スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

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サッカー論壇に重用される今福龍太氏の実相
 今福龍太氏は、サッカージャーナリズム・サッカー論壇に何かと重用される「文化人類学者」である。それは「文化人類」という研究や学識から、凡百なサッカーライターよりもさらに高い次元に立って、サッカーにまつわるさまざまな現象・事象を分析し、その本質を私たちの前に「評論」してくれる……という期待がなされているかのようである。
今福龍太「ビデオニュースドットコム」(小)
【今福龍太氏:『マル激トーク・オン・ディマンド』第692回より】

 しかし、今福氏は、実のところ「学者」「評論家」というよりは「思想家」あるいは「批評家」(微妙なニュアンスの違いだが「評論家」ではない)なのである。文化人類学とはそのためのお墨付きであって、氏は自身の過剰な思い入れ(思想)をもったいぶった文体で述べている(批評)に過ぎない。

 そのために深刻な問題をもロマンチックに美化して語りたがる傾向があり、今福龍太氏が書いたものを読んで、物事の実際の有り様を誤って理解してしまうミスリードのおそれがある。

 だから、今福氏の発言をじっくり読んでみると、いろいろとおかしな点が目に付くことがある。例えば、サッカーにおける人種差別問題についての発言だ。

バナナを食べることこそエレガント?
 「浦和レッズ差別横断幕事件」とは、2014年3月8日、埼玉スタジアム2○○2で行われた浦和vs鳥栖戦で、浦和レッズの一部サポーターが「JAPANESE ONLY」(日本人以外お断り)という人種差別・民族差別を想起させる横断幕を掲出し、結果、浦和にはJリーグ初となる無観客試合というペナルティが下された……という一件である。
 このシーズンのJリーグは、他にも人種差別事件が相次いだので、『毎日新聞』では10月31日(金)付で「論点 サッカーと人種差別」という特集記事を組んだ。
論点[サッカーと人種差別]毎日新聞2014年10月31日
【毎日新聞2014年10月31日付「論点 サッカーと人種差別」】
 ここコメントを寄せているのは、村井満(Jリーグチェアマン)、真壁潔(J2湘南ベルマーレ代表取締役会長)、そして今福龍太(文化人類学者,東京外国語大学大学院教授)の3氏である。各々の詳しい見解は、上の掲載写真などをクリックして参照されたい。

 今福龍太氏のこの時の寄稿文「スポーツの本質自覚せよ」で非常に気になったのは、以下の部分である。
 今年〔2018年〕はサッカーにおいて人種差別をめぐる現実に直面させられる出来事が続いた。例えば3月〔8日〕のJリーグ公式戦で元韓国籍のストライカー〔在日コリアンで日本国籍,元日本代表の李忠成=り・ただなり=選手〕が新規入団したチーム〔浦和レッズ〕のサポーターが、観客席の入り口に「JAPANESE ONLY」(日本人以外お断り)の横断黒を掲げたことである。Jリーグは実行者を無期限入場禁止とし、次のホームでの試合を無観客とする処分を行った。だがその対処は思慮深いものとはいえなかった。人種差別的な現実に立ち向かう毅然〔きぜん〕とした哲学が、日本の社会そのものに欠けていることが露呈した。

今福龍太「スポーツの本質自覚せよ」より
 ??? ……多くのサッカーファンは、この叙述には首をひねるはずである。

 どうして今福氏は、Jリーグ当局(村井満チェアマン)の浦和レッズに対する処分が思慮浅く、人種差別に対抗する毅然とした哲学が欠けているものだと言えるのか……。

 ……というのは、村井チェアマンのこの裁定は、とかく差別問題には鈍感だとされている日本の、なかんずく日本サッカー界にあって(佐藤峰樹=ミネキ=の暴言を許容しているのだから,たしかに日本サッカー界は差別に鈍感である)、毅然かつ「それまでの〔日本の〕サッカー界では考えられないスピード感をもった決断が下され」たと評価されているものだからである(下記リンク先参照)。
 それでは、今福氏の言う「人種差別的な現実に立ち向かう毅然とした哲学」の「思慮深」い実践とは何なのか? 今福氏の寄稿文にはこんな言及がある。
 一方、〔2018年〕4月末のスペイン・リーグでは、〔FCバルセロナの〕ブラジルの黒人選手ダニエウ・アウベスに向かって、敵地の観衆からバナナが投げ込まれた事件が話題となった。サルの鳴き声とともに行われるこうした挑発的行為〔バナナを黒人選手に向かって投げ込むこと〕は、欧州サッカーではごく普通の出来撃だ。だが今回はアウベスの対応の冷静さが評判となった。彼はピッチに投げ込まれたバナナに嫌な顔一つせず、捨って皮をむき、パクリと食べてから平然とコーナーキックを蹴ったのである。
ダニエウ・アウベス選手のバナナを食べるパフォーマンス
【投げ込まれたバナナを食べるダニエウ・アウベス】

 確信犯的ともいえる差別的な悪意を、このような機知ある身ぶりによって風刺的にいなすのは効果的だ。差別的現実に硬化し、権力による監視や懲罰という対抗的手段にうって出ることは、かえって社会の柔軟な自浄作用を阻害する。むしろ、パロディーや関節はずしのようなエレガントな対処法によって、この問題への一人一人の理解の裾野を広げてゆくことも重要だ。

今福龍太「スポーツの本質自覚せよ」より
 レイシズム(racism=人種主義,人種差別)の問題、差別への抗議の意思表明に「エレガント」という言葉を持って来ることに少し違和を感じるが、この辺が「批評」なのかもしれない。

 差別に対して肩を怒らせて正面切って反対するのではなく、権力によって人種差別を直ちに規制や処罰・監視したりするのでもなく、むしろ、これを脱臼させるような対応によって、暴発を社会全体で食い止めることが重要だ……と、今福龍太氏は語っている。

 しかし、事件の実際に照らし合わせてこの言い分はちょっとおかしい。サッカーにおける人種差別は今福氏の言うような簡単なものではなく、ダニエウ・アウベス選手の行動は、必ずしも効果的ではない(らしい)のである。

実はヤラセだった(!?)バナナ食いパフォーマンス
 今福氏の意見に疑問を持ったのは、陣野俊史(じんの・としふみ)氏の著作『サッカーと人種差別』(文春新書)を、前もって読んでいたからである。

 陣野俊史氏の本職はフランス文学を中心とした文芸評論であり、平均的サッカーファンに比べると、むしろ今福龍太氏に近い人物とも言える。陣野氏もアウベス選手の一件を扱っているのだが、しかし、こちらの本が伝える顛末(てんまつ)は今福氏のそれとは大きく違う。
 「アウベスのユーモアは素晴らしい」。しかし……。

 そのパフォーマンスは世界中に広がった。だが、ルイ・サハというフランス代表の黒人選手からは、人種差別の問題は「笑い飛ばすべきことではない」、ユーモアは分かるが、笑いだけに問題を還元するのも間違いだと、釘を刺されていること。

 北米のプロスポーツ(NBAほか)と比べても、欧州サッカーは人種差別の罰金が安すぎること。

 この一件が、事態の収束とは逆の方向へ進んでいるらしいこと。

 結局、肝心の黒人選手差別は無くならず、バナナは投げ続けられていること。

 ……バナナを食べて「笑ってさえいればいいという輪が世界中に拡散していった結果、何ら解決を見ることもなく、有名になったバナナだけが投げ込まれ続けている、という転倒した事態になっているのではないか。

 バナナが記号として、独り歩きしている。幻想の黒人〔黒人,白人,あるいは黄色人という分類=人種とは「幻想」であるという意味〕に向かって、お前は猿なのだ、という人種差別を表象するアイテムとして、悲しいことにバナナはいまも機能している」。

陣野俊史『サッカーと人種差別』74~76頁


 「……ダニエウ・アウベスが、……バナナを食べた行為は、そこにユーモアが入り込んでいたぶん、みんなの共感をかちえたのだが、バナナを表象として利用するレイシストどもに、決定的な一撃を見舞ったわけではない。

同書190頁
 加えるに、後になって、ダニエウ・アウベス選手のバナナを食べるパフォーマンスは、実はブラジルのマーケティング会社の仕掛けたキャンペーンだったという話が出てきている。
 この事実は、陣野氏の著作にも、今福氏の寄稿文にも出てこない。

 むろん、この事実をもって「アウベス選手の行為は実は〈ヤラセ〉でした」というのは、さすがに言い過ぎであろう。このPR戦略には一定の意義はあったという評価もある。

 ただ、これがアウベス選手個人の「機知」から生じたものではなかったとなると、このパフォーマンスや、そこから派生した国際的なムーブメント(ちょうど同年2014年夏に流行ったアイスバケツチャレンジ〔ice bucket challenge〕にも似ている.ちなみにブラジル代表ネイマール選手はどちらの運動にも参加している)も、違った「景色」として見えてくる。

 いずれにせよ、サッカーに限らず、人種差別問題は一筋縄ではいかない。「機知ある身ぶり」をもって「差別を脱臼させるように対応」しても解決が難しいようなのである。

救急医療と予防医学の違い
 今福龍太氏が語るように、ユーモアをもって人種差別を「解体」していくことも、もちろん大切であろう。

 しかし、それをもって今回のJリーグ当局(村井満チェアマン)の処断まで否定する謂(い)われはない。ましてや「人種差別的な現実に立ち向かう……哲学が、日本の社会そのものに欠けている」などと、今福氏に非難される筋合いなどない。

 というのは、同じ人種差別の対策でも、村井チェアマンが浦和レッズに下したペナルティと、今福氏が考える人種差別へのあるべき対処法とは、まったく別次元のものだからである。下手な比喩だが、両者は救急医療と予防医学ほどの開きがあるのだ。

 浦和レッズの横断幕事件は救急外来に担ぎ込まれた重症(重傷)患者である。応急処置、場合によっては緊急手術が必要な事態である。一方、今福氏が言う「差別を脱臼させるような対応をして、その暴発を社会全体で食い止めること」とは予防医学だ。

 命を救うために一刻を争う状況で応急処置に当たる医師と看護師に向かって、上から目線で「やっぱり病気やケガに強い体質に強い体質にしなきゃダメじゃないか」と嘲笑している嫌味な予防科学の専門医が今福龍太氏なのである。

 今福氏は、例えば、こう言うべきではなかったか……。

 ……個別に発生した事件に逐一対応するだけでは、人種差別を克服することはできない。レイシズムの本質や全体を理解して、それを「解体」していくことも重要である。そのひとつの手段として、投げ込まれた黒人差別の象徴=バナナをあえて食べてみせる「ユーモア」も有効な手段になる……とでも。それならば、何の問題もない。

 ところが、今福氏一流の深刻な問題をもロマンチックな思い入れでとらえたがる傾向から、アウベス選手のバナナを食べるパフォーマンスを美化・称揚するあまり(そのパフォーマンスが本当に有効かどうかも,実は微妙なのだが)、Jリーグ当局(村井チェアマン)の下した裁定を貶すようなことをするものだから、氏の見解には違和や不快といった読後感が生じる。

 それとも、こういう表現をとるのが今福氏の「思想」なのか。今福氏の読者はこうした「批評」にハマるのか。

今福龍太氏の重用とサッカー読者のリテラシー
 ハッキリ言えば、この問題での今福龍太氏の起用はミスキャストで、陣野俊史氏(でなければ後藤健生氏か)の方がずっと適役だった。

 『毎日新聞』の特集記事「論点 サッカーと人種差別」は2014年10月31日付だった。そして陣野氏の著作『サッカーと人種差別』第1刷発行の日付は、奥付によると2014年7月20日である。人選を丁寧にやる時間は充分あったはずだし、ここで陣野氏が起用されていれば、今福氏のような的外れの意見が公開されることはなかっただろう。

 それでも、なぜ今福龍太氏が起用されたのかというと、最初に記したように日本のサッカージャーナリズムやサッカー論壇にあって、氏が権威的な地位にあるからである。サッカーで何か主だった出来事があると、より「高尚」で「本質」的な解釈を求めて、サッカー界は今福氏にコメントさせる……という定式が固まっているからである。

 この辺はスポーツ一般の問題における玉木正之氏の権威権的地位と似通っている。ともに蓮實重彦氏の衣鉢を継いでいる点といい、えてしておかしな論理を展開しがちなところといい……。この2人はある意味で兄弟分である。

 しかし、今福氏のサッカーにおける発言がすべて的を射ているかというと非常に怪しい。物事をミスリードしてしまうかもしれない……という話は、今回のエントリーでさんざんやってきたし、以前にもやったことがある(下記のリンク先をクリックされたし)。
 サッカージャーナリズム・サッカー論壇の読者は、権威を鵜呑みにしないリテラシーをもっと磨くべきだろう。

 むしろ「人種差別的な現実に立ち向かう毅然〔きぜん〕とした哲学が……欠けている」のは、今福龍太氏の方ではないかと思う。

(了)



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「最近の若い者は…」という愚痴とサッカー
 どこまで本当だか分からないが、5千年前だか、3千年前だかの古代文字、メソポタミアの楔形文字だか、古代エジプトのヒエログリフだかを解読したら「最近の若者はなっとらん!」という年長者の嘆きが書かれてあって、それって現代のオジサンたちの愚痴といっしょじゃないか……という、笑い話がある。

 これと似た話が実はサッカーにもある。

「勝利至上主義」でサッカーはダメになった?
 サッカーは、いわゆる勝利至上主義で、年を経ることに守備的になって点が入らなくなった、つまらなくなった、スポーツとして駄目になった……みたいなことがよく言われる。この種の言説の代表的人物として、文化人類学者の(散文ポエマー)今福龍太氏がいる。

 1990年代半ばのサッカーについて述べた、いささか古いものではあるが……。
 サッカーを見ながら……いやな経験をしたのが、一九九四年のワールドカップ・アメリカ大会だった。私〔今福龍太〕の不満は、……「負けないサッカー」が、この大会に横行したことであった。

 「負けないサッカー」ではなく「美しいサッカー」を標榜する伝統を持ったコロンビアやメキシコといった魅力的なラテン・サッカーのチームが早々と姿を消し、防御的な布陣を敷いてカウンター攻撃で勝利して勝ち上がったヨーロッパ系のチームが粗野で凡庸な試合を繰り返す。決勝に出たブラジルですら、イタリアの前に徹底して守備的に試合を運び、ついには双方引き分けでPK戦で何とか決着をつける……。こんなサッカーを私たちは本当に見たかったのだろうか?〔中略〕

 こうした三年前のアメリカ大会の印象は、昨年(一九九六年)の欧州選手権でも少しも変わることがなかった。伝統的にもっともフォーメーションを重視した「負けないサッカー」を信奉したドイツと、これまた守備的布陣を敷き、カウンター攻撃一本にかけたチェコが決勝で戦ったことを見てもわかるように、こうした戦術の徹底の背後には、勝利至上主義……の原理がはたらいていた。

今福龍太『フットボールの新世紀』100~102頁

 1990年代は守備的サッカーの時代で、W杯やユーロなど主要な国際大会ではスコアレスドローやPK戦が頻出した。だから、今福氏の言い分ももっともらしく聞こえた。

 そして、ここで「負けないサッカー」の権化として槍玉に挙げられているのは、やっぱりドイツ代表である。

「科学」でサッカーはダメになった?
 そうした状態は2000年代以降は解消される。すると今度は、徹底したデータの集積、その詳細な分析に基づいた統率の取れた戦術を徹底的にチームに落とし込んだサッカー=「科学的サッカー」が批判の対象になる。科学的サッカーは、サッカー本来のロマンチシズムを奪っているのだと。

 そして、そうした「科学的サッカー」の権化として槍玉に挙げられるのは、やっぱりドイツ代表である。

 これに関しては、例によって今福龍太氏がいろいろグダグダ述べている。
 当ブログは、先のエントリーで今福氏の言い分への疑いを書いた。
 ここでは、今福龍太氏(や細川周平氏)のような特殊な職業インテリだけが科学的サッカー批判&ドイツ代表批判をしているわけではないことを紹介する。『サンケイスポーツ』のサッカー担当キャップ・浅井武記者の2018年ロシアW杯のコメント。大会の展望……というか、願望である。
「サンケイスポーツ」浅井武記者コメント20180615
【浅井武記者のコメント,『サンケイスポーツ』2018年6月15日電子版より】


★浅井記者 アルゼンチン
 ドイツの連覇は絶対に見たくない。ゲルマン魂とフィジカルの強さで勝負していた一昔前は好きだったが、いまはデータ会社と組むなど戦略的に戦い過ぎ。真面目なドイツ人がサッカーから〈ロマン〉を奪おうとしている。対照的に、個々がドリブルで打開をはかるアルゼンチンの戦い方には気概を感じる。この大会が最後かもしれないメッシの笑顔も見たい。
 この発言は物議を醸した……とまでは言わないが、違和感を表す人もいた。
 勝利至上主義に基づいた「負けないサッカー」と「科学的サッカー」でサッカーがつまらなくなるのは、現代スポーツの病理なのだろうか?

堀江忠男氏の回想より
 ここであらためて紹介するのが故・堀江忠男(ほりえ・ただお)氏である。

 堀江忠男。1913年生まれ。1936年ベルリン五輪サッカー日本代表。「ベルリンの奇跡」の出場選手のひとり。マルクス主義経済学者として早稲田大学教授。サッカーの指導者として早稲田大学ア式蹴球部(サッカー部)監督。釜本邦茂、森孝慈、岡田武史、西野朗らを育てた。ラジオパーソナリティー・吉田照美氏は大学の教え子である。2003年永眠。

 堀江氏は、本業の経済学者として、1966年1月、英国ケンブリッジ大学に短期留学した。その時、堀江氏が理髪店に散髪に行った時のエピソードである。
 そのころのイギリス〔イングランド〕は、夏におこなわれるサッカーのワールド・カップ〔1966年W杯イングランド大会〕のことが、もういたるところで話題になっていた。ロンドンのあるデパートに展示されていた純金の大カップ〔ジュール・リメ杯〕が白昼〔はくちゅう〕堂々盗まれて消えてしまったという「大事件」が、ワールド・カップの前景気をかえってあおり立てていた。

 ある日、床屋〔とこや〕へ行ったとき、はさみを使っている〔理髪師の〕若者との間で、カップ盗難事件のことをきっかけに、サッカー談義が始まった。

 「このごろの〈科学的〉と称するサッカーは面白くないね。正確だが迫力のないパスで安全に攻め、守りを固くして逃げ切ろう、というやり方だ。昔ふうの、大きなゆさぶりをかけて突っこむのが、ほんとのサッカーの味だ。」

と私〔著者・堀江忠男氏〕がいえば、

 「その〈科学的〉サッカーというのがほんとに〈科学的〉なのか、それが問題ですよ。」

と若者が相づちを打った。私が、三〇年前のオリンピック〔1936年ベルリン五輪〕に出た、と口をすべらしたら、「そういう方の頭をからしていただくのは光栄です。」とかしこまられたのはくすぐったかった。同時に、さすがサッカーの母国イギリスだと思った。

堀江忠男『わが青春のサッカー』岩波ジュニア新書(1980年)123~124頁

 これを読んで大笑い。「昔のサッカーはよかった」「負けない戦術が横行してサッカーは駄目になった」「最近の〈科学的サッカー〉とやらはつまらん」……こういった話は、今から50年以上前、1966年の「昔」から存在したのだ。

 「最近の若い者は……」と繰り言をしていた古代人のオジサンたちと変わりがない。

 1966年や1970年のW杯の試合の映像を見て、現代のそれと比べてみると、昔のサッカーはユルユルスカスカで単純に(ゴールもたくさん決まりそうで)面白そうに思える。そんな時代でも現代のサッカー論壇と同じことが言われていたのは、非常に興味深い。

 今福龍太氏あたりの、おどろおどろしい「近代批判」的サッカー観は、話半分くらいに聞いておくのが無難ではないのか。

(了)



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今福『薄墨色の文法』:思わせぶりな修辞の本。
今福の文はすべてそうだけれど、オリエンタリズム的なエキゾチズムを、青少年を堕落させる気取った修辞に包んだ本。叙情的な書きぶりは、ときにいいなーと思えることもあるんだけれど、それはむしろオカルト的な方向に流れる不健全な叙情性で、読んでるうちにだんだんうでを思いっきりのばして、あまりこの文がすり寄ってこないようにしたくなる感じ。自分でもそうなので、書評なんかして人に勧めたいとはなおさら思わない。



ミネイロンの惨劇と今福龍太氏の再登場
 ジャーナリスト・神保哲生氏と社会学者・宮台真司氏が主宰する、ニュース専門インターネット放送局「ニュース専門ネット局 ビデオニュース・ドットコム」の番組『マル激トーク・オン・ディマンド』の第692回、2014年7月19日、ブラジルW杯の時に放送された「今福龍太氏:ブラジルサッカー惨敗に見る〈世界の危機〉」が再放送されている(下記リンク先参照)。


【YouTube版より】

 ブラジルW杯といえば、印象的なのが準決勝のドイツvsブラジル戦。ブラジルがドイツに1対7という信じられないスコアで大惨敗した試合「ミネイロンの惨劇(または悲劇,衝撃)」である。
ミネイロンの惨劇
【ミネイロンの惨劇:メスト・エジル(左,ドイツ)とダビド・ルイス】

 日頃、息をひそめて生活しているアンチ・ブラジルのサッカーファンも痛快……を通り越して呆気にとられる試合であった。ドイツは決勝でもアルゼンチンに勝って4回目の優勝を遂げる。

 このブラジルの大惨敗とドイツの優勝。同番組のゲストで文化人類学者(東京外国語大学教授)の今福龍太氏が語るところでは、これこそブラジルサッカーの危機……のみならず、サッカーの危機、スポーツの危機、それどころか「世界の危機」の反映なのだという。
今福龍太「ビデオニュースドットコム」(小)
【今福龍太氏(番組より)】

 それは、一体どういうことなのだろうか。

今福龍太氏が言わんとするところ
 動画サイトで見られる今福龍太氏のインタビューはプレビュー(導入部分)だけで、課金しない限り全体を視聴することはできない。

 それでも番組ウェブサイトのイントロダクションの文章だけでも十分な情報量がある。加えて2014年7月に刊行された文芸誌『en-taxi〔エンタクシー〕』第42号に掲載された今福氏のエッセイ「フチボルの女神への帰依を誓おう」とを読み合わせてみれば、今福氏が番組で何を言わんとしていたかは、おおよそ分かる(いずれも下記リンク先参照)。
 詳しくはリンク先の文章をじっくり読んでいただくとして、今福氏の言う「世界の危機」を強引に要約すると、次のような感じになる。
 勝利至上主義に徹した膨大なデータの集積と科学的な分析、高度に統制された戦術、そして近現代的な「合理性」を重んじるドイツサッカー。

 一方、ラテン的な即興性や遊戯性、美しさといった数字に表れない、勝敗を超越した価値を尊(たっと)ぶ、「偶然性」にあふれたブラジルサッカー。

 2014年のブラジルW杯で、ブラジルはドイツに惨敗し、ドイツは優勝した。

 今回、顕在化したのは、この2つの価値観、「合理性」対「偶然性」の対立である。それは実際はサッカーの枠を遙かに超え、今日われわれの社会生活の至るところで衝突している価値対立と共通している。

 効率、スピード、コンビニエンス、収益性といった合理的な(ドイツ的な)価値を無批判に受け入れるあまり、私たちは、社会からも、人生からも、(ブラジル的な)偶然性や非合理性という「別の大切なもの」を消し去ってはいないか。

 それは果たして本当に私たちの生活を豊かにすることにつながっているのか。いや、そもそも豊かさとは何なのか?

 それが「世界の危機」なのだ。
 いかにももっともなことを述べているが、今福龍太氏の言い分をよくよく読んでみるとおかしなところだらけなのである。

世界の危機,嫌ドイツ思想,科学的サッカー批判…
 そもそも今福龍太氏は、遅くとも1990年代からサッカーの危機だ、スポーツの危機だ、時代や社会の(延いては「世界」の)危機だという話を、オオカミ少年よろしく繰り返してきたのである(参照:今福龍太『フットボールの新世紀』94~123頁)。

 1990年代は守備的サッカーの時代で、W杯やユーロなど主要な国際大会ではスコアレスドローやPK戦が頻出した。だから、今福氏の言い分ももっともらしく聞こえた。それが解消された2000年代以降、今度は国際大会でコンスタントに好成績を上げるドイツを、勝利至上主義、近代合理主義、科学主義などの象徴として非難の対象とするようになったのである。

 いわば「嫌ドイツ思想」であるが、その更なる源流は、1989年刊、現代思想系の音楽学者・細川周平氏の『サッカー狂い』まで遡(さかのぼ)ることができる。細川氏と今福氏はオトモダチ同士であり、この2人のサッカー評論のテイストはとても近しい。そして、今福氏がサッカー論壇で重用されているのと同様、『サッカー狂い』は一部でカリスマ・サッカー本扱いされている。

 だが、「日本人は農耕民族だからサッカーでは……」という与太話から始まり、自虐的な日本サッカー観を繰り返し吐露している『サッカー狂い』過剰に賛美することは危うい。

 日本サッカー界の本流は1960年代から「親ドイツ」であった。その成果で日本代表は1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得する。しかし、その後、1970年代初めから1992年ごろまで日本サッカーは長い長い低迷期に入る。細川氏の「嫌ドイツ思想」は、そうした時代背景、サッカー界主流への反動の表出も勘案するべきである。だから『サッカー狂い』を「サッカー冷遇時代のひがみ根性丸出しの一冊」と辛辣に評価する向きもある。

 さらに「最近の〈科学的サッカー〉とやらは、守りを固くして逃げ切るサッカーなので面白くない」という程度の話なら、実は1966年(!)のW杯イングランド大会の頃からある(参照:堀江忠男『わが青春のサッカー』123~124頁)。

 つまり、今福龍太氏の持論は昔から存在する陳腐なネタなのである。

サッカーブラジル代表の現実的側面
 勝利至上主義(ちなみに今福氏が言う「勝利至上主義」とは,競技スポーツにおいて勝敗を争うことそのものを指す)と科学的サッカーに徹したドイツは、美しいサッカーを重んじるブラジルから大量7得点をあげた。また、オランダは前回王者のスペインから5得点をあげて大勝した。ブラジルW杯では、サッカーというゲームの意味を度外視して、手段を選ばず貪欲に得点を狙いに行く醜いサッカーが横行している……。

 ……ブラジルではこんなことありえない、と今福龍太氏は言うのだが、これはいずれも正しい指摘とは言えない。

 だいたい、昨今の高度に科学化・データ化されたサッカーというのはドイツのだけがやっているのではない。当然、ブラジルだって、スペインだって……やっている。「〈ドイツの合理性〉対〈ブラジルの偶然性〉の対立」といった単純な図式は成り立たない。

 「ミネイロンの惨劇」の試合自体も、前半に1~2失点する間にブラジル守備陣が完全なパニックに陥り、負のスパイラルから更なる失点を重ねたものだ。
 主力選手2人(ネイマールとチアゴ・シウバ)の欠場という不運はあったが、この惨劇はブラジルが自壊自滅して招いたもので、ドイツをに八つ当たりする性格のものではない。

 今福氏は、ドイツの勝利至上主義の背景には勝利することによって得られる莫大な経済的利益があるとも言う。しかし、それを言うならば、サッカードイツ代表がビッグビジネスである以上に、サッカーブラジル代表の方こそ、動く金が大きいビッグビジネスである。

 ブラジル代表は貪欲に大量得点を狙いに行くようなサッカーはやらないのかというと、記録を見る限りこれも怪しい。例えば、2016年6月8日、コパアメリカ・センテナリオ(大陸選手権)でブラジルはハイチに7対1で大勝している。また、同年10月6日のロシアW杯南米予選では、ホームのブラジルはボリビアに5対0で大勝している。
 後者については説明が必要であろう。当時、ブラジル代表はW杯予選の成績不振でロシア本大会出場が危うい状況にあった。そこでそれまでのドゥンガ監督を解任し、チッチ監督に交代。巻き返しに必死の状況にあり、ブラジル代表は是が非でも勝たなければならなかった。しかも、W杯予選はリーグ戦だから得失点差で1点でも上乗せが必要だった……。

 ……ブラジルはブラジルで勝利至上主義なのである。そして、よもやブラジル代表がロシアW杯本大会の出場を逃せば、莫大な経済的損失が出る。

 今福氏には、サッカーブラジル代表のそうした現実的側面が見えていないのではないか。

ブラジルW杯反対デモに見る今福龍太氏の問題点
 現実が見えていないといえば、2014年W杯に際してブラジル各地で頻発したW杯反対デモについてもそうである。あれだけのサッカー大国なのになぜ……。この問題でも今福龍太氏はおかしなことを述べている。
 今回ブラジルでは自国でのワールドカップ開催に反対するデモや抗議行動が各地で起きた。サッカー王国ブラジルでのワールドカップ開催に反対運動が起きたことに違和感を覚えた方もいたかもしれない。しかし、今福氏はあのデモはワールドカップがFIFA(国際サッカー連盟)や大手スポンサーにお金で買われてしまったことに抗議するデモだった面が大きいと指摘〔!〕する。自分たちがこよなく愛するサッカーをカネで売り渡してなるものかというブラジル市民の意思表示だった〔!〕と〔今福氏は〕いうのだ。

 これには唖然とした。

 むろん、現実は今福氏の解釈とは違う。W杯反対デモ頻発の理由は、ブラジル社会の極端な格差と貧困、庶民の生活の苦しさである。サッカーW杯に巨額な費用を注ぐくらいなら、教育・医療・福祉などに予算を割いて私たちの生活を少しは良くしてくれ! ……というブラジル庶民の切実な声である。
 この人は、自身の思い入れのある対象を、事実・現実を歪曲して何かとロマンチックに美化して語る傾向があって、ブラジル社会の深刻な貧困問題などについて語るときなどは特にそうである(参照:今福龍太『スポーツの汀〔なぎさ〕』114~130頁)。
スポーツの汀
今福 龍太
紀伊國屋書店
1997-11

 この点は、今福氏の深刻な問題点ではないか。

今福龍太氏の「研究」と「意見」
 2018年のロシアW杯に際して、今福龍太氏の登場回を再放送するにあたり、神保哲生氏は「4年前のW杯時の番組の再放送です。今回ドイツもダメっぽいのはなぜだろう」などと、何とも呑気な(失礼ながら)ことを述べている(先に引用したツイート参照)。

 こんなコメントが出るのも、起用する側が今福龍太氏を買いかぶりすぎているからである。今福氏の言う通り「世界の危機」なら、2014年ブラジルW杯以降もあらゆる国際大会でドイツ代表が勝ち続けるはずである。

 しかし、2018年ロシア大会でドイツは1次リーグで敗退した。世界最大級のイベントとはいえ、FIFAワールドカップは所詮はサッカー、所詮はスポーツにすぎない。サッカーなり、W杯なりは、今福氏が思っているような意味での「世界の縮図」ではないのである。
 日本人の間に、人文学における「研究」と「意見」の区別ができていない……。カントからフッサール、ハイデッガーに至る面々は、哲学者、フィロソファーであって、哲学という学問をやっている。ニーチェやキェルケゴールになると、これは学問というより、自分の考えを述べている人たちである。

 日本人は、どうも「事実」と「意見」の区別が苦手らしく、ために時おり、混乱が起こる。

小谷野敦「評論家入門」27~28頁

 サッカージャーナリズムやサッカー論壇で、文化人類学者の今福龍太氏は何かと重用される。凡百なサッカーライターの上に立って、あたかも「文化人類」という高い次元の「研究」成果や学識から、サッカーにまつわる現象・事象を分析し、その本質を私たちの前に示してくれる……という期待がなされている。

 しかし、これは期待外れの間違いである。

 この場合、今福氏は学者というより、良くも悪くも「思想家」なのであって、自分の考え(意見)、自分の過剰な思い入れ(意見)を述べているにすぎない。「ビデオニュース・ドットコム」の2014年のブラジルW杯の評価に関して言うと、今福氏は実際にあることを「思想」によって捻(ね)じ曲げて解釈し、ブラジル贔屓の引き倒しをしているだけなのだ。

 この時に、今福龍太氏を起用したひとり、神保哲生氏はリアルなジャーナリストであり、名門・桐蔭学園でラグビーにいそしんだリアルなフットボーラーである。その神保氏が、今福氏の「知の欺瞞」(言い過ぎだろうか)に突っ込めないのは、何とも残念である。

 ありていに言えば、今福龍太氏はミスキャストである。
サッカーの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07



 それでも「ワールドカップ,サッカー,そして世界」などという大風呂敷な議論をしたいなら、慶応の大学院で政治学を修めたサッカージャーナリスト・後藤健生氏の方が適任だったのではないか。

(了)



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