スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

カテゴリ:サッカー > 玉木正之氏と「大化の改新と蹴鞠」問題

 NHKの2024年大河ドラマ「光る君へ」の追加キャストが発表された。
  • 参照:2024年 大河ドラマ「光る君へ」出演者発表 第2弾 紫式部(まひろ)と道長の身近な人びと(2023.02.21)
 このドラマの主人公は紫式部、女性である。

 昔のNHKは、同局のテレビドラマ二枚看板、大河ドラマ=男主人公、朝ドラ(連続テレビ小説)=女主人公……という形で男女のバランスをとってきたと個人的に考えてきた。

 それが女主人公の「篤姫」(2008年)の成功体験に毒されたか、はたまたフェミニズムやポリティカルコレクトネスといった風潮、(現代的な)「政治的正しさ」を反映してか、近年の大河ドラマの歴史は、無理やり女主人公の物語を乱発しては「スイーツ大河」と揶揄され、駄作を連発し、視聴者離れを起こしてきた。
  • 参照:ピクシブ百科事典【スイーツ大河】スイーツ大河とは駄作の大河に呼ばれる蔑称である
 しかし、よくよく考えてみると、朝ドラの方も「マッサン」(2014年)とか、「エール」(2020年)とか、「らんまん」(2023年前期予定)とか、女性のヒロインはいるが、主人公はあくまで男性というドラマがあったのだ。

 大河ドラマも朝ドラも、だいたい交互に男と女で主人公を変える。これが我が国の公共放送=NHKが考える「ジェンダーバランス」だったのである。

 今さらながら、そんなことに気が付いた。

 それは「政治的に正しい」のかもしれないが、テレビドラマの面白さに結びつくのか、分からないが。

 まぁ、主人公が男だろうと女だろうと関係なく、今年、2023年の大河ドラマ「どうする家康」の内容は酷いらしい(1回も視ていない)。視聴率も低空飛行だ。

 「光る君」が素晴らしいテレビドラマになることを祈っている。

 日曜の夜がつまらない……というのはなかなか辛いものだからだ。

(了)




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 当ブログのメインタイトルは《スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う》であるからして、玉木正之氏のことはいろいろ検索をかけて話題をチェックしている。

 テレビ朝日系ワイドショー「羽鳥慎一モーニングショー」のレギュラーコメンテーターで、ジャーナリスト・石戸諭氏に「左のポピュリスト」と評された玉川徹(たまかわ とおる)が、番組中に口を滑らせて会社(テレビ朝日)から懲戒処分(謹慎)を食らってしまったという。

 この玉川徹氏と玉木正之氏の因縁話が、ツイッターで玉木正之氏について検索をかけていたら出てきた。何でも「モーニングショー」に玉木氏が出演した際、玉川徹氏が玉木氏の話を遮(さえぎ)り、自論を声高にまくしたてたことで玉木氏の不興を買ってしまったのだそうだ。


 玉木正之氏は「お前(玉川徹氏)の浅薄な感想はいいから,他人(ひと)の話を聞け!」と激怒したらしい。

 でも……。全国の玉木正之ウォッチャーの皆さん! これっておかしくありませんか?

 他人の話を聞かずに、浅薄な自論を声高にまくしたてるのは玉木正之氏もいっしょなんですよ(笑)。

 そうでしたよね! 牛木素吉郎さん!

 * * *

 それから、テレビ局の人間は、ジャーナリストが懸命に取材し、情報収集した成果を無断引用する癖がある。「引用の出典や参考文献は明示せよ」という原則を知らない。玉木正之氏の書いたことを無断引用した玉川徹氏がそうだった……とも非難もされている。


 でも……。全国の玉木正之ウォッチャーの皆さん! これっておかしくありませんか?

 自分で取材をせずに、参考文献を明示せずに、怪しげな自論を声高にまくしたてるのは玉木正之氏もいっしょなんですよ(笑)。

 そもそも、玉木正之氏は「自分で取材をしないで高見からモノを言うスポーツライター」という悪評があった(同業者である梅田香子氏や武田薫氏が,そのことを皮肉っていたはずである)。

 そして、玉木正之氏も参考文献を明示しない傾向が強いことについては、いい実例がある。以下のリンク先のコラムを参照されたい……。
  • 参照:玉木正之「読者からの質問への回答」(掲載日2012-02-29)http://www.tamakimasayuki.com/nongenre/bn_134.html
 ……このコラムの後半《拝啓 玉木正之さま 侍史/玉木さんの持説に,「『日本書紀』皇極天皇紀にある,大化改新の発端となった中大兄皇子と中臣鎌足の出会いのきっかけとなった『打毱』とは,蹴鞠(≒サッカー)ではなく,毬杖(ぎっちょう≒ホッケー)である」というものがあります。/この根拠は何でしょうか?》という質問をしたのは、何を隠そう、実はこの私、すなわち当ブログである。

 ところが、玉木正之氏は、その根拠となる参考文献を捨てただの忘れただの、重要な文献を読んでいないだの、全く知的誠実さの欠落した物言いをしている……にもかかわらず、自分の意見は絶対的に正しいものだと講釈してきたのである。<1>

 しかも、元々このメールのやり取りは私信である。勝手に公開されて実に不愉快である。

 * * *

 他人の話を聞かない、自分で取材しない、参考文献を示さない……つまり、知的誠実さを欠いた玉川徹氏のようなテレビコメンテーターは、いくら権力批判しようと、コメンテーターとしてのクオリティは三浦瑠璃(政治学者)、橋下徹(弁護士)、ほんこん(お笑いタレント)の各氏と変わらない……という。

 しかし、これらの特徴は玉木正之氏にも当てはまる。玉川徹氏と玉木正之氏は同じ穴のムジナであり、だから玉川氏を批判するのに玉木氏を持ち出すのは間違っている。

 そういえば、玉木正之氏もスポーツ界の権威・権力批判を盛んに繰り返している。この辺も玉川徹氏と相通じるところだ。

 しかし、知的誠実さを欠いた玉木正之氏のようなスポーツライターは、いくら権力批判しようと、コメンテーターとしてのクオリティは三浦瑠璃、橋下徹、ほんこん、そして玉川徹の各氏と変わらない。

(了)




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 たまさか「玉木正之,日本書紀」でググっていたら、玉木正之氏が自身の公式サイトでまたデタラメを書いていた。
2021年10月16日(土)
 ……一昨日だか一昨昨日だかの夜にNHK-Eテレで雅楽の特集をやっていて面白そうだから録画しておいたら見直して驚いた。有名な越天楽(黒田節の元の音楽)や陵王と並んで打鞠舞(打球舞)というのもあるのですね。まさにこれこそ『日本書紀』にも載っている中大兄皇子と中臣鎌足が興じた打鞠(くゆるまり)を舞にしたものではないですかね? 棒を持った人物が足元にある鞠を打とうとして舞います。ダイジェストだったけど全部見てみたいですね。

「タマキのナンヤラカンヤラ」より

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【玉木正之氏】
 中大兄皇子と中臣鎌足が登場する『日本書紀』皇極天皇紀に「打毱」なる球技が登場する。本来は、打鞠でも、打球でもない。

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【打毱】

 打毱に二説あり。ひとつは脚(足)でボールを蹴る蹴鞠、もうひとつは棒(杖)でボールを打つホッケー風球技(毬杖=ぎっちょう=とも)である。

 どちらが正しいか? 学問的な決着はついていない。

 このうち、玉木正之氏は(ここで詳説は避けるが自身のご都合主義的歴史観のために)熱烈なホッケー風球技説を支持者であり、ゆえにデカい声で「啓蒙」している。だから「雅楽の打鞠舞(打球舞)を見て驚いた」のだが、だったら、なおさら「打鞠」に「くゆるまり」と訓を振ってはいけない。

 なぜなら、岩波文庫の『日本書紀』(校注:歴史学・坂本太郎)<1>で解説されてある通り、「くゆるまり」とはまさに「蹴鞠」の古語・古訓だからだ。

 ならば、ホッケー風球技説を熱烈に支持する玉木正之氏は、打毱に「くゆるまり」と読んではいけないはずなのだ。

 例えば、小学館の『日本書紀』(校注:上古文学・西宮一民)<2>が解説してあるように音読みに「ちょうきゅう」とでも読まなければならない。しかし、それでは古語としての趣が出ないとでも玉木正之氏思っているのだろうか?

 とまれ、玉木正之氏には、この手の間抜けな話が多すぎて、毎度のことながら呆れる(爆)

(了)




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前回のおさらい
  •  玉木正之氏は単なるスポーツライターではなく、筑波大学や立教大学をはじめとする数々の大学で「学者」として「スポーツ学」を講じてきたわけだから、「玉木正之は〈スポーツ学者〉としてどうなのか?」が問われるのは当然である。
  •  玉木正之氏は、スポーツ史の研究において実証的に支持されていない「珍奇な説」を、あたかも定説であるかのように拡散して、読者に不要な誤解を与え続けている。……と、プロの学者にハッキリと批判されている。
  •  玉木正之氏は、「事実」とか「論理」とか「実証」とか「学問的であるとはどういうことが大切か」を軽視したまま、自身のデタラメな「スポーツ学」を展開してきた。
  •  そうした「スポーツ学者」としての玉木正之氏の偏った体質は、フランス現代思想などに傾倒するインテリ癖と、スポーツライターでありながら「ノンフィクション」が下手で書けない玉木正之氏自身の性向に由来するのではないか。
スポーツ学者としての玉木正之氏の正しい評価(2021年03月20日)https://gazinsai.blog.jp/archives/43374806.html


tamaki_masayuki2tamaki_masayuki1
【玉木正之氏】


玉木正之 スポーツ・ジャーナリズムを語る (スポーツ・システム講座)
玉木 正之
国士舘大学体育スポーツ科学学会
2003-03-20



スポーツ文化の発展は民主主義とは…そんなに関係ない
 そんな「玉木正之スポーツ学」の集大成ともいえる著作が、2020年、春陽堂書店刊『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』である。当エントリーでは、ここで紹介されてある玉木正之氏の「珍奇な学説」のデタラメの数々を検証していく。

 【玉木正之氏のデタラメ学説その1】民主政治が発達した古代ギリシャや近代イギリスがそうだったように、非暴力を旨とする民主主義社会でなければ豊かなスポーツ文化は生まれない。

 いわば「民主制社会スポーツ誕生説」(玉木正之氏の命名)である。

 この説のオリジナルはノルベルト・エリアス(社会学者,哲学者,詩人.英国籍のユダヤ系ドイツ人)が提唱したもので、日本では多木浩二氏(哲学者,芸術学,美術・写真・建築などの批評家)の『スポーツを考える~身体・資本・ナショナリズム』で紹介された。

 しかし、ノルベルト・エリアスや多木浩二氏がどれだけ優れた知識人であろうと、この説はアカデミズムの世界(学界)では必ずしも支持されていないようである。

 『スポーツの世界史』という浩瀚な著作がある。この中で「第1章 イギリス|近代スポーツの母国」を担当したのは石井昌幸氏(いしい まさゆき,早稲田大学スポーツ科学学術院教授,スポーツ史)であるが、ここにはエリアスの「民主制社会スポーツ誕生説」は採用されていない。

 そのことが玉木正之氏は些(いささ)かならず不満なようだ(次のリンク先,2020年4月6日〈月〉掲載分を読まれたい)。
  • 参照:玉木正之「ナンヤラカンヤラ」2020年4月分より(http://www.tamakimasayuki.com/nanyara/bn_2004.htm)
 また、私たちが簡単に入手できる知識からは、エリアス説とは違った史実がいくつも出てくる。すなわちエリアス説は疑わしい。

 例えば、古代ギリシャの民主政治といっても参政権があるのは成年男子のみで、奴隷制があり、奴隷や女性には参政権がなかった。同様、古代オリンピックにおいては奴隷や女性は参加できなかった。近代イギリスもしかり。成人男性でも労働者階級などには選挙権(普通選挙権)は無かった。女性のスポーツ参加は非常に限られたものであった。男女平等の成人普通選挙権が成立するのは1928年になってからである。

 また、イングランドのサッカー協会(The F.A.)の創設は1863年(文久3)、同じくイングランドのラグビー協会(R.F.U.)の創設は1871年(明治3)。イギリスで近代スポーツが形成される19世紀中期~後期は、同国でより民主的な議会政治の確立を目指した、労働者階級による普通選挙権獲得運動「チャーチスト運動」(1830年代~1850年代)が挫折した少し後である。

 あるいは、イギリスでは近代スポーツが確立する少し前まで、人vs人(素手で殴り合うボクシング,棒で叩き合う棒試合など)、動物vs動物(闘犬,闘鶏など)、人vs動物(人が鶏をいたぶる鶏撃ちなど)、流血や殺生を伴う野蛮で暴力的な娯楽を「スポーツ」と呼んでいた(この辺の事情は松井良明著『近代スポーツの誕生』に詳しい)。

 さらに世界中で人気のあるサッカーでは、民主的でない国でもサッカーが盛んな国などいくらでもある。

 特にワールドカップで優勝したことがある国などは、かつては必ずしも民主主義的な国とは言えなかった。少なくとも(右傾化した)全体主義を歴史的に経験した国が結構ある。ドイツ、イタリア、スペイン、アルゼンチン……。自由・平等・友愛のフランスもまた、第二次世界大戦時はヴィシー政権という、ナチス・ドイツに迎合した政権があった。

 これでは「豊かなスポーツ文化は非暴力を旨とする民主主義社会でなければ生まれない」と断言できない。

 つまり玉木正之氏の「学説」は正しくない。

日本人は野球を好む国民性だった…のではない
 【玉木正之氏のデタラメ学説その2】明治初期の日本で野球(ベースボール)の人気がサッカーやラグビー(といったフットボール)よりも出た理由は、日本人が集団での戦い(フットボールのようなチームプレー)よりも1対1の対決(野球のおける投手vs打者の対決)を歴史的・文化的にも好んでいたからである。

 この珍奇な説は、牛木素吉郎氏によって「1対1の勝負説」と名付けられている。「1対1の勝負説」のオリジナルは「ニューアカデミズム」で有名な中沢新一氏(宗教学者,人類学者)である<1>。中沢新一氏の言うところでは、以下のような説明になる。
 世界史的な戦争の歴史では、鉄砲が発明され普及すると刀・剣・槍などを使った1対1の白兵戦から集団的な戦闘に変化する。ヨーロッパでは歴史的にずっと戦争をやってきたから集団戦闘の文化がある。

 しかし、日本では西暦1543年の鉄砲伝来から約半世紀後の1600年の関ヶ原の戦いで戦争の時代が終わってしまい、1868年の明治維新まで250年余り平和な時代が続いたので、日本人には集団戦闘の文化が普及しなかった。戦いと言えば宮本武蔵vs佐々木小次郎の「巌流島の決闘」のような1対1の戦いだという文化が日本人には浸透していた。

 明治に入って、さまざまなスポーツ、特に球技スポーツが日本に輸入されたが、日本人は「野球(ベースボール)における投手vs打者の対決」に自分たちの感覚に合う1対1の戦いの要素を見出した。だから日本では野球が圧倒的な人気スポーツとなった。

 反対に、集団戦闘的な球技スポーツであるフットボール、すなわちサッカーやラグビーは日本人には人気が出なかった。
 玉木正之氏は、この中沢新一説=「1対1の勝負説」が面白いと思って信じ込み(学問的に「正しい」と思ったのではない!)、さまざまな場で吹聴するようになった。だが、この「学説」はやはりおかしい。

 例えば、日本で他の球技スポーツに先んじて野球が普及し始めた頃、明治20年頃(1887年頃)までの野球のルールは現在のそれとは大きく違っていた。投手はボールをベルトの下から抛(ほう)らなければならず、ストライクゾーンは極端に狭く……。投手は打者が打ちやすい球をひたすら投げ続ける、否、抛り続けなければならなかった。

 明治の文人・正岡子規が野球選手だった当時はこのルールでプレーされていた。その野球をプレーする様子はNHKのドラマ「坂の上の雲」でも再現されている。

NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲 第1部 DVD BOX
菅野美穂
ポニーキャニオン
2010-03-15


 とにかく、このルールでは、打者の方が圧倒的に有利で、投手が自身の技量力量で打者を抑え込むということは非常に難しい。だから野球を「投手vs打者の1対1の対決」と見なすことも難しい。「1対1の勝負説」は間違っているのである。

 つまり玉木正之氏の「学説」は正しくない。

野球はアメリカにおける演劇文化の代替物…ではない
 【玉木正之氏のデタラメ学説その3】野球やアメリカンフットボールなどのアメリカ生まれの球技が、サッカーやラグビーなどイギリス・ヨーロッパ生まれの球技と違って「作戦タイム」を設けてまで試合を中断させるのは、開拓時代に劇場を建てられなかったため演劇や歌劇の代わりにスポーツの中に「ドラマ」を求めたからである。

 この「学説」こそ、プロの学者である鈴村裕輔氏(名城大学教員,法政大学客員研究員,政治学,スポーツ組織論ほか)に、スポーツ史の研究において実証的に支持されていない「珍奇な説」を、あたかも定説であるかのように拡散して、読者に不要な誤解を与え続けている……と批判されたものである(詳細は次のリンク先を読まれたい)。
  • 参照:鈴村裕輔「隔靴掻痒の感を免れ得なかった玉木正之氏の連載〈アートオブベースボール十選〉」2021/03/02(https://note.com/yusuke_suzumura/n/n8986199beeba)
 そもそも、玉木正之氏の「珍奇な説」を最初に唱えたのは、虫明亜呂無氏(作家・評論家ほか)だった(「芝生の上のレモン」@『時さえ忘れて』)。虫明亜呂無氏は、今なおカリスマ扱いされるスポーツライターでもあるのだが、玉木正之氏は虫明亜呂無氏のことを崇拝・盲信しており、虫明亜呂無氏の言うことは「学問」としても絶対的に正しいのだと信じ切っているのである。

時さえ忘れて (ちくま文庫)
虫明 亜呂無
筑摩書房
1996-06T


 しかし、「虫明亜呂無のスポーツに関わる発言はあまりにも文学的すぎて歴史学や社会学の〈学説〉として採り入れることは危うい」ことは、『つくられた桂離宮神話』『法隆寺への精神史』といった著作があり、プロ野球・阪神タイガースのファンとしても有名な井上章一氏(建築史家,風俗史研究者,国際日本文化研究センター所長・教授)が『阪神タイガースの正体』の中で指摘する通りなのである。

阪神タイガースの正体
章一, 井上
太田出版
2001-03T


阪神タイガースの正体 (朝日文庫)
井上章一
朝日新聞出版
2017-02-06


 この玉木正之氏と虫明亜呂無氏が説く「珍奇な説」、いわば「野球(またはアメリカンスポーツ)=演劇文化代替物」説、あるいは「野球(またはアメリカンスポーツ)=中断のスポーツ」説は悉(ことごと)く間違っている。

 例えば虫明亜呂無や玉木正之氏は、アメリカ生まれの球技のみに「中断」があると考えているが、英国生まれの球技には、イギリス・英連邦諸国で人気があるクリケット……野球の親戚である「バット・アンド・ボール・ゲーム」が存在していることを忘れている。この球技には「中断」が頻繁にある。

クリケット
【クリケット】

野球
【野球(ベースボール)】

 この一事だけでも、玉木正之&虫明亜呂無説は、たやすく崩壊する。間抜けな事実誤認が多い玉木正之氏はともかく(爆)、イギリスの国技クリケットという「中断」の多いスポーツを忘却した虫明亜呂無氏は、相当な失当をおかしたのではないだろうか。

 つまり玉木正之氏の「学説」は正しくない。

大化の改新のキッカケは「蹴鞠」ではない…は正しくない
 【玉木正之氏のデタラメ学説その4】上古日本史の一大事件「大化の改新」(645年)。この改革を主導した中大兄皇子と中臣鎌足が知己を得たのは「蹴鞠」の会であるとされてきた。しかし、これは間違いであり、正しくはフィールドホッケー風の球技「打毬」である。

 『日本書紀』皇極天皇紀には、中大兄皇子と中臣鎌足は「打毱」の会で知己を得たとある。この「打毱」は、マリ(ボール)と一緒に靴が脱げていったと皇極天皇紀の記述にあることから、従来は「蹴鞠」であると思われてきた。

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【霞会館蔵「中大兄皇子蹴鞠の図」(部分)筆:原在寛】

 ただし、これには異議があり「打毱」はスティックでボールを打つフィールドホッケー風の「打毬」または「毬杖」と呼ばれる球技ではないかと唱える人もいる。この異論の存在自体は間違いではない。

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【打毱】

 岩波文庫の『日本書紀』(校注:坂本太郎)では「蹴鞠」説を、小学館の『日本書紀』(校注:西宮一民)では「ホッケー風球技」説を採用している。

日本書紀 (4) (ワイド版岩波文庫 (233))
坂本 太郎
岩波書店
2003-10-16


 『日本書紀』をめぐる論争といえば「法隆寺再建・非再建論争」や「郡評論争」が有名だが、このふたつの論争に関しては考古学的な出土物の発見で決着がついている。

 しかし、皇極天皇紀に登場する「打毱」については、そのような意味での決定的証拠がない。また、『日本書紀』には脚色・潤色の類がいくつか見られることから、この中大兄皇子と中臣鎌足の邂逅の逸話自体が虚構ではないかと見なす立場もある。いずれにせよ、学問上の決着はついていない<2>

 玉木正之氏が「珍奇」なのは、学問的に定説がなく未決着なこの問題に関して、「蹴鞠」説が一方的に間違っていて「ホッケー風球技」説の方が一方的に正しいと主張していることである。だが、その思い込みが正しいとする根拠は実に薄弱である(その薄弱さについては次のリンク先を読まれたい.元になる資料を破棄して覚えていない上に橋本治氏の「小説」=フィクション=が正しさの根拠!なのだとの玉木正之氏の御託宣である)。
  • 参照:玉木正之「読者からの質問への回答:玉木正之コラム ノンジャンル編」http://www.tamakimasayuki.com/nongenre/bn_134.html
 どうして、玉木正之氏が「ホッケー風球技」説に固執するのかといえば、自身のスポーツ史観・スポーツ文化観にとって都合がいいからである。大化の改新のキッカケは「蹴鞠」ではなくホッケー風の球技「打毬」だった。[…だから…]、日本はサッカーの国ではなく野球の国になった、日本のサッカーは「世界」に勝てない……のだというのが玉木正之氏の持論なのである。えッ!? えッ!? えッ!? えッ!?

 なぜ……そうなるのか? […だから…]の部分の複雑怪奇でアクロバティックな玉木正之氏の論理の展開については割愛する。知りたい方はググっていただくか、『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』や『スポーツとは何か』など玉木正之氏の著作に当たってみてください。えッ!? えッ!? えッ!? えッ!? ……の連続である。

スポ-ツとは何か (講談社現代新書)
玉木 正之
講談社
1999-08-20


 玉木正之氏のことを「自分にとって都合のいい結論のために史実を歪曲するスポーツライター」と酷評したのは、秋山陽一氏(ラグビー史研究家)だった。『日本書紀』皇極天皇紀に登場する「打毱」をめぐる玉木正之氏の発言は、まさに「自分にとって都合のいい結論のための史実の歪曲」である。

 定説がない曖昧な歴史的事件の、仮説のひとつにすぎない事柄を一方的な思い込みから「コレが正しい」と決めてかかり、あちらこちらに吹聴する。玉木正之氏の知的態度は全く学問的ではない。

 また、7世紀の「日本人」<3>にスポーツにまつわる確固とした文化や精神、民族性みたいなものが定まっていて、それから千数百年もたった19世紀、20世紀、21世紀の、つまり近現代の日本人のスポーツの在り方を規定している(!)という玉木正之氏の発想は、論理が飛躍した行き過ぎた文化本質主義であり、その知的態度は全く学問的ではない。

 つまり玉木正之氏の「学説」は正しくない。

玉木正之氏は「スポーツ学者」失格である
 『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』をちょっと読んだだけでも、玉木正之氏にはこれだけデタラメな「学説」がある。これは、玉木正之氏を擁護する広尾晃氏が言うように資料の瑕疵どころの問題ではない。

 玉木正之氏がこうしたデタラメを並べるのは、日本スポーツ界における「後進性」の悪弊を批判する裏付けにしたいという「イデオロギー」があるからだ。そのイデオロギーのために玉木正之氏は実証や論理を無視し、事実(史実)を歪曲するという体質が固まってしまった。

 このような人物は「スポーツ学者」失格である。

 日本のスポーツ界が、さまざま問題を抱えているからと言って、間違ったところから批判しても、かえって間違ったことが起こるばかりである。実際、日本のスポーツ界はそうした混乱が何度か起こっている。そして、度々その混乱に掉(さお)さしてきたのは、他ならぬ玉木正之氏であった。

 玉木正之氏は、今なおデタラメなスポーツ「学説」を垂れ流している。実に恐ろしい話である。

(了)




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自著への酷評に反論できない(?)玉木正之氏
 2020年に上梓した、玉木正之氏入魂の一冊『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』……。

 ……しかし、当ブログは、その内容に疑問を感じ、アマゾンに次のようなカスタマーレビューを書いた。
 鷹揚な玉木正之氏だが、当ブログが徹底的に酷評したことは気にしているらしい。
拙著『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』(春陽堂書店)
 クリックするとRakutenブックスへ跳びます。Amazonよりもこっちの評価のほうが正しいですね(笑)。どうぞ、お買い求めを!

玉木正之氏公式ウェブサイトから

玉木正之公式ウェブサイト(2020年7月4日閲覧)
【玉木正之公式ウェブサイト(2020年7月4日閲覧)右下参照】
 当ブログの評価に玉木正之氏の異論反論があったら、是非とも読みたい。……のであるが、それが確認できないのが残念である。

「史実の曲解」ではなく,あくまで「エピソードの紹介」?
 まあ、Amazonのレビューでも、玉木正之氏に好意的な評価の方が多いのだから自信を持てばいいのにとは思う。しかし、その中にも首を傾げたくなるものがある。
★★★★☆ 体育とは異なる「スポーツ」というものを考えるきっかけになる一冊(2020年4月14日に日本でレビュー済み)
 ……興味深く読むことができました。「史実を歪曲するスポーツライター」とのレヴューもあったのでどうかと思いながら読みましたが、エピソードを集めたような本ですし、著者のスポーツへの熱い思いも伝わってくるので、この分野の初心者にはそれだけで面白く読める本です。史実云々については自分で考えながら読めば済む話でしょう。次回は書下ろしで掘り下げてもらえたらと思いました。
 このレビュワーさんは知らないのだ。玉木正之氏による「エピソードの紹介」それ自体が自分にとって都合のいい結論のための「史実の歪曲」であり、それを見破るためには相応のリテラシーが必要だということを。

 具体的な例を上げよう。
 欧米から我が国へ「スポーツ」が伝播〔でんぱ〕したのは文明開化の明治10(1877)年前後だったが、それ以前の日本にも〈スポーツに相当する〉「身体文化」は存在した。〔中略〕

 皇極〔こうぎょく〕には、中大兄皇子と中臣鎌子〈中臣鎌足〉が「打毱」〔ちょうきゅう〕に興じるなかで結ばれ、やがて蘇我入鹿を打つことになる描写がある。打毬〈ママ〉は、後の蹴鞠〔けまり〕とは別の球戯。「今日のポロまたはホッケー風の競技」(小学館版『日本書紀』註釈)とされ……〔以下略〕<1>

玉木正之「スポーツと文学~古典に描かれた競技は日本人の個人技好みを映している?」
日本経済新聞「スポーツと文学1」(2014年10月2日)を元に加筆修正
 引用文中の〔 〕は原文ではルビ、〈 〉は引用者(当ブログ)による補足であるが……。この短い「エピソード」の紹介自体に、玉木正之氏による意図的な「史実の歪曲」がある。読者諸兄はお気付きですか?

『日本書紀』…小学館版と岩波文庫版の異同
 まず、現在、一般に流通している『日本書紀』のテキストには、小学館=新編日本古典文学全集版と、岩波文庫版の2つがあって、皇極天皇紀の中に登場する「打毱」という古代球技の解釈が分かれている。

 小学館=新編日本古典文学全集版(西宮一民氏校注)は、玉木正之氏が述べる通り「打毱」を「ちょうきゅう」と読み、「今日のポロまたはホッケー風の競技」だとしている。

 一方、岩波文庫版(坂本太郎氏校注)には「打毱」を「まりくゆる」または「くゆりまり」と読ませ、一般のイメージ通り「蹴鞠」(けまり)だとしている。ただし、現在に伝わる非対戦型の平安風の蹴鞠ではなく、現在のサッカーやフットサルと似た、両チームに分かれての対戦型球技である可能性も示唆もしている。

日本書紀 (4) (ワイド版岩波文庫 (233))
坂本 太郎
岩波書店
2003-10-16


 「今日のポロまたはホッケー風の競技」が正しいのか? それとも、現在のサッカーやフットサルに似た球技(蹴鞠)が正しいのか? 学問的な決着は付いていない。少なくとも学問的な決着が付いたという話は、当ブログは知らない。<2>

だから玉木正之氏は史実を歪曲する
 学問的な決着が付いていないというのであれば、両論を併記するのが話の筋というものである。しかし、玉木正之氏は、小学館版の「今日のポロまたはホッケー風の競技」のみを採用し、援用している。

 なぜならば、玉木正之氏の世界観の中では、皇極天皇紀に出てくる「打毱」が「蹴鞠」ではなく「今日のポロまたはホッケー風の競技」であったことが、自分にとって都合のいい結論につながるからである。

 その辺りのアクロバチックな論理の展開は省略するが、以下のリンク先を参照されたい。
 とにかく、玉木正之氏が論じるスポーツ史・スポーツ文化は、デラタメなスポーツ史観で読者を誤導する愚論ばかりである。

 それは「史実云々については自分で考えながら読めば済む話」どころの問題ではない。それこそ一段落一段落、あるいは一行一行、一字一句、すべからく疑って読むべき低劣なレベルのお粗末なお話なのである。

 玉木正之氏にとって、学問的に検証された事実・史実よりも「自分にとって都合のいい結論のために史実を歪曲する」ことの方が大事。だから、玉木正之氏はラグビー史研究家・秋山陽一氏を初めとする良心的な人々から酷評され続けているのである。

(了)




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