(しかし,それゆえ「サッカー」というスポーツを社会的・文化的に醸成していく活力には欠けているニッポン)。

 こういう日本人の自画像はの定着は比較的最近の現象らしい。佐山氏の日本サッカー論も、実は時代的な思潮の流行り廃りに左右されているのである。

失われた銀杯を求めて
[5.]より:崇〔たた〕り……戦前、英国蹴球協会(FA)から贈られた純銀製FAカップの〔軍部への〕供出を阻止できなかったことがいまだに尾を引いて⇒⇒⇒哀れにもサッカー日本代表は、W杯や五輪などの国際舞台にほとんど立てずじまい。……と続く。

 1919年(大正8)、イングランドのサッカー協会(The F.A.)から、日本のサッカー関係者に「銀杯」が贈呈されたことがキッカケで、1921年(大正10)、日本サッカー協会(JFA)が設立されたこと。その銀杯は、戦前の全国選手権カップ戦の優勝トロフィーとして使われたこと。そして、第二次世界大戦に際して軍部に供出され、戦後、JFAに戻ってきていないことは、よく知られた話である。

 佐山一郎氏は、以前からこの問題にこだわってきた。2018年刊、佐山氏自身のサッカーライティング『日本サッカー辛航紀』の第一章第一節で、あらためてしつこく言及している。

 日本のサッカー関係者の戦争責任を批判する者はなく、彼らはひたすら戦争受難史観で自己防衛をはかるばかり。たしかに戦時下の日本サッカー界は想像以上の圧力を軍部から受けていた。しかし、いかに彼らが被害者を装おうと、JFAが銀杯を軍部に供出するなど迎合して「日本精神」を鼓舞した事実は残る。……と、佐山氏は批判する(『日本サッカー辛航紀』20~23頁)。

 その上で「近現代日本サッカーの起源ともいえるFA杯の真の価値を知る誰かが,フットボーラーのフットボーラー的責任において保存していたという至上の美談をあきらめきれない私〔佐山一郎〕がいる」(同書25頁)などとも語る。

 そうした複雑で否定的な感情が、1992年の『BRUTUS』誌のサッカー特集では、それは「祟り」であり、ゆえに「哀れにも日本代表は国際舞台にほとんど立てずじまい」という表現につながったのである(話をロジカルにではなく,エモーショナルにつなげるのが,佐山氏の流儀である)。

 当ブログからしたら、どうでもいい話である。

 だいたい「近現代日本サッカーの起源」は、JFAが設立された大正時代ではなく、もっと前、まだ19世紀だった頃の明治時代にある。『日本サッカー辛航紀』は、日本サッカー史を謳(うた)いながら、前近代の「蹴鞠」まで採り上げながら、しかし、明治時代・草創期の日本のサッカー事情について全く触れていない不思議な1冊である。佐山氏は「明治」のサッカー史から「思想逃亡」したのだ(下記リンク先参照)。
 それに比べれば、日本サッカー界に贈られたオリジナルのFA杯がどうなろうが知ったことではない。そんなことは、その国のサッカーの消長とは関係ない。

 例えば、国際サッカー連盟から認められて、ブラジルが永久保持していたはずの、本物のW杯優勝トロフィー「ジュール・リメ杯」は、盗賊に盗まれたまま戻ってこない。こんな失態をやらかしたブラジル・サッカー界は、いったいどうなるのであろうか。

ゲノム,遺伝子,DNA…再生産される人種主義
[5.]より:もはやこれは農耕民族〔である日本人〕のDNA遺伝子(記憶)の問題じゃないかと思いはじめて⇒⇒⇒ヒトゲノムやDNAの研究が進んだ昨今。しかし、その研究成果への確かな理解がないまま、かえって新しいレイシズム(人種主義,人種差別)につながる記号と化したのが、「DNA」や「遺伝子」といった観念である。

 オールドメディアやインターネットは「日本人のDNA」という表現を、さも当然であるかのように使う。「日本人」の国民性や文化、精神……が、あたかもDNAや遺伝子の次元で決定づけられているかのような言説が蔓延(まんえん)している。

 サッカーに関して言うと、もともと「農耕民族」だから「摺り足民族」だから……日本人はサッカーに向いていないという俗説が流通していたから、「DNA」や「遺伝子」といった観念の流行は、これにお墨付きを与えているところがある。

 佐山一郎氏は、その風潮に安易に乗っかっているのだ。

 いずれにせよ、科学的には誤用であり、たとえ比喩だとしても「DNA」や「遺伝子」といった表現の濫用は慎むべきである。

日本サッカーのために「味噌汁&ごはん全廃」を公言した人
[5.]より:〔海外サッカーの〕熱狂の血しぶきを、〔日本人の〕畦道〔あぜみち〕でよっこらしょ的体液に注入し、12人目のフィールドプレイヤーとしての「自立」をめざす騎馬民族願望の旅⇒⇒⇒これもまた日本人=農耕民族説や、日本人=集団主義説に基づいた「日本人サッカー不向き論」のバリエーションのひとつである。

 ふつう「日本人=農耕民族」と対になるのは「狩猟民族」だが、前述の「日本人〈摺り足〉民族説」のように「牧畜民族」でもいいし、ここにあるように「騎馬民族」でもいい。要は「農耕民族」としての「日本人」が「世界」の中で、いかに特異な存在であるかをアピールできればいいのである。

 ここにある「体液」という表現も、「DNA」や「遺伝子」と同様のレイシズム(人種主義,人種差別)の気配が濃厚である。佐山一郎氏は本当にデリカシーに乏しい。

[5.]より:朝の味噌汁&ごはんも全廃した⇒⇒⇒これが「日本人はご飯や味噌汁を食べているから,サッカーが強くなれないみたいなことを,『BRUTUS』みたいな雑誌にまで書」いた……の本文である。

 こういう発言は「レイシズム」(人種主義,人種差別)ではないのかと指摘され、批判されると、一介のサッカーファンとしては返す言葉がない。

日本のサッカーは変わったのだけれど…
 以上である。お疲れさまでした。

 それにしても、佐山一郎氏は、よくもまあ、これだけ短い文章に、これだけの与太話を詰め込んだものである。

 佐山氏が『BRUTUS』誌に問題のエッセイ「12人目のフィールドプレイヤー。」を書いたのは、Jリーグがスタートする直前。1992年の初冬のことだった。

 あれから30年近い年月が経った。

 日本の公共放送「NHK」が、ストレートニュース番組で、結果または途中経過を必ず報告するプロスポーツは、プロ野球(NPB)、大相撲、そしてサッカーのJ1(Jリーグ1部)だけである。バスケットボールのBリーグなどには、このような特権はない。

 すなわち、Jリーグ(サッカー)は日本の人気スポーツとして定着している。

 サッカー男子日本代表は、W杯本大会6回出場、うち1次リーグ突破3回。女子日本代表に至っては、W杯優勝1回、同じく準優勝1回、五輪準優勝1回、同じく4位1回。200を超える国際サッカー連盟加盟国の中で、サッカーの実績が日本より同等それ以下の国は、少なく見積もっても100か国以上はある。

 日本のサッカーは、大きく伸長したのである。

 2019年の時点からすれば、佐山氏のような人(雑誌『STUDIO VOICE』の編集長をやったような人)が、「日本人」は「島国」の「農耕民族」(というホモサピエンスの亜種)で、特にサッカーというスポーツにおいては劣等なる能力しか持ちえない……などと言う、レイシズム(人種主義,人種差別)を公言したことなどは、およそ信じられないかもしれない。

 しかし、こうした歪んだ「まなざし」の方は、けっして克服されていない。

…それでも継承される「サッカー日本人論」
 近年の例を挙げよう。「日本人,サッカー,農耕民族」でグーグル検索すると(2019年5月14日閲覧)、検索上位に2016年6月11日にアップされた「日本サッカーが勝負弱い本当の理由。本田圭佑・釜本邦茂が警鐘を鳴らす…」というインタビュー記事がヒットする。悲しいことに、この中であの釜本邦茂氏が「日本人=農耕民族説」で一席ぶっているのだ。
レジェンド・釜本氏が主張する日本に競争力がない理由
 私〔釜本邦茂〕はいつも言っていることだが、日本と欧州の人々の根本的な違いは、農耕民族と狩猟民族の違いにある。

 欧州でも南米でもアフリカでも、彼らはもともと狩猟民族だった。自分の家には何も持っておらず、獲物を探しに行く必要があった。今ではなく大昔の話だが、そういう血が彼らには流れている。

 一方で日本人は、自宅の庭や周辺の畑で野菜などを育てることが可能だった。雨が水分をもたらし、太陽が栄養分をもたらしてくれた。今日天気が悪くても明日には大丈夫、という気候だった。

 しかし欧州などの人々は、(弓矢を構える仕草をしながら)いま射たなければ次はない。自分自身で狙っていかなければならない。それが農耕民族と狩猟民族の違いだ。根本的に考え方や、流れている血が違っている。日本にいるそういう〔サッカー〕選手は、本田圭佑〔や中田英寿?〕などのごく一握りだけだ。

 〔欧州でも南米でもアフリカでも,子供たちは〕負けることがあれば、もっと向上したいと思うことができる。しかし日本の子供たちは、勝つことや負けることについてあまり本格的に考えてはいない。

 1992年の佐山一郎氏のエッセイから、少しも変わらない日本サッカー観である。

 釜本氏のような日本サッカー界の権威からも繰り返し語られ、刷り込まれる、人種主義的な「サッカー日本人論」や「日本人サッカー不向き論」は、いざ、W杯本大会で日本が「惨敗」したりすると、一気にヒステリックな「自虐的な日本サッカー観」として表出する。

 日本代表のチャレンジが不首尾に終わった2006年ドイツW杯や2014年ブラジルW杯がそうだった(後者に関しては下記リンク先参照)。
 とどのつまり、日本のサッカー論壇が、日本サッカーの歩みに合わせて、サッカー評論の新しい地平を拓いてきたわけではないのである。

とにかくアンチ日本人論は少数派なので…
 日本代表やJリーグがいかに成果を上げようとも、日本のサッカー関係者の偏見に満ちたネガティブな日本サッカー観は、一向に克服されない。その理由はいくつもある。

 ひとつには、日本では長らくサッカーがマイナースポーツだったからである(この問題に関しては,以下の2つのエントリーを参照されたい)。
 またひとつには、世上では「日本人論」の通念・通説が圧倒的優勢で、これを批判する「アンチ日本人論」が少数派だからでもある。

 『菊と刀』や『風土』『タテ社会の人間関係』『「甘え」の構造』『日本人とユダヤ人』といったの代表的日本人論は、世代や時代を超えて読み継がれてきたベストセラー、ロングセラーである。多くの人は、これらの著作を直接には読んだことはなくとも、その中に登場する「恥の文化」「タテ社会」「甘え」といったキーワードは耳にしたことはある。

 対して、『日本人は「日本的」か』や『「集団主義」という錯覚』『日本人論の方程式』『イデオロギーとしての日本文化論』『反日本人論』といったアンチ日本人論の著作は、よほどこの方向に関心がないかぎり、読まれることはない。

イデオロギーとしての日本文化論
ハルミ ベフ
思想の科学社
1997-07


 佐山一郎氏について言えば、日本人農耕民族説、同じく島国説、多神教説、集団主義説、単一民族説……、さらには「忠臣蔵」に至るまで日本人論の通説を。加えて阿部謹也、剣持武彦、谷崎潤一郎、和辻哲郎、神崎宣武、武智鉄二……といった人たちが提唱した、日本人論・日本文化論の概念を貪欲に採り入れては、「サッカーならざるニッポン」のイメージを読者=日本のサッカーファンに刷り込んできた。

 翻って、杉本良夫、高野陽太郎、網野善彦、ハルミ・ベフ(別府春海)、ロビン・ギル、小熊英二……といった人たちによる、「日本人」という過剰な自意識に再考を迫るような一連の著作は、佐山氏の視界にはついに入ってこなかったのである。

ピントがズレた(?)日本スポーツ学界からの批判
 さらにもうひとつの理由は、日本のスポーツ学による「サッカー日本人論」への批判が中途半端なことにある。

 「サッカー,日本人論」でざっとグーグル検索すると、森田浩之氏(ジャーナリスト,立教大学兼任講師)や有元健氏(国際基督教大学教育学部准教授,スポーツ文化研究)といった人たちによる「サッカー日本人論」批判にヒットする。
 有元健氏は、自身のように「社会科学系の学問をやっていると〈国民性〉を語る言説に信頼を置くことはかなり難しい」と語る。

 そして、日本代表(当時)の、ハーフナー・マイクや酒井高徳、李忠成といった「多文化的・文化混交的な出自の選手たち」の存在を、サッカー論壇やサッカーファンがもっと認識すれば、「国民性」や「サッカー日本人論」のステレオタイプを乗り越えられるかのように(楽観的に?)語っている。

 しかし、そんなことが楽観が確かならば、例えば1997年11月の「ジョホールバルの歓喜」のあたりで、日本人の日本サッカー観が更新されていてもおかしくはない。実際はそのような情況にはなっていない。なぜか。これらの批判が微温的だからである。

 日本人は島国の農耕民族だからサッカーが弱い、この弱さは日本人「DNA」や「血」の問題、だから日本人は「味噌汁&ごはんを全廃」しなければならない。……などといった、本稿で言及してきた佐山一郎氏らのレイシズム(人種主義,人種差別)、「私たち日本人」自身を差別する自虐言説の強烈さには、森田氏や有本氏の批判はいかにも生温いのだ。

 また、山本敦久氏(成城大学心理社会学科教授,スポーツ社会学)は、アフリカ系黒人のアスリートといえば「高い身体能力」という無邪気な称賛はレイシズム(人種主義,人種差別)の偏見であると批判する。
 山本氏の意見は、欧米あたりの学界の風潮を「輸入」したものである。

 しかし、日本において、少なくともスポーツ界・サッカー界で最も身近なレイシズム(人種主義,人種差別)は「欧米人やアフリカ系黒人に,身体能力でも,身体文化でも劣った(摺り足など)ニッポン人」「サッカーをプレーするための(ある種の)知的能力にも劣ったニッポン人」「何より駄目なニッポン人」というものである。

 こうした通念・通説を放置しておいて、他者への、例えばアフリカ系黒人への偏見を改めよ……などというのは、難しい問題である。

 いずれにしても、「サッカー日本人論」を長年監視してきた物好きから言えば、サッカー論壇やサッカーファンが共有してきた「常識」に痛撃を与えるには弱い。

自己批判なき佐山一郎氏のサッカー論壇からの引退
 本稿でしつこく論(あげつら)ってきたように、1992年、『BRUTUS』誌のサッカー特集で、あれだけ放埓な放言をした佐山一郎氏。2019年の現在、氏は何を思っているのだろうか。佐山氏は、2018年上梓の『日本サッカー辛航紀』を有終として、サッカー論壇からの「引退」を公言している。だから、この著作を手がかりに類推するしかない。

 その中で、納得しがたいところがあった。サッカー本の名著とされ、日本では1983年に邦訳が刊行された、デスモンド・モリス著『サッカー人間学』(原題:The Soccer Tribe=サッカー部族=)の内容に、佐山氏が言及した箇所である。
 陰気でおたく〔原文傍点〕な私〔佐山一郎〕が指摘しておきたかった……。〔日本のサッカー関係者の〕悪性マゾ的メンタリティ〔自虐的な日本サッカー観〕の大量発生に、この本〔『サッカー人間学』〕が一役買ってしまった可能性が高い。「第1章 部族のルーツ」の中の〈儀式的狩猟としてのサッカー試合〉の項が、のちのち長くいわれ続けることになる「日本人=非狩猟民族=得点力不足」説の論拠になってしまったからだ。これに集合的な諦念がカクテルされれば、さらなる負のスパイラルである。偏狭な一国史観的自己認識でしかない〈農耕民族説だから勝てない説〉がはびこるのも当然のことだった。〔サッカー日本代表の〕五輪出場は再び分不相応の大きな望みである「非望」のレベルにまで達していた。

佐山一郎『日本サッカー辛航紀』140~141頁

サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02


The Soccer Tribe
Desmond Morris
Rizzoli Universe Promotional Books
2019-03-26


 これには唖然とした。

 他人事のように書いているが、そもそも「サッカー日本人論」に耽(ふけ)り、「サッカーにおける〈日本人農耕民族説〉」を誰よりも一番煽り、日本のサッカー界に「悪性マゾ的メンタリティ」を大量発生させるのに一役買い、後々まで日本のサッカー界に悪影響を残したのは、他の誰でもない、佐山一郎氏だからである。

 そもそも著者のデスモンド・モリス博士は「欧米人やアフリカ系黒人=狩猟民族=サッカー的/日本人=農耕民族=非サッカー的」などという、「偏狭な一国史観的自己認識」など知らない。また、世界の「サッカー部族」から「日本人」だけを排除しようという意図などない。これは断言できる。

 なぜなら『サッカー人間学』は、日本のサッカー文化についてもかなり好意的に取り上げているからだ(下記リンク先参照)。
 この著作で紹介された日本のサッカー文化の中には「胴上げ」のように、世界的に普及したものすらある。

 前述のように、後藤健生氏は、かつて自身が持ちネタにしていた「サッカー日本人論」である「赤信号文化論」について、自省を込めながら批判し、否定・撤回してみせた。それだけの度量があった。

 翻って、佐山一郎氏には、そうした潔さがないのは非常に残念である。佐山氏は、これらの件に関して何らかの意思の表明が必要なのではないか。せめて、佐山一郎氏に関しては、米&味噌抜き「食事療法」の「成果」の報告が欲しいところだ。……などと、嫌味を書いて本稿の結びとするのは本意ではない。

 やっぱり、それってレイシズムじゃないですか。

(了)



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戦前日本のスポーツ人気は「ラグビー>サッカー」だった!?
 度し難いほど人種主義的な自虐的日本サッカー観の持ち主である佐山一郎氏には、その定番ネタとも呼ぶべき、いくつかのパターンが存在する。

佐山一郎氏(ホームラン1991年2月号)
【佐山一郎氏.@『ホームラン』1991年2月号】

 今回のテーマは、そのひとつ「戦前の日本サッカーは,東京六大学野球や大相撲はもちろん,大学ラグビーにすら人気で劣っていた.それが証拠に当時のモダン雑誌『新青年』には,他のスポーツと比して,サッカーの話題がほとんど載っていない!」というものである。

 その代表例が、サッカー日本代表がW杯本大会に出場した年、朝日新聞社の月刊誌『論座』1998年9月号に掲載され、後に佐山氏の単行本『サッカー細見』に収録された「極私的ワールドカップ報告」からの抜粋である。
 なぜ日本代表は〔1998年フランスW杯その他で〕勝てないのかを考えることはむろん大切だが、決定的に欠けているのは、なぜ日本人の多くがこれまでサッカーを必要としてこなかったかの考察である。それはパックス・アメリカーナの傘という角度や地理的条件〔島国ニッポン?〕だけで語りきれるものでもないような気がする。おそらくは〔日本人の〕深層というところで何かしらの反発が受容の妨げになってきたに違いない〔日本人サッカー不向き論〕。ラグビー、野球、オリンピックでの成功を頻繁にとりあげた戦前のモダン雑誌『新青年』がまったくといっていよいほど、サッカーに興味を示さなかったことも気になる。わずかに裏表紙の明治チョコレートの広告のさし絵として登場するだけというのも不可思議である。

サッカー細見―’98~’99
佐山 一郎
晶文社
1999-10-01


 これだけでも佐山一郎氏の自虐的日本サッカー観が全開、かつツッコミどころ満載だ。それは追い追い展開するとして、まず、ひとつだけ寄り道して採り上げる。

 引用文中に「パックス・アメリカーナ」とある。だが、ウィキペディアには「パクス・アメリカーナ」(ママ)の始まりは、早く見ても第一次世界大戦終結(1918年=大正7)の後とある。日本において、野球がサッカーやラグビーに先んじて人気が出始めた時期は、1877年(明治10)頃から1887年(明治20)頃にかけてである。

 すなわち、日本における野球の隆盛は「パックス・アメリカーナ」の影響ではない。「大日本帝国」自身の「選択」である。しかも、これは平岡熈(ひらおか・ひろし)や、それを継承した正岡子規といった人たちの、野球の普及・啓蒙活動の成果であって、日本人の「深層」とそのスポーツ種目との相性の問題ではない。

『新青年』と『ナンバー』でたどれる戦前・戦後の日本スポーツ事情
 あらためて、佐山氏が度々採り上げる『新青年』という雑誌の性格について、ウィキペディアの記事を参考に確認しておく。
新青年(日本)
 『新青年』(しんせいねん)は、1920年に創刊され、1950年まで続いた日本の雑誌。

 1920年代から1930年代に流行したモダニズムの代表的な雑誌の一つであり、「都会的雑誌」として都市部のインテリ青年層の間で人気を博した。

 現代小説から時代小説まで、さらには映画・演芸・スポーツなどのさまざまな話題を掲載した娯楽総合雑誌であった。

ウィキペディア「新青年(日本)」より抜粋(2019年2月17日閲覧)
 同じくウィキペディアには、現在『新青年』誌の商標権を保有しているのが佐山一郎氏だと記してある。だから、この雑誌への言及が多いのだ。

 ところで、文藝春秋のスポーツ雑誌『ナンバー』の、創刊(1980年)以来の歴代バックナンバーの表紙と目次がインターネットで公開されている。これをたどれば、1980年以降の日本のスポーツ事情を大まかに理解することができる(下記リンク先参照)。
 同様に『新青年』誌の内容をたどっていけば、戦前日本のスポーツ事情が大まかに理解できようというのである。

都会派モダン雑誌『新青年』に見放されたサッカー
 戦前の日本スポーツでは、サッカーよりラグビーの方が人気があったらしいこと。それが証拠に、戦前の雑誌『新青年』では、野球やラグビーを大きく扱ってもサッカーには冷淡だったこと。この2点に、佐山一郎氏は固執してきた。以下、実例を引用していく。

 当ブログが集め確認できた資料のうち、佐山一郎氏がこの問題に触れた最も古いテキストは、野球専門誌『ホームラン』(日本スポーツ出版社)1991年2月号の「それでも野球は王様だ!」である。
『ホームラン』1992年2月号(2)

 あまり言いたくないのだが、〔19〕60年代半ばから10年余り続いた杉山-釜本人気だけが、突然変異で、戦前からサッカーは、相撲、六大学野球、大学ラグビーなどに比べて人気の面ではるかに劣っていた。つかこうへい〔劇作家,演出家,小説家〕さんがいつか書いていたように、ちょっとうつむいているうちに1点だけ入って、それっきりみたいな狩猟民族のための非物見遊山的競技〔=サッカー〕は日本人には合わない。〔以下省略〕

佐山一郎「それでも野球は王様だ!」@『ホームラン』1991年2月号より
 戦前から日本サッカーの人気がなかったことと、日本人の国民性・民族性・文化・歴史・精神・伝統等々と「サッカー」との相性が極めて悪いこと、この2つを結び付ける主張(日本人サッカー不向き論)は、『サッカー細見』と同様、佐山氏において一貫している。

 次いで、1993年刊の『Jリーグよ!』巻末(165~237頁)の「私家版 サッカー全史~日本サッカーvs.世界+世相」という、73頁にも及ぶ長い長い年表である。

 この年表は、著書の中で断っているが(237頁)、佐山氏が尊敬し、自身のサッカーライティングで参考にしたという、村松友視氏の名著『私、プロレスの味方です』。その巻末に掲載された、個人史と世相史とプロレス史を重ね合わせる体裁の年表を参考にしたものだ(引用「私家版 サッカー全史」掲載写真の特に左下を参照されたい)。
佐山一郎『Jリーグよ!』166~167頁

〔19〕20〔年=大正9〕|「新青年」創刊(■他競技〔野球,相撲,ラグビーなど〕と比べてサッカーの扱いは著しく少なかった。Why?)

佐山一郎「私家版 サッカー全史」@『Jリーグよ!』166~167頁より

Jリーグよ!―サッカー めざめの年に
佐山 一郎
オプトコミュニケーションズ
1993-12


 そして、サッカーライティングからの引退を宣言している佐山一郎氏が、その有終と位置付けた著作、2018年刊の『日本サッカー辛航紀~愛と憎しみの100年史』である。
 戦前の大学ラグビーは、半ばプロ化していた東京六大学野球の比ではなかったが、大衆のウケはよかった。ラグビーには、サッカーにはない相撲のぶちかましの要素〔?〕がある。戦前人気を博した都会派モダン雑誌「新青年」のスポーツ関連記事を調べて驚いたのは、サッカーに関するものがまるで見当たらないことだ。編輯〔へんしゅう〕部員の好き嫌いの問題だけでもなさそうだった。

佐山一郎『日本サッカー辛航紀』31~32頁

 余談だが文藝春秋のスポーツ専門誌『ナンバー』は、Jリーグ以前の1980年代、本当に「編輯〔へんしゅう〕部員の好き嫌いの問題」で、当時ブームにあったラグビーに熱烈に肩入れし、サッカーは(たとえ,それがW杯であっても)半ば差別的に扱っていた(後述)。

 その頃、日本の大学ラグビーの強豪校は、早稲田・慶應義塾・明治または関西の同志社といった伝統校。これらの大学出身のマスコミ人たちが、嬉しがってラグビーブームを過剰に囃(はや)し立てているのではないか……と、サッカーファンでもある小説家・村上龍氏が嫌味っぽく邪推していたのを、つい、思い出した。

サッカーより「日本人」の感性にかなっているラグビー?
 佐山一郎氏曰く、戦前のモダン雑誌『新青年』では、他のスポーツに比してサッカーはほとんど採り上げられなかった。それを読む限り、戦前の日本では、サッカーよりラグビーの方が人気があった。

 それでも、戦後、1960年代に入って「突然変異」的に勃興し、1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得した日本サッカー。しかし、1970年代に入って急速に失速・低迷していくと、ラグビーの方が、入れ替わるように人気スポーツになっていった。
  • プロフェッショナル化や商業主義を拒んだ、清廉な「アマチュアリズム」。
  • 選手権、なかんずく世界選手権(W杯)の開催を忌避し、誰がいちばん強いか? ……よりも、どちらが強いか? ……という価値観に拘(こだわ)った「対抗戦思想」。
  • 試合が終了すれば、敵・味方、勝った側(side)も負けた側(side)も無くなり、対戦相手の垣根を越えて、互いの健闘を称え会う「ノーサイド(no side)の精神」。
  • 英国伝統のオックスフォード大学vsケンブリッジ大学の定期戦に範をとった、毎年同じ日程で開催される、早慶戦・早明戦といった「伝統の一戦」。
  • 慶應義塾・同志社・早稲田・明治といった、競技の実力においても強豪校であり、新興校の安易な追随を許さない「伝統校」。
  • 接近・展開・連続の理念で知られ、海外の強豪との試合で日本のチームが肉迫してみせた、日本独自のプレースタイル「大西鐡之祐理論」。



 ……これら「紳士のスポーツとしてのラグビー文化」は、佐山氏の言う「相撲のぶちかましの要素」(?)だけでなく、同じフットボールでも、サッカーよりもラグビーの方が「日本人」の感性にかなっていると信じられた要素だった。

 しかも、「紳士のスポーツとしてのラグビー文化」には、戦前からの「連続」がある。佐山氏の言う『新青年』誌に表れた(サッカーに優越した)ラグビー人気と、1970年代に始まり、80年代に頂点に達し、90年代初めまで続いた、かつ文春『ナンバー』が煽った(サッカーに優越した)ラグビー人気との間には「共通項」があるのだ。

サッカーは日本人に受け入れられない!?
 翻(ひるがえ)って、サッカーはいかに?

 佐山一郎氏は、「ビートルズを観ない夜」@『闘技場の人』の中で、1966年頃の話として「サッカーの受容のかたちとしても,今〔1991年当時〕のラグビーフットボールに似た〈紳士のスポーツ〉というふうな初心〔うぶ〕なとらえ方だったと思う」と回顧している。

 その後、サッカーについて啓蒙されていくにしたがって、同じフットボールでも、ラグビーとは対照的な価値観を持ったスポーツであると、しだいに認識されるようになった。
  • オリンピックで称揚されたアマチュアリズムの限界を早々と見切り、プロフェッショナリズムを受け入れ、世界的な人気スポーツとして発展してきた。
  • 国際サッカー連盟も、各国のサッカー協会も、北米生まれのスポーツ(野球など)とも違い、プロ・アマともに統括する。
  • 21世紀では全くの死語であるが、日本ではサッカーW杯のことを「プロもアマも一緒に出場できる大会」だと言われていた。
  • 世界で最も人気のあるスポーツがサッカーであり、かつ世界中のほとんどの国で随一の熱狂的な人気を誇るのがサッカーである。
  • 各国の代表チームによる世界選手権=サッカーW杯は、ゆえにオリンピックをも凌ぐ世界最大のスポーツイベントである。
  • サッカーW杯に出場する各国(代表チーム)のプレースタイルは、それぞれの国の国民性や文化などの「お国柄」を反映したものであり、他のスポーツにはないサッカーの、なかんずくW杯の人気や面白さは、そこにある。
  • 世界各国の文化的な価値観を反映するのがサッカーだから、そこにはスポーツマンシップのみならず、ゲームズマンシップも顔を見せる。しかし、そんな清濁をも併せ呑む懐の深さがサッカーの特徴である。
  • サッカーでは、ファンが熱狂するあまり死人が出る。

The Soccer Tribe
Desmond Morris
Rizzoli Universe Promotional Books
2019-03-26


サッカー人間学―マンウォッチング 2
デズモンド・モリス
小学館
1983-02


 しかし、ラグビーとは違い、これら「世界大衆のスポーツとしてのサッカー文化」は、日本ではなかなか受け入れられなかった。

 1970年代から80年代にかけて、日本のサッカーは、世界の潮流とは遠く離れ、国内ではマスメディアや一般のスポーツファンへの訴求力に乏しく、長い低迷に迷い込んでいた。
  • もともと日本においては、サッカーは歴史的に後発のスポーツであり、人気などで野球に先行され、ラグビーにも差を付けられていた。
  • 1968年メキシコ五輪で3位入賞(銅メダル)以降、サッカー日本代表が弱体化してしまった。W杯・五輪のアジア予選で敗退を続け、来日する欧州・南米のクラブチームにも惨敗を繰り返した。
  • 日本のサッカー選手の技術レベルも低く、魅力的なサッカーを展開できなかった。
  • Jリーグ以前の日本サッカーリーグは「地域に根差していない企業チーム」であり、一般のスポーツファンが感情移入しにくいものであり、不人気だった。
  • 日本サッカーは「プロ化」という懸案を抱えていたが、以上のような理由で、日本スポーツ界のアマチュアリズムを克服することが出来ず、これに前進することができなかった。

『ホームラン』1992年2月号(2)
【Jリーグ以前の日本サッカーの光景@『ホームラン』1991年2月号】
 だから、佐山一郎氏や村上龍氏のように「サッカーの面白さは,日本人には理解できない.日本代表は強くならないし,日本サッカーの人気も出ない」という、サッカー関係者が沢山いた。

みにくいアヒルの子「サッカー」?
 ラグビー推しの文春『ナンバー』の表紙を、初めてサッカーが飾ったのは、1984年、元日本代表、メキシコ五輪銅メダリスト、同大会得点王の釜本邦茂の引退特集だった。佐山一郎氏は、この時の内部事情を『日本サッカー辛航紀』に著(あらわ)してある。
 同年〔1984年〕八月二五日土曜夜に不世出のストライカー釜本邦茂の引退試合が、六万二〇〇〇人で満員の国立競技場で行われた。〔中略〕

 この引退試合は「スポーツ・グラフィック・ナンバー」(文藝春秋)が表紙にサッカー選手を登場させた最初の号だった。八四年九月五日発売の当該号は、創刊から丸四年が経つ一〇七号、刷り部数も相当に慎重どころか、最小レベルに抑えたという。

佐山一郎『日本サッカー辛航紀』136~137頁



 実際、この時の釜本引退特集・日本サッカー特集は、当時の日本サッカーの低迷した状況にあって、売れなかったとされる。

 もっとも、当時の読者だった、あるオールドサッカーファンに言わせると……。
 「あの特集は,結局,サッカーファンならみんな知っている,メキシコ五輪の思い出話にすぎなかった.

 『ナンバー』は,あの頃,日本サッカーの長年の懸案になっていた〈プロ化〉問題や、弱体の日本代表をはじめ、低迷する日本サッカーをどうするか……といった問題に果敢に斬り込んでいく感じがしなかった.

 あれでは、普通のあの雑誌の読者はもちろん,当のサッカーファンにも食いつきが悪かっただろう」
 ……とのことであった。

 とにかく文春『ナンバー』編集部は、これでサッカーは売れないと思ったらしく、1986年のメキシコW杯も、半ば黙殺の扱いをする。


 一方、翌1987年の第1回ラグビーW杯では、文春『ナンバー』は別冊を組んで特集した(上記リンク先から「1987年」までたどってください)。ずいぶんと露骨に待遇が違うものである。当時の感覚でいっても、W杯ではラグビーよりサッカーの方が、マスコミの関心度も高かったはずなのだが。

 『ナンバー』は、マイナースポーツだから採り上げないというワケでは、必ずしもない。1980年代当時、暴走族と同一視されていたモータースポーツ(四輪,二輪とも.上記ツイッター参照)を、『ナンバー』は積極的に特集し、後のブームの一翼を担っている。しかし、サッカーに関しては、Jリーグ以前に先行して採り上げたという印象は薄い。

 要は『ナンバー』編集部に、サッカーに思い入れのある「編輯〔へんしゅう〕部員」がいれば、少しは状況が違っていたのではないか? あるいは、当時『ナンバー』のサッカーライターの一番手は佐山一郎氏だったが、心情的に屈折に屈折を重ねた佐山氏ではなく、例えば、故富樫洋一氏だったら、少しは状況が違っていたのではないか?

ブームの後遺症に苦しんだ日本ラグビー
 しかしながら、佐山一郎氏は、かつてラグビー人気でサッカーに優越できた「要因」そのものが、後にラグビーを低迷させた「要因」に転じたことを理解しているのだろうか。日本のラグビーは、長年にわたるラグビーブームの「後遺症」に苦しんだのである。

 すべてのキッカケは、1987年に始まったラグビーW杯だった。ラグビーが世界化するにしたがい、ラグビーというスポーツの在り方大きく変容した。「紳士のスポーツとしてのラグビー文化」も、その真実と虚構の違いも分かってきた。

 世界選手権(W杯)の浸透によって「対抗戦思想」は後退した。また、やせ我慢の「アマチュアリズム」も限界に達しており、1995年南アフリカW杯は事実上プロフェッショナルによる大会となっていた。大会直後、国際ラグビー評議会は(現ワールドラグビー)、ラグビーのアマチュア規定を撤廃。プロ化と商業主義に大きく舵を切った。

 日本のチームでプレーした海外の世界クラスの選手によって、「ノーサイド(no side)」という言葉が、英語圏諸国では半ば死語になっていることが明らかになった。むろん、ラグビーには特徴的なスポーツマンシップがある。しかし、他のスポーツと同じく、ゲームズマンシップも存在し、両者のバランスの上で成立していることが分かった。

 オックスフォード大学も、ケンブリッジ大学も、両校が対戦する「伝統の一戦」以外は、ラグビープレミアリーグの2軍クラスとレギュラーシーズンの試合を、それぞれ独自に組んでいる。これは、どこのカンファレンスにも所属していない、アメフトのノートルダム大学に近いもので、つまり、ラグビーの本場・英国には、日本でいうところの〈大学ラグビー〉が、実は存在しない!?

 日本のラグビーは、こうした世界の潮流から孤立し、あるいは引き離されて、没落した。それは、日本代表の1995年W杯の大惨敗、99年W杯の惨敗として現れる。日本のラグビーファンは「それでも,大学ラグビーの早明戦は面白いんだから……」という方向で逃げたというが、それも以前のような集客はできなくなっていった。

 これは、巨視的には、日本ラグビー界が初心(うぶ)に信じていた「紳士のスポーツとしてのラグビー文化」が足枷になっている。より具体的には、日本ラグビー界に特徴的な大学や大手企業のラグビー部が担い手なった「アマチュアリズム」の限界である(下記リンク先の著作を参照)。

ラグビー従軍戦記
永田 洋光
双葉社
2000-06


ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12


 早慶戦・早明戦といった「伝統校」による「伝統の一戦」の固定的な日程は、レギュラーシーズンを長引かせ、日本代表の強化の時間が確保できないと批判された**。選手のフィジカルフィットネスの劇的に向上によって、純粋な「大西鐡之祐理論」だけで、日本のラグビーは海外の強豪と渡り合っていけないことも分かってきた

 こうした条件を乗り越えて、日本ラグビーが活気を取り戻すのは、エディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ=監督)率いる日本代表が、2015年ラグビーW杯で活躍するまで待たなければならない。

東京高師のサッカーと慶應義塾のラグビーの違い
 戦前の日本では、サッカーよりラグビーの方が人気があった。こう言われても、当ブログに反駁するだけの材料はない。この件に関して、個人的に日本のサッカー史・ラグビー史を調べてみても、理由はよく分からなかった。もっとも、佐山一郎氏は「日本人・日本文化とサッカーというスポーツの相性の悪さ」を主張したいのだろうが。

 一方、それなりに理解できたこともある。

 よく言われる、明治初年の海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)や工部大学校(東大工学部の前身)に伝えられたフットボール***というのは、その後の日本で展開されるサッカーとは、直接つながっていない。これらの系譜は、後が続かず途絶えている。

 現在の日本サッカーの直接の起源は、東京高等師範学校(東京高師,筑波大学の前身)で、海軍兵学寮や工部大学校よりも少し遅れて始まったもの。今ある日本のサッカーは、全部その「血脈」(仏教用語で「けちみゃく」と読む)である。


 一方、現在の日本ラグビーの起源は、1899年(明治32)に慶應義塾で始まったことが定説となっている。

 東京高師のサッカー、慶應義塾のラグビー。どちらもエリート校であるが、この違いは全国の普及度、競技人口の差となった。

 師範学校とは、要するに学校の先生(教師)を要請する高等教育機関である。東京高師~筑波大学のOBたちは、教師として赴任した全国の学校(旧制中学など)でサッカー部を創ることを自らの使命とした……。実際、以前の筑波大学蹴球部(サッカー部)の公式ウェブサイトには、こんなことが書かれてあった。

 対して、慶應義塾のOBには、あくまでイメージであるが、草深き田舎に仕(つかまつ)ってまで、ラグビーの普及に勤(いそし)しむというイメージが涌(わ)かない。そのためか、21世紀の現在では、県単位でラグビーの存続も危うい地方もあるほどだ。

 明治・大正・昭和戦前このかた、日本においてサッカーはラグビーに競技人口で差が付けられたことはない。そして、人気で野球に差が付けられたにもかかわらず、サッカーは、ラグビーその他の球技に優越して全国的な普及を果たすことが出来た。

 これは、後代のJリーグの創設に大きな意味を持って来る。

 もっとも、佐山氏は、競技人口うんぬん関係なしに「日本人・日本文化とサッカーというスポーツの相性の悪さ」を主張したいのだろうが。

あらためて,佐山一郎氏は村松友視氏から何を学んだのか?
 「村松友視さんが昔,『私、プロレスの味方です』を中央公論社の編集者時代に書いていましたけど,ああいうスタンスが理想というか出発点だったんです」……と、佐山一郎氏は、とあるインタビューで述べている(下記リンク先参照)。しかし、それは本当だろうか?


 本当に「プロレスの味方」村松友視氏を師匠筋とするならば、「自競技のみならず,日本のスポーツ界を刷新するべく起ち上げたのがJリーグなのだから,過去にサッカー人気がなかったとか,サッカーよりラグビーの方が人気あったなどという些末な〈伝統〉など関係ない」と居直ってみせるのが、真の村松友視流である(下記リンク先参照)。


 村松氏が「サッカー者(もの)」と名乗ったのに倣(なら)い、「サッカー者(もの)」と名乗ってみたり。村松氏の、個人史とプロレス史と世相史を重ねた年表(前掲の引用部分参照)を真似てみたり……。

 ……いろいろ見ていくと、佐山氏は村松氏の表面的な部分は模倣しているが、より本質的な部分を見習っていない。すなわち、プロレス(サッカー)を冷笑視する圧倒的多数の「世間」と対峙して、プロレス(サッカー)の価値を言いつのるという村松氏の意気地が、佐山氏には見られない。

アリと猪木のものがたり
村松 友視
河出書房新社
2017-11-20


 村松氏の言う「殺気」や「凄味」が、佐山氏のサッカー評論にはないのだ。

 あらためて、佐山一郎氏は、村松友視氏からいったい何を学んだというのだろうか。

(了)



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『日本サッカー辛航紀』から抜け落ちた明治日本のサッカー事情
 サッカー論壇からの引退を宣言している佐山一郎氏が、その有終と位置付けた著作『日本サッカー辛航紀~愛と憎しみの100年史』(以下,適宜『辛航紀』とも略す)は、日本サッカー史を謳(うた)いながら、日本サッカー界は歴史を大事にしていないと批判しながら、しかし、明治時代、草創期の日本のサッカー事情について全く触れていない不思議な1冊である。

 よく読めば、佐山氏もサブタイトルで逃げは打ってはいる。その副題「愛と憎しみの100年史」。今年2018年から起算すれば、1921年(大正10年)の第1回天皇杯開催&日本サッカー協会創設で、約100年前である。明治維新は150年前(1968年=明治元年)だから、明治時代の日本のサッカー事情にまで責めを負う立場にはない……???

日本サッカー史の「予備考察」に明治時代が入らないのはおかしい!?
 ……否、それは違う。なるほど『辛航紀』は、著者たる佐山一郎氏の見聞きした同時代=1964年東京オリンピック以後のサッカー史を中心に書かれてある。だが、佐山氏はその「第一章」をまるまる前史「予備考察」として、1964年以前のサッカーを、それこそ近代以前の「蹴鞠」(けまり)に至るまで採り上げて論じているからである。

サッカーボールで「蹴鞠はじめ」@下鴨神社
【サッカーボールで「蹴鞠はじめ」@下鴨神社】

 その「蹴鞠」研究の第一人者・渡辺融(わたなべ・とおる)東京大学名誉教授。だが、しかし、実は渡辺名誉教授には東大野球部の監督歴があった……。
 ……学問領域でサッカー関係者は何をしていたのかと人材難に憂いを抱いた。

 蹴鞠に限った話ではない。近代以降の日本サッカー史を掘り下げる人もごくわずかしかいなかった。一九六四(昭和三九)年の東京オリンピックや一九九三年(平成四)年のJリーグ開幕を起点にすることで葬り去られてしまう事実が多すぎる。

佐山一郎『日本サッカー辛航紀』16~17頁
 ……などと言いつつ、佐山氏の話は明治時代をワープし、いきなり1921年(大正10年)の大日本蹴球協會(日本サッカー協会=JFAの前身)創設と、ア式蹴球全國優勝大會(天皇杯の前身)の開始へと飛ぶ。佐山氏こそ何をしているのかと、読者の方が憂いを抱く。

 そして、『辛航紀』第一章のトピックとしては、イングランドのFA(フットボール協会)から寄贈され、しかし、第二次世界大戦の時に軍部に没収されたままJFAに戻ってこない「FA銀杯」の話。蹴球、サッカー、フットボールといった「アソシエーション・フットボール」の日本における呼称の変遷やら、用法の違いやらといった話。虫明亜呂無がしたためた、戦前戦後の日本サッカーの状況を描いたというエッセイの引用(今ひとつ明晰じゃないんだが)といった話……。

 ……等々、どうでもいいとまでは言わないが、瑣末といえば瑣末な話が延々と展開されている。

 とにかく、「予備考察」というからには明治時代の日本のサッカー事情……、なかんずく草創期における海外から日本への伝来、普及、野球やラグビーなど他競技との関係等々について全く触れないというのは、やっぱりおかしいんじゃないですかね?

 それこそが、日本サッカーの原点だからである。日本のサッカーの文化や歴史などの総体を理解するためには、原点である「明治」を知らなければならないからである。書名が『日本サッカー辛航紀』であるならば、なおさら、その「辛」い「航」海の「出港」が明治時代であったからである。

 この意味で『辛航紀』は片手落ちであり、読者は不満なのである。

ここでも佐山一郎氏の人種主義の影が…
 少し脱線するが、『辛航紀』第一章の終わりでは、ドイツ人のサッカーコーチで「日本サッカーの父」と呼ばれたデットマール・クラマーを、幕末・明治(ん?)の御雇い外国人のベルツ(医師,ドイツ人)や、ナウマン(地質学者,ドイツ人)になぞらえている。

 それはいいとして(否,ならば何で明治時代に言及しないのか,ますます謎だが)、佐山氏のベルツの紹介が「蒙古斑の命名者でもある,医師のエルヴィン・フォン・ベルツ」となっている。この辺の「蒙古斑の命名者」という例の出し方が、人種主義=レイシズムと言ってもいい佐山氏の「日本人」への偏見の「まなざし」を連想してしまう。

 何度も書いてきたが、佐山一郎氏は日本人は農耕民族だから、日本人は米や味噌を食べるからサッカーが弱い……式の、人種主義=レイシズム的で偏見に満ちた日本人観・日本人のサッカー観を繰り返し公表してきたからだ。

 ちなみに、コトバンクの「ベルツ」の項目には「蒙古斑の命名者」という説明はない(参照:コトバンク「ベルツ(英語表記)Balz,Erwin von」)。また、ウィキペディア日本語版の記述をそのまま信じれば(2018年12月16日閲覧)、ベルツは、佐山氏よりもずっとバランスの取れた「日本人観」の持ち主に思える。

日本サッカーにまつわる佐山一郎氏の「根源的疑念」
 話を戻して、佐山一郎氏が『日本サッカー辛航紀』の中で、明治時代の日本サッカー事情に触れたくなかった理由も分からぬでもない。ここでは、1991年刊行『サッカーハンドブック'91-'92』所収の佐山一郎氏のエッセイ「サッカーの見方が変わってきた」を読んでいく。

 前にも書いたがタイトルにある「見方」は、村松友視氏のプロレス本『私、プロレスの味方です』の「味方」のもじりである。しかし、佐山氏は村松氏から何も学んでいないこと、「サッカーの味方」とは程遠いことは、以前書いた(下記リンク先参照)。
 弱い弱いと言われながらも、1995年10月、サッカー日本代表(森孝慈監督)はメキシコW杯アジア最終予選まで進出した。その日本vs韓国戦、日本は負けたものの、普段のサッカーの試合では観客もまばらな国立競技場が、約6万人の大観衆で埋まった。会場は熱気に包まれた。

 条件がガッチリ噛み合えばではあるが、それなりに日本でもサッカーの訴求力があるのではないかという立場を佐山氏は一切合切とらない。なぜなら……。
 ……ここで言いたいのは、W杯初出場の夢破れた直後の日本リーグ〔旧JSL〕の試合に足を運んだ観客数の極端な少なさ。本当に、ひ、ふ、み、よぉ、と数えられるほどの少なさでした。あれじゃあ、わざわざ国立霞ヶ丘競技場〔旧国立競技場〕を使う必要もないうえに……〔中略〕

 ……つまり、もしかすると、心底からサッカーを見ることが好きな日本人は意外に少ないのではないかという根源的な疑念を持ち始めるに十分なシーンが、あの日の閑散とした国立競技場にはあった。

佐山一郎「サッカーの見方が変わってきた」

 佐山氏の「根源的な疑念」とは、要するに「日本人サッカー不向き論」なのだが、さらにその深層に迫ると、やっぱり佐山氏は「日本人論」または「サッカー日本人論」が暴露されてくる。証拠はいくらでもある。同じく「サッカーの見方が変わってきた」から。
 摺〔す〕り足の文化鎖国の長かった日本ではスポーツ観戦もどこか〈間〔ま〕〉を楽しむ花見酒風。つかこうへい氏〔劇作家,演出家,小説家〕が現役時代の釜本選手の凄さを確かめに初めてサッカーを見にいった際、よそ見した瞬間にゴール成って立腹したと以前面白く書いていたけれど、動作がとぎれない90分間を集中して視つづける習慣……〔日本的〕物見遊山とは正反対の伸〔の〕るか反〔そ〕るかの狩人の眼の獲得こそがサッカー観戦の醍醐味なんですけどね。これはフィールド上のプレーヤーにおいても全く同じことが言えるでしょう。

佐山一郎「サッカーの見方が変わってきた」
 さまざまな「日本人論・日本文化論」のターム(術語)を並べて(その詳しい解説と批判は最後にまとめてやります)、佐山氏は次のようにスマシ込む。
 何より皮肉なことに、サッカーそれ自体の魅力について語ろうとすればするほどサッカーの官能から遠ざかっていくことだってあると思うんです。

佐山一郎「サッカーの見方が変わってきた」
 かように自虐的な日本サッカー観の持ち主である佐山一郎氏である。とことん「日本人」と「サッカー」との相性を低く見積る佐山一郎氏である。それが証拠(?)に、日本ではフットボール(サッカー,ラグビー)よりも、野球=ベースボールの方が人気が先に人気が出てしまったのである。このことは佐山氏をさらに陰気にさせる。

 だから、そんな重苦しいテーマから佐山氏は「思想逃亡」してしまったのではないだろうか。

 何を勝手な一人合点を! ……と批判する人がいるかもしれないが、根拠のない「勝手な一人合点」は、むしろ佐山一郎氏の得意技である。

明治最初のフットボールはサッカー? ラグビー?
 例えば……。明治時代、特に初期の日本のフットボールをめぐる歴史の研究・解釈は、かなり複雑な様相を呈するようになっている。簡単に言うと、日本で最初に行われた「フットボール」が、サッカーなのか、ラグビーなのか、いまひとつ判然としなくなっており、甲論乙駁の状態になっているのだ。

1874年「横浜で行われたフットボール」
【1874年「横浜で行われたフットボール」ラグビー?】

 その詳細は割愛するが、議論の一部を紹介する(下記リンク先参照)。
 
  • 秋山陽一「フットボールの憂鬱」(『ラグビー・サバイバー』所収)
ラグビー・サバイバー
日本ラグビー狂会
双葉社
2002-11

 
 
 
 このテーマに興味がある人はどんどん深入りして、新しい成果を見せて(読ませて)ほしいところだ。

天に向かって唾(つば)を吐く佐山一郎氏の批判
 あるいは……。明治初年(1873~74年頃)、御雇い外国人によって伝えられ、海軍兵学寮や工部大学校で行われた「フットボール」の系統は早々と途絶えた。

 この辺は野球も事情は同じで、現代日本野球の直接の起源は、御雇い外国人による紹介ではなく、アメリカ留学から帰国した鉄道技師・平岡煕(ひらおか・ひろし)と、彼が主宰した「新橋アスレチック倶楽部」による熱心な普及・指導に由来する(下記リンク先参照)。
 どんなスポーツでも、その国で人気スポーツとして定着するためには、場所の確保や道具の調達、熱心な指導活動などの諸条件がそろうことが不可欠だからだ。日本において、歴史的に普及や人気の点でサッカーが野球に差を付けられたのは、その程度の違いである。日本人の国民性や文化などといった問題ではない(佐山一郎氏や玉木正之氏には受け入れ難い視点かもしれないが)。

 日本のサッカーも、おそらくは旧制東京高等師範学校(現在の筑波大学)で地道に行われていたものが、中村覚之助らの努力で、時間をかけて徐々に拡張していったものだと想像する。

 『日本サッカー辛航紀』では、こういったさまざまな要点を整理して示して「あとは後学にゆだねる」というスタンスでもよかったのではないか。どうして、佐山一郎氏が明治時代から「逃亡」したのか。やはり解せないのである。

 これまで日本のサッカージャーナリズムが歴史を軽んじてきたことを「知的怠慢」と難じた佐山氏であるが(『辛航紀』35頁)、それは天に向かって唾(つば)を吐くというものだろう。

(了)



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