スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

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リバプールの遠藤航は地上波で報道されない?
 テレビのスポーツニュースは、投打「二刀流」の日本人メジャーリーガー・大谷翔平、あるいはプロ野球や高校野球のゴリ押し報道をしていない。それはアンチ野球派のサッカーファンのバイアス(偏見)だ。マスコミは、サッカー英プレミアリーグの遠藤航の活躍も、バスケットボールNBAの八村塁の活躍もきちんと報じている……。

 ……と、弁明する満田哲彦氏(元電通本社オリパラ室営推部長、元JFAマーケティング担当部長、現「株式会社ミッションスポーツ」CEO)の発言の一部が、サッカーサイト「FOOTBALL TRIBE JAPAN」に「リバプール遠藤航は地上波で報道されない? 元電通関係者反論〈久保建英・大谷は…〉」と題して、2024年3月12日に載った。
 これを受けて、当ブログはSNS「X」(旧Twitter)に「思うところ」をいろいろ書いた。

 しかし、この満田哲彦氏の発言は「FOOTBALL TRIBE JAPAN」が独自に取材したものではなく、実際には満田哲彦氏自身の「X」に投稿されたポストの引用であった。このサッカーサイトは、独自に取材をぜず、「X」で見つけたネタを元に記事を書いていると言われる悪名高きメディアである。当ブログがこれで反応したのはとても良くないことであった。

 そこで、満田哲彦の実際の「X」のポストの詳細をよく読み、よく吟味して、あらためてブログで「思うところ」を述べようと思っていた(体調不良などで遅くなった)。すると、あにはからんや、当ブログは「X」上で満田哲彦氏にブロックされていたのである。

 なぜか? 満田哲彦氏の言い分では、野球をdisっているサッカーファン、サッカーをdisっている野球ファンは「スポーツの敵」であり、そのような輩とは関わりあいたくない(ブロックする)というのだ。当ブログは「スポーツの敵」と認定されてしまった(もっとも、当ブログは野球それ自体がつまらないと書いた覚えはないのだが)。

 とまれ、ブロックされたことはいたしかたない。不完全で全く的外れな指摘も書くだろうが、記憶と「FOOTBALL TRIBE JAPAN」に引用された部分に頼って、当ブログは満田哲彦氏のスポーツ報道観に関して「思うところ」を書いていくことにする。

「公共の電波」と大谷翔平報道の公益性
 とにかく、野球以外のスポーツのファンは、欧州サッカーの遠藤航や三笘薫、久保建英、バスケットボールNBAの八村塁や渡邊雄太……といった、野球以外の日本人アスリートの活躍が、地上波テレビではほとんど報道されないと憤懣している。
 一方、『株式会社ミッションスポーツ』の満田哲彦CEO(元JFAマーケティング担当部長・元電通本社オリパラ室営推部長)の見解は異なる。満田氏は「そろそろ『日本のメディアは報じない』という大きな主語からの脱却を」と切り出すと、遠藤の活躍ぶりが〔2004年3月〕11日のテレビ朝日系『報道ステーション』でも報じられたことに言及。

 同番組の平均視聴者数を700~800万人、到達人数を1500~2000万人と見積もった上で、「報道ステーションだけで、700万人ほど遠藤航選手の報道を見てる」と私見を披露。

 他の地上波メディアでも「久保、三笘、八村塁(レイカーズ)などのことは、ずっと報じ続けている」として、「日本のメディアは野球ゴリ押し、というバイアス〔偏見〕がたぶんこれからも続く。でも、本当に日本のメディアをチェックしてる?」と疑問を投げかけた。

Shota(文)/FOOTBALL TRIBE JAPAN「リバプール遠藤航は地上波で報道されない? 元電通関係者反論〈久保建英・大谷は…〉」(2024.03.12)より
 テレビは浦和レッズのACL優勝もきちんと報じていた。だから気にしなくていい……と、満田哲彦氏は「X」に書いていたと記憶しているが(曖昧)、しかし、それは「足を踏んづけている側の論理」ではないか。

 いやいや、いやいや、満田哲彦氏よ。申し訳程度に報道される遠藤航や八村塁と比べると、スポーツ報道における野球報道の量、特に大谷翔平報道の量は格段に多い。満田哲彦氏は、報じた・報じないだけで事を矮小化してはいないか。

 なるほど、テレビは遠藤航らの活躍を報道してはいる。だが、そこには俗に「大谷翔平15分、遠藤航15秒」と揶揄される野球(大谷翔平)とサッカーその他のスポーツ(遠藤航ら)との「報道格差」がある。しかも、量だけでなくその質(内容)も問題だ。遠藤航の試合は公式戦の大一番、対して大谷翔平は練習試合なのに……である。

 一説に、海外サッカーの試合のハイライト映像は、短時間でも数万円から10数万円の高額な放映権料が必要とされ、翻ってアメリカのメジャーリーグベースボール(MLB)の映像の権利は各テレビ局が保有しており、いくら放送しても問題ないのだという。
  • 参照:週刊女性PRIME「《大谷は15分、遠藤は15秒》大谷翔平の〈練習試合〉を連日特集のテレビ局にサッカーファンから不満の声、の〈歴史的〉活躍の遠藤航をスルーの背景にの〈放映権〉問題」(2024.3.14)https://www.jprime.jp/articles/-/31213
 公平を期すために、この話も紹介した。もっとも、野球以外のスポーツをスポーツニュースで取り扱う方法などいくらでもあるのだが。いずれにせよ……。

 片や、サッカーの遠藤航や三笘薫、久保建英、バスケットボールの八村塁や渡邊雄太ら、野球以外のスポーツの話題は、テレビでは通常のスポーツニュースの枠内で淡々とテレビは報じる。

 こなた、野球の話題は、特に大谷翔平の話題は、些細なことまで大々的に、過剰な時間を割いて、時として政治、経済、社会、国際情勢、自然災害などの重要で公益性がある話題を差し置いて、一般ニュースで、まるで国家的大事であるかのように、朝鮮中央テレビが北の将軍様を称揚するかのようにテレビは報じる。

 テレビ局は、国民の財産である、いわゆる「公共の電波」を格安で使っており、公共放送たるNHKはもちろん、民間放送(民放)もまた、その放送内容に一定の公益性が求められる。

 大谷翔平がホームラン王を獲った、リーグMVPを獲ったというのであれば、それはオリンピック(五輪)やワールドカップ(W杯)といった世界大会で、日本人選手や日本代表が活躍したなどと同等の話題であり、一般ニュース枠で扱ってもいいかもしれない。

 しかし、大谷翔平は今日も(練習試合で)ホームラン打ちましただとか、結婚しましただとか、飼い犬ととじゃれあっています……みたいな由無し事(よしなしごと)を、毎日毎日一般ニュース枠を使って報道するのはおかしい。

 それはテレビの公益性から逸脱している。また、テレビにおける野球報道の量はその公益性に見合っていない。

 テレビの野球報道の過剰さ、大谷翔平報道の過剰さを批判する人たちを、満田哲彦氏は「大きな主語」という表現を用いて否定する(「X」で多用している)。どうやら氏は、この「大きな主語」という言い回しが大好きで、この言葉を使えば何か高尚なことを言ったと思い込んでいるらしい。

 しかし、テレビにとっては「野球」や「大谷翔平」こそが「大きな主語」ではないのか?

テレビの「野球ゴリ押し」には裏付けがある
 Jリーグが1994年にスタートして30余年。サッカーが日本のスポーツ界の王座に就いたわけではないが、その間、日本人のスポーツへの趣味・嗜好は多様化し、以前は王座にあった野球は、その地位からは降格している。もはや野球は国民的な了解事項ではない。

 そういえば、満田哲彦氏も、日本人のスポーツ人気は、野球やサッカーや大相撲など、競技ごとにセグメント化(区分化、部分化の意味)していると「X」で書いていた記憶がある(曖昧)。大谷翔平の人気も本来はセグメント的なものだ。2023年に彼が出場したメジャーリーグの試合は、実は大して視聴率が取れていない。

 しかし、テレビのスポーツ報道はセグメント化していない。

 マスコミは、特にテレビは、日本で野球がスポーツの王様だった「昭和」の時代(~1989年)そのままの感覚で、スポーツ報道といえば野球の情報を過剰な量と内容で放送する。まずは、それ自体が「ゴリ押し」であり、非野球ファンの不評を買っている。

 だが、これすら満田哲彦氏は認めたくはないらしい。

 満田哲彦氏は「日本のメディアは野球ゴリ押し、というバイアス〔偏見〕がたぶんこれからも続く。でも、本当に日本のメディアをチェックしてる?」と言うけれども、日本のメディア(テレビ)が野球をゴリ押しするのは、バイアス(偏見)でもフィクション(虚構)でもなく、あからさまな世の中の実際の在り様である。

 これには一定の裏付けがある。株式会社エム・データが提供する「2023年TVニュースランキングを発表」では、総合ランキングの1位は「ロシア・ウクライナ情勢」の133時間28分18秒(時事問題)、2位が「大谷翔平・異次元の活躍」の121時間35分58秒(スポーツ)、3位は「侍ジャパン・3大会ぶりにWBC制覇」の119時間06分03秒(スポーツ)。
  • 参照:エム・データ「2023年TVニュースランキングを発表」(2023/12/12)https://mdata.tv/info/20231212_01/
エム・データ「総合~2023年TVニュースランキング」(2023年12月12日)
エム・データ「総合~2023年TVニュースランキング」(2023年12月12日)

エム・データ「スポーツ~2023年TVニュースランキング」(2023年12月12日)
エム・データ「スポーツ~2023年TVニュースランキング」(2023年12月12日)

 この上位3つだけが100時間代、そのうち実に2つが野球ネタなのである。大谷翔平と侍ジャパン(野球日本代表)兼ワールドベースボールクラシック(WBC)の話題だけで、「ロシア・ウクライナ情勢」の倍近くも時間を取っている! しかし、総合ランキングのトップ10を見てみると、野球以外にもっと報じるべきニュースはたくさんある。

 これなどを見ていると、テレビは、大谷翔平と侍ジャパンの活躍の話題をしつこく報道することで、日本社会における野球のプレゼンス(サッカーなど他の競技に対抗して)を維持しようとしている、要はゴリ押ししているとしか思えなくなってくる。

 それでも、満田哲彦氏はテレビのスポーツ報道は不公平ではないと言う。
 なお満田〔哲彦〕氏は、大谷〔翔平〕の情報が様々な地上波番組で扱われる理由も説明。「大谷情報は、その社会的情報まで話題となっている」と主張した上で、W杯やなでしこジャパン対北朝鮮(パリ五輪最終予選)に関しても「社会的情報レベル」と位置付けている。

Shota(文)/FOOTBALL TRIBE JAPAN「リバプール遠藤航は地上波で報道されない? 元電通関係者反論〈久保建英・大谷は…〉」(2024.03.12)より
 氏が言う「大谷翔平の社会的情報」が、テレビ(公共の電波)の公益性をはるかに逸脱したものだということは、既に述べた。また、2023年WBCの時の侍ジャパンも事前の報道は凄まじいものがあった。またWBCでの侍ジャパンの活躍は、放映権を持っているテレビ局(テレビ朝日とTBS)の垣根を超えて好意的に報道していた。

 翻って、2022年サッカーW杯カタール大会(日本代表=森保ジャパン含む)における事前の報道は、全く寂しいものがあった。この大会の放映権を持たない民放テレビ局は、森保ジャパンが強国ドイツに劇的な逆転勝ちをして、渋々(嫌々?)サッカーの話題を取り上げ始めたのであった。

 また、2024年パリ五輪アジア予選における「なでしこジャパン」(サッカー日本女子代表)の事前の報道も寂しいものがあった(しかし、パリ五輪本大会出場を決めた日本vs北朝鮮戦は、地上波のNHK総合テレビで相応の視聴率を取った)。

 報道の量・質に明らかに格差があって、野球とサッカーが同じ「社会的情報レベル」だとはとても言えない

マスコミによる「野球防衛軍」は虚構である?
 日本のマスコミ企業(一般紙や地上波テレビ、スポーツ紙)は、例えば朝日新聞が夏の甲子園(高校野球の大会)を主催していたり、読売新聞が読売ジャイアンツ(プロ野球球団)を経営していたり……等々、野球の興行に自ら関わっている。

 また、相互に監視、批評しあう関係にあるべきマスコミ企業は、いわゆる(海外では禁じられている)クロスオーナーシップというもので、「一般紙/地上波テレビ/スポーツ紙」が資本的に系列化されている(例えば「読売新聞/日本テレビ/スポーツ報知」といった具合に)。

 加えて、アメリカ合衆国(米国)のメジャーリーグベースボール(MLB)に莫大な放映権料を支払い、これをBSや地上波で放送し、毎年、春・夏の甲子園=高校野球の大会を地上波で全試合放送している公共放送のNHKがある。

 つまり、日本のマスコミ企業は総体として野球とは利害関係者の間柄で、一蓮托生、癒着している。野球は、日本のマスコミ企業総体にとって「自社コンテンツ」なのである。

 そんな日本のマスコミにとって、あくまで日本のナンバーワンスポーツは「野球」でなければならない。新しく台頭したサッカーやバスケットボールであってはならない。野球人気は低落しているが、日本人の「野球離れ」は絶対に食い止めなければならない。

 だから、マスコミは野球をゴリ押しし、サッカーその他のスポーツを冷遇する。それは構造的な問題だ……といった説(噂)がある。

 しかし、満田哲彦氏はこの説(噂)をも「X」で否定していたと記憶している(曖昧)。氏は、いわゆる「野球防衛軍」の存在を否定しているのである。
  • 参照:プロ野球視聴率関連@wiki 視スレ辞典 や行「野球防衛軍」【やきゅうぼうえいぐん】https://w.atwiki.jp/maruko1192/pages/13.html
 2023年WBCでは読売新聞が日本ラウンドの興行権を持っていながら、実際に放送したのはクロスオーナーシップ的な関係の薄い、テレビ朝日やTBSだったということ。また、東京ヤクルト・スワローズと関係の深いフジテレビは、特に同所属のスター選手・村上宗隆ばかりを好意的に取り上げているわけではないことなどを、その理由としていたと記憶している(曖昧)。

 しかし、そもそも、玉木正之(スポーツライター)が常々批判してきたように、マスコミ企業がスポーツの大会を主催したり、スポーツチームを種有したりすること自体が問題なのである。

 玉木正之の場合は、それが「スポーツジャーナリズムの批判精神の欠落する」ことが主な理由であったが、その中には、マスコミ(テレビ)自身の利害関係のために、野球の話題を人気の実態以上に過剰に放送すること(ゴリ押し)も入っているのだと、思い当たった。

 実際に日本のマスコミ企業が高校野球の大会を主催していたり、プロ野球球団を所有していたりする以上、マスコミ(テレビ)はサッカーその他の競技を蔑ろにして野球(特に大谷翔平)をゴリ押ししているという風説は、単なる陰謀論や被害妄想では終わらない。

 マスコミ(テレビ)の「野球防衛」(野球ゴリ押し)とは、特定のテレビ局が自局(自社)の利益に直結させるために、特定の球団や選手や大会を積極的に取り上げる……という性格のものではない。むしろ、それは業界総体のコンセンサス(総意)である。

 日本の高度成長、経済大国華やかなりしその昔、論壇では「日本株式会社論」という論説が持てはやされていた。日本の国民経済をひとつの会社と見なす論説である。そこでは、例えばこんなことが語られていた。

 家庭電機メーカーでいえば、日本には松下(パナソニック)・日立・東芝・ソニーなどが存在する。だが、仮に外国の同業者と競争しなければならなくなると、ひとつの会社のように結束し(日本株式会社)、業界総体のコンセンサスが形成される。そこでは特定のメーカーが突出することはない。

 日本のテレビ局でも、例えば、1993年の「ドーハの悲劇」の時のサッカーW杯アジア最終予選。サッカー日本代表=オフト・ジャパンは5試合を闘ったが、その地上波の中継局は、日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京が、きれいにそれぞれ1試合ずつ担当した(衛星波はNHKが担当)。

 これは一種の談合ではないか? ……と、田中康夫(作家、元長野県知事)は批判していたが、この横並びこそ、日本特有の業界総体のコンセンサスである。業界総体で利益を分け合い、ひとつのテレビ局が突出することはない。

 また「公共の電波」を免許によって使用しているテレビ局、少なくとも東京のキー局に関しては「潰れる」心配もほとんどないこともある。だから過激な競争は必要ない。

 マスコミ(テレビ)の野球ゴリ押しもこれと似たようなものだ。それは業界総体のコンセンサス(総意)である。

 2023年、WBCでの侍ジャパンの活躍は、放映権を持っているテレビ局(テレビ朝日とTBS)の垣根を超えて、テレビは好意的に報道していた。それは、前掲の株式会社エム・データ提供「2023年TVニュースランキングを発表」でも、まず間違いない。

 翻って、2022年サッカーW杯カタール大会(日本代表=森保ジャパン含む)における事前報道は、全く寂しいものがあった。この大会の放映権を持たない民放テレビ局は、森保ジャパンが強国ドイツに劇的な逆転勝ちをして、渋々(嫌々?)サッカーの話題を取り上げ始めた。

クリロナに「大谷翔平を知っていますか?」と愚問する
 日本のテレビは野球を「ゴリ押し」している……という見方はサッカーファンのバイアス(偏見)であると言う満田哲彦氏。しかし、その割にはテレビのスポーツ報道には、野球を人気随一のスポーツに見せたいかのような、不自然な現象が多い。

 【その1:WBC=侍ジャパンの不自然な視聴率分割】野球日本代表=侍ジャパンのテレビ中継の番組時間帯は、低視聴率を回避するために、または高視聴率を叩き出すために不自然なタイミングで分割される。

 例えば、2023年3月6日の強化試合「阪神タイガースvs侍ジャパン」の中継では、午後6時11分からの74分間は世帯視聴率15.5%、個人視聴率は9.4%。それ以降の125分間が世帯視聴率20.2%で、個人視聴率は12.9%。このように侍ジャパンの中継視聴率は分割されており、近年はこの分割された一部の時間帯の高視聴率が大々的に報じられている。
  • 参照:ケン高田/アサ芸プラス「WBC強化試合〈20.2%高視聴率〉をサッカー派が揶揄する〈分割ジャパン〉って?」https://www.asagei.com/249763
 サッカー日本代表は、たとえW杯本大会でもこのようなことはない。

 番組時間帯の分割までして侍ジャパンの、すなわち野球の視聴率を高く見せることは、視聴率調査という統計への信頼を損なう行為である。テレビ局は、そうまでして野球の視聴率(≒人気)の方がサッカーの視聴率(≒人気)より高いことを誇示したいのだろうか?

 視聴率調査をする会社「ビデオリサーチ」は「第三者機関の調査会社として設立されました」と、自身の公式サイトで謳っているにもかかわらず……でありながら、このような作為的なことを、(野球と癒着した?)テレビはやるのである。
  • 参照:ビデオリサーチ「沿革」https://www.videor.co.jp/company/history.html
 これでは日本のテレビは野球をゴリ押ししていないという意見は苦しい。

 【その2:クリロナに「大谷翔平はご存じですか?」と愚問をする】2023年7月に来日したサッカーのスーパースター クリスティアーノ・ロナウド(クリロナ、ポルトガル)に、日本テレビは「大谷翔平をご存じですか?」などと愚かな質問をして炎上した。
  • 参照:川瀬大輔/アサ芸プラス「クリスチアーノ・ロナウドに〈大谷翔平を知っているか〉バカ質問の日本テレビには〈明石家さんまの前科〉があった」(2023年7月31日)https://www.asagei.com/excerpt/273423
クリロナに「大谷翔平はご存じですか?」と質問する馬鹿インタビュー(1)
クリロナに「大谷翔平をご存じですか?」と愚かな質問をした日テレ(1)

 当然、クリロナはこの質問に「No!」と答えた。

クリロナに「大谷翔平はご存じですか?」と質問する馬鹿インタビュー(2)
クリロナに「大谷翔平をご存じですか?」と愚かな質問をした日テレ(2)

 クリロナに「大谷翔平はスゴイ!」と言わせたい。そして「大谷翔平は世界的なスーパースターだ!」と喧伝したいだけの愚かな質問である。こんなことをやっているから、日本のテレビは野球を(大谷翔平を)ゴリ押ししていると言われるのである。

 クリロナに何か質問するのであれば、むしろ、サッカー日本代表で欧州サッカーで活躍するの三笘薫や久保建英らについての感想だろう。せっかく時間を割いてくれたクリロナには、全く無駄なことを質問をした。申し訳ない気持ちになる。

 【その3:大谷翔平の記者会見7000万人視聴とデマ】日本のテレビは、大谷翔平がロサンゼルス・ドジャースに移籍が決まった時の記者会見を「全米で7000万人が同時視聴」「全世界では1億人以上が同時視聴」、バイデン米大統領の一般教書演説の視聴者数2730万人を上回った……などという喧伝を行った。

 もちろん、これはデマである。

大谷翔平デマ_記者会見視聴者7000万人(1)
大谷翔平デマ、記者会見視聴者7000万人(1)

 野球というスポーツのアメリカにおけるプレゼンス、世界のおけるプレゼンスを考えたら、そんな数字は在り得ない。

大谷翔平デマ_記者会見視聴者7000万人(2)
大谷翔平デマ、記者会見視聴者7000万人(2)

 実際は4万8000人程度だったらしい。日本のテレビはこのデマを撤回していない。

 こういう例は、まだまだあるが割愛する。繰り返しになるが、こんなことをやっているから、日本のテレビは野球を(大谷翔平を)ゴリ押ししていると噂されるのだ。

両方に「いい顔」をしなければならない満田哲彦氏
 日本のテレビは「野球ゴリ押し」という説(噂)。これはバイアス(偏見)ではない。

 まあ、「株式会社ミッションスポーツ」CEOという立場上、満田哲彦氏はサッカー界にも野球界にも「いい顔」をしなければならない。だから火消し(?)に走った。

 しかし、この満田哲彦氏の「火消し」は、テレビを中心に情報を収集している人たちには通用しそうだが、インターネットやSNSを中心に情報収集している人たち……の就中(なかんずく)サッカーファンをかえって疑心暗鬼にしてしまう。





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中村敏雄氏のフーリガン解釈
 近代以前のスポーツ(例えばマス・フットボール=群衆のフットボール)は競技者と観客の境界が曖昧であった。競技は屋外の〈自然〉な条件のもとで行われ、人々は出入り自由、すなわち競技への参加と離脱が自由であり、そこには両者が喜びや楽しみを共有する共同体の親近感・一体感があった……。
  • 参照:AFPBB News「街全体が競技場,英国一クレイジーなフットボール大会」(2009年2月26日)https://www.afpbb.com/articles/-/2575865
 ……しかし、近代スポーツ(サッカーやラグビーなど)が成立されるに従い、競技は〈人工〉の競技場で行われるようになり、競技者と観客が明確に分断されるようになった。共同体は後退し、両者の間にあった親近感・一体感は希薄になってしまった……。

 ……以上のような趣意を、中村敏雄氏(1929年‐2011年,スポーツ学者,教育学者)は、1989年初版の著作『メンバーチェンジの思想~ルールはなぜ変わるか』の中で、執拗に拘って論じていた。

 その上で中村敏雄氏は、かつて近代以前の古いフットボール、暴力的・暴動的な性格もはらんでいたマス・フットボール(群衆のフットボール)の伝統を継承した存在や現象として、かつて欧州サッカー界で猖獗(しょうけつ)を極めていた「フーリガン」に対して、ロマンチックな思い入れを書いていた。
 1985年5月、ベルギーのエーゼル〔ヘイゼル〕競技場で行われたサッカーのヨーロッパ・カップ〔UEFAチャンピオンズカップ〕の試合〔決勝〕で、〔イングランドのリヴァプールとイタリアのユヴェントスの〕応援団の対立から死者39名、負傷者425名を出すという惨事〔ヘイゼルの悲劇〕があった。

 ロンドン高裁はイギリス〔イングランド〕側の応援団の26名に対して執行猶予の判決を下したが、ベルギーの司法当局は彼らの出頭を命じ、ローマの検察局は殺人と傷害の罪で逮捕状を出している(朝日新聞,1986年4月17日)。

 この事件は「暴動」とも呼ばれているが、しかしそれはまた、観衆とプレーヤーの親近感・一体感の共有・共感を分断するという抑圧に対する、十分には「文明化」されていない観衆の反乱、またスポーツで進行している「人工性・人為性」に対する人間的「自然」の名状しがたい、あるいはそれとは自覚されていない報復と見ることもできなくはない。

 換言すれば、現代のコロシアムのなかでプレーする剣闘士たちに、人間への復帰を呼びかける行為であったかもしれないと見ることもできる。

中村敏雄「〈ライン〉の周辺」@『メンバーチェンジの思想』111~112頁
 一読して驚愕! そして唖然! 2024年時点の常識では、こうした中村敏雄氏のフーリガン解釈は受け入れられない。特にヨーロッパのサッカー界では。

 フーリガンの実態を、また「ヘイゼルの悲劇」の実態を知れば知るほど、それは「人間〔人間性〕への復帰」ではなく「人間(人間性)の否定」でしかないからだ。

 『メンバーチェンジの思想』の初版は1989年であった。まだ、Jリーグのスタート(1993年)以前のことであり、海外のサッカーに関する十分な情報が日本では行き渡らなかった。その分、中村敏雄のようなフーリガンへのロマンチックな思い入れが存在しえた。

 しかし、さすがに現在では許されなくなっている。

Jリーグ前夜におけるフーリガン情報の受容のされ方
 玉木正之氏(スポーツライター)とロバート・ホワイティング氏(日本在住のアメリカ人ジャーナリスト)の共著『ベースボールと野球道~日米間の誤解を示す400の事実』(1991年刊)といえば、日米の野球文化や習慣の違いを(良くも悪くも)さまざま論った本として有名である。

 この中に、中村敏雄氏の『メンバーチェンジの思想』を援用しつつ(著者のひとりである玉木正之氏が)「フーリガン」に言及した箇所がある。
 18世紀以前(近代以前)のあらゆるスポーツは、〈飛び入り自由〉でスポーツを〈プレイするひと〉とそれを〈見るひと〉のあいだに境界はなかった。〔略〕(中村敏雄『メンバーチェンジの思想』平凡社刊より)。

 したがって近代以前の〈飛び入り自由〉の伝統があった地域(欧米)では、観客は〈見る〉だけでなく〈参加する〉という意識が残っている。〔略〕(サッカーのワールドカップのときに現われるフーリガンも、応援というよりも〈大会〉に参加しているといったほうがいいように思われる)

玉木正之&ロバート・ホワイティング「ファンと応援団」@『ベースボールと野球道』208~209頁
 この本が出た1991年の前年、1990年はイタリアでサッカーのワールドカップが開催され、日本でも大いに話題になっていた。まだ、ジョホールバルの歓喜(1997年)よりもずっと前、Jリーグ(1993年)よりも少し前、日本のサッカーが「夜明け前」だった頃の話である。
  • 参照:Sports Graphic Number 248号 詳報ワールドカップイタリア'90(1990年7月19日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/580
  • 参照:Sports Graphic Number Special Issue September 1990 ITALIA'90 QUESTO E IL CALCIO! イタリア・ワールドカップの21人(1990年9月11日発売)https://number.bunshun.jp/articles/-/398
 この当時、海外サッカーやワールドカップで巻き起こる熱狂は、普通の日本人には理解不能な、何かトンデモない物凄い現象であることが誇張されて語られてきた。その「ツール」のひとつとしてフーリガンという暴力的・暴動的な現象がよく用いられてきた。

 玉木正之氏のフーリガン解釈も、その一例である。

不健全なフーリガン現象と健全なサポーター文化
 しかし、これが同じ著者の1999年刊『スポーツとは何か』になると、フーリガンの実態がだんだん分かってきたために、またその問題の深刻さも知られるようになったため、フーリガンは前近代のフットボール文化を踏襲したものという従来の(中村敏雄氏の)解釈を踏襲しつつも、その評価に変化が現われるようになる。
 「フーリガン」と呼ばれる集団は、前近代の歴史を継承しているともいえる。つまり、サッカーが、誰でも参加でき、1000人、2000人という単位で町や村をあげて暴動のように行われていた時代の名残をとどめているというわけだ。

 が、最近のフーリガンは、政治結社と結びついたり、サッカーとは無関係に武器を持って暴動を起こすことを目的にしている集団もある。

 1998年のワールドカップ〔フランス開催〕では、イングランドのフーリガンたちが、フランス人たちに向かって「おれたちがいなければ,おまえたちは,いまごろドイツ人」という歌をうたって顰蹙を買った。

 そういう集団(烏合の衆)を、サッカーの応援の特徴ととらえたり、サポーターと同一視するのは間違いである。

玉木正之「応援団(註)」@『スポーツとは何か』196頁


スポ-ツとは何か (講談社現代新書)
玉木 正之
講談社
1999-08-20


 だいたい観客の競技(フットボールまたはサッカー)への参加……というけれども、フーリガンの中には暴れることそれ自体が目的であって、試合の観戦はどうでもいいという層すら存在する。

 こうした連中はサッカーファンですらない。つまり、フーリガンはサッカー文化の一部(の継承)ではなく、サッカー文化からも逸脱してしまっているのである。

 日頃、玉木正之氏の言動には批判的な当ブログではあるが(爆)、このフーリガンの評価は十分に良識的なものである。

先祖返りした玉木正之氏のフーリガン解釈
 ところが、その玉木正之氏のフーリガンへの評価が、21世紀も20年経とうかというところで、またまた先祖返りしてしまったのである。
 >>サッカーはどうでしょうか? ヨーロッパのサッカー、応援団いますかね? フーリガンはいますけれども、応援団というような形でまとまっているモノはないですね。


玉木正之「無観客でのプロ野球復活~応援団の出現」(2020.05.29)


玉木正之「欧州のサッカーにも応援団はない」
玉木正之「欧州のサッカーにも応援団は存在しない」
 あれ? ……と思った。ひょっとして玉木正之氏は、欧州サッカーの「サポーター」と「フーリガン」を混同し同一視した上で、日本のプロ野球の「応援団」と区別、かつ後者を否定するするという間違いを犯しているのではないか? <1>
 この原稿は2020年6月26日付『北國新聞』夕刊の月イチ連載『スポーツを考える・第53回』い〔に〕書いたものです。応援団の存在については、スポーツ誕生時の「前近代/近代」という事情による……というのは、故・中村敏雄先生の展開された卓見ですが、その考えを引用しながら最近の喧しすぎる日本野球について考え直してみました。チョイと加筆(カッコ内です)して〈蔵出し〉します。<2>

 ……ベースボール発祥の地〔アメリカ合衆国〕から遠く離れた東洋の島国〔日本〕では、同じルールで行われているベースボールでも、中味は相当違ったモノになってしまった。その最も顕著な例は応援団の有無だろう。

玉木正之「スポーツに応援団は不要?!」
スポーツにおける応援団不要を訴える玉木正之氏

 きちんとしたルールが定まる前(近代以前)から様々に多様なルー〔ル〕で行われてきたスポーツは、「飛び入りの自由」が許された長い歴史があったため、見物人は、プレイしている選手より自分が下手なこと(飛び入りできないこと)を自覚し、(おとなしく)声援を送ることになる。

 が、近代以降にきちんとしたルールから生まれたスポーツや、近代以降になって外国から伝播してきたスポーツは、「飛び入りの自由」が許されず、選手と見物人が最初から分かれている。そのため「見るだけの人」の欲求不満が募り、独自のパフォーマンスを行う応援団を生みだすのだ。

 日本の相撲やアメリカのベースボール、ヨーロッパのフットボール(サッカーやラグビー)には(フーリガンや集団合唱はあるが)応援団が存在せず、アメリカンフットボールやバスケットボールなど19世紀末に創られたスポーツにチアリーダー・チアガール・チアボーイが存在し、日本・韓国・台湾など、近代以降に外国から伝播した東洋の野球に応援団が存在するのはそのためだ。〔略〕<3>

 古くからのプロ野球ファンである小生〔玉木正之〕は、リモートマッチ〔無観客試合〕から「球音を楽しみ静かに興奮する新たな応援」が生まれるかと期待したが、テレビは無観客でも応援歌を流した。それを、残念な思いで見た小生は過去の人間になったのかな……?

玉木正之「無観客試合に応援は必要? 開幕日に思う日本野球の不思議」(2020-07-08)http://www.tamakimasayuki.com/sport/bn_329.htm
 玉木正之氏の発言は、単なる思い違いではないのかもしれない。

 氏は、前掲の引用文にあったように、応援団文化が存在しないアメリカ野球が素晴らしいと思っており、応援団文化が存在する日本野球が嫌いで嫌いでたまらない。

 それを単なる「好き/嫌い」で語るならばまだいいのだが、そうではなくてスポーツ文化として「正しい/間違っている」という方向に持っていきたいために、スポーツの「前近代/近代」という中村敏雄氏の説を援用し、応援団の有無の文化的背景という比較論にまで話を拡張してしまった。

 そのために、玉木正之氏は、前近代のフットボール文化を踏襲したフーリガンという「謬見」、健全なサポーター文化と不健全なフーリガン現象を混同するという「謬見」を復活させてしまったのである。

 玉木正之氏がズボラなのは本人はそれで構わないのだろうが、しかし、それはスポーツ界やスポーツファンに影響が及んでしまうのである。よくよく注意してほしい。





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▼前回のおさらい:中村敏雄を疑う(1)ドイツ映画「コッホ先生と僕らの革命」から考える(2024年02月21日)https://gazinsai.blog.jp/archives/51189999.html

中村敏雄氏の癖
 スポーツ研究書の中では名著と言われる『オフサイドはなぜ反則か』や、『メンバーチェンジの思想~ルールはなぜ変わるか』を書いた中村敏雄氏(1929年‐2011年,スポーツ学者,教育学者)。

 一方で、氏は、「日本」(日本人)と「欧米」または「西洋」との間に越えられない壁を構築する癖の強い人で、この点、かなり頑迷であったと思う。

中村敏雄氏と後藤健生氏の対談
 そんな中村敏雄氏は、季刊『サッカー批評』2004年1月第21号で後藤健生氏と対談を行っている(対談:中村敏雄×後藤健生「日本人はほんとうにサッカーを必要としているのか」)。対談記事のリード文では「サッカー関連書籍の読者にとっては夢の顔合わせ,ドリームマッチ」と煽っていた。<1>

季刊『サッカー批評』2004年1月第21号表紙
季刊『サッカー批評』2004年1月第21号表紙


サッカーの世紀 (文春文庫 こ 24-1)
後藤 健生
文藝春秋
2000-07-01


ワールドカップの世紀 (文春文庫)
後藤 健生
文藝春秋
2012-09-20


 その中で実に奇妙なやり取りがあった。

 その前年、2003年のJリーグカップ(当時のヤマザキナビスコカップ)で浦和レッズが初優勝した。Jリーグのスタート以来(1993年)、ずっと負け犬だった(失礼!)浦和レッズがついに初タイトルを獲得したのである。

 これを見た中村敏雄氏は「先日の国立競技場(ナビスコカップ決勝)で浦和レッズの応援団〔サポーター〕で真っ赤に染まっていたけれど,あの人たちは競技〔サッカー〕の何を見ていたのでしょうか,それを知りたいと思います」と話を振る。

 後藤健生氏は「僕も違う立場から見ているので彼らが何を見ているかはなかなかわからないのですが」と前置きしながら「ひとつは勝負だと思います.いまのスポーツの場合、勝ち負けが非常に重要ですから〔勝利至上主義〕.この間のレッズ・ファンにとっては、10数年間負け続けた末に勝ったというのが一番嬉しかったのでしょう.もちろん人それぞれですし,〔略〕でも一番大きかったのは勝負だったと思います〔略〕」と答える。

 すると、中村敏雄氏は「勝ち負けだけだったら,翌日の新聞でもテレビでもいい.わざわざ競技場にまで出かけて行って応援している人たちの心理や要求は何なのだろうということで,その実像がわからない限り,川淵(三郎,日本サッカー協会会長)さんがいくらがんばってもサッカーは根なし草,そんな気がします」と返ってきた。

 ここで詳細な紹介は避けるが、中村敏雄氏は、1970年代から1990年代にかけて、欧州を中心に世界サッカー界で猖獗(しょうけつ)を極めた「フーリガン」に対して、何とも奇妙でロマンチックな思い入れを示し、ある意味で肯定していた。そのことは当ブログが以前に書いた。
  • 参照:フーリガンとその解釈~中村敏雄の奇妙でロマンチックな思い入れ(2024年02月02日)https://gazinsai.blog.jp/archives/51053142.html
 だが、日本のサッカーに関しては「根なし草」だ……と実に低い評価を下したのである。

 ふたりの対談記事「日本人はほんとうにサッカーを必要としているのか」というタイトルには、こうした含みがある。サッカーを必要にしている「欧米」または「西洋」と違って日本人にとって本当はサッカーなど必要ではない。

 だから日本のサッカーは「根なし草」なのである。

サッカー文化に近代と前近代の「断絶」はない
 さて『メンバーチェンジの思想』の中では、中村敏雄氏が非常に高い熱量で論じていた事柄があった。それは……。
 近代以前のスポーツ(例えばマス・フットボール=群衆のフットボール)は競技者と観客の境界が曖昧であった。競技は屋外の〈自然〉な条件のもとで行われ、人々は出入り自由、すなわち競技への参加と離脱が自由であり、そこには両者が喜びや楽しみを共有する共同体の親近感・一体感があった。
  • 参照:AFPBB News「街全体が競技場,英国一クレイジーなフットボール大会」(2009年2月26日)https://www.afpbb.com/articles/-/2575865
 しかし、近代スポーツ(サッカーやラグビーなど)が成立されるに従い、競技は〈人工〉の競技場で行われるようになり、競技者と観客が明確に分断されるようになった。共同体は後退し、両者の間にあった親近感・一体感は希薄になってしまった。

中村敏雄「〈ライン〉の周辺」@『メンバーチェンジの思想』より要約
 しかし、浦和レッズなど、特にJリーグクラブのコアサポーターをやっている人などは、こうしたモノの見方には首をひねると思う。

 すなわち、サッカーにおけるサポーターとは単なる観客ではない。それは「12番目の選手」と呼ばれる。文字通り、競技者(クラブや選手)を支える。ホームの試合には足しげく通い、アウェイにも遠征。試合中はあらん限りの声援やチャントを選手たちに送り続ける。(プライベートな領域には踏み込まないけれども)サポーターは選手のプレーぶりや人となりをよく知っている。サポーター同士、試合の後先には酒食を共にする……。

 ……等々、競技者(クラブや選手)とサポーター(観客)との間には濃密な親近感・一体感があるからだ。それを共同体と言い換えてもいい。まさにデズモンド・モリス博士が『サッカー人間学』(1983年初版)で説いたところの「サッカー部族」の世界である。

サッカー人間学―マンウォッチングII
デズモンド モリス
小学館
1983-02T


The Soccer Tribe
Morris, Desmond
Rizzoli Universe Promotional Books
2019-03-26


 そこに「近代以前」と「近現代」の、本質的な違いはない。あるいは「近代以前」に存在したスポーツ文化が、少なくともサッカーには形を変えて「近現代」にも息づいているのだとも言える。

今だったら中村敏雄氏は「炎上」するのではないか?
 どうも、後藤健生氏は中村敏雄氏をリスペクトしすぎて、あまり良くない返答をしてしまったのではないか。

 ここは日本のサッカーファンを代表して、そしておそらくは後藤健生氏も『メンバーチェンジの思想』は読んでいただろうから、その内容を踏まえて「クラブと選手(すなわち競技者)とサポーター(観客)は喜びや楽しみを共有する共同体なのです.浦和レッズとレッズ・サポーターは一心同体なのです」とでも答えるべきであった。

 冷淡な日本人観を持つ中村敏雄氏に、それで納得していただけるかどうかは分からないけれども。

 だいたい、ひいきのクラブが勝つところ「だけ」を見たくてサポーターをやっている人など、Jリーグでも海外のサッカーファンでもほとんどいない。2003年~2004年当時の浦和レッズであれば、なおさらそうである。

 この意味で、サポーター文化は中村敏雄氏が批判的に見ている「勝利至上主義」ではないのだ。

 浦和レッズとそのサポーターについては、既に1998年、大住良之氏による『浦和レッズの幸福』という著作が世に出ており、独特のサポーター文化が確立されてもいた。

浦和レッズの幸福
大住 良之
アスペクト
1998-02-01


 それに分け入ろうともせず、ただただ日本のサッカー文化を「根なし草」だと軽んじるかのような中村敏雄氏の言い様は、SNS全盛の現在ならば「炎上」してしまうのではないだろうか。

日本人はサッカーを必要としていた
 まあ、2003年~2004当時ならばまだまだJリーグの歴史も10年程度であり、底の浅いものだと思われても致し方なかったのかもしれない。

 しかし一方、プロ野球にも、大相撲にも、大学ラグビーにも飽き足らない日本のスポーツファンの層をJリーグは開拓したのだとも言える。

 そこに「何か」を感じて日本のサポーター文化に参入してきた浜村真也氏(初代サポティスタ)のような人物もいたのだ(笑)。

浜村真也・初代サポティスタ
浜村真也氏(初代サポティスタ)活動初期の写真

 日本人はサッカーを必要としていたのである。





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守田英正選手の悲痛なコメント
 2024年1~2月にカタールで行われた「アジアカップ2023」、サッカー日本代表=森保ジャパンは「日本サッカー史上最強」と呼ばれ、優勝を期待されながら、しかし準々決勝(ベスト8)で敗退してしまった。これには多くのサッカーファンの失望している。

 日本が敗れた対イラン戦は、後半、日本が防戦一方になりながら(そして後半終了直前に与えたPKを決められた)、森保一監督は選手交代や守備の指示など、何の手も打たなかった。この森保采配についても多くのサッカーファンの失望している。

 これには選手、例えば守田英正選手からも異論が出ている。
 ……後半10分に追いつかれてから我慢の時間が続き、後半アディショナルタイムにPKで決勝点を献上。そんな試合展開に守田〔英正〕は偽らざる胸中を吐露した。

 「どうすれば良かったのかはハッキリ分からない。考えすぎてパンクというか、もっとアドバイスとか、外からこうした方がいいとか、チームとしてこういうことを徹底しようとかと〔ベンチからの声〕が欲しい。チームとしての徹底度が足りなくて試合展開を握られるということがゼロじゃないし、この大会でも少なからずあった。ボランチとして、プレイヤーとして、チームのために考えないといけないし、その思考は止めないけど、そこの決定権が僕にある必要はないのかなと思う。あくまで僕は最後の微調整だけでいいのかなと。担っているものを重荷には感じないけど、もっと〔ベンチからのアドバイスが〕欲しい

 ピッチ上の選手だけで対応するのにも限界がある。劣勢の展開の中でもっとベンチからの明確な指示があっても良かったのではないか。〔以下略〕

西山紘平/ゲキサカ「苦悩を吐露した守田英正の悲痛な叫び〈考えすぎてパンク〉〈もっといろいろ提示してほしい〉」(2024/2/4)https://web.gekisaka.jp/news/japan/detail/?400971-400971-fl
 一方、これについては、次のような解釈も存在する。
 守田〔英正〕は今回の発言の際、非常に言葉を選びながら絞り出すように思いを口にしていたが、森保一監督を始めベンチ側から「もっと提示して欲しい」というのはこれまでもよく話題に上がっていたこと。〔略〕

 ただ一方で、そういった状況を分かった上で指揮官が〈動かない〉ことを選択している節もある。〔略〕目の前の勝利とともに日本サッカーの発展を考えるが故に、何もしないことで選手たちがどう反応し、どういった解決を図るかを見守っているところがある。そこは森保監督の〈ズルさ〉と表現していい。

林遼平/GOAL「なぜ優勝にたどりつけなかったのか.アジア杯を戦う日本代表にあった2つの〈問題〉」(2024年2月08日)https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/japan-asian-cup-review-20240208/blt495228c8f255efbc
 それにしても、2024年の今でもこういう奇妙な論理が出てくるのか? ……と(当ブログは)驚く。

 まず、アジアカップの準々決勝はあえて「〈動かない〉ことを選択」して勝たなくてももいいという試合ではなく、何が何でも勝ちにいかなければならない試合である。

 何より、森保一監督はあえて「〈動かない〉ことを選択」した、「ズルさ」の現れなのではなく、試合中、単純にフリーズしてしまい、適切な手が打てなかったのではないか……という批判的な指摘の方が多数派である。

日本のスポーツ界と「ボトムアップ型」の日本代表
 森保一監督はチームに戦術の仕込みをせず、試合中、選手たちに具体的な指示を送ることも少ない。これを「ボトムアップ型」の監督と呼ばれるが、別の(悪い)言い方をすると「戦術やプレーを選手たちに丸投げ」する監督ということである。

 木村浩嗣氏(元フットボリスタ誌編集長)が、小澤一郎氏(サッカージャーナリスト)が主宰するYouTube番組の中で「ボトムアップ型の監督やチームなんてスペインサッカーじゃ有り得ない!!」と語っていたが、なぜ日本にそのような類型が存在するのか?


[冒頭10分公開]スペインから見た日本代表の弱点と敗因。「監督で負けた」「ボトムアップなんてありえない」

 日本のスポーツ界、日本のスポーツ論壇には、「〈日本人〉のスポーツ選手は細かい戦術指導や指示をすると思考の柔軟性を失い、その枠をはみ出てプレーをすることが出来なくなる」という「迷信」がある。特にサッカーやラグビーなどはそう言われる。

 だから、それを乗り越えるため……と称して、日本のスポーツ界は「ボトムアップ型」の日本代表が時として登場してきた。すなわち、1997年~2000年のラグビー日本代表「平尾ジャパン」、2002年~2006年のサッカー日本代表「ジーコ・ジャパン」がそうである。

 平尾ジャパンの平尾誠二監督(故人)は、次のように述べている。
 「多様な局面に対し、多様に瞬時に対応できるのが、現代のいいプレーヤーの条件です。しかし、これは日本人が一番弱い部分。そもそも、そういう教育がされていない」「(ラグビーのゲームは)常に状況が変わり、選手がどうカオス(混とん)に対応するかが問題になる」

『日本経済新聞』1999年11月20日付
 今でこそ、森保ジャパンを鋭く批判している西部謙司氏(サッカー記者)であるが、かつてはこの論理でジーコ・ジャパン(セレクター型監督と称していた)の熱烈な支持者であった。森保一監督は「セレクター型」の監督なのだろうか?

アエラ2004年6月7日号より
ジーコ・ジャパンの風刺画:アエラ2004年6月7日号から

 前掲の林遼平氏(GOAL.COM)の言い分は、実はこの論理をなぞったものである。

「日本人」と「自己決定力」
 そもそも、森保一監督の「雇い主」であるところの田嶋幸三JFA会長(2024年3月で退任予定)自身が、そういう「迷信」を信じているのではないか? ……との見方がある。田嶋幸三会長の著作、2007年に出た『「言語技術」が日本のサッカーを変える』の冒頭にはこうある。<1>
 2007年1月、大坂で「第5回フットボールカンファレンス」が開催されました。

 メインテーマは、06年にドイツで開催されたワールドカップの分析と報告です。このカンファレンスで私〔田嶋幸三〕は「日本代表報告」を担当することになっていました。

 私が壇上に立つ直前、ハッとするような話が耳に飛び込んできたのです。

 ワールドカップの準決勝・イタリア対ドイツ――この大会で何試合かアシスタントレフェリーを務めていた廣嶋禎数〔ひろしま・よしかず〕さんが、こんな話を始めました。

 「イタリアの選手が退場させられて選手が1人減ってしまったその時、イタリアの選手たちは、誰1人として、ベンチを見なかった」

 イタリア・チーム〔2006年ドイツW杯で優勝〕は、状況からして非常に不利な局面を迎えていた。にもかかわらず、選手たちはベンチに指示を仰がなかった。その場で話し合いをはじめ、10人でどのように試合を進めていくのかを即座に決め、お互いに指示を出し合い、発生した問題を解決していった――というのです。

 ピッチ上の選手が、「ベンチを見ない」。

 そのことは、いったい何を示しているのでしょうか? サッカーにとって、どれくらい重要な意味があるのでしょうか?

 イタリアのメンバーたちは、選手が1人欠けてしまった場面に遭遇しても、自分たちで判断し難問を解決する力を持っていました。そうした能力をしっかり養ってきたからこそ、彼らはベンチに対して「指示を求めなかった」のです。

 つまり、「ベンチを見ない」ということは、ピッチ上で発生した出来事をどう処理していくのか、そのために分析力と判断力を発揮して、決定する「力」を持っていたことの「証」〔あかし〕でした。

 究極の状況下で、自ら考えて判断を下す「自己決定力」。その力を備えていない限り、世界で通用するサッカー選手になることはできない、という事実を明確に示している――そうした出来事だと、私〔田嶋幸三〕には思えたのでした。

 でははたして、日本の選手たちはどうでしょう?

 日本のサッカーは、どれくらい「自己決定力」の大切さを意識してきたでしょうか? そうした能力を養っていくための訓練をしてきたでしょうか? 学校や家庭で、そうした能力を育む努力や工夫を、重ねてきたでしょうか? 「自己決定力」を支える、論理や表現力を学ぶシステムは、確立されているでしょうか? それともそうしたことの大切さすら、まだ自覚されていないのでしょうか?

田嶋幸三「ベンチを見ないイタリア・チーム」@『「言語技術」が日本のサッカーを変える』7頁~9頁


 平尾誠二監督と田嶋幸三会長の「日本人観」は、非常によく似ている。そして、ジーコ・ジャパン(や平尾ジャパン)の擁護論として、多用された言い回しでもあった。

 ジーコ・ジャパンは(平尾ジャパンも)、肝心なワールドカップ本大会では惨敗した。しかし、それは田嶋幸三会長が述べるところの「日本人の〈自己決定力〉の欠如」の問題であって、ジーコ・ジャパンの監督であるジーコ氏の責任ではない……ということで片付けられてしまった。

 この度の守田英正選手のコメントは、彼がサッカー選手としてレベルが低いということの「証」なのだろうか? ……それは違う。

「迷信」に斬り込んだスポーツライター
 藤島大氏(スポーツライター)は、あるいは大西鐵之祐氏(ラグビー日本代表監督ほか)の薫陶を受けたためもあるのかもしれない。「ボトムアップ型」日本代表を生み出す、日本スポーツ界の「迷信」を批判してきた。
 なぜかスポーツとなると「型」〔≒指示、戦術〕と「個性」〔≒自己決定力〕の対極へと位置づけるナイーブな論調が跋扈〔ばっこ〕する。しかし、マイク・タイソン〔元プロボクシング世界ヘビー級チャンピオン〕は厳しいパターンに従って戦ったプロデビュー直後こそ、もっともタイソンらしかった。〔略〕

 つまりスポーツに型はあるものなのだ。そして型を実行する過程においても「その人らしさ」は必ず反映されるし、「ここに拠点ができたら必ず右に攻めろ」とパターン化しても、パスをするのか蹴るのか当たるのかは「個人の判断」がしばしば決定する。

藤島大「〈史上最強〉の虚実」@『ラグビーの世紀』104頁


ラグビーの世紀
藤島 大
洋泉社
2000-02-01


 型、パターン、戦術を明快に打ち立てると、個人の判断や力強さが身につかない。とらわれがちな呪縛〔じゅばく〕ではある。少年期なら自由な判断と一般的な基本技術がとことん尊重されるべきだ。しかし〔日本〕代表の具体的なチーム作りにあっては、それでは時間が足りなくなる。それに、一級の指導者は選手の個性を観察した後にふさわしい型を構築するものなのだ。

藤島大「〈史上最強〉の虚実」@『ラグビーの世紀』106頁
 以上、平尾ジャパンを総括した記事である。実に溜飲が下がる。聞いているか!? 田嶋幸三会長! そして宮本恒靖次期JFA会長! ……と言いたくなる。

 藤島大氏は該当記事で、松尾雄治氏(元ラグビー日本代表)から「戦争に行ってさ、個人の判断でいけ、なんて嫌だよ。そんなの。あっちこっちに勝手に弾打ってさ。そんなんで、どうして死ねるんだよ」という、平尾ジャパンをやんわり批判した比喩的なコメントを引き出している。

 守田英正選手のコメント(あるいは三笘薫選手のコメント)は「そんなんで、どうして死ねるんだよ」という気持ちの表明でもあったのかもしれない。

 藤島大氏の筆鋒は、ジーコ・ジャパンの総括にも向けられている。
 ジーコが悪い。ジーコがしくじったから〔サッカー日本代表は2006年ドイツW杯で〕負けた。なぜか。チャンピオンシップのスポーツにおいて敗北の責任は、絶対にコーチ〔監督〕にあるからだ。〔略〕シュートの不得手なFW〔柳沢敦〕を選んで、緻密な戦法抜きの荒野に放り出して、シュートを外したと選んだコーチ〔監督〕が非難したらアンフェアだ。

藤島大「ジーコのせいだ」(2006年7月27日)https://www.suzukirugby.com/column/column984


柳沢敦:急に(Q)ボールが(B)来たので(K)
柳沢敦のQBK:急に(Q)ボールが(B)来たので(K)
 サッカージャーナリストの多くが「迷信」の前にジーコを批判できず、沈黙してしまったのに対し、まことに胸のすく啖呵である。

 あの対イラン戦。ロングボールをゴール前に放り込まれ続けられる「荒野」の中で、しかし、しかるべき守備の指示もなく、なすがままに敗れ去ってしまったのが森保ジャパンだった。

サッカーはアップデートしている
 もうひとつ。そもそも、イタリア代表の選手たちがW杯の準決勝でピンチに陥ってもベンチ(監督)の指示を仰がなかったという逸話は、今から17年半も昔の2006年のことである。

 しかし、2024年現在、サッカーというスポーツは(好むと好まざるとにかかわらず)アップデートしている。

 すなわち、GPSやAIなどを使った膨大なデータの集積と科学的な分析。ドローンを使ったフォーメーションの練習など高度に統制された戦術。そればかりか「個の力」に頼っていた最後の崩し方すら「組織的、戦術的」に練習する。

 試合中はピッチを俯瞰したスタッフがフォーメーションを絶えず観察、状況に応じてスタッフが無線で連絡しあい、それによって選手たちは柔軟にそれを変更する。……等々。

 もはや、ピッチ上の選手たちだけで出来るゲームではなくなっているのだ、サッカーは。

 選手だけでサッカーをしていると、それこそ「考えすぎて頭がパンクする」のである。

 三笘薫、堂安律、久保建英、遠藤航、冨安健洋、守田英正……等々(順不同)、日本代表選手の「個の力」も2006年当時から大幅に向上した。結局、森保ジャパンの活躍は選手たちの「個の力」に頼ったところが大きかったのではないか? ……とまで言われている。

 その「個の力」をチームの力にまとめきれないのは、やはりベンチ(監督)の責任ではないのか? ……と。

 田嶋幸三会長が『「言語技術」が日本のサッカーを変える』の中で称揚した逸話は、昔の日本プロ野球で二日酔いで猛打賞をとったスラッガーを讃える武勇伝と同じ類のアナクロニズムである。<2>

 森保ジャパンの予想外の不振と敗退に、ジーコ・ジャパンの(そして平尾ジャパンの)亡霊を見てしまった気がする。





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[文中敬称略]

 1970年代から1990年代にかけて、欧州を中心に世界サッカー界で猖獗(しょうけつ)を極めた「フーリガン」。

フーリガンの社会学 (文庫クセジュ)
ドミニック・ボダン
白水社
2005-11-25


 フーリガンに関しては、かつて近代以前の古いフットボール、暴力的な性格もはらんでいたマス・フットボール(群衆のフットボール)の伝統を継承した存在や現象として、いささかロマンチックにとらえる人がいた。
  • 参照:街全体が競技場、英国一クレイジーなフットボール大会(2009年2月26日)https://www.afpbb.com/articles/-/2575865
 例えば、有名な『オフサイドはなぜ反則か』(初版1985年)の著者であり、今なおカリスマ視されるスポーツ学者・教育学者である中村敏雄(1929年-2011年)がそうである。

 中村敏雄がフーリガンへの共感(?)を展開している著作は『メンバーチェンジの思想~ルールはなぜ変わるか』(初版1989年)の方である。

 実は、中村敏雄がこの著作の中で「メンバーチェンジ」というルールの思想や文化背景以上に、そして執拗に拘っていたのは、次のような話である。
 近代以前のスポーツ(例えばマス・フットボール)は競技者と観客の境界が曖昧であった。競技は屋外の〈自然〉な条件のもとで行われ、人々は出入り自由、すなわち競技への参加と離脱が自由であり、そこには両者が喜びや楽しみを共有する共同体の親近感・一体感があった。

 しかし、近代スポーツ(サッカーやラグビーなど)が成立されるに従い、競技は〈人工〉の競技場で行われるようになり、競技者と観客が明確に分断されるようになった。共同体は後退し、両者の間にあった親近感・一体感は希薄になってしまった。

中村敏雄「〈ライン〉の周辺」@『メンバーチェンジの思想』より要約
 中村敏雄のスポーツ評論は現代思想的な「近代文明批判」に通じる要素があり(例えば,近代スポーツで勝敗を争うこと,あるいは勝利を求めることを相対化するかのような発言をする)、それだけ論壇などのウケも良かったようなところがある。

 その上で、この評論文の最後の部分になって著者が1985年のフーリガンの絡んだ大惨事「ヘイゼルの悲劇」に言及した箇所が登場する。
 1985年5月、ベルギーのエーゼル〔ヘイゼル〕競技場で行われたサッカーのヨーロッパ・カップ〔UEFAチャンピオンズカップ〕の試合〔決勝〕で、〔イングランドのリヴァプールとイタリアのユヴェントスの〕応援団の対立から死者39名、負傷者425名を出すという惨事〔ヘイゼルの悲劇〕があった。

 ロンドン高裁はイギリス〔イングランド〕側の応援団の26名に対して執行猶予の判決を下したが、ベルギーの司法当局は彼らの出頭を命じ、ローマの検察局は殺人と傷害の罪で逮捕状を出している(朝日新聞,1986年4月17日)。

 この事件は「暴動」とも呼ばれているが、しかしそれはまた、観衆とプレーヤーの親近感・一体感の共有・共感を分断するという抑圧に対する、十分には「文明化」されていない観衆の反乱、またスポーツで進行している「人工性・人為性」に対する人間的「自然」の名状しがたい、あるいはそれとは自覚されていない報復と見ることもできなくはない。

 換言すれば、現代のコロシアムのなかでプレーする剣闘士たちに、人間への復帰を呼びかける行為であったかもしれないと見ることもできる。

中村敏雄「〈ライン〉の周辺」@『メンバーチェンジの思想』111~112頁
 えーーーーーーーーーーッ!? ……と、まず、一読してこのフーリガン理解には驚愕し、そして、しばし唖然とした(何だか今福龍太が書きそうな内容だなぁ~とも思ったが)。

 「……と見ることもできなくはない」とか、「……であったかもしれないと見ることもできる」とか、あくまで断定を避けた遠回しな表現ではある。

 ……だが、中村敏雄は、近代以前の古いフットボール(マス・フットボール)の競技者と観客の境界さの曖昧さ、観客の競技への参加の自由……を理由に、その歴史や伝統を引きずっているものとして、ある意味でフーリガンを称揚している。

 しかし、このフーリガンへのロマンチックな思い入れは、2024年時点の常識では、これは十分に「不謹慎」なものである。

 サッカーの本場であるヨーロッパは、中村敏雄のフーリガン観を受け入れないだろう。

 フーリガンの実態を、また「ヘイゼルの悲劇」の実態を知れば知るほど、それは「人間(人間性)への復帰」ではなく「人間(人間性)の否定」でしかないからだ。

 観客の競技への参加の自由……というけれども、フーリガンの中には暴れることそれ自体が目的であって、試合の観戦はどうでもいいという層すら存在する。

 こうした連中はサッカーファンではない。フーリガンはサッカー文化の一部(の継承)ではなく、サッカー文化から完全に逸脱してしまっているのである。

 『メンバーチェンジの思想』の初版は1989年である。まだ、Jリーグのスタート(1993年)以前のことであり、世界のサッカーに関する十分な情報が日本では行き渡らなかった。その分、中村敏雄のようなフーリガンへの奇妙でロマンチックな思い入れが存在しえた。

 しかし、さすがに現在では許されなくなっている。





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