スポーツライター玉木正之氏の知的誠実さを問う

大化の改新と蹴鞠(けまり)問題など、日本のサッカーカルチャーについてさまざま論じていきたいと思っています。

カテゴリ:サッカー > 玉木正之氏と「大化の改新と蹴鞠」問題

東京五輪でなかったら野球は採用されなかったし…
 もし、2020年の夏のオリンピックが日本の東京でなかったら、野球がオリンピックの正式種目に採用されることはなかったはずである。

 すなわち、雑誌『東京人』2019年8月号の特集「近代スポーツことはじめ」に、ロバート・ホワイティング氏(日本在住の米国人ジャーナリスト)が「アメリカ人は犠牲バントを好まない」などという奇妙な一文を寄稿することはなかった。

 内容は今さら紹介の必要もありますまい……。

菊とバット〔完全版〕
ロバート ホワイティング
早川書房
2005-01-01


和をもって日本となす
ロバート ホワイティング
角川書店
1990-04-01


 ……いつもの、ホワイティング氏の、日本と日本人に対するステレオタイプと偏見に満ちた日本野球論・日本文化論である。

サッカーの視座ならば「菊とバット」を解体できる…できるはず…
 「野球」の枠の中にいると、「ホワイティング氏の日本野球観」の何が歪(いびつ)なのか今ひとつ分かりにくい。むしろ「サッカー」の視座からこそ「それ」は見えてくる。すべからくサッカー側の人間はホワイティング氏の日本野球観を批判するべきである。なぜなら、この人の日本野球観は、当ブログがしつこく問題にしてきた「自虐的サッカーな日本サッカー観」と深いところでつながっているからだ。

 してみると、逆説的ではあるが、サッカー側の人間からもなかなか「ホワイティング氏の日本野球観」への批判がなかなか登場しないのも分からないことはない。なぜなら、サッカー側の人間には「自虐的サッカーな日本サッカー観」に染まっている人が多いからだ。

 具体的には、塩野七生氏や山崎浩一氏のような人たちのことであるが、野球とサッカー、お互いのために、いずれこの問題には触れなければならない。

明治以来150年の「日本野球の到達点」が… えッ,イチロー!?
 さて、くだんの「アメリカ人は犠牲バントを好まない」なる一文は、最初から最後までツッコミどころばかりなので逐一付き合っていたら、それこそ、いつまで経っても終わらない。そこで、2つの部分に絞って話を進める。

 はじめに、文章冒頭の2段落である。
 〔二〇一九年〕三月二十一日、東京ドームでイチロー(本名・鈴木一朗)の引退セレモニーが開催された。その野球人生の締めくくりにふさわしい、感動的なイベントだった。ニューヨーク・ヤンキースのゼネラルマネージャー、ブライアン・キャッシュマンが「世界の野球史上で最高の選手」と称賛したイチローは、日本人選手として初めて、アメリカのメジャーリーグで殿堂入りするに違いない。

 こうしたイチローの輝かしい成功は、むろん彼個人の才能と努力の賜物である。と同時に、それは約百五十年前に日本政府がアメリカ〔合衆国〕から招聘した〔お雇い外国人〕教師たちによって、日本に野球が紹介されて以来の、長い歴史の到達点でもあった。

ロバート・ホワイティング「アメリカ人は犠牲バントを好まない」@『東京人』2019年8月号


ホワイティング「アメリカ人は犠牲バントを好まない」見出し
【ホワイティング「アメリカ人は犠牲バントを好まない」の見出し部分】
 いや、これ、おかしいでしょう?

ホワイティング氏の「まなざし」=アメリカ野球界一国主義の「まなざし」
 明治このかた約150年の歴史を持つ「日本に野球が紹介されて以来の,長い歴史の到達点」が、日本野球を代表するナショナルチーム(代表チーム)の実績、その世界大会で優勝したことだとか、日本代表が発祥国であるアメリカ合衆国代表を国際試合で打倒したとか、そういうことではないからである。なんと、それがひとりの選手で「代表」されてしまうことである。それは、よいとしても……。

 ……イチロー選手が日本野球史上随一の選手のひとりなのは間違いないにしても、その評価と言及は、形式論的にはたかだか1か国のプロリーグにすぎないアメリカ大リーグ(MLB,メジャーリーグ)での実績に限られてしまっているからである。イチローが日本代表として活躍したこと。具体的にはワールドベースボールクラシック(WBC)で連覇したことに、ホワイティング氏は一言も触れられてのであるからである。

 例えば、ペレの功績をブラジル代表とワールドカップでの活躍に全く触れないで、サントスFCとニューヨーク・コスモスの活躍だけで考察したら、本当におかしな評価になるだろう(当然,これは突飛な連想であるが)。

 むろん、ホワイティング氏のイチロー選手の評価が「クラブチーム」に偏ってしまう理由は、野球の世界地図では、サッカーやラグビー、クリケット(野球と同類のバット・アンド・ボール・ゲームのひとつ)のように、ナショナルチームによる国際試合や世界大会が全くオーソライズされていないためである。複数の国にプロリーグがある、チームで行う対戦型球技で、そのようなスポーツはほとんど野球だけではないかと思う。

 ロバート・ホワイティング氏のイチロー評が、アメリカ大リーグのそれに偏ってしまうこと。それは、実はアメリカ大リーグからみた「その他の世界」への想像力の狭さ、度量の狭さとほとんど重なる。すなわちアメリカ合衆国野球界の体質であり、ホワイティング氏は、その「まなざし」を体現して、日本人なり、日本の野球界なりに向けて、講釈を垂れているのである。

 しかし、そうした体質が改められないのであれば、大リーグは、英国・ヨーロッパや、クリケットの大国インドに進出することなど止めた方がいいだろう。


 英国・ヨーロッパしかり、インドしかり(英連邦諸国もヨーロッパと含めると,インドもヨーロッパである)、ナショナルチームによる国際試合、世界大会が、その国のスポーツ文化の大きな地位を占めているからである。それを認めようとしない野球は、少なくとも大リーグは、その枠内でやっておればよろしい。

 それにしてもホワイティング氏は、あの底が割れたようなイチロー選手の引退試合を「感動的なイベント」などと仰(おっしゃ)るのですね。 

 あれだけ日本野球に辛辣なホワイティング氏にしては、ずいぶんと寛大ではありませんか。

野球を選んでしまった日本近代史150年の不幸
 真面目な話に戻ると、スポーツは、特に代表チーム同士の対戦は、感情的な対立を抱えた2か国、あるいは「宗主国」と「従属国」といった、複雑な両国の政治的な関係を、たとえ一時であっても乗り越えるという「機能」がある。

 すなわち、ラグビーにおける英国(なかんずくイングランド)とニュージーランド、またはイングランドとスコットランド、アイルランド、ウェールズ。あるいはクリケットにおける英国(なかんずくイングランド)とインド、英国(なかんずくイングランド)とオーストラリアといった試合である。


 ところが、前述の理由で野球に限ってはその「機能」がないのであります。こうした問題に米国=大リーグはすこぶる鈍感だが、日本にとっては大いなる不幸である。これは日本の近代史、あるいは戦後史、平成史に少なからず影響を与えているかもしれない。


 ロバート・ホワイティング氏の日本野球観。その言説は、米国野球界の鈍感さと同様に発せられる。

間違いだらけのホワイティング氏の日本野球史考察
 次いで、この1段落である([ ]数字は引用者が付けたもの)。
 [1]日本人が野球を好んだのは、野球がおそらく日本初のチームスポーツだったからだろう。そして日本人はチーム優先の戦術を愛するようになった。たとえば[2]犠牲バント〔送りバント〕。これはパワー志向のアメリカ人選手には嫌われる手法だ。こうした集団戦の側面に加えて、[3]投手と打者の一対一の対決図式は、剣道や相撲などの試合を思わせる。その上、[4]時間制限もないため、試合の展開について議論する時間がたっぷりあった。[5]野球はまるで日本人の国民性に誂〔あつら〕えたかのようなスポーツだったのだ。

ロバート・ホワイティング「アメリカ人は犠牲バントを好まない」@『東京人』2019年8月号


早大vs一高野球戦(1909=明治42年)
【早大vs一高野球戦(1909年=明治42)】
 いや、これ、おかしいでしょう?

 ほとんど間違いだらけだし、例によって、ホワイティング氏のステレオタイプと偏見に満ちた日本観・日本野球観が全開している。

ホワイティング氏の持説を1本1本折っていく
 [1]について……。明治初年に欧米人によって紹介された、チームで行う対戦型球技スポーツは野球だけではない。これについては、当ブログはしつこく説いてきた。

 サッカーなのかラグビーなのかはよく分からないが、1873~1874年(明治6~7)ごろ海軍兵学寮に「フットボール」が、クリケットなどのスポーツとともに紹介されている。また、1984年(明治7)ごろ、工部省工学寮(工部大学校)にサッカーが、クリケットなどのスポーツとともに紹介されている。

 つまり、ホワイティング氏の説明は正しくない。

 [2]について……。これも当ブログの前のエントリーで書いたが、アメリカ野球も最初から「パワー志向」で、「犠牲バント」(送りバント)を嫌っていたわけではない。タイ・カッブが大活躍していた昔は、大リーグも「スモールベースボール」(スモールボール)志向だった。



 せめてホワイティング氏は「ベーブ・ルース以降のパワー志向のアメリカ人選手」とか、昨今の「セイバーメトリクス≒ビッグボール以降のパワー志向のアメリカ人選手」と言うべきだったのではないか。

 つまり、ホワイティング氏の説明は正しくない。

 [3]について……。これは、ホワイティング氏のオトモダチのスポーツライター・玉木正之氏が、かねがね持説としていた「1対1の勝負説」である。日本人は集団やチームによる戦い(サッカーやラグビー)よりも、投手と打者の1対1の対決(野球)にスポーツの面白さを見出したのだ……という仮説。この仮説に対しても、当ブログはしつこく批判してきた。


 簡単に言えば、明治初年、日本に最初に入ってきた時の野球のルールは、現在と大きく異なっており玉木氏の「1対1の勝負説」は成り立たない。例えば、当時のルールでは、劇画「巨人の星」の物語も成り立たない。

 つまり、ホワイティング氏の説明は正しくない。

 [4]について……。ホワイティング氏が言わんとしているのは、日本人には、独特の「間」(ま)の文化というものがあるために、日本人はサッカーやラグビーのような時間制限の中で絶えず動き続けるスポーツではなく、野球のようなプレーとプレーの「間」があるスポーツが好まれたというものだ。ちょうど比較文学者・剣持武彦の『〈間〉の日本文化』という日本文化論の著作がある。

「間」の日本文化
剣持 武彦
朝文社
1992-06-01


 しかし、「間」のあるスポーツは何も野球だけではない。明治初年、野球とともに同じバット・アンド・ボール・ゲームである「クリケット」も日本に紹介されている。

野球
【野球(ベースボール)】

クリケット
【クリケット】

 ホワイティング氏も、玉木正之氏も、他の誰でも「なぜサッカーではなく野球だったのか」という「答え」は出してはみせる。しかし、「なぜクリケットではなく野球だったのか」という「答え」を、どの考察も出してはくれない。

 つまり、ホワイティング氏の説明は正しくない。

 [5]について……。端的に「国民性」がその国の人気スポーツを決定するという仮説は成り立たない。例えば、米国人のお雇い外国人教師が学生たちに野球を紹介しても、ついにそこには定着せずに消滅した開拓使仮学校(後の札幌農学校~北海道大学)の例が、池井優氏の著作『白球太平洋を渡る』などには紹介されている。

 ホワイティング氏は、自著『和をもって日本となす』(前掲)の参考文献に、野球評論家としても有名な池井優氏の『白球太平洋を渡る』を挙げている。しかし、こういった都合の悪い事実は無視している。

 つまり、ホワイティング氏の説明は正しくない。

精神の奴隷にさせる日本野球論
 それにしても、ホワイティング氏は、引用した短い文章の中だけでも、よくこれだけのデタラメを書けるものである。

 こうした歪んだ日本野球観は、日本人を「精神の奴隷」とさせる。

 これに抗うか、奴隷のままでいるかは、野球ファンにせよ、サッカーファンにせよ、けっこう重要な問題ではないかと考えてしまう。

(了)



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後藤健生さんの新説への評価と疑問
 2020年の東京オリンピックを1年後にひかえ、雑誌『東京人』は2019年8月号で「近代スポーツことはじめ」という特集を組んだ。

 この企画で、サッカージャーナリストの後藤健生さんが「発展の陰に、〈この人〉あり」「さきがけは、〈学校〉から」という、明治時代初期~中期の日本のスポーツ事情を紹介した記事が2本掲載されている(うち「さきがけは…」の方は東洋経済オンラインに転載されている,下記リンク先参照)。
  • 後藤健生「明治時代にスポーツを広めた〈欧米人〉の功績~外国人に大勝したのは東大前身の一高だった」2019/07/03
 これらの記事では、東京高等師範学校の中村覚之助のことを再評価したり、なかなか重要なことが指摘されてある。しかし、一方で首を傾げたくなるような記述もある。それは前回のエントリーで書いた(下記リンク先参照)。
前回のエントリーから
明治初期のスポーツに関する後藤健生説を検証する~『東京人』2009年8月号より(1/2)

 英国人より米国人の「お雇い外国人」教師の数が多かったから、日本ではサッカーより野球の人気が先行した…という後藤健生説は、どこまで妥当なのか?
 疑問を感じるのは、実はこの件ばかりではないのである。

なぜ,日本人は欧米人のスポーツに飛び入り参加できなかったのか?
 例えば、後藤健生さんはこんなことを述べている。
 ヨーロッパや南米諸国では、英国人たちがスポーツに興じていると、現地の市民が飛び入りで参加したり、自分たちで参加したり、自分たちでクラブを作ってスポーツを始めたりしたものだ。〔幕末・明治の日本でも外国人居留地で行われた欧米人のスポーツを見物する日本人はいたが〕日本人と欧米人では、歩き方や走り方すら違ったのだから、〔日本人が欧米人と〕一緒にスポーツを楽しむことは難しかったのだろう。

後藤健生「さきがけは、〈学校〉から」@『東京人』2019年8月号


 この仮説はどこまで妥当なのだろうか? 推量形で「…だろう」と結んでいるのだから、確証には乏しいのだろう(←あ,これも推量形だ)。

 例えば、横浜カントリー&アスレチッククラブという、1968年(明治元)創設の在日外国人のためのスポーツクラブがある。略称「YC&AC」、かつての通称を「横浜外人クラブ」という。このクラブは、自尊心が高くかつ日本人に対して排他的なところがある。最近は日本人でも会員になれるらしいが、しかし、それでもハードルは高い。

 YC&ACは以前から7人制ラグビーの大会を主催しているが、最近まで「犬と黄色人は立ち入り禁止」という差別的な看板があった、大会の観客は「使用人」扱いで一般来場者は裏口・勝手口から入るようになっていた……などという話が伝わっている。インチキラグビー評論家の中尾亘孝(なかお・のぶたか)が、自身のブログで書いている。
〈第52回YC&ACセヴンズ〉
ヨコハマ・カントリー&アスレティック・クラブは、
つい最近まで「横浜外人クラブ」と呼ばれていた、
非常にプライドの高い英国系スポーツ・クラブ。

ここ数年、「犬と黄色人立ち入り禁止」なんて、
看板こそありませんが、大会の観客は使用人扱い
一般来場者は裏口・勝手口から入るようになっていた。

で、我輩〔中尾〕は、大家さん〔誰?〕のお下がりであるニコンを手に、
証拠写真を撮ろうと思っていたわけですが、
なんと今年は普通に入れます!

中尾亘孝「セヴンズ中退の言い訳」2010年04月05日
http://blog.livedoor.jp/nob_nakao/archives/51419984.html


中尾亘孝(プロフィール付き)
【中尾亘孝とそのプロフィール】
 この話の信憑性については何とも言いかねるが、しかし、「日本人と欧米人の身体の動きの違い」以前に、「人種」的な問題として日本人は欧米人のスポーツに参加することができなかったのではないか。

 外国人居留地でも、同じアジアの中国、ベトナム、インドネシアなどの事情はどうだったのか。欧米人が楽しんでいるスポーツに現地のアジア人が「飛び入り参加」できたのか、できなかったのか。仮に後者なのだとしたら、それは「アジア人と欧米人の身体の動きの違い」の問題で参加できなかったのか。「人種」的な問題として参加できなかったのか。

 これらの点からも、この問題を検討・検証するべきではなかっただろうか。

日本人の「官費留学生」はスポーツをする余裕がなかったのか?
 あるいは、後藤健生さんは……後に文豪として有名になる森鴎外や夏目漱石といった「官費留学生」は学問に追われていてスポーツをやる余裕はなかったが、平岡熈(野球)が田中銀之助(ラグビー)といった「自費(私費)留学生」はスポーツに親しむ余裕があった……と「発展の陰に、〈この人〉あり」で書いている。

 しかし、幕末期に徳川幕府の命で、維新期に明治政府の命で、二度にわたって英国に留学した数学者の菊池大麓は、留学先のケンブリッジ大学でラグビーに親しんだと伝えられている。
  • 国立国会図書館「菊池大麓│近代日本人の肖像」
 他にも、明治初年、開拓使仮学校で米国人教師をウィリアム・ベーツとともに学生たちに対して野球の指導に当たった日本人、得能通要、大山助市、服部敬次郎の3人は、開拓使から米国に留学し、帰国した学生である(大島正建『クラーク先生とその弟子』、池井優『白球太平洋を渡る』参照)。


 この人たちの留学は公的な性格のものである。つまり、官費留学だからスポーツができなかった、自費留学だからスポーツができた……という説も、一概には決め付けられず、再検証・再検討の余地があるのではないか。

2021年=JFA日本サッカー協会創設100周年のために…
 とかく日本のスポーツ評論は、日本のスポーツ史に関して何か特殊な事情があったはずだと、性急に解答を求める傾向がある。しかし、そうした安易な「答え探し」などやめて、個々の事柄に関して緻密な検証を積み重ねていくことの方が大切ではないだろうか。

 例えば、日本に野球を定着させた平岡熈はどういう条件(契約?)で工部省鉄道局の土地を利用することができたのか? 日本サッカーの発展の基を築いた中村覚之助はどうやってボールやスパイクシューズを調達したのか?

 どこかで誰かが研究しているのかもしれない。こうした話は日本のスポーツ史を理解するために非常に重要だと思うのだが、しかし、なかなか一般のスポーツファンには伝わっこない。

 そのためか、巷間にはさまざま怪しい俗説が流通している(玉木正之氏とかw)。*
  • 玉木正之の「スポーツって、なんだ?」#15 日本で野球が人気なのはなぜ?
 再来年2021年の日本サッカー協会創設100周年を控え、後藤健生さんには、むしろ、そうした通念を打破する仕事をしてほしいのである。

(この項,了)



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後藤健生さんの新説
 なぜ日本では、世界中で人気があるサッカーの人気が出なかったのか? なぜ野球の人気が先行してしまったのか? ……という難問は、日本サッカー史における最大の「謎」である。……と同時に、昔から珍説・奇説の宝庫であった。

 最近、この分野に「参戦」してきた人に、サッカージャーナリストの後藤健生さんがいる。その内容は、以下のようなものである。
 サッカーやラグビーよりも早く日本中に普及し、強化も進んだのは米国生まれのスポーツ、ベースボール(つまり野球)だった。その理由の1つは、米国人教師が数多く日本にやって来たからだ。1869年〔明治2〕にスエズ運河が開通したとはいえ、ヨーロッパから極東の島国に至るには距離的にも経費的にも負担は大きかった。一方、米国ではスエズ運河と同じ69年に大陸横断鉄道が開通しており、列車でカリフォルニア州まで来てサンフランシスコから乗船すれば、比較的容易に日本に来ることができた。そのため、全国の中学校〔大学ではなく中等学校でよいのか?〕には多くの米国人教師が赴任し、彼らはちょうど近代的なルールが確立したばかりの野球を日本に伝えたのだ。

後藤健生「さきがけは〈学校〉から」@『東京人』2019年8月号


  • 参照:
 引用部分だけでなく、全体の文脈を見ても、後藤さんの書き方が少し曖昧なこともあって、いくつか「?」と思う箇所がいくつかある*が、それはひとまず措(お)く。疑問を感じるのは、明治時代の「お雇い外国人」、特に教師の国籍の数は米国人が(圧倒的に?)他国を、なかんずく英国人より本当に多かったのか? ……ということである。

「お雇い外国人」教師の国籍
 後藤健生さんの考えは、あたかも明治時代前半の「お雇い外国人」教師の数は、欧州よりも日本と地理的に近い、野球を国技とする米国人が(圧倒的に?)多い。一方、欧州人のお雇い外国人、特にサッカーやラグビー(またはクリケット)を国技とする英国人の教師は少なかった……かのようにも読める。

 実際はどうだったのか。この件に関しては、歴史学者・故梅渓昇(うめたに・のぼる)氏の『お雇い外国人~明治日本の脇役たち』(講談社学術文庫)という優れた著作がある。この本に掲載された「お雇い外国人」に関するの統計に目を通してみた。

 詳しくは本に当たってほしいが、官費雇用の「お雇い外国人」の国籍で米国人の数が抜きんでて多かったことはない。むしろ、英国人の方が全体で圧倒的な多数を占めている。ただし、その内訳で多いのは工部省の雇いの技術者ではある。

 それでは教師の数はどうか? 梅渓氏の著作を参考にから文部省雇いの「お雇い外国人」を国籍別で表してみた(以下の表を参照)。文部省雇いの「お雇い外国人」の職務は、ほぼ「大学」の「教師」であると推定できるからである。

文部省「お雇い外国人」の国籍(単位:人)
  アメリカ イギリス フランス ドイツ その他
1872年(明治5) 6 5 4 8 1 24
1874年(明治7) 14 25 10 24 17 90
1879年(明治12) 14 7 5 12 12 50
1885年(明治18) 2 11 2 9 2 26
計(延べ人数) 36 48 21 53 32 190
梅渓昇『お雇い外国人』(講談社学術文庫)第4章より作成

 この表を見ても、米国人の数が英国人の数より多いとは言えない。参考までに出してみた「延べ人数」の合計では、米国人の数は、英国人の数よりも少なく、同じ欧州のフランスやドイツなどを加えた全体の比率では2割に満たない。**

 梅渓氏の著作にも書いているのだが、「お雇い外国人」が日本と母国を往来する際の交通費は、当然、日本側が負担している。明治政府が金をケチったために、「お雇い外国人」の国籍が、英国・ヨーロッパよりも米国が多かったという話は無い。

 いずれにせよ、「お雇い外国人」教師の数が、米国人の方が、英国人よりも多かったので、日本ではサッカーよりもラグビーの人気が出たという後藤健生氏の仮説は、成り立たないのではないか。

ベーツ先生とその弟子たち
 明治初期、米国人の「お雇い外国人」教師が日本人の学生に野球を教えても、全く定着しなかった実例がある。明治6年頃(1873)頃、北海道大学の前身に当たる開拓使仮学校で、米国人教師アルバート・G・ベーツが、日本人の学生たちに野球を教えた例である。

 この辺の事情は、後藤健生さんが大学・大学院時代に学恩のある、野球評論家でも有名な政治学者・池井優さん(いけい・まさる:慶應義塾大学教授,外交史ほか)の『白球太平洋を渡る』が紹介している。


 それは、開拓使仮学校(後の札幌農学校~北海道大学の)で学んだ伊藤一隆(中川翔子の高祖父としても知られる)の回想として、大島正建著『クラーク先生とその弟子たち』(何度も復刻されている名著,クラーク博士の「少年よ,大志を抱け」という言葉の元ネタ)に登場する逸話である。あえて孫引きなのは意図的なものである。
 明治6年(1873)頃、まだ東京にあった開拓使仮学校に、アルバート・G・ベーツという米国人の英語教師がやってきた。彼は好球家で、1本のバットと3個のボールも持参してきた。生徒たちを2チームに分け、野球の試合をさせたが、選手の〔日本人〕生徒たちは、ルールや技術の要点をなかなか理解できず、ベーツは苦心した。

 幸いにも、開拓使から米国に留学させていた開拓使仮学校の生徒3人、得能通要、大山助市、服部敬次郎が帰国して、彼らの指導によって野球の試合も少しは様になるようになった。そのうち、ボール2個が破損してしまった。代用品のボールは日本の靴工場で、バットは棒屋で作らせたが、出来ばえは不完全だった。だから、実際に野球の試合をするには苦心した。

 やがてベーツが注文した野球道具が届き、生徒たちの士気も上がった。しかし、ベーツは来日2年足らずで急死してしまい。生徒たちの野球熱も消えてしまった。

池井優『白球太平洋を渡る』5~8頁より大意・要約


 道具の調達がうまくいかなかったこと、米国人「お雇い外国人」教師ベーツの急死が、開拓使仮学校での野球普及が挫折した主な理由である。

球技スポーツが日本に定着するセオリーとは?
 とにかく、米国人の「お雇い外国人」教師が英国のそれより多かったから、日本ではサッカーより野球の人気が出た……と、いう理由ではなさそうである。

 開拓使仮学校の逸話からは、ある国(少なくとも日本で)で特定の球技スポーツを「普及」させるための仮説や経験則がいくつか導き出せる。
  •  たとえ野球であっても(むろんサッカーでも)、外国人が持ち込んで現地の人たち(日本人たち)にちょっとプレーさせてみたくらいでは、現地の人たちがその球技スポーツの面白さを理解することはない。したがってその国には「普及」しない。
  •  ボールやバットなど、そもそも道具が揃わないと、その球技スポーツ自体ができない。本物がない場合は地元で代用品を作ることになるが、出来が悪いと「普及」に支障が出る(付け足すと,その球技をプレーできる広い「土地」も必要になる)。
  •  熱心な指導者がいて継続的に活動しないと、その球技スポーツは「普及」しない。その人に任期が来て帰国したり、客死したりすると「普及」活動が後々まで続かない。
 以上の仮説は、当ブログの独創ではない。神戸市外国語大学の元教授(スポーツ学)で日本クリケット協会会長・山田誠さんの論文「ニューカレドニアンクリケットの研究-2-」に登場する話である。
  • 参照:
 山田誠さんは、野球やサッカーと同じく明治初期に紹介されながら、一度は廃れてしまった英国の球技「クリケット」(野球と同じ系統のバット・アンド・ボール・ゲーム)を、あらためて日本で普及させようという、近年まれに見る実践を行った人である。

日本国某所で行われた「クリケット」の練習風景(2019年)
【日本国某所で行われた「クリケット」の練習風景(2019年)】

 それだけに、後藤健生氏や、あるいは玉木正之氏やロバート・ホワイティング氏の「仮説」よりも強い説得力がある。

スポーツの普及は日本人自身の働きかけによるもの
 使用に耐えうる「道具」の調達と、充分な広さをもった「土地」の確保と、普及に熱心な「指導者」の存在と、3つの物理的条件が揃えて、サッカーよりもラグビーよりも先行して日本に野球を普及させたのは、米国人ではなく日本人である。すなわち、明治11年(1978)から明治20年(1887)頃にかけて、「新橋アスレチック倶楽部」を創設して野球の伝統に努めた平岡熈(ひらおか・ひろし)である。

 この件についてはいろいろ書いてきたから、ここでは繰り返さない(下記のリンク先を参照いただければ幸甚である.もっとも後藤健生氏によると平岡熈は公費留学ではなく私費留学だそうで,その辺の当ブログの思い違いは寛恕を請い願うものであります)。
  • 参照:
 野球にせよ、サッカーにせよ、ラグビーにせよ、その歴史を検証してみると、日本に定着したのは、単なる「お雇い外国人」による紹介ではなく、日本人による主体的な働きかけによるものなのは、とても興味深い。

 すなわち、サッカーにおいては東京高等師範学校(東京高師,後の筑波大学)の中村覚之助であり(下記リンク先を参照)、ラグビーにおいては慶應義塾のエドワード・B・クラークと田中銀之助。ちなみにE・B・クラークは「お雇い外国人」ではなく「在日英国人」である。
  • 参照:
 「お雇い外国人」の紹介であろうと、日本人の紹介であろうと、物理的な条件な揃わないと、その球技スポーツは普及・定着することはないと……書いた。例えば「土地」の確保についてはどうだろうか? 野球、サッカー、ラグビー、三者三様、けっこう手間暇がかかっているのである。

野球=品川,サッカー=大塚,ラグビー=麻布,それぞれの出発点
 野球に関しては、「新橋アスレチック倶楽部」の平岡熈が、奉職先の工部省鉄道局の八ツ山下(東京・品川)の車庫のそばに「保健場」と名付けられた専用グラウンドを持っていたことが知られている(池井優『白球太平洋を渡る』20頁)。

 おそらく平岡本人の私有地ではなかったであろうし、何がしかの条件で(契約で?)使用させてもらった(工部省鉄道局から?)であろう。従来の日本野球の黎明史には、こうした瑣末ではあるが、しかし重大な事情が伝えられることはない。学界のスポーツ史学やスポーツ社会学が、この辺の分野に未開拓なのだとしたら、非常に残念な話である。

 サッカーの場合、雑木雑草に埋められていた東京・大塚の新運動場の予定地を、中村覚之助と東京高師のサッカー部員たちと整地した(下記リンク先参照)。
  • 参照:
  • 参照:
 白線を引くための石灰が手に入らなかったので、フィールドに棕櫚縄(しゅろなわ)を張り、ゴールを立ててサッカーの練習を開始したとある。そして1904年(明治37)に横浜の外国人クラブと日本初の対外試合を行う。この様子が新聞で全国に紹介されたら、全国の中等学校からサッカーの指導依頼が来て、東京高師の部員が各地に指導のために出張したという話が伝わっている。

 最後にラグビーになるが、ラグビー史研究家・秋山陽一氏のWEBサイト、旧「日本フットボール考古学会」には、「E・B・クラークが慶應義塾の学生(塾生か?)にラグビーやクリケットを教え始めるが,試合ができるような体制になるのは,東京・麻布の〈仙台ヶ原〉という土地にグラウンドを移してからのこと」と紹介されていた(下記リンク先参照)。
 佐山一郎氏は、ラグビーにはサッカーにはない「相撲のぶちかましの要素」があるから、同じフットボールでもサッカーよりもラグビーの方が「日本人」の感性にかなっており、だから、長らく日本ではサッカーよりラグビーの人気が高かった……などと語っている(佐山一郎『日本サッカー辛航紀』より)。

 しかし、日本ラグビー伝来の時点で慶應義塾が「仙台ヶ原」に土地を持っていて、ラグビー部(蹴球部)に使わせなかったら、ラグビーはサッカーより普及が遅れていたかもしれない。

「なぜ…を問う」から「いかに…を問う」べきである
 明治時代の日本において、野球の人気がサッカーやラグビーに先行したことは、歴史の偶然であり、必然ではない。

 従来の所説は、明治初期にさまざまなスポーツが、ほぼ同時期に日本に紹介された。その中で、野球だけが突出した人気を得たために、それは「なぜ」なのか? そこに何か日本固有の理由があるに違いない。……という視点が多かった。

 しかし、クリケットを研究・実践する山田誠さんの仮説のように、スポーツの普及には「道具」「場所」「指導者」の3条件の充足が重要であるという仮説から、野球やサッカー、ラグビーが「いかに」日本に定着してきたのか? ……という視点で歴史を振り返ってみると、この3競技の日本への本格的な紹介は必ずしも同時期ではなかった、だいたい「野球」と「サッカー,ラグビー」で四半世紀の時代的なズレがあったことが分かる。

 「なぜ」野球だったのか? 「なぜ」サッカーではなかったのか? ……ではない。

 バットやボール、スパイクシューズを「いかに」調達したか? 野球やサッカーやラグビーを行うフィールドを「いかに」確保したか? 整地したか? 野球もサッカーもラグビーも、その知識がゼロの人たちに、どんな人は「いかに」指導をしていったのか?

 こうした、細かい事実の「いかに」を洗い出す、地道な実証的研究を積み重ねていくことで、日本のスポーツ文化の全体像が本当の意味で理解できるだろう。

 この点では、後藤健生さんの新説(仮説)もまた厳しく審査されなければならない。

(2/2につづく)



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スーパーラグビー日本撤退と日本サッカー史
 あるサッカーライター氏(名前は失念)が「サッカーで言えば,ほぼほぼ日本代表の特別なクラブチームを結成して欧州チャンピオンズリーグに参加させてもらうようなものだ.とってもうらやましい!」と語っていた、日本のラグビーチーム(サンウルブズ)による国際リーグ「スーパーラグビー」への参戦が、主に金銭的な問題と言われているが、2021年以降、撤退させられることになってしまった。残念なことである。

 Jスポーツ(J SPORTS)のウェブサイトに、この件について解説するコラムが掲載されていた。当ブログは、てっきり、博識で知られるラグビー評論界の大御所・小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)さんが執筆しているのかと思ったら、実は、これまた博識で知られるサッカー評論界の重鎮・後藤健生(ごとう・たけお)さんが書いていたのだった(下記ツイッターのリンク先参照)。


 後藤健生さんは、国を跨(また)いだ、海を隔てた、広大な地域を包括するスポーツの国際リーグの運営、特に日本のチームの参加は難しいという話をしている。その本題はひとまず措(お)いて、今回、当ブログが後藤さんのコラムに言及するのは、そこに気になる記述を見つけたからである。
 日本のスポーツ界にとって、スポーツの本場であるヨーロッパ〔欧州〕から遠いという地理的な条件は明治時代以来大きなハンディキャップだった。交通機関が発達した現在でも、これからも大きな課題であることに変わりはない。

 太平洋を隔てた北アメリカ〔アメリカ合衆国=米国〕生まれのベースボール〔野球〕というスポーツが日本に根付いたのも、ヨーロッパに比べて比較的近いため、明治の初めにアメリカ人の語学教師が数多く日本に渡ってきて、日本人学生に彼らが愛するベースボールを教えたからだと言われている。それに引き換え、サッカー、ラグビーなどヨーロッパ生まれのスポーツは本場との交流がとても難しかったのだ。

 日本サッカー史における最大の謎が「なぜ,日本ではサッカーが国民的スポーツになれずに,野球(ベースボールと呼ばなきゃならんのかw)に出し抜かれてしまったのか?」という問題である。後藤健生さんは、その「解答」を「日本と欧州,日本と米国の地理的な隔たりの差」、その差に由来する「米国人お雇い外国人教師の数の多さ」(?)に求めたのである。

「日本における野球人気の謎」をめぐる珍説・奇説
 この「謎」は、昔から珍説・奇説の宝庫であり、特に「野球は日本人の歴史的・文化的背景に適っていた.しかし,サッカーはそうではなかった」といった文化論・日本人論に傾きやすい。最近では、あの玉木正之サンがその系統の「1対1の勝負説」(牛木素吉郎さんの命名による)とでも呼ぶべき持説を、一生懸命になって吹聴している(下記ツイッターのリンク先参照)。


 その上で、玉木サンは、サッカー日本代表が弱い(?)のも、Jリーグがプロ野球に人気で勝てない(?)のも、すべて「日本人」とサッカーとの歴史的・文化的な致命的な相性の悪さためであるという話を展開するのである。

 しかし、この玉木サンは持説は、徹底的に間違っている。間違っているから、徹底的に批判した(下記ツイッターのリンク先参照)。



 後藤さんの持説(?)は、玉木サンの持説よりはマシに読める。だが……。

お雇い外国人教師の国籍は?
 例えば、後藤健生さんの言い分は、あたかも明治初期のお雇い外国人教師は、欧州よりも日本と地理的に近い、野球を国技とする米国人が(圧倒的に?)多い。一方、欧州人のお雇い外国人、特にサッカーやラグビー(またはクリケット)を国技とする英国人の教師が少なかったかのようにも読める。

 実際はどうだったのか。ためしに歴史学者・故梅渓昇(うめたに・のぼる)の『お雇い外国人~明治日本の脇役たち』掲載の統計に目を通してみた。

 お雇い外国人は、当時の日本政府の各省に存在したが、注目したのは「文部省」のお雇い外国人、特に米国人と英国人の数の違いである。この人たちの多くは、現在の大学もしくはそれに準じる学校の教師である。当時の「大学」は西洋からスポーツを受け入れる窓口だった。そのお雇い外国人の国籍を調べれば、後藤さんの持説がどこまで妥当か、ある程度、推し量ることができる。

 それを見る限り、明治初めから明治20年(1887)前後までの「お雇い外国人教師」の国籍別人数は、異動が多かったのか、一定しない(その分,じっくり腰を据えてスポーツの指導ができたかどうかは怪しい)。また、時期によって英国人が多かったり、米国人が多かったりする。米・英のみならず、フランス人、ドイツ人まで含めると、明治時代前半期を通じて、米国人のお雇い外国人教師が特別に多かったとは言えない。

 明治18年(1885)年の統計にいたっては、英国人11名(ちなみにドイツ人は9名)に対し、米国人はたったの2名である。この時期は、テレビドラマ『坂の上の雲』で描かれたたように、正岡子規が野球に熱中していた。考えてみれば不思議な話ではないか。

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 こうした、いくつかの情報から類推するに、後藤さんが仄(ほの)めかしている「明治の初めにアメリカ人の語学教師が数多く日本に渡ってきたために,日本ではサッカーやラグビーよりも野球の人気が出た」……という見解にも、納得しかねるものがある。

途絶えた日本野球の系譜
 それでは、米国の野球と英国のサッカー、日本のおける展開の決定的な差は何だったのか? 視点を変えてみた。

 一般に、日本への「野球伝来」と「サッカー伝来」は、以下のように紹介される。
  1. 明治5年頃(1872)、現在の東京大学に当たる学校で、米国人教師ホーレス・ウィルソンが、日本人の学生たちに野球を教えた。
  2. 明治6年頃(1873)頃、北海道大学の前身に当たる開拓使仮学校で、米国人教師アルバート・G・ベーツが、日本人の学生たちに野球を教えた。
  3. 明治6年頃(1873)、海軍兵学校の前身・海軍兵学寮で、英国海軍のアーチボルド・L・ダグラス少佐(中佐とも)と将兵が、日本人の学生たちにサッカーを伝えた(ラグビー史研究家・秋山陽一氏が唱えるラグビー説もあり)。
  4. 明治6年頃(1873)、東京大学工学部の前身に当たる工部省工学寮という学校で、英国人教師のリチャード・ライマー=ジョーンズ(ヘンリー・ダイアーとも)が、日本人の学生たちにサッカーを教えた。
 1~2年の誤差は措(お)くとしても、日本で、日本人の間で人気が出たのはサッカーではなく野球の方だった。それはなぜか? ……「謎」に答えるべく、実にさまざまな人が、実にさまざまな珍説・奇説を唱えてきた(下記ツイッターのリンク先参照)。


 ところで。1.~4.までのうち、現在の日本に存在する野球またはサッカーと、直接、系譜がつながっているのは、どれとどれでしょう? 答えは「1.」だけである。3.と4.のサッカーが途絶えてしまったことはともかく、2.の野球伝来の系譜が、日本人が心底大好きなはずの野球が途絶えてしまっていたとは、一体どういうことなのか?

ベーツ先生とその「不肖なる」弟子たち
 この辺の事情は、後藤健生さんが大学・大学院時代に学恩のある、野球評論家でも有名な政治学者・池井優さん(いけい・まさる:慶應義塾大学教授,外交史ほか)の『白球太平洋を渡る』が紹介している。


 それは、開拓使仮学校(北海道大学の前身)で学んだ伊藤一隆(中川翔子の高祖父としても知られる)の回想として、大島正建著『クラーク先生とその弟子たち』(何度も復刻されている名著)に登場する逸話である。あえて孫引きなのは意図的なものである。
 明治6年(1873)頃、まだ東京にあった開拓使仮学校に、アルバート・G・ベーツという米国人の英語教師がやってきた。彼は好球家で、1本のバットと3個のボールも持参してきた。生徒たちを2チームに分け、野球の試合をさせたが、選手の〔日本人〕生徒たちは、ルールや技術の要点をなかなか理解できず、ベーツは苦心した。

 幸いにも、米国に留学していた開拓使仮学校の生徒3人が帰国して、彼らの指導によって野球の試合も少しは様になるようになった。そのうち、ボール2個が破損してしまった。代用品のボールは日本の靴工場で、バットは棒屋で作らせたが、出来ばえは不完全だった。だから、実際に野球の試合をするには苦心した。

 やがてベーツが注文した野球道具が届き、生徒たちの士気も上がった。しかし、ベーツは来日2年足らずで急死してしまい。生徒たちの野球熱も消えてしまった。

池井優『白球太平洋を渡る』5~8頁より大意・要約

 道具の調達がうまくいかなかったこと、米国人お雇い外国人教師ベーツの急死が、開拓使仮学校(北海道大学)からの野球普及が挫折した主な理由である。

球技スポーツが日本に定着するセオリーとは?
 この逸話からは、ある国(少なくとも日本で)で特定の球技スポーツを「普及」させるための仮説や経験則がいくつか導き出せる。
  •  たとえ野球であっても(むろんサッカーでも)、外国人が持ち込んで現地の人たち(日本人たち)にちょっとプレーさせてみたくらいでは、現地の人たちがその球技スポーツの面白さを理解することはない。したがってその国には「普及」しない。
  •  ボールやバットなど、そもそも道具が揃わないと、その球技スポーツ自体ができない。本物がない場合は地元で代用品を作ることになるが、出来が悪いと「普及」に支障が出る(付け足すと,その球技をプレーできる広い場所も必要になる)。
  •  熱心な指導者がいて継続的に活動しないと、その球技スポーツは「普及」しない。その人に任期が来て帰国したり、客死したりすると「普及」活動が後々まで続かない。
 ある球技スポーツが全国的に普及するためには、使用に耐えうる「道具」と、充分な広さに「場所」と、伝道に熱心な「指導者」と、3つの物理的条件が揃ったうえで、現地の人たちが「面白さを理解」させることが必要だという仮説は、当ブログの独創ではない。神戸市外国語大学の元教授(スポーツ学)で日本クリケット協会会長・山田誠さんの論文「ニューカレドニアンクリケットの研究-2-」に登場する話である。
 山田誠さんは、野球やサッカーと同じく明治初期に紹介されながら、一度は廃れてしまった英国の球技「クリケット」(野球と同じ系統のバット・アンド・ボール・ゲーム)を、あらためて日本で普及させようという、近年まれに見る実践を行った人である。

日本国某所で行われた「クリケット」の練習風景(2019年)
【日本国某所で行われた「クリケット」の練習風景(2019年)】

 該当論文は、学術誌の査読を通ったものではなく、紀要論文ではある。が、日本人は全く知らない球技スポーツを、ゼロから普及させようとした活動から抽出された仮説であるから、玉木正之サン(や後藤健生さん)の持説よりはずっと具体的で、説得力がある。

 何より重要なことは……。
  • その国の人たちの「歴史的・文化的な背景」と、その球技スポーツが持つ「本質」との「相性」から、その国の人気スポーツが決定されるわけではない。
 ……と、いうことである。

平岡熈の業績をあらためて評価する
 逆に言うと、1.の事例だけが前述の条件を満たしていた。だから、日本では、サッカーやラグビーに先駆けて野球が普及したのである。米国人教師ホーレス・ウィルソン自身は明治10年(1877)に帰国してしまう。だが、だいたい同時期、入れ替わるように米国留学から帰朝した、鉄道技術者の平岡熈(ひらおか・ひろし)が、新たな「指導者」として日本における野球の普及を引き継いだからである。

 平岡熈。明治4年(1871)に16歳で米国留学。留学中は鉄道技術者として勉学に励む。同時に野球にも傾倒して、プロ化が進んでいた米国の最先端の野球を吸収するとともに、米国人の元プロ野球選手で、スポーツ用品メーカー「スポルディング社」を創設するアルバート・G・スポルディングとも知遇を得た。

 明治10年(1877)、米国留学から日本に戻る。帰国早々、東京の練兵場などで、ホーレス・ウィルソンから野球を教えられた「東京大学」の学生や人士たちと野球に興じる。翌明治11年(1987)、平岡は鉄道技術者として工部省(官営鉄道)に出仕する。平岡はそこで野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成する。

 ルールブックなどの情報や、バットやボールなどの「道具」は、友人である「スポルディング社」のスポルディングが、米国から無償で提供してくれた。プレーする「場所」としては新橋鉄道局構内に「保健場」という専用の野球場も作り、そろいのユニフォームを仕立てた。

 平岡熈と「新橋アスレチック倶楽部」の活動期間は、明治11年(1978)から明治20年(1887)頃にかけて。その交流の中から、野球の面白さに目覚めた学生たちが増えた。その1人が例の正岡子規である。そして現在の東京大学、慶應義塾、明治学院、青山学院、立教大学、一橋大学に「野球部」が設立された。その後、さらに全国に野球人気が拡散した。
 野球がたんに少数のお雇い外国人教師の紹介に終わっていたら、ここまで発展したかどうか。平岡(熈)による再紹介と、将来日本のリーダーの地位を約束されている開成学校〔東京大学〕生徒と旧大名などの理解と関心、さらには体操伝習所〔筑波大学の前身のひとつ〕で学んだ教師の卵たちが全国各地の小、中学校に赴任したことも初期の野球の国内伝播に有力な役割を演じたのである。

池井優『白球太平洋を渡る』26頁


野球人・正岡子規
【野球のユニフォームを着用した正岡子規】
 少々意外なことに、後藤健生さんと違って、池井優さんは、お雇い外国人による野球の紹介よりも、日本人の平岡熈による再紹介の方を高く評価していたのである。

野球とサッカー,偶然か必然か…
 一方、同時期のサッカー(アソシエーション・フットボール)は、野球のような普及のための条件には恵まれていなかった。先に書いたように海軍兵学寮や工部省工学寮の「フットボール」は後が続かず途絶えたし、サッカーも紹介されていたという体操伝習所には、詳しい指導書や、平岡熈のような本格的な指導者が存在しなかった。

 日本においてサッカーの普及がようやく軌道に乗り始めるのは、明治35年(1902)、東京高等師範学校(東京高師,筑波大学の前身)学生で、にフートボール部(蹴球部)の中村覚之助(なかむら・かくのすけ)が洋書『アッソシェーション・フットボール」を邦訳したあたりからだ。

 中村覚之助こそが明治時代の日本サッカーの画期となった人物で、その果たした役割りは、野球における平岡熈に相当する(下記リンクを参照)。
 平岡熈と中村覚之助、野球とサッカーで、日本における創始はおよそ25年の開きがある。

 平岡熈が米国留学で鉄道技術者を志したのは偶然によるものである。初めから鉄道技術者として留学させるつもりであれば、日本の官営鉄道は英国式を採用していたから、英国に留学していたはずだ。だから、米国の球技「野球」になじむということありえない。

 また、帰朝後の平岡熈が官営鉄道に出仕し、ここで「新橋アスレチック倶楽部」を主宰して野球をプレーできたことも幸いした。不足しがちなバットやボールは鉄道車両の部品の古いものを用い、鉄道工場で改造して代用品を作り出すことができた。彼の奉職先が官営鉄道でなかったら、こうした代用品で「道具」を調達することは難しかった。

 こういった好条件は、日本人の歴史的・文化的背景の宿命ではないし(玉木正之説)、地球上で日本列島が置かれた地理的なハンディキャップ(後藤健生説)でもない。

 明治日本において、野球の人気がサッカーやラグビーに先行したことは、歴史の偶然であり、必然ではない。

「なぜ…を問う」から「いかに…を問う」へ
 従来の所説は、明治初期にさまざまなスポーツが、ほぼ同時期に日本に紹介された。その中で、野球だけが突出した人気を得たために、それは「なぜ」なのか? そこに何か日本固有の理由があるに違いない。……という視点が多かった。

 しかし、クリケットを研究・実践する山田誠さんの仮説のように、スポーツの普及には「道具」「場所」「指導者」の3条件の充足が重要であるという仮説から、野球とサッカーが「いかに」日本に定着してきたのか? ……という視点で歴史を振り返ってみると、両者の日本への本格的な紹介は必ずしも同時期ではなかった、だいたい四半世紀の時代的なズレがあったことが分かる。


 また、野球にせよ、サッカーにせよ、お雇い外国人教師の紹介から一気に普及したということはない。実は「日本人」の意志的な働きかけが一段階絡んでから、初めて普及する。野球の平岡熈、サッカーでは中村覚之助が相当する。

 この点はラグビーもまた然りで、日本人実業家の田中銀之助とともに、日本の慶應義塾にラグビーを伝えたと言われるエドワード・B・クラークは、実は横浜の外国人居留地の生まれと育ち。生活も永眠も日本の「在日英国人」で、ホーレス・ウィルソンやアルバート・ベーツのようなお雇い外国人教師ではない。

 「なぜ」野球だったのか? 「なぜ」サッカーではなかったのか? ……ではない。

 バットやボール、スパイクシューズを「いかに」調達したか? 野球やサッカーやラグビーを行うフィールドを「いかに」確保したか? 整地したか? 野球もサッカーもラグビーも、その知識がゼロの人たちに、どんな人は「いかに」指導をしていったのか?

 ……こうした、細かい事実の「いかに」を洗い出す、地道な実証的研究を積み重ねていくことで、日本のスポーツ文化の全体像が本当の意味で理解できるだろう。

 いずれにせよ、玉木正之サンが再三力説しているような珍説・奇説の類は駆逐されなければならない。

(了)



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日本は断じて野球の国である,サッカーの国ではない!?
 スポーツライター・玉木正之氏は、春陽堂書店のWEBサイトで「日本で野球が人気なのはなぜ?」という、氏の根本教義とも言うべき究極のネタを書いている。
玉木正之の「スポーツって、なんだ?」#15 日本で野球が人気なのはなぜ?
2020年の東京オリンピックに向けて、スポーツを知的に楽しむために──
数多くのTV番組に出演し、多岐に渡って活躍するスポーツ評論家の玉木正之さんが、文化としてのスポーツの魅力を解き明かす。
第15回では、西洋から日本に伝わったスポーツのなかで、なぜ野球が人気を得たのか、その歴史的・文化的背景に迫ります。
(詳細は下記ツイッターのリンク先参照)



 要するに、玉木正之氏は、野球は日本人の「歴史的・文化的背景」に適していた。しかし、サッカーは適していない。サッカー日本代表が弱い(?)のも、Jリーグがプロ野球に人気で勝てない(?)のも、そのせいだ……ということが主張したいのである。

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【玉木正之氏】

 こんなことを言われると、多くのサッカーファンはビビってしまう。しかし、心・配・御・無・用! 玉木説は全部デタラメなので、簡単かつ徹底的に批判できる。

玉木正之説の総括,批判,あるいは超克
 玉木正之氏の「日本で野球が人気なのはなぜ?」は、間違いだらけで、あまりにも内容が粗雑だったので、当ブログで反駁しようと思い立った。最初は小ネタのつもりだったが、その問題点を全て論(あげつら)っていったら、前回のエントリーまでで実に4回にも及んだ。その内容を復習してみる。
玉木正之氏「日本で野球が人気なのはなぜ?」の間違いの数々
  1. 明治初期、欧米からあらゆるスポーツ競技が日本に紹介されたが、日本人の間で瞬(またた)く間に圧倒的な人気を獲得したのが「野球」だった間違い玉木正之氏「日本で野球が人気なのはなぜ?」に反論する(1)2019年03月10日
  2. 日本人は数字や記録が好きで、打率・本塁打数・打点・勝利数・防御率など、多くの数字や記録が並ぶ「野球」が日本人には理解しやすかった間違い玉木正之氏「日本で野球が人気なのはなぜ?」に反論する(2)2019年03月14日
  3. 野球は「スポーツ」ではなく「ドラマ,演劇」として鑑賞することができ、「スポーツ」よりも「ドラマ」に感情移入しやすい日本人には野球が適していた間違い玉木正之氏「日本で野球が人気なのはなぜ?」に反論する(3)~虫明亜呂無を疑う_2019年03月19日
  4. 日本人は元来「チームプレー,団体戦」よりも「1対1の対決」を好む。サッカーの「11対11」またはラグビーの「15対15」の「チームプレー」よりも、投手vs打者の「1対1の対決」である野球の方に日本人の関心が集まった間違い玉木正之氏「日本で野球が人気なのはなぜ?」に反論する(4)2019年03月21日

玉木正之の「日本で野球が人気なのはなぜ?」画像
【玉木正之氏「日本で野球が人気なのはなぜ?」より】
 ……と、よくもまあ、短いたった1本のコラムで、こんなにデタラメが(4つも!?)続くものである。だからこそ「日本で野球が人気なのはなぜ?」は、玉木正之氏の「スポーツ学」(学?)の、あるいは「玉木正之真理教」の根本教義なのであるが。

 そして、だからこそ当ブログは、読者=サッカーファンや野球ファン、その他のスポーツファンを、その洗脳(マインドコントロール)から解かなけれなならない。

 どうしたって玉木正之説は間違っている。嘘である。デタラメである。

「日本人は=団体闘争が苦手」と説く河内一馬氏への疑問
 事あるごとに日本人は元来チームプレー・団体戦が苦手だと附会(ふかい)してきた玉木正之氏。これを批判してきて、あるサッカー人を連想してしまった。「日本人アスリートは〈団体闘争〉が苦手」が持論の、河内一馬氏である(下記ツイッターのリンク先を参照)。



 明言しておくと、2018年12月18日、日本のスポーツ居酒屋て開催された、宇都宮徹壱氏主催のトークライブで、河内一馬氏が展開したのは、サッカーの評論、スポーツの評論ではない。「日本人論・日本文化論」の亜種、森田浩之氏(スポーツメディア研究など)が指摘するところの「サッカー日本人論」または「スポーツ日本人論」である。

 河内一馬氏も、河内氏に共感している宇都宮徹壱氏も、あるいは玉木正之氏も「サッカー日本人論」または「スポーツ日本人論」という「魔窟」(まくつ)にドップリ浸かっている。しかし、平たく言うと「日本人論・日本文化論」または「サッカー日本人論・スポーツ日本人論」はデタラメの羅列である。

 河内一馬氏は「〈団体闘争〉でメダルがなかったリオ五輪」と言う。しかし、その4年前の2012年のロンドン五輪の時は、真壁昭夫氏(エコノミスト,法政大学大学院教授)が「日本人は(この場合は良い意味で)集団主義で,ロンドン五輪でも個人競技よりも団体競技で成果を出した」などと語っていた(下記リンク先参照)。
 なかんずくスポーツにおいて「日本人は○○○○」という議論は、かくもいい加減で、かくも恣意的で、かくもテキトーなのである。河内氏と真壁氏、どっちがどっちもいうよりも、どっちもどっちなのである。

 みんな、思いつきの立論でしかないことが問題なのだが、日本人論の通念・通説の鋭利な批判者である社会学者のコンビ、杉本良夫氏とロス・マオア氏は、著書『日本人論の方程式』の中で、この点を批判している。
 いずれにしても〔…〕その度合いが日本より高いか早いかという問題は、系統的に収集された実証的データを基にして解かれるべきであって、恣意的に選ばれた逸話や言語表現〔あるいは個人的な実感や体験〕の集積だけでは、結論にたっすることはむずかしい。

杉本良夫とロス・マオア『日本人論の方程式』185頁


 例えば、オリンピックにおける「日本人」の個人競技/団体競技の得意・不得意をテーマとする場合。個人競技や団体競技について明確な定義する。単純な獲得メダル数ではなく有意な数値に変換する。その数値を主要な五輪出場国と比較する。さらに、それを直近の5大会ぐらいは比較してみる。

 思いついた限りだが、このくらいはやって、綿密に検証してから、かつ本当にそれが本当ならば「日本人は〈団体闘争〉が苦手」と結論付けてほしい。河内氏は、これは「科学」ではありません、あくまで「芸術としてのサッカー論」ですなど、逃げてはいけない。

故平尾氏誠二氏と河内一馬氏による思想的リングワンダリング
 まず、確認しておきたいことは、河内一馬氏をトークイベントに招いた宇都宮徹壱氏は、どうやら「サッカー日本人論」に対するリテラシーが低いらしいということである。後藤健生氏、小田嶋隆氏、藤島大氏、森田浩之氏らが一定程度には備えているそのリテラシーが、宇都宮氏には欠落している……らしい。

 もっとも、宇都宮氏の師匠筋にあたる佐山一郎氏が、「サッカー日本人論」をチッソ水俣工場並みに垂れ流してきたデマゴーグだったから、まったく驚くに値しないことなのかもしれないが。そのことを念頭において、河内氏と宇都宮氏の対話を見ていく。
■すぐに怒る欧米人と感情表現が苦手な日本人
──〔…〕これまでにも「日本人はなぜサッカーに向いていないのか?」という議論になったときに、〔…〕やれ「日本人は農耕民族だから」といった抽象的な議論ばかりだったように思います。ところが河内〔一馬〕さんはサッカーに限定せず、まずスポーツをいくつか分類した上で「日本人はなぜ『団体闘争』が苦手なのか」という問題提起をしたところに新しさを感じます。それにしてもなぜ、こうした発想に至ったのでしょうか?〔聞き手:宇都宮徹壱〕

河内 もともと「日本人というのはどういう民族なんだろう」とか「どういう特徴があるんだろう」ということを勉強するのが好きだったんです。一方で「団体闘争」というのは、ものすごく文化的な依存度が強いと思っていて、国によってはものすごく特徴が出る。たとえばチームワークひとつをとっても、「競争型のチームワーク」と「闘争型のチームワーク」の2種類があると考えています。

──「競争型」はチームメイトに干渉しないチームワーク、「闘争型」は逆にぶつかり合うことをいとわないチームワーク、ということでしょうか?

河内 そのとおりです。前者の典型例がまさに日本人で、基本的に自分が納得しなくても前に進めることができるし、周囲が心地よくなるための努力さえできる。でもサッカーの場合、合わない部分があったら、ぶつかってでもそれを解決しないとチームとして機能しないですよね? そこは欧米人のほうが、はるかに得意だというのが僕の考えです。

──よくわかります(笑)。ただし「競争型のチームワーク」と「闘争型のチームワーク」というのは、決して優劣をつけられるものではないようにも思うのですが。

河内 もちろんです。どっちがいいとか悪いとかではなく、やっぱり日本人が築こうとするチームワークというのは「団体闘争」には合わないという話です。だったら「団体闘争」を前提としたチームワークを築いていくしかない。そもそもチームメイトと意見が対立するのは、日本人も欧米人も関係なく起こり得るものですが、ぶつかりながらすり合わせようとするのが欧米人で、不満を飲み込んで周囲に配慮するのが日本人。なぜそうなるのかというと、日本人は感情表現が苦手だからだと思っています。

 河内・宇都宮両氏は「決して優劣をつけられるものではない」と言っている。……のではあるが、しかし、このような比較文化論自体が「優等なる欧米人/劣等なる日本人」というイメージを前提にしている議論である。

 そして、読んでいて思わずニヤけてしまったのが、河内氏より20年も前の1998年に、河内氏とそっくりなことを述べていたフットボール関係者がいたことである。元ラグビー日本代表(選手,監督)の故平尾氏誠二氏だ。彼と、彼のブレーンである勝田隆氏の対談本『楕円進化論』には、次のような対話がある。
ラグビーは狩猟文化
勝田 いつも思うのは、イギリス人〔欧米人〕と日本人の文化の違いについてなんだけれど……。

平尾 日本人は敵対してから前進するのが下手なんです。敵対してしまったら、別れるしかない。彼ら〔欧米人〕は敵対してから、ともに前進することが出来る。この国民性がまったく違うんです。

勝田 国民性の違いは民族性の違いとも言える。よく言われる狩猟民族と農耕民族の違いです。〔以下略〕

平尾誠二・勝田隆『楕円進化論』52~53頁


 そういえば、故平尾氏誠二氏は、野球やクリケットのような「バット・アンド・ボール・ゲーム」、テニスやバレーボールのような「ネットを挟んだ球技」、サッカーやラグビーあるいはバスケットボールのような「ゴールを争うフットボール系球技」の中で、日本人は「フットボール系球技」が一番苦手だと決め付けていた。

 要するに、河内一馬氏(と宇都宮徹壱氏)があの場で語っていたことは、別に新しくも何ともないのである。むしろ考えるべきは、故平尾氏と河内氏による思想的・言説的リングワンダリングとも呼ぶべき現象が、なぜ日本のスポーツ論壇で発生するかであろう。



 故平尾氏誠二氏は、偉大なラガーマンであるが、一方で、1995年ラグビーW杯大惨敗の、1999年ラグビーW杯惨敗の「A級戦犯」である。実践ではなく「日本人論」に逃げる彼の手法は、しかし、ラグビー日本代表で自ら指導的立場に立ち、海外の列強と対峙せざるを得なくなった時、間違った方向に作用したからである(以下の著作を参照されたい)。

ラグビー従軍戦記
永田 洋光
双葉社
2000-06


ラグビー黒書―145点を忘れるな!
日本ラグビー狂会
双葉社
1995-12


 河内一馬氏は、実践者たるべくサッカーコーチ留学をしているはずで、けして浅薄な評論家としての箔(はく)をつけるために、アルゼンチンに渡ったのではないはずだ。

河内一馬氏は「サッカー」に専念してほしい
 玉木正之氏は、早稲田と慶應義塾のサッカー部の名前を間違えたり、『日本書紀』皇極天皇紀の「打毱」の場面の登場人物やあらすじを間違えたり……と、プロのライター・評論家にしては信じられないような間違いを平気でしでかす。


 その玉木氏の「1対1の勝負説」を連想させる、河内一馬氏の「日本人アスリートは〈団体闘争〉が苦手」という持論も、あまり賢明ではない。


 玉木正之氏は、今後ともこういったバカ話を続けていくだろう。これは不治の病のようなもので仕方がない(日本のサッカーにとっては迷惑千万だが)。しかし、若くて将来がある河内一馬氏が今後ともこういう話にかまけていくことは、日本サッカーにとって多大な損失になってしまう。

 悪いことは言わないから、バカ話は老害の玉木正之氏に任せ、河内一馬氏は邪悪な道から足を洗って、「サッカー」に専念してほしいと思う。
 私たちは、社会間・文化間に全く相違がない、などというばかげた主張をしているのではない。「所変われば品かわる」のは当たり前のことだ。しかし、その点だけを拡大しておうむ返しのように述べているだけでは、ナショナル・ステレオタイプ〔民族性や文化など〕を不均等に増殖するという結果しか出て来ない。

 問題は、従来の日本人論が日本のユニークな特色だと主張していた現象の中には、実は欧米社会にもいくらでも観察できるものが少なくない点にある。その意味では、日本特殊独特説は、日本の異質性を不必要に誇張しているのではないか、というのが私たちの根本的な疑問である。

 この種の誇張に頭を占領されるとき、日本人の〔…〕コミュニケーションの道〔≒サッカー〕が断たれたりする。

⇒杉本良夫とロス・マオア『日本人論の方程式』288頁

 河内一馬氏は(宇都宮徹壱氏も?)「この種の誇張に頭を占領され」て、サッカーという世界的なコミュニケーションの道を自ら殺しているのである。

 当ブログも、社会間・文化間に全く相違がない……などというばかげた主張をしているのではない。また、日本人がサッカーに関してメタフィジカルな領域で、世界的に特別優れた能力を有していると主張しているのではない。

 ただ、サッカー、殊に日本のサッカーへの先入観を「初期化」して、その上で少しでも日本サッカーを高い段階へと上げるべく、考えていこうと提唱しているのである。

 河内一馬氏には、その辺りをじっくり考えなおしてほしいと願うのである。

(了)



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